茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

茶筅筒ってこんなの

茶筅筒(ちゃせんづつ)は、ミニ茶筅とミニ茶杓を入れておく道具で、
竹筒の場合は、少しずつ回しながら開けるそうです。
材質は、竹製・プラスチック製の他、銀燻しなどもあるようです。

もし、筒が回らずひっかかる場合は、
回さず真っ直ぐに引っ張るようにした方が開きやすい場合もあるとか。
茶筅筒の竹は自然のものなので、開けにくいものもあるようです。

茶筅筒には紐を通すことができる輪が付いているので、
野点籠や巾着にぶら下げて使用できるみたいです。

茶筅筒の大きさは、
通常サイズだと、上直径4.3cm×下直径3.1cm×高さ10.4cm程度
小さめだと、上直径4.0cm×下直径2.9cm×高さ8.9cm程度
のようです。

商品としては、茶箱、茶籠セットの他、
三点セット「棗・香合・茶筅筒」や、
二点セット「茶巾筒・茶筅筒」などもあるみたいです。

なお、
「茶筅」について
と、
「茶筅くせ直し」について
は、別ページで説明しています。

作品名:塗三点セット(雲錦流)
備考:紙箱入/樹脂製

塗三点セット(雲錦流)
※画像を押すと拡大できます。
茶筅筒+香合の組み合わせは「月点前」用になるみたいです。

月点前は秋に寄せられて、
裏千家十一代玄々斎が創案したそうです。
月点前は、器据と、鶯針に茶筅を立てて使うのが特徴だとか。

鶯針に関しては、「鶯針のページ」で説明しているのですが、
鶯針の名前の由来は、あまり記載していません。
そこで、この名前に関するいろいろな説を、
紹介しようかと思います。


■まずは「鶯」の名の由来から
鶯の名は、春になると谷の奥(ウク)から出る(ヒス)鳥ということで、
「奥出づ」→「ウクヒス」→「うぐいす」となったとする説。
茂みに巣を作る鳥であることから、「生(フ)む」と「巣」の合成語で、
「フム+ス」→「うぐいす」となったとする説。
鳴き声が「ウグヒ」で、鳥の語尾「ス」(カラス・カケス・ホトトギスなど)を
つけて「ウグヒ+ス」→「うぐいす」となったとする説。

また、漢字の「鶯」は、上部が「エイ(栄)」で、
ぐるりと取り巻く様を表わし、輪上の羽模様が首の周りを取り巻く鳥、
という意味になるのだとか。


■鶯に見立てた
香道の鶯針は、銀の真っ直ぐな針を畳に斜めに刺して、
その先端に使用済みの本香包の紙を刺すようで、
見た目にも枝に留まる鶯のように見え、
『続後拾遺集』に
「あかなくに 折れるばかりぞ 梅の花 香をたづねてぞ 鶯の鳴く」
とあるのに因んで香をとめる針を鶯と名付けたのだとか。

この名付け親は、伊勢貞丈著『安斎随筆』によると、
徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮である東福門院なのだそうです。


■製本の鶯綴じ
冊子を製本する時、まず一枚の紙を二つに折って穴をあけ、
それをほかの紙の上に重ね、その穴に合わせて錐(きり)で全部に穴をあけて、
綴じる綴じ方を「鶯綴じ」というそうです。

紙が貴重品だった昔、「紙」と「神」が同じ読みということもあって、
宇佐の「ウ」、熊野の「ク」、伊勢の「イ」、住吉の「ス」の頭文字をとって、
「うぐいす」となったみたいです。


■杭
ウグヒスの上下(ウとス)を抜くとクヒ(杭)になり、
針を杭に、杭を梅の枝に、香道で使用済み本香包を鶯に、
それぞれ見立てたところから
「上+杭+下」→「ウ+クヒ+ス」→「うぐいす」
となったのだそうです。


