茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

飾りってこんなの

ここでは、「床飾り」に関して説明しようと思います。


■寝殿造時代の飾り
平安時代は「寝殿造」が主体で、
床の間と呼ばれる場所はなかったそうです。

当時は、はれの儀式の日に、寝殿の母屋および廂に調度を立てる
「室礼(しつらい)」が室内の飾りだったようです。

室礼は、屏風、押障子、壁代(かべしろ)、几帳(きちょう)、
衝立(ついたて)、御簾(みす)などがその主役で、
同時に、位の違う公卿たちの畳の座(貴人の座)を作る役割も、
担うようになったみたいです。

ここで、壁代というのは、母屋と廂の境に掛ける帷(とばり)、
几帳というのは、T字形の骨組に帷を掛けたものなんだそうです。

中心となる貴人の座の背後に建つ華麗な屏風絵は、
座の秩序づくりにも大きな役割を果たしているようで、

南北朝時代の1351年頃に描かれた『慕帰絵詞(ぼきえことば)』は、
三井寺の高僧浄珍の住房が描かれているようですが、
当時の「屏風と貴人座」との関係がわかる資料のようです。

この『慕帰絵詞』には、「床飾り」へと繋がる興味深い描写が
いくつかあるそうです。

その一つが覚如上人の病床の場面で、
室内に畳を敷き詰め、壁に阿弥陀如来の仏具を掛けて、
前の卓に三具足(みつぐそく)を並べた「礼拝のための飾り」みたいです。
三具足というのは「花瓶(けびょう)」「香炉」「燭台」だそうです。

仏を飾り立てて供養することを荘厳(しょうごん)というようで、
これが、「床飾り」の原点として一般化されていくことになるみたいです。


■禅院での茶礼
栄西生誕の日に、今も京都の建仁寺で行われている
「四ツ頭(よつがらし)の茶礼」は、
「室中(しっちゅう)」と呼ばれる部屋の正面壁に、
栄西の頂相(ちんそう)と、竜虎の脇絵が掛けられ、
前の卓には三具足が置かれて荘厳だそうです。

この茶礼は、室中の中央にも卓を置いて香炉を載せ、
この香炉を焚いて室中を清浄にした後、
仏画の前の香炉を焚いて供養するみたいです。

鎌倉末期の記録『仏日庵公物目録』には、
頂相やその他の絵画、墨跡に加え、
香炉・燭台・薬合(香合)・香匙・袈裟などの仏具用具、
茶桶・建盞(けんさん)などの茶道具、
筆架(ひっか)・硯・印籠などの文房具、
その他、盆・鉢・机・卓・文台・・・
など多種多様なものが記されているそうです。

この中には、禅院が修行のために揃えたこれら舶来の器物
つまり「唐物」が、茶と共に広がり、
鎌倉末期には、茶寄合や連歌会の掛け物や飾りとして
浸透していったようです。

当時の茶は「闘茶」で、「会所」と呼ばれる会場で催したみたいです。


■書院造と床
足利歴代将軍は、将軍邸に盛んに「会所」を建てたようです。
これらの会所は独立して庭に建つ建物で、
主に角の座敷に二畳程度の「床」を設け、
ここに書院や違棚を造り付け、
あるいは押板を備えたりしたみたいです。
これが「書院造」の原形のようです。

書院というのは、本来、禅僧の住房の居間兼書斎の名称だったそうです。
それが、床の間・違棚・付書院など座敷飾と呼ばれる設備を備えた、
座敷や建物を広く呼ぶようになったのだとか。

書院造で最も重要な場といえる書院には、
庭に面した複数の部屋が用いられるみたいです。
主人の座が置かれた主室は上段につくられ、
さらに上々段が設けられることもあったとか。

主室というのは、
「時代劇で、将軍様が一段高い床に座って、武将達と話をしている」
といった情景を想像していただけると良いかもしれません。

主室の背後には、主人の座を荘厳なものにするため、
書画の掛軸や、生花・置物などを飾る「床の間」や、
上下二段の棚板を左右食い違いに吊した「違棚」、
縁側に張り出した机や飾り棚の「付書院」
などの座敷飾が集中して備えらるようになるのだとか。

