茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

茶入ってこんなの

茶入は「濃茶器」「小壺」「擂茶壺(すりちゃつぼ)」などとも呼ばてるみたいです。
焼き物の種類として、5つに大別してるみたいで、
「唐物」「島物」「瀬戸」「後窯」「国焼」があるらしいです。


■唐物茶入
中国産の「唐物茶入」は、室町時代以前に日本に来たものが特に尊ばれてるみたいです。

「唐物」自体は宋・元・明時代の美術作品を指して、
産地が不明な舶来品なども唐物と言ったりしてるようです。

道元禅師に随って入唐し、加藤四郎右衛門(藤四郎)が、
唐の土と薬を持ち帰り瀬戸瓶子窯で焼いたものとの説あるようです。

1211年頃、瀬戸の里に加藤四郎右衛門景正がいて、
口兀手(伏せ焼きにし、口の上辺に釉がかからないもの)の茶入を焼き出したそうです。
このころ、四郎右衛門は技術が未熟だったため、
永平寺の道元和尚にしたがい、中国に渡り、
数年間中国に住んで「製陶法」を習得して帰国したようです。

その後、窯入れの際に、鞘に入れて底を下にして焼いたため、
茶入の口にも釉薬がかかるようになり、
陶器の職人として、非常に卓越した存在になったとのこと。

この時、中国から持ち帰った形や釉薬の優れた陶器を
「唐物」というのですが、
中国から持ち帰った土や釉薬で焼いたものも「唐物」と呼んだそうです。

後の人々は、加藤四郎右衛門の事を「藤四郎」と呼ぶようになるみたいです。
その後、藤四郎の子、藤右衛門、藤五右衛門、兎四郎などが
次々と焼き出すそうで、
唐物と呼ばれる茶入は、時代の新古、作者の区別も出てくるようです。

他に「漢作唐物」とか、朝鮮半島製の「高麗物」、
南蛮貿易とかで東南アジア・南中国・ルソン・琉球とかの「島物」なんかがあるようです。
国産は、古いのだと、瀬戸焼を中心にして唐物を模倣して作った古瀬戸や、
小堀政一が指導して作った茶入なんかもあるみたいです。


■茶入の形
茶入の形状は、小壷系・肩衝(かたつき)系・雑唐物(ぞうからもの)に大別されるみたいです。
小壺 系には「茄子・文林・文茄・尻張・丸壺・瓢箪」、
肩衝系には「大肩衝・小肩衝」、
雑唐物には「瓶子・瓜・芋の子・大海・内海・驢蹄口・鶴首・擂座・耳付・弦付・達磨」などがあるようです。

藪内竹心著『源流茶話』に
 「一、唐物茶入の形は、茄子を最上として真の道具に定め、長盆にのせました。
  丸壺はその次になります。
 一、文琳・文茄茶入は丸壺の次で、四方盆にのせます。
 一、柿・鶴首・内海・大海のたぐいは盆にはのせず、唐物点にします。
 一、茄子の釉止りを露といい、飛釉を星といいます。
  丸い壷のふくらみをミカンというのは、茄子と丸壺に限った呼び名です。
 一、肩衝は小壷より劣り、名物ではないので、盆にはのせません。
 一、名物とは、一に性、二に形、三に出来のすべてがそろったものを、
  名人・宗匠が選び出され、貴人に賞翫されたものをいいます。
 一、利休の茄子・丸壺は、釉止りが低く、
  肩衝・大海のたぐいは、釉止りが腰高のところにあります。
  それをたとえば、貴人は衣服の裾が長く、
  賎夫は裾が膝のあたりまでしかないというのに似ています。
 一、古瀬戸というのは、元祖四郎右衛門の作のことです。
  その子藤四郎右衛門、藤五右衛門、兎四郎が次々と焼いたものを、
  近頃は真中古、中古物などといって、遠州が賞翫されています。
  飛鳥川・玉柏・青江・広沢・海鼠子・音羽・辰の市
  などといわれるたぐいのものです。」


■茄子
古くは唐物茶入の最上位におかれていたようです。

茄子の名は、茶入の全体の形が、
野菜の茄子の実に似ていることに由来しているとか。

「九十九髪茄子・松本茄子・富士茄子」を
天下三茄子と呼ぶようです。

『茶道秘録』に
「茄子は茶入の中の頂上也。
然る故に道具の中にては天子の御位に比する也。
押出して小壷と茄子の茶入を云也。
真行の台子の時は、茄子ならでは用ひぬ也。
此時は必盆に載る也。」
とあるそうです。


■文琳
古来、唐物茶入の中で茄子と文琳はその最上位にあるみたいです。

文琳の名は、林檎の形に似ていることに由来しているようです。

文琳とは林檎の雅称で、
中国唐の第三代皇帝高宗の時、
李謹という者が見事な林檎を帝に献じたところ、
帝は喜んで李謹を文琳郎の官に任命したという故事があるのだとか。

『茶道秘録』に
「文琳の茶入は、壷の作丸くして、
口隘く捻返あり清香の如くにて、如何にも形美敷を文琳と云。
又何れ共形の知れずして、口に捻返なく、口作を諸そぎ片そぎと云也。
口の内外よりそぎたるもあり、又片方よりそぎたるもあり、
昔より諸そぎを上とする也。
兎角形の知れざる物をも文琳と云習す也。
右の通文琳と云来るに二種あり、
其内に捻返有て丸く形美しく乳なめらかなる是本意也。」
とあるそうです。


■肩衝
肩衝の名は、肩の部分が角ばり、肩が衝(つ)いているように
見えることに由来しているそうです。

桃山時代、次第に小間の茶が追求される中、
書院に適した格式の高い茄子よりも、
肩衝が重要視されるようになったみたいです。

肩衝茶入は大きさにより、
大きいものを「大肩衝」、
小さいものを「小肩衝」、
丈けのつまったものを「半肩衝」
とそれぞれ呼ぶとか。

現在生産される茶入の多くはこの肩衝だそうで、
今日では、縦長の茶入を全て肩衝と呼ぶ場合すらあるみたいです。

「初花・楢柴肩衝・新田肩衝」を
天下三肩衝と呼ぶそうです。

天下三肩衝の詳細は、別途記載しています。


■茶入の蓋
茶入の蓋は共蓋ではなくてそもそも無いみたいで、別に作るようです。
茶入の素材と違って蓋は「象牙・角・唐木・プラスチック」などで出来ていて、
蓋の裏は金箔張りが使われるみたいです。
金箔を使うのは、当時「金は毒で変色するから」と思われていたせいで、
実際は、金はどんな毒にも反応しないとのこと。

蓋にもランクがあって、プラスチック→人口象牙→象牙→象牙(虫食い)の順に高くなるみたいです。
見分け方としては、
 象牙:細かな網目の模様
 象牙の無垢:しっかりと重さがあるもの
 象牙の貼り合わせ:目方が軽くうっすら木目が見えるもの
 人工象牙:液体をまぜたような模様(網目の模様はなし)重さは象牙とあまり変わらない
 プラスチック:色は白くて目方も軽くツヤもないもの
といった感じになるようです。


■茶入の洲蓋(すぶた)

稲垣休叟著『松風雑話』に、こんな話があるそうです。

茶入の象牙の洲蓋は利休がはじめて用いられたものです。

利休はあるとき、作人を呼んで象牙で蓋を作らせました。
作人はそれまで常に注意を払って材料を吟味し、
キズのないものを選んでいたのですが、
そのときは、作った蓋にはからずも洲が出て、
キズものが出来てしまいました。

そこで、急いで作り替えようとしたのを利休が見て
「これは一層面白い」
と、茶会に用いることにし、
古田織部を招きました。

その席で利休は洲蓋の茶入を持ち出し、
洲の方を勝手側に向け、
つまみの外側へ茶杓をかけられて点前を進めました。

茶会が終ると、
織部はその茶入を 利休に願って持ち帰りました。

数日後、今度は織部利休を招いて茶会を開きました。
利休が席入りすると、
織部は先日の茶入を持ち出し、客側、
すなわち利休のほうに洲を向け、
つまみより内のほうに茶杓をかけたのです。

