氏名 | 斎藤南斎 | ||||||||||||
経歴など | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 佐久間勝山 | ||||||||||||
経歴など |
初代 信春
1856年 百々川焼開窯。 二代 芳春 1878年 錦花山焼開窯 徳和焼と改称。 (長谷川可同命名:又妙斎・円能斎門下) 三代 芳隣 1914年 松阪萬古と改称。 (昭和十年小津笹川庵命名) 昭和10年上五窯の陶法を受け継ぎ、更に伊勢松阪万古として陶土の研究に専念。 淡々斎宗匠より御好窯として「松古印」を賜り「松古窯」と命名される。 四代目 佐久間勝山 芳隣に師事。 昭和22年 即中斎宗匠の御用を承る。 昭和51年帝国ホテル特別サロンにて個展。 昭和62年京都高島屋にて傘寿記念茶陶展開催。 五代目 佐久間芳山 勝山の息子。 1930年(昭和05年)生まれ。 勝山に師事。 1998年 芳山五代目松古窯を継承。 2006年 喜寿記念展示会開催昭和四十一年、東京日本橋三越にて個展。 | ||||||||||||
コメント |
佐久間勝山は、松古窯の四代目。
松古窯は、万古焼の創始者「沼浪弄山」の流れをうけて、初代信春が安政年間に開いた窯とのこと。 淡々斎より松菱の松古印を賜わったけど、平成10年には故人となったみたいです。
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氏名 | 佐久間芳丘(さくまほうきゅう) | ||||||||||||
経歴など |
明治44年 三重県(松古窯窯元の家)生まれ。
昭和39年 独立開窯。 | ||||||||||||
コメント |
三代・佐久間芳隣の次男。佐久間勝山の弟。
幼い頃から二代である祖父に作陶を学び、 万古焼の伝統技法をベースとして、 動植物をモチーフに、唐津、高麗、志野、伊賀、紅毛などで作成しているとか。 茶碗、鉢、香合、水指などを制作しているようです。
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氏名 | 佐久間芳山 | ||||||||||||
経歴など |
1930年生まれ。勝山に教わる。
1998年 勝山92歳にて没した後、芳山五代目松古窯を継承。 2006年 喜寿記念展示会開催。 | ||||||||||||
コメント |
佐久間勝山の息子、佐久間芳山は、昭和5年生まれで松阪萬古松古窯の五代目だそうです。
伊勢の萬古焼が、昭和のはじめに裏千家淡々斎より、御好窯「松古」の御印を受けたとのこと。 萬古焼は、桑名の豪商、沼波弄山が元文年間(1781年〜1740年)に朝明郡小向で創始したようです。 葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つそうで、 陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(b器)に分類されるとのこと。
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氏名 | 佐々木松楽 | ||||||||||||
経歴など | 錦手絵付師佐々木松楽。 | ||||||||||||
コメント |
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氏名 | 佐々木昭楽 | ||||||||||||
経歴など |
三代目佐々木昭楽
1944年 京都生まれ。 1962年 父、二代目松楽に師事。 当代は三代目昭楽。 | ||||||||||||
コメント |
松楽窯では赤楽・黒楽のお茶碗をはじめとする「茶陶」に力を注いでいるそうです。
松楽窯は、錦手絵付師佐々木松楽が、京都清水にて楽焼を志したのが始まりだそうです。 現在地の亀岡へは、二代目松楽のときに移転、現在三代を教えるそうです。 大徳寺御用達としても活躍しているとか。
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氏名 | 笹田仁史(ささだ ひとし) | ||||||||||||
経歴など | 笹田有祥と同じ。 | ||||||||||||
コメント |
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氏名 | 笹田有祥 | ||||||||||||
経歴など |
昭和27年 京都生まれ。
昭和45年 京都市立日吉ケ丘高校陶芸科卒業。 昭和46年 京都府立陶工訓練校卒業。 昭和47年 京都市立工業試験場陶磁器技能者養成所卒業。 昭和48年 手塚央に師事。茶陶を指導される。 昭和50年 独立 五条坂共同登り窯にて訪う唐物写茶入の制作を始める。 昭和56年 京都東山梅ケ谷工房を移す。 昭和62年 五条坂共同登り窯廃止に伴い西加茂に現工房を築く。 平成元年 京都丹波瑞穂町にて登り窯参加。 平成08年 京都市北区西加茂にて新工房を建て、茶道具の制作を中心に現在に至る。 | ||||||||||||
コメント |
笹田有祥は、昭和27年京都生まれ。手塚央に師事し、茶陶を指導されたそうです。
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氏名 | 佐藤浄義 | ||||||||||||
経歴など | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 佐藤浄清 | ||||||||||||
経歴など | |||||||||||||
コメント |
山形県内陸部に位置する銅町の釜師として全国的にも知られるそうで、
日本工芸展で数々の受賞歴を保持しているとか。