こうした書院の構造や意匠は、対面・接客儀礼を目的に、
主客の身分格差を空間的に表現するためのものだったようです。


■『君台観左右帳記』の座敷飾り
室町時代後期、将軍邸における座敷飾りの規範ができたそうで、
相阿弥著『君台観左右帳記(くんだいかんさゆうちょうき)』に
「押板、違棚、書院それぞれの飾り付け方法と、画家や器物の鑑識」
についての記述があるようです。

『君台観左右帳記』の写本、塙保己一著『群書類従』には、
画家のランク付けを記した後に、
押板での絵の掛け方と、その前の飾りについて述べているそうです。

これは、押板の絵として三幅一対と五幅一対を基本と捉えていて、
その前には必ず三具足を置くとしているようです。
ただし、四幅一対の場合は、その限りではないとのこと。

絵の掛け方は、絵の間隔を同じにし、
絵の長短を調整する場合は落掛(おとしがけ)よリ上の、
洞(ほら)を高くとって段違いに釘を打ち、
適当な高さの釘を掛けて調整するとあるそうです。

絵の前の卓には、本尊のものに三具足、脇絵のものに花瓶を置き、
三具足は、卓の中ほどに香炉を据え、
その右に燭台(鶴燭台)、左に花瓶を置くが、
さらに香炉の手前に香合、後ろに香匙台(きょうじだい)を置いて、
一揃とするみたいです。

三具足を「諸飾(もろかざり)」にした形式も定められていて、
香炉を中心にして、燭台も花瓶も、
それぞれ左右対称に置く形式なんだそうです。


■初期の茶室
初期の茶室は、六畳や四畳半の座敷に炉を切ったもので、
当初より飾りのための場も設けられ「床」と呼ばれていたそうです。

相阿弥が珠光に宛てた伝書(茶書)『烏鼠集』の床飾りは、
会所の押板にあった掛物や卓・立花・香炉・香合のほか、
書院の飾り、会所で点茶に使った茶湯棚に茶道具など、
『君台観左右帳記』の飾りをすべて包括したような場として
「床」が扱われていたようです。

ただ、それまでの押板飾りの基本である本尊と三具足の枠組は、
なくなったようで、珠光以後の床飾りには、
座敷飾りの厳格な決まりも、仏前荘厳の流れもなくなったみたいです。

江戸時代前期の茶書『茶譜』に、
珠光以後 紹鴎の代までは、
絵を第一の床飾りに、
墨蹟を第二に位置づけていたが、
利休は禅法と茶の湯の心入れを同じとみて、
墨蹟を第一にあげた」
とあるそうです。

利休は花生や器物についても侘びの考えを推し進め、
床飾りの目的を、
「鑑賞を主とするもの」から、
「主客の間のまごころの交わりを誘うための場」へ
と変わっていくみたいです。


利休と「床の侘び化」
床の構えや茶室全体が大きく改められたのは、
天正十年(1582年)頃だそうです。

珠光時代の茶室は、一間床に張付壁という構えで、
名物を中心とした書院造の飾りを引き継いだ広さだったようです。
これは「名物等に対する敬意があった」とする説もあるみたいです。

利休は、床の間口を五尺や四尺に縮め、
壁も荒壁に掛物は面白いとして土壁に変えてしまうそうです。
正面の壁(大平壁)の中央に中釘を付けるなど、
花を掛物と対等に扱う意志をはっきり形に示そうとしたようです。

「待庵」は、床の侘び化の最たるもので、
客の意識が、床中央の飾りに向く仕組みで、
ほの暗い室床に、墨蹟と、花が飾られ、
利休が床飾りに何を求めていったのかが、
見えてくるようです。

利休は、花の飾りに確かな地位を与え、
やがて初座が掛物、後座は花という形が定着するみたいです。
中立を略したりするとき、
掛物も花も飾るのを「諸飾り」と呼ぶのもその反映なんだとか。


利休以降の床
千少庵考案とされる「踏込床」。
客座と同じ高さに地板を敷き込んだもので、
客座とのあいだにある境界意識が薄れ、
飾りの位置や広がりに自由度を与え、
同時に床飾りに対する近親感も与えたようです。