この織部の作意に対して利休は、
「よく思いつかれました。
織部殿ほどの茶人はほかにはいらっしゃいません。」
と褒められたということです。

利休は洲を卑下して勝手側に向けましたが、
織部はその洲を賞翫してもらおうと、
客側に向けたのでした。


■内海の茶入と雪吹

近松茂矩著『茶湯古事談』に、以下の話があるそうです。

内海の茶入は、昔は台子に飾りましたが、
小座敷に出した例はありません。

名物の茄子、肩衝には必ず、
内海を挽溜用として一つずつ添えておくのが通例でしたが、
利休の考えで、
「焼物に焼物が重なっては危ない」
と、塗物の面取を内海に替えて用いるようになりました。
これを現在は雪吹といいます。


■茶入の蓋のサイズ

久須見疎安著『茶話指月集』に、以下の話があるそうです。

ある時、織田有楽公利休を訪ねると、
利休はちょうど茶入の古い蓋を取り合わせていて
「大ぶりの蓋が茶入にきっちりと合わないところが、
かえって趣がありますね。」
と有楽に見せました。

その後、有楽が自分の茶入に、
かつて利休の所で見たように、
古い蓋を取り合わせて見せられたところ、
利休
「このような物数寄がいつでもよいと思われるのですか。
この茶入には、ぴったりの新しい蓋の方が合いますよ」
と言いました。


■盆にのせた茶入
江岑宗左著『江岑夏書』に、以下の話があるそうです。
盆にのった茶入は、亭主か客が床に上げます。

床の花は掛花入がよいでしょう。

後に亭主が花入を取り入れます。

それから茶入を盆にのせて床に上げます。
この時には亭主と客のどちらが床に飾るのかを、
お互いに譲りあいます。


■茶入を床に飾る
『茶道四祖伝書』に、以下の話があるそうです。

客は茶入を拝見したあと、しばらく床に飾って拝見したい、
とおねがいすることがありますが、
その時、亭主は客にまかせます。

客が茶入を床へ上げる時、
まず盆を、次に茶入を取り上げて拭き、
亭主に茶入の正面はどちらですかと尋ねるものです。

さて盆を置き、床へ上げるのに、
軸脇へ上げるのであれば脇へ寄って上げます。
中央へは真向かいからです。

真向かいの時は床框(とこがまち)の下、
畳二目に茶入を置き、
いかにもはいつくばって真直ぐに慎重に上げます。

また、脇へ上げるときは、膝の使い方が大事です。
これには口伝があります。

盆に茶入が乗っているならば、
床の際まで寄せるのに、三段に寄せます。

両手で体をこぎ寄せ、
にじりにじりと三回ほどして床まで体を寄せます。
床框より十六目のところへ盆と茶入を上げます。

ただし、口伝に、他の人の持っている茶入は手前に置きます。
それは、もっとよく見たいという心を表わしているのです。

亭主の道具を奥の方へ入れるのはよくありません。
また、茶入の蓋を炉縁に置くのはいけません。
第一危なかしくて嫌なものです。

茶入の蓋を取るとき、つまみを持たず脇を持ちます。

茶入を仕覆から出し入れするときは、
茶入の蓋を先に取って口へ指一本入れて出し入れするものです。
そうしなければ、取り落とすことがあります。
客の前でもそうします。

茶入の蓋のつまみの脇のほこりと、
茶壺の耳の内のほこりと、
刀の樋の内のほこりは取らないものです。


茶入の形と分類に関する詳細は、別途以下のページで一覧にしてみました。
茶入の形について

茶入の底の形について

茶入の分類について


読み:せとちゃいれ
作品名:瀬戸茶入
万代屋緞子・大燈金襴
作者:佐久間勝山

瀬戸茶入
※画像を押すと拡大できます。
瀬戸焼は平安時代頃に焼き物作りが始まったとされていて、
鎌倉時代には加藤四郎左衛門景正(藤四郎)が陶器の製造を始めたそうです。
江戸時代、尾張徳川家の直轄領になってからは、瀬戸で産する陶器製造は尾張藩の独占産業になったとのこと。
18世紀後半になると、加藤民吉が肥前で磁器を学んだことで、瀬戸での磁器の製造が始まったみたいです。
明治になると窯業は更に盛んになるようですが、昭和恐慌・第二次大戦を経てだいぶ衰退したみたいです。
現在は観光資源としての位置づけを高めつつあるそうです。

佐久間勝山は、松古窯の四代目。松古窯は、万古焼の創始者「沼浪弄山」の流れをうけて、
初代信春が安政年間に開いた窯とのこと。
淡々斎より松菱の松古印を賜わったけど、平成10年には故人となったみたいです。


読み:かたつきちゃいれ
作品名:肩衝茶入
作者:山口錠鉄

肩衝茶入
※画像を押すと拡大できます。
茄子の茶入より力強い印象を与えることから、現在生産される茶入の多くはこの肩衝みたいです。
最近だと縦長の茶入を全て肩衝と呼ぶ場合すらあるそうです。
「初花肩衝・楢柴肩衝・新田肩衝」を「天下三肩衝」と呼ぶみたいです。三つとも中国で作られていて、
最初「初花肩衝・楢柴肩衝」は 足利義政 が、「新田肩衝」は村田珠光が所持してたらしいです。
その後「初花肩衝」は、 鳥居引拙織田信長 →織田信忠→松平念誓→徳川家康→ 豊臣秀吉 →宇喜多秀家→徳川家康→松平忠直→?→松平正久→徳川綱吉→徳川宗家→徳川記念財団
「新田肩衝」は、三好政長→ 織田信長 →大友宗麟→ 豊臣秀吉 →豊臣秀頼→徳川家康→?→松平頼房→水戸徳川家→水府明徳会
「楢柴肩衝」は、 村田珠光鳥居引拙 →天王寺屋宗伯→神谷宗白→島井宗室→秋月種実→ 豊臣秀吉 →徳川家康→江戸時代に消失
と渡っていったみたいです。

初代山口錠鉄は第一次陶磁器技術保存登録賞の瀬戸(以下の6人:加藤唐三郎・山口錠鉄・加藤英一・加藤鼎・加藤麦袋・加藤唐九郎)を受賞、
現在は3代目で、京都南禅寺管長・菊僊老大師に賞されたみたいです。
赤津焼にはこだわってないのか、織部焼や志野焼なんかも手がけてるみたいです。
山口錠鉄は、愛知県瀬戸市赤津町17に窯を構えていますが、
赤津の窯元が開放される「窯の里めぐり(毎年5月と11月)」には登録していないのか、名前は出てこないみたいです。

少し話が逸れますが、赤津焼というのは瀬戸市街の東方にある赤津地区で焼かれる焼物のことで、
七種類の釉薬(灰釉・鉄釉・古瀬戸釉・黄瀬戸釉・志野釉・織部釉・御深井釉)を使っているとのこと。

奈良時代に焼かれていた須恵器という土器に始まって、
桃山時代から江戸時代初期にかけて各種釉薬の技法が、江戸時代初期に現在の技術・技法が確立したとか。
尾張徳川家の御用窯として栄えて現在まで続いているとのこと。

1977年に国の伝統的工芸品に指定され、伝統工芸士も「三宅紀保・近藤律・小林健治・野田大作・梅村鉱則」など
何人も登録されているようです。
1980年にできた赤津焼会館は、織部釉の陶板で出来た建物で「茶道具・花器」なんかも展示しているとか。


読み:りきゅうまるつぼちゃいれ
作品名:利休丸壺茶入
作者:笹田仁史
仕覆:藤種純子

利休丸壺茶入
※画像を押すと拡大できます。
大名物の利休丸壺は、 千利休 が所持したところからこの名があるそうです。
大きさは、
高さ:二寸三分六厘(7.2cm)
胴径:二寸四分五厘(7.5cm)
口径:一寸一分(3.3cm)
底径:九分〜一寸(2.7cm〜3.0cm)
甑高:六分二厘(1.8cm)
重量:十八匁八分(70.5g)
なんだとか。

伝来は、 千利休 →万代屋宗悦→金森法印→後藤徳乗→ 水野日向守勝成→朝吹英二→村山龍平→香雪美術館。

藤種純子は、名物裂のひとつで、
藤種家の所伝に因んでの名前みたいです。藤谷緞子とも言うようです。
納戸色の地に二重の入子菱、その内側に卍字を地文に織り出し、
梅花文の芯の出たものが交互に配されているそうです。
大名物「利休丸壺」の仕服に用いられるとか。
松平不昧著『古今名物類聚』にも載っているようです。


