作品名:毛氈(紺)
寸法:3mm小幅 備考:紙箱入 作品名:毛氈(朱) 価格:10,000円 寸法:3mm大幅 備考:紙箱入 |
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ここでは「泣血氈(きゅうけつせん)」について、
説明しようかと思います。 ■泣血氈とは 泣血氈は、会津藩の降伏式で敷かれた緋毛氈を、 無念を忘れぬため、小片に切り刻み、 それぞれ持ち帰ったものを指すそうです。 以下、会津戦争について説明していきます。 ■明治政府の樹立と戊辰戦争 戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、 王政復古を経て明治政府を樹立した、 薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、 旧幕府勢力および、奥羽越列藩同盟が戦った、 日本の内戦だそうです。 結果的に、明治新政府軍が勝利し、 現在の日本政府を立てるみたいです。 この戊辰戦争の中に「鳥羽・伏見の戦い」や 「会津戦争」があったようです。 ■鳥羽・伏見の戦い 経緯は省くとして、 慶応4年1月3日(西暦だと1868年1月27日)、 新政府軍の5,000名(主に薩摩藩兵)に対し、 旧幕府軍は15,000名だったみたいです。 ただ、旧幕府軍は、数の優勢を生かせず、 伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊・会津藩兵・ 土方歳三率いる新選組の兵が、 新政府軍(薩摩小銃隊)800名に敗れ、 奉行所は炎上するそうです。 ■鳥羽・伏見の戦い(近江方面) 他方、近江方面に展開した大村藩兵50名を、 旧政府軍は、大津に新政府軍が結集していると誤認、 大津から京都を目指す事を断念したのだとか。 ■鳥羽・伏見の戦い(鳥羽方面) 鳥羽方面は、幕府軍の指揮官・佐久間信久らの、 相次ぐ戦死で、富ノ森へ後退、 その後、富ノ森も失うみたいです。 ■鳥羽・伏見の戦い(伏見方面) 伏見方面は、新政府軍に土佐藩が加わり、 幕府軍は敗退するようです。 ■鳥羽・伏見の戦い(淀城) 相次ぐ敗退に、淀藩の淀城を頼り、 戦況の立て直しを図ろうとするも、 入城を拒絶された旧幕府軍は、 男山・橋本方面へ撤退、 新選組隊士の3分の1が戦死するそうです。 ■鳥羽・伏見の戦い(男山・橋本方面) 旧幕府軍は、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣、 地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあったみたいです。 ところが、対岸の大山崎や高浜台場を守備していた津藩が朝廷に従い、 旧幕府軍へ砲撃を加えたそうです。 思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は、 戦意を失って総崩れ、淀川を下って大坂へと逃れたようです。 ■鳥羽・伏見の戦いの影響 会津藩は、この戦いで別撰組の大半を失い、 佐川隊の隊長・佐川官兵衛も傷を負い、 新選組副長・助勤井上源三郎ら九人も戦死したのだとか。 ■会津戦争勃発 はじめ、会津藩主・松平容保は、新撰組を配下とし、 幕府方の中核として明治新政府(薩摩藩・長州藩)に、 目をつけられるようです。 1868年3月11日、江戸城が無血開城、徳川慶喜が水戸で謹慎すると、 いよいよ松平容保は、明治新政府に敵視されるそうです。 会津藩は、新政府の奥羽鎮撫総督・九条道孝に嘆願書を提出したり、 朝廷へ直接建白を行ったり(太政官建白書)したものの、 認められなかったのだとか。 そんな折、会津藩は、明治新政府の通達に対して、 罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示し、 明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が、 仙台藩士によって殺害された事件もあって、 俗に会津戦争と呼ばれる戦いへと突入するみたいです。 ■会津藩の窮状 藩主・松平容保は、家老・西郷頼母の助言も聞かず、 徹底抗戦を主張し、徴兵に乗り出すようです。 鳥羽・伏見の戦い敗れていた会津藩士は、 雪辱戦とばかりに意気揚々としていたみたいです。 ただ、会津藩は、領民に対し、過酷な税金を課していたため、 領民たちの士気は低く、逃走者が後を絶たなかったとか。 資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、 征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、 会津藩士を「会賊」と呼びすてにしていたようです。 結果的に、後に進軍してくる新政府軍が、 会津藩領の村々から、 大量の人夫・馬・軍資金などを徴発しても、 反発するどころか歓迎してこれに応じる者までいたみたいです。 ■会津戦争(白河城) はじめに、慶応4年閏4月20日、 旧幕府軍は、会津藩家老・西郷頼母を総督として 白河城を占領するとか。 新政府軍の薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮により、 閏4月25日に攻撃を開始し、5月1日に、 白河城を落城させるそうです。 以降、7月までの約3か月間、 旧幕府軍は白河城の奪還を試みるも、 奪還できなかったようです。 ■会津戦争(二本松城) 藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき、 新政府軍は二本松城を攻撃するみたいです。 城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れたそうです。 また、二本松藩は少年兵部隊(二本松少年隊)を、 動員していたのだとか。 ■会津戦争(若松城) 二本松城を占領した新政府軍は、 次に会津藩を攻めるそうです。 脇街道で手薄な母成峠を衝き、 40キロ余りをわずか2日で急進し、 若松城下に突入するのだとか。 会津藩は虚を衝かれ、 予備兵力であった白虎隊までも投入するが敗退、 西郷頼母邸では、篭城戦の足手まといとなるのを苦にした、 母や妻子など一族21人が自刃し、 城下町で発生した火災を、若松城の落城と誤認した、 白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃するそうです。 ■会津戦争の終結 会津藩は若松城に篭城して抵抗したものの、 9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする、 同盟諸藩の降伏が相次いだみたいです。 1868年9月22日 会津降伏式が、 甲賀町通りの路上で行われたようです。 畳表に緑布を付けた物を敷き、 その上に、15尺四方の緋毛氈が敷かれたそうです。 天皇家に忠誠を尽くした会津藩士たちは、 この日の無念を忘れぬために、 その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、 各々、懐中深く持ち帰ったみたいです。 これを「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ぶそうです。 ■泣血氈のいま 降伏式がおこなわれた場所は、 現在「会津酒造歴史館」になっているようです。 館内にある「会津名宝館」には、 「泣血氈」の実物が展示されているそうです。 また、会津戊辰戦争終結の地の説明版には、 大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重が、 開城前夜、三の丸雑物庫の城壁に月明かりを頼りに、 かんざしで刻んだといわれている歌が刻まれているとか。 明日の夜は 何国の誰か ながむらむ 慣れしお城に 残す月影 |
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