読み:さがてんのう
嵯峨天皇 |
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生年月日
786年10月3日 〜842年8月24日 |
茶人の説明、1人目ということで、
先に、日本における茶の湯の歴史から入ろうと思います。 ■日本の茶園 日本の茶樹は、縄文時代から自生していたそうで、 それを栽培し始めた茶園が、 滋賀県大津市の日吉大社の傍らにある「日吉茶園」みたいです。 この日吉茶園、伝教大師最澄が、中国留学の折、 茶の実を持ち帰って、坂本に植えたのが最初だそうです。 この茶園で製された茶は、日吉大社の山王祭に 供されることになっていたとか。 ■喫茶の普及 日本における茶の記述がはっきりするのは、 815年、嵯峨天皇の滋賀県唐崎への行幸だそうです。 嵯峨天皇は、唐崎への舟遊びの途中、梵釈寺に立ち寄り、 大僧都永忠から茶を献ぜられたようです。 この永忠は、約35年間、唐に留学していたそうで、 陸羽の点茶法を身に着けていたと考えられているようです。 当時の喫茶は、固形の緊圧茶「餅茶(びんちゃ)」から、 必要量だけ切りほぐして湯にいれて煮出して飲む方法だったとか。 中国文化人の陸羽著『茶経』はこの頃(760年)に著されていて、 白磁や青磁の茶碗についても書かれているようで、 日本にも既に、輸入されていることから、 当時の喫茶も、同様の茶碗を使っていたのではと推測されるようです。 琵琶湖で舟遊びをした後、平安京へ帰り、 嵯峨天皇は、京都・近江・丹波・播磨国など 関西一円に茶を栽培させ、毎年献上するよう命じていたそうです。 「季御読経(きのみどきょう)」という平安時代に行われた宮中行事の中で 「引茶」として僧侶たちに振る舞ったようです。 ただ、僧や皇室を中心に取り入れられた喫茶、 唐文化の模倣として用いられていたため、 唐の衰退・遣唐使の廃止・国風文化の興隆などで、 細々とした発展しかしなかったようです。 一般に浸透するようになるには、鎌倉時代を待つ必要があるみたいです。 ■嵯峨天皇の人物像 唐からいろいろな文化を取り入れ、 喫茶同様、書の唐様なんかもこのとき入ってきたそうです。 そんな中、嵯峨天皇も書道に興味を持ったのでしょう。 後に、日本の書道史上の能書のうちで最もすぐれた三人の一人として 三筆と尊称されることになります。 幼いころから天子の器量があるとして桓武に寵愛され、 806年、兄平城天皇の皇太弟となり、 その後、譲りを受けて即位したそうです。 鴨長明著『方丈記』に、 平安京が都として定まったのは「嵯峨天皇の御時」と述べていて、 平安京の時代が始まりを作った人のようです。 ■陸羽著『茶経』 嵯峨天皇と同時代(唐代)、お茶の神様と呼ばれた陸羽の著書だそうです。 世界で最も古いお茶の本で、内容は三巻十章に分けられているとか。 ここで取扱っている茶は、「団茶」だそうです。 中身は以下のようになっているみたいです。 上巻 一之源・・・茶樹についての説明 二之具・・・製茶器具の列挙・説明 三之造・・・製茶する際の注意事項 中巻 四之器・・・飲茶器具の列挙・説明 下巻 五之煮・・・茶をたてる際の注意事項 六之飲・・・茶の飲み方など 七之事・・・茶の史料の列挙 八之出・・・茶の産地 九之略・・・省略してよい器具 十之図・・・『茶経』の図解。 十之図は、茶席に掛け、『茶経』の内容が 一目でわかるようにするためのものみたいです。 また、白磁や青磁の茶碗についても書かれているとか。 詳細はさておき、きっと、嵯峨天皇も同様の茶碗で茶をすすり、 琴なんかを聞きながら中国の唐に思いをはせていたのかもしれませんね。 |
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読み:みんなんえいさい
明菴栄西 |
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生年月日
1141年5月27日 〜1215年8月1日 |
「抹茶」を日本に伝えた人がこの栄西だそうです。
岡山県出身の栄西は、天台宗を習いに中国へ行くのですが、 そこで流行っていた禅宗を習って帰ってきたそうです。 禅宗での座禅の合間に飲まれたのが「抹茶」で、 『吾妻鏡』に、 鎌倉幕府三代将軍の源実朝が、頭痛に悩んでいたときに、 栄西が「抹茶」を飲ませて治した という逸話があるとのこと。 この時代の「抹茶」は、現在にも通じるレベルのものだそうで、 使用する器具、茶を点てる作法なども、 ある程度は、既にできていたようです。 「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」の冒頭で始まる 『喫茶養生記』も栄西の著作だそうです。 再入宋後、茶種を持ち帰り、 筑前の背振山に植えたようです。 これが「石上茶」のおこりなのだとか。 また、栂尾の明恵上人に茶種を贈ったものが 「栂尾茶」の始まりみたいです。 宇治の茶は、この栂尾から移されたものだそうです。 では、上述の内容を、細かく説明していこうと思います。 ■禅宗の茶 禅宗での座禅の合間に飲まれたのが「抹茶」だそうです。 中国唐代「清規」という禅宗僧侶の集団修道生活の規則があったようで、 その清規の中に茶礼・点茶・煎茶や茶についての儀式が多くあるのだとか。 「清規」とは清浄なる衆僧の規則という意味だそうです。 特に座禅の際行う茶礼は、眠気覚ましには特効薬的意味もあって、 修道にはなくてはならない行事みたいです。 ■茶の木 栄西は中国(宋)に留学中、喫茶の風に接していたようで、 宋で熱病にかかったとき、 老僧に茶を飲ませてもらい身体が回復したので、 これはよいものだと日本へ持ち帰ったのだとか。 帰国後の1191年、福岡と佐賀の境にある、 背振山霊仙寺の石上坊(いわかみぼう)前に、 茶の木を植えたそうです。 現在、霊仙寺跡にわずかな茶園が残されているのみのようですが、 当時は、霊仙寺一帯に9反5畝の茶園があったみたいです。 また、霊仙寺跡には、吉野ヶ里町が設置した 「日本茶樹栽培発祥の地」の看板があるようです。 なお、背振山は、709年、元明天皇の勅命により、 湛誉上人が背振山に誉朗寺を建立したのが始まりなのだとか。 ■源実朝の頭痛 当時、鎌倉幕府の実権は、執権の北条義時らに握られてたため、 源実朝は、名ばかりの将軍だったようです。 