茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。

毛氈ってこんなの

毛氈(もうせん)は、フェルトの中で、
羊毛を使用した物を日本では毛氈と言うようです。

フェルトは織物ではなく、動物の毛などの繊維をからませて、
熱と蒸気と振動で、圧縮して作るシート状製品の総称みたいです。

現存する日本最古のフェルトは、
奈良時代に新羅を通じてもたらされたとされる、
正倉院所蔵の毛氈だそうです。

近世以後は羅紗・羅背板なども含めて
「毛氈」と呼ばれるみたいです。

江戸時代後期には、中国や朝鮮半島のみならず、
ヨーロッパからも大量の毛氈が輸入され、
富裕層を中心とした庶民生活にも用いられるようになるとか。

現在でも、畳大の大きさに揃えられた赤い毛氈は、
緋毛氈と呼ばれ、茶席の他、寺院の廊下などに、
和風カーペットとして用いられているみたいです。


■茶席に最適な毛氈ほか
大宮毛氈は、毛100%の毛氈で、
紫野毛氈は、毛80%・レーヨン20%の毛氈だそうです。

大宮毛氈の場合、厚さ2mm〜5mmだと、茶席に最適みたいです。
紫野毛氈の場合は、厚さ2mm〜3mmが茶席に最適なのだとか。

毛氈類は他に、白毛氈・グリーン毛氈・黒毛氈・ノンスリップ毛氈
カラーフェルトなどがあるようです。

白毛氈・グリーン毛氈・黒毛氈は、毛60%・レーヨン40%で出来ていて、
書道用下敷・結婚式用・人形用に使えるみたいです。

ノンスリップ毛氈(毛100%)というのは、
毛氈の裏側に、ゴム加工が施して
毛氈のズレを防止するそうです。
廊下・板の間に最適なのだとか。

カラーフェルトは、
黒・赤・グリーン・紺・グレー・
朱赤・若草色・花紺・白・ピンク・
紫・ブルー・こげ茶
などがあるようです。
展示・書道・装飾用・人形用に最適みたいです。

作品名:毛氈(紺)
寸法:3mm小幅
備考:紙箱入

作品名:毛氈(朱)
価格:10,000円
寸法:3mm大幅
備考:紙箱入

毛氈(紺)
※画像を押すと拡大できます。
ここでは「泣血氈(きゅうけつせん)」について、
説明しようかと思います。


■泣血氈とは
泣血氈は、会津藩の降伏式で敷かれた緋毛氈を、
無念を忘れぬため、小片に切り刻み、
それぞれ持ち帰ったものを指すそうです。

以下、会津戦争について説明していきます。


■明治政府の樹立と戊辰戦争
戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、
王政復古を経て明治政府を樹立した、
薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、
旧幕府勢力および、奥羽越列藩同盟が戦った、
日本の内戦だそうです。

結果的に、明治新政府軍が勝利し、
現在の日本政府を立てるみたいです。

この戊辰戦争の中に「鳥羽・伏見の戦い」や
「会津戦争」があったようです。


■鳥羽・伏見の戦い
経緯は省くとして、
慶応4年1月3日(西暦だと1868年1月27日)、
新政府軍の5,000名(主に薩摩藩兵)に対し、
旧幕府軍は15,000名だったみたいです。

ただ、旧幕府軍は、数の優勢を生かせず、
伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊・会津藩兵・
土方歳三率いる新選組の兵が、
新政府軍(薩摩小銃隊)800名に敗れ、
奉行所は炎上するそうです。


■鳥羽・伏見の戦い(近江方面)
他方、近江方面に展開した大村藩兵50名を、
旧政府軍は、大津に新政府軍が結集していると誤認、
大津から京都を目指す事を断念したのだとか。


■鳥羽・伏見の戦い(鳥羽方面)
鳥羽方面は、幕府軍の指揮官・佐久間信久らの、
相次ぐ戦死で、富ノ森へ後退、
その後、富ノ森も失うみたいです。


■鳥羽・伏見の戦い(伏見方面)
伏見方面は、新政府軍に土佐藩が加わり、
幕府軍は敗退するようです。


■鳥羽・伏見の戦い(淀城)
相次ぐ敗退に、淀藩の淀城を頼り、
戦況の立て直しを図ろうとするも、
入城を拒絶された旧幕府軍は、
男山・橋本方面へ撤退、
新選組隊士の3分の1が戦死するそうです。


