茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。

釜形ってこんなの

釜形の名称のつけ方は、「形状によるもの」「文様によるもの」「所有・所在・伝来によるもの」
などいろいろあるそうです。

口作りに関しては、古いものの方が口が大きいそうです。

胴の形は、通常その断面が円形で、特に古い時代のもはすべて円形だそうです。
室町時代後期から「八角形」「六角形」など変形したものが出てくるようで、
桃山時代には、「四角形の四方釜」が流行し、利休好となっているみたいです。

釜の羽(は)は、釜をかまどや座敷の風炉にかけるとき、
その縁にかけるために釜の胴部の外縁を一廻りする輪のことだそうです。

茶の湯の最初のころは、すべて羽釜だったみたいです。
その後、茶室の変化によって炉にかける釜が多くなり、
羽が不要になってきたので、羽のない釜として
「羽を落としたり」「はじめから羽落ちの形」を造るようになったのだとか。

釜は鋳鉄であるために、火にかけたとき、底をいためることが多いようで、
古い遺品には生ぶ底のものが、ほとんどないのだそうです。

傷んだ底を造り変えるとき、使用する茶人の好みによって変更することもあるみたいです。
例えば「利休底:丸くとがり気味。」「織部底:底の面のとりかたが高い。」
「道安底:底の面の角に丸みがある。」「遠州底:底の面のとりかたが低い。」
といったところでしょうか。

鐶付は釜の重要なポイントで、装飾の少ない茶の湯釜の部分では装飾的なところなんだそうです。
その形式、または胴に付けられた位置により、
時代や産地などを推定するのに大切な要素になっているとのこと。

釜の蓋の大部分は唐銅で、鋳鉄の共蓋は少ないそうです。
紹鴎時代の釜は鉄共蓋で、
利休は唐銅を好んだという説もあるみたいです。

釜の肌の美しさや装飾文様は、
釜の優劣を決定づけると言っても良いくらい重要なファクターだそうです。

肌の風合いだと「岩肌」「荒肌」「砂肌」「絹肌」「霰肌」などいろいろあるようですが、
固定した名称ではなく、それぞれの肌の程度によっても言い方が違ってくるのだとか。

装飾文様は、釜の胴廻りにつける鋳出しの文様で、ヘラで外枠の内側に文様を彫ったり、
型押しなどで文様を付けるのだそうです。


さて、釜形は非常に数が多いので、ここでは「形状によるもの」の一部を説明しようと思います。

■形状によるもの
釜の名称説明備考
真形釜(しんなりがま) 茶湯釜の最も基本的な形だそうで、口は繰口(やや内側に繰り込んだ形)、
肩はなだらかで、胴の中央に鐶付が付き、
胴の上部と下部のつなぎ目に庇(ひさし)のように出ている
「羽(は)」をめぐらした釜のようです。

厨房以外で茶を煮だすため風炉に掛ける釜として、
筑前芦屋で鎌倉時代初期に創案されたみたいです。
一般炊飯用の湯釜として用いられていた平釜を、
風炉に掛けるためにこのようにしたそうです。

最初は、肩に一本の玉縁(たまぶち)を巡らしていて、
鎌倉時代末には、二本の線に珠文を並べたものが、
東山時代には、玉縁を二本並べたものが、
室町時代末期には、二本の線の間に散点珠文を配ったものが
それぞれできるようです。

真形釜は、芦屋系のものは切合風炉に掛けたものだそうですが、
侘茶の発展により大きな真形釜は風炉に用いられず
炉釜として用いられるようになり、
さらに利休の時代に炉の寸法が小さくなると、
炉に合わせて羽を落として羽落釜として使うようになるのだとか。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「真形 シコロ羽、肩のつかぬを鶴首真形といふ、蘆屋天猫に多し、
其後はこの写しなり、古作ゆへ好しれす、底にかへしと云てほそき輪あり」
とあるそうです。
切合釜(きりあわせがま)
箆被釜(のかづきがま)
風炉の縁にじかに掛ける形の釜で、箆被釜が典型的な形のようです。
箆被釜は、釜の胴の下部と底部との境目(毛切のあたり)が飛び出し、
下が引っ込んだ形みたいです。

風炉に釜を掛けたとき、風炉の縁と釜の縁がぴたりと合う形になるそうです。
釜と風炉の口をきちんと合わせるところから「切合」の名があるみたいです。

また、箆被は弓矢で鏃(やじり)が矢の竹に接するところを言うそうで、
釜の胴から底にかけての形が箆被に似ているからの名前みたいです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「切合 台子風炉が始にて其余色々あり」
とあるとのこと。

湖月老翁著『茶家酔古襍』に
「定林 上手、享保十二年死す、宗?好箆被風呂釜、四方釜、カラケ、雲龍」
とあるみたいです。
尻張釜(しりはりがま)
障泥釜(あおりがま)
尻張釜は、障泥釜とも言い、胴の下部が広がりぎみに張った形の釜で、
胴の下部(尻)が張っているところからの名前みたいです。

また、障泥は、馬の両脇を覆う泥よけの馬具のことで、
横から見た形が似ているところからこの名前があるようです。

尻張釜には、以下のようなものがあるみたいです。
釜の名称備考
大尻張
中尻張
小尻張
利休好み
天竜寺切合尻張 「天竜寺」の文字を鋳出した与四郎の作品
福庵釜 利休筆「福庵」「常住」の文字を
表裏に鋳出した与次郎の作品
吉野山尻張 「吉野山蔵王堂」の文字を鋳出した与次郎の作品
龍寶山尻張 利休筆「龍宝山 茶堂」「大徳寺 常住」の文字を
表裏に鋳出した与次郎の作品
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「張尻 右同断(利休形)、与二郎作、一名泥障金と云ふ」
とあるそうです。

西村道冶著『釜師由緒』に
「京作は利休時代、京師天下一辻与次郎と号、藤左衛門、弥四郎、
利休釜形付始て鋳、道仁が弟、阿弥陀堂、雲龍、四方釜は与次郎作、
尻張釜は弥四郎、丸釜は藤左衛門、其後三人して種々形釜を鋳る」
とあるみたいです。

江岑宗左著『江岑夏書』に
「一、しりはり釜ハはいふきや紹三と申
京二茶之湯致 後藤徳斎兄之由 此紹三へ易い候て被遺候釜也
余しりばり釜御座候 此釜よりハちいさく
紹三織部流いたし候時少御申候ハ
紹三しりばり多分今程入申間敷候間 取かへと御申候故
紹三より取候由旦御申候 かわり銀まいり候由」
とあるようです。
姥口釜(うばくちがま) 口造が口の周囲が高く盛り上がって、
そこから内に少し落ち込んだ姥口をした形の釜のようです。

