作品名:塗三点セット(雲錦流)
備考:紙箱入/樹脂製 |
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茶筅筒+香合の組み合わせは「月点前」用になるみたいです。
月点前は秋に寄せられて、 裏千家十一代玄々斎が創案したそうです。 月点前は、器据と、鶯針に茶筅を立てて使うのが特徴だとか。 鶯針に関しては、「鶯針のページ」で説明しているのですが、 鶯針の名前の由来は、あまり記載していません。 そこで、この名前に関するいろいろな説を、 紹介しようかと思います。 ■まずは「鶯」の名の由来から 鶯の名は、春になると谷の奥(ウク)から出る(ヒス)鳥ということで、 「奥出づ」→「ウクヒス」→「うぐいす」となったとする説。 茂みに巣を作る鳥であることから、「生(フ)む」と「巣」の合成語で、 「フム+ス」→「うぐいす」となったとする説。 鳴き声が「ウグヒ」で、鳥の語尾「ス」(カラス・カケス・ホトトギスなど)を つけて「ウグヒ+ス」→「うぐいす」となったとする説。 また、漢字の「鶯」は、上部が「エイ(栄)」で、 ぐるりと取り巻く様を表わし、輪上の羽模様が首の周りを取り巻く鳥、 という意味になるのだとか。 ■鶯に見立てた 香道の鶯針は、銀の真っ直ぐな針を畳に斜めに刺して、 その先端に使用済みの本香包の紙を刺すようで、 見た目にも枝に留まる鶯のように見え、 『続後拾遺集』に 「あかなくに 折れるばかりぞ 梅の花 香をたづねてぞ 鶯の鳴く」 とあるのに因んで香をとめる針を鶯と名付けたのだとか。 この名付け親は、伊勢貞丈著『安斎随筆』によると、 徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮である東福門院なのだそうです。 ■製本の鶯綴じ 冊子を製本する時、まず一枚の紙を二つに折って穴をあけ、 それをほかの紙の上に重ね、その穴に合わせて錐(きり)で全部に穴をあけて、 綴じる綴じ方を「鶯綴じ」というそうです。 紙が貴重品だった昔、「紙」と「神」が同じ読みということもあって、 宇佐の「ウ」、熊野の「ク」、伊勢の「イ」、住吉の「ス」の頭文字をとって、 「うぐいす」となったみたいです。 ■杭 ウグヒスの上下(ウとス)を抜くとクヒ(杭)になり、 針を杭に、杭を梅の枝に、香道で使用済み本香包を鶯に、 それぞれ見立てたところから 「上+杭+下」→「ウ+クヒ+ス」→「うぐいす」 となったのだそうです。 ■U字型の鶯針 茶道では、U字型の鶯針。 玄々斎が月点前に用いる器据に茶筅を置くために、 香道で真直ぐな鶯針を、U字形に曲げたそうです。 |
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作品名:塗三点セット(独楽木製)
備考:紙箱入 |
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ここでは、日本の独楽の歴史を少し説明しようかと思います。
源順編纂『和名類聚抄』に、 「古末都玖利(こまつぐり)」 という単語があるようで、 これが、独楽のもっとも古い記述なのだそうです。 「古末」は「高麗(こま)」とも書かれたみたいで、 独楽は、高麗(朝鮮)から、日本へ入ったのでは、 という説があるみたいです。 また「都玖利」というのは、独楽の本来の呼び名だそうで、 円を意味しているのだとか。 「ツグムリ」や「ツグリ」ともいわれるそうです。 これらがいつのまにか略されて「古末」となったみたいです。 古代の独楽は、宮廷の儀式として用いられたそうで、 儀式の際に独楽を回して吉凶を占う「独楽びょう師」が独楽を保管し、 神仏会や相撲節義の余興として、 紫の紐をつかって厳かに回したようです。 古代の神儀性が薄れた独楽は、 次第に貴族階級の大人の遊びとなっていくそうです。 江戸時代に入り、庶民の子どもたちが、独楽で遊ぶようになるみたいです。 当時の独楽は、無性独楽(後のベーゴマ)という、 貝を鞭や紐で叩いて回すものだったようです。 寛文年間(1661年〜1672年)には、 八方独楽という、丸木を八角に削った独楽が登場するそうです。 遊び方は、回転がとまったときに出た独楽の表面の文字で、 双六の進退を決めるというものだったようです。 その後、六角面となるそうですが、表面に「南無分身緒仏」と焼印したそうで、 遊び道具としては不似合いなものだったみたいです。 元禄時代(1688年〜1704年)、六角の表面に六歌仙などの絵入りのものや、 お花独楽と言って「お花」という人物を中心に、 5人の男女名を書いた独楽が出たようです。 また、八角面の独楽で「春夏秋冬花鳥風月」の文字や、 絵入りのものもあったそうです。 そのうち、回転そのものを楽しむ独楽「唐独楽」が登場するようです。 木製の円筒の上下を塞ぎ、胴に竪穴を開けて、 中心に串状の心棒を入れたものだったみたいです。 回転させるとゴンゴンと鳴るので「ゴンゴン独楽」とも言ったとか。 17世紀後半、心棒が鉄製で丈が高く、 回転寿命が長い「博多独楽」が登場するようです。 これは、それまでの独楽と違い 「振りのない」良く澄んで廻る独楽だったみたいです。 遊び中から腕を競うようになり、独楽の腕を磨くうちに曲芸が発生、 その中から曲独楽師が生まれ、芝居興行に発展、 各地を興行して廻る様になって行くのだそうです。 博多の中石堂町から出た市太郎という独楽師が御所に召され、 天皇の御前で曲技を披露、博多独楽の看板に皇室の紋章 「菊桐の御紋」を着用する事を許されたみたいです。 博多独楽には、家元がいるそうで、初代筑紫珠楽により復興、 昭和33年に福岡県無形文化財に指定されたのだとか。 さて、話を戻して、天保年間(1830年〜1844年)に入ると、 木製の胴に厚い鉄輪をはめ、鉄の心棒を入れた「鉄胴独楽」が流行するそうです。 これは、双六用の鉄胴独楽を交互に打ち当てて遊ぶ、 ケンカ独楽というゲームだったとか。 明治時代中頃に作られたのは、ブリキ製の独楽だったようです。 木や竹で作られた唐独楽が、ブリキ製になったみたいです。 胴の穴が1個と2個の2種類あったようで、 1つ穴の独楽はピーと鳴り、2つ穴の独楽はポーと鳴るものだったそうです。 |
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