茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

露地道具ってこんなの

露地はもともと、茶の座敷への道すがら、所謂「つけたり」だったそうです。
藤林宗源著で石州秘伝の『和泉草』には、利休 以前に関して、
「昔から露地などはなく、表にくぐりを切り開いて、
茶の座敷へすぐに入ったものである。
そしてそれは、侘びて面白いものである。」
とあるようです。

この利休以前の露地(つけたり)の呼び名は「坪之内」と言ったそうで、
紫式部著『源氏物語』の「つぼせんざいをながめ」とか、
清少納言著『枕草子』の「おまえへはつぼなれば、前栽などをうゑ」といった
ものがこれにあたるようです。

山上宗二著『山上宗二記』には、
紹鴎四畳半左勝手の外の空間を「面坪ノ内」「脇ノ坪ノ内」とに分け
利休以降の「露地」の原型のようなものが現れるそうです。

さて、ここでは最初に「露地」自体の説明をした後、
「露地道具」の説明をしていこうかと思います。

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=====露地=====     

=====飛石=====            =====敷石=====            =====役石=====            =====手水鉢 =====     

=====つくばい=====            =====石燈籠=====            =====垣根=====            =====植栽と苔=====     

=====関守石=====            =====塵穴=====     



=====露地道具=====     

=====露地草履・露地下駄・雪駄=====            =====露地笠=====            =====円座=====            =====つくばい柄杓=====     

=====手桶=====            =====湯桶=====            =====手水桶=====            =====塵箸=====     

=====露地箒=====            =====板木=====            ==========            =====塵取・手箒=====     

=====露地行灯=====            =====足元行灯=====            =====手燭=====     
露地 内容
飛石 久保利世著『長闇堂記』に、
足利義政 の時代、道貞という侘数寄の人がいて、
その庵に義政が狩りの帰りに、訪れた時、
義政 は草鞋を履いていたため、
路次(露地)に雑紙をしかせて通ってもらったが、
それを後に、石を打って直したのが最初」
とあるそうです。

桃山時代の茶人達は「草履」だったそうで、
苔の中を歩けば、湿気で草履が湿ってゆく関係上、
飛石や敷石を打ってそれを防いだようです。

南坊宗啓著『露地聴書』に、
「飛石は利休はわたりを六分、景気を四分に居申候由、
織部 はわたりを四分、景気を六分に居申候、云々」
といった記述があるようです。

また、石州秘伝『石州三百ヶ条』にも、
「飛石ハ利休ハ渡りを六ふん、景氣を四ふんに居申候由、
織部ハわたりを四ふん、景氣を六ふんにすへ申候」
とあるそうです。

この飛石の解釈は、北尾春道著『露地・茶庭』に
利休はどこまでも実用を本位とし、
織部はこれと反対に鑑賞と美的を本位として据えた」
とあるみたいです。
敷石 露地の中門の外側にぜひ造ってほしいのがこの敷石。
大きさは、幅:一尺〜一尺二寸、長さ六・七尺だそうです。

以下に敷石の種類を大別してみようかと思います。
切石敷 基盤敷・鱗敷・模様敷・縦布敷・横布敷・亀甲敷・
短冊敷・色紙敷・矢羽敷・卍敷・綱代敷・綸子敷
寄石敷 矩手目地・氷紋目地・矢鱈目地
玉石敷 霰零し(あられこぼし)・霰崩し(あられくずし)

役石 つくばいの周りの石で、前石・手燭石・湯桶石の三つをさすそうです。
 前石:手水鉢の手前正面の石。手水を使う際に乗る。
 手燭石:手水鉢の左側の石。夜の茶会時に灯りを置く。
 湯桶石:手水鉢の右側の石。冬など寒中の茶会時に湯桶を置く。
流派によっては「手燭石」と「湯桶石」が左右逆の場合もあるとのこと。
手水鉢
(ちょうずばち)
上記の役石とこの手水鉢をつけた構成が「つくばい」で、
江戸時代初期〜中期頃に形が完成したそうです。

ここでは、手水鉢についてのみ説明しようと思います。
「手水鉢」は、最初、土間・屋根の下・縁のそばなどに設けられていたそうで、
立ったまま(又は、やや腰をかがめる程度で)使ったみたいです。

立花実山著『南方録』に利休の話があるようです。
「雪の日の茶会は、できるだけ足跡が多くならないように心得るべきです。
飛石の上の雪は、水でそっと消すのがよろしい。
しかし手水鉢には水を入れないわけにいかないから、
手水鉢の上の雪は、見た目にも美しいように水をかけて消すのがよろしい。
ただし、手水鉢の石やまたそのあたりの木々などに、
風情よく降り積もっている雪はそのままにしておいて、
手水鉢は腰掛に片口でだしてもよろしい。」