読み:おきなうつしちゃいれ
作品名:翁写茶入
作者:笹田仁史
仕覆:権太夫切

翁写茶入
※画像を押すと拡大できます。
翁手は、瀬戸茶入の手分けのひとつで、能楽の翁の姿に似ているところから
小堀遠州 が命銘したそうです。
やや丈のつまった円筒形で、轆轤目が見え、黄釉がなだれているようです。
中興名物の翁手には、翁・増鏡などがあるとのこと。
翁の大きさは、
高さ:二寸二分二厘(6.7cm)
胴径:二寸一分四厘(6.5cm)
口径:一寸六分(4.8cm)
底径:一寸二分(3.6cm)
甑高:二分二厘(0.7cm)
肩幅:二分五厘(0.8cm)
重量:三十匁強(112.5g)
なんだとか。
伝来は、 小堀遠州 →土屋相模守→板倉伊勢守→土屋家→
朽木伊予守→大阪道勝→森本伴左衛門→佐々木義亨→藤田家。

権太夫金襴は、名物裂のひとつで、久保権太夫の所持に因む名前だそうです。
縹や萌黄地に、金糸で小さな三角形を積み重ねた大小の鱗紋を織り出したもののようです。
縹や萌黄地に、銀糸で小さな三角形を積み重ねた大小の鱗紋を織り出した「権太夫銀襴」 というのもあるみたいです。


読み:はしだてうつしちゃいれ
作品名:橋立写茶入
作者:笹田仁史
仕覆:角龍

橋立写茶入
※画像を押すと拡大できます。
中興名物の橋立は、景色を天橋立に見立てて名付けたものだそうです。
総体に黒渋釉で、口縁から裾土際までやや幅広い黄釉のなだれがあり置形となり、 その中に黒い筋があるみたいです。
橋立の大きさは、
高さ:二寸四分(7.3cm)
胴径上:一寸六分(4.8cm)
胴径下:一寸八分二厘(5.5cm)
口径:一寸一分五厘(3.5cm)
底径:一寸四分(4.2cm)
甑高:一分五厘(0.5cm)
肩幅:二分〜二分五厘(0.6cm〜0.8cm)
重量:三四匁四分(129.0g)
なんだとか。
伝来は、松平備前守正信→三井家→鴻池新十郎家→井上世外。

角龍金襴は、名物裂のひとつで、金糸で角龍紋を織り出した金襴のことだそうです。
地色や角龍紋の違いにより、以下のような類裂が多いようです。
○中川角龍金襴:小柄な角龍紋なもの
○春藤金襴:紫地のもの
○桑山金襴:緋地のもの
○舟越金襴:浅黄地に角龍紋を互の目に配したもの


読み:いわきぶんりんうつしちゃいれ
作品名:岩城文琳写茶入
作者:笹田仁史
仕覆:鳥襷純子

岩城文琳写茶入
※画像を押すと拡大できます。
中興名物の岩城文琳は、陸奥国の戦国武将岩城貞隆が所持していたところからこの名があるそうです。
底は細かい糸切で、大きな山欠けがあるようです。
大きさは、
高さ:二寸二分四厘(6.8cm)
胴径:二寸八厘(6.3cm)
口径:八分(2.4cm)
底径:九分(2.7cm)
甑高:一分七厘(0.5cm)
重量:十四匁一分(52.9g)
なんだとか。

口が締り、捻返しは浅く、肩先が丸味を持ち、胴が膨らみ、
胴以下は同じように窄まり、ほぼ球形に近く、底廻りは鼠色の土見、底は細かい糸切で、大きな山欠けがあるみたいです。

総体に柿金気色に少し紫色を帯び、黄味を帯びた黒飴釉が全面に細かい横段をなし、
一部に鶉班があり、その間に銀金気がムラムラと現れ、甑廻りに黒飴釉の一線が廻り、
二部胴上から飴色を含んだ黄釉が二股の轡形になだれ掛り置形となっているようです。

伝来は、岩城貞隆→伊達政宗→坂元金弥→藤田美術館。

鳥襷宝尽し(上田鳥襷)は、上田家に残る古文書『宗箇様御聞書』に記述のある
緞子の三名物(リンポウ・オウヲウ・トリダスキ)の裂地の内、現存している唯一の物だそうです。

ちなみに鳥襷は、平安時代以来、公家の装束・調度などに用いられた伝統的な文様(有職文様)のひとつで、
四羽の鳥を背中合わせに、円形に配したものを単位として輪違い文のように連続させた模様だそうです。


読み:いずもかたつきうつしちゃいれ
作品名:出雲肩衝写茶入
作者:笹田有祥
価格:15,000円
仕覆:鳥だすき

出雲肩衝写茶入
※画像を押すと拡大できます。
名物、出雲肩衝は、金森出雲守可重が所持していたところからこの名があるそうです。
大きさは、
高さ:二寸七分五厘(8.3cm)
胴径:一寸七分(5.2cm)
口径:九分八厘〜一寸(2.9cm〜3.0cm)
底径:一寸(3.0cm)
甑高:一分七厘(0.5cm)
肩幅:三分(0.9cm)
重量:三五匁二分(132.0g)
なんだとか。
伝来は、金森出雲守可重→ 細川三斎 →永青文庫。

笹田有祥は、昭和27年京都生まれ。手塚央に師事し、茶陶を指導されたそうです。


作品名:有明写茶入
作者:笹田有祥
備考:東山裂/大名物写/桐箱入

有明写茶入
※画像を押すと拡大できます。
有明の茶入(安国寺肩衝)は、初め有明肩衝と呼ばれ 豊臣秀吉 の秘蔵品のものを、 細川三斎 が拝領したそうです。
しかし 三斎 は財政困難のためこれを手離し、安国寺恵慶が所持して安国寺肩衝と呼ばれるようになったとか。
関ケ原の役のあと恵慶は京都の四条河原で処刑され、
この茶入は合戦前の約束によって徳川家康から津田小平次秀故が賜わったようです。

ある時津田の茶会に招かれた三斉は久し振りにこの茶入に出会って愛惜の念を押えることができず、
主人が水屋に立った隙を窺ってひそかにこれを懐に入れ、
「年たけて又こゆべしと恩ひきや命なりけり小夜の中山」の西行法師の歌を主人への伝言に残して辞去したそうです。
そのためこの茶入には中山肩衝の別名もあるみたいです。

三斎 は帰宅後使いを遣り、黄金二百枚に時服一領並びに酒肴を添えて無礼を詫び改めて譲渡を願ったようです。
津田はその熱意に感じてこれを譲ることにしたそうですが、
黄金を受け取ることは承知せず、結局 三斎 は一寺を建立したとのこと。

1627年、領国豊前国(福岡県)小倉の飢饉に際して、
細川忠利はこれを黄金千五百枚に換えそれで飢民を救ったのだとか。
江戸にいた三斎はこれを聞き「忠利の茶道も上達した」と賞したそうです。

茶入はその後庄内藩主酒井忠勝の手に入り、
1865年になってその子息当が幕府に献上、
のち上田城主松平伊賀守が拝領したようです。
それ以来、同家に伝来したが、1913年の同家の売立の際、益田紅艶(益田英作)が落札したみたいです。
当時ほとんど裸のままで出ていたため注目を惹かず、わずか八百円だったとか。
黒飴色釉の中に白鼠色の斑紋が一面にあるのがこの茶入の特色なんだとか。

伝来は、細川幽斎(藤孝)→ 細川三斎 →安国寺恵瓊→徳川家康→津田小平治秀政→
細川三斎 →越中守忠利→酒井宮内大輔忠勝→酒井忠当→柳営御物→信州上田城主松平伊賀守→益田英作