姥口(祖母口)は、歯の無い老婆の口のことで、口の周囲が高く盛り上がった姿が、
歯のない老婆が口を結んだ姿に似ているところから、この名前があるみたいです。

「姥口丸釜」「姥口霰釜」「姥口乙御前釜」などは利休好みだそうです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「百会 利休百会に用ゆ、天猫作、ウバ口、鬼面鐶付、唐金薄モリ蓋、当時柳沢侯御所持」
「広 古作に多し、道安好、与二郎作にて、輪口とウバクチとあり」
「ウバ口 口作り老女のくちに似たるゆへ云ふ」
「乙御前 信長公御所持、当時加賀公御所持、信長公より其臣柴田へ下さる、
其時の狂歌に、朝夕になれしなしみの姥口を、人に吸せんことおしぞ思ふ。
このカマの写しは加賀侯御所持故寒雉をよしとす、天猫に輪口あれとも姥口をよしとす」
とあるようです。
乙御前釜(おとごぜがま) 丈が低く、口造りは姥口で、全体にふっくらとした形の釜のようです。

乙御前とはお多福のことで、お多福の面のようにふくよかなためこの名があるとか。

乙御前釜の名物には、天明作があるとのこと。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「透木 庸軒このみのアラレの外イロリ透木カマ古作はこのみなし、
原叟このみに乙御前あり」
「乙御前 信長公御所持、当時加賀公御所持、信長公より其臣柴田へ下さる、
其時の狂歌に、朝夕になれしなしみの姥口を、人に吸せんことおしぞ思ふ。
このカマの写しは加賀侯御所持故寒雉をよしとす、
天猫に輪口あれとも姥口をよしとす」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に
天明「極上作 一乙御前 明智ヨリ宗易二送 
内藤作兵衛 小笠原遠江守」
「上々作 一姥口乙御前 同 鬼面 藤村庸軒 大文字屋三右衛門」
とあるみたいです。
布団釜(ふとんがま)
平丸釜
平釜よりも丈が高く、胴がふくらんだ形で、平丸釜とも言うそうです。

名の由来は、利休が城の天守二重の櫓での茶事を終えて下に降ろすとき、
蒲団に包んで大事に扱ったことに由来する説もあるとか。

利休所持は与次郎作で、輪口・鬼面鐶付・唐銅蓋が添ったもののようです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「布団 利休所持、与二郎作、
輪口、鬼面、唐金蓋、伊予西條侯御所持、平丸とも云ふ」
とあるみたいです。
広口釜(ひろくちがま) 釜の胴がほぼ垂直に立ち上がってすぐ口縁となり、口造が大きく広い形の釜で、
一般に1月〜2月の厳寒の時季、
立ち上る湯気で暖かさを感じさせるように用いるそうです。

広口釜は、繰口で鬼面鐶付の道安好・不白好・一燈好などがあるとか。

また、「野溝釜」「大講堂釜」「雷声釜」などは、
形態上からは広口釜になるようです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「広 古作に多し、道安好、与二郎作にて輪口とウバクチとあり」
「野溝 天メウ作、広口、枯木に猿猴の模様、
鐶付玉章、唐金蓋、野溝某所所持故名く」
「大講堂 作しれす、叡山大講堂の香炉をカマに用たるものなり、
大講堂の文字右より書たるもあり、左より横に書たるもあり、
本歌御物なりしが明暦の火に焼失したるゆへ分明ならす、
広口、トモ蓋、常張」
とあるみたいです。
繰口釜(くりくちがま) 釜の口造りが、口の立ち上がりが一度くびれたあと、
上方に向かって外側に曲線を描いて開いた形だそうです。

立口の立ち上がりが内側に繰れているところから
繰口釜の名があるようです。

使い易さと形の美しさから必然的になった形といわれるそうで、
「芦屋真形釜」は普通この繰口なんだとか。
『大西家釜形正図』に
「利休居士好 操口大丸釜 唐金山高蓋 本家、
千宗左様傳来所持、与二郎作」
「与二郎作 操口萬代屋釜  唐金薄森ヤキ蓋 千宗左様に有、
此釜大阪山中了壽老卆啄斎宗旦へ被進候釜也 箱に与二郎萬代屋釜 旦(花押)」
とあるそうです。

ちなみに、大西家は千家十職の釜師の系譜で、
「大西清右衛門美術館」が京都市中京区三条通新町にあるようです。
皆口釜(みなくちがま) 口廻りが胴廻りと同じ寸法の寸胴で円筒形のもので、
胴部の切り立ちがそのまま口になっている形の釜だそうです。

口と胴が同じ径なので、釜の上部がみんな口、
というところからの名のようです。

見た目、深底鍋のように感じるのは私だけでしょうか。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「皆口 天メウよりあり、好なし」
とあるそうです。
十王口釜
(じゅうおうぐちがま)
閻魔口(えんまぐち)
口造が輪口の立ち上がりが直線的に上に向かって、
少し開いた形の釜だそうです。

十王口釜は「閻魔口」とも言うそうで、閻魔大王など、
冥土で亡者を裁く十人の王がつけている冠に似ているところからの名みたいです。
『茶道筌蹄』に
「十王口 輪口の上の少し開くを云ふ、十王の冠の形に似たるゆへ名く」
とあるそうです。
田口釜(たぐちがま) 口造りで、口の付根が肩より低く付いて深くえぐられたようになっていて、
口の廻りに溝ができている形の釜だそうです。

田口釜は、水を入れると田の面のように見えるところからの名、
という説があるみたいです。

古くは天命釜にあるそうで、琉球風炉に合せて、
名越浄味作の表千家六世覚々斎原叟好みのものもあるとか。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「田口 原叟好、琉球風炉へ好む、浄味作、大津両彦所持」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に
芦屋「二代目上作 一田口釜 大文字屋宗碩」
とあるようです。
四方口釜
(よほうぐちがま)
四方口釜は、口造りが、こしき口を四角形にした形の釜だそうで、
宗旦好みの天命作で、釜の底を尾垂(おだれ)に直したものみたいです。