古田織部の茶室「燕南(えんなん)」形式の床。
墨蹟窓としてあけた窓の下地に折釘を打ち、
ここに花入が掛けられるようにしたもので、
従来の床飾りに加え、
下地窓と花入との組み合わせが脇壁の上部を飾り、
床の内部全体の景が華やかになった言えるみたいです。

織部は、書院座敷の上段のそばに炉を切り、
自在や鎖で釜を釣るという鎖の間を積極的に推進したそうです。
これにより「飾りの場の数」を、
利休以前に戻したとも言えるようです。

小堀遠州の「龍光院の密庵席」。
織部の「飾りの場の数」を更に多くして行き、
四畳半台目の茶室でも、
床と書院床と複雑な構成の違棚を備え、
後に綺麗さびと呼ばれる遠州好みのものが、
各所に飾れるようになっていたみたいです。


■正月飾り
正月飾りは、正月に向けて飾られるもの、大晦日以前に飾るそうです。
種類としは以下のようなものがあるみたいです、

@門松・松飾り
A注連飾り(しめ飾り)・注連縄(しめなわ)
B玉飾り
C餅花
D輪じめ
E床の間飾り(床飾り)
F座敷飾り
G掛け軸
H生花
I神棚飾り
J鏡餅
K羽子板
L破魔弓


■床飾り
立花実山著『南方録』に
「掛物ほど第一の道具ハなし」
とあるそうで、
一般的な茶会記では「床」として、
掛物の筆者、種類・内容、箱書・伝来などを記し、
次に「花入」、続いて「釜」「香合」「水指」「茶入」「茶碗」「茶杓」
などと記していくそうです。



作品名:飾り炭
価格:5,000円
備考:紙箱入/写真上

飾り炭
※画像を押すと拡大できます。
飾り炭というと「花炭」を思い浮かべる方も多いと思います。
古くから茶の湯の世界で菊炭 と共に使用され、
優雅で高尚なものとして珍重されてきたそうです。
木の実・葉・花・果物などを、
素材そのままの形で炭化させてつくる炭の一種だそうです。

茶人や武将などの茶室に飾られたそうで、
藩によっては、特殊な焼き方の技術を持った炭焼師までいたのだとか。


作品名:飾海老
作者:賀集正夫
価格:8,000円
備考:紙箱入

飾海老
※画像を押すと拡大できます。
海老は、えびのように腰が曲がるまで長生きできますようにという、
長寿の意味をこめたものだそうです。

ここでは「蓬莱飾り」について少し触れようと思います。
蓬莱飾りは、様々な縁起物が入った飾りで、
各流派の初釜などで飾られるようです。

蓬莱飾りは、海老の他、白米・熨斗鮑・かち栗・昆布・野老(ところ)・
馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・などが一緒に飾られているようです。

「蓬莱」というのは、古代中国で不老不死の仙人が住むという
東の海上(海中)にある仙境の1つだそうです。

日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』に
「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、
文脈にも神仙などの用語が出てくるみたいです。

平安時代に、僧侶の寛輔が「蓬莱山」とは富士山を指すと述べ、
『竹取物語』にも「東の海に蓬莱という山あるなり」のほか、
「蓬莱の玉の枝」が登場し、富士山の縁起を語るところで、
不老不死の語が出てくるそうです。

また、松尾芭蕉の句に
「蓬莱に聞かばやいせ(伊勢)の初だより」
というのがあるようで、
意味は、
「めでたい蓬莱飾りの前にて
伊勢神宮のある伊勢からの初便りを聞きたいものだ」
となるようです。

謡曲「鶴亀」に蓬莱山のことが出ています。
「庭の砂ハ金銀の。庭の砂ハ金銀の。玉を連ねて敷妙の。
五百重の錦や瑠璃の枢。シャコの行桁瑪瑙乃橋。池の汀の鶴亀は。
蓬莱山も餘処ならず。君の恵ぞありがたき。君の恵ぞありがたき」


作品名:利休像(備前焼)
作者:陶峰
備考:紙箱入

利休像(備前焼)
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、千利休の逸話をいくつか紹介しようかと思います。


