茶道具 翔雲堂

ちょこっと和歌

高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ (権中納言匡房『後拾遺集』春・120)


商品No.0432
作品名:瀬戸茶入(時代)
売り切れ
銘:松風
仕覆:土田友湖
備考:桐箱入二ツ入
/淡々斎宗匠書付
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画像1:側面の写真
■瀬戸焼の歴史
瀬戸焼は、日本六古窯の一つで、
鎌倉時代に、加藤四郎景正が中国の宋から
施釉陶器の技法を伝えたのが始まりだとか。
この鎌倉時代〜室町時代末までを特に「古瀬戸」と呼んでいるそうです。

桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が
茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、
日用雑器も作られるようになるみたいです。
江戸時代、伊万里焼に市場を奪われ「瀬戸焼」は衰退していくそうです。

明治に入り、1873年にウィーンで開催された万国博覧会に出品された
「瀬戸もの」が評判となるみたいです。
以後、海外からの注文が多くなり、世界に瀬戸の名が広まるようです。

第一次世界大戦時、海外での陶磁器の生産がストップすると、
海外でも、日本の瀬戸焼の需要が高まるそうです。

世界大恐慌・日中戦争・第二次世界大戦と続く混乱の時代、
陶磁器産業は軍需優先による影響を真っ先に受け、
物資・燃料の欠乏を招くようです。
そんな中、瀬戸焼は燃料の石炭の代わりに亜炭(皮木)を使って、
生活用陶磁器や当時不足していた金属製品の代用品の生産へと移行することで、
この時代を乗り越えていくそうです。

第二次大戦後、瀬戸窯業は戦災をほとんど受けなかったことや、
戦後の物資不足による生活用具の需要が高かったことなどにより、
急速に復興していくようです。
そして、日本の高度成長を機に、一層躍進していったみたいです。


土田友湖

千家十職の一つ、袋師だとか。

土田友湖の当主の通称は、半四郎で、
隠居して剃髪すると友湖を名乗るそうです。

五代目までは仕覆を生業としていたみたいですが、
以降は茶道具の茶入の仕覆・帛紗・角帯などを作っているようです。

画像2:桐箱


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