読み:がもう うじさと
蒲生氏郷 |
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生年月日
1556年 〜1595年3月17日 |
蒲生氏郷は、利休七哲の一人だとか。
織田信長 の人質になるけど、「尋常の子供ではない」と 信長 に認められ、 信長の娘「冬姫」を妻にもらったそうです。 蒲生賢秀の三男で、初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)、 また、キリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)だとか。 ここからはちょっと歴史の勉強を・・・ 1568年の北畠具教・具房との戦いにて初陣、 1569年の伊勢大河内城攻め、 1570年の姉川の戦い、 1573年の朝倉攻めと小谷城攻め、 1574年の伊勢長島攻め、 1575年の長篠の戦いなど武勲もすさまじく、 結局は会津若松九十二万石の大大名になったみたいです。 1582年の本能寺の変では、信長の妻子を保護したようです。 その後、豊臣秀吉に仕え、秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えたそうです。 1584年 小牧・長久手の戦い、 このころ、高山右近らの影響で大坂においてキリスト教の洗礼を受けるみたいです。 1585年 紀州征伐と、富山の役 1587年 九州征伐 1590年 小田原征伐 1592年 文禄の役で、肥前名護屋へと出陣 1593年 会津に帰国したが病状が悪化 1594年 春に養生のために京都に上洛 文禄4年(1595年)2月7日 伏見の蒲生屋敷において、病死。享年40歳。 今で言うところの直腸癌、又は膵臓癌だったみたいです。(『玄朔道三配剤録』より) 1585年頃、名前を賦秀から氏郷と名乗りを改めているようです。 これは当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く 「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからだったみたいです。 千少庵を保護し、徳川家康と秀吉 へのとりなしに尽力した氏郷は、 茶道方面の著書『蒲生氏郷茶日記』(茶の注文書)で、 当時の宇治茶の品質等級「極上」「白袋」などを注文したりもしているようです。 ■文芸について 蒲生氏郷は、若年から岐阜瑞龍寺の南化玄興に参禅し、 三条西実枝、紹巴らについて和歌を学んだようです。 茶道は、南化和尚の計らいで、宗養・里村紹巴に師事したそうで、 その後、千利休に師事したみたいです。 ■蒲生氏郷が京都にいなかった理由 天正18年(1590年)、葛西・大崎両名が、新領主の木村吉清・清久父子に喧嘩を売った戦いみたいです。 この葛西大崎一揆の鎮圧に、翌年の7月4日までかかったため、 天正19年(1591年)2月28日に利休が切腹した際、 蒲生氏郷は、京都へ駆けつけることができなかったのではないかと私は思います。 千宗左著『江岑夏書』に 「蒲生飛騨守殿は利休が切腹した時、 国元の会津におられました。 上方におられたら、 あのようなことにはならなかったでしょうとのことです。」 とあるそうです。 ■葛西大崎一揆とは 天正18年7月26日、小田原征伐に参陣しなかった事を理由に、 葛西・大崎両名の土地が秀吉により没収され、 木村吉清・清久父子に統治されることになったそうです。 木村親子は、暴政を布いたり、太閤検地を強行したりといくつか問題があったようです。 また、側には混乱を誘発し、それに乗じて勢力を拡大しようと目論む、 伊達政宗による扇動や武器の供給があったともいわれているみたいです。 浅野長吉が、仕置(後始末など)を終えて去った直後の10月初旬、 木村領の加美郡米泉で、伝馬役をめぐる紛争が起こったそうです。 10月16日、岩手沢城で旧城主・氏家吉継の家来が領民と共に蜂起して城を占拠、 一揆は領内全土へと拡大するみたいです。 この時、木村親子も、佐沼城で一揆勢に囲まれて城に閉じ込められるようです。 天正18年10月26日、この一揆で、蒲生氏郷は、木村親子救出のため、 伊達正宗と同11月16日になったら共闘しようと話し合ったそうです。 ところが、前日の11月15日になって、氏郷の陣に政宗家臣・須田伯耆が、 一揆を扇動したのは伊達政宗だと密告してきたとのこと。 結果、翌日の11月16日、氏郷は単独で一揆勢に落とされていた名生城を占領し、 籠城して一揆及び政宗に備えるとともに、 秀吉に使者を遣わして情勢を報告したそうです。 一方、氏郷からの報告を受けた秀吉は、石田三成を派遣して対策を命じたみたいです。 伊達正宗も、11月24日、木村親子を佐沼城から救出、 蒲生氏郷の名生城へ送り届けたようです。 その後も、氏郷は政宗への備えを解かず、名生城に籠城して越年するとか。 翌年・天正19年(1591年)1月1日、名生城を出て、所領の会津へと帰還、 天正19年(1591年)1月10日に相馬領に三成が到着し、 政宗に対して秀吉からの上洛命令を伝え、 氏郷・木村親子らを伴って帰京したようです。 2月4日、上洛した政宗に対する査問が行われると、 政宗は一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたものであり、 本物の自分の書状は、花押の鶺鴒の目の部分に針で穴を開けていると主張し、 正宗は、秀吉に許されるようです。 2月23日、利休が秀吉の怒りに触れ、蟄居を命じられるそうです。 このとき既に、蒲生は京都にはいなかったと思われます。 2月28日、利休が切腹するとき、蒲生は京都にはいない、 となるみたいです。 ■一笑一笑 天正19年(1591年)1月11日、秀吉は、1年数ヶ月も前に、 利休が大徳寺に寄進した壮麗な山門「金毛閣」が、 利休の増長の象徴だと言いがかりをつけるそうです。 門の上に草履を履いて立つ利休の木像が飾られているようですが、 これは山門をくぐる天皇・公卿・大名や、太閤の頭まで踏みつけている、 これは、思い上がりだ、ということみたいです。 びっくりした利休は、秀吉お気に入りの大名で自分の弟子でもある、 細川三斎や芝山堅物に頼み、必死になって弁明しますが駄目だったようです。 芝山堅物も蒲生氏郷に頼むのですが、 「一笑一笑(もう、むだだ)」 と言っているようです。 この時、蒲生氏郷は、どういう気持ちだったのでしょう。 おそらく「また、いつもの喧嘩だ、そのうち収まるだろう。」 くらいの気持ちだったのではないでしょうか。 ■茶人・蒲生氏郷 彼が所持していた名茶器としては、 赤楽「早船」・茶壺「双月」・「蒲生肩衝」などがあるようです。 また、自作の茶道具もあり、東京国立博物館蔵の「共筒茶杓」や、 竹花入「唐よし」などがあるようです。 利休切腹後、会津に蟄居した千少庵から 茶室「麟閣」をもらったそうです。 鶴ヶ城の庭でよく茶会を開いていたとされ、 その茶会では家臣のみならず、 身分に関係なく農民や商人達も招いて、茶を振る舞ったとのだとか。 1580年、信長時代、津田宗及が開いた茶会に、ただ一人招かれていたり、 1592年、文禄・慶長の役時に、陣中で行われた茶会で、 上段の席に座ったようです。 ■千鳥の香炉 『茶話指月集』から逸話を1つ。 ある時、蒲生氏郷と細川幽斎の二人が、利休に茶の湯に招かれた。 茶の湯が終った後、氏郷は利休に所持の「千鳥の香炉」の拝見を所望した。 これに対して、利休は不機嫌な様子で、香炉を取り出し、 中の灰をうちあけ、転ばして差し出した。 この様子を見た幽斎が、 「これは清見潟の和歌の心ですか」 といったので、利休は機嫌を直し、 「いかにもその通り」 と返事をした。 順徳天皇の歌集『順徳院御百首』の中に、 「清見かた 雲もまよハぬ 浪のうへに 月のくまなる むら千とり哉」 という和歌がある。 この和歌の真意は、 利休は「今日の茶の湯が面白く終わったのに、 なんで無用な千鳥の香炉の拝見を所望したのか」 と思ったからである。 月に影を作る「千鳥」の無粋さと、 「千鳥」の香炉を見たがる氏郷の無粋さをかけたものでした。 氏郷は、この利休と幽斎のやりとりがわからず、 後に、幽斎に素直にその意味を尋ねたというのです。 ■秀吉の炭手前 『茶湯古事談』から逸話を1つ。 豊臣秀吉が、家臣に自らお茶を下されるとして炭手前をされた。 蒲生飛騨守氏郷は炉に近づきこれを拝見しようとしたところ、 炭火が夥(おびただ)しく爆(は)ぜて飛び上がり、 氏郷の顔へも炭火がかかった。 しかし、氏郷はこれに少しも動揺しないで、 静かに拝見して 「さてさて、お手涯が違っています」 と、秀吉に申し上げて退出した。 その後、秀吉は勝手に入って 「今の氏郷の振る舞いは、ただ者ではない」 と感じ入ったとのことである。 これより氏郷を特に用いて 「奥州を統治するものは飛騨守である」として 天正18年(1590年)の小田原攻めの後、 秀吉は奥州の白河城に8月15日、氏郷を召して、 今までは15万石を領有していたが、 新たに会津80万石を下されたとのことである。 ■茶道の通弊 『茶窓間話』から逸話を1つ。 若い大名が茶道を好んで細川三斎に謁して、 向後弟子となって指南を受けたいと頼み入れたとき、 三斎は答えて 「いまの世の茶道の通弊は、 肝要のわが武道を疎略にして、 ひたすらに茶の湯三昧に日を消尽することである。 近頃異なことを申すようだが、 茶道を好まるならば、 恐れ多いことながら上は信長公、秀吉、 下にては蒲生氏郷、 さては身不肖ながら、 この三斎を目当手本として真似られよ」 と言って戒めたということである。 |
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読み:ほそかわさんさい
細川三斎(細川忠興) |
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生年月日
1563年11月28日 〜1646年1月18日 |
細川三斎は、利休七哲の一人だとか。