東山裂金襴は、名物裂の一つで、赤紫色・青磁色の地に二重蔓唐草をあしらい、
牡丹・菊のような花「霊芝」を添えた金襴なんだそうです。

東山の名は、東山殿・ 足利義政 が所持していたことによる、
または義政が明に注文させて作らせたことに由来しているのだとか。


作品名:羽室文琳茶入
作者:松本鉄山
備考:笹蔓緞子/大名物写/桐箱入

羽室文琳茶入
※画像を押すと拡大できます。
大名物の羽室文琳は、羽室某の所持、または葉室寺あるいは葉室大納言家に因んだものだそうです。
伝来は、薬師院→土浦城主土屋相模守→若狭酒井家→益田家→岡田茂吉→MOA美術館。

松本鉄山は、 山口錠鉄 の次男で母方実家の窯元へ養子となり 後を継いだそうです。
愛知県瀬戸市水野町で茶陶を専門としているのだとか。

笹蔓緞子(花葉松毬唐草文様緞子)は名物裂の一つで、
濃紺地に、緯糸に金茶色の糸を用いて笹の細蔓に松毬と六弁の小花をつけた唐草文を織り出した緞子みたいです。
松毬のかわりに霊芝雲、また鳥入り、卍入り、石畳地文のものなども見られ色違いもあるのだとか。


作品名:丸壺茶入
作者:桶谷定一
備考:定家緞子/中古品/桐箱入

丸壺茶入
※画像を押すと拡大できます。
二代目桶谷定一(桶谷洋)は、1935年、京都東山に生まれたそうです。

名物裂の定家緞子(ていかどんす)は、
縹地に、桔梗・菊などの蔓唐草紋を薄い黄茶または薄青の色糸で織り出した緞子のようです。
京都島原の定家太夫の打掛の裂であったと伝えられ、中国明末清初の製といわれているのだとか。
『古今名物類聚』所載、類裂に「正法寺緞子」があるみたいです。


作品名:大海茶入
作者:陶峰
備考:備前焼/利休梅緞子/中古品

大海茶入
※画像を押すと拡大できます。
木村陶峰(木村強)は、昭和2年、岡山県・窯元六姓の木村家陶正園の生まれ。
岡山県備前焼陶友会副理事長や、岡山県備前陶芸美術館副理事長なのだとか。

岡山県備前陶芸美術館は、古備前から現代に至る作品及び備前焼に関する資料を一堂に集め、
展示・公開・解説することによって、備前焼の普及と振興を図り、
地域文化の向上に寄与するという目的を持って設立されたそうです。
定休日は月曜で、開館はAM9:30〜PM5:00
入館料は、大人:700円(600円)、高校・大学生:400円(300円)、小学・中学生:無料
()内は20人以上の団体料金
住所:備前市伊部1659-6
TEL:0869-64-1400
FAX:0869-63-8300

利休梅緞子は、朱・黒・白・黄を含む、七色の細かい縦縞を織り出し、
その上に、小さな梅鉢文を一面に散らした裂なんだそうです。


作品名:織部肩衝茶入
作者:竹川
備考:中古品/桐箱入

織部肩衝茶入
※画像を押すと拡大できます。
千利休 の弟子であった大名茶人、 古田織部 の指導で創始された織部焼(おりべやき)は、
桃山時代の1605年頃〜1624年頃まで、主に美濃地方で生産された陶器のことだそうです。
美濃焼の一種で、基本的に志野焼の後に造られたみたいです。
当時の南蛮貿易で中国南方からもたらされ、茶人たちに珍重された交趾焼(華南三彩)を元にしたようです。

陶芸家の市川竹川(いちかわちくせん)は、
姓名占い(私は信じていませんが・・・)だと、
天格:8(吉)→勤勉 努力 成功
人格:9(凶)→薄幸 消極的 孤独
地格:9(凶)→薄幸 消極的 孤独
外格:8(吉)→勤勉 努力 成功
総格:17(吉)→積極性 地位 財産


作品名:瀬戸茶入(雨龍間道)
作者:竹川
備考:中古品/桐箱入

瀬戸茶入(雨龍間道)
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雨龍間道は、雨龍とは架空の動物で霊獣とされているもので、
他の龍のように角がなく、尾が細く濁水に住んだ水霊とされているようです。
水に住むこと五千年にして蛟龍(こうりゅう)となり、龍巻を起こして天に昇る。
このときはじめて角が生じ長くて鋭い爪も生え、四足に迫力が生まれるといわれているそうです。
この龍文様を格子縞に表した裂は地色と格子色が美しく溶けあった趣があるものなのだとか。


作品名:常滑焼茶入
作者:木二
備考:亡羊緞子/中古品/桐箱入

常滑焼茶入
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常滑焼は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる陶器。日本六古窯の一つ。

名物裂のひとつ、亡羊緞子(ぼうようどんす)は、
萌黄または縹地に、薄茶の緯糸で蔓唐草と鳳凰紋を織り出した緞子だそうです。
儒者三宅亡羊(みやけぼうよう)の所持に因む名のようです。

三宅亡羊は、千宗旦の弟子で四天王の一人で、
禁裏・公家衆より尊敬を受け、慶長年間に後陽成天皇より洛北鷹ヶ峰の地を賜わったみたいです。
ちなみに宗旦四天王というのは、藤村庸軒・山田宗偏・杉木普斎・久須美疎安、
または三宅亡羊・松尾宗二ら弟子たちのことだそうです。


作品名:丹波内海茶入
作者:森本陶谷
備考:紙箱入

丹波内海茶入
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丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は、兵庫県篠山市今田地区付近で焼かれる陶器・b器のことだそうで、六古窯の一つだとか。
丹波焼、または立杭焼ともいうようで、起源は平安時代にまで遡るみたいです。
登り窯により最高温度約1300度で50〜70時間も焼かれるため、
器の上に降りかかった松の薪の灰が、釉薬と化合して窯変、
「灰被り」と呼ばれる独特な模様と色が現出するそうです。
炎の当たり方によって一品ずつ異なった表情を生み出すのが丹波立杭焼の最大の特徴なんだとか。

森本陶谷さんは丹波焼のトップクラスの作家の一人で、兵庫県無形文化財保持者だそうです。


作品名:備前焼茶入(青木間道)
作者:藤原雄(人間国宝)
備考:桐箱入

備前焼茶入(青木間道)
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名物裂のひとつ青木間道は、紺・茶・白・黄で太細縞を組み合わせた堅縞の間道で、
緯糸はこげ茶を用い、全体に黒茶味を帯びたものだそうです。
青木間道の名は、 豊臣秀吉 の家臣の青木一矩か青木重直、どちらかが所持していたからみたいです。
類裂が数種あって、小松間道、弥兵衛などの名があるようです。

ちなみに、間道(かんとう)というとは、縞文様のある裂のことで「縦縞」「横縞」「格子縞」があるそうです。
間道の他に、漢島・漢東・漢渡・広東・閑島などの字が当てられているようです。
名前の由来は、名物裂として取り上げられた縞織物が、主として中国広東地方で産出された絹織物であったことに由来するみたいです。

藤原雄は、1996年に人間国宝に認定された陶芸家で、視力が右目は0.03、左目は全く無いというハンディの持ち主だったとか。


作品名:上野肩衝茶入
作者:熊谷保興
備考:二重蔓牡丹紋/道元緞子/中古品/桐箱三ツ入

上野肩衝茶入
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上野焼(あがのやき)は福岡県田川郡香春町・福智町・大任町で焼かれる陶器のことだそうです。
細川忠興 が小倉藩主となった際、朝鮮人陶工の上野喜蔵を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まりみたいです。
江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられるほど、茶人に好まれたのだとか。

ちなみに遠州七窯とは他に、
志戸呂焼(遠江:遠州)・膳所焼(近江)・朝日焼(山城)・赤膚焼(大和)・古曽部焼(摂津)・高取焼(筑前)のことのようです。
この遠州七窯うち経済産業省指定伝統的工芸品に指定されているのは上野焼だけだそうです。

熊谷保興は、現代上野焼の第一人者で、温厚な人柄みたいです。

二重蔓牡丹紋(ふたえづるぼたん)の、二重蔓というは、
二本線を平行させて、幅中に地色の部分が筋のように見せて蔓を表している文様のことをいうのだとか。

名物裂のひとつ、道元緞子(どうげんどんす)は、
藍地に、白茶の緯糸で丁子花唐草と花、一筋の花と花との間に小さな蝶、他の一筋の花の間には蜂を織り出した緞子だそうです。
金糸の入ったものは金緞または金入り緞子といわれ、金襴の部に編入されてしまっているものも少なくないとのこと。
道元の名称は、永平寺開山道元禅師が宋より伝えた袈裟裂が本歌のようですが、
実際には明代中期以降の製とされるみたいです。(一説には、西陣の織屋道玄に因むとも。)