裏千家八世又玄斎一燈好みで、透木釜の口造りを四角形にし、
又隠の二文字を鋳出した「又隠口四方透木釜」があるようです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「四方口 元伯このみ、元来天猫作、ソコオダレになほす、
鬼面、トモ蓋、元伯より探幽へ伝ふ、
浄味写しにはナタメ鐶付あり、千家は鬼面を用ゆ」
とあるとか。
矢筈釜(やはずがま) 口造りが肩から口縁にかけて斜めに落ち込んだ形の釜だそうです。

矢筈は、矢の頭で弦にかけるためにくぼんだところを言うようで、
断面が矢筈のような形からその名があるみたいです。

初代宮崎寒雉作で、姥口、鐶付つまみ、唐銅梔子(くちなし)つまみの蓋が添い、
全体に「す」の多い侘び釜(裏千家四世仙叟好)があり、
胴に花押を鋳出しているのだとか。
-
一文字釜(いちもんじがま) 肩と口を平らにして、上部が水平な平面をもつ形の釜だそうです。

上部が横から見て一の字のように見えるところから、
この名があるのだとか。
-
肩衝釜(かたつきがま) 肩の上部が平らで、肩のかどが部分が角ばった形の釜だそうです。

肩の部分が角ばっている、すなわち肩が衝(つ)いていることから、
この名があるのだとか。

肩衝釜は、全体の形としては一定のものはないそうです。
-
撫肩釜(なでがたがま) 肩の部分が撫でおろしたように、なだらかに下がっている形の釜だそうです。

撫肩釜は、芦屋作や天明作にあるみたいです。
-
面取釜(めんとりがま) 肩や胴の側面を曲面にしないで、角を削り取った形の釜だそうで、
特に大きく面を取ったものを「大面取」と言うようです。

面取釜は、芦屋作や天明作にあるみたいです。

柳営御物に大面取釜があるそうで、
松平不昧好みに三代下間庄兵衛作のものがあるとのこと。
-
笠釜(かさがま) 胴が頭に被る笠のような低い円錐台の形をした釜だそうで、
編み笠を写して網目や組目を鋳出したものもあるとか。

笠釜は、芦屋作や天明作にあるみたいです。
山上宗二著『山上宗二記』に
「此外紹鴎筋釜并に笠釜、是は数寄々々たるへし」
とあるそうです。

藤村正員著『藤村庸軒茶談』に
「笠釜 編笠のなりにて、則網目を鋳付、端の留に、組目を鋳付たる也」
とあるようです。
達磨釜 胴と底の境目が算盤珠(そろばんだま)のように強く張った形の釜だそうです。

達磨は、数珠の珠のことで、数珠を構成する珠の中で、
一番大きい珠を達磨と言うようです。

あえてふりがなを記載しなかったのですが、
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「ダツマ 佐兵衛そつ啄斎所持の蘆屋作、鯉の地紋のカマによりて好む」
とあるそうで、読み方は「だつまがま」となるようなのですが、
「だるまがま」と読みますよね、普通。
『釜之図』に
「そつ啄斎好所持、佐兵衛、芦屋鯉地紋釜より好」
とあり、「こしき口達磨釜」も載っているそうです。
荷葉釜(かようがま) 口から胴にかけての部分を蓮の葉の形にした釜だそうで、
荷葉釜は、丸釜に蓮の葉をかぶせたような形をし、
蓮葉の先が羽になっているのだとか。、

共蓋で摘みのところから葉脈を鋳出したものや、
口造が立口で肩に葉脈を鋳出したものなどがあるみたいです。

名物釜には芦屋古作の「板屋貝鐶付」があるようで、
遠山鐶付のものや、大西浄林には虫、古浄味作には蟹鐶付のものがあるとのこと。
『名物釜所持名寄』に
芦屋「二代目 一荷葉釜 鐶付いたら貝 辛螺の地紋 藤村庸軒 田中全斎」
とあるそうです。
兜釜(がぶとがま) 兜の形をした釜だそうで、
兜の眉庇正面に打つ前立物である鍬形の鐶付を付けたものもあるとのこと。
-
日の丸釜(ひのまるがま) 口造りが小さく、真ん丸な形の釜だそうで、
日の丸のように真ん丸であるというところからこの名があるみたいです。

与二郎作の利休好み唐金中盛蓋で三井家所蔵のものが名高いようです。
他に、「西村道也作の無地紋」「下間庄兵衛作の松鶴紋」のものなどがあるとのこと。
ちなみに、松鶴紋は、松笠鐶付で土佐光芳の下絵によるものだそうです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「日の丸 与二郎作、三井元之助所持」
とあるみたいです。

『大西家釜形正図巻』に
「利休形 大日ノ丸釜 唐金中森ふた」
「同(利休居士好) 日ノ丸釜 唐金中森ふた 本家与二郎作 北三井八郎右衛門所持銘物也
後二卆啄斎文字入ニテ写七ッ出来也浄玄作也
釜前二ひの丸写(花押)右七ッ限ニテ外ニハ出来不申候」
とあるそうです。
丸釜(まるがま) 体にふっくらと丸い形の釜ですが、日の丸釜ほどは丸くないものだそうです。

与次郎作の利休好は輪口で唐銅蓋・鬼面鐶付のようです。
「国師釜」「望月釜」「残月釜」などの名物釜も、この丸釜みたいです。

久須見疎安著『茶話指月集』に、以下のような話があるそうです。

利休が、ある年の口切の茶事に古い丸釜を出したところ、
利休七哲と言われる人たちが、あちらこちらを尋ねまわり、
そのうち一人が、似た釜を探し出して茶会を催しました。

その茶会に招かれた利休は、
「あなた方の茶の趣向は、まだ十分ではありませんね。
私が丸釜を出したならば、逆に四方釜をお出しなさい。
この釜、私の丸釜によく似ていますが、しかし、
すでに人真似になってしまって、面白くありません。」
と言いました。

もとより名物といわれるほどのものには、どこか優れたところがあるために、
それを用いた場合には、趣向が前の人のそれに似ていても、
模倣に陥ることはありません。

また一方、世間に聞こえた高い評判のものに限らず、
軽いものにも優れたものはあります。

私(千宗旦)の家で、利休作の武野蓋置を所持していましたが、
加賀の太守のである前田利常公の所望によって差し上げたところ、
珍しいものであると秘蔵され、黄金を何枚も頂戴しました。
これも利休の茶の功績です。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「丸カマ 利休形、与二郎作、輪口、唐金蓋、鬼面鐶付」
とあるそうです。
角釜(かくがま) 炉一杯にかかる大振りな四方形の釜で、
表千家六世原叟(覚々斎)好みだそうです。