久保利世著『長闇堂記』に、
「手水鉢は、昔は四畳半の縁さしにすえたり、
六畳や四畳の座敷の土間や軒の下にあった。
河川に合ったものをぬきとった自然石の船形のものなどがすえられいるのを利用したり、
また木をくりぬいたものや、桶などもすえた。
古田織部 の頃に、五十人か百人くらいでないと持てないような石の鉢をおくようになった。」
とあるそうです。

近世茶書の『茶譜』に、
千利休は、清水寺修復時、 秀吉に願って、清水寺の手水の石船の台柱になっていた石を拝領した。
この石は四角な石で、四方から梟を彫刻した。
水を溜める部分は丸く彫って、深さ八寸あまり、直径も八寸程度のものであった。
このような手水鉢を作って、大徳寺前の利休屋敷の不審庵の手水鉢にしたが、
このような四角な手水鉢にしたのは、台柱が四角であったからである。
この手水鉢を梟の水といい伝えた。」
とあるみたいです。

津田宗及著『津田宗及茶湯日記』に、
「永禄9年(1566年)12月19日の朝、
椋宗言が亭主となって茶会が行われ、客は高石屋宗好と津田宗及 であった。
初入りの時に、床に石菖鉢は飾られていて、座敷の中は灯がともっていた。
天目の茶碗で茶が出されたが、天目台はなかった。
やがて、手水の間、すなわち中立の時に、
今度は床の名物の古木の絵が掛けられてあったが、
それは初めて見たものであった。」
とあり、ここで「手水鉢」というものが初めて使われたようです。

神谷宗湛著『宗湛日記』にも、天正14(1586年)年12月19日以降、
「手水鉢」という記述があるみたいです。

この『宗湛日記』では、手水鉢の素材や形を知ることができるそうで、
以下のようなことが書かれているそうです。
「袈裟形・自然石・半円形に作った石・桶を利用・釣瓶の利用・
松の木を丸太のまま船形に長く切り、水穴を掘る・
苔むした丸石、蓋あり・石造宝塔塔身の利用・
自然石を台にして、その上に湯桶を使う」

