作品名:飾り炭
価格:5,000円 備考:紙箱入/写真上 |
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飾り炭というと「花炭」を思い浮かべる方も多いと思います。
古くから茶の湯の世界で菊炭 と共に使用され、 優雅で高尚なものとして珍重されてきたそうです。 木の実・葉・花・果物などを、 素材そのままの形で炭化させてつくる炭の一種だそうです。 茶人や武将などの茶室に飾られたそうで、 藩によっては、特殊な焼き方の技術を持った炭焼師までいたのだとか。 |
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作品名:飾海老
作者:賀集正夫 価格:8,000円 備考:紙箱入 |
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海老は、えびのように腰が曲がるまで長生きできますようにという、
長寿の意味をこめたものだそうです。 ここでは「蓬莱飾り」について少し触れようと思います。 蓬莱飾りは、様々な縁起物が入った飾りで、 各流派の初釜などで飾られるようです。 蓬莱飾りは、海老の他、白米・熨斗鮑・かち栗・昆布・野老(ところ)・ 馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・などが一緒に飾られているようです。 「蓬莱」というのは、古代中国で不老不死の仙人が住むという 東の海上(海中)にある仙境の1つだそうです。 日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』に 「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、 文脈にも神仙などの用語が出てくるみたいです。 平安時代に、僧侶の寛輔が「蓬莱山」とは富士山を指すと述べ、 『竹取物語』にも「東の海に蓬莱という山あるなり」のほか、 「蓬莱の玉の枝」が登場し、富士山の縁起を語るところで、 不老不死の語が出てくるそうです。 また、松尾芭蕉の句に 「蓬莱に聞かばやいせ(伊勢)の初だより」 というのがあるようで、 意味は、 「めでたい蓬莱飾りの前にて 伊勢神宮のある伊勢からの初便りを聞きたいものだ」 となるようです。 謡曲「鶴亀」に蓬莱山のことが出ています。 「庭の砂ハ金銀の。庭の砂ハ金銀の。玉を連ねて敷妙の。 五百重の錦や瑠璃の枢。シャコの行桁瑪瑙乃橋。池の汀の鶴亀は。 蓬莱山も餘処ならず。君の恵ぞありがたき。君の恵ぞありがたき」 |
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作品名:利休像(備前焼)
作者:陶峰 備考:紙箱入 |
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ここでは、千利休の逸話をいくつか紹介しようかと思います。
■宮王三郎三入 利休が30代のころ、宗恩(後に利休の妻)は、 日吉猿楽の能役者、宮王三郎三入の妻だったそうです。 この三郎三入、『天王寺屋会記』によれば、 天文12年〜20年ころ、宗達や宗及らと茶会を共にすることが多く、 それなりの茶人でもあったようです。 三郎三入の遺愛品として、宮王肩衝や宮王釜があげられるみたいです。 (兄の宮王大夫道三の所有物ともいわれるようですが。) このうち、宮王釜は、千利休の指南によってデザインされたものだそうです。 ■利休、謡を習う 一方、利休は、弟の三郎三入に謡を習ったようです。 『松屋会記』に、 「易、謡は宮王大夫ノ弟子也。関寺と藤渡と只二番習候也。 口伝有之、氏政御申候は、終ニ数寄を存ぜず、 関寺、藤渡を不知候間、数寄の不成も理り也と云給となり。」 とあるそうです。 まず、宮王大夫というのは、宮王三郎三入のことで、 氏政は、北条氏政のことのようです。 謡の「関寺」というのは、今の「関寺小町」のことで、 「藤渡」は「藤戸」のことになるのだとか。 この文章の意味は、 「自分(北条氏政)が、ついに数寄がわからなかったのは、 利休が習ったこの二番をしらないためだ。」 となるみたいです。 さて、『四座役者目録』に、 「三郎一調鼓ヨク打ツ、後、手不叶シテ、 三入と云て、三好殿(実休)近習伽ヲスル」 とあるそうです。 利休の謡が二番で留まったのは、 三郎三入の手が不自由となって鼓を打てなくなり、 三好実休の御伽衆になったことに関係があるみたいです。 天文20年、三郎三入は、三好実休に伴われて阿波に渡り、 その2年後の2月に没したようです。 妻の宗恩(15歳)は、天文15年に少庵を生んでいるそうなので、 宗恩は22歳〜25歳、少庵は7歳で、三郎三入を亡くしたことになるみたいです。 ちなみに天文22年、利休は32歳だったようです。 ■宗恩と利休 天正5年、利休(57歳)は、妻(法名宝心妙樹)を失うそうです。 そして、翌天正6年、宗恩(47歳〜50歳)と再婚するみたいです。 天昭17年正月の大徳寺聚光院に、 永代供養米を寄せた時の『寄進状』によると 「為聚光院へ寄進米、 合七石宛定納也、永代進上如件、 一、一忠了専 十二月八日 一、月岑妙珎 十月七日 一、利休宗易 逆修 一、宗恩 逆修 一、宗林童子 八月十八日 一、宗幻童子 七月十七日 以上 一、但、墓ニ石燈籠在之、 利休、宗恩、右燈籠ニシユ名在之 天正十七年正月 日 利休(花押) 聚光院常住 納所御中」 一忠了専、月岑妙珎は父母なのですが、 問題は、宗林童子と宗幻童子の二人で、 おそらく、利休と宗恩の子供と思われます。 