作品名:四滴茶入(色変)
作者:五陶
備考:紙箱入

四滴茶入(色変)
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四滴茶入(四つ茶器)は、水滴以外、本来、薄茶専用なのですが、
区分けとしてこの「茶入」のページに入れています。

四滴茶入は、以下の四つからなっているそうです。
・弦付(つるつき):口の上に半円形の弦があるもの
・手瓶(てがめ) :肩から胴に手がついたもの
・油滴(ゆてき) :肩に小さな注ぎ口があるもの
・水滴(すいてき):注ぎ口と手が付いているもの

替茶器(四滴茶入など)がある理由は、
利休形の黒塗棗を「濃茶」に用いた場合、
茶事の流れにおける「薄茶」では替茶器を用い、
前席の濃茶の棗と異なった姿を取り合わせるほうが好ましい、
といった背景からのようです。

他に、替茶器の役割として、
客の数が多いと、一つの茶器ではお茶の量が不足するため、その控えとして用いたり、
装飾的役割で、棚物を用いた時に終りに飾りを置いたり、
主茶器に添えて拝見に出したりするのだそうです。

仕付棚のある台目席・小間席などでは、黒塗棗などを荘ることがよくあるみたいですが、
濃茶の替茶器ではなく、薄茶用なんだそうです。
これは、佗びた席として道具組を考えた際にこのようになるようですが、
亭主の考えや嗜好によっては、派手な蒔絵の薄器を置く場合もあるのだとか。

同様に、菓子器の縁高も、蒔絵の薄器や焼き物の菓子器を使っていけないわけではないそうですが、
佗びた席と考えると、縁高の方が格調高く見えるような見えないような。


作品名:四滴茶入(色変)
作者:茂
備考:桐箱入

四滴茶入(色変)
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四滴茶入に関しては、飾り方も清め方も、流派によっても違うそうで、
細かい作法などをここで説明することができないのは残念です。

さて話は変わって、「油滴」というと、「油滴天目茶碗」を思い浮かべる方も多いと思います。

国の重要文化財「油滴天目茶碗」は、建窯で焼かれた碗で、
高台周辺を除いて全体に掛けられた漆黒の釉、
内・外面の黒い地に銀色に輝く斑紋、
その美しさが油の滴のようであるところから「油滴」の名があるそうです。

この碗の内箱には「ゆてき」と、さらに「天目」と墨書されているようです。
これは 千利休 あるいは 古田織部 の筆によるのだとか。

中国福建省北部の水吉鎮にある建窯で焼かれた碗で、
黒い釉薬の掛かった碗は、特に「建盞(けんさん)」と呼ばれ、
中国で喫茶の碗として最高のものとされたようです。

『君台観左右帳記』には、
「土之物」の中で最高とされる曜変に次ぐものとして
「油滴」が挙げられているみたいです。


作品名:六条肩衝茶入/
認得斎裂(大名物)
作者:笹田有祥
備考:中古品/
 桐箱少しよごれ有

六条肩衝茶入
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六条肩衝茶入は、古瀬戸の大名物で、
六条家が所持したところからこの名があるそうです。

口作は丸く、捻返しは浅く、胴中に沈筋一線が廻り、
裾以下は鼠色の土見で轆轤目があり、
その中に虫食いのような一の字状のホツレがあり、
底は細い糸切で、中央に丸形の窪みがあるようです。

総体に黒飴地色に柿色の班紋があり、
置形のなだれはやや幅広く、
釉溜りに少し青瑠璃色が現れているのだとか。

口縁に一ヶ所繕いがあるそうです。

伝来は、六条家→宗対馬守→富木八左衛門→山越利兵衛→松平不昧。


作品名:珠光文琳茶入/
唐草緞子(大名物)
作者:笹田仁史
備考:桐箱入

珠光文琳茶入
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珠光文琳は、漢作唐物の大名物。
村田珠光が所持したところからこの名があるとか。
その後、天王寺屋宗及が所持したところから
「宗及文琳」「天王寺屋文琳」ともいうようです。

口は小さく丸縁で、捻返しが浅く、甑は低く、
甑廻りがやや窪み、胴が張り、極めて薄い沈筋一線が廻り、
裾以下は朱泥色の土見で、轆轤目が細かく廻り、
底は細かい本糸切で、その中に細かい石ハゼが数点あり、
底縁に接して細長い土ホツレがあるみたいです。

総体に柿金気地にやや鼠色を帯び、
中に少し青みを帯びたところがあり、
甑廻りに黒釉が輪状をなし、
その上に少し蛇蝎釉が見え、肩下双方から黒釉がなだれ合い、
胴紐に至って一筋となり、盆付際で止まって、
釉止に少し蛇蝎釉が見え、
腰の辺りでこの黒釉なだれと直角に霞のような黒釉が現れているのだとか。