肩に玉縁があり、刷毛目、繰口、共蓋、常張鐶、尾垂、
前面に覚々斎直筆の文字があるのだとか。
『茶道筌蹄』に
「角カマ 原叟このみ、至て大ぶりカタに玉ブチあり、
刷毛メ、クリ口、トモ蓋、常張鐶、オダレ、
前に覚々斎の文字あり、江戸大西五兵衛作」
とあるそうです。
三角釜(さんかくがま) 胴部が三角形の釜で、
初代宮崎寒雉作の「焼飯釜」は、裏千家四世仙叟好みだそうです。

焼飯釜(握飯釜)は、三角形の胴が直立し、
肩と上底から中底にかけて曲線を描いた形状が、
三角むすびのようなところからこの名があるとのこと。

焼飯釜は、一角の肩に「松茸の鐶付」が付き、
もう一方の鐶付は琴柱をかたどった「折松葉の鐶付」が付き、
蓋は鉄の共蓋で、松茸摘みに掻立鐶となっているようです。

焼飯釜箱蓋裏の享和三年(1803年)弧庵馬仏の箱書付には、
以下のようなお話があるそうです。

ある秋の日(仲秋の頃)、仙叟は、釜師の寒雉(かんち)と
朝からきのこ狩りに出かけたようです。
お昼になってもきのこは一本も採れないので、
おにぎりで昼食とったそうです。

その時、あやまって仙叟おにぎりを落としてしまいます。
おにぎりはコロコロ坂をころがり、草むらに消えたそうです。
寒雉は急いで草むらに入り、おにぎりをさがしはじめます。
すると、きのこを一本を、はからずも見つけることができたそうです。

そのとき二人がひらめいたの釜が、仙叟好みの「焼飯釜」とのことです。

4・5日して、釜を作った寒雉は仙叟へ贈ると、 仙叟はとてもよろこんで
「春秋これを愛せは飢る事なし」と賞翫(珍重)したそうです。
焼飯釜箱蓋裏の箱書付に
「貞享二とせ仲秋の頃にや有けむ、 仙叟、寒雉両士秋色のおかしきにめて、
卯辰山茶臼山に茸狩し、とある松陰に舎り腰なる焼飯を解かんとす。
仙叟誤テ取落ス。秋の草葉のへはり付、ころころと焼飯は谷へ落たりけり
乃至、四五日して寒雉新釜を鋳て仙叟へ送之
乃至、歓の眉を開き、春秋これを愛せは飢る事なしと賞翫す」
とあるようです。

『釜之図』に
「焼飯 仙叟好 寒雉 三角形 鐶付茸と挟み 枯葉地紋」
とあるそうです。
四方釜(よほうがま) 胴部が四方形をした形の釜だそうで、利休が晩年に頻繁に用いたとのこと。
大きいものは少庵好み、小さいものは宗旦好みとされ、
原叟好みは角釜になるみたいです。

利休が古い芦屋釜の蓋に合わせて好んだ古浄味作と伝えられるものは、
利休少庵宗旦 → 山田宗偏へと移ったそうです。

鬼面鐶付に真鍮の常鐶が付き、鉄の蓋は掻立鐶で、
宗旦の四方庵宛の茶杓、翠厳宗aの四方庵の額、釣釜用の鉉、
宗偏作で利休好の自在などが添い、
内箱に宗旦の書付、箱底に宗偏の極書があるのだとか。

形状としては、「弁釜」「角釜」「算木釜」
「観音寺四方釜」「井桁釜」なども四方釜になるそうです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「四方 クリ口、鬼面、真チウ平鐶、箆カツギ少し切カケ、
大は少庵このみ、小は元伯このみ、
トモ蓋、シヒツマミ、当時写し、大は石目蓋なり、
古作はトモ蓋と唐金、石目、花の実、
鋳ぬきツマミもあり又唐金蓋もあり」
とあるみたいです。

近松茂矩著『茶湯古事談』に
「四方釜も利休このみにて始て鋳させし、
去人所持の利休か自筆の文 四方釜うけとり申候、
与次同道にてはや御出可有候、
心み一服可申候、かしく 易 下 道印」
とあるようです。

西村道冶著『釜師之由緒』に
「京作は利休時代、
京師天下一辻与次郎と号、藤左衛門、弥四郎、
利休釜形付始て鋳、道仁が弟、阿弥陀堂、雲龍、
四方釜は与次郎作、
尻張釜は弥四郎、
丸釜は藤左衛門、
其後三人して種々形釜を鋳る」
とあるそうです。
升釜(ますがま) 肩が水平で胴部が方形の、升のような形の釜で、升四方釜とも言うそうです。
利休好みのものは、大小があり、
羽落ちのところが箆被(のかづき)にならないで丸底になっているとのこと。
『茶道筌蹄』に
「升釜 利休形、四方カマの肩が落ずに、
羽落ち箆カツギにならざるなり、大小あり」
とあるそうです。

『大西家釜形正図巻』に
「同(利休好) 升釜 唐金薄森ふた 桝四方トモ云」
とあるようです。
八角釜(はっかくがま) 胴が八角形の釜で、八角形の八面に
「夜雨」「晩鐘」「帰帆」「晴嵐」「秋月」「落雁」「夕照」「暮雪」
の八景文様を鋳込んだ「八景釜」が多いそうです。

名物釜では芦屋古作にあるのだとか。
藤村正員著『藤村庸軒茶談』に
「八角釜 八景を鋳付たるを云也」
とあるようです。

『名物釜所持名寄』に
「蘆屋古作 一八角釜 鐶付撮 西御門跡」
「極上作 一八角釜 八景地紋 中西立佐 後藤源左衛門」
「同 一八角釜 釣り物鐶付 山下祐也 ツマミ無地」
とあるみたいです。
十文字釜(じゅうもんじがま) 胴が十字形をした釜で、「十字釜」とも「切支丹釜」とも言うそうです。

安土桃山期にかけての南蛮趣味のなかで生まれたものなのだとか。
-
切子釜(きりこがま) 四角な立方体のそれぞれの角を切りとった切子形の釜で、
片桐石州の好みだそうです。
-
責紐釜(せめひもがま) 釜の口が小さく甑口で、甑際に骰子(さい)の鐶付がついた、
肩が丸い撫形の釜だそうです。

貴人に献茶をする時、両脇の鐶付に紐を通して蓋を押さえ、
口に封印をするのに用いたみたいです。
封印するのに、口に紐を通して責める(強く締め付ける)ことができるところからの名のようです。