室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれたみたいです。 以後、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、 現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた人だそうです。 足利氏の支流・細川氏の出身で、正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)だとか。 室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、 その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復したようです。 また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎)としても有名で、利休七哲の一人に数えらるみたいです。 茶道の流派三斎流の開祖で、その著書は少なく、本人が書いたのは『数寄聞書』位しかないとか。 (一応、川口恭子の論文「細川三斎の茶書について」に詳しく載っていたりする。) 北野大茶会の折には松向庵という名の茶席を設け、後年「松向殿」呼ばれたりしたそうです。 松屋久重著『茶道四祖伝書』には「天下一気の短い人物」と書かれているとか。 ちなみにこの四祖というのは、利休・織部 ・三斎・遠州の四大茶人のことみたいです。 晩年の1637年に奈良で開かれた茶会では、 徳川秀忠から拝領した「金渡墨蹟(きんわたしのぼくせき)」、利休が譲った「開山阿弥陀堂釜」、 茶碗は信長が普段使っていたもの、 金森可重が小壷狩り入手した「山井肩衝(やまのいかたつき)」、利休作の茶杓「命トモ」、 利休と一緒に町で見つけた建水、利休が持っていた「根太香合」など 利休が持っていた多くの茶道具を使ったそうです。 古田織部が利休旧蔵の道具を使うことがなかったそうなので、 かなり対照的だったみたいです。 「茶の湯の上手な昔の人たちが死んでしまったので、古田織部が名人になった」とも言ったとか。 ■本能寺の変 天正10年(1582年)6月、岳父・明智光秀が本能寺の変を起こし、 細川藤孝・忠興父子を味方に誘ったそうです。 細川父子はこれを拒否した上、玉子を丹後国の味土野に幽閉したみたいです。 細川父子に協力を断られたことが、光秀の滅亡を決定的にしたといわれているとか。 本能寺の変において、忠興は早々に旗幟を鮮明にしたため、 忠興と同じく光秀の婿だった津田信澄とは異なり、 光秀との内通を疑われ討伐されることもなかったようです。 ■利休を見送る 父と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人だったそうです。 千利休に師事し、利休に最も気に入られていた弟子で、 利休七哲の一人に数えられるようです。 利休が切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、 忠興と古田織部だけであったみたいです。 天正19年(1591年)2月13日、豊臣秀吉よりの使者、富田・柘植により、 堺への退去を命ぜられた利休は、この夜にわかに聚楽の屋敷を後にそうです。 利休が、淀の船着場まで下った時に、見送りに来てくれていた、 羽柴与一郎(細川三斎)と古田織部に気付いたとか。 両人の姿を見て、自分の真の理解者たちへ心からの感激の情を、 飛札をくれた三斎の家老である松井へ、 返礼をかねて、書き遣わした書状があるそうです。 「態々御飛脚 過分至極候 富左殿 柘左殿御両所 為御使 堺迄可罷下之旨 御諚候条 俄昨夜罷下候 仍淀迄 羽与様 織部様 御送候て 舟本にて見付申 驚存候 忝由 頼存候 恐惶謹言 二月十四日 利休 松佐様」 ■千道安との関係 利休死後、千道安は、飛騨の金森長近の許に身を寄せるそうです。 1594年、前田利家や徳川家康らの斡旋で赦免され、 京都の本法寺前に土地を与えられ千家再興が認められたようです。 ところが、なぜか家督を継がなかった千道安(堺千家)は、 細川三斎の許へ行くようです。 慶長6(1601)年、細川三斎は、豊前に知行地300石を与え、茶頭として迎えたそうです。 千道安は、その豊前の地で、1607年、62歳で亡くなったとか。 ■一尾伊織(三斎流一尾派) 細川三斎の家中には門人が多くいたそうで、 その中の一人に、一尾伊織がいたようです。 一尾伊織は、幕府御書院番を務めた1000石の旗本で、 始めは三斎の家臣の佐藤将監に茶を学び、 後に三斎についたとされ、許しを得て一派を興したみたいです。 一尾伊織の門人には、稲葉正喬、米津田賢、高木正陳、舟橋希賢などがいるとか。 三斎流は、細川三斎を初代として、 二代 一尾伊織 三代 稲葉正喬 四代 中井祐甫 と続き、 現在、二十一代 斗南宗浦が家元だそうです。 ■阿弥陀堂の釜 『松風雑話』より逸話を1つ。 ある人が、細川三斎のもとに阿弥陀堂の釜を2つ持っていき、 「口の広い方がよいでしょうか。 それとも狭い方がよいでしょうか。」 と尋ねたそうです。 すると三斎は、 「口の広い方がいかにも阿弥陀堂の釜によく似ています。 狭い口の阿弥陀堂については、次のような話があります。」 と答えたとか。 利休があるとき、口の狭い阿弥陀堂形の釜を見て 「この釜はよくありません」 とおっしゃた。そして、 「この釜を好み、鋳させた人は目利きではありますが、 侘び数寄の茶の心を知らない人でありましょう。 たぶん瀬田掃部が鋳させたものと思います。」 と言われた。 まさにそれは、瀬田掃部の鋳させたものでした。そこで、 「なぜ、この釜が悪いとおっしゃるのでしょうか。」 と尋ねたところ、 「阿弥陀堂の釜は口が広すぎるからこそ数寄道具となるのです。 もしもこの釜の口が狭ければ、 これはどこも直したいと思うところがなく、 完全無欠の釜であります。 侘び数寄の茶では、 あまりによく出来た道具を[巧みている]といって、 きらうのです。 もう少し狭ければよいのにと願うからこそ数寄道具となるのです。 完全すぎる道具は[御物道具]といって、 高価ではあっても侘び茶には出せません。 いま述べたように、 一か所でもせめてこのようであればと願うところを残し、 しかもよい道具であるものを数寄道具といいます。 数寄道具は値段も定めようがなく、 人々の見方次第で高くも安くも求められるのです。」 と、利休は言われました。 細川三斎は、このように語ったそうです。 ■武具を見せた三斎 『茶湯古事談』より逸話を1つ。 細川三斎が名物の茶道具をたくさん持っているのを、 下総佐倉城主の堀田正盛が威勢の良かった頃、 茶を好んでいたものだから、人を介して三斎に茶道具の拝見を頼んだようです。 ところが、そのときに、ただ、お道具とだけ言ったそうです。 三斎からは「どうぞ、お出かけください。道具ならお見せしましょう。」 と返事があり、正盛はさっそく訪れたみたいです。 丁寧な御馳走のあと、数十種の道具を出してくれましたが、 どれも武具ばかりで、 正盛が希望していたものとは違っていたわけですが、 仕方なく礼を言って帰ったそうです。 後日、仲介した人が、 「どうして茶道具を出さなかったのですか」 と三斎に尋ねたところ、 「最初からあなたは、正盛が道具を見たいと言っていると、 伝えてきたではありませんか。 大体武士たる者、何の道具とも言わずに、ただ道具とだけ言えば、 武具ではなくて何の道具でしょう。 だから茶道具はださなかったのです。」 と答えたそうです。 ■二重切の花入 『茶道四祖伝書』から逸話を1つ。 大徳寺高桐院の清巌和尚が口切の茶で、細川三斎のところへお出になったそうです。 三斎は、竹の二重筒を出して和尚に花所望をし、自分は下の方に入れて、 「和尚、どうぞ上を空けておきましたので、花をお入れください」 と言ったそうです。 和尚が、 「このように二重切の花入は下から入れものですか」 と尋ねると、三斎は、 「利休のところで、蒲生氏郷と牧村兵部と自分の三人で客になったとき、 利休が二重切の花入を出したので、上下のことを訊ねると、 利休は、 [このことを論じたことはかつてありません。 いま、ここで話し合って決めるとしましょう。 三人の皆さんはどうお考えですか、 お一人ずつおっしゃってください。] と各々に聞かれましたが、誰もわかりません。 利休が言うには、 [いつも上から入れると、ただいまここで決め、 これからはこの通りにしましょう] と言い、 このときからこれが定めとなりました。 しかし今日は、和尚のために私が下に入れました。」 と言ったとか。 そのとき、和尚は上にいれましたが、 いかにもかすかに、そっとお入れになったそうです。 それが一段とよく、下の花へのあしらいだったようです。 貴人には上に入れていただくということの、 よい証拠みたいです。 ■虚堂(きどう)の墨跡 『喫茶指掌編』より逸話を1つ。 徳川頼宣は若いころから茶道を好み、細川三斎とも親しくしていましたが、 三斎は晩年になって、領国に帰ろうとして頼宣の家臣渡辺直綱のもとを訪れ、 「ご秘蔵の虚堂の墨跡は、かねてより拝見したいと思っていましたが、 その機会もないまま、今日にいたってしました。 私も老年の身の上、このたび帰国したならば、 重ねての参府することは難しいことと思います。 それで、この際ぜひともお願いしたいのですが」 と言ったそうです。 直綱はその話を頼宣に申し上げたところ、 「たやすいこと、早々に案内いたせ」と、 日を期して三斎を屋敷に招いたようです。 三斎は、今日こそ年来の思いが果たせると期待しながら席入りをし、 床の間を拝見すると、掛けられていたのは虚堂の墨跡ではなく、 清拙正澄の墨跡だったそうです。 三斎は期待がはずれて失望しましたが、 知らぬふりをして席に着くと、茶道口から出てきた頼宣は自ら点前をして、 茶をすすめたみたいです。 「虚堂の墨蹟をご所望と聞いて、今日お招きいたしましたが、 実はその掛物はここに持参しませんでした。残念にございます。」 と挨拶したので、三斎は仕方なく、 「いえ、今度また拝見させていただきます。」 と答え、茶席でゆっくりと語り合って席を立ったみたいです。 そして黒書院と白書院との間の廊下まで来ると、 直綱が杉とのかたわらに控えていたそうです。 見ると、虚堂の墨跡を箱から出して、 その蓋の上に置き、ひざまずいて三斎に向かい 「御口上でございます。」 と申し上げたとのこと。 聞いた三斎もその場につくばうと直綱は、 「先日の御口上に、老年の身の上、 重ねての参府はかない難いから虚堂の墨跡を拝見したいとのお言葉でしたが、 それを忌まわしきことに存ぜられ、 今度幾度も参府なさるよう、お祝いのため、 わざと掛物はお目にかけなかったのです。 今後、ご息災で参府なされた時にはご覧に入れるとの仰せでございます。 しかしながら、ぜひにとのご所望であれば、 書院に掛けて、まずお目にかけるようにとのことで、 ここに持参いたしております。」 と申し上げたそうです。 三斎は感涙にむせびながら、 「さてさてお若い身の上でありながら、 このようなお心入れ、御礼言語に尽くし難いものがあります。 この上は幾度も参府いたします。 その節に重ねて拝見させていただきます。」 と答え、虚堂の掛物を取って押しいただき、 拝見せずに立ち去ったそうです。 その翌年、三斎は重ねて参府したので、 頼宣は、約束通り、虚堂の墨跡を掛けて、 三斎を茶に招いたのだとか。 |