以下に手水鉢の形の区分けを記載しようかと思います。
自然石 富士形 鹿苑寺金閣夕佳亭露地に本歌がある。
司馬温公形 京都等持院清漣亭に本歌がある。
司馬温公の幼年時代の故事、
「瓶の中に落ちた友達を救うため、瓶に投石して危急を救った」
ということからこの名前があるとか。
鮟鱇形 本歌なし。
唐船形 本歌なし。
鹿苑寺金閣の玄関付近に巨大なものがあるとか。
鎌形 本歌は桂離宮の月波楼前にある。
誰袖形 京都清水成就院に本歌がある。
袖の形をした珍しい石。
一文字形 本歌はないが類品は多い。
京都の青蓮院や東海庵、智積院、勧修寺などにある。
方形利用品 四方仏 本歌なし。
主に層塔・宝きょう印塔の塔身を利用したもの。
塔身の四方に仏像や梵字による種子をあらわしたものなどがある。
梟形 本歌なし。
宝きょう印塔の塔身を利用したもの。
四方に仏像、各隅に梟が浮彫りにしているもの。
檜垣形 高台寺下の円徳院に本歌がある。
元々は宝塔の笠を利用したもの。
笠石を横にしてこれを立て、その面を凹字形に切り下げて
そこに水穴を掘ったもの。
基礎形 本歌なし。
石造りの宝塔・宝きょう印塔・五輪塔などの基礎を利用したもの。
笠利用形 本歌なし。檜垣形の一種。
石造りの層塔・宝塔・宝きょう印塔・五輪塔などの笠を裏返して使ったもの。
方形創作品 方星宿形 二十八星宿の東西南北を方形のものに意図した手水鉢で、
長方形の切石の上部に円形の水穴を穿ち、正面に星と言う字をだしている。
呼子形 京都本圀寺山内真如院に本歌がある。
表側に古体文字で向かって右から母子父の文字が陽刻されている。
この象形文字を一緒にして綴ると「萬」という字になり、
萬字は「卍」をあらわしたものとみなし、仏を表現したことになっている。
子(子供)の文字を中にして両側に母と父があるので、呼び子という。
十文字形 本歌なし。京都養源院にあるものが代表的。
水穴を十字に彫ったもの。
銀閣寺形 本歌は慈照寺銀閣の方丈東側にある。
水穴は円形で、四方に格子市松模様としている。
難破寺形 表面に難破寺の文字が入っている手水鉢。
方形の切石に大面をとり、側面の一方に水穴を穿っている。
井筒形 本歌なし。類品が多い。
井筒に石を組むか、井筒に石をくりぬいたもの。
六角形・八角形 燈籠基礎形 本歌なし。
石燈籠の基礎を利用したもの。
梅ヶ枝形 本歌なし。
古代の石棺の蓋を利用したもので、大きい突起部は縄をかけるためのもの。
この突起を木の枝の切株に見立てて、この呼称がある。
水盤形 本歌なし。
長方形の石を大面取にして八角にしたもの。
円形利用品 袈裟形 本歌なし。
鎌倉時代以降の宝塔塔身を使用している。
多くは表面に、鳥居の形をした彫刻模様があり、
古人はこれを袈裟に見立てた(もしくは見誤った)ことからの呼称。
鉄鉢形 本歌なし。
五輪塔の水輪にあたる部分を利用したもの。
礎石形(伽藍の手水鉢) 本歌なし。
天平頃の伽藍の礎石に水穴を穿って用いたもの。
橋柱形 本歌なし。
桃山時代に特に珍重され、久保利世著『長闇堂記』などに記載されている。
臼形 本歌なし。
根来形 橋柱形の一種で、横に別な口が出ばっていて、そこにも水が入る。
紀州の根来寺大伝法院の奥御殿で発見されたことからこの名前がある。
円形創作形 袈裟形 宝塔の塔身、特に鎌倉時代のものは入手が困難なため、これを模倣・創作したもの。
堺の南宋寺実相庵の露地のものなどがある。
布泉形 下部に円形の台があり、その上に臼形の手水鉢が乗っていて、
上部に円い輪郭をとり、中にまた方形の輪郭を作ってこの四角な部分が水穴となる。
この角の水穴の向かって右に「布」、左に「泉」という字を隷書で陽刻している。
大徳寺孤篷庵山雲床の露地にある。
梟形 曼殊院の庭園に本歌がある。
梟を高く浮き彫りにしたもので、亀の石組の上に乗っている。
棗形 本歌なし。
袈裟形から袈裟の模様をとったもの。
玉鳳院形 台石が蓮葉に彫刻されていて、手水鉢の形式は棗形となっている。
京都妙心寺玉鳳院にある。
菊鉢形 本歌なし。
鉄鉢形を模して、菊花のように作ったもので、明治以降のもの。
円星宿形 方星宿を円形にしたもの。
石水壺形 本歌なし。
棗形に似たもので、銅や鉄の壺形を意図したもの。
江戸中期以降の流行。
石水瓶形 本歌なし。
棗形に似たもので、水瓶の形から発想したもの。
湧玉形 本歌なし。
鉄鉢形と同じ形式で、中央に湧玉の字が入れてある。
石質の相違によるもの メノウ石手水鉢 本歌なし。
実は白大理石のことで、京都の妙法院や、水戸の偕楽園などにある。
江戸初期以降のもの。
赤玉石手水鉢 本歌なし。
佐渡の赤玉石が名品とされる。
青石手水鉢 本歌なし。
紀州や阿波の青石(緑泥片岩)のこと。
真黒手水鉢 本歌なし。
那智真黒が最もすぐれ美しく珍重されている。

つくばい つくばいは、江戸時代初期〜中期頃に形が完成したそうです。
最初のつくばいの姿は、
手水鉢を低くすえ、その前を水を流すための小さな溜めとし、
手水鉢に向かって右側に湯桶石、左側に手燭石を置いたようです。
前に前石を据え、前石の後ろの石から「飛石」となったみたいです。

現在、手水鉢の後側に「後石」「鏡石」といった面の平らな石を立てるそうですが、
江戸初期の記録にないようです。

つくばいの寸法は、松本見休著『貞要集』に
「台石をすえ、その上に手水鉢を載せる。
その高さは地面より二尺四・五寸まで、
前石は景趣のよいもので大振りの石を据える。
前石の上面より手水鉢の上端までを一尺〜一尺五・六寸高に据え、
手水鉢と前石の離れ具合は、
前石の前から手水鉢の水溜の口まで一尺六〜一尺八寸くらいまでとする。」
とあるそうです。

現在の標準的な寸法は、
手水鉢の高さは、地上から二尺前後。
湯桶石は手水鉢より低く据え、地上高一尺四・五寸。
なんだそうです。

金森宗和好みの座敷に、「内つくばい」というのがあるそうです。
大徳寺真珠庵の庭玉軒にあるそうで、二畳台目の席と、土間につくばいを配して、
この部分を囲ってしまっているとのこと。
寒い地方で重宝される独特な構えなんだとか。
石燈籠 石燈籠は、元々奈良時代以降、社寺(神社であれば本殿の前、寺院であれば本堂の前)に、
献燈として奉納されてきたもので、庭園の照明などに使われた例は、
露地に使われる以前は一例もないそうです。