そこで、これを紛らわすために、文化に力を注ぎ、 公家文化に強い憧れを持つとともに、酒量も相当なものだったみたいです。 頭痛も、実は二日酔いだったのではという説もあるとか。 栄西は、実朝の頭痛の話を聞き、 住院の寿福寺から茶を取り寄せ、これを進ずるとともに、 『茶の徳を誉むる所の書(=喫茶養生記のうち一巻)』を献じたようです。 実朝は、この茶を飲んで頭痛が治り、たいへん喜んだそうです。 寿福寺の開山は栄西で、 源頼朝が没した翌年の1200年、 妻の北条政子が栄西を開山に招いて創建したみたいです。 ■栄西著『喫茶養生記』とは 『喫茶養生記』は栄西が書いた上下二巻の茶書で、 「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」の冒頭で始まるそうです。 上巻は、茶を喫することがいかに健康に良いかを述べたもので、 下巻は、桑の医学的効能を述べたものだそうです。 室町時代の東福寺の僧、季弘大叔は『喫茶養生記』を称して 「茶桑経」と呼んだそうです。 桑の薬効は、世界最古の本草書『神農本草経』にもあるそうで、 現在でも、漢方では、せき止めやぜんそくに効き、 血液の流れを良くしたり、滋養強壮の効果があるとされているようです。 ちなみに漢字の「桑」の字は、日本では、 切っても切っても、又・又・又・木になるということで 「桑」となったそうです。 ■建仁寺 1202年(建仁2年)、建仁寺は栄西により創建されるようです。 源頼家から与えられた広大な敷地に、 3年もの歳月をかけて伽藍が建設され、 年号をとって「建仁寺」と名付けられたそうです。 境内には、茶の生垣があり、 開山堂近くには、栄西を記念した「茶碑」が建てられているとか。 この茶碑の裏手は茶園になっているそうです。 この建仁寺で、栄西は「四頭茶会(よつがしらちゃかい)」 というのを、開いたそうです。 これは、四人の僧侶(供給:くきゅう)が、四人の正客ら三十六人の客に、 一気にお茶を振る舞うもので、 四人の頭(正客)というところからの名前のようです。 四頭茶会は、茶道の源流ともいわれるとか。 「亡くなった方の遺徳を偲び、心を戒めんとする儀式」だそうで、 普通の茶会と違い、終始無言で進行するみたいです。 現在も、毎年、栄西の誕生日である4月20日に、四頭茶会が開かれているそうで、 建仁寺本坊の方丈で、会席の正面には栄西の自画像を掛け、 左右に水墨画の「龍虎図」、燭台・香炉・花瓶の三具足が置かれるのだとか。 三本の掛軸と三具足は、床の間の原型とされているそうです。 この三本の掛軸と三具足の右側が「主位」で、正客の筆頭が座り、 左側が二番目の正客「賓位」、 「主位」の対面に三番目の正客「主対位」 「賓位」の対面に四番目の正客「賓対位」と座るようです。 それぞれの正客には、八人の相伴客が横に並んで従い、 四人の供給の対応も、正客と相伴客とでは違うのだとか。 かつて正客の座は、公家や大名など位の高い人が座ったようですが、 戦後、一般公開されてからは順不同、受付順なのだとか。 午前八時からの法要の後、八時二十分から一席目が始まり、 午後四時過ぎまで、延々八百人のお客でにぎわうそうで、 毎年三月一日午前九時からの電話予約だけでチケットが完売するみたいです。 ■明恵上人(栂尾上人)について 華厳宗中興の祖と称された明恵(みょうえ)上人は、16歳で出家し、 真言密教を実尊や興然に、華厳宗・倶舎宗を景雅や聖詮に、 禅を栄西に学んだようです。 明恵は、建仁寺に栄西を訪ねたそうです。 その後、栄西は茶の種(3粒)を明恵に贈り、 明恵はこれを京都栂ノ尾高山寺に植え、 「栂尾茶」の始まりとなるようです。 高山寺の川向の深瀬に植えられた茶は、 高山寺境内に植えかえられ、 現在も「日本最古の茶園」として、 石碑とともに残っているとか。 後に、宇治茶となる「本茶」は、 明恵が京都栂尾一帯に栽培したものを 宇治に移し植えたものだそうです。 なお、他の地域産の茶は「非茶」と呼ばれていたとか。 その後も、明恵は、里人に茶種を配付したりして、 お茶の普及と宇治の茶業の発展に尽くしたようです。 現在、宇治市では、栄西禅師・明恵上人・千利休の3人を 「宇治の三大恩人」として称え、毎年10月に 「宇治茶まつり」を盛大に催しているとか。 |
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読み:ささきどうよ
佐々木道誉 |
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生年月日
1296年 〜1373年9月12日 |
佐々木道誉(佐々木導誉)は、佐々木佐渡判官入道や、京極高氏(きょうごくたかうじ)とも呼ばれ、
茶をゲームとして楽しむ「闘茶」を広めた人とのこと。 また、茶道の他、連歌などの文芸や立花・香道・笛・近江猿楽の保護者となったようです。 『太平記』に、 京都の勝持寺で花を生け、 香炉を飾り、花見をしながら、 出されたお茶が「本茶」か「非茶」かを飲み当てる 「闘茶」が行われた とあるそうです。 当時の庶民の間でも、茶を点てて、 どちらの泡が先に消えるかといった「闘茶」があるなど、 様々なルールで以降100年以上に渡り流行ったとか。 この「闘茶」は「茶香服(ちゃかぶき)」として、 現在、誰でも参加できる風流な品質飲み当てゲームが伝わっているようです。 ■現代の茶香服 宇治市で行われている茶歌舞伎(茶香服)は、 ふつう玉露二種、煎茶三種を用い、 それぞれの茶に花・鳥・風・月・客の名前をつけて熱湯をさし、 90秒たったもので飲み分けるのだそうです。 一回飲むごとに、自分の思った茶銘の種別札を札箱に入れ、 そして一通り(5回)すめば札箱をあけて採点するのだとか。 これを5回繰り返してその合計点で順位を決めるようです。 これは、服装ややかましい礼儀作法にはまったく関係なく、 誰でもが参加できる風流な品質飲み当てゲームみたいです。 採点方法は、煎じ札を出して競技者に出した茶の順番を教えて採点するそうです。 全部正解の場合は「皆点」5点とし、あと3点、2点、1点、0点となるようですが、 全部誤りの場合は0点と言わずに「チョット」と表現するのだとか。 ■倒幕までの流れ さて、ここからは、佐々木道誉の経歴を説明していこうと思います。 