伝来は、村田珠光津田宗及(天王寺屋) →織田信長津田宗及
袴田内匠 →細川三斎→徳川将軍家→南部家。


作品名:肩衝茶入
作者:桶谷定一
価格:10,000円
仕覆:剣先緞子
備考:桐箱入

肩衝茶入
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ここでは、有名だと思われる
「肩衝茶入」について表にしてみようと思います。
備考
油屋肩衝畠山記念館漢作唐物肩衝茶入。大名物。
堺の町人油屋常言、及び、その子の常裕が所持したことからの名。
松平不昧著『雲州蔵帳』で「宝物の部」同家所蔵茶入の筆頭としている。
釉景は、総体柿金気色の下釉の上に、黒飴釉がむらむらとかかり、
その中に一筋のなだれが下がって、盆付際でとどまっている。
高さ8.4cm/口径4.1cm/胴径8.0cm/底径4.4cm
北野肩衝三井文庫別館大名物。漢作唐物と唐物がある。
漢作唐物は南宋時代、唐物は元〜明時代のもの。
古来漢作として著名で、肩衝として完璧な造形を誇っている。
高さ8.9cm/口径4.3cm/胴径7.4cm/底径4.2cm
在中庵藤田美術館中興名物。古瀬戸肩衝茶入。
古瀬戸茶入は、
唐物に近い「槍の鞘」の類、
初代の隠居作といわれる春慶の類、
和風化している「在中庵」の類
三種類に大別される。
「在中庵」という名は、小堀遠州が堺の在中庵という寺より見出し名付けたもの。
同寺の住職道休の名をとって「道休肩衝」ともいう。
撫肩で腰にも丸みがあり、鶉斑(うずらふ)の釉の景色が特徴。
高さ9.6cm/口径3.0cm/胴径6.4cm/底径3.0cm
金森MOA美術館古瀬戸肩衝茶入。
金森出雲守可重の所持からの名。
箱書がその子、金森宗和筆ゆえに、宗和所持による名ともいわれる。
茶入は「槍の鞘」形で、総体黒飴釉の光沢麗しく、
柿金気釉がこれにまじって景をなしている。
土は白鼠土で糸切は粗い。胴全体に粗くロクロ目がまわる。
高さ9.3cm/口径2.5cm/胴径6.6cm/底径4.2cm
松屋肩衝根津美術館大名物。漢作唐物肩衝茶入。
松本周室が所持したところから、始め「松本肩衝」と呼ばれ、
後に松屋源三郎家に伝わり「松屋肩衝」と呼ばれるようになる。
「松屋肩衝」は、漢作唐物肩衝の中でも屈指の名作といわれる。
ことに、村田珠光千利休古田織部小堀遠州がそれぞれこれを拝見して、
自らが好む置形を伝えると共に、
 村田珠光:龍三爪緞子
 千利休:木綿間道
 古田織部:波梅鉢緞子
 小堀遠州:捻梅唐草緞子
という仕覆を一つずつ添えている。
高さ7.7cm/口径4.3cm/胴径8.5cm/底径4.3cm
横田徳川美術館大名物。古瀬戸肩衝茶入。
瀬戸茶入中、大名物に類しているのは、古瀬戸に限られ、
その中の代表作がこの「横田」。
名の由来はあきらかではない。
茶入は、筒状の大肩衝で、口は蛇の目状をなし、
総体柿金気釉の中に黒釉が薄くむらむらとかかっている。
高さ13.9cm/口径3.5cm/胴径6.3cm/底径4.9cm
山内出光美術館大名物。古瀬戸肩衝茶入。
山内家に伝来したことからの名。
釉色は紫色をおびた金気釉の上に口縁から肩にかけて
黒釉が濃くかかり、一部胴に下がって置形をなしている。
同茶入は。明治3年に若州酒井家に移る。
高さ7.1cm/口径3.7cm/胴径6.7cm/底径4.0cm
富士山肩衝湯木美術館中興名物。唐物肩衝茶入。
小肩衝で、胴に富士山のような釉景が見られるところからの名。
南宋〜元時代の作。
内箱蓋裏(小堀遠州)、外箱蓋表(松平不昧)、挽家蓋表(江月宗玩)に
それぞれ「富士山」と箱書されている。
高さ6.3cm/口径3.2cm/胴径5.6cm/底径2.6cm
堅田肩衝香雪美術館中興名物。唐物肩衝茶入。
「堅田」の銘は、これを所持した人が堅田に住む茶人であったことから、
小堀遠州が命名し、江月和尚と両筆の詠草を添幅(そえふく)としている。
土は上質で、手取りはきわめて軽い。
『雪間草』に、犬山城主成瀬隼人正が6000両でこれを買い求めたとある。
高さ8.2cm/口径4.0cm/胴径7.9cm/底径3.2cm
遅桜肩衝三井文庫別館大名物。唐物肩衝茶入。
足利義政が「初花」に負けぬ茶入として『金葉集』の歌
「夏山の 青葉ましりの 遅桜
 初花よりも めつらしきかな」
を引いて「遅桜」と銘をつけた。
高さ8.9cm/口径4.8cm/胴径8.0cm/底径4.1cm
勢高肩衝頴川美術館大名物。漢作唐物肩衝茶入。
胴が細身で背が高くみえることからの名で、字を「勢高」にあてている。
もと住吉屋(山岡)宗無所持で、織田信長所持のとき、本能寺で火に逢った。
その後、繕われて古田織部が所持し、幕末の有となる。
将軍吉宗のとき、本多忠純が拝領した。
この茶入には、唐物内朱縁燕口の盆が添い、盆箱に本多忠純が箱書している。
高さ8.8cm/口径4.2cm/胴径7.0cm/底径4.2cm
忠度野村美術館中興名物。薩摩肩衝茶入。
薩摩焼ゆえに歴史上の人物、薩摩守忠度にちなんで「忠度」という銘がつけられた。
命名者は細川三斎で、内箱に「忠度」と三斎自身が朱漆書きしている。
茶入は、すなおな肩衝で、はっきりとした一筋流れが置形をなしており、
薩摩茶入を代表している。
高さ9.4cm/口径3.1cm/胴径6.3cm/底径4.0cm
安国寺肩衝五島美術館大名物。漢作肩衝茶入。
安国寺恵けい(えけい)の所持でその名があり、
別に細川三斎の命名で「中山肩衝」ともいう。

この「中山肩衝」という銘には、以下の逸話がある。
 もと細川幽斎所持で、三斎に伝えられたが、これを安国寺恵けいに譲った。
 後、徳川家康→津田秀政と渡り、津田の茶会でこの茶入を用いた。
 茶会で茶入を見た細川三斎は、昔これを手放したことを悔い、
 西行法師の歌
 「年たけて 又こゆへしと 思ひきや
 命なりけり 佐夜の中山」
 佐夜の中山といいおいて、
 もはや二度とこのような名器に逢えぬという気持ちで、
 ひそかに茶入を持ち帰り、金200枚を津田に送った。

この茶入の特徴は、その姿が堂々としており、
釉景が変化に富んでいることであるが、
その付属物(牙蓋2枚、仕覆11枚)が豊富なことでも知られている。
高さ11.2cm/口径4.5cm/胴径8.8cm/底径4.8cm
新田肩衝徳川美術館漢作肩衝茶入。
天下三肩衝と呼ばれた茶器の1つ。
初花徳川記念財団唐物肩衝茶入。
天下三肩衝と呼ばれた茶器の1つ。
徳川将軍家伝来の陶製茶入である。
楢柴肩衝所在不明天下三肩衝と呼ばれた茶器の1つ。
釉色が濃いアメ色で、
これを「恋」にかけて『万葉集』の
「御狩する狩場の小野の楢柴の汝はまさで恋ぞまされる」
の歌に因みこの名になったとされる。


作品名:忘水写茶入
(中興名物)
(旧名「白浪」)
作者:笹田有祥
価格:15,000円
備考:桐箱入

忘水写茶入
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忘水(わすれみず)茶入は、阿部豊後守が『風雅集』の
「人もみな むすふ身なれと わすれ水
 我のみあかぬ 心ちこそすれ」
の歌を引いて命銘したものだそうです。

神尾紹元が所持したときは「白浪」と云ったのだとか。

形状は、撫肩で、底が孕み、
裾廻りのざら目土の上にシノギのような竪箆が廻り、
底は細い糸切で、一面に磨れているとか。
総体にざら目地の渋紙色で、
口縁から裾に至るまで粉を吹いたような黄釉が現れ置形となるみたいです。

伝来は、
石川六兵衛→神尾若狭守紹元→阿部豊後守正武→
松平左近将監乗邑→伏見屋甚右衛門→松平不昧。


作品名:槍の鞘肩衝写
(古瀬戸大名物)
作者:笹田有祥
備考:桐箱入

槍の鞘肩衝写
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古瀬戸肩衝茶入で、形が細長く槍の鞘のような形からの名前みたいです。
『名物目利間書』には「太閤銘」、
雲州松平家本『茶入名物記』には「利休銘」とあるようです。

明智光春が坂本城で最期の時、この茶入を、
槍の鞘にかけて秀吉の軍に渡したのでことからの名前という説もあるとか。

柿色に黒の斑点がいたって細やかで、
なだれは黒の内飴のすきに少し黄が混じって、
左の肩に面があるようで、総体に金気が強い茶入みたいです。

豊臣秀吉が所持し、石川備前守が伏見奉行を首尾よく勤めた賞としてこれを拝受、
石川宗雲、その子自安(本姓後藤)、四代藤右衛門と伝わり、
藤右衛門の時、京都の井筒屋こと河井十左衛門休貞に譲与したようです。

小堀遠州が伏見で奉行だった時、
京都に上る楽しみはこの茶入を見ることだったとか。

井筒屋の家計が傾くと、三井八郎右衛門に売り渡し、
その時、箱だけは手許に留め置いたそうです。
家政が立ち直れば買い戻すつもりだったみたいです。
その後、立ち直る望みのないことを知り、
箱と茶入とを再び巡り合わせたいといって買い主に贈ったのだとか。

寛政(1789-1801)の頃、松平不昧が、
一千六百五十六両一分二朱三匁五厘
で、買い求め、油屋肩衝を漢作の大関、
鎗の鞘肩衝を和物の大関として、
参勤交代の折は、油屋を一の箱に入れ、
鎗の鞘を二の箱に入れ、侍臣に負わせて輿側に随行させたそうです。


作品名:岩城文琳茶入
(中興名物)
作者:木津喜楽
価格:15,000円
備考:桐箱入

岩城文琳茶入
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中興名物の岩城文琳は、陸奥国の戦国武将岩城貞隆が、
所持していたところからこの名があるそうです。
上天文琳とも言うみたいです。

上天文琳の名は、「無上に優れているの意」という説があるようです。

付属品は以下みたいです。
蓋四つ:立古作・遠州好立古作・立佐作・遠州好。
仕覆四つ:柿地大内菱金屎・鳥樺緞手・
 白地古金屎・花色地蔓草紋緞手。
挽家:鉄刀木、金粉文字・書付小堀権十郎筆、
盆:青貝唐子絵四方盆

