茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。

水屋七拭ってこんなの

水屋七拭は、「茶巾」「帛紗」「手」「手巾」「水屋手拭」「布巾」「雑巾」
の水屋で使う七種類の「拭うもの」をまとめたもので、
「清浄は 茶巾 帛紗に手と手巾 水屋手拭 布巾 雑巾」
という歌もあるのだとか。


■茶巾
茶巾は、「茶巾」についてのページで、
説明しているので、詳細は省きますが、
立花実山著『南方録』と湖月老隠著『茶式湖月抄』から、
それぞれ一話ずつ、お話を追加しようと思います。


■さらし茶巾

まずは、立花実山著『南方録』から。
茶巾の扱い方に「さらし」ということがあります。
これは、瀬田掃部(せたかもん)が古い高麗のやきもので、
皿のような茶碗を所持していたことから生まれたそうです。

その茶碗は湯や水の取り扱いや茶筅のすすぎなどのとき、
ことのほかむつかしいものでした。
しかし、あまりにも見事な茶碗でしたので、
掃部は秘蔵していました。
そこで利休に銘をつけていただきたいとお願いしたところ、
「水海(みずうみ)」と銘をつけられました。

茶碗の直径は畳目にして十五目です。
利休は茶杓を削って茶碗に添えて贈りました。
その茶杓の名を「勢多」といいます。

掃部はこの茶碗ではじめて「さらし茶巾」という扱いをはじめました。
茶巾は端縫いなしにして、
しまうときには天目の扱いのように茶巾をさばかれました。

掃部の秘蔵ぶりといい、利休がこれに銘をつけ、
茶杓まで添えられた仕方も、もっともなことです。
さらし茶巾という点前も一段とさわやかで、
利休も関心したことでした。

しかし冬には寒々しい気分になると申されました。
これより平茶碗には、夏用に涼しげな風情を好んで、
さらし茶巾を仕込むようになりました。
それも一段と結構なことだと利休も言われました。

だからといって、さらし茶巾にしたら
必ず最後のしまい方を天目の扱いにするというのは誤りです。
掃部の水海の場合は、茶碗が名物であればこそ天目の扱いにしたのです。


■何はなくとも

次に、湖月老隠著『茶式湖月抄』から。
ある田舎の侘び茶人が利休のもとへ一両の金子(きんす)を送ってきて
「何でも結構ですから、茶道具を買っていただけませんか」
と依頼してきました。

そこで利休はそのお金一両全部で白い布を買って送りました。
「侘びというものは、何はなくとも茶巾さえきれいであれば茶は飲めるものです」
と言い添えました。


■帛紗
帛紗は、「帛紗」についてのページで、
説明しているので、詳細は省きます。


■手
水屋で「手」というと、少々説明が難しいので、
ここでは「柴手水(しばちょうず)」について、
立花実山著『南方録』からお話を一つ取り上げようと思います。

茶を点るとき、茶入などを取り上げる前に両手をもみ合わせることがありますが、
これを「柴手水」といいます。それについて、
あるとき大徳寺の笑嶺和尚(しょうれいおしょう)が利休に、
「茶人は、茶巾などを扱った手が湿っていて、
その手を乾かすために両手をもみ合わせるのだうといわれるが、
本来はそうしたものではないだろう。

真言宗などでは、もっぱら柴手水をするものである。
山中で修業のときなどに、たびたび手水して手を清めなければならないが、
水のない嶺などでは、柴の葉を手にとってもみ合わせ、手を清める。
これを柴手水というのである。

茶人も茶入などの大切な道具を扱う前に、
手を清める心でもみ手をするのであろう」
と言ったので、
利休もたいへん感心した。
ということでした。
このような故実は、よくよく知っておかねばならないことです。


■手巾
手巾(しゅきん)は、手を拭くためのもので、
今で言うところの「ハンカチ」でしょうか。

湖月老隠著『茶式湖月抄』に
「花折敷 小刀 手巾 水次 足打折敷なり、
小刀・手巾・水次等一具すべし、
水次は焼物また銅よし、尤客へ花所望のとき入用なり。
さし渡九寸五分、ふち高外のり一寸、
足高三寸八分、同よこ三分、
同板はば三分、切かけ三寸八分、たて二寸六分」
とあるようです。


■水屋手拭
水屋手拭(手拭)は、水屋で濡れた手を拭うのに使用する木綿の布だそうです。

手拭は、古くは麻や絹でできた平織物だったようです。

奈良時代には、神仏の像や飾り付けなどの清掃を目的とした布として、
使われていたとする説があるそうです。

平安時代からは、養老律令の衣服令により、
庶民は麻を、高貴な者が絹織物を使用したそうです。
また、神祭具として神事に身に纏う装身具として使われていたようです。
当初は布は貴重なため、祭礼などを司る、
一部の身分の高い者にしか手にすることはなかったのだとか。