1296年、近江の地頭である佐々木氏の分家京極氏に生まれ、以後、 1314年に左衛門尉、1322年に検非違使と、順調に昇進するようです。 後醍醐天皇の行幸にも随行したとか。 鎌倉幕府で、執権北条高時に御相供衆として仕えたようですが、 北条高時が、出家した際、共に出家して「道誉」と号するそうです。 1331年、後醍醐天皇が討幕運動(元弘の乱)を起こした際、 幕府が編成した鎮圧軍に従軍し、主に京都において事後処理を担当したそうです。 道誉は鎌倉の北条氏討伐を決意した足利尊氏と密約して連携行動を取ったとも 言われているみたいです。 ■建武の新政と雑訴決断所 1333年、後醍醐天皇の「建武の新政」では、 雑訴決断所の奉行人となるそうです。 これは、土地(所領)に関する訴訟を扱う組織だそうです。 鎌倉時代、それまで所領を一族へ「分割相続」していた形態だったものが、 鎌倉後期、惣領から嫡子のみに受け継がれる「単独相続」への移行するようです。 ただ、実際は、西国は伝統的な「分割相続」、東国では「単独相続」と、 鎌倉末期から南北朝期は、両者が交錯する混乱状態にあったため、 所領をめぐる相論は日常化していたのだとか。 1334年、八番制として雑訴決断所が構成されるようになると、 佐々木道誉は、八番(西海道)担当となるみたいです。 このときの雑訴決断所は、所謂、寄せ集め組織で、無原則な人材起用は、 建武の新政を揶揄した二条河原の落書で 「器用ノ堪否沙汰モナク、漏ルル人ナキ決断所」 と皮肉られたそうです。 ■南北朝から室町幕府成立期 1335年、信濃において高時の遺児である北条時行らを擁立した 「中先代の乱」が起こり、 足利尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した、 北条時行の討伐に向かう足利尊氏に、道誉も従軍するそうです。 鎌倉を奪還した後、足利尊氏から、 上総や相模の領地を与えらたのだとか。 1336年、足利尊氏の尽力で光明天皇が即位して北朝が成立、 尊氏は征夷大将軍に任じられて室町幕府が樹立、 以後、道誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任し 1337年には、勝楽寺に城を築き、没するまで本拠地とするようです。 1340年、道誉と長男の秀綱は、白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちし、 道誉父子は上総に配流されるのですが、 配流の行列は若衆数百人を従え道中宿所に着くたびに傾城を弄び、 比叡山の神獣である猿の皮を腰あてにするなど、 山門への敵意・蔑視がにじみ出るものだったようです。 尊氏兄弟には道誉を罰するつもりなど毛頭無かったようで、 翌年、道誉は何事もなかったかのように幕政に復帰するそうです。 幕府において道誉は引付頭人・評定衆や政所執事などの役職を務め、 公家との交渉などを行うみたいです。 ■室町幕府の最高権力者 1350年、観応の擾乱では、足利尊氏の執事、高師直につき、 尊氏と直義の兄弟喧嘩に発展してからは尊氏側に属すそうです。 南朝に属し尊氏を撃破した直義派が台頭すると、 翌1351年、道誉は、尊氏・義詮父子から謀反の疑いで、 討伐命令を受けるようです。 これは陰謀で、尊氏は道誉を討つためと称して京都から近江へ出兵、 父子で京都に残った足利直義を、東西から討ち取る手筈で、 事態を悟った直義は逃亡するそうです。 以後も道誉は、足利尊氏に従軍し、 尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言するようです。 尊氏がこれを受けた結果正平一統が成立し直義は失脚、急逝するのだとか。 1358年、足利尊氏が薨去し、2代将軍義詮時代の政権においては、 政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停するそうです。 この頃道誉は、義詮の絶大な支持のもと執事の任免権を握り、 事実上の幕府の最高実力者として君臨するようです。 ■晩年 1362年、斯波高経は、当時13歳の斯波義将を管領(執事)に推薦し、 高経が政権とるそうです。 京極佐々木家内の内紛から発生した、 「吉田厳覚暗殺事件」について高経につけこまれるようです。 また、高経から任された五条橋の建築が遅延した為、 高経自身がこれを自分で素早く建築してしまうなど、 道誉は高経に面目を潰され高経との関係は決定的に悪化するのだとか。 そこで道誉はまず高経が将軍の邸で開催する花見に目をつけ、 その花見の日にぶつける形で原野で盛大な花見の会を開いくそうです。 それは京都中の芸能人が根こそぎ集められ、 香が焚かれ「世に類無き遊」と謳われるほどのものだったみたいです。 以降、道誉は、斯波高経の追い落としを図るそうです。 高経の高圧的な政治は守護層の反発を招いており、 道誉はこうした守護をとりまとめると将軍足利義詮に讒言し、 1366年、高経を失脚(貞治の変)させるようです。 1367年、細川頼之が管領(執事)に推薦し、 1368年ごろ隠居。 1373年、78歳でこの世を去るそうです。 ■花見の会での「闘茶」 『太平記』にこんな話があるそうです。 桜の名所として知られる勝持寺で、ある時、花見の会を開くそうです。 本堂の前に咲く桜の大木と、左右二本ずつに真鋳の花瓶を鋳かけて、 一双の花が生けられているように見せるようです。 その前に大机を置き、大きな香炉に名香を一度に焚きたてたとか。 椅子に座った数百人の客に珍味を持った食事を出した後、 「茶」が出されるそうです。 そして、百人分の茶百服が何度も点てられ、その茶が 「本茶」か「非茶」かを飲み当てる「闘茶」が行われたみたいです。 景品には、沈香・中国産の反物・砂金・太刀など、 豪華な景品が出されたのだとか。 |
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読み:のうあみ
能阿弥 |
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生年月日
1397年 〜1471年 |
能阿弥(本名:中尾真能、号:春鴎斎)は、
