茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

器据ってこんなの

器据(きずえ)は、茶箱の蓋とほぼ同寸の板四枚を、
紫の打ち紐で綴じつけたものだそうです。

裏千家十一代玄々斎創案の茶箱雪月花点前のうち「月点前」の時、
この器据をひろげてその上へ諸道具を置き合わせるようです。

器据の広げ方は、折りたたまれている器据の右側から後ろ中心を、
両手で割って広げて置き、真ん中から観音開きのように左右に一緒に広げるそうです。

綴じる時は、小羽根で器据を掃き清め、右手に小羽根、左手に帛紗を握りこんだまま、
広げたときと逆に右端と左端の両側から真ん中に折りたたみ、
折りたたんだ両端を持って、左側が下になるように後ろ中心を割って折りたたむのだとか。
最後に勝手付に置くそうです。


■玄々斎の経歴
さて、玄々斎は、三河奥殿藩主松平縫殿頭乗友の子で、幼名は千代松だったそうです。
十代認得斎柏叟の女婿として、10歳で裏千家の養子となり、50歳で得度し、精中と称すようです。

それまでの歴代が禅的消極的であったのに対し、茶道以外にも華道、香道、謡曲などに通じていたそうです。
茶箱点や立礼式の創始、和巾点の復興など、明朗で積極的な人だったみたいで、
茶道の「中興の祖」と呼ばれているようです。

以下に、玄々斎に関する特記事項を記載しようかと思います。
1810年( 0歳) :三河国奥殿領主大給松平家六代乗友の5男として誕生。
1819年(10歳) :裏千家十代認得斎の許に養子に入る。
1826年(17歳) :十一代を継承。
1827年(18歳) :江戸へ出府、隅田川焼の香合「都鳥香合」を好みとする。
1832年(23歳) :『喫茶送迎記』著される。
1833年(24歳) :長男秋英童子没する。
1838年(29歳) :利休御祖堂を再興、咄々斎、抛筌斎等の広間、
 勝手周り、梅糸庵の大増築。
1839年(30歳) :利休二百五十年忌茶事初回を、9月8日〜翌2月27日まで88回行う。
1840年(31歳) :玄々斎、斉荘に江戸に招かれ、茶道伝授を行う。
1843年(34歳) :常盤釜を好む。『喫茶敲門瓦子』著される。
1845年(36歳) :歌棗を好む。
1847年(38歳) :祥瑞写筒水指、宋胡録水指を好む。
1848年(39歳) :田子浦香合、源氏棗を好む。
1849年(40歳) :兜門を建てる。松壷々建水、雑木盆好む。
1850年(41歳) :三徳花入、豊兆棗、洗朱棗、松梅棗を好む。
1852年(43歳) :常叟の百五十回忌に松ヶ根茶入を好む。
1853年(44歳) :丸懸盤を菓子器に好み、曙棗、松之釜を好む。
1854年(45歳) :常盤風炉・釜を好む。
1856年(47歳) :『法護普須磨』著される。
1860年(51歳) :点茶盤を考案する。
 『献茶の儀を旨とする口上書』を内裏へ提出。『利休居士茶之湯口伝』を執筆。
1865年(56歳) :禁裏献茶、記念に菊泉香合を好む。
1866年(57歳) :禁裏献茶拝領物披露の茶会。和巾点を復興、披露。
1867年(58歳) :相馬焼香合を好む。
1868年(59歳) :『芳名記聞』著される。
1871年(62歳) :角倉家から養子、又妙斎を迎える。胴張棗を好む。
1872年(63歳) :『茶道の源意』を執筆。
1877年(68歳) :玄々斎宗室没。

玄々斎は上記以外にも、いろいろしていて、
利休居士二百五十回忌を迎えるにあたり、利休居士宗旦以来の今日庵、
又隠・寒雲亭の茶室に、咄々斎・大炉の間、抛筌斎・溜精軒などの茶室を増築、
表門、玄関、その他を今日の形に修築整備したようです。

また、各流の代表として明治維新には政府に『茶道建白書』を提出したり、
『今日庵年中行事』『今日庵雑記』なども著しているとか。

江戸末期の創建とみられる京風数寄屋造りの茶室「水月亭」は、
当初、玄々斎が京都の東本願寺内に建築し、
明治20年代に書院とともに、岐阜市大門町の東本願寺岐阜別院(東別院)に移築され、
裏千家の茶会に利用されていたそうです。
現在「水月亭」は伊奈波神社社務所西側の更地に移築されているとか。


■玄々斎関連の書籍の説明
『喫茶送迎記』は、玄々斎の実兄・渡辺又日庵が著した裏千家茶事の概説書で、
又日庵が 玄々斎から伝授された茶事における亭主と客の作法を書き留めたものだそうです。

『喫茶敲門瓦子』には、
「東西同じく賓主の心也、就而主を東と言う。
半東と云うはただ庵の俗語なるべし、半亭主と云心也。」
とあるそうで、
客が西を向いているので、それをもてなす側は「東」を向く、
東が亭主なので、そのサポート役は「半東(俗語)」という意味合いになるようです。

『法護普須磨』には、
「小習を含む三十二条の板書き」が記載されているようです。

『献茶の儀を旨とする口上書』の提出には、、
積極的に禁裏公家社会との交渉を深める意図があったそうです。
これは、当時の幕府に衰退の兆しがあり、
将来の家元制として「不朽なる権威」こそ重要と既に見ていたのでは、
とする説があるようです。
その後、この「献茶の儀」は、実際に取り行われ、
「大居士古書ニヨリ」和巾点の点前が復興したみたいです。

『芳名記聞』の「立礼点茶法式略誌」という条項には、
点茶盤を使った点前の方法が図示されていているそうで、
立礼式を「書院風茶席」に据える意図のもと考案したことがわかるようです。
他に、四畳半や六畳の茶席での、点茶盤の据え方も書かれいるとか。

