茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。

景徳鎮ってこんなの

景徳鎮は、中華人民共和国江西省東北部の都市で、
陶磁器の生産地だそうで、
青磁・白磁や青白磁(影青)などを作ったようです。

漢代から陶磁器生産が始まっていたそうで、
宋代には、青白磁の梅瓶など、
元・明・清の時代には「青花(せいか)」と呼ばれる染付磁器を輩出し、
宮廷でも用いられる一方、
欧州・イスラム圏など海外諸国にも広く輸出され、
「チャイナ」の語源にもなったようです。


■景徳鎮の歴史
原名は新平、古くは立馬山といい、東晋時代に新平鎮となり、
唐代に昌江の南岸に位置することから、昌南鎮と改名され、
北宋の景徳年間、年号により景徳鎮と呼ぶようになるそうです。

資料によっては、漢代から陶磁器生産が始まっていたとも
西晋代とも、南朝陳の至徳年間に勅命をうけて製陶したとも
言われているようです。

中国の南北朝時代(560〜570年代)の北斉で、
青磁の製造技術が完成したみたいです。

現在知られている最古の窯跡は唐末五代のものだそうで、
そこには青磁と白磁の破片が散乱しているのだとか。

北宋時代の定窯で、白磁の名品が多く作られたようです。
当時、微量の鉄分を含む釉薬で焼く、
青白磁が盛んに作られ、東アフリカまで輸出されたのだとか。

元時代になると中東からのオーダで、
下地は白磁で、青の染付をあしらった、
「青花」の製造がはじまるようです。
以降、元・明・清代を通して宮廷ご用達の窯・官窯が置かれ、
一般市場向けには、民窯が出来ていったようです。

官窯とは、皇帝のための焼き物を作る窯だそうで、
明王朝は銀本位制が崩壊した後、
他国との貿易に景徳鎮の焼き物を下賜していたようです。

当時磁器の完成度において、
圧倒的に技術優位性を誇っていた景徳鎮製品は、
同量の金や銀より価値を持つものだったのだとか。

明代には赤絵の焼成が盛んになったみたいです。
青花の上に染料で色をつけた「五彩」「闘彩」なども登場するようです。

清代に入ると、景徳鎮だけでなく、中国各地の窯で白磁の量産が行われ、
一般の日用品として広く普及するようです。

また、ヨーロッパから色ガラスを原料とした琺瑯(七宝焼き)の技術が入ると、
器の絵付けは圧倒的に進歩するようです。

清朝のピーク時、世界中で最も技術レベルが高かった景徳鎮は、
皇帝だけではなく、世界中からオーダーされていたようです。
有名どころとしては、タイ王朝むけの「ベンジャロン」、
日本向けの「祥端」でしょうか。

当初「ベンジャロン」は、
清朝期の景徳鎮に絵付け師を派遣して焼成していたようです。

文化大革命(1966年〜1977年)で陶磁器などは「旧文化」であるとされ、
紅衛兵による被害を受けたようです。
一方で、毛沢東などの指導者層は、景徳鎮産の陶磁器を愛用したのだとか。

現在、景徳鎮市は、国家歴史文化名城に指定され、
日本の有田町や瀬戸市と、友好都市になっているようです。
また、宜興が陶都と呼ばれているのに対し、
景徳鎮は磁都と呼ばれているのだとか。


■日本への伝来
白磁の製造技術が日本に伝来したのは、16世紀ごろと言われ、文禄・慶長の役に際し、
朝鮮半島から来た陶工によってもたらされたというのが定説だそうです。
ただ、それ以前に日本各地の窯業地で、粗製の白磁の生産が試みられてはいたようです。

1616年ごろ佐賀県有田の泉山で、白磁に適した地層が見つかり、
李参平によって、白磁が製造され定着したみたいです。
当時の状況として、白磁の技術は、染付の素地としてもっぱら利用されるそうです。

幕末の文化・文政年間に、白磁や青花は日用品として普及するみたいです。

明治に入り、京都の三代目清風与平が白磁の美を追求してひとつの分野を開拓するそうです。

清風与平(三代目)は、1851年に播磨で生まれた陶芸家みたいです。
釉薬を工夫し、純日本風陶磁器を制作した人で、
明治26年陶芸界最初の帝室技芸員になったそうです。


■白磁と青白磁
白磁は、白素地に無色の釉薬をかけた磁器の総称だそうです。

ケイ酸とアルミニウムを主成分とする白色の粘土の素地に、
鉄分のない植物灰と高陵石から精製された透明釉薬を掛け、
高温の還元炎で焼き上げて作る磁器みたいです。

青白磁は、白磁の中で、とくに釉薬が文様の溝にたまって、
青みを帯び美しい水色に見えるものをいうようです。

青白磁は宋代の景徳鎮産の梅瓶や香炉・鉢・水差の優品がその典型例で、
日本では大名クラス以上の人々に珍重されたのだとか。


■官窯の例:御器廠
景徳鎮市内の珠山にある明・清時代の官窯で、
現在は研究所になっているそうです。

ここでは、厳格な品質規定があったようで、規格通りの同じ意匠のものを、
大量に生産していたのだとか。
少しでも品質基準に合わないものは、皆その場で壊していたようです。

宮廷まで持っていくのは、何千個と焼いて、1枚・2枚だったそうです。
そのため、地面を掘ると延々何メートルも磁片が埋まっているみたいです。


■高嶺(カオリン)
高嶺山からとれた土が、景徳鎮窯業を支えていたものだそうです。
一般に磁土全般を「カオリン」と呼ぶのは、この高嶺山から来た呼び名みたいです。

現在、景徳鎮では、高嶺山の土は、
ほとんど採掘し尽くされ、近くの九江などの土を使っているのだとか。



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