水墨画家、茶人、連歌師、鑑定家、表具師で、 足利義教(六代将軍)から同朋衆(どうぼうしゅう)として仕えたとか。 能阿弥の父親も、毎阿弥と称して将軍に仕えていたようです。 ■同朋衆について 同朋衆というのは、 室町時代以降、将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のことだそうで、 1866年まで続いたとか。 元々は、鎌倉時代末期から南北朝にかけて武将に同行した時衆(従軍僧)で、 目的は武将の最後にあたってその菩提を弔うためと、 負傷したものを治療することだったようです。 次第に、平時において、芸能を活かして武士の慰めとするようになっていき、 同時に側近、取次ぎ人としての役目も果たすようになり、 室町初期には、幕府の職制に組み込まれていくようです。 制度としては、細川頼之が執事となって六人の法師を抱えて、 足利義満に仕えさせたことに始まるのだとか。 時衆における遊行は、室町幕府から関所自由通過を許され、 時衆に加わる手続きも簡単だったため、 芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に加わるようになったそうです。 ■能阿弥の成果 元は越前朝倉氏の家臣だった中尾真能(さねよし)は、 足利義教・義政に同朋衆として仕えて能阿弥と号したそうです。 能阿弥の仕事は唐物の鑑定や管理、東山御物の制定を行い、 特に水墨画に優れ、阿弥派の開祖とされ、鶴図を描き義政に絶賛されたといわれるとか。 「花鳥図屏風」「白衣観音図」など、 牧谿(日本の水墨画史上、最も高く評価されてきた画家の一人)の図様を、 そのまま取り込んだ作品が残っているそうです。 茶道では「書院飾りの完成」「台子飾りの方式の制定」など、 小笠原流の礼法を参酌して今日に伝えられているような茶の点て方を考案したとか。 『山上宗二記(やまのうえのそうじき)』では「同朋中の名人」と記されているみたいです。 ■三阿弥(能阿弥・芸阿弥・相阿弥) 能阿弥の子で相阿弥の父にあたる芸阿弥、 この親子三代が「三阿弥」と称され、同朋衆の中で最も有名な三人とのこと。 この三人は、書院座敷飾りの様式を創案し、 絵画では「国工」「国手」、連歌では「宗匠」と呼ばれるほどだったとか。 主に担当したのが、当時続々と輸入され、将軍の蔵に収められた、 唐物の管理だったそうです。 これと密接な関係を持つ「鑑定」や、会所への「飾り付け」なども その職務に加えられたようです。 その結果、あらわされたのが、能阿弥の孫にあたる相阿弥の、 『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』『御飾書(おかざりしょ)』 だそうです。 ■『君台観左右帳記』・『御飾書』 『君台観左右帳記』は、 舶載された多くの画家の作品を挙げて、そのランク付けをしたものだそうです。 ランク付けのために、鑑定眼の他、 軸装の修理・分類のための外題を付けるなどの仕事もあったようです。 『御飾書』は、 会所飾りとその扱い、種類などを並べたもので、 多くの茶器が、あちらこちらの室に並べて飾られる際の、 手本となるものだったそうです。 |
読み:いっきゅうそうじゅん
一休宗純 |
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生年月日
1394年 〜1481年 |
村田珠光
が参禅した大徳寺の一休は、優れた禅風と、
ある意味物好きとも取れる強い求道心(ぐどうしん)を持っていたようです。 自由奔放で、奇行が多かった一休。 一見奇抜な言動は中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者と通じるものがあり、 教義の面では禅宗の風狂の精神の表れとされるそうです。 同時に、こうした行動を通して仏教の権威や形骸化を、 批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあったのだとか。 ■一休宗純の略歴 後小松天皇の子で、幼少に安国寺、のちに天龍寺、建仁寺、禅興庵と、 転々としながら修行に励むようです。 禅興庵は、当時、峻烈な禅風で知られたそうで、 華叟宗曇の弟子となり、辛苦の末、 その法を嗣(つ)ぐようです。 この時、「洞山三頓の棒」という公案に対し、 「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」 と答えたことから、華叟より一休の道号を授かったのだとか。 悟りを得たのち、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となり、 塔頭の真珠庵を、開祖として創建するようです。 また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、 後に「一休寺」とも呼ばれるようになったのだとか。 以後、天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたみたいです。 臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっているそうです。 以下、略歴です。 1394年 京都生まれ。 1400年(6歳) 京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒、周建と名付けられる。 1405-6年(13歳) 漢詩『長門春草』著。 1407-8年(15歳) 漢詩『春衣宿花』著。 1410年(17歳) 謙翁宗為の弟子となり、戒名を宗純と改める。 1414年 謙翁宗為の死去。一休の自殺未遂。 1415年 京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子になる。 華叟より一休の道号を授かる。 1420年 ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。 1428年 称光天皇崩御。一休が後花園天皇を推挙。 1474年 後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられる。 1481年(88歳) 酬恩庵においてマラリアにより死去。 ■諸悪莫作・衆善奉行 『法句経』などに「七仏通誡偈」というのがあるそうです。 