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読み:まきむらひょうぶ
牧村兵部 |
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生年月日
1545年 〜1593年8月6日 |
牧村兵部は、利休七哲の一人だとか。
牧村利貞(兵部)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、 別名は、政治・政吉・高虎だそうです。長兵衛や兵部大輔は、通称だとか。 父は稲葉重道で、のち牧村政倫の後嗣となるようです。 初め織田信長に仕え、天正12年(1584年)に、豊臣秀吉の馬廻衆となるみたいです。 また、高山右近の勧めで、キリシタンとなったそうです。 兵部は1590年に、二万石を与えられて伊勢の岩手城に入るそうですが、 文禄・慶長の役に出陣、12名いた舟奉行の一人として名護屋に従軍、 渡海して、かの地で病没しているようです。 遺体は京都に送られ、生前、弟一宙を開山として建立していた妙心寺雑華院に葬られたそうです。 ■利休との関係 利休と兵部の出会った時期などは不明だそうですが、 1578年6月に、津田宗及の亭主の会に出席しているそうで、 それ以前に、茶の湯に親しんでいたと思われるみたいです。 利休とは懇意だったようで、利休が自宅に松を植える手伝いを依頼したものや、 兵部が葉茶壺の目利きを頼んだ手紙も残っているそうです。 利休の手紙には兵部が茶会を催すことが書かれていたそうで、 他にも茶会に出ていたみたいです。 『細川三斎御伝授書』によれば、 茶室の突上窓は、兵部が書院の屋根に切ったのを見た利休が 「小座敷」に切ったそうです。 兵部の創意に優れた一面といえるようです。 ■茶会の記録 『天王寺屋会記』には、1580年の茶会ではユガミ茶碗(変形茶碗)を使用したとあり、 織部焼が作られる数十年も前に、 こういった茶碗に着目した兵部の先見性はかなりのものだったのかもしれません。 利休 の手紙から、 津田宗及 の茶会に参加して以来、 秀吉 の茶会や北野大茶湯、他にもいろいろ参加していたようです。 『天王寺屋会記』にある兵部の茶会は、 天正8年(1580年)1月14日夜に信長の安土城下で行われているようです。 これは、津田宗及や、信長の家臣・佐久間甚九郎(不干斎)を招いた会だとか。 茶臼形の釜を自在で釣って、手桶水指とユガミ茶碗を使っているそうです。 『天王寺屋会記』天正8年1月14日夜条に 「一、茶ウス釜 自在ニ 手桶 ユカミ茶碗」 とあるそうです。 ■兵部、茶の湯をやめる 『松風雑話』から逸話を1つ。 ただ、この逸話、『茶之道聞書』だと瀬田掃部が、 『松屋会記』だと帯屋宗栖が、 同様の寝坊をしていることになっているそうです。 ある時、兵部が千利休を朝の茶事に招きますが、 約束の時間にはまだ寝入っていたそうです。 取り次いだ女中は、利休が豊臣秀吉の使いとしてきたもの早合点したので、 兵部はよけいに驚いてしまうみたいです。 ともかくも準備を整えて茶事を終えますが、 これを恥じた兵部は以降、茶の湯をやめてしまったそうです。 |
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読み:たかやまうこん
高山右近 |
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生年月日
1552年 〜1615年2月4日 |
高山右近は、利休七哲の一人だとか。
高山右近の通称は、彦五郎だそうです。 有名な「右近」の呼び名は私的な名で、 正式な官位としては大蔵少輔までなっているみたいです。 諱は友祥、長房、重友など複数伝わるようですが、 文書等で確認できるのは「重友」のみなのだとか。 主君は、松永久秀→和田惟政→荒木村重→織田信長→ 豊臣秀吉→前田利家→利長 らに仕え、数々の戦功を立てたそうです。 ■キリシタン大名 父・高山友照が、熱心なキリスト教徒であった影響で、11歳のときに受洗、 ドン=ジュスト、ジュスト=ウコン殿と、宣教師たちから畏敬の念をもって呼ばれていたとか。 1573年頃からキリシタン大名として有名になり、 牧村兵部 ・ 蒲生氏郷 ・黒田如水・ 織田有楽 ・小西行長などを、 茶を介してキリシタンとしたみたいです。 摂津高槻城内には、天主堂やセミナリオ(神学校)などが造られ、 1581年には、領民二万五千人の内、一万八千人がキリシタンになったようです。 「バテレン追放令」を受け、棄教をすすめる秀吉の使者に 千利休がたったとのこと。 再々の勧めにも応じず信仰を守った右近は、明石六万石の城主の立場を捨てて諸国を流浪、 加賀の前田家に客将として招かれるそうです。 藩主・前田利家のとりなしで、小田原攻めや朝鮮出兵に参加するようです。 徳川家康の「キリスト教禁止令」により国外追放され、 最後はマニラで63歳の生涯を終えたそうです。 その後、右近の家族は日本への帰国を許され、 現在は「石川県羽咋郡志賀町代田」「福井県福井市」 「大分県大分市」に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。 ■茶人・高山右近 1577年にはじめて茶事を行い、 千利休 ・ 津田宗及 を迎えたとのこと。 この時期、すでに利休と知り合っていたことが注目される点だそうです。 かなりの潔癖症だったみたいで、茶席の縁の下まで掃き清めたことから、 織田有楽に「清の病」があると評されたとか。 所持した道具は、山上宗二著『山上宗二記』に 茶入「侘助肩衝」と茶入「高山丸壺」の2つが記載されているそうです。 「侘助肩衝」は、「高山右近所にあり。 昔、引拙所持」とあるようです。 「侘助肩衝」を使った記録としては、茶会記『宗湛日記』に 「一 肩衝、高サ二寸七分ホトニ、口ヨコ一寸二分ホト、 高三分ホト、口付ノ節ナシ、薬ノナタレ五ツ有、面ニナタレ三ツ」 とあるそうです。 「高山丸壺」は、『山上宗二記』に 「関白様より拝領なり。 右この一種は名物にてはなし。四方盆にすわる。 ただし、数寄道具なり。 当世主多き物なり」 とあるみたいです。 手作りの茶道具は、一つしかないようで、 共筒茶杓「御坊へ」だけだそうです。 本杓の全長は18.4cmで、利休形 全体に艶がなく、枯れた感じの竹で、 櫂先に胡麻が生じているみたいです。 ■茶室「皆如庵」、右近の茶室説 京都・西行寺庵にある「皆如庵」は、宇喜多秀家の息女が、久我家に輿入れの際、 引き出物としたもので、現在地に移築されたと一般に伝えられているようですが、 実は、高山右近の茶室ではないかとする説があるそうです。 高山右近は、茶室建築の為、丸太を利休に送っているそうです。 神無月二月の利休からの手紙に 「丸太六本、仰せ付けられ候内、一本用に立ち申し候。 大慶此の事に候。 相残るも、別に用に立ち申すべく候。 御念に入る段、秀公へ申し聞けらるべく候。」 とあるようです。 秀吉の依頼で作った茶室というのは、山崎城の茶室だそうですが、 残りの丸太五本は、何の役に立てたのかわかっていないそうです。 ■キリスト教と茶道 キリスト教と茶道には、明確な関連性はないそうですが、 『日本経済新聞2010年12月16日』に武者小路千家の家元・千宗守が、 「濃茶の回し飲みは、聖体拝領で、 カトリック司祭たちがキリストの血と体の象徴として、 パンを食し、ワインを1つの杯で回し飲んでいた記憶とつながった」 とか、 「茶入を拭く際の帛紗さばきや、茶巾の扱い方なども、 聖杯を拭くしぐさと酷似している」 と言っていたようです。 『有馬・真野“茶の心 禅の心”2006年6月』には、 「聖水をいただくときの所作とお茶のそれは非常によく似ています」 とあるそうです。 三浦綾子著『泉への招待』には、 「利休が切腹させられたのは、キリシタンであったためであり、 茶室の躙り口も[狭き門より入れ]という聖書の言葉の具体化であった」 とあるみたいです。 どこまで本当か、わかりませんが、キリスト教となんらかの関係があるとすれば、 高山右近の影響が大きかったと思われます。 ただ、今のところ、国内で茶の湯とキリスト教の関係性を証明する資料は、 存在しないため、あくまで仮定の話みたいです。 ■十文字の炭手前 『竹園雑記』から逸話を1つ。 ある時、前田利長が高山南坊(右近)にお茶を下されたみたいです。 お茶が終って利長が立炭をした時、南坊はその炭手前を拝見して、 「さてさて、珍しい御作意ですね。 これは源三位頼政の和歌の心ですね。 感じ入りました。」 といったところ、 利長のご機嫌がことのほかよくなったそうです。 その後、家臣の生田四郎兵衛がついでの時に、 利長へ南坊の挨拶の意味を尋ねたところ、 「自分の機嫌がよくなった理由は、 其方たちにはわかるまい。 南坊は利休七人の弟子のうちでも勝れた茶人である。 源頼政は後白河天皇の時代の者で、和歌の名人である。 天皇から[十文字]という歌題を出され、 曙の 峰にたな引 横雲の 立つは炭やく 煙なりけり と、このように詠んだので、 和歌の宗匠といわれるようになった。 自分は先日の炭手前の時、炭の添えようが不出来で、 嫌忌である十文字形の嫌炭になってしまった。 それで煙がたくさん出るように扱ったのを、 南坊は頼政の和歌に見立てて褒めたのである。 誠の数寄者の心栄えである。」 と仰ったとのこと。 |
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読み:しばやまけんもつ
芝山監物 |
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生年月日
不明 |
芝山監物は、利休七哲の一人だとか。