鎌倉時代からは、庶民にも少しずつ普及し、
室町時代には、湯浴みの体を拭うためにも使われるようになり、
戦国時代には、広く用いられるようになったそうです。

当初、綿は中国大陸などから輸入され絹より高価だったみたいです。
江戸時代初頭の前後に、日本でも大々的に栽培されるようになり普及するそうです。

江戸時代に入ると、奢侈禁止令により、絹織りの着物が禁止され、
木綿の着物が多く作られるようになるそうです。
この着物の端切れなどから手拭が作られるようになり、
生活用品として庶民に欠かせないものになったのだとか。

この頃から「手拭」と呼ばれるようになるそうで、
入浴に使われたものは「湯手(ゆて/ゆで)」とも呼ばれたのだとか。

当時は、実用品としてだけではなく、
着飾るおしゃれな小間物としても発展し、
おしゃれな手拭を持ち寄り「手拭合わせ」という品評会を開いたり
折り紙のような趣きとして「折り手拭」という技法も生まれ、
庶民の文化として浸透していったみたいです。
手拭は手拭染屋といわれる専門の染屋もあったのだとか。

現在は、タオルあるいはハンカチに押され気味の手拭。
廃れたわけではないようで、
農作業・伝統芸能・祭・剣道などでのかぶり物・ヘルメットの裏地・
鉢巻・目隠し・汗ぬぐい・布巾として今なお利用されているそうです。

また、風呂敷と同様の包装としての利用方法の提案もあり、
近代的なものも含めいろいろな柄の手拭が、
和小物の店や手芸店で見ることができるようになっているみたいです。

『今昔物語』に
「手布(たのごい)」
とあるそうです。

源順(みなもとのしたごう)著『和名類聚抄』に
「太乃己比(たのごひ)」
とあるみたいです

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「拭巾 麻の布、長さ一尺二寸、横ヌノ幅端縫。
雑巾 寸法同上木綿。
手拭 サラシ木綿、サラシ木綿、長さ一尺五寸、
端縫、乳上より三寸下り。
右三品の寸法了々斎より定る、何れも鯨尺」
とあるようです。


■布巾
「布巾」は、水屋で花入や水指など濡れたものを拭くのに使用する麻の布で、
「拭巾」とも書くそうです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「拭巾 麻の布、長さ一尺二寸、横ヌノ幅端縫。
雑巾 寸法同上木綿。
手拭 サラシ木綿、サラシ木綿、長さ一尺五寸、
端縫、乳上より三寸下り。
右三品の寸法了々斎より定る、何れも鯨尺」
とあるようです。


■雑巾
雑巾は、水屋の前板、その他、
水がこぼれたところを拭くのに使用する木綿の布だそうです。

量産の市販品には特殊繊維を用いた比較的薄手のもの、
厚手のタオル地でタオル雑巾として市販されているものなどがあるみたいです。
市販品は白色のものが多いが、色付けされているものもあるとか。

一般的な雑巾の形状は四角形で、
布製(綿・ポリエステル・ナイロン・レーヨンなど)のものが多いそうですが、
紙でできている使い捨て雑巾もあり「ペーパーダスター」と呼ばれるのだとか。
キッチン用の雑巾は「キッチンダスター」と呼ばれるみたいです。
また、布地または紙シートに薬剤をしみこませた「化学雑巾」と呼ばれるものもあるようです。

さて、ここでは、簡単な雑巾の縫い方を説明しようと思います。
まず、タオルを用意して、両端の三つ折になっている部分を切り離すそうです。
次に、片方の端が中央より向こう側にいくように一度折るようです。
同じく、もう一方の端を合せるようにして折ります。
そして、端を合せたものを半分に折るみたいです。。
このように折ると布端が内側にくるのでほつれないそうです

布を折ったらミシンで縫っていきますが、
このとき端ではなく途中の位置から縫い始めるようです。
縫うときは布の端から1p程度内側を縫うのだとか。
ぐるっと一周まわりを縫ったら、
中がずれないように向かい合う角同士を縫い、完成だそうです。

ということで、POINTは、以下の三つでしょうか。
POINT1:「三つ折になっている部分を切り離す」
POINT2:「布端を内側にする」
POINT3:「ミシンは途中の位置から縫い始める」

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「拭巾 麻の布、長さ一尺二寸、横ヌノ幅端縫。
雑巾 寸法同上木綿。
手拭 サラシ木綿、サラシ木綿、長さ一尺五寸、
端縫、乳上より三寸下り。
右三品の寸法了々斎より定る、何れも鯨尺」
とあるようです。

『茶傳集』に
「水屋雑巾、寸法定りなし、浅黄か紺木綿二尺計に切て水屋に置べし」
とあるみたいです。

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