これは、仏教で釈迦以前に存在したとされる六人の仏と、 釈迦を含む七人の仏(過去七仏)が、 共通して説いた教えを一つにまとめたものみたいです。 禅宗では日常の読経にも取り入れられているのだとか。 「諸悪莫作・衆善奉行」は、この「七仏通誡偈」の一部で、 以下「自浄其意・是諸仏教」と続くようです。 一休宗純の「諸悪莫作・衆善奉行」と大書した掛軸は有名で、 「諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい。 」 という意味だそうです。 ■白居易の逸話 中国の唐代、白居易が儒教から仏教に帰依する際の逸話に、 この「諸悪莫作・衆善奉行」というのが出てくるみたいです。 白居易は四十歳で母、続けて娘を失い、 「死」考えるようになります。 中央官吏にも関わらず、 名物禅僧の鳥彙道林禅師のいる中国杭州への赴任を志望し、 杭州・蘇州刺吏に赴任すると、 さっそく、高い松の木の上に板を渡して座禅している道林禅師のもとへ向かい、 以下のような話をします。 白居易:「(居場所が)危ないですよ。」 道林禅師:「お前の方が危ない。(官吏とし権謀術数の中にいる方が危ない。)」 白居易:「仏教の一番の根本は何ですが。」 道林禅師:「悪いことをせず、善いことをすることだ。」 白居易:「そんなことは三才の童子でも知っていますよ。」 道林禅師:「三才の童子でも知っている。 だが、長年修行を重ねた八十才の私でも、実践するのは大変難しい。」 それ以後、白居易は道林禅師に、深く帰依したのだとか。 ■仏祖三経について 禅宗で重んじている経典に仏祖三経があるそうで、 『四十二章経』『遺教経』『イ山警策』のことだとか。 ※以下、あくまで自論です。 簡単に言うと、 『四十二章経』は、小乗仏教の教え。 『遺教経(仏垂般涅槃略説教戒経)』は、持戒の教え。 『イ山警策』は、禅僧のイ山靈祐による法語。 となるでしょうか。 ここでは、持戒について少々説明しようと思います。 天台宗の伝教大師は、菩薩の戒壇を建て、 円頓受戒の道場としたそうです。 円頓というのは、自利利他(自分も人も利益する)の境界(状態)になることみたいです。 菩薩の戒壇を本尊とすることで、菩薩の境界に達することができるとなるでしょうか。 受戒してからの信仰生活の規範に「三聚浄戒」というのがあるそうです。 簡単に言うと、 1.摂律儀戒:悪いことをしない。 2.摂善法戒:良いことをする。 3.摂衆生戒:世の為、人の為になることする。 ということで、 まとめると、 七仏通戒偈の「諸悪莫作・衆善奉行」になるようです。 ■一休の禅と珠光の茶 村田珠光の師匠が一休だとする説があるようです。 近年では、この説は、間違いではないかとされているそうですが、 少なくとも、珠光の茶には、禅の心(茶禅一味)があるみたいです。 千宗旦 著『禅茶録』には、 「茶は仏道の妙所にて叶ふべき物ぞとて、 点茶に禅意を移し、衆生の為に自己の心法を観ぜしむる茶道とは成れり」 とあるそうで、 本質的な部分で「一休の禅= 珠光 の茶」が成り立ったみたいです。 大徳寺の一休は、堺の商人たちと禅を通じ深く結びつき、 以後、一休死後もその絆は絶えないそうです。 古渓宗陳(こけいそうちん)・春屋宗園(しゅんおくそうえん)などの僧侶の他、 堺の 千利休 や大名などの保護を受け、 桃山時代の茶道に大きな影響を与えて行ったとのこと。 |
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読み:あしかがよしまさ
足利義政 |
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生年月日
1436年1月20日 〜1490年1月27日 |
室町幕府第八代将軍・足利義政は、文化面では功績を残しているそうです。
庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、 能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いたようです、 銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた、この「東山文化」では、 初花、九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られたそうです。 茶道は、村田珠光に師事したようです。 『山上宗二記』珠光一紙目録によると、 珠光は、義政に茶道指南として仕えた、ともされるそうですが、 年代の矛盾から、現在の茶道史研究では基本的に否定されているみたいです。 『山上宗二記』に、 「夫れ、茶湯の起こりは、 普光院殿(足利義教)・鹿苑院(足利義満)の御代より、 唐物・絵讃等、歴々集まり畢んぬ。 其の頃御同朋衆は善阿弥・毎阿弥なり。」 とあるそうです。 同じく『山上宗二記』に、 従来の遊興にあきてきた義政が、能阿弥に対し、 「何カ珍敷御遊在ヘキ」 と尋ねたところ、 「コノコロ南都称名寺ニ珠光ト申モノ御座候、 此道ニ志深ク、三十歳已来茶湯ニ身抛」 と答えたため、 市井の茶の湯の名人・村田珠光を召し寄せ、 師匠と定めて一生これを楽しんだとあるようです。 ■書院飾りと唐物荘厳 慈照寺東求堂の四畳半の部屋は、 義政の書斎で初期の書院造建築として知られるそうです。 茶室の起源となり、近代和風建築の原型ともなったとか。 貴族の建築であった書院造りが住宅として普及し、 それまで「会所」で催されていた茶会が、 「書院の広間」で行われるようになり、 飾りも会所飾りから書院飾りというものに変化し、 台子に茶器を飾りつけて茶を点てる方法も考案されるそうです。 ちなみに、書院飾りは南北朝時代の佐々木導誉から始まったそうです。 佐々木導誉が南朝方の軍勢に攻められて都落ちするとき、 会所に畳を敷き詰め、本尊・脇絵・花瓶・香炉などの茶具、 また王羲之の草書の偈と韓退之の文を対幅にした、 茶道具一式を飾りつけたのが「書院七所飾り」の始まりなのだとか。 この頃は、多くの唐物を飾り付けた場所で茶を点てる「唐物荘厳」の世界だったとか。 唐物奉行として仕事をした能阿弥ら同朋衆は、 かなりの鑑定眼と故実を知ることが必要とされ、 『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』や『御飾書(おかざりしょ)』などが、 書き残されることとなるそうです。 