■鳥羽・伏見の戦い(男山・橋本方面)
旧幕府軍は、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣、
地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあったみたいです。

ところが、対岸の大山崎や高浜台場を守備していた津藩が朝廷に従い、
旧幕府軍へ砲撃を加えたそうです。

思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は、
戦意を失って総崩れ、淀川を下って大坂へと逃れたようです。


■鳥羽・伏見の戦いの影響
会津藩は、この戦いで別撰組の大半を失い、
佐川隊の隊長・佐川官兵衛も傷を負い、
新選組副長・助勤井上源三郎ら九人も戦死したのだとか。


■会津戦争勃発
はじめ、会津藩主・松平容保は、新撰組を配下とし、
幕府方の中核として明治新政府(薩摩藩・長州藩)に、
目をつけられるようです。

1868年3月11日、江戸城が無血開城、徳川慶喜が水戸で謹慎すると、
いよいよ松平容保は、明治新政府に敵視されるそうです。

会津藩は、新政府の奥羽鎮撫総督・九条道孝に嘆願書を提出したり、
朝廷へ直接建白を行ったり(太政官建白書)したものの、
認められなかったのだとか。

そんな折、会津藩は、明治新政府の通達に対して、
罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示し、
明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が、
仙台藩士によって殺害された事件もあって、
俗に会津戦争と呼ばれる戦いへと突入するみたいです。


■会津藩の窮状
藩主・松平容保は、家老・西郷頼母の助言も聞かず、
徹底抗戦を主張し、徴兵に乗り出すようです。

鳥羽・伏見の戦い敗れていた会津藩士は、
雪辱戦とばかりに意気揚々としていたみたいです。

ただ、会津藩は、領民に対し、過酷な税金を課していたため、
領民たちの士気は低く、逃走者が後を絶たなかったとか。

資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、
征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、
会津藩士を「会賊」と呼びすてにしていたようです。

結果的に、後に進軍してくる新政府軍が、
会津藩領の村々から、
大量の人夫・馬・軍資金などを徴発しても、
反発するどころか歓迎してこれに応じる者までいたみたいです。


■会津戦争(白河城)
はじめに、慶応4年閏4月20日、
旧幕府軍は、会津藩家老・西郷頼母を総督として
白河城を占領するとか。

新政府軍の薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮により、
閏4月25日に攻撃を開始し、5月1日に、
白河城を落城させるそうです。

以降、7月までの約3か月間、
旧幕府軍は白河城の奪還を試みるも、
奪還できなかったようです。


■会津戦争(二本松城)
藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき、
新政府軍は二本松城を攻撃するみたいです。

城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れたそうです。

また、二本松藩は少年兵部隊(二本松少年隊)を、
動員していたのだとか。


■会津戦争(若松城)
二本松城を占領した新政府軍は、
次に会津藩を攻めるそうです。

脇街道で手薄な母成峠を衝き、
40キロ余りをわずか2日で急進し、
若松城下に突入するのだとか。

会津藩は虚を衝かれ、
予備兵力であった白虎隊までも投入するが敗退、
西郷頼母邸では、篭城戦の足手まといとなるのを苦にした、
母や妻子など一族21人が自刃し、
城下町で発生した火災を、若松城の落城と誤認した、
白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃するそうです。


■会津戦争の終結
会津藩は若松城に篭城して抵抗したものの、
9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする、
同盟諸藩の降伏が相次いだみたいです。

1868年9月22日 会津降伏式が、
甲賀町通りの路上で行われたようです。

畳表に緑布を付けた物を敷き、
その上に、15尺四方の緋毛氈が敷かれたそうです。

天皇家に忠誠を尽くした会津藩士たちは、
この日の無念を忘れぬために、
その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、
各々、懐中深く持ち帰ったみたいです。

これを「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ぶそうです。


■泣血氈のいま
降伏式がおこなわれた場所は、
現在「会津酒造歴史館」になっているようです。

館内にある「会津名宝館」には、
「泣血氈」の実物が展示されているそうです。

また、会津戊辰戦争終結の地の説明版には、
大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重が、
開城前夜、三の丸雑物庫の城壁に月明かりを頼りに、
かんざしで刻んだといわれている歌が刻まれているとか。

 明日の夜は 何国の誰か ながむらむ 
 慣れしお城に 残す月影



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