茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。

花月札ってこんなの

ここでは、花月札というより、七事式の説明をしていこうかと思います。

七事式は、表千家七代の如心斎が、裏千家八代の一燈宗室や高弟たちと相談して制定したものだそうです。
「七事」は、北宋圜悟の書『碧巌録』の
「七事随身(指導者としてそなえるべき七つの徳)」
からきているみたいです。
ちなみに、七つの徳というのは、 禅僧が常に身に携えている「三衣・一鉢・香合・払子・浴具・尼師檀(座具)・紙被」のことなんだとか。

「七事」には、内ノ七事と外ノ七事があるそうで、
内ノ七事は、
大機大用(たいきだいゆう) 相手の内面を見抜くはたらき、相手に仕向ける行動のはたらきを、用という。
機敏俊敏な並外れた巧みで大きな能力のこと。
機弁迅速(きべんじんそく) その場に応じて素早く鋭く、
師弟が相見えての問答の時に少しも動じることない精神を身につけること。
語句妙霊(ごくみょうれい) 文章や言葉の表現・言説が深く細やかに行き届き、
深遠な道理を説くには、
一句一句がこの上なく巧みで命ある語句であることこそ真理への目覚めの妙霊に他ならない。
真の指導者が身に付けるべきことである。
殺活機鋒(さっかつきほう) 師弟、押すも引くも、生かすも殺すも自由自在。
師弟の間であっても主あり賓あり、鋭さ(機鋒)があるもの。
博学広覧(はくがくこうらん) 禅では悟りの前は心に参ぜよ、悟りの後は集中して見識を備えよ。
かん覚不昧(かんかくふまい) 真理を鑑別する能力が優れていて、一点もくらまされないということ。
※「かん」は臨の下に金。
隠顕自在(おんけんじざい) 表面に出るのも隠れて見えないのも自由自在。
真理に目覚めた人は表面には出していなくても内面には実力が満ちているということ。


外ノ七事は、
しゅ杖(しゅじょう) 行脚の時に用いる杖。
しゅ杖を持っているものには与え、
持たぬものには奪おうとの禅語があり、
一生懸命修業をする志のあるものにはさらに与え、
そうでないものからは奪おうという意味。
※「しゅ」は手偏に土二つ。
拂子(ほっす) 長い獣毛を束ねたものに柄をつけた道具。
インドで蚊や蝿を追うのに用いていたのが法具となり、
日本では禅僧が煩悩を払ったり、法事で導師が用いる道具になった。
禅板(ぜんぱん) 禅板とは長さ50cmほどの板。
昔の禅僧は寝る時も横にならず禅板を懐に入れ板の上に顎をのせて坐禅をしたまま眠ったという。
几案(きあん) 几案とは禅板と共に背中にあて支えにして眠る為に使った道具。
几の左側に木を添えると机という字にもなり、経机(茶几=卓袱台)としても使用された。
如意(にょい) 如意とは物事が意のままにあることだが、
僧が説法や法会の際に手でもつ道具。
インドでは背中を書く孫の手のようなものを如意と称し、
行き届いた親切な様、心の表れとして僧の持ち物となったといわれている。
竹箆(しっぺい) 竹を割って作った弦のない弓のようなもの。
参禅で師匠が修行者との問答に用いる道具。
相対的な分別を捨てて自在なはたらきを身につけることを教えるもの。
木蛇(もくだ) 人の顔をもち、翼と鱗をつけた蛇の姿の女の土地神を木蛇というそうで、如意と同じ扱いをするもの。


内に対して外用というのは、禅の修行の実際に必要な調度・用具(七つ道具)という意味だそうです。
『碧巌録』の注釈によれば、
武の七つ道具として「弓・矢・刀・剣・甲・冑・戈」に比すべきものとして、
この七事のうち一つを欠いても「究極する」ことはできないから、この七事を常に
「身ニ随エテ以テ同生同死ス可シ」と説かれているのだとか。