■U字型の鶯針
茶道では、U字型の鶯針。
玄々斎が月点前に用いる器据に茶筅を置くために、
香道で真直ぐな鶯針を、U字形に曲げたそうです。


作品名:塗三点セット(独楽木製)
備考:紙箱入

塗三点セット(独楽木製)
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、日本の独楽の歴史を少し説明しようかと思います。

源順編纂『和名類聚抄』に、
「古末都玖利(こまつぐり)」
という単語があるようで、
これが、独楽のもっとも古い記述なのだそうです。

「古末」は「高麗(こま)」とも書かれたみたいで、
独楽は、高麗(朝鮮)から、日本へ入ったのでは、
という説があるみたいです。

また「都玖利」というのは、独楽の本来の呼び名だそうで、
円を意味しているのだとか。
「ツグムリ」や「ツグリ」ともいわれるそうです。

これらがいつのまにか略されて「古末」となったみたいです。

古代の独楽は、宮廷の儀式として用いられたそうで、
儀式の際に独楽を回して吉凶を占う「独楽びょう師」が独楽を保管し、
神仏会や相撲節義の余興として、
紫の紐をつかって厳かに回したようです。

古代の神儀性が薄れた独楽は、
次第に貴族階級の大人の遊びとなっていくそうです。

江戸時代に入り、庶民の子どもたちが、独楽で遊ぶようになるみたいです。
当時の独楽は、無性独楽(後のベーゴマ)という、
貝を鞭や紐で叩いて回すものだったようです。

寛文年間(1661年〜1672年)には、
八方独楽という、丸木を八角に削った独楽が登場するそうです。
遊び方は、回転がとまったときに出た独楽の表面の文字で、
双六の進退を決めるというものだったようです。

その後、六角面となるそうですが、表面に「南無分身緒仏」と焼印したそうで、
遊び道具としては不似合いなものだったみたいです。

元禄時代(1688年〜1704年)、六角の表面に六歌仙などの絵入りのものや、
お花独楽と言って「お花」という人物を中心に、
5人の男女名を書いた独楽が出たようです。
また、八角面の独楽で「春夏秋冬花鳥風月」の文字や、
絵入りのものもあったそうです。

そのうち、回転そのものを楽しむ独楽「唐独楽」が登場するようです。
木製の円筒の上下を塞ぎ、胴に竪穴を開けて、
中心に串状の心棒を入れたものだったみたいです。
回転させるとゴンゴンと鳴るので「ゴンゴン独楽」とも言ったとか。

17世紀後半、心棒が鉄製で丈が高く、
回転寿命が長い「博多独楽」が登場するようです。
これは、それまでの独楽と違い
「振りのない」良く澄んで廻る独楽だったみたいです。

遊び中から腕を競うようになり、独楽の腕を磨くうちに曲芸が発生、
その中から曲独楽師が生まれ、芝居興行に発展、
各地を興行して廻る様になって行くのだそうです。

博多の中石堂町から出た市太郎という独楽師が御所に召され、
天皇の御前で曲技を披露、博多独楽の看板に皇室の紋章
「菊桐の御紋」を着用する事を許されたみたいです。

博多独楽には、家元がいるそうで、初代筑紫珠楽により復興、
昭和33年に福岡県無形文化財に指定されたのだとか。

さて、話を戻して、天保年間(1830年〜1844年)に入ると、
木製の胴に厚い鉄輪をはめ、鉄の心棒を入れた「鉄胴独楽」が流行するそうです。
これは、双六用の鉄胴独楽を交互に打ち当てて遊ぶ、
ケンカ独楽というゲームだったとか。

明治時代中頃に作られたのは、ブリキ製の独楽だったようです。
木や竹で作られた唐独楽が、ブリキ製になったみたいです。
胴の穴が1個と2個の2種類あったようで、
1つ穴の独楽はピーと鳴り、2つ穴の独楽はポーと鳴るものだったそうです。



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