茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。

焼物の種類ってこんなの

ここでは、焼物について、歴史順に説明していこうかと思います。
※各表では、代表的なものだけを取り上げています。

最初の焼物は、やはり土器でしょうか。

土器の歴史
土器の誕生(野焼き・穴窯)

 
紀元前六千年(中国) 紅陶(こうとう)
紀元前五千年(中国) 灰陶・黒陶・白陶
縄文時代 縄文式土器
弥生時代(紀元前3世紀頃) 弥生土器
古墳時代(3世紀頃) 土師器(はじき)
5世紀中頃 須恵器(すえき)



■奈良三彩の登場
8世紀頃、中国から緑釉陶(りょくゆうとう)・唐三彩(とうさんさい)などの技術が、
日本に入って来るようです。

この中の唐三彩を真似て日本で焼かれたものが「奈良三彩」と言うみたいです。

奈良三彩の古窯一覧
古窯

 

 

 
瀬戸 六古窯(ろっこよう)の一つ
常滑 六古窯の一つ
越前 六古窯の一つ
丹波 六古窯の一つ
備前 六古窯の一つ
信楽 六古窯の一つ
伊賀 六古窯の一つ
(瀬戸に代わって数えることもあるとか。)
その他(渥美・珠洲など)



■美濃焼と茶陶
奈良時代の須恵器窯に端を発する「美濃焼(みのやき)」は、
室町時代末期〜江戸時代初期に、すぐれた茶陶を生み出す、
窯業地として発展するようです。

茶陶の中心が京焼に移るまで、茶陶の中心地となっていたそうです。
その後、美濃焼は日用雑貨が多くなり、
江戸時代後期以降は磁器中心となっていくみたいです。

現在は、食器の主要産地なのだとか。

美濃焼の一覧


志野焼
黄瀬戸
織部
黒織部



■朝鮮出兵の焼物への影響
豊臣秀吉の朝鮮侵攻後、武将たちは、
多くの朝鮮の陶工を日本に連れて帰るそうです。

これらの陶工たちは、各地の武将の領地で焼物に適した土を探し、
窯を開くにふさわしい場所を選び、焼物の生産を開始するのだとか。

当初は、朝鮮で焼かれていた焼物に似た作風だったものが、
次第に日本の影響、特に茶道具や織部焼などに影響されて行くみたいです。

朝鮮の陶工




唐津焼(からつやき)
上野焼(あがのやき)
高取焼(たかとりやき)
薩摩(白薩摩・黒薩摩)
萩焼



■高麗茶碗の到来
朝鮮半島の、高麗時代末期〜朝鮮王朝時代に焼かれた高麗茶碗は、
日本の茶人たちが、茶の湯の茶碗として見立てたものだったようです。

高麗茶碗の一覧

 

 

 
三島
刷毛目
粉引(こひき)
堅手(かたで)
井戸
熊谷(こもがい)
柿の蔕(かきのへた)
斗々屋(ととや)



■色絵の登場
中国の明時代初期(13世紀)、赤や緑の上絵付(うわえつけ)を施した
「五彩(ごさい)」と呼ばれる磁器が生産され始めるそうです。

日本では、17世紀前半に色絵が出現するみたいです。

また、京都では、千利休の指導により長次郎が茶碗作りをするそうです。
当初は「ヤキ茶碗」「黒茶碗」「宗易形ノ茶ワン」と言ったみたいで、
江戸時代のはじめに「聚楽茶碗」、その後「楽茶碗」という言い方になるのだとか。

17世紀頃の日本の陶工
17世紀頃の
日本の陶工
野々村仁清(にんせい)
酒井田柿右衛門(かきえもん)
楽長次郎(ちょうじろう)
本阿弥光悦(こうえつ)



■京焼の隆盛
17世紀から、京都の各地で焼物を作ることが盛んになるようです。
中には、天皇が関与した窯もあったらしいのですが、
遺品が少なく、よくわかっていないのが現状だそうです。

これら京焼は、模様ばかりでなく、器形にも工夫が凝らされ、
技術的にも完成度が高いものが作られたようです。

そして京焼は、全国各地の焼物に大きな影響を与えて行くのだとか。

京焼の一覧

 
御菩薩池(みぞろいけ)
粟田口(あわたぐち)
清閑寺(せいかんじ)
音羽山(おとわやま)
修学院(しゅうがくいん)
田中(たなか)



■富裕層の大皿・庶民の器
江戸時代中期以降、それまで焼物の産地として発展してきた九州・北陸などで、
直径30cm以上の大皿が生産されるようになるみたいです。

大皿類は、大名家や料亭、富裕町人の家などで使われたほか、
東南アジアやヨーロッパへ輸出されたそうです。
これらは、大皿の大きさに負けない、
あでやかで大柄な絵を描いたものが多かったとか。

一方、庶民の日用品にも、焼物を使う習慣が出てくるそうです。
需要の拡大につれ、かつての古窯だけでは生産しきれず、
新たに窯が築かれ、その数は、渋谷や相馬など数百にのぼったみたいです。

江戸時代の焼物一覧
江戸時代の
焼物
有田焼/伊万里焼
九谷焼(くたにやき)
御庭窯(おにわがま) 紀伊焼 瑞芝(ずいし)
偕楽園(かいらくえん)
清寧軒(せいねいけん)
水戸焼後楽園焼
(岡山の後楽園焼とは別)
御用窯(ごようがま) 鍋島様式(なべしまようしき)
御深井焼(おふけいやき)



■煎茶の流入
18世紀後半、文人と呼ばれる人々を中心に「煎茶」が盛んになるそうです。
当時の文人は、シノアズリー(中国趣味)に傾き、
茶の湯(和風)には批判的だったみたいです。

そのため、陶工の作品も茶の湯で使われた交趾や呉州とは異なり、
意匠や形も、茶の湯の道具とは一線を画す作品が多かったとか。

煎茶道の陶工
奥田頴川(えいせん)
青木木米(もくべい)



■幕末時代の伝統の京焼
幕末時代、京都の陶工は、京焼の伝統を踏まえつつも、
新しい境地を開拓し、華麗できらびやかな焼物や、
古来の名品と言われる焼物の写しを製作したそうです。

幕末の京焼の陶工
永楽保全(ほぜん)
仁阿弥道八(どうはち)



■大正時代の民芸陶器
柳宗悦が提唱した「用の美」を掲げた民芸運動は、
大正末期から昭和にかけて社会的にも反響を与えたそうです。

これは、日常的な暮らしの中で使われてきた、手仕事の日用品の中にある
それまでの美術史が正当に評価してこなかった、
無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介する運動みたいです。

そして、朝鮮半島の民用品をとりあげ、
その作為のなさや、用に徹した製作態度こそ美があると主張したのだとか。

結果、各地で日用雑器を生産していた窯の製品が「民芸陶器」として
大いにもてはやされるそうです。

その後、民芸運動の終焉と共に、民芸陶器は廃れてしまったそうです。

大正時代の陶工
浜田庄司
河井寛次郎



■昭和の陶工
伝統を引き継ぐ者、伝統と格闘し、新たな創造をする者、
民芸運動を否定する者、そして、門外漢だった者。

それぞれが、皆、新たな焼物の道を指し示し、
芸術の域にまで高めていったようです。

昭和の陶工
加藤唐九郎
三輪休和
北大路魯山人
川喜田半泥子
走泥社(そうでいしゃ)鈴木治
三輪龍作
八木一夫
クレイワーク ピーター・ヴィーコス
タカエズ・シズコ


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