■宮王三郎三入

利休が30代のころ、宗恩(後に利休の妻)は、
日吉猿楽の能役者、宮王三郎三入の妻だったそうです。

この三郎三入、『天王寺屋会記』によれば、
天文12年〜20年ころ、宗達や宗及らと茶会を共にすることが多く、
それなりの茶人でもあったようです。

三郎三入の遺愛品として、宮王肩衝や宮王釜があげられるみたいです。
(兄の宮王大夫道三の所有物ともいわれるようですが。)
このうち、宮王釜は、千利休の指南によってデザインされたものだそうです。


利休、謡を習う
一方、利休は、弟の三郎三入に謡を習ったようです。
『松屋会記』に、
、謡は宮王大夫ノ弟子也。関寺と藤渡と只二番習候也。
口伝有之、氏政御申候は、終ニ数寄を存ぜず、
関寺、藤渡を不知候間、数寄の不成も理り也と云給となり。」
とあるそうです。

まず、宮王大夫というのは、宮王三郎三入のことで、
氏政は、北条氏政のことのようです。
謡の「関寺」というのは、今の「関寺小町」のことで、
「藤渡」は「藤戸」のことになるのだとか。

この文章の意味は、
「自分(北条氏政)が、ついに数寄がわからなかったのは、
利休が習ったこの二番をしらないためだ。」
となるみたいです。

さて、『四座役者目録』に、
「三郎一調鼓ヨク打ツ、後、手不叶シテ、
三入と云て、三好殿(実休)近習伽ヲスル」
とあるそうです。

利休の謡が二番で留まったのは、
三郎三入の手が不自由となって鼓を打てなくなり、
三好実休の御伽衆になったことに関係があるみたいです。

天文20年、三郎三入は、三好実休に伴われて阿波に渡り、
その2年後の2月に没したようです。

妻の宗恩(15歳)は、天文15年に少庵を生んでいるそうなので、
宗恩は22歳〜25歳、少庵は7歳で、三郎三入を亡くしたことになるみたいです。
ちなみに天文22年、利休は32歳だったようです。


宗恩利休
天正5年、利休(57歳)は、妻(法名宝心妙樹)を失うそうです。
そして、翌天正6年、宗恩(47歳〜50歳)と再婚するみたいです。

天昭17年正月の大徳寺聚光院に、
永代供養米を寄せた時の『寄進状』によると
「為聚光院へ寄進米、
 合七石宛定納也、永代進上如件、
 一、一忠了専 十二月八日
 一、月岑妙珎 十月七日
 一、利休宗易 逆修
 一、宗恩 逆修
 一、宗林童子 八月十八日
 一、宗幻童子 七月十七日
 以上
 一、但、墓ニ石燈籠在之、
 利休宗恩、右燈籠ニシユ名在之
 天正十七年正月 日 利休(花押)
 聚光院常住
 納所御中」

一忠了専、月岑妙珎は父母なのですが、
問題は、宗林童子と宗幻童子の二人で、
おそらく、利休宗恩の子供と思われます。

では、いつ頃生まれた子供なのでしょうか。

再婚が、50歳近い宗恩には、無理な話でしょうから、
少なくとも40歳頃、もっと前に生まれていたかもしれません。

つまり、利休は、先妻(法名宝心妙樹)と死別する前に、
宗恩との間に子供を作っていたと考えるのが自然みたいです。
時期はちょうど信長の茶頭になったかならないかあたりと考えられるとか。


■お亀について

利休は、宝心妙樹の他に、1人・2人の女性関係が知られているそうで、
その間にも、何人かの子女をなしていたみたいです。

この女性関係の中で、お亀(おちゃう)という娘が生まれたようで、
このお亀は、少庵の妻になり、後に宗旦を生むようです。

お亀が少庵の妻であることは、『敞帚記補』に
「庚午冬(寛延3年)宗室ノ口切かけ物ニ、[少庵内より]トアル女筆ノ文也。
是ハ千家ニテモ利休ノ娘ト云フ、未詳ニテ分明ニ不知。
是ハ利休ノ愛女ニテ名ハ亀ト云、法名ハ喜室宗慶ト号ス。
少庵ノ妻也。是人ノ不知事也。
此文ハ大徳寺ニ有テ宗室所望セラレタリ。」
とあるそうです。