芝山宗綱(しばやま むねつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将だそうです。 通称は、源内、監物で、初名は俊一のようです。 摂津国の人で、初め石山本願寺に属したみたいです。 織田信長に仕え、1578年、荒木村重討伐に従軍したそうです。 のち豊臣秀吉に従い、御咄衆として1万石を給せられたとか。 1581年に、津田宗及や山上宗二らを招いて茶会を開いているようです。 1584年に行われた大坂城の茶会にも参加したみたいです。 1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸には、秀吉の前駆を務めたそうです。 ■所持した茶道具 利休から、長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られているそうです。 「雁取」という名は、利休に茶碗の返礼として 「鷹野の雁」を贈ったところ、利休が 思ひきや 大鷹よりも 上なれや やき茶碗めが 雁取らんとは という狂歌を作ったことから付いた名前だとか。 『松屋会記』の久重茶会記、寛永17年4月17日、三斎会の条に、 一休の「初祖菩提達磨大師」をめぐってのエピソードがあるそうです。 (エピソードは下記「墨蹟の為に天井を高くした監物」を参照) この一休の墨跡は、佐久間不干斎が見出して監物に譲ったものだそうで、 「珠光表具」として褒めたものだったとか。 現在、名古屋の徳川美術館に伝わる一休の墨跡「初祖菩提達磨大師」は、 元和2年(1616年)に死去した徳川家康から分与された、 いわゆる「駿府御分物(すんぷおわけもの)」の1つだそうです。 また、他にも「芝山丸壺」「芝山間道」「芝山緞子」「柴山形手水鉢」などがあるそうです。 例えは「芝山緞子」は、 芝山茶入の仕覆として知られるそうで、 三重襷に万字の地文を配し、 木瓜形の窓枠の中に龍が織り出された緞子だそうです。 中国・明代に折られたものだとか。 他に、木瓜形の中に花兎文のある同名の裂もあるようです。 ■利休と芝山監物 利休と芝山監物の出会いは不明だそうですが、 天正3年(1575年)12月の津田宗及の茶会に出席しているため、 これ以前から茶の湯に親しんでいたようです。 現在確認されている利休の書簡のうち監物宛が一番多く、 利休最期の書簡も監物宛だそうです。 利休とは、懇意だったようで、 以下の様な質問もしていたようです。 ある日、 高山右近 と共に 「なんで風炉の茶の湯では中水をさすの?」 と 利休 に質問したところ、 「急な来客で釜の湯が足りなかったので、湯を改める意味で水をさした。 定めて中水をさすわけではない。よく尋ねてくれたね」 と答えたそうです。 ■墨蹟の為に天井を高くした監物 『松屋会記』より逸話を1つ。 ある時、監物は、利休、氏郷、三斎の3人を茶会にまねき、 一休の墨跡「初祖菩提達磨大師」の墨跡を飾ったようです。 これは、一休の墨蹟の中でも絶品とされるものだそうです。 しかし、軸が長いために、 監物は、床の天井に矢の柄を使って巻き込み、壁でとめるようにしてあったみたいです。 挨拶に出た監物は利休に、 「軸が長くて、この床には掛かりません。軸の表具を直していただきたい。」 と懇願するが、利休は 「この表具は村田珠光の好みと見えます。 珠光ほどの方がされた表具ですから、私とて直すことはできません。 床の天井を上げるほうがよいでしょう。」 と取り合わなかったみたいです。 ところが監物は 「そこをどうにか。」 と引き下がらず、同席の氏郷、三斎も監物に同情する始末。 利休は、 「それほどいうのなら、そなたたちで直されればよろしかろう。 私には何としてもできないことなのです。」 利休の言葉を聞いた監物は、 表具を直すことをあきらめ、ついに床の天井のほうを高く直したのだとか。 ■床の柱 『茶道長問織答集』と『閑夜茶話』から逸話を1つ。 芝山監物は大坂座敷の床柱にふさわしいものを探していたそうです。 大工の藤五郎と相談して、炭の担い棒を千利休に見せて、 床柱にふさわしいかどうか尋ねたようです。 すると利休は 「一段と数寄が上がりましたね。見事です。」 と褒めたそうです。 その後、芝山監物が部屋から出て勝手の方へ行ってしまうと、 同席していた古田織部が 「本当にそれでよろしいのですか。」 と利休に尋ねたようです。 利休は 「監物は目が悪いので、このようなゆがんだ細い柱を、 床柱に選んでしまったのでしょう。」 と答えたとか。 床柱がゆがんでいると掛物もゆがんで見えてしまうそうです。 ただし、内側に少しゆがんでいるものは良いとのことみたいです。 『閑夜茶話』では、 「本当にそれでよろしいのですか。」 と尋ねた人が「古田織部」ではなく「ある人」となっていて、 利休の言葉は、批判的に、 「床柱は少しでも歪みがあるものは使うものではない。 床の間の掛物も歪んで見える。」 と言っているようです。 |
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読み:せたかもん
瀬田掃部 |
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生年月日
1548年? 〜1595年8月10日 |
瀬田掃部は、利休七哲の一人だとか。
瀬田正忠(せた まさただ)は、戦国時代の武将で、通称・清右衛門だそうです。 後に、名を伊繁(これしげ)としたようで、掃部というのは官位に由来するのだとか。 高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕え、 1584年、小牧・長久手の戦いに従軍しているようです。 豊臣秀吉の関白就任に伴い、従五位下掃部頭に叙任されたそうです。 1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐等に従軍したみたいです。 小田原征伐では、徳川家康らが落城させた相模国玉縄城に、 古田重然と共に入り守備についたそうです。 1588年、後陽成天皇が聚楽第を行幸した際に、 芝山宗綱と共に先導役を務めたみたいです。 豊臣秀次と親しく、1595年、秀次の粛清に連座して処刑されたようです。(秀次事件) 豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子みたいです。 ■利休と瀬田掃部 利休と瀬田掃部の出会いは不明だそうですが、 1584年12月に、津田宗及の茶会に古田左介(織部)と招かれているそうで、 これ以前より茶の湯に親しんでいたようです。 また『茶道四祖伝書』織部伝書によれば、 1585年に、利休の勧めに従い、古田織部とともに奈良の松屋久政を訪ね、 松屋名物の1つ「鷺の絵」を拝見しているようで、 利休との師弟関係は、それ以前からあったみたいです。 また、瀬田掃部は、茶杓削りの名手だったそうで、 比較的多くの茶杓が、現在まで伝えられているようです。 ■勢多の茶杓 『南方録』から逸話を1つ。 畳目十五目もある皿のような平高麗茶碗を愛用していた瀬田掃部は、 ある時、利休に命名を請い、 掃部の本拠地・近江国から「水海(みずうみ)」と命名してもらったそうです。 それにふさわしい茶杓として、瀬田の唐橋にちなんだ 「勢多(瀬田)」り名づけられた十四目半(約20cm)の大きさのものが、 利休により添えられたそうです。 以降、この長い茶杓をモデルに茶杓を削り、 長く櫂先も角形の「掃部形」茶杓が生まれたそうです。 同じく、立花実山著『南方録』に、 「水海」には長い茶杓の他、大きな茶巾、穂先が茶筅を使ったとあり、 「勢田ノ掃部ハ、甚奇異ノ人ニテ」といわれているようです。 また、「さらし茶巾」という客前で茶巾を絞ってさばく点前を創出したのも 瀬田掃部とされるそうです。 ※「さらし茶巾」についてを参照。 ■覚悟の脇指 『閑夜茶話』より逸話を1つ。 待合の中潜りへ亭主が客を迎えに出るとき、 脇指を指すことは昔はなかったそうです。 利休の時代は戦国時代の真っ只中であったが、 そのようなことは、なかったみたいです。 その頃、瀬田掃部が利休に茶会を招く約束をしたので、 利休は七つ頃(午後四時頃)に訪ねたところ、 掃部は、すっかり忘れていて何の支度もせず、 釜もまだ懸けていなかったそうです。 その時、掃部は脇指を指したままで中潜りまで出て、 利休に 「なんということか、茶会のことを忘れて、 いまだ下火もいれていない次第です。 不調法ですが、今朝はひとまずお帰りください。 後日また茶会にお招きします。」 と挨拶をしたようです。 利休も 「なるほど、そういうことですか。 それならば、やむをえません。 また後日参ります。」 といって帰ったのだとか。 その後、掃部は家来を呼んで直ちに数奇屋を壊し、 約束を違えて面目を失ったとして その後、茶の湯を止めてしまったそうです。 この覚悟があったからこそ、 敢えて脇指を指したまま迎えに出た、とのこと。 脇指を指して迎えに出ることは不吉の例だそうです。 牧村兵部で、同様の話があるのですが、 牧村兵部とちがい、瀬田掃部からは、茶人・武人としての覚悟が伝わってくるようです。 ※「兵部、茶の湯をやめる」についてを参照。 |
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読み:ふるたおりべ
古田織部 |
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生年月日
1544年 〜1615年7月6日 |