義政の茶は、唐物荘厳ではあるものの、 東山山荘にある四畳半の狭い書院などは、 「わび茶」を想起させるものみたいです。 ■義政時代の茶室と書院の茶 書院の茶(殿中の茶)の時期には、専用の茶室というものはなかったそうです。 書院の部屋は連歌や能といった文芸・芸能共通の場であり、 そこで茶会が催されたとしても、専用の茶室とはいえないし、 ましてや後年の茶室のように「炉」も切られてなかったようです。 書院の茶では「点茶する場所」と「喫茶する場所」とが分離している、 「点て出しの茶」だったみたいです。 足利義政の東山山荘には「茶湯の間」と呼ばれる点茶所があったようですが、 そこで同朋衆の手によって点てられた茶が、 書院へ運ばれるという形式だったそうです。 同朋衆の能阿弥は、 ・唐物を日本風の書院に飾りつける「書院飾り」、 ・仏に茶を献じる仏具である台子を茶事に使う「台子飾り」、 ・弓の操方(武家の礼法)を柄杓の扱いに取り入れる、、 ・能の仕舞の足取りを道具を運ぶ際の歩行とする、 などを定め、書院茶の作法を完成させたようです。 足利義政はすぐれた芸術鑑賞眼をもっていたようで、 芸術にすぐれていれば、身分を問わず、同朋衆として身近においていたみたいです。 彼らは、仏の前では皆平等であるという意味で、 「○阿弥」という名前をつけていたようです。 |
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読み:むらたじゅこう
村田珠光 |
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生年月日
1423年 〜1502年 |
僧侶なのに苗字がある珠光は、足利義政に召し出され茶を指南したとされているとか。
1468年に還俗してから村田珠光と名乗り始めたとともいわれているそうです。 ただ『山科家礼記』によると、珠光は一生涯僧侶であったという説もあるみたいです。 珠光は、杢市検校という琵琶法師の子で、奈良の称名寺から京都に移住した後、30代で茶の湯に邁進するようです。 当時、将軍家や有力大名たちが金に物を言わせて集める高級輸入品の唐物道具、 それらを飾り付ける室礼の方法などが流行していたようです。 その中にあって、義政の同朋衆・能阿弥により整備された「会所の茶」から、 能や連歌の影響を受け、一休宗純との関わりから禅を学び、 能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求し、「わび茶」の精神を作ったようです。 茶道は禅と同一であるべきとする「茶禅一味」も、珠光が境地を開いたそうで、 「わび茶」の「開山」とも称されるとか。 ちなみに「茶禅一味」とは、 『紹鴎画への大林宗套の賛』に「料知す。茶味と禅味同じなること。松風を吸い尽くして、こころいまだ汚れず」 『山上宗二記』に「すべて茶湯風体は禅也」 『南方録』に「小座敷の茶の湯は第一仏法を以って修行得道する事也」 『禅茶録』に「茶意は即ち禅意也。故に禅意をおきて外に茶意なく、禅味を知らざれば茶味も知られず」 などのこと。まさに画竜点晴の眼を入れた人と言えるのではないでしょうか? 他にも、茶の湯に一大改革をもたらしたそうで、 書院台子の茶→草庵小座敷の茶(わび茶) 唐物(舶載名物茶器)→国焼(国産の侘び道具) とかがあるみたいです。 四畳半の草庵の茶を提唱し、竹の茶杓を考案、茶の湯から賭博と酒盛りを追放し、 亭主と客との精神的なつながりを中心に「一座建立」を図るのが茶事の主眼とするなど、 現在に脈々と受け継がれる茶道の基礎を築いた人と言えそうです。 ■弟子と伝来の茶道具 珠光の弟子には、古市澄胤(小笠原家茶道古流)、村田宗珠(珠光の養子)、鳥居引拙、 石黒道提、十四屋宗伍、藤田宋理、竹蔵屋紹滴、大富善好、粟田口善法、金田屋宋宅 などがいたそうです。 全員が茶の湯を受け継いだわけではなく、 ある者は所作、ある者は花にと、得意分野に特化し、 「わび茶」を成していったそうです。 珠光茶碗は、名物記『清玩名物記』に唯一掲載される珠光旧蔵の道具みたいで、 『山上宗二記』で珠光所持とされた、 投頭巾茶入・珠光文琳・珠光香炉・圜悟墨蹟・徐熙の鷺の絵などは、 伝来の捏造だったのでは、という説があるそうです。 例えば「圜悟克勤の墨蹟」の場合、 奈良の称名寺から京都へ出て、30歳頃から一休宗純に参禅し、 印可の証(悟りを得たことの証明)として、この墨跡を譲られるのですが、 この話も、捏造だったのでは、ということになるみたいです。 『古市播磨法師宛一紙』に、「ひえ枯れる」という表現があるそうです。 『山上宗二記』で珠光所持とされた茶道具は、 無意識に見ると必ずしも美しいとは言えず、 洗練された気品を感じされるものでもないみたいです。 ただ「ひえ枯れる」という美意識から捉えなおすと、 珠光は、新たな美意識を創り出そうとしていたことがわかるそうです。 伝来の捏造があったとしても、珠光好(ひえ枯れる)といった考えで、 茶道具が見出されていったのかもしれません。 ■四畳半の茶座敷 『南方録』では、四畳半の茶座敷をはじめて作りだした人として、 珠光の名が挙げられているそうです。 この茶座敷で行われる茶の湯を、珠光は、 「藁屋ニ名馬繋ギタルガヨシ」 と常々言っていたのだとか。 粗末な茶座敷に、名物を一種置いたような状態を指すみたいで、 それまで、書院に名物を大量に飾り付ける「唐物荘厳」の茶から、 一種のみを取り出して、それに注目されようとする「わび茶」へと 一歩近づいた茶となったようです。 珠光の茶は、必ずしも「わび茶」だったわけではないようです。 常には台子を飾り、二幅対の掛物の前には卓に香炉・花入を置くなど、 かつての名残を多く留めていたものみたいです。 |
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読み:ふるいちはりま
古市播磨 |
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生年月日
1452年 〜1508年 |
古市播磨は、古市澄胤(ちょういん)、播州、播磨公、播磨法師、播磨律師などとも称され、