天正19年2月、堺に利休が出発のおりに、お亀へ送った書状について
『千利休由緒書』に、

利休めは とかく果報ものぞかし 菅丞相になると思へば」
という狂歌の上書に
「お亀に思置、利休
と書いた。

とあるようです。

『千利休由緒書』には、その後、
「お亀は利休の娘、万代屋宗安が後家也」
と記載されているみたいです。

さて、宗旦は、利休宗恩が再婚した年に生まれているそうです。
お亀は、利休の娘で、少庵の妻と考えると、
お亀はいつ生まれたのでしょうか。

単純に考えると、お亀は、先妻の宝心妙樹が生きているうちに、
愛人との間に生まれた子となるようです。


千道安について
利休と宝心妙樹の間には、道安という子が生まれていますが、
利休の死後、現在の千家を継いだのは、道安と同じ年の少庵だったみたいです。

千道安は、「剛・動の茶」と呼ばれるほど自我が強烈で他人に耳を貸さず、
偏屈な人柄だったためか、利休との折り合いが悪く、
若いころに家を出てていったようです。
後に和解し、利休は、道安を後継者と考えたいたようです。

『茶話指月集』によれば、
秀吉利休
「大仏(方広寺)の内陣を囲いて茶の湯すべき者は誰ぞ」
と尋ねたところ、
道安が仕るべき」
道安を推挙した。
とあるみたいです。

千家(堺千家)を再興した道安ですが、
嫡子がいなかったため、残念ながら断絶するようです。

『茶話指月集』には、
千家再興の後、
秀吉に呼ばれた道安が御前で茶を点てたところ、
秀吉
宗易が手前によく似たる」
と褒めた。
とあるそうです。


千少庵について
近年、千少庵は、松永久秀と宗恩の子とする説もあるそうです。

『随流斎延紙ノ書』に
少庵居士、松永タンセウ真父也」
という記述があるとか。

他に『茶祖的伝』では、
少安ハ仮子也。
実ハ久秀の胤也」
「実ハ松永氏の胤にして
母宗恩の仮子也」

もちろん、
『茶道四祖伝書』の
少庵ハ宮王ノ子也」
宗易ノ養子」

『随流斎 寛文八年本』の
少庵本親ハ三入と申也」
といった、宮王三郎三入が親とする説も健在みたいです。


■最後に

切腹が決まった後の天正19年2月13日、利休は、
愛娘お亀に以下の文を渡したようです。

『茶道要録』に、
利休めはとかく
 くわほうの物そ
 かし、かんしやう
 しやうにナルトおもへは
 宗易(花押)
と堅紙に書き、巻いて上に封じ目をつけて、
おかめにおもいおく りきう
と書きつけてお亀に渡して出立した。」
とあるそうです。

この「かんしやうしやう」というのは
菅丞相、つまり菅原道真のことだそうですが、
利休の心底には、奸臣の讒言によって陥れられた
無実の罪だとする意識があったかもしれないようです。

菅原道真は、醍醐朝では右大臣にまで昇った後、
左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ左遷されて現地で没したそうです。

利休辞世の句は、

「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺
 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛」

句の解釈に関しては、さまざまな見解があるそうなので、そちらに譲るとして、
ここでは、この前後に起こったお亀と少庵の騒動を記載しようと思います。

『松屋日記』に
少庵も御成敗との儀也。少庵の内方、宗旦の母は、
何事も沙汰無之以前に去られたり。
少もかまひは無之候へども、此一乱に付、宗旦の母其儘飛入って、
少庵はにくけれども宗旦同時に果テ可申とて籠居けり。
然る処に少庵御免被成、相済候也。
女の処存無比類事と世上に云へり。
自是一期被居候なり。」
とあるそうです。

少庵夫妻は不仲だったようで、
利休自刃前に、妻(お亀)は少庵の家を出ていたようです。

それを少庵もかくべつ意にもかけていなかったが、
一乱が起こったので狂乱して舞い戻り、
子の宗旦と一緒に死ぬ覚悟で籠居したみたいです。

やがて少庵が許されたので、何事もなく済んだという話みたいです。
当時は「女の処存無比類事」ともっぱらの噂になったようです。

利休にとっての愛娘は、
お亀にとっても愛すべき父だったのではないでしょうか。



トップページ 商品 特別品
メニュー一覧 売買方法 水屋
ひと口知識 お茶室