茶道具 翔雲堂
ひと口知識
※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。
弥生土器(弥生式土器)ってこんなの
ウィキペディアによると、弥生土器(やよいどき)は、
縄文土器にくらべて明るく褐色で、薄くて堅いという特徴があるそうです。
これは、焼成温度を一定に保つ「藁や土をかぶせる焼成法」を、
用いたことによるみたいです。
ただ、この参考文献は、間違っているという説もあるため、
以下に、別の特徴も記載してみます。
縄文土器に比べ、弥生土器は蓄えることを主用途にした「壺」が、
多く作られるようになったようです。
また、割り板を使って器表をこする「刷毛目」、
刻み目を彫り込んだ板で叩いて仕上げる「叩き」、
文様を彫り込んだスタンプを押し付けるなどといった仕上げ技法などが見られ、
それらの技術に必要となる道具「鉄器」が、使用されていたみたいです。
■弥生土器の名称
1884年3月2日、東京府本郷区向ヶ岡弥生町の向ヶ岡貝塚で、
貝や縄文土器とともに口縁を除いてほぼ完形の壺が出土したそうです。
この弥生町出土の壺は、口縁が欠けているほかは壺形を保っているようで、
はじめ、東京大学人類学教室関係者が、
発見場所の地名をとって「弥生式土器」と呼ぶようになったそうです。
1975年、佐原真が土器の名称に「式」を使うことの不合理を説き、
「弥生土器」の名称を使うことを提唱し、以後、一般化したのだとか。
■弥生式土器発掘ゆかりの地
東京大学の農学部と工学部の境に、
「弥生式土器発掘ゆかりの地」という石碑があるそうです。
ただ「弥生式土器」の発見地は、都市化が進むなかではっきりしなくなり、
推定地として3か所が指摘され、現在でもはっきりしないそうです。
1884年 東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂しょう蔵の3人が
根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見。
1974年 東京大学構内の旧浅野地区の発掘調査により、
二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出。
1976年 「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定。
■弥生土器の種別
弥生土器は、年代によりいくつかの種類に分けられるようです。
○近畿地方(寺沢):第I様式〜第VI様式
○北九州地方:板付I式⇒板付II式⇒城ノ越式⇒須久式⇒
高三賭式⇒下大隈式⇒西新式
○畿内(柳田):船橋式⇒第一様式〜第五様式
○畿内(赤塚):第I様式〜第VI様式⇒庄内式
○濃尾平野(赤塚):貝殻山式⇒西志賀式⇒朝日式⇒貝田待ち式⇒
高蔵式⇒山中式⇒廻間I式(欠山式)
○河内(米田):庄内式I〜庄内式V⇒布留I⇒布留II
○吉備(高橋):IX期〜XI期
○加賀(田嶋):月影⇒白江⇒古府クルビ⇒高畠
上記のように、いろいろとあるようです。
なお、「焼物の種類」についての詳細は、こちらから。