責紐釜の歴史は、古天命にはじまるそうで、
東山時代のものは、肩の線が緩やかで裾が開いているようです。
桃山時代になると、肩の張りが強くなり、
肩から胴への線が丸釜に近く、鐶付も骰子以外のものが見られるようなるのだとか。
『茶道筌蹄』に
「鐶付 鬼面、鉦鼓耳 、遠山、あまつら(龍の事也)、
松かさ、茄子、さい(責紐の事なり)、なた豆」
とあるみたいです。
常張釜(じょうはりがま) 両肩から上に突き出て外側に張っている鐶付のついた形の釜だそうで、
「上張釜」「定張釜」とも書くみたいです。

名物釜としては、天明作や京作に見られるようです。
「大講堂」も形状としては「常張釜」になるのだとか。
『茶道筌蹄』に
「大講堂 作しれす、叡山大講堂の香炉をカマに用たるものなり、
大講堂の文字右より書たるもあり、左より横に書たるもあり、
本歌御物なりしが明暦の火に焼失したるゆへ分明ならす、
広口、トモ蓋、常張」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に
天明「末作 一常張釜 仙波屋宗休」
「二代目 一博多常張 信長公名物二有 袋屋宗古 千宗左」
とあるようです。

同じく『名物釜所持名寄』に
京作釜「浄味作 一常張釜 大逢庵ト文字在 家原自仙」
とあるみたいです。
塩屋釜(しおやがま) 乙御前形で、塩屋を模った鐶付を付けた釜のようです。

塩屋は、海辺に建てられた、海水を煮て塩をつくる塩釜のある粗末な塩焼小屋のことだそうです。

仙叟好みで、青海波と貝の地紋を施し、塩屋形の鐶付は空洞で釜とつながり、
軒にあけられた小さな穴から湯が沸くと湯気が出るようなっているみたいです。
海水を煮て塩をつくる塩屋の煙に見立てているのだとか。
人見必大著『本朝食鑑』に
「本邦海国之民焼塩者多、以充賦税、
又求貨利、構小茅蘆于海浜砂上、廬中設竈、此称塩屋」
とあるそうです。
猿釜(さるがま) 猿の鐶付を付けた釜で、蓋の摘みと左右の鐶付に
「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿をつけたものもあるそうです。

「引拙猿釜」は、鳥居引拙が所持し、
のち豊臣秀長が所蔵した「大霰釜」で、
鐶付に日吉神社の神猿が烏帽子をつけ、
御幣をかついだ形像の細工が施されたものみたいです。

古田織部所蔵の猿釜は「阿弥陀堂霰釜」の形と言うそうで、
薮内家伝来のようです。

道仁作の猿釜は、肩から胴をしゃくった面取りとし、
面の角に玉縁を廻らせたものだとか。

阿弥陀堂釜の名の由来は諸説あって、

「有馬阿弥陀堂で利休が、 秀吉に茶を点てたときに使ったことから」
とか、
「蘭若院阿弥陀坊の住職の猪首の大きな顔を見て、
千利休に命じ和尚の頭の形に似せて作ったから」
とか、
「釜を阿弥陀堂に贈ったことから」
などいろいろあるみたいです。

江岑宗左著『江岑聞書』にも、阿弥陀堂釜の名の由来があるようで、
以下にそのお話を記載しようと思います。

ある時、有馬の阿弥陀堂の僧が、大釜を望んだみたいです。

その頃、利休のもとで右筆(ゆうひつ)をつとめていた僧がいましたが、
その者が、阿弥陀堂の僧に頼まれて、利休に取り次いだそうです。

利休は紙で切型を作り、釜師の辻与次郎に注文をしました。

やがて与次郎から出来上がった釜が届けられましたが、見ると、
ことのほか見事に出来ているので、利休が所持することにしました。

その釜で利休が茶会を催したところ、招待された大名衆がたいへん気に入り、
写しがほしいとの申し出も多く、その釜が大流行したそうです。

はじめに阿弥陀堂の僧が望んだことから、阿弥陀堂の名がつきました。

最初の釜を与次郎に申しつけたとき、利休は、
地肌をかっかっと荒らした荒肌にするようにと注文をつけました。
そのとき宗旦は十一歳で、そばにいてそれを覚えている、
と言っていました。
山上宗二著『山上宗二記』に
「引拙之大霰之猿釜 大納言殿秀長公に在、
右御釜は古今之名物也、
此外紹鴎筋釜并に笠釜、是は数寄々々たるへし、
三ッ共に大釜也、水五升計入」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に
「一猿釜 鐶付猿 石原宗閑 田中全斎 岸部五郎兵衛。
蘆屋釜書付古き箱に入れ有、
紹鴎時代、道仁、善正両作の内の物也。」
とあるようです。
唐犬釜(とうけんがま) 常張の鐶付が長く立っている形の釜で、
の鐶付の姿が犬の耳に似ているところからこの名があるそうです。

宗旦所持の天命古作のものが本歌とされ、
仙叟好、一燈好のものなどがあるとのこと。
『茶道筌蹄』に
「唐犬 宗旦所持、天猫作とも、
蓋三ミセン耳なるゆへ見立てヽ唐犬カマといふ、
伊勢神戸侯御所持」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に
天明「二代目 一唐犬釜
宗旦ヨリ千宗左所持 播磨佐々木平兵衛」
とあるようです。

『釜名一覧』に
「天明 宗旦所持 共蓋、大松 仙叟好、
大爪 同、小ノ松 一灯好、山の爪 同」
とあるみたいです。
筒釜(つつがま) 肩が平らな円筒形の釜で、主に近世の京作釜に多い形だそうです。

「東陽房釜」や「雲龍釜」なども形態上からは筒釜になるようです。

井伊直弼著『閑夜茶話』に、以下の話があるそうです。

「雲龍釜」というの初め、東山御物の青磁水指の形より、
利休が思いついて釜を作らせたものです。
「絵は探幽なり」という言い伝えがあります。

また、雲龍が姥口のようになっているのは、少庵の考えで、
煮えが良くもつようにと好まれたようです。
利休が好んだのは一重口です。
角雲龍というものは、まだまだ後代のものです。