現在、藤田美術館が所持しているようです。


作品名:瀬戸茶入(時代)
銘:松風
仕覆:土田友湖
備考:桐箱入二ツ入
/淡々斎宗匠書付

瀬戸茶入(時代)
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ここでは、「和物茶入」について説明しようかと思います。

藤四郎を陶祖として瀬戸窯を本窯と称し、
四代目の破風窯までを個別に扱い五つに分類するようです。

藤四郎が日本の土で焼いたものを「古瀬戸」、
または彼の法号をとり「春慶」と称し、
二代目が焼いたものを「藤四郎窯」「真中古(まちゅうこ)」、
三代目が焼いたとされる金華山窯、
四代目が焼いたとされる破風窯を「中古物」と称するそうです。

利休の頃の破風窯以後、瀬戸・美濃・京都などで焼かれたものを「後窯(のちがま)」と称し、
「利休」「織部」「宗伯」「鳴海」「正意」など、
指導したとされる人物の名を取ったものがあるそうです。


作品名:高取肩衝茶入
作者:亀井味楽
仕覆:宝間道/
獅子牡丹富貴長命紋
備考:桐箱入二ツ入

高取肩衝茶入
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高取肩衝茶入には、「手枕(たまくら)」という中興名物があるようです。

形が枕に似ているところからこの名があるそうで、
裾以下は高低不同に朱泥色の土を見せ、底は細かい糸切で、
その中にヒッツキがあるみたいです。

栗色地釉で、肩の辺りに黒金気釉がムラムラと漂い、
その中から栗色に黄味を帯びたなだれが胴紐の下まで垂れ掛るのだとか。

伝来は、小堀遠州→板倉伊勢守→田沼主殿頭→松平不昧。

蓋箱は桐白木で、書付は松平不昧、
内箱も桐白木で、書付は小堀遠州
外箱も桐白木で、書付は松平不昧だそうです。


作品名:高取茶入
作者:十三代八仙
仕覆:横縞華紋
備考:桐箱入

高取茶入
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中興名物の高取茶入には、以下の様なものがあるみたいです。

「秋の夜(あきのよ)」
小堀遠州が『伊勢物語』の
「秋の夜の 千夜を一夜に なそらへて
 八千代し寝はや 飽く時のあらむ」
の歌を引いて命銘したものだとか。

「染川(そめかわ)」
小堀遠州が黒田右衛門佐忠之の求めに応じ、
黒田家のある九州に因み『伊勢物語』の
「染川を わたらむ人の いかてかは
 いろになるてふ ことのなからむ」
の歌を引いて命銘したもののようです。

「高取腰蓑(たかとりこしみの)」
腰廻りに蓑のような箆筋があるところから、
この名があるそうです。

「玉川(たまがわ)」
黄釉なだれを山吹の影が、
川面に映る名所玉川に擬えた名前みたいです。

「玉柳(たまやなぎ)」
春の柳の雨に濡れたような景色があるところから
『玉葉和歌集』の
「たま柳 にほふともなき 枝なれと
 みとりの色の なつかしきかな」
の歌を引いて命銘したものだとか。

「横嶽(よこたけ)」
松平右衛門大夫正綱が高取焼窯元に命じて焼かせ、
小堀遠州に銘を請うたところ、
すでに著名な高取焼の茶入「染川」「秋の夜」よりも優れているとして、
色々案じたが適当な名が無く、
九州の名勝横嶽にちなみ銘としたものだそうです。


作品名:高取茶入
作者:高取喜恵
仕覆:伊豫簾/宗薫緞子
備考:桐箱入二ツ入

高取茶入
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高取喜恵は、福岡県で生まれた陶芸家で、
本名は高取キセ子だそうです。

13代・高取八仙の妻で、家業を手伝ううちに、
自らも作陶するようになり、夫である13代・高取八仙に師事するとか。

唐物に似た薄作りの茶入れを得意とし、
高取焼の繊細かつ華麗さを表現するために制作活動に励んでいるようです。


作品名:丹波茶入
作者:石田陶春
仕覆:利休梅
備考:桐箱入

丹波茶入
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丹波焼は、丹波国立杭を中心として焼かれる陶器の通称で、
「立杭焼」ともいうそうです。

日本六古窯の一つで、平安末期から鎌倉初期から始まるとされ、
大同元年(806年)、長門国萩の陶工・風呂藪惣太郎が、
陶法を伝えたという口碑もあるとか。

慶長末頃まで三木峠、床谷、源兵衛山、太郎三郎(たきうら)、稲荷山の「穴窯」で、
種壺や甕など無釉の焼締陶を焼き、これを小野原焼というようです。

慶長16年(1611年)頃に「穴窯」に替わり、朝鮮式の「登り窯」が築かれ、
左回りの蹴轆轤(けろくろ)、釉薬も使われるようになるとか。

寛永年間、小堀遠州の指導により茶碗・茶入・水指・建水等が作られ、
「遠州丹波」と称され、茶入に中興名物「生野(いくの)」があるそうです。

鉄分の多い土で、黒味を帯びさびた味わいがあるみたいです。
釉薬は、灰釉、赤土部釉、飴黒、江戸後期から白釉、土灰釉が使われるようです。

中興名物「生野」は、小堀遠州が丹波に因み、
同国の名勝生野を銘にしたものだそうです。
遠州の好みで作られたものとだとか。


作品名:萩茶入
作者:宇田川聖谷
価格:15,000円
仕覆:日野間道
備考:桐箱入

萩茶入
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瀬戸茶入の手分けのひとつに玉柏手(たまかしわで)というのがあるそうです。

本品が、この玉柏手かどうかわかりませんが、
ここでは、玉柏手の中でも有名な、
中興名物「玉柏(たまかしわ)」について説明しようかと思います。

玉柏は、奈良屋弥兵衛が摂津国難波の浦で取出したため、
小堀遠州が『千載集』の
「難波江の 藻にうつもるヽ 玉柏
 あらはれてたに 人を恋ひはや」
の歌を引いて命銘したようです。

口作は厚手で丸く捻返しが浅く、甑は極めて低く、
肩は丸味を持った撫肩で、胴中が締まった俵形で、
裾以下は赤味を帯びた土を踊箆で切廻し、
底は平面な板起しだが、糸切だったものが磨り減らしたようにも見えるとか。

総体に柿金気色の上に、肩先から黒釉が掛り、
胴中に石ハゼのような白釉の蛍形の一点があり、
黒釉のなだれが巌石の間に瀧が掛るような景色を見せ置形となり、
その向って左に幅二分程の金気釉が、
裾から胴中辺りまで立ち上がる上り金気釉があり、
裾廻りの釉溜りは厚く金気釉が膨れ上がり光沢が特に麗しいようです。

口から肩にかけて火割れのような一線があり、
その横に茶入半分に達するほどの大ヒビ割れがあるそうです。

伝来は、奈良屋弥兵衛→小堀遠州→前田利常→小堀家→
 土屋但馬守→小堀家→三井三郎助→酒井忠禄。

井伊直弼著『閑窓茶話』には
「玉柏といふ茶入は、
黒きなだれの薬どまりに大なる石はぜあり、
因て遠州玉柏と名づけらる、
玉柏は石の異名なり」
とあるそうです。


作品名:丹波内海茶入
作者:市野信水
仕覆:壺々間道
備考:桐箱入

丹波内海茶入
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昔は大海茶入を内海、小型の茶入を小内海といったそうですが、
遠州の時、大海・内海に分けられたのだそうです。

また、茶入として大型のため、もと水屋の引貯用とし、
大海より茄子文琳などに抹茶を移したようですが、
利休時代侘茶の流行とともに、これを茶席に使用するに至ったのだとか。

『茶器弁玉集』に
「大海と云事、口の径渺々として広故に海に喩云事となり、
大海に大文字を書事誤也、内海と書也、
又小を世にウチウミと云へり此説非也、
ちいさきは小内海と云此儀本説也、
然共世にあまねく大海内海と云伝たる事なれはくるしからぬ儀也、
又内海は大海のちいさき故に入海の心也、
昔日大海は茄子茶入或肩衝茶入に一ツ宛添置之也、
茶磨より大海に茶をうつして後、茄子或肩衝へ茶を入替と也、
然者大海は曳溜也、
古より小座敷へ出たる法なし、自然広間書院の台子には荘をくなり、
宗易作意にて大海を曳溜に用ては焼物とやきものとあぶなき事とて曳溜にはふヾきを被用となり」
とあるそうです。