村田珠光の一番弟子だったようです。 叔父宣胤のいる興福寺発心院に入り14歳で出家し、倫勧房と号したそうです。 そして、興福寺大乗院門跡の六方衆となるみたいです。 発心院は、古市家の菩提寺だったようで、ここで、文化的な素養も積んだようです。 1475年、兄の胤栄の隠居により退寺・還俗し、家督を相続したみたいです。 家督を継いだ古市播磨は、古市氏の棟梁として、宿敵筒井氏との戦いを続ける傍ら、 茶の湯を学び、盛んに茶会を催していたようです。 ただ、この茶会は「淋汗茶湯」だったそうです。 ■淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)と珠光の茶 古市一族の茶会は「淋汗茶湯」と呼ばれるものだったそうです。 淋汗とは夏風呂のことで、お風呂と茶の湯が合わさったものらしく、 わび茶とはだいぶ違うものだったみたいです。 兄の胤栄が行った記録によれば、風呂の他、 庭に松竹を植えて、山を作り滝を流し、 周囲には花が飾られ、唐絵や香炉、食籠などが置かれ、 客は百人以上にも及ぶこともあったそうです。 飾り付けられた作り物を見物しながら茶を飲み、酒宴もあるという、 賑やかなものだったようです。 当時の儀礼的な遊びであった「書院の茶(殿中の茶)」から、 「侘び」を骨法(異質なものの取り合わせ)とする新しい美の茶へと昇華する様は、 『山上宗二記』にある珠光の「藁屋ニ名馬繋ギタルガヨシ」からも窺い知れそうです。 古市一族の行う茶の湯とは、相反する茶の道を求める茶人・村田珠光に師事し、 小笠原家茶道古流へと繋がる「わびた茶」へと変化していったようです。 ■『心の文』(『珠光茶道秘伝書』) 村田珠光が、一番弟子の古市播磨へ送った文章に『心の文』というのがあるそうです。 これは、公家・武士らの華美な会所、闘茶といった遊びに後戻りせぬように、 目覚めたばかりの弟子を導こうとしている内容となっているそうです。 『心の文』の内容は以下の通りみたいです。 「この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。 功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり。 功者には近つきて一言をも歎き、 また、初心の物をば、いかにも育つべき事なり。 この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと、 肝要肝要、用心あるべきことなり。 また、当時、ひえかるると申して、 初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、 人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり。 かるるということは、よき道具を持ち、 その味わいをよく知りて、心の下地によりて、 たけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり。 また、さはあれども、一向かなわぬ人体は、 道具にはからかふべからず候なり。 いか様の手取り風情にても、歎く所、肝要にて候。 ただ、我慢我執が悪きことにて候。 または、我慢なくてもならぬ道なり。 銘道にいはく、 心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり。」 少々長いので、少しずつ説明していくと、 まず「第一わろき事は、心の我慢・我執なり・・・」は、 茶道において、まず忌むべきは、自慢・執着の心で、 達人をそねみ、初心者を見下そうとする心を止め、 達人には近づき一言の教えをも乞い、また初心者を目にかけ育てましょう。 ということみたいです。 次に「この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと・・・」は、 茶道でもっとも大事なことは、唐物と和物の境界を取り払うこと。 異文化を吸収し、己の独自の展開をすること。 ということだそうです。 次に「当時、ひえかるると申して・・・」は、 「冷え枯れる」の「枯れる」というのは、良き道具をもち、その味わいを知り、 心の成長に合わせ位を得ること。 そして、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地こそ茶の湯の面白さなのだ。 ということのようです。 次に「また、さはあれども、一向かなわぬ人体は・・・」は、 「冷え枯れる」の境地を得たら、今度は、道具へのこだわりを捨てよう。 たとえ人に「上手」と目されるようになっても、 人に教えを乞う姿勢が大事だ。 ということみたいです。 次に「ただ、我慢我執が悪きことにて候。・・・」 人に教えを乞う姿勢は、自慢・執着の心が何より妨げとなるけれど、 自ら誇りを持たなければ成り立ち難い道でもある。 ということだそうです。 最後に「銘道にいはく、心の師とはなれ、心を師とせされ・・・」 茶道の至言として、 己の心を導く師となれ、我執にとらわれた心を師とするな という古人も言っている言葉を送る。 となるみたいです。 これは、『北本涅槃経の二八』にある 「願作心師、不師於心」から来ているようです。 最初のころ、古市播磨は珠光のわび茶の心をよく理解していなかったようです。 後に、奈良の町家の屋根押さえに用いられていた石から、 「残雪」と名付けられた名石を見出している所から、 茶の湯も上達し、目利きにも優れるようになっていったようです。 師の指導次第で、よき茶人にも成り得るということみたいです。 その他の文献として、『お尋ねの文』というのがあるようです。 これは、茶花について、古市播磨の質問に珠光が答えたものだそうです。 |
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読み:いしぐろどうてい
石黒道提 |
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生年月日
不明 |
村田珠光の弟子で、千本道提とも呼ばれるそうです。