ただし、ある書に
「加賀前田肥前殿の奥方の、歯黒入れの鉄器を見た利休が、
よい釜になるといって好んだ」という説もあるけれども、
つまびらかではありません。


「雲龍釜」の逸話をもうひとつ、

久須見疎安著著『茶話指月集』に、以下の話があるそうです。

雲龍の釜が初めて出来たとき、利休は気に入って、
それまで囲炉裏に据えていた釜をのけて、
五徳を置いたまま自在で釣って茶の湯にたびたび出されました。

またある年の夏、太閤が雲龍の釜を仕掛けて、
利休に「茶を点てよ」とおしゃいました。

折しもご近習が多く、十服ばかり点てましたのに、
釜の湯はさめることはありませんでした。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「東陽房 天メウ作、筒カマ、鬼面、鉄のカケゴ蓋、
アゲ底、ケキリ真鍮丸鐶、
利休所持を真如堂東陽房へ贈りしゆへ名く」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に
天明「二代目 一筒釜 田中全斎
呑画大海江河水吐出趙州一味禅 文字有」
とあるようです。

同じく『名物釜所持名寄』に
京作釜「浄味作 一四方筒釜 光悦好
浄味ト文字 阪本周斎」
とあるみたいです。
鶴首釜(つるくびがま) 釜の口造りがやや細長い形の釜で、
その形を鶴の首に見立ててこの名があるそうです。

利休好みは小振りで、鬼面鐶付、共蓋のもののようです。

普通は毛切みたいですが、
羽のあるものは特に「鶴首羽釜」「鶴首真形」と言うとか。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「真形 シコロ羽、かたのつかぬを鶴首真形といふ、
蘆屋天猫に多し、其後はこの写しなり、
古作ゆへ好しれす、底にかへしと云てほそき輪あり」
とあるようです。

同じく稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「鶴首 名物鶴首は八寸、利休形はこれより少し小なり、
鶴首風呂は名物の方をかけるためなるがゆへ利休形のカマには少し大ぶりなり、
利休鶴首は石メ蓋、真鍮平鐶、両方共ケキリなり」
とあるそうです。

『釜之図』に
「紹鴎好。利休好。如心斎好、古浄元二十の内。
光悦好、古浄味。惺斎好、浄長、高流水文字、大芦屋」
とあるみたいです。
富士釜(ふじがま) 口が小さく、肩から胴にかけて裾が広がり富士山の姿に似た形の釜で、
筑前芦屋や博多芦屋で、天正から慶長期にかけて盛んに作られたそうです。

天命では、室町末期の作に鬼面鐶付のものが、
京作では、道仁の「桜地紋」、五郎左衛門の「牡丹紋」などが、
好みものでは、裏千家四世仙叟好みの「四方富士釜」、
表千家七世如心斎好みの「擂座富士釜」、
裏千家十三世円能斎好みの「南鐐富士釜」、
裏千家十四世淡々斎好みの「三友地紋」、
などがあるそうです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「富士 如心斎好、道爺作、鬼面、羽釜、口に累座あり、
鐶付の上に筋あり、鳳皇風炉に合す」
とあるようです。

『名物釜所持名寄』に
芦屋「二代目 一富士ごう釜 千本松地紋
笹屋宗世 紹鴎所持」
とあるみたいです。
九輪釜(くりんがま) 筒釜の口辺が甑口風になったもので、
肩から短冊形の鐶付が耳のように出ている形の釜で、
寺の塔の頂上を飾る相輪の部分である
「九輪」の形を模したところからの名みたいです。

筒形の胴を九輪の中央を貫く心棒の部分である刹管(さつかん)に、
鐶付を刹管を取り巻く笠上の輪である宝輪(ほうりん)を留める軸に見立てたものだとか。

また、正平三年(1348年)、高師泰が塔の九輪の宝形をはずして
鑵子(釜)に鋳直したというのに因んだものとも言われているとか。

寺の塔の九輪の宝輪を落とし、宝輪を留める四本の軸のうち二本を打欠いて、
残りの二本を鐶付として見立てて使ったとも言われるそうで、
「四方の軸が残ったもの」「軸のかわりに羽のついたもの」「異なる鐶付を付けたもの」
などもあるようです。
陶斎尚古老人(松平不昧)著『古今名物類聚』に
「九輪釜 利休所持。一、口三寸八分。一、大サ四寸五分。耳付」
「九輪風炉釜 一、口三寸八分。一、大サ四寸五分。耳付」
とあるそうです。

『藤村庸軒茶談』に
「九輪釜 塔の九輪に鐶付を新敷鋳付て用也」
とあるみたいです。

近松茂矩著『茶湯古事談』に
「釜と鑵子とは、一物二名なり、
余りに近ひ事ゆへしらぬ人多く、
太平記に堂の九輪をおろして鑵子に鋳たりしと云事も、
何の事そやと云人多しとなん」
とあるようです。
からげ釜 俵形の胴に縦横に縄をからげたように紐形を鋳出した形の釜だそうです。

大西定林の作があり、小堀遠州好みは、共蓋、鐶付は縦のからげ縄の一部に付け、
撮みは掻立になっているようです。
『茶家酔古襍』に
「定林 上手、享保十二年死す、
宗偏好箆被風呂釜、四方釜、カラケ、雲龍」
とあるみたいです。
瓢箪釜(ひょうたんがま) 釜の胴の中程がくびれて、上部と下部が膨らんだ瓢箪形の釜で
一般的に上部の膨らみが下部より小さいものを言うそうです。

逆に、上部の膨らみの方が下部より大きい場合は、
特に「立鼓釜(りゅうごがま)」「箪瓢釜(たんぴょうがま)」などと言うこともあるとか。

利休好みは上部の膨らみの方がやや大きく、肩に獅子鐶付が付き、
遠州好みは下部の方が大きく、下部の肩に獅子鐶付が付き、
織部好みは中央のくびれたところから少し下がったところに鐶付が付いているようです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「立鼓 元伯好、瓢箪を引くりかはしたる様の形なり」
とあるそうです。

陶斎尚古老人(松平不昧)著『古今名物類聚』に
「瓢箪釣釜 紹鴎所持。一、口三寸。一、胴五寸八分。一、鐶付瓢箪」
とあるみたいです。

『名物釜所持名寄』に
芦屋極上作「一瓢箪 鐶付松笠 同(有隣軒殿) 千本松地紋」
とあるようです。

同じく『名物釜所持名寄』に
天明「一瓢箪 同(鐶付)瓢箪 上柳角兵衛」
とあるとか。
「一瓢箪 鐶付鬼面 後藤三右衛門 大サ八寸二分口径三寸二分」
立鼓釜(りゅうごがま) 胴の中央がくびれて上下に広がった形の釜で、
口造は浅い姥口で、水平な肩の先に鐶付が付くようです。

