茶道具 翔雲堂
ひと口知識
※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。
シメ飾り(紙垂)ってこんなの
紙垂(しで)は、しめ縄・玉串・祓串・御幣などにつけて垂らす、
特殊な断ち方をして折った紙のことで、
単に垂とも表記し、四手とも書くそうです。
「しで」という言葉は動詞「垂づ(しづ)」の連用形で、「しだれる」と同根なのだとか。
古くは木綿(ゆう)を用いたようですが、
現在では紙(通常は奉書紙・美濃紙・半紙)を用いるのが一般的みたいです。
断ち方・折り方はいくつかの流派・形式があるそうで、
吉田流・白川流・伊勢流が代表的な流派のようです。
四垂が一般的みたいですが、二垂・八垂などの場合もあるとか。
茶道では「名水点」の際、釣瓶の水指に紙垂を廻し付けることで
名水が入っていることを示すとか。
名水の井戸の水は、
午の刻(正午)を過ぎると毒気を生じて、
子の刻(午前0時)を過ぎると新鮮な水に変わっていき、
丑の刻(午前2時)〜寅の刻(午前4時)を境に「陰」より「陽」に変わるとのことで、
寅の刻をすぎたころに汲むのだそうです。
村田珠光・
武野紹鴎・
千利休らが愛用した
「醒ヶ井(さめがい)の水」というのがあるそうで、
京都醒ヶ井六条にあった名水の一つだったそうです。
洛中三名水の一つに数えられ、
近くに利休の屋敷もあったのだとか。
洛中三名水は他に、染井(梨木神社)と県井(京都御所内)を指すそうで、
染井のみが現存するそうです。
醒ヶ井の水は、平安時代、六条堀川源氏の館内にあったようで、
室町時代後期、珠光が、
足利義政にこの水で茶を献じたりもしたようです。
織田信長の舎弟、
織田有楽もこの井戸水を愛し、
戦国の兵乱に絶えた井戸を再興したそうです。
立花実山著『南方録』に「夜明けの名水」の話があるそうです。
豊臣秀吉が京都東山に方広寺の大仏を普請しているときのことです。
利休が大仏小屋近くの天王寺屋宗及を尋ねました。
暁の茶会だったのですが、
その最中の夜明けに門を叩く者があって、
「水を持ってまいりました。」
と声が掛かりました。
それは、名水として知られた醒ヶ井の水でした。
すぐに宗及は釜を上げて水を替えました。
この茶会に利休は上機嫌だったそうです。