作品名:伊賀肩衝茶入
作者:景山
価格:10,000円
仕覆:波に千鳥文
備考:紙箱入

伊賀肩衝茶入
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伊賀焼は、三重県伊賀市(旧阿山町)にて焼かれている陶器だそうです。
古くから雑器類が生産されていたことが知られているようで、
丸柱窯は天平宝字年間(757年〜764年)に興るとする説もあるとか。

伊賀焼は、時代などにより以下のように分類されるみたいです。
種類備考
伊賀(初期)水瓶や種壺、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、
陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じ古琵琶湖層由来だったため、
信楽焼とほとんど区別がつかなかった。
筒井伊賀[古伊賀]天正12 年(1584年)、古田織部の弟子であった筒井定次が、
伊賀領主となったとき、槙山窯・丸柱窯・上野城内の御用窯などで茶陶を焼かせたとされ、
阿山の槙山窯にて茶の湯に用いるための
茶壺・茶入・花入・水指などを焼き始めた。

俗に「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」といわれ、
耳が付き、箆目が立ち、また一旦整った形を崩した破調の美が特徴とされる。
遠州伊賀寛永年間(1624〜1644年)藤堂高虎の娘婿の小堀遠州が指導して製作したもの。
藤堂伊賀[古伊賀]慶長13 年(1608年)、筒井定次が改易となり、藤堂高虎が伊賀国主となったのち、
寛永12年(1635年)、二代藤堂高次のとき、京都から陶工を招き茶陶を焼かせたもの。
再興伊賀寛文9年(1669年)、「御留山の制」が設けられ、陶工は信楽に去り、伊賀焼は衰退する。
その後、七代高豊の宝暦年間(1751年〜1764年)に丸柱窯が再興される。

茶陶は殆ど焼かれなくなり、古伊賀と異なり殆どが施釉で日用食器が中心となっている。



■文献
藤堂元甫著『三国地誌』に
「瓷器、丸柱村製、按ずるに伊賀焼云是なり。
 古へ本邑と槙山村より出ず。
 茶壷、水指、茶入、茶碗、花瓶、酒瓶の類なり。
 茶道を嗜む者愛玩す。又槙山釜と称する者あり。
 又山手道と云ものあり。
 筒井定次の時焼、又あした焼と云ものあり。
 是等を皆古伊賀と称す。大抵江州信楽焼に類す。云々」
とあるそうです。


作品名:瀬戸茶入
作者:三代・山口錠鉄
売り切れ
仕覆:福寿文裂
備考:桐箱入
 /桐箱は少し古め

瀬戸茶入
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瀬戸焼は、日本六古窯の一つで、
鎌倉時代に、加藤四郎景正が中国の宋から施釉陶器の技法を伝えたのが始まりだとか。
この鎌倉時代〜室町時代末までを特に「古瀬戸」と呼んでいるそうです。

桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が、
茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、
日用雑器も作られるようになるみたいです。
江戸時代、伊万里焼に市場を奪われ「瀬戸焼」は衰退していくそうです。

明治に入り、1873年にウィーンで開催された万国博覧会に出品された
「瀬戸もの」が評判となるみたいです。
以後、海外からの注文が多くなり、世界に瀬戸の名が広まるようです。

第一次世界大戦時、海外での陶磁器の生産がストップすると、
海外でも、日本の瀬戸焼の需要が高まるそうです。

世界大恐慌・日中戦争・第二次世界大戦と続く混乱の時代、
陶磁器産業は軍需優先による影響を真っ先に受け、物資・燃料の欠乏を招くようです。
そんな中、瀬戸焼は燃料の石炭の代わりに亜炭(皮木)を使って、
生活用陶磁器や当時不足していた金属製品の代用品の生産へと移行することで、
この時代を乗り越えていくそうです。

第二次大戦後、瀬戸窯業は戦災をほとんど受けなかったことや、
戦後の物資不足による生活用具の需要が高かったことなどにより、
急速に復興していくようです。
そして、日本の高度成長を機に、一層躍進していったみたいです。


作品名:高麗文琳茶入
作者:千漢鳳
備考:桐箱入(牙蓋)

高麗文琳茶入
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ここでは、黒高麗について説明しようかと思います。

黒高麗は、室町時代末期に極めて珍重され、
黒楽茶碗はこれを模倣しようとしたといわれるのだとか。

黒高麗と称されるものには、二種類あるそうで、
中国東北地方産の鉄釉黒色のやきものと、
朝鮮産の黒磁が知られるようです。

朝鮮産の黒磁は高麗朝の時代にもあるそうですが、
遺品は少なく、李朝時代にも黒磁は受け継がれているみたいです。

黒色については、日本には独特の美意識があるようで、
黒いやきものを尊ぶ民族は、世界でも例のないものなのだとか。


作品名:朝日焼茶入
作者:十四代 松林豊斎
仕覆:東山裂/織部緞子
備考:三ッ入桐箱

朝日焼茶入
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朝日焼(あさひやき)は、京都府宇治市で焼かれる陶器のことだそうです。

宇治茶の栽培が盛んになるにつれ、
茶の湯向けの陶器が焼かれるようになったとか。

江戸時代には、遠州七窯の一つにも数えられるようになるみたいです。

朝日焼という名前の由来については、
朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、
朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が、
旭光を思わせるという説があるそうです。

宇治地方は古くから良質の粘土が採れ、
須恵器などを焼いていた窯場跡が見られていたようです。

室町時代、朝日焼が興る前には、
経歴も全く不詳な宇治焼という焼き物が焼かれ、
今も名器だけが残されているとか。

今日、最古の朝日焼の刻印があるのは慶長年間のものみたいです。

しかし、桃山時代には茶の湯が興隆したため、
初代・奥村次郎衛門藤作が、豊臣秀吉より絶賛され、
陶作と名を改めたというエピソードも残っていることから、
当時から朝日焼は高い評判を得ていたことになるようです。

二代目・陶作の頃、小堀遠州が、朝日焼を庇護、
そして指導したため、名を一躍高めることとなったみたいです。

同時に、遠州は朝日焼の窯場で数多くの名器を生み出しているそうです。

三代目・陶作の頃になると、
茶の湯が、一般武士から堂上・公家・町衆に広まっていき、
宇治茶栽培もますます盛んになり、
宇治茶は高値で取引されるようになったようです。

それに並行して朝日焼も隆盛を極め、
宇治茶の志向に合わせて、
高級な茶器を中心に焼かれるようになっていったとか。

朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、
焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴みたいです。

それぞれの特徴によって呼び名が決まっているそうです。

○燔師(はんし)
 赤い粗めの斑点がぽつぽつと表面に浮き出たような器をいう。
○鹿背(かせ)
 燔師とは対照的に、肌理細かな斑点が見られる器をいう。
 鹿の背中のような模様から名付けられた。
○紅鹿背(べにかせ)
 鹿背の中でも、特に鉄分が多く、よりくっきりと紅色が見えるものを指す。


作品名:さつま焼茶入
作者:龍門司窯
価格:8,000円
備考:木箱入

つま焼茶入
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薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県内で焼かれる陶磁器で、
竪野系・龍門司系・苗代川系などがあるそうです。

2002年1月に、国の伝統的工芸品に指定されたみたいです。

初期の薩摩焼は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に、
捕虜として連行されてきた朝鮮人が、
島津義弘の保護の下に発展させたのだとか。

薩摩焼は、大きく白薩摩と黒薩摩に分かれるようです。

白薩摩(白もん)は、日置市の旧東市来町の美山にある、
苗代川窯で焼かれていた陶器みたいです。

藩主向けの御用窯で、金・赤・緑・紫・黄など華美な絵付を行った、
豪華絢爛な色絵錦手が主だそうです。

元々は苗代川焼と呼ばれていたとか。

黒薩摩(黒もん)は、大衆用の日用雑器として焼かれていた陶器だそうで、
鉄分含有量が多い土を用いるため、黒くなるみたいです。

特に、黒ヂョカ(茶家)と呼ばれる素朴な土瓶は、
焼酎を飲むときに用いられるみたいです。



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