アニメ「へうげもの」の主人公で、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名だった人みたいです。 本名は古田重然で、通称・左介。 「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来しているとか。 「織部好」として茶器製作・建築・造園など一大流行を安土桃山時代にもたらした人だそうです。 利休死後、その地位を継承するかのように、天下の茶人になったとか。 『古田家譜』に、 利休の死後、秀吉が織部に 「利休が伝ふところの茶法、武門の礼儀薄し、 その旨を考へ茶法を改め定むべし」 とあるのだそうです。 以後、武家茶道を確立し、茶の湯名人として一家を成すのだとか。 慶長3年(1598年)、秀吉が死ぬと、家督を長男の山城守嗣子重広に譲り隠居したようですが、 関ケ原合戦で徳川方に属し、七千石加増され、 隠居料三千石を合わせて一万石となるのだとか。 慶長15年(1610年)、二代将軍徳川秀忠に点茶の式を伝授し 「天下一の茶人」と称されたみたいです。 織部は、千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、 茶碗をゆがませ、武家好みの多様な模様と異国趣味を用いた茶碗を生み出すなど、 秩序に収まらない自由闊達な発想を持っていたそうです。 この発想に危機感を抱いたのが徳川家康で、いちゃもんをつけて織部(72歳)を自害させたようです。 当時織部は、茶の湯を通じて朝廷・貴族・寺社・経済界・大名などに 多大な影響力を与える存在となっていて、 幕府からその影響力・存在を危険視されるようになったためみたいです。 ■利休と古田織部 利休と古田織部(左介)の出会いは不明だそうですが、 天正10年(1582年)8月27日の『妙喜庵功叔宛利休書状』に 「古佐よりの御状」とあるそうで、 これ以前に、面識があったと思われるのだとか。 師弟の交流は、遠く離れていても絶えることはなかったようで、 「武蔵鐙(あぶみ)の文」は、 武蔵国を転戦中の織部へ、利休が与えた書状だそうです。 天正19年(1591年)、利休の追放が決まると、 利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、 古田織部と細川忠興の二人だけが堂々と利休の見送りをしたみたいです。 ■織部焼(織部陶) ここでは、織部焼とはなんですか?という説明はせずに、 織部焼は誰が作ったかという観点から見ていこうかと思います。 結論から言うと、誰が作ったかは、よくわからなかったのですが、 古田織部が指導したという方が、ロマンがあって良いなと思います。 さて、織部焼は、古田織部の指導のもとにできたものであるとする見方と、 両者の間には、とりたてて深い関係は見られないとする見方があるそうです。 ウィキペディアでは、 織部焼は織部の指導で創始されたものとしているみたいです。 ・1999年に、織部が花押を鉄絵で記した沓茶碗が発見された。 ・1989年に、京都の古田織部の屋敷跡から織部焼が発掘された。 ORIBE美術館では、織部焼に代表される美濃古陶は、 古田織部の指導の元で造られたとしているようです。 ・美濃に導入した唐津式の登り窯導入は、 森城主と古田織部が、加藤景延に命じ、 それを受けた景延が、唐津で学び、美濃に築窯したものだから。 逆に、織部焼と古田織部の関係について、 よくわかっていないという結論もあるみたいです。 ・國分義司著『古田織部とオリベ陶』(2006年刊) ・加藤唐九郎著『やきもの随筆』(1962年刊) 「これが史実の根本資料と目すべきものは、 残念乍らいまだ発見されていない。」 織部焼という名は、織部死後になってから付いた名だそうです。 それまでは、瀬戸物という名だったのでしょうか。 古田織部が実際に用いた茶道具については、 市野千鶴子校訂の『古田織部茶書二』に 織部の茶会記があるみたいで、 そこには、大半が「瀬戸物」とあるそうです。 具体的には、『宗湛日記』の 慶長4年2月8日「ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也。」 慶長4年2月8日「肩衝ハ、セト也、薬黄ニシテ下ハル也、辻堂ト申也」 慶長13年5月19日「せとのあふき皿」と「せとのへき皿」 などがあるみたいです。 また、『茶道望月集』に 「織部殿の時分ハ口切前に、 三条通瀬戸物町へ織部殿好の焼物、 何によらす瀬戸より数多持参して、 有しを織部侘の弟子中を連行、 目利して茶入茶碗花入水さし香合等迄、 夫々に取らせ侘の弟子中ハ、 夫にて銘々口切をせしと也。」 とあるようです。 ■織部の手作り茶道具 織部作の茶杓は、 利休形の茶杓を基本としているそうで、 武士らしくやや杓幅が広く、 撓(た)めが強いみたいです。 ただ、丸櫂先ながら、 その先端に左肩上がりに一刀を入れたものが多く見られるそうで、 これが、織部らしい特色なのだとか。 例えば、共筒茶杓「宗句参」(徳川美術館蔵)などがそうみたいです。 他にも、竹二重切花入(静嘉堂文庫美術館蔵)などもあるようです。 利休作の「前へフミ出シタル」竹花入の「尺八」や「小田原」を 手本としたものなのだとか。 現存する手作りの茶道具からは、 「へうげもの」というイメージの 奇抜で、自由闊達な作風は、 残念ながら、あまり見受けられないようです。 ■織部の茶室「燕庵」 織部の茶室は、非常に革新的なものだったそうです。 例えば、茶室「燕庵(えんあん)」は、 茅葺き入母屋造で、南東隅の入り込んだ土間庇に躙口をあけているそうです。 三畳台目に二枚襖を隔てて相伴席を付設したのが最大の特色なのだとか。 つまり、初座の時は、炉の前に正客が座り、 後座の時には、床の前に正客が座るという、 「居替わりの席」だそうです。 写真などを見た方がわかりやすいのですが、 言葉で説明すると、以下のようになるでしょうか。 下座床の床の間は、手斧目(ちょうなめ)を施した杉の床柱で、 床框(とこかまち)は、真塗みたいです。 床の脇の壁には下地窓が開けられ、 花入の折釘を取り付けて「花明窓(はなあかりまど)」と 呼ばれているようです。 茶道口の方立(ほうだて)には、竹が立てられ、 風炉先には雲雀棚(ひばりだな)が設けられているそうです。 台目構の袖壁が、さらに奥へ続く壁と言った以下しており、 壁留が、そのまま伸びて、下地窓の敷居となっているのだとか。 天井は、点前座の蒲天井(がまてんじょう)が、 そのまま客座側の天井に繋がり、 二つの面が直角に組み合わさっているそうです。 点前座の勝手付に色紙窓が開けられ、 上下二枚、形の違う窓が、 中心軸をずらして配置されているみたいです。 特に、下の窓の敷居が、床面の高さになっているのが、 織部のデザインなのだとか。 この燕庵のような姿を「燕庵形式」と呼ぶそうで、 武家はもとより、巷でも、ずいぶん普及した茶室の形式だったようです。 残念ながら、現存する「燕庵」は、 1864年の蛤御門の変で焼失してしまい、 1831年頃に摂津有馬の武田氏が、 「燕庵」を忠実に写していたものを、 1867年に、藪内家に移築したものみたいです。 ■燕庵形式の茶室 松屋の日記によると、1596年に、織部の伏見屋敷に 「望覚庵(ぼうかくあん)」という三畳台目の茶室があったそうです。 これは「燕庵形式」から相伴席を除いた間取りだったみたいです。 また、竹の中柱がなかったり、 点前座勝手付の色紙窓がないなど、違いも多かったようです。 1596年(同じ年?)の伏見大地震で倒壊したようで、 その後「凝碧亭」を建てるそうです。 1599年、神屋宗湛の記録によると、 「凝碧亭」は、「燕庵形式」と呼ぶにふさわしく、 相伴席を持ち、色紙窓もあり、 床の間の墨跡窓には、花入掛けの釘が打ってあったのだとか。 その後、「燕庵形式」の茶室をいくつか造っているそうです。 例えば、1601年、松屋の屋敷の茶室や、 1611年、堀川の自宅の茶室などがそうだとか。 その他、松屋の屋敷に、相伴席を持たない形式の三畳台目の茶室や、 四畳台目の「八窓庵(はっそうあん)」などがあるようです。 ■織部流の新たな茶 慶長6年(1602年)11月20日の昼会「勢高肩衝の開き茶会」において、 織部は、はじめて、床の間に利休の手紙を使っているそうです。 この利休文は 「なみだをながし申候つぼハ返し申間敷候」 というものだったみたいです。 茶の湯の掛物と言えば、墨蹟や和歌などが使われていた時代、 特別な場合を除いて、 個人の手紙が使われることはほとんどなかったとのこと。 また、織部は、形見になった利休茶杓の筒にのぞき穴を開け、 そこから見える茶杓を位牌に見立てて、 朝夕礼拝していた、といわれているみたいです。 数寄というのは、人と違ってするのが利休風なのだそうです。 利休が作り上げた「わび茶」と同じく、 織部もまた「新たな茶」を模索していたのかもしれません。 ■瀬田の擬宝珠(ぎぼし) 『茶話指月集』から逸話を1つ。 利休の昼の茶会で 「瀬田の橋にある擬宝珠の中に、 形の見事なものが二つある。 これを見分ける人はいないものか。」 と語ったそうです。 その場に古田織部が居たはずなのだが、 急に姿が見えなくなったみたいです。 誰もがいぶかしんだところ、 晩になって帰ってきたので、 利休が、 「何の御用があったのですか。」 と聞くと、 「いや、他のことでもありません。 例の擬宝珠を試しに見分けてみようと思い、 早馬にて瀬田に参り、只今帰りました。 さて、二つの擬宝珠とは、 東西のそれとこれではありませんか。」 と尋ねたので、 利休は、 「いかにも、それです。」 と答えたそうです。 一座の人々は織部の執心のすごさに感心したとか。 ■露地の樅(もみ)の木 『茶話指月集』から逸話を1つ。 利休は、露地の植木には、 大体において松や竹を使い、 下木には茱萸(ぐみ)を植えたそうです。 古田織部は、僧正が谷という地で、 樅(もみ)の木の葉が、 降り積もった古びた風情を見て面白く思い、 はじめて庭木として植えたとのこと。 ■波の打ち寄せる景色 『茶湯古事談』より逸話を1つ。 秀吉が小田原征伐を終え、 随行していた利休も帰洛することとなり、 古田織部と一緒に、 馬で由比の浜辺を通っていたときのことだそうです。 利休は先を行く織部に追いつくと、 「織部殿、この砂浜の景色を見て、 何か茶の湯に取り上げることを思いつかれませんか。」 と尋ねたみたいです。 しかし、利休の突然の問いに、さすがの織部も、 「いえ、何も思いつきませんが。」 と答えるだけだったようです。 そこで利休は、 「この砂浜に波の打ち寄せる景色を、 私は風炉の灰形に生かそうと思いつきました。」 と言ったとか。 織部は大いに感じ入り、 共に馬を並べてしばらく語り合ったそうです。 ■細口の釜には・・・ 『茶道旧聞録』より逸話を1つ。 ある時、織部が織田有楽を茶会に呼んだみたいです。 織部は細口の釜に大振りの柄杓を使ったそうです。 帰宅した有楽は、 「細口の釜には、 小ぶりの柄杓を使うものだ。」 と漏らしたとのこと。 これを伝え聞いた織部は、 「そんな考えだから有楽はお茶が下手なのだ。 細口の釜に、小ぶり柄杓を使ったら、 合わせたようで、かえっておかしなものだ。」 といったそうです。 『茶道旧聞録』に 「有楽公、古織エ茶湯ニ御出アリシトキ、 細口ノ釜ニ大フリ成ル柄杓ヲツカハレシヲ、 有楽公御帰リアリテ、 小フリ成ル柄杓ヲ取合サテト仰ラレシヲ、 古織伝エ聞テ、 [左様ノ物数寄故、茶湯下手ナリ、 ケ様ノ細口ノ釜ニ小フリナル柄杓ヲツカエハ、 アハセタルヤウニテ悪シ] ト云々」 とあるようです。 ■古田織部の他の逸話 古田織部の逸話には、他にも以下のようなものがあるみたいです。 ・「茶入の洲蓋」について 牙蓋の洲を賞翫して、客側に改めた。 ・「籠の花入」について 籠花入には、薄板を敷かないよう改めた。 ・「泪の茶杓」について 黒漆の茶杓の筒を自作した。 ・「鎖の間」について 「式正の茶」として復活させた。 ・釣棚 「二重棚」の上の棚を大きくした「雲雀棚」を作った。 ・燗鍋 最初に燗鍋を席上において用いるようにした。 ・古田織部の拝見 水指ではなく、風炉を拝見した。 ・茶室「燕南」形式の床 床の内部全体の景を華やかにした。 ・織部司の織部助ほか 書類には「織部助」と自署した。 ・古伊賀水指「破袋」 古伊賀水指「破袋」を見出した。 |