鼓を立てた形に似ているところからこの名があるそうです。

上の膨らみのほうが下の膨らみよりやや大きく、
瓢箪を逆さにした形にも似ているところから「箪瓢釜」とも言うみたいです。
『茶道筌蹄』に
「立鼓 元伯好、瓢箪を引くりかはしたる様の形なり」
とあるそうです。
重餅釜(かさねもちがま) 鏡餅のように餅を二つ重ねたような形の釜みたいです。

上の餅はかなり小さく、下の餅に鐶付が付いているようです。
初釜などに使うとよさそうです。
-
車軸釜(しゃじくがま) 腰周りが広く、胴から口にかけ狭まって立ち上がった形の釜で、
車輪の中央にある「こしき」の形、
あるいは「こしき」の中心に車軸の通っているような形をしているところから名のようです。

天明に多く見られるそうです。
『藤村庸軒茶談』に
「口に段有て、車の軸の形に似たるを云」
とあるみたいです。

『名物釜記』芦屋釜之部に
「車軸御釣釜、繰口、鐶付鬼面」
とあるとのこと。

陶斎尚古老人(松平不昧)著『古今名物類聚』に
「車軸釜 松平薩摩守。
一、輪口四寸五分。一、胴九寸。一、鐶付ツマミ」
とあるようです。
平蜘蛛釜(ひらぐもがま) 口が広く、胴部の丈が低く、直羽(すぐは)が大きく出て、底部も浅い形の平釜で、
透木釜として用いるようです。

その形が這いつくばった蜘蛛の姿を思わせるところからこの名があるそうです。

中国漢時代の「ふく」の様式が日本に伝来し、
「さがり」として一般炊飯用に作られていたものなんだとか。

「ふく」は、口が広い鍋状のものに足が付いた煮炊き用の器だったものが、
漢代に竈(かまど)が普及するようになると、足付のものが廃れ、
小口で腹が張り出し、竈に掛けるための羽が付いた平底のものになったようです。

平蜘蛛釜は、殆どが地紋がなく素紋のもので、
芦屋の他、天命や京作にも見られるようですが、
利休の時代には使われなくなるみたいです。
山上宗二著『山上宗二記』に
「平雲 松永代に失候也、
宗達平釜、藤波平釜二ッ、信長公御代ニ失也、
但シ此三ッ釜ハ当世ハ在テモ不用」
とあるそうです。
平釜(ひらがま) 浅く平たい形の釜で、
利休が好まなかったため用いられなくなり廃れたそうです。

名物釜では、天明の後期の作にあり、
京作では利休好の与次郎作や与四郎、藤左衛門があるとか。
山上宗二著『山上宗二記』に
「平雲 松永代に失候也、宗達平釜、藤波平釜二ッ、信長公御代ニ失也、
但シ此三ッ釜ハ当世ハ在テモ不用」
とあるようです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「巴蓋 少庵所持、霰平カマ、切カケ、
鐶付鬼面、天猫作、蓋は少庵好、巴の地紋あり、山中氏所持」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に
天明「関東上作 一平釜 真弓観音寺ト文字有 斧屋常與」
「二代目 一平釜 鐶付カキ 大文字屋宗碩」
とあるみたいです。
透木釜(すきぎがま) 平たくて羽がついている形の釜で、
釜の羽を透木の上に乗せて釜を支えるようです。

「透木」についてはこちら。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「透木 庸軒このみのアラレの外イロリ透木カマ、
古作はこのみなし、原叟このみに乙御前あり」
とあるそうです。
裏ごう釜 「ごう」は「やきなべ」のことで、「やきなべ」をさかさまにし、
底に穴をあけて釜の口とし、
これに別に作った底を後から取り付けて釜に仕立てたものだそうです。

天命作の「ごう」の底が見事であるところから考案されたものだとか。

利休所持は、与次郎が天明の「ごう」の裏を打ち破り口とし、
底を付け、鐶付を補作したもののようです。

宗旦好みは、釜の胴と底の部分に段があり、
裏に左右に二つづつ計四つの賽の目の鐶付が付き、
そこに鉄の舌のような形をした端立を差し込んで透木に掛けて使用するのだとか。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「裏ごう 元伯好、元来天猫作のごうの底の見事なるを打かへしたるなり、
夫故ソコに四つの鐶付あり」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に、
天明古作「一裏甲釜 底後底 鐶付与二郎 武山宗二 利休所持」
とあるみたいです。
茶飯釜(ちゃめしがま) 口造りが大きく広い皆口で、羽がつき、丸底の飯炊釜の形の釜で、
茶飯茶事に使われ、大きな「一文字蓋」と、
中央に穴をあけた「蛇の目蓋」、
中央に置く「小さい蓋」が添っていて、
飯を炊く際には大きい一文字蓋を使い、
茶を点てる時は蛇の目蓋と小さい蓋を使うそうです。

宗旦と宗徳の参禅の師である清巌宗渭の
「餓来飯(うえきたりてめし)」「渇来茶(かわききたりてちゃ)」の語を
鋳出したものみたいです。

宗旦が弟子の銭屋宗徳に贈ったものが本歌とされ、
「宗徳釜」ともいわれるようです。

宗徳は生涯この釜一つを自在にかけて、
飯を炊き、湯を沸し茶を点てたんだとか。
このため一釜宗徳と呼ばれ、自在庵一釜斎と号したそうです。
-
鍋釜(なべがま) 鍋の形をした釜で、蓋は一文字の掻立鐶撮みの共蓋のほか、
唐銅の替蓋があるそうです。

天命作で、鍋の蓋に相当する上面は弾き肌・荒肌で、
中央に小さく口が開けられ、鐶付は常張で上面の端に付けられているとか。

燕庵藪内家に伝来し、
藪内家五代竹心紹智が箱に
「鍋釜に峰の松風かよひきて 一ふくたつるお茶は面白」
と書き付けられたものがあるみたいです。
『天王寺屋会記』永禄十三年(1570年)に
「同三月廿一日昼 なや宗久に而、不時に、なへかま拝見申候、
このかま少あたらしき様に見え申候、
ふたからかね、つまみおなしく、つるひらつる也、むねあり」
とあるそうです。

『山上宗二記』に
「珠光鍋釜 宗薫に在、千貫也、
但当世は如何と、宗易の気に不入」
とあるようです。
手取釜(てどりがま) 注口があり、常張鐶付に弦の付いた形の釜で、
弦が付いてすぐ手に取ることができるところからこの名があるそうです。
これは、現在の鉄瓶の祖形のようです。