立花実山著『南方録』に、石燈籠が用いられる以前の照明の記述があるそうで、
「暁会、夜会のときは、腰掛に行燈を置く、
亭主も手燈籠を以って戸口まで出て一礼してから、
座敷の準備に立ちかえるがよい。
手燭を持って迎えにでる亭主もあるが、
それでは、風が吹いている夜などは火が消えやすいので、
格別に難儀をするものである。」
とあるようです。

松本見休著『貞要集』や稲垣休叟著『茶道筌蹄』には、
利休が鳥野辺を通りかかって石燈籠の残り灯を見て
面白く思って露地に入れた」
といったことが書かれているそうです。

立花実山著『南方録』に、
利休在世の天正時代(1573年〜1592年)には、
石燈籠を露地に入れて照明にした」
といったことが書かれているみたいです。

以降、石燈籠が所々で使われるようになると、
久須見疎安著『茶話指月集』によれば、
「石燈籠の見事なものを求めて、社寺の旧跡や、遠山森林の中にあるのを尋ね、
謝礼の金子を厚くして石燈籠を望む人はまことに多い。」
といったことがあったようです。
垣根 垣根の役割は五つあるそうで、
「全体を囲う」「一部を区切る」「目隠し」
「歩行者を誘導する」「庭の景として楽しませる」
なんだそうです。

露地内の垣根の在り方としては、
「外は荒く堅固なもの、中は軽快なものが喜ばれ、茶席付近はその中間的なものがよい。」
のだそうです。
具体的には、猿戸・中門・中潜り付近は「四ツ目垣か、鶯垣の類」、
座敷付近では「立合垣、茶筌垣、竹穂垣根など」、
外側は「大徳寺垣、建仁寺垣、金閣寺垣、銀閣寺垣、光悦寺垣、網代垣など」
といったあたりになるみたいです。
植栽と苔 神谷宗湛著『宗湛日記』に、
「文禄2年(1593年)正月22日、
秀吉 が数寄屋に初めて御成があったとき、山を切り開いて露地を作っておめにかけた。
そのとき、その露地の深山の体を見て手水鉢のところで、
 奥山の山のやまもり千代かけて
 幾世へぬべきはまのまさこ路
という歌を作った。」
とあるそうです。

露地というのは、立花実山著『壺中炉談』によると、
「草庵寂寞の堺」「三界の家宅を出て、露地に居る」「樹石天然の一庭」
といった考え方が基本にあるそうで、珍木珍草の類を避け、
自然の味を表現し、そして深山幽谷の景趣を作るよう努力するものなんだそうです。

久須見疎安著『茶話指月集』に、利休の作った露地を
「露地の木は、松や竹、した木にはグミを植えた」
とあるそうで、織部の場合は、
「鞍馬の僧正が谷のモミの木の古びたような姿を見て面白く思い、
そこで自分で十分納得したうえで初めて庭にうつした」
とあるそうです。

露地の植込みの景について、桑山左近が利休に尋ねたところ
「樫の葉のもみぢぬからに散りつもる
 奥山寺の道の淋しさ」
と答えたそうです。
利休は、単に眼から訴える侘びの景観だけではなく、
感覚的に侘びの底の底まで訴えていく姿勢をめざしたようです。
関守石 関守石(せきもりいし)は、小石を蕨縄で三掛けに結んだものだそうで、
飛石の上に置くことで、
「その先への侵入をご遠慮します。」
という意味になるようです。

飛石の進む方向を決め、茶室に導くのに使うみたいです。
塵穴 露地の掃除の後、木の葉などが落ちた場合に、
塵箸で拾って、この穴に入れておくそうです。





露地道具 内容
露地草履
露地下駄
雪駄
飛石の項目に記載しましたが、
苔の中を歩けば、湿気で草履が湿ってゆくそうで、
それを嫌った利休さんが、
草履の裏に皮を打ちつけ、湿気が上がらないよう考案したものが
「雪駄」だそうです。

裏を返せば、当時、どの露地にも「飛石」があったわけではない
ということになるのでしょうか。

久保利世著『長闇堂記』に
「昔はわら草履にて有しを、利休より雪踏となれり、足袋も昔ははかざりしなり」
とあるそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「草履 昔はひとへなりしを利休竹の皮の裏付を好む、是雪踏の始り也」
とあるようです。