茶庭の飛石を考案した人だとか。 もと奈良千福寺の僧官で、管領・畠山政長に石黒三郎左衛門という武士として属していたようです。 その後、京都千本付近に、米40石(12000坪の広さ)の田畑を隠居領としていたそうです。 千本道提の名は、この隠居領にちなんだ名前みたいです。 ある時、この40石の田畑と葉茶壺(ルソンの壺)を取り換え、 朝夕これを愛し、茶を喫して世をすごしたとか。 後にこの茶壺は、東山御物に加えられ「四拾石」と名付けられるようで、 東山御物→蜂谷紹佐(はちやじょうさ)→銭谷宗訥(ぜにやそうとつ)→豊臣秀吉 と持ち主を変えるそうです。 秀吉の茶頭、山上宗二は、この茶壺「四拾石」を、 「松島。三日月滅してのち、天下一ノ壺也」 と絶賛したとか。 ここで言う「松島」は、瘤(こぶ)の多い壺の景色を陸奥松島の景色になぞらえた茶壺で、 「三日月」というのは、三好実休が所持していた時に、六つに割れ、 それを千利休が直させてもなお、天下無双の名物とされた茶壺みたいです。 「松島」も「三日月」も、本能寺の変で焼失したのだそうです。 久保利世著『長闇堂記(ちょうあんどうき)』によると、道提の名は 足利義政の耳におよび、 鷹狩りの帰りに、道提の草庵を訪れるそうです。 このとき義政は草鞋を履いていて、 庭に雑紙を同朋衆に敷かせるのですが、道提はこの雑紙の跡に石を置いたようです。 これが茶庭に飛石が打たれるようになった起源だとか。 また、道提が小庵の露路に植えた桂を義政が所望して、 東山山荘に植えたものを道提桂というそうです。 |
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読み:とりいいんせつ
鳥居引拙 |
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生年月日
不明 |
村田珠光の後、茶の湯を継ぐのがこの引拙だとか。
山上宗二著『山上宗二記』に茶の湯の名人と言われるほどで、 「茶湯物ノ数寄者ハ古今ノ名人ト云、 珠光ならびに引拙、紹鴎也」 とあるそうです。 茶器の鑑定にもすぐれ「引拙名物」として30種ほど所持していたことが名人の由来みたいです。 引拙名物には、楢柴肩衝、初花肩衝、紹鴎茄子、引拙茶碗、引拙猿釜などがあったそうです。 後に「引拙名物」の多くは豊臣秀吉の所有物となったようです。 また、引拙名物の他に、千種の茶釜、侘助肩衡、緑桶水指、大霞猿釜、松本茄子、胡桃口柄杓立 などがあったようです。 堺の豪商だったようですが、史料に乏しくその経歴は不明な点が多いみたいです。 天王寺屋と号したことから津田宗達の親族であったとも言われ、 また、信憑性に乏しいものの、珠光の次男とも言われるようです。 珠光の名物を受け継いだのは、息子だったからみたいです。 津田宗及が会記に書いた「引拙火箸」を、 松井友閑が「宗伯火箸」と書いていることから、 茶名は宗伯だったのでは、と言われているそうです。 没年については、『山上宗二記』に、70歳で死去したと書かれているとか。 ■引拙棚と道幸 引拙は、茶道具の中でも特に水指棚を好んだみたいです。 引拙が使用した水指棚は「引拙棚」と呼ばれ、 「引拙名物」を飾るために創案したようです 後に武野紹鴎がこれを改良して袋棚を作ったのだそうです。 台子皆具に 「引拙棚之内、四飾トモニ関白様ニアリ、 四ツトモ名物也」 と書かれているそうです。 ■文献 『茶事集覧』に 「道幸の作者を、或人利休居士に問、 休云道幸といふもの仕始たるものといひしなり、 古は勝手にさまざまの棚を置、其日の会の諸具を取そろへ置、 座敷へはび座出し茶を点しなり、 それもむつかしとて、座敷に仕付たるものを利休いはれしなり、 道幸作者は引拙といふ説もあり」 とあるようです。 『山上宗二記』に 「引拙ノ時迄八珠光ノ風体也、 其後、紹鴎悉改令追加畢、 鴎ハ当世ノ堪能、先達中興也」 とあるそうです。 片桐石州著『石州三百ヶ条』第3巻100条に 「珠光・引拙・紹鴎の心の事 此三人共に本付所趣向有。 珠光ハ 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮 此心を用、是則さひたる身体を専に用之也。利休愛す。 引拙ハ 淋は その色としも なかりけり 横立山の 秋のゆふくれ 紹鴎ハ 村雨の 露もまた干ぬ 槙の葉に 露立のほる 秋の夕暮 是則すゝきあけてさハやかなる身本也。 道安好み紹鴎に本つく也。 是、茶の湯根元也。 如此いつれも宗匠其本つく處有之て用、 後世子弟たるもの此意味を常に可工夫也」 とあるみたいです。 |
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読み:まつやひさまさ
松屋久政 |
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生年月日
1521年 〜1598年 |
奈良の茶の湯を村田珠光から受け継ぐ塗師の松屋久政は、
京都堺の影に隠れがちな南部の茶を強く主張した人だとか。 松屋久政は、通称を源三郎というそうです。 松屋の発祥は、応仁の乱頃にはじまり、 のち東大寺鎮守八幡宮(手向山神社)に仕えて神人(じにん)となり、 家業のかたわら茶の湯に励んだようです。 茶会記『松屋会記』によると、 十四屋宗伍・武野紹鴎・千利休らの茶会に、 参じていたようです。 ■松屋三名物 松屋の名を高めているのは、珠光名物の収集で、 徐熙(じょき)の「鷺の絵」・「松屋肩衝」・「存星盆」は、 特に松屋三名物と呼ばれているそうです。 「松屋肩衝」と「鷺の絵」の伝来は、 足利義政→村田珠光→ 古市播磨→松屋家 だそうです。 千利休は、特に「鷺の絵」を「数寄の眼目」といって誉めたたえたみたいです。 その後、松屋三名物は、 「これを一目なりとも見なければ茶人としての資格はない」 とまで極言され、細川三斎は礼を正して、 長袴を着けて拝見したと伝えられているとか。 ■松屋会記と松屋一族 松屋久政の後、久好(久政の嫡子)、久重(久政の孫)と続き、 数多くの茶会に参じて、三代約百年に渡り『松屋会記』を記し続けたようです。 特に松屋久重は、 ・『茶道四祖伝書』(千利休・ 古田織部・ 細川三斎・ 小堀遠州の茶人伝。) ・『松屋名物集』(当時、各家に所蔵されていた名物茶器を書きつづったもの。) ・『北野大茶湯之記』 を編んでいるそうです。 |
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