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読み:おだうらく(おだ ながます)
織田有楽(織田長益) |
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生年月日
1547年 〜1622年1月24日 |
織田長益は、織田信秀の十一男で
織田信長
の弟だそうです。
有楽斎如庵(うらくさいじょあん)と号したとか。 有楽は通名を源五郎と言ったそうです。 信長は有楽を「源五」と呼んでいたようですが、 武家社会では、 「五郎」は「御霊」につながると言われ、 神がかった存在として扱われたのだとか。 織田家は元々、古代の忌部氏の出自だったため、 このような迷信(信仰)が強かったみたいです。 これが信長が有楽に「茶」を命じた理由なのだとか。 利休十哲の一人にも数えられ、 本能寺の変の後、剃髪して有楽斎と称し、茶道有楽流を創始したとのこと。 姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会ったとか。 東京都千代田区有楽町という町名は、織田有楽斎に由来しているそうで、 「徳川家康に数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領」 →「屋敷跡が有楽原と呼ばれる」 →「明治時代に有楽町の名がつく」 となったようです。 ■武人・織田長益 秀吉の下での務めは、淀君の後見人だそうです。 淀君は、信長の妹・お市の子供であった関係からみたいです。 有楽は、大阪冬の陣・夏の陣で、 冬の陣まで淀君の叔父として和平派の中心にいたようです。 冬の陣の和談が調った慶長十九年十二月二十四日、 茶磨山の家康(実は幼馴染)のもとへ行き、 どちらにも組せず、隠棲する道をとるそうです。 『大坂御陣覚書』に 「御和談にて、いつまでも豊なる御代にまかりなり侯。 これにて一生を送り侯と茶をたて侯まねをいたされ侯よし」 とあるとか。 織豊政権はあくまでも信長が樹立したものであり、 豊臣氏としての権威は不安定なものだったみたいです。 結果、大阪冬の陣の折には、豊臣政権内で、 有楽が事実上織田の当主の権威を持っていたようです。 大阪方から離れたその年の内に、 有楽は京都二条に移り、 建仁寺の正伝院・西来院・普光庵・定恵院など四つの寺の旧地を買い戻し、 建仁寺に寄進して自らがそこに住むという形を取ったそうです。 また、隣接する竹林も、このとき、買い足したようです。 有楽屋敷と俗に言われるこの場所は、 建仁寺の北側に位置し、 四条通りまで今のちょうど花見小路一帯が該当するとか。 如庵はこのうち四条から南に入って、 中程過ぎあたりに建てられていたようです。 ■茶室如庵 1618年、京都・建仁寺の塔頭・正伝院が再興された際に、 織田有楽斎によって建造された茶室が、 国宝指定の茶室「如庵(じょあん)」だそうです。 この如庵という名称は、一説によれば、 織田有楽斎のクリスチャンネーム、 「Joan」または「Johan」から付けられたのだとか。 なお、織田有楽斎は、これより前に、 如庵の名を持つ茶室を、大坂天満屋敷にも造っているそうです。 現在、同じ有楽苑内に「元庵」の名で復元されているとか。 大和柳本藩の記録によれば、 17世紀末に「如庵」は大破したそうですが、 有楽の子孫の織田長清と織田秀親により、 修復されるみたいです。 その後、1873年に正伝院が永源庵跡地に移転した際、 祇園町の有志に払い下げられたようです。 1908年、東京の三井本邸に移築されるのですが、 この際、解体せずに、原型のまま車両に積んで、 東海道を東京まで運搬したのだとか。 1936年に重要文化財に指定されるそうです。 1938年、三井高棟によって、 神奈川県中郡大磯の別荘に移築するみたいです。 1972年、名古屋鉄道によって、 愛知県犬山市の有楽苑に移築され現在に至るようです。 1951年に文化財保護法による国宝に指定されてそうです。 この茶室、こけら葺き入母屋風の妻を正面に向け、 千利休 の「待庵(たいあん)」とも違った瀟洒な構えを持った、 二畳半台目の向切りの茶室だとか。 その特異な設計から「有楽囲」とも呼ばれたみたいです。 「有楽囲」は、床横に鱗板という三角形の地板をはめ込み、 通いを容易にしたり、 点前座側の窓に竹を詰め打ちにし、 外光を適度に抑えたりしたもののようです。 国宝の茶室は、この「如庵」と、 京都山崎妙喜庵内の「待庵」、 徳寺龍光院内の「密庵」の3つみたいです。 中でも、国宝「待庵」は日本最古の茶室建造物であると同時に、 千利休作と信じうる唯一の現存茶室だそうです。 ■茶人・有楽斎 茶の湯は、千利休に学び、 茶の湯の巧者として知られたようです。 その茶説・茶書が『茶道正伝集』『貞置集』に纏められており、 のちの茶道有楽流のおこりとなっているそうです。 有楽は、利休七哲や台子七人衆の一人として、 また特に織部亡き後、茶頭の名が一段と高くなったようです。 「如庵」を営んだあと、茶道三昧の生活をし、 1621年12月12日、75歳で没したようです。 ■台子の伝授 『貞置集』に以下の話があるそうです。 あるとき、秀吉が、台子の伝授に関して、 私事で台子の伝授をなすことを禁止する誓紙を 利休に出させたそうです。 その後、有楽が、年来の巧者とのことで、 秀吉の許しを得て、秀吉の面前で 利休が直接伝授したとのこと。 台子相伝が無事に済み、有楽が退席しようとしたとき、 利休は「台子の極意を教える」と言ったそうです。 有楽が「是非とも承りたい」と言うと、利休は、 「本来茶道に大事の習いなどというものはありはしない。 すべて各人の作意、趣向で行うのが、台子の秘事であって、 習いなどのないことを台子の極意とするものだ。」 と答えたそうです。 なお、これを利休切腹の遠因とする説もあるとか。 『貞置集』に 「茶道に大事ならひと云事更なし、 皆是自己の作意機転にて 習のなきを台子の極意とする」 とあるそうです。 ■茶入の蓋のサイズ 『茶話指月集』に 「茶入の蓋のサイズ」について の逸話があるようです。 利休の 「茶の湯を一概に思い詰めてするのは良くない。 その場その場にあった趣向、作意ができなければならない。」 との教えから、 有楽は、自分の浅はかな考えに恥じ入ったそうです。 ■清めの病 高山右近の茶を、大病があるといって批判した逸話があるようです。 右近は、所作・点前および、趣向も良いけれど、 清めの病があって、真の清潔とは何かを知らない。 何故なら、露地の辺ばかりでなく、 縁の下に及ぶまで掃き清めるばかりで、 いつ掃除をしたかわからない。 清めることは誰にでもできるが、 清き心を保つことは容易ではないそうです。 ■有楽流は、武家茶・大名茶 有楽斎の茶は武家茶の形を保ちつつ 「茶道は極まりないもの」 と創意工夫を重んじ、 現在も大名茶(有楽流)として伝えられているとか。 平成25年1月20日は、 港区の東京グランドホテル5階で初釜が開かれたとか。 家元は織田宗裕(芝村織田家歴代・十七代目)とのこと。 有楽の点前の特徴の1つは、室内で立つという動作がないこと (運び出しがない点前)だそうです。 茶室内、点前畳の脇あるいは向こうには道幸をもうけて、 道具の運び出しはしない。 また、茶碗を濯いだときも、 汚れた湯水を建水に落とすのではなく道幸内にもうけた流しに、 そのまま捨ててしまうのだとか。 神宮文庫所蔵『円院御文庫本』には、 「有楽公伝ハ水屋道幸卜云 仕様ハ下ヲくれ縁にして 水をすぐになかし侍る也。 しかれば水なくしてすみ申しかた也。 戸を−所あけて置て、作法をする也。」 とあるようです。 もう1つの特徴は、茶碗や茶入れの袋の緒の結び方だそうです。 「有楽結び」と呼ばれたこの「結び技法」は、 東山茶道の流れを受け継ぎ、 香道の志野宗信(志野流の祖)とも共通するところみたいです。 遠州流の茶書『孤蓬庵茶点無尽蔵』に 「袋茶碗ノ緒、結び様、品々アリ。 ウラク結びめづらし」 と称賛されているとか。 |
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読み:こぼりえんしゅう(こぼり まさかず)
小堀遠州(小堀政一) |
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生年月日
1579年 〜1647年3月12日 |
小堀政一は、幼名は作助、
「遠州」は武家官位の遠江守に由来する通称で後年の名乗りだそうです。 道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵と号したとか。 ■小堀遠州の生涯 はじめ、小姓(武士の職名)だった小堀政一は、豊臣秀吉への給仕を務め、 父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅したようです。 1595年、豊臣秀吉の直参(主君に直接仕えること)となって伏見に移り、 ここで古田織部に茶道を学ぶことになるそうです。 小堀政一は「若い時に一度だけ 利休 に会った」らしいですが、 どうやらちらっと見かけた程度だったみたいです。 この頃になると、 利休 とあまり関係を持たない世代へと移行するようです。 1598年、秀吉が死去すると、父・正次と共に、 政一は徳川家康に仕えたそうです。 父・正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、 1604年、父の死後、政一はその遺領12,460石を継いだとか。 1608年、政一は、駿府城普請奉行となり、 修築の功により従五位下遠江守に叙任されるそうです。 以後、この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになるみたいです。 なお、この修築は、伏見城・仙洞御所・駿府城などだそうです。 1619年10月に近江小室藩に移封、 1622年9月に近江国奉行に任ぜられるとか。 ここに陣屋を整備し茶室も設けたようですが、 政一は、ほとんど使わなかったみたいです。 1624年1月、さらに伏見奉行に任ぜられ豊後橋(現:観月橋)北詰に、 新たに奉行屋敷を設け、 その後、ほとんどをここで暮らしたとか。 