『茶道の源意』には、
「茶道ノ源意ハ忠孝五常ヲ精励シ、
節倹質素ヲ専ラニ守り、
分限相応タル家務ニ怠ラス」
とあるそうです。
玄々斎は、茶道の実践は、儒家人倫思想の実践でもあるとしたようです。


なお、鶯針に関しては、別ページで説明しています。
作品名:器据 溜
備考:紙箱入

器据 溜
※画像を押すと拡大できます。
磨き上げの作業を行なわず、塗っただけのものを「塗りっ放し」
または「塗り立て仕上げ」というそうです。

この「塗り立て仕上げ」には、以下の種類があるそうです。
種類備考
真塗(しんぬり)黒漆を塗り仕上げたもの。
現在は、油の入っていない黒ろいろ漆や赤ろいろ漆に、
顔料を混入した色漆を刷毛を使って塗り仕上げたものも言う。
溜塗(ためぬり)褐色味の強い透明な漆を厚めに塗り仕上げたもの。
花塗(はなぬり)花塗うるしで塗り仕上げたもの。
朱塗(しゅぬり)上塗りに、朱漆を使って塗り仕上げたもの。
潤塗(うるみぬり)上塗りの際に、朱漆や弁柄漆と黒漆を混ぜた、
うるみ漆を使って塗り仕上げたもの。


作品名:器据 春慶塗
備考:紙箱入

器据 春慶塗
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春慶塗(しゅんけいぬり)は、天然の木目の美しさをそのまま活かし、
透き漆と呼ばれる透明の漆を用いるそうです。

板を立体的に仕上げる曲げの技法で、
下地の色は黄色や紅が用いられ、完成時の色味を変えるようです。
また、軽くて丈夫なのだとか。

日本三大春慶塗というがあるそうです。
 ・飛騨春慶(岐阜県高山市)
 ・能代春慶(秋田県能代市)
 ・粟野春慶(茨城県東茨城郡城里町)

春慶塗の発祥には、いくつか説があるそうで、
飛騨春慶塗(飛騨国発祥説)と、粟野春慶塗(常陸国発祥説)が有力みたいです。

「飛騨国発祥説」は、1606年に大工棟梁である高橋喜左衛門が、
椹の割れ目の木目の美しさを生かして盆を製作し、
高山城城主・金森可重の子である、金森重近に献上したのが始まりのようです。
この盆の美しさが、陶工の加藤景正の名陶「飛春慶」の茶壷の黄釉と似ていることから、
金森可重により「春慶」と名づけられたそうです。

「常陸国発祥説」は、1489年、佐竹氏に仕えていた稲川山城主・源義明が、
現在の城里町で始めたものみたいです。
別名「水戸春慶」と呼ばれ、徳川光圀も御用塗り物師を召し抱えて奨励したとか。


作品名:器据 桐木地
備考:紙箱入

器据 桐木地
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桐は「ゴマノハグサ」科ノーゼンカヅラ属という「草」の仲間だそうです。
樹木とは組織構造が異なっているため、組織内に水分を通しにくく、
通常の使用状態で、材の中まで水分が浸透することはないみたいです。
また、国内で一番軽い材料で、世界的に見ても、バルサ材に次いで2番目に軽いのだとか。

断熱・保温性に優れ、多少のキズや凹みでも復元する力を持ち、
精密化加工が可能で、寸法変化が少ない材料だそうです。

桐はその主成分に「タンニン」という物質を含んでいて、
防虫剤の役割を果たすそうです。
ただ、長年の使用で黒ずんでくるようです。
これは、空気中の水分に影響を受け内部から溶出してくるからみたいです。

桐材を利用する時は、製材してから2〜3年間雨ざらしにし、
「アク抜き」といわれる工程と「乾燥」の工程を行うようです。
ただ、現在この作業では、材の表面部分からしか「アク」が抜けていないのでは、
という疑問が出ているとか。

桐が高価なのは、一本の桐の木の5〜6%しか製品にならない上に、
伐採してから材料とし使用するのに3年以上かかるためみたいです。
また、多くの輸入材により、国内の桐生産者が立ち行かなくなってきているそうです。

伝統工芸品などの桐材は、天日乾燥を行っているそうですが、
建築材などでの利用では、人工乾燥が主流となっているようです。


作品名:器据 溜掻合
備考:紙箱入

器据 溜掻合
※画像を押すと拡大できます。
掻合塗(かきあわせぬり)は、漆塗の一種で、
素地に柿渋を下地として塗り、
その上に黒・紅殻などの色をつけて、
半透明や黒の透漆による上塗りを一回だけしたものだそうです。

漆下地の代わりに柿渋を下地とするので、
「柿合塗」とか、「渋下地」ともいうとか。

欅・栓・栗など目のはっきりした材に、
砥粉等で処理せず目を潰さずに漆を塗ると、
目が漆を弾き細かい穴が空いて、
木地の杢目がはっきり残るため「目ハジキ塗」ともいうようです。

木地の木目がはっきり残るため素雅な趣があり、
傷が目立ちにくいなどの利点もあるみたいです。


作品名:器据 女桑
備考:紙箱入

器据 女桑
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女桑は、桑(本桑)の代用材として用いる場合の名称のようです。

女桑の心材も黄色がかっていて、
木目がはっきりしているため、家具材などに使用されるとか。

ただし軽量で、軟らかいため、
あまりにも強い荷重がかかる場所には向いていないようです。

茶道具の材料としては最高級とされる「本桑」は、
日本各地に自生し、樺太・朝鮮・中国にも分布しているものの、
木材としての蓄積は極めて少なく貴重材なのだそうです。



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