五代千宗左(随流斎)著『随流斎延紙ノ書』に
利休時代、へちくわんと云侘、皮そうりに牛皮にて裏付、
路治へはきたるなり、其時分はへちくわんと申なり、今はせきだと云」
とあるみたいです。
露地笠 露地笠は、竹の骨組に真竹の皮をかぶせ、竹ひごで渦巻状に押えて、糸で縫ったもので、
内側の竹の骨組の一端に竹皮を編んで輪差にした掛緒が付いているそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「笠 利休形、竹の皮、熊野笠、檜網代張を用てもよし」
とあるそうです。

珍阿著『茶道早合点』に
「竹子笠 廬路の腰かけ、廬路の辺にあり、雨ふりに用ゆ、
ひもなし、釘にかけるひもあり、手に持てきる」
とあるようです。

五代千宗左(随流斎)著『随流斎延紙ノ書』に
「路次笠に緒なき事、むかしよりなし」
とあるみたいです。

久須見疎安著『茶式湖月抄』に
「路次笠 竹の皮笠なり、指渡二尺六寸一分、深さ真中にて三寸」
とあるのだとか。
円座 露地の腰掛で、客が座るときに用いる、直径一尺、厚みは七分ほどの丸い敷物のこと。
円座は、竹の皮を表に用い、藁・すげ・まこもなどを、
丸く平たく編んだものなんだそうです。

円座は、元来は神社や寺院の土間や板敷のところで用いる一人用の円形の座席敷物で、
材料は、はじめ蒲の葉を用い、後にはすげ、蘭、藁でも作られたもので、
編み裏表のない讃岐円座を最上とするようです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「円座 利休形、竹の皮、讃岐円座を用てもよし」
とあるそうです。

藤原時平らが編纂した『延喜式』に
「讃岐国 菅円座」
とあるようです。
つくばい柄杓 つくばい柄杓は、杉木地の曲物を桜皮で留め、同材の柄が付いたもので、
手水鉢の大きさによって、合の大小、柄の長短を使い分けるのだそうです。

一般に使用されている寸法は、
合の指渡二寸五分から三寸ほど、
深さ二寸から二寸七分、
柄の長さ一尺三寸から一尺七寸ほど、
柄は本で三分半から四分四方
なんだとか。

宮崎幸麿著『茶道宝鑑』に
「手水柄杓 杉 差渡し三寸、高さ二寸五分、手長さ一尺九寸、本にて四分四方。
同檜 指渡し二寸九分、高さ二寸四分、手長さ一尺八寸七分、本にて四分四方」
とあるそうです。
手桶 手桶(ておけ)は、露地の蹲踞の水を改めるとき、
水を運ぶのに用いる手の付いた桶のことで、
主に赤杉やサワラで、木や竹の提手が付き、割蓋が添うそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「手桶 了々斎好、杉のオケに檜柄の短き掻器を添る」
とあるようです。
湯桶 湯桶(ゆおけ)は、寒中に手水に替えて湯を使うために、
つくばいの湯桶石の上に置く、湯を入れておくための桶のことで、
利休形は、杉木地を曲げ、上部に手が付き、割蓋が添い、
底には四つの足が付いたものだそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「湯桶 利休形、スギの曲物、割蓋、三ツ足、寒中後座に用ゆ、
初座には不用、亭主の卑下也、
初入の手水は客の心持次第、
後入は食後なれば是非に口をすヽぐゆへ湯桶を出す、
侘は手水鉢へ直に入るヽなり」
とあるようです。
手水桶 手水桶(ちょうずおけ)は、つくばいのない露地のときや、
雨や風雪が強く露地入りのできないときに、手水を盛って置く桶のことで、
主に赤杉やさわら、径一尺ほどの桶で、松か杉の一枚板の蓋が付いているそうです。

『茶道筌蹄』に
「手水桶 サワラの桶、松のフタ、檜杓、不浄水にも清浄水にも両様」
とあるようです。
塵箸 塵箸(ちりばし)は、露地の塵穴(ちりあな)の役石に立てかけておき、
露地の木葉などの塵を拾うための竹製の箸だそうで、
一般的に真竹の青竹を割って、その都度作るのだとか。

塵箸の上端の形は流儀により異なり、
表千家は斜めに、裏千家は平らに、
武者小路千家は二本組んだときに矢筈になるように切るそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「塵箸 籌子と云ふ」
「砂雪隠 堀込柱内に、踏石、丸き塵穴、蕨箒、觸杖、籌子あり」
とあるようです。