晩年になり、公金1万両を流用したとする嫌疑がかかったそうです。 しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされたみたいです。 政一は、伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし、 1647年3月12日、伏見奉行屋敷にて69歳で死去したようです。 ■天下一の宗匠へ 小堀遠州は、早くから古田織部に茶を学び、 秘蔵の弟子といわれたようです。 織部没後、江戸品川御殿で徳川家光に献茶、 ここに、将軍家茶道師範となり、 天下一宗匠と称せられることとなるみたいです。 生涯に400回あまりの茶会を開き、 招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に、 延べ人数は、2000人に及ぶとのこと。 1646年の茶会で使われた道具は、 中国の美術・工芸に加えて、日本公家歌人の書や画家の作品、 茶入は当時焼かれたばかりの品、といった感じで、 「中国・日本の伝統的な美術が適度に配置されたもの」 だったみたいです。 ■綺麗さび 小堀遠州は、書画・和歌にもすぐれ、 王朝文化の理念と茶道を結びつけて「綺麗さび」という 幽玄・有心の茶道を創り上げたとか。 綺麗さびというのは、 例えば、茶陶における遠州七窯の作品、 さらに茶室における明るく開放的な手法などがそうみたいで、 これらが総合されたときに出現するのが、 遠州が制定したとされる「中興名物」だとか。 利休が楽茶碗や竹の茶杓を見出したように、 中興名物は、それまでの大名物・名物のほかに、 遠州独自の美の基準によって、 茶器を次々に選びだしていったものみたいです。 ただ、茶器の銘に『古今集』『新古今集』の和歌を使用し、 利休の「緊張感あふれたもの」ではなく、 「華やかなうちにも寂びのある風情」をその基準としたようです。 現在も、遠州流茶道として続いているようで、 1956年9月17日生まれの十三世「小堀宗実(不傳庵)」は、 平成13年元旦に家元になったとか。 『小堀遠州茶訓』に 「茶を点するに勤謹和緩と云う習ひ有り。 大概をいはば,勤は「つとむる」と読て総て茶を点つる人により 時節により所により 事に物々によりて其品替り有り 殊に茶は 礼の物なる故に点様置合等万事礼を以てす。 乃至、謹は「つつしむ」と云て先づ身の曲尺を定むべし。 是の体にて向て用に背かず 用に向って体に背かずと云ふ習あり。 さて 客を敬ひおもむる心 又は 諸の器の扱ひ等を謹めとなり。」 とあるようです。 ■小堀遠州と千宗旦 当時、小堀遠州の茶は、千家側から酷評されたようです。 小堀遠州の茶の湯理論書『書捨文』に対して、 速水宗達は『茶の湯口訣』で、 「此本文ハ、 小堀何某の真筆あるよしきこえけれど、 敢て信じるがたきハ、 ここかしこ欺疑敷赴あれば、 後人の妄説ならん」 と極論したそうです。 また、速水宗達は『喫茶指掌篇』で、 以下のような話をしているようです。 遠州が江月宗玩の龍光院で、 水仙花を置筒に入れることを求められた。 茶事の中で花所望があったようだ。 連客もあった。 遠州は、見事に咲いた5・6本の水仙の花を 只一輪残して、 「跡は皆もぎすて」 葉を添えて入れるのだが、 茎が浮出してしまう。 度々直すのだが留まらない。 そこで小刀で茎を 「さきかけ」 で治めた。 葉一枚を 「前へ少折懸」たが、 「殊の外久敷」く、 時間を要したらしい。 結果的に、速水宗達は、この話で、 遠州には、作意がありすぎ、 第一連客を退屈させたとい言いたかったようです。 この件で、藤村庸軒は、小堀遠州を擁護して、 「当時、遠州を気に入(ら)ぬと云人は、 貴僧のみ成べし と云った。 すると天祐は、 只今にも利休に右の様子を話たらば、 予が申分を多分善と云へし」 と自説を主張したそうです。 ■小堀遠州の発明「洞水門」 遠州の創案した洞水門は、 今日、水琴窟と呼ばれるものの原型みたいです。 遠州18歳の折り、伏見屋敷内で、この洞水門を工夫し、 師匠の古田織部を招いたところ 「此年迄かようの水門を見ず。遠州は名人に成るべき人也」 と大いに感心されたのだとか。 蹲踞(つくばい)を使う度に、 どこからともなく美しい音色が響く洞水門は、 地中に大振りの甕を埋め、落下する水が甕の底に溜まった水に当たり、 内部で反響する仕掛けだそうです。 遠州の後も更に工夫が重ねられ、 甕の胴に通した管から排水し、常に水位を一定にし、 客人が多い場合でも良い音響を保てるようになったとか。 ■茶室・密庵席 遠州作の茶室の中でも「密庵席(みつたんのせき)」は、 当時としては最小の書院だったとのこと。 西側の縁側境を明障子、 南側の十畳間との境を襖で仕切り、 東北側に手前座、 北側壁の西寄りに床の間を設けているようです。 この床の間とは別に、 国宝「密庵墨蹟」の掛け物を掛けるための専用に、 手前座の南側に奥行の浅い床の間を設けているとか。 また、床のみならず付書院があり、 遠い棚には松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)の描いた、 小襖がたてられたそうです。 それまでの土壁で囲われた茶室と違い、 書院の中に草庵の要素を取り入れたものだったみたいです。 ■織部燈籠 久保権大輔著『長闇堂記』より逸話を1つ。 昔は四畳半では縁の上がり口に、 六畳・四畳では屋根の下にある土間に、 手水(ちょうず)が据えられていました。 抜け石(川底から掘り出した石)の石船を据えるか、 木を掘ったものか、 桶を置くこともありました。 織部殿の時、五十人・百人で持つような大石の石鉢となりました。 長鉢は橋本町の川橋に擬宝珠があるのを、 奈良代官の中坊源吾殿へ私が頼んで手に入れました。 それを小堀遠州殿が取られ、 長さを二尺八寸に切り、 伏見六地蔵の屋敷の露地に据えられました。 後に台徳院様(二代将軍・徳川秀忠)へ上り、 江戸へ下しました。 また、柱に仏のある石燈籠の石は、 奈良京終町天神の車よけに埋め込まれていたのを、 私がもらったものです。 これも遠州殿がお取りになって据えられましたが、 台徳院様へ上げられました。 それから一時期は、仏張り付けが流行しました。 ここで言う「柱に仏のある石燈籠」というのは、 柱に仏像ないし、人物像を浮き彫りにした燈籠のことだそうです。 織部燈籠とか、切支丹燈籠などと呼ばれているとか。 |
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読み:せんそうたん
千宗旦(元伯宗旦) |
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生年月日
1578年2月7日 〜1658年12月19日 |
金森宗和
の華麗な茶風「姫宗和」に対し、
わび茶に徹する「わび宗旦(むさし宗旦)」として世に知られたとか。 父は 利休 の後妻千宗恩の連れ子 千少庵 で、 近年の研究により、 利休 の実子 千道安 を父とする説は否定されたとか。 弟子には杉木普斎・山田宗偏・東福門院(和子)らがいたみたいです。 皆、後世その茶を継いで、独自の茶境を開くとのこと。 宗旦は、生涯清貧に甘んじるのですが、 三人の息子には大名家に仕えることを勧め、それぞれ 紀州徳川家: 千宗左 (表千家)、 加賀前田家: 千宗室 (裏千家)、 讃岐松平家: 千宗守 (武者小路千家) と仕えたそうです。 この三人の系譜を特に「三千家」と呼ぶとのこと。 なお、江戸中期までは、千家系の流儀という意味で、 「宗旦流」という概念があったそうで、 近衛予楽院著の言行集『槐記』に、よく登場するみたいです。 ■茶室・今日庵 利休切腹後、豊臣秀吉から千家復興を許された父・少庵から、 不審庵を譲り受けた千宗旦は、 1646年、不審庵を三男・宗左に譲り、 自身は北隣に今日庵を建てて隠居したそうです。 裏千家によれば、茶室「今日庵」の名は、 以下の逸話から取られたようです。 席開きの日、宗旦は、参禅の師である清巌和尚を招いたようですが、 刻限を過ぎても和尚は現れず、 やむなく「明日おいでください」という伝言を残して、 ほかの用事で出かけたとのこと。 宗旦の留守の間に和尚がやってきて、 茶室の腰張りに「 懈怠比丘不期明日(けたいのびくみょうにちをきせず)」 と書きつけて帰ったそうです。 「怠け者の私は明日と言われても来られるかどうかわかりません」 という意味から、 宗旦はこの茶室を今日庵と名付けたのだとか。 ただ、茶室「不審庵」の名の由来となった、 古渓和尚の 「不審花開今日春」にいう 「不審庵」一畳大目と一対になる庵号だった、 とする説もあるとか。 この「一畳大目」というのは、 『江岑咄之覚』の 「小座敷ハ一畳半と四畳半と、 利、少へ被申候」 (小座敷は、一畳大目だけでは機能せず、 四畳半を併せ持ち、二つを使い分けて行く中に、 侘び茶が初めて成就される。) のことみたいです。 ■千宗旦の出自 千宗旦の出自に関しては、諸説あるそうで、 現在も、千利休の血脈に関して、 いろいろと議論されているようです。 さて、千宗旦の350年忌にあたった2007年、 表千家と裏千家で千家の系図が公開されたそうです。 それによると、表千家では、 千利休→千少庵→千宗旦 と、男系だけを示しているみたいです。 また、図録の「元伯宗旦年譜」では、 千宗旦は「少庵の長男として生まれ、母は利休の娘といわれる」 としているとか。 「いわれる」と言うのがポイントで、 出自の論争に関しては、明言を避ける形を取っているようです。 一方、裏千家では、 「お亀を千利休の先妻(宝心妙樹)の実子」と位置づけ、 千少庵とお亀の子→千宗旦 としているみたいです。 ただ、通説では、お亀の母親は不明だそうで、 この点は、裏千家独自の見解と考えられるようです。 米原正義著『天下一名人千利休』の 304ページに 「利休一族略系図」というのがあるようで、 研究者の間で議論のあることを、 すべて書き込んだ系図なのだそうです。 これによると、母親のわからない利休の子が、 多数いて、全部で10人以上にものぼるのだとか。 ■宗旦四天王、及び東福門院 宗旦の門弟のうち、特に高名な4人を言うそうです。 ・藤村庸軒 ・杉木普斎 ・山田宗偏 の3人と、 ・久須美疎安 ・三宅亡羊 ・松尾宗二 の3人のうち1人を入れるようです。 当時、宗旦が世に知られたのは、 その侘び茶の力であったことに間違いはないのですが、 さらに、良き門弟達や交友に恵まれていたことも、 見逃すことができないみたいです。 