では、いつ頃生まれた子供なのでしょうか。 再婚が、50歳近い宗恩には、無理な話でしょうから、 少なくとも40歳頃、もっと前に生まれていたかもしれません。 つまり、利休は、先妻(法名宝心妙樹)と死別する前に、 宗恩との間に子供を作っていたと考えるのが自然みたいです。 時期はちょうど信長の茶頭になったかならないかあたりと考えられるとか。 ■お亀について 利休は、宝心妙樹の他に、1人・2人の女性関係が知られているそうで、 その間にも、何人かの子女をなしていたみたいです。 この女性関係の中で、お亀(おちゃう)という娘が生まれたようで、 このお亀は、少庵の妻になり、後に宗旦を生むようです。 お亀が少庵の妻であることは、『敞帚記補』に 「庚午冬(寛延3年)宗室ノ口切かけ物ニ、[少庵内より]トアル女筆ノ文也。 是ハ千家ニテモ利休ノ娘ト云フ、未詳ニテ分明ニ不知。 是ハ利休ノ愛女ニテ名ハ亀ト云、法名ハ喜室宗慶ト号ス。 少庵ノ妻也。是人ノ不知事也。 此文ハ大徳寺ニ有テ宗室所望セラレタリ。」 とあるそうです。 天正19年2月、堺に利休が出発のおりに、お亀へ送った書状について 『千利休由緒書』に、 「利休めは とかく果報ものぞかし 菅丞相になると思へば」 という狂歌の上書に 「お亀に思置、利休」 と書いた。 とあるようです。 『千利休由緒書』には、その後、 「お亀は利休の娘、万代屋宗安が後家也」 と記載されているみたいです。 さて、宗旦は、利休・宗恩が再婚した年に生まれているそうです。 お亀は、利休の娘で、少庵の妻と考えると、 お亀はいつ生まれたのでしょうか。 単純に考えると、お亀は、先妻の宝心妙樹が生きているうちに、 愛人との間に生まれた子となるようです。 ■千道安について 利休と宝心妙樹の間には、道安という子が生まれていますが、 利休の死後、現在の千家を継いだのは、道安と同じ年の少庵だったみたいです。 千道安は、「剛・動の茶」と呼ばれるほど自我が強烈で他人に耳を貸さず、 偏屈な人柄だったためか、利休との折り合いが悪く、 若いころに家を出てていったようです。 後に和解し、利休は、道安を後継者と考えたいたようです。 『茶話指月集』によれば、 秀吉が利休に 「大仏(方広寺)の内陣を囲いて茶の湯すべき者は誰ぞ」 と尋ねたところ、 「道安が仕るべき」 と道安を推挙した。 とあるみたいです。 千家(堺千家)を再興した道安ですが、 嫡子がいなかったため、残念ながら断絶するようです。 『茶話指月集』には、 千家再興の後、 秀吉に呼ばれた道安が御前で茶を点てたところ、 秀吉は 「宗易が手前によく似たる」 と褒めた。 とあるそうです。 ■千少庵について 近年、千少庵は、松永久秀と宗恩の子とする説もあるそうです。 『随流斎延紙ノ書』に 「少庵居士、松永タンセウ真父也」 という記述があるとか。 他に『茶祖的伝』では、 「少安ハ仮子也。 実ハ久秀の胤也」 「実ハ松永氏の胤にして 母宗恩の仮子也」 もちろん、 『茶道四祖伝書』の 「少庵ハ宮王ノ子也」 「宗易ノ養子」 『随流斎 寛文八年本』の 「少庵本親ハ三入と申也」 といった、宮王三郎三入が親とする説も健在みたいです。 ■最後に 切腹が決まった後の天正19年2月13日、利休は、 愛娘お亀に以下の文を渡したようです。 『茶道要録』に、 「利休めはとかく くわほうの物そ かし、かんしやう しやうにナルトおもへは 宗易(花押) と堅紙に書き、巻いて上に封じ目をつけて、 おかめにおもいおく りきう と書きつけてお亀に渡して出立した。」 とあるそうです。 この「かんしやうしやう」というのは 菅丞相、つまり菅原道真のことだそうですが、 利休の心底には、奸臣の讒言によって陥れられた 無実の罪だとする意識があったかもしれないようです。 菅原道真は、醍醐朝では右大臣にまで昇った後、 左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ左遷されて現地で没したそうです。 利休辞世の句は、 「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛」 句の解釈に関しては、さまざまな見解があるそうなので、そちらに譲るとして、 ここでは、この前後に起こったお亀と少庵の騒動を記載しようと思います。 『松屋日記』に 「少庵も御成敗との儀也。少庵の内方、宗旦の母は、 何事も沙汰無之以前に去られたり。 少もかまひは無之候へども、此一乱に付、宗旦の母其儘飛入って、 少庵はにくけれども宗旦同時に果テ可申とて籠居けり。 然る処に少庵御免被成、相済候也。 女の処存無比類事と世上に云へり。 自是一期被居候なり。」 とあるそうです。 少庵夫妻は不仲だったようで、 利休自刃前に、妻(お亀)は少庵の家を出ていたようです。 それを少庵もかくべつ意にもかけていなかったが、 一乱が起こったので狂乱して舞い戻り、 子の宗旦と一緒に死ぬ覚悟で籠居したみたいです。 やがて少庵が許されたので、何事もなく済んだという話みたいです。 当時は「女の処存無比類事」ともっぱらの噂になったようです。 利休にとっての愛娘は、 お亀にとっても愛すべき父だったのではないでしょうか。 |
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