山田宗偏著『茶道要録』に
「塵箸は青竹を割て節一つ入て節より上四寸下六寸にして末細削る也、
穴の内片脇に斜めに可立、直に立るは凶し」
とあるみたいです。
露地箒 露地にかけておく箒のことで、実際に使うことはなく飾りとなっているそうで、
棕櫚箒(しゅろぼうき)と蕨箒(わらびぼうき)の二種類があるようです。

棕櫚箒は、青竹の柄に、棕櫚の葉を重ねて巻いて、藤蔓で結んだ箒で、
外露地の腰掛待合の下座側の柱に掛け、飾り箒とするようです。
寸法は流儀により異なり、表千家と武者小路千家は棕櫚の葉先を切り揃えますが、
裏千家は自然のままとするのだとか。
茶事のつど作り、青々としたものを用意するみたいです。

蕨箒は、白竹の柄に、蕨縄をほぐしたものを巻き、青苧(あおそ)で結んだ箒だそうです。
蕨の根茎から粉をとった後の繊維で綯った蕨縄をほぐして、
油抜きした白竹の柄に三寸ほどの笄竹を差し通して栓にして、
八束の蕨縄がずれないように青苧で結ぶみたいです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「青箒 名残の茶会には古きを用ひて青葉四五枚さし添るなり、
飾箒二ケ所あれば青箒は待合に用ゆ」
「ワラビ箒 飾箒二ケ所あれば小座敷に用ゆ、砂雪隠ある庭には砂雪隠に限る」
とあるそうです。
板木 板木(ばんぎ)は、玄関脇や露地腰掛に吊り下げ、
到着や連客の揃ったことを知らせるための木製の板のことで、
厚い堅い材質の木製の板の上辺を隅切りした長方形のもので、
上辺二ヵ所に紐を通して吊り、左手で支えつつ丁字形の木槌で中央を打つそうです。
利休形の杖は、白竹で、上の部分を竹の皮で包み、その上を青い糸で巻いたものだそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「杖 利休形、白竹の上を竹の皮にてつヽみ紺苧にて巻く」
とあるみたいです。

湖月老隠著『茶式湖月抄』に
「利休形杖 惣長三尺四寸五分、上の節 上より七寸五分の処にあり、
下の節は切とめなり、頭七寸のところ竹皮に巻なり、
其上を青糸にて巻く、巻数三十三、上の切とめも竹皮にてつヽみ、上へ青糸一筋上るなり、
節数六つ、此内一つは下の切とめなり、
竹上の切口にて、さしわたし一寸余、竹節たかなるを用ゆ」
とあるようです。
塵取・手箒 利休形の塵取は桐木地で、同材の取手が付いたもののようです。

塵取の寸法は、底板の長さが八寸五分、横幅は上が六寸四分で下で七寸、
三方に高さ一寸一分の縁が付き、底板も縁も先の方を丸く削り、
取手の長さは三寸四分、横幅は上で一寸五分半で下が一寸三分で、
掛けられるように穴が開いているのだそうです。

手箒は、主に孟宗竹の枝を束ねたもので、
一般的には、長さは一尺四寸ほどのものが多く、
孟宗竹の枝の先の方の柔らかい部分を選び、三十本から五十本ほどを向きを揃えて並べ、
束ねて元の部分を二ヶ所ほど結束したものなんだそうです。


■露地の掃除

ここでは、『茶話指月集』より、利休の逸話を一つ。

さる方の朝の茶会に、利休ら出席したところ、
朝の風に椋(むく)の落ち葉が舞い積り、
露地がまるで山の中のような風情だったそうです。

利休はその様子を見て
「何もおもしろく候。されど、亭主無功なれば、
はき捨てるにぞあらん。」
(なんと趣きのある風情だろう。
しかし、今日の亭主は巧者ではないから、
きっと落ち葉を掃き捨ててしまうだろう。)
と言ったみたいです。

案の定、後座の席入の時には、
椋の葉は一枚もなく掃き清められていたのだとか。
その時、利休は、
「露地の掃除は、朝の客ならば宵にはかせ、昼ならば朝、
その後はおち葉のつもるそのまま掃かぬが巧者也」
と言ったそうです。