中でも、後水尾天皇の室・東福門院のもとには、 稽古に参上していたようで、 特別に紅茶巾や爪紅台子などを好んだりした、 とも伝えられているとか。 ■宗旦銀杏 宗旦自ら植えた銀杏の木だそうです。 明治39年、表千家からの失火の折、 そびえ立った銀杏の木の梢のまわりに、 霧のようなものが立ち込め、 そのおかげで、裏千家は類焼を免れたのだとか。 以来、太い幹には、 しめ縄が張られるようになったようです。 ■花の香りを楽しむ 『江岑夏書』に、以下の話があるそうです。 蘭などの香りの高い花を入れるときは、 伽羅(香木)にせよ、薫物(練香)にせよ、 香は焚かないものです。 宗旦はいつもそのようにしていました。 すぐれたことですが、 いまの人は知らないことです。 ■柄杓の置き方 『普伝茶書』に、以下の話があるそうです。 風炉の柄杓の置き方については秘事であります。 引き柄杓には三段ありますが、 利休は、早く引いて遅く置きました。 少庵は、遅く引いて早く置きました。 宗旦は、中くらいに引いて中くらいに置きました。 柄杓を引くということは、 合を釜にかけ、親指を離して前に引くことです。 ただし、四本の指が少しう仰向くようにするのがよいでしょう。 また、柄杓を置くというのは、 合を釜にかけて引き、 手を柄の端で離すときの遅い早いのことです。 ■客を待つ宗旦 『喫茶指掌握編』に、以下の話があるそうです。 藤村庸軒が、かねがね宗旦と約束しておいた、 朝茶事に行くのに、夜明け前に出かけて行ったところ、 宗旦が小座敷で琵琶を奏で、 平家物語を語っているのが聞こえてきました。 庸軒が来たことを告げられると、 やがで宗旦が姿を現しました。 庸軒を小座敷に案内するや、 宗旦が、 「駕籠(かご)で来られたか、それとも徒歩ですか」 と尋ねました。 庸軒が 「歩いてきました。」 と答えると、 「それならば、まず薄茶を一服差し上げましょう」 と言って茶を点て、 庸軒にすすめました。 その後、行灯を引き寄せ、炭を直しながら、 「あなたが来られる間に二度炭を直しましたよ」 とおっしゃいました。 茶事に備えて、夜中から火の用意にかかり、 客を待つ間に一人悠然と「平曲」を語る宗旦の姿に、 「格別の味わいがある」 と、後々まで庸軒は語ったということです。 |
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読み:せんそうしゅ
千宗守(一翁宗守) |
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生年月日
1593年 〜1675年 |
一翁宗守は、千宗旦の次男で、
似休斎(じきゅうさい)とも号した、 武者小路千家の祖だそうです。 一翁宗守は、兄の閑翁宗拙同様、最初、父の下を離れるようです。 そして、都武者小路にあった塗師・吉文字屋与三右衛門の養子となり、 吉岡甚右衛門(よしおかじんうえもん)と名乗り、 塗師を業(なりわい)としたみたいです。 やがて千家の兄弟達の勧めで、その技を初代・中村宗哲に譲り、千家に復帰、 現在の地に茶室「官休庵」を建て、茶人としての道を歩み始めるようです。 以降、陽明家(ようめいけ)・近衞家(このえけ)・ 讃岐高松藩の茶道指南役に就いたみたいです。 一翁宗守の号は、大徳寺の玉舟宗バン(※バンは、王偏に番)から、 与えられたようです。 宗旦没後の1666年に、 讃岐高松藩の松平頼重の元へ茶堂として出仕しますが、 翌1667年には老齢を理由に退き、 文叔宗守にその地位を譲ったみたいです。 その後、武者小路の現在地で、 悠々自適・茶三昧の生活を送ったそうです。 ■官休庵 「官休庵」は、 父・宗旦 と相談して茶室を造った時に、 父からつけて貰った名で、 その所在地名から武者小路千家と通称され、現在に至るとか。 「官休庵」の由来は、 「茶に専念するために茶道指南を辞めたのであろう、という意味」 または、 「一翁が高松の松平侯の茶頭としての仕事を引退し、 官をやめた侘人の庵室、という意味」 など諸説あるとか。 ■吉文字屋のその後 吉岡甚右衛門(一翁宗守)が去ったあと、 中村宗哲が誕生するまでには、いくつか説があるようです。 @宗守の娘説 中村忠滋という、元・豊臣家の家臣がいて、 この忠滋に一翁宗守の娘を嫁がせ、 初代・宗哲を名乗らせるとともに、 吉文字屋の号と、塗師の職を譲ったという説。 A吉文字屋の次女説 一翁宗守の養家・吉文字屋には、二女があり、 一翁宗守は長女に嫁入りし、 次女が、中村家に嫁いでいたため、 一翁宗守が茶匠として独立してからは、 次女の婚家である中村家が、 塗師の職を継いだという説。 ■茶杓 一翁宗守が削る茶杓は、 利休の茶杓に酷似していたそうです。 似休の号や、茶杓の作ぶりから、 一翁宗守は、利休の茶の湯に、深い憧憬を 持っていたとも考えられるとか。 |
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読み:せんそうさ
千宗左(江岑宗左) |
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生年月日
1619年 〜1672年 |
宗旦は、不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑宗左に、
北裏に今日庵を建て 仙叟宗室 とともに移り住んだそうです。 この茶室「不審菴(ふしんあん)」の号は「不審花開今日春」の語に由来するとか。 江岑宗左が初代紀州藩主の徳川頼宣に献じた「道入作・葵御紋茶碗(あおいごもんぢゃわん)」は、 江岑が拝領し、現在、表千家に伝わっているそうです。 1662年、江岑は随流斎に宛てて、 利休 以来の教えを書き留めた江岑夏書(こうしんげがき)を記したようです。 随流斎というのは、久田宗利と 元伯宗旦 の娘「くれ」との間に生まれた子で、江岑の養子となって家元を継いだ人みたいです。 表千家では代々「宗左」を称するけど、随流斎だけは「宗佐」の字を用いたそうです。 覚書として『随流斎延紙ノ書』を残しているとか。 表千家の濃茶の服加減は、 利休 が「薄く」点てたことから、 織部 の「濃くねばりつくように」点てることが流行った時代を経ても、 現在に至るまで、「薄く」点てるとのこと。 |
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読み:せんそうしつ
千宗室(仙叟宗室) |
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生年月日
1622年 〜1697年 |
仙叟宗室は、はじめ
宗旦
の意向で、医者の野間玄琢の門に入り「玄室」と名乗るのですが、
1645年に野間玄琢が急死すると、 宗旦 の元に帰ったようです。 翌1646年、 宗旦 は、三男の 江岑宗左 に家督を譲り、 屋敷の北裏十六間四方に、隠居屋敷と茶室「今日庵」を建て、1648年に玄室を連れて移ったとのこと。 家にもどってきた玄室は、東福門院の薬師を目指すのですが、うまく行かず、 宗旦 に「玄室有付候へは我等死去おもひなく」と心配されるそうです。 1651年、小堀左馬助正春の肝煎りで、加賀小松家前田利常に召し抱えられ、「宗室」と改名、 1653年には、 宗旦 から隠居屋敷と茶室「今日庵」を譲り受けるようです。 宗旦 自身は、四畳半の庵「又隠(ゆういん)」を建て、再度隠居するみたいです。 ちなみに「又隠」の名は、また隠居するという意味から命名されとか。 裏千家は、現在ある茶道諸流派中最大の流派で、本家の表千家(不審菴)に対し、 裏千家(今日庵)が通りからみて裏にあるところから名前がついたそうです。 今日庵の名は、 宗旦 が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、 所用があるとして留守にした 宗旦 が、明日の来席を請うた際に残した 清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」という書き付けから来ているとか。 |
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読み:かなもりそうわ
金森宗和 |
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生年月日
1584年 〜1657年1月30日 |
金森宗和は、
千道安
にわび茶を学ぶけど、
古田織部
や小堀政一
の影響を受けたり、
後水尾院といった公家との交流から「姫宗和」と呼ばれる優美な茶風を築きあげるようです。 徳川家光に招かれたこともあるとか。 すでに 千宗旦 や 小堀遠州 らが活躍していた時代、新たに茶匠として出発するのは大変だったみたいです。 宗和流茶道の祖で、陶工野々村仁清を見出したり、 大工・高橋喜左衛門と塗師・成田三右衛門らに命じて、飛騨春慶塗を生み出しもしたらしいです。 ちなみにこの飛騨春慶は、1975年2月17日に伝統的工芸品に指定されたそうです。 1654年12月13日、金森宗和主催の茶会では、 野々村仁清の作品を多く使用したらしく、何らかの意図があったみたいです。 この茶会以降、何度も仁清の御室焼を使いうとのこと。 その努力あってか、茶の湯のやきものとして御室焼が定着して行くようです。 |
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読み:かたぎりせきしゅう
片桐石州 |
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生年月日
1605年 〜1673年12月27日 |
片桐石州は、桑山宗仙に茶道を学んだそうで、
利休
とその系統の考え方「わび茶」を、
大名の茶の世界に取り入れた人らしいです。
第4代将軍徳川家綱のために『茶道軌範』を作成 1665年には家綱の茶道指南役となる 柳営茶道の規格を定める 他に、 『わびの文』:将軍の下問に答えて記したもの 『石州三百カ条』:瓢になぞらえて、わびの心を説明したもの 『一畳半の伝』:京都妙法院の門跡から下問に答えて、一畳半茶室での茶の湯について述べたもの といった著書を残し、石州流を不動のものとしたようです。 桑山宗仙は、 千道安 から茶の湯について学び、 千利休 の茶風を後世に伝える役目を果たした人だとか。 石州流愛知支部では、平成25年1月27日に、名古屋市東区の香楽で初釜があったみたいです。 |
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