以下に、七事式の簡単な説明をまとめてみようかと思います。
七事式の種類 備考
花月 互換機鋒看子細(ごかんきほうしさいにみよ)
互換とは立場を自由に取り変わっても少しもこだわりのないこと、
機鋒は鋭さ、看るは禅語では心の眼をもってみる、正しい眼で見るの意味。

つまり、言葉通りに訳せば、
「亭主と客(もしくは弟子と師匠)とのやりとりを細かく鋭く心の眼で見よ」
との教えになるそうです。
且座 是法住法位(このほうはほういにじゅうす)
法の必然性、法性や真如を意味するそうです。
不変の理法は、現象的事物を確立する位であるため、このように言うのだとか。

由来は、『妙法蓮華経』「方便品」にある
「是法住法位 世間相常住(是の法は法位に住して、世間の相常住なり)」のようです。
廻り炭 端的底看しゃく(たんてきていにしゃくをみよ)
端的は見識着眼点、正確にしっかりと看よ、ぎりぎりのところを見極めよということだそうです。

由来は、中国の故事のようです。内容は、
「ある禅師が修行中のこと、指南していた禅師が[看よ炉中に火ありや否や]と問うた。
禅師は[無し]と答えた。
そこで指南役がその炉灰をかくと少火が出てきた。
それを示して[汝無しという。者箇漸(しゃこにい)。]
無いといったがこの通りあるじゃないか、これは何だ。」
といったおはなしみたいです。
※「しゃく」は、漸の下に耳。
廻り花 色即是空凝思量即背(しきそくぜくうしりょうこらせばすなわちそむく)
「色は複雑な結合によって刻々変わり本来実有のものではない、
万物もまた本来色のように空であって、
美しいこともただ一時の迷いに過ぎず、無一物中にあって無尽蔵の興趣を生じる」
といった意味だそうです。

色即是空は般若心経の一節のようです。
茶カブキ 干古干今裁断舌頭始可知真味(いにしえにいまにぜっとうをせつだんしてはじめてしんみをしるべし)
舌三寸の味の判断ではなく、
それを断ち切ることによって真味を知れとの教えだそうです。
味に対して熱い、冷たい、甘い、苦いなどの単純に批評をするのは仮の判断であって、
無心で喫する時こそ、真の味を知ることができるとのこと。

ちなみに「茶カブキ」は、闘茶をもとに、味覚の修練のために作られたもののようです。
一二三 修証即不無染汚不得(しゅうしょうはすなわちなきにあらずせんおすればえず)
この「一二三」は、修(修行)・証(悟り)が伴っていなければならない、
禅の境地を極めるべく怠ることなく真剣な修行の積み重ねが大切だと教える式だそうです。

由来は、中国禅宗史の言葉のようです。内容は、
「ある大師の下に初めて入門した禅師が、大師に[おまえは何者だ]と問われ、
自分はなんだろうと八年も修行し、
ある日大師のところを訪れ[一応それらしい表現はできるが、本物のところには的中しない]と述べたところ、
[悟る悟らぬとに関わらず本来具わっているもので、修行と悟りを二見的に見ている間は駄目だ]と答えた」
といったおはなしみたいです。
員茶 老倒疎慵無日 閑眠高臥対青山(ろうとうそようぶじのひ かんみんこうがしてせいざんにたいす)
 「今はすっかり老いぼれて、何事にももの憂くなってしまったよ。
 もう浮世のことは何の未練も執着も無いし、欲も得も無い。
 こうやって寝転びながら山の緑でも眺めているのが何よりの
 楽しみだよ。」
というきれいさっぱりとした老翁の境涯、
何もかも洗い流した心境、禅僧の理想の境地を表しているそうです。

老倒疎慵の意味はそれぞれ、
「老倒」:老耄顛倒の意で、老いぼれたさま。
「疎慵」:とらわれがなく、こだわりが無いさま。
だそうです。


五事式の茶事というものがあるそうです。

七事式のうちの五つを組み合わせた茶事で、
廻り炭 → (懐石、中立ち) → 廻り花 → 且座 → 花月 → 一二三
の順でするようです。
裏千家では且座の代わりに仙遊で催すこともあるとか。
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