■文献
宮崎幸麿著『茶道宝鑑』に
「利休塵取 桐 底大さ、長さ八寸五分、上六寸四分、下七寸。
手の長さ三寸四分、上の巾一寸五分半、下の巾一寸三分、
穴大さ七分半に四分、ハナ巾五分半、板厚さ二分、
裏のアリハナ一寸、アリ巾五分、竹にて入るなり。
カワの厚一寸一分、厚さ二分八厘、カキサン横にて延し、カワの横七寸分中」
とあるみたいです。
露地行灯 露地行灯は、檜材の溜塗の四方の台に、対角に竹の提手が付き、
やや裾広がりの立方体の枠に障子を貼った鞘と、
黒塗で対角に切り抜いた穴が開いた覆板が添った、
露地の腰掛に置く、角形の低い行灯のことで、灯芯は三本か五本にするそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「露地行灯 檜木地溜塗り、覆は黒塗り、待合上客の方に置く、
風なき時は蓋を壁へ立てかけおく、但しこれを壁へ添る、風ある時は蓋をするなり、
油盞、杉楊枝、何れも利休形」
「露地行灯 利休形、檜木地春慶ぬり、覆は真ぬり、
火サラにホウヅキありて一枚の油盞をおき風もなき夜は覆をとる」
とあるようです。

藪内竹心著『源流茶話』に
「露地行灯は待合に用ゆ、黒ぬり、侘はかき合塗にも、
すきや行灯に似て上におほひ有り、夜会・夜込ともに用ゆ」
とあるみたいです。

湖月老隠著『茶式湖月抄』に
「露地行灯 台大さ、上八寸六分、下八寸八分半。
サヤ、高一寸三分半、アツサ二分、上七寸五分、下八寸一分。
屋根、高八寸二分、柱大さ三分半に三分、七寸八分、厚二分、
有鼻より六分入て四分あり、足の高六分、ツメ二分半、太さ五分半四方。
同手の入る処切ヌキ筋違に長五寸五分に巾八寸、手の竹節一分、
下より八寸二分、一分下より六寸七分、巾六分半の竹。
煙返し、長五寸七分、巾一寸三分、厚二分半」
とあるとのこと。
足元行灯 足元行灯は、小さな四方の台に、対角に竹の提手が付き、
やや裾広がりの長立方体の枠に障子を貼った鞘が添った、
露地に置く、角形の背の高い行灯で、蝋燭を用いるそうです。
手燭 利休好みの手燭は、鉄製で上に黒漆が塗ってあるもので、
丸い火皿の中心に蝋燭立があり、その根元から一本柄の蝋燭受が芯立を取り巻いて輪になり、
火皿の裏から左右に足が張り出て、さらに両足の間から長い柄が伸びているものだそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「手燭 利休形、銅地、真黒塗」
とあるようです。

湖月老隠著『茶式湖月抄』に
「手燭の寸法 惣高さ四寸四分半、上輪上迄、蝋燭立高さ一寸四分、
上輪差渡二寸七分、同太さ五分半廻、同高さ一寸六分半、
下の輪火皿指度四寸、同ふかさ四分、
柄の巾四分三リン、厚二分三リン、二つ足も同じ寸法、柄も足も丸めにする、
右下地鉄真之黒ぬり、両足の間外法四寸八分、但、足の先より足の先まで」
とあるみたいです。

作品名:露地草履(一足)
備考:紙箱入/中古品

露地草履
※画像を押すと拡大できます。
草履は、鼻緒を有する日本の伝統的な履物で、
下駄よりも格式があり、改まった履物とされるのだとか。
草履には、祝儀用・おしゃれ用・葬儀用などがあるようです。

歴史的には、履物は、邪馬台国の時代からあったようで、
「田下駄」というものが発見されているそうです。

草履が履かれはじめたのは、鎌倉・室町時代みたいです。
宮廷・公家だけの履物(中国の影響を著しき受けた沓)と、
新興武士たちは草鞋や草履などを履き、
また一般大衆も履物を履く風習が普及したのだとか。

『江戸買物独案内』によると、
草履屋・雪踏屋といった専門店があたようで、
一般に都会では幕末までは草履が主であったみたいです。
地方ではほとんど自給していたのだとか。
当時の自家製品の種類としては、藁草履・竹の皮草履・雪踏・草けい・
ごんぞ・ずんべ・深ぐつ・ふんごみ・甲掛けに木製の駒下駄・高下駄
などがあったみたいです。


秀吉信長の草履を懐で温める
始め、信長に仕えた秀吉は、まず馬飼いを命じられたそうです。
暇さえあれば馬の体をなで続け、毛艶をピカピカにしていたようです。
それが信長の目にとまり、草履番頭を命じられるみたいです。

木下藤吉郎(秀吉)織田信長の草履番頭になったのは21歳、
信長は24歳だったそうです。

草履を懐に入れ暖めてから信長に差し出すという話、
秀吉を陥れる内容である林羅山が編纂した、
『豊臣秀吉譜』にこの逸話がない事から、
『仰景録』を参考にしたという見方が強いのだとか。