三足が付いたものもあるとか。

丿貫(へちかん)は、手取釜ひとつで湯を沸かし茶をたて、
客人をもてなしたそうで、以下のような逸話があるみたいです。

丿貫が利休を呼んで茶事を催したとき、利休は定刻、
丿貫のもとへ出向いて茶室に進もうとしたとたん、
落とし穴に落ちてしまったのです。

驚いた丿貫は、かねてから用意してあった風呂へ利休を入れ、
すがすがしい気分になったところで茶事をはじめたといいます。

これには後日談があり、
利休は丿貫が落とし穴を掘っていたことを知りながら
そこに落ちたというのです。
「なぜ知りながら・・・」と問われると、
「せっかく掘った穴に落ちないでよけて通れば、
亭主の心尽くしを無二することになるので、
わざとそうした。」
といいます。


丿貫は、雁屋哲原作の漫画「美味しんぼ」にも出てくるそうで、
もてなしの心を説いているとか。


久須見疎安著『茶話指月集』から丿貫に関する逸話をもう一つ。

京都の山科というところに、丿貫という変わり者の茶人が住んでいました。
彼はいつも手取釜一つで、毎朝増水を煮て、
食べ終わると釜を砂で磨き、
山の下の清流を汲んできては、茶を楽しんでいました。

そして、次のような狂歌を読みました。

手取めよおのれは口が指しでたぞ
 雑炊たくと人にかたるな

風変わりな茶人であるという噂が、あちこちに広がり、
利休の耳にも入ってきました。

ある時、利休が友人を連れて、丿貫の家へやってまいりますと、
家の外には石組の井戸があり、
人や馬の歩く塵や埃がひどくかかるのを見て、
「この水ではお茶は飲めない
戻ることにしよう」といって帰りかけました。

それを丿貫は、家の中から聞いて、
「茶の湯の水は、筧(かけい)で取っているが、
それでもお帰りなされるのか」と言ったので、
利休たちは立ち戻り、茶をいただいたということです。

このようなことがあって、利休は丿貫と親しくなりました。
そしてしばしば茶事に招かれたということです。
軒宗金著『茶具備討集』に
「手取 土瓶也、必有口」
とあるみたいです。

『名物釜所持名寄』
天明関東上作「一手捕釜 宗旦狂歌
手捕釜己は口がさし出たぞ我侘好と人に語るな 桑名」
とあるそうです。

近松茂矩著『茶湯古事談』の丿貫について
「或時利休日比聞及し者なり、尋んとて彼是伴ひ行しか、
丿桓か家の外に石井有、
直に海道にて人馬の塵埃のいふせかりしをみて、
此水にては茶はのまれす、
各いさ帰らんといひしを丿桓聞付、
表へ出て呼かへし、茶の水は筧にて取か夫ても御帰有かといふ、
利休其外の人々、それならはとて立かへり、
面白く語り、茶をのみ、夫よりしたしかりしとなん」
とあるとか。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』の丿貫について
「粟田口善法 無伝、侘茶人也、手取釜にて一生を楽む、
手とり釜おのれは口がさし出たり、雑水たくと人にかたるな」
とあるようです。

寛政10年(1798年)刊『続近世畸人伝』の丿貫について
「もとの手取釜の歌は、或説には堺の一路菴がよみしとも、
又道六といふ人のよみしともいへど、
此玄旨法印のうつしの戯歌にてみれば、
善輔がよみしに疑なかるべし。」
とあるそうです。
香炉釜(こうろがま) 炉として作られたものを転用して、
底を入れ替えたり鐶付を付けるなどして茶湯釜につくり直した釜だそうです。

芦屋で室町時代に作られた香炉を利用して釜に仕立て直したものですが、
江戸中期以降は香炉釜を倣って、
四仏・観音・六地蔵・不動明王・梵字などを、
鋳出した釜がかなり作られたみたいです。

現存するものは三点あるそうです。

■伊勢山田常明寺香炉
「永正三年 八月日 大工葦屋行信」銘がある。
輪口際に三つ巴文帯、腰に連珠文を廻らせた香炉の底を付け替え、
丸や長円形の穴をあけた三角形の鐶付を付けた松永記念館蔵のもの。

■以奉寄進伊勢山田十一面御宝前
「天文三二月吉日吉久大工芦屋大江宣秀」銘がある。
十一面観音像を鋳出し鐶付を入れ替えた細見家蔵のもの。

■三尊梵字香炉釜
久保惣記念美術館蔵のもの。
釈迦三尊は、釈迦・文殊・普賢のことで、
梵字は、日本でいう悉曇文字(しったんもじ)を指すそうです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「大講堂 作しれす、叡山大講堂の香炉をカマに用たるものなり、
大講堂の文字右より書たるもあり、左より横に書たるもあり、
本歌御物なりしが明暦の火に焼失したるゆへ分明ならす、
広口、トモ蓋、常張」
とあるようです。

同じく稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「達磨堂 原叟高桐院清厳和尚建立の達磨堂の香炉を以てカマとなす、
形ナデ四方、カタに玉ブチあり、
オダレ、香炉耳、トモ蓋、清厳和尚の書達磨堂の文字あり、
写し道爺作数三十」
とあるみたいです。
尾垂釜(おだれがま) 胴の下部が不規則な波形に欠けて垂れた形の釜で、
古芦屋や古天明など、古い釜の下部が腐食して破損したものを、
その部分を打ち欠いて取除き、新しくひと回り小さな底に付け替えたとき、
打ち欠いた個所を不揃いのまま残したところからの形態だそうです。

後には始めから尾垂の形を作っているとか。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「四方口 元伯このみ、元来天猫作、
ソコオダレになほす、鬼面、トモ蓋、
元伯より探幽へ伝ふ、浄味写しにはナタメ鐶付あり、
千家は鬼面を用ゆ」
とあるようです。

同じく稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「達磨堂 原叟高桐院清厳和尚建立の達磨堂の香炉を以てカマとなす、
形ナデ四方、カタに玉ブチあり、オダレ、
香炉耳、トモ蓋、清厳和尚の書達磨堂の文字あり、写し道爺作数三十」
とあるみたいです。

もう一つ稲垣休叟著『茶道筌蹄』から
「角カマ 原叟このみ、至て大ぶりカタに玉ブチあり、
刷毛メ、クリ口、トモ蓋、常張鐶、オダレ、
前に覚々斎の文字あり、江戸大西五兵衛作」
とあるとか。

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