『仰景録』には、絵本太閤記が書かれた、
18世紀末の三十年程前に、酒井忠勝が、
夜間外出する将軍家光を案じて草履を温めていた、
という逸話が書かれているとか。


■雪駄について
千利休が、草履を元に雪駄を作ったという話があるようです。
『本朝世事談綺』に
「雪踏 千利休初めてこれを作らしむ、
雪中の路地に入り湿りの通るをいみて
草履に又ぞうりを重ねこれを裏附ぞうりという。
猶湿りの通らぬことはかりて裏に牛革を以って作る、
雪の上を踏むという理由によって雪踏と名づけたり、
今常にこれを用ふ。」
とあるそうです。


作品名:露地下駄
(五足セット)
備考:紙箱入

露地下駄
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露地下駄(数寄屋下駄)は、雨天や雪の場合に露地を歩くときに履く、
柾目の赤杉材に、竹の皮を撚った鼻緒を付けた下駄だそうです。

雨天や雪の場合以外は、露地下駄は履かず、露地草履を履くのだとか。


■下駄の歴史
下駄の始まりは諸説あるようで、
・エジプトの「王家の谷」で発掘された約3000年前の木製サンダル。
・2世紀ごろ、日本の水田か深田の耕作に使われたと思われる田下駄。
・古墳時代の遺跡から出土した「石製ミニチュア下駄」と「木製の下駄」
・「木履」が奈良時代、「足駄」が平安時代、
 江戸時代になって「下駄」というようになった。
・中国の影響を受けた沓(くつ)が、平安時代に独自に進化「足駄(あしだ)」となった。
などなど、はっきりしないみたいです。

アシダは、下駄の前身となる履き物の名前だそうで、
台の形は楕円形で、材質は杉、
歯は銀杏歯(上から下へ反って広がっている)で、
一つの木材から刳って作ったものだそうです。

奈良時代の平城京跡からは、この時期の下駄が80点以上出土したようです。

平安時代には、真っ黒に塗った「塗下駄」や、台に表を打ち付けた
「表付下駄」も履かれるようになったそうです。

鎌倉・室町時代には、武士が鼻緒のついた「草鞋」「草履」を履くようになり、
下駄の使用も増えていくみたいです。
非常に多量の下駄が出土する遺跡が多くなり、台の形にも相似性がみられるそうで、
大量生産への道筋、地域を越えた技術の伝播がうかがえるのだとか。

江戸時代に入って、「日和でも下駄履いて」と、
雨天でなくても履くようになったそうで、
日和に履く下駄は、馬が転じてついた「駒下駄」と呼ばれるようになり、
それまで通り雨天に履いた差歯高下駄に「足駄」の語が残り、
関東ではそのまま続いているみたいです。


■南坊宗啓著『南方録』より
露地の出入りに客も亭主も、ともに下駄を履くのは、
紹鴎が定めたことだそうです。
草木の露が深くおりている所を行き来するためだとか。

ただ、互いに下駄の音を聞けば、功者(練達の人)か、
不功者(未熟な人)かを知ることができたようです。

やかましく音を立てず、かつ抜き足差し足でなく、
静かに無心の境地で歩くのが功者の歩き方みたいです。
これは、茶の道の達人でなければ判断しがたいとか。

南坊宗啓が、下駄について利休に尋ねると、
「下駄を履くのが、今更、悪いとはというわけではないけれども、
紹鴎の時代でも下駄を上手にはきこなせる茶人は、
宗易(利休)を含めて三人しかいないと、紹鴎も言われていました。

現在は、京、堺、奈良周辺に数十人の数寄者がいるけれども、
下駄を履きこなせる茶人は、
そなた(南坊宗啓)を含めて五人といないでしょう。
いつも誰々と指を折って数えていますが、なかなか増えません。

ですから、茶の湯上手の人たちは必要ないことですが、
まだ未熟な人たちは、まず雪駄を履くのが良いでしょう。云々。」
と言ったそうです。


■文献
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「下駄 利休形、杉に竹の皮鼻緒なり」
とあるみたいです。

珍阿法師著『茶道早合点』に
「廬路下駄 雨ふりにはく」
とあるそうです。

湖月老隠著『茶式湖月抄』に
「路次下駄 長八寸二分、巾三寸二分、高一寸二分、
鼻緒真竹の皮つぶない、(前端と鼻緒)此間九分、
(前歯長)三寸二分、(後歯長)二寸三分、
(歯間長)二寸八分、(歯間高)のこり四分」
とあるようです。

加藤曳尾庵著『我衣』には、
「げほう下駄とて・・・表桐の柾目、歯は樫の木丸歯なり。足駄ひくくてはきよし」
とあるそうです。



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