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氏名 | 佐藤清光 | ||||||||||||
経歴など |
大正05年 山形市生まれ。
昭和28年 日展に初入選。 平成元年 齋藤茂吉文化賞受賞。 平成04年 勲六等瑞宝章受賞。 平成08年 死去。 | ||||||||||||
コメント |
茶の湯釜の肌打ちの名人であった無形文化財保持者・根来実三氏に師事するそうです。
青年期より日本画を高橋立洲人に、 俳画(俳画名壮石)を小野田高節にそれぞれ師事し、絵心を養ったとか。 箆(へら)押しの技術に長け、右に出る者がいなかったみたいです。
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氏名 | 佐藤朴堂 | ||||||||||||
経歴など |
昭和22年 兵庫県大徳寺派蔵雲寺煕道和尚に就て得度。
昭和31年 京都花園妙心寺専門道場に禅修行のため掛錫。 昭和46年 大徳寺派福聚院の住職へ。 昭和52年 大徳寺前往位に昇進。 | ||||||||||||
コメント |
福聚院住職 佐藤宗秀 道号:朴堂。
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氏名 | 寒川栖豊(紀州焼葵窯) | ||||||||||||
経歴など |
昭和07年 初代寒川栖豊が高野山小田原で開窯。
昭和12年 旧紀州藩主徳川頼貞より「紀州焼葵窯」の窯名を拝命。 昭和21年 息子(二代目寒川栖豊)、誕生。 昭和31年 「那智黒釉」を創出。 昭和40年 父(初代栖豊)に師事。 昭和51年 二代目寒川栖豊を襲名。 | ||||||||||||
コメント |
紀州焼(偕楽園焼)は、紀州徳川家の御庭(おにわ)焼きのことだそうです。
文政(1818〜1830)ごろ、十代藩主治宝(はるとみ)が、別邸西浜御殿内の偕楽園で、 京都の楽(らく)焼の陶工や永楽保全らに焼かせたのに始まるようです。 交趾焼の写しなどを主に作ったのだとか。 永楽善五郎(千家十職の土風炉・焼物師)が携わった偕楽園焼は、紫と浅葱色と呼ばれる トルコブルーを基調にした法花の和製の作風みたいです。 偕楽園の名は、天保十二年(1841年)水戸九代藩主徳川斉昭が別邸を創設し、 偕楽園と称したことに始まるようです。 明治六年(1873年)茨城県が、公園地としてこれを経営することとなったみたいです。 明治四十年、広田松翁が、公園内に楽窯を作り、偕楽焼と称したそうです。 「軽い軟陶に白釉がけ」の茶碗を主に作り「偕楽」隷書印を用いたようです。 昭和十一年、風戸元愛が、水戸市緑町に偕楽焼の継承のために 茨城陶器研究所を設立、板谷波山、城戸夏男らが協力し、焼成したみたいです。 このときの銘印は「偕楽」丸印・小判印を用いたのがとか。 その後「偕楽」印は、茨城工芸指導所に受け継がれ、 昭和二十四年、笠間市に茨城県窯業指導所が開設されるまで、 偕楽焼を製作したそうです。
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氏名 | 塩徳屋 | ||||||||||||
経歴など | (株)塩徳屋漆器店。 | ||||||||||||
コメント |
株式会社塩徳屋漆器店は、
石川県輪島市河井町1部39-2にあるそうで、 塩山徳雄が代表を務めているようです。 電話番号は、0768-22-0445 みたいです。 NHKの朝の連続ドラマ小説「まれ」に 「塩徳屋」の塩山誠司が出演。
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氏名 | 塩安漆器工房 | ||||||||||||
経歴など | 安政5年(1858年) 創業。 | ||||||||||||
コメント |
レストラン、ショップも併設運用しているとか。
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氏名 | 渋谷泥詩(しぶや でいし) | ||||||||||||
経歴 |
萩美術家協会 会員。
萩市美術展覧会 五回入選。 山口県美術展覧会 三回入選。 九州・山口陶磁展 入選。 日本現代工芸展 中国支部会 三回入選。 第十八回 現代工芸美術展 入選。 昭和59年 国際芸術文化賞 受賞。 平成2年 萩伝統工芸協会 会長に就任。 | ||||||||||||
コメント |
渋谷泥詩は、萩市美術展覧会・山口県美術展覧会・山口県美術展覧会などで受賞しているようです。
萩美術家協会の会員で、平成2年には萩伝統工芸協会の会長に就任したみたいです。
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氏名 | 司峰(東 勝司) | ||||||||||||
経歴 |
昭和52年 陶磁器科 職業指導員の免許取得。
昭和53年 一級技能士免許取得。 昭和54年 石川県小野窯展 会長賞受賞。 昭和57年 九谷の里講師に委嘱する。 昭和62年 伝統九谷焼工芸展入選。 平成02年 第20回全陶展初入選。陶光会会友に推挙される。 平成03年 第21回全陶展入選。選抜砥部展。 平成04年 第22回全陶展 最優秀賞受賞。選抜仙台展。会員推挙。 平成05年 伝統九谷焼工芸展入選。第23回全陶展入選。 平成06年 第24回全陶展入選。伝統九谷焼工芸展入選。 平成07年 第25回全陶展入選。 平成08年 第26回全陶展。現代文化協会長賞受賞。 中国景徳鎮「中日陶芸展96」入選。 平成09年 第27回全陶展入選。 平成16年 小松市技能功労者受賞。 平成19年 石川県伝統産業功労者受賞。 | ||||||||||||
コメント |
九谷焼の司峰は、日展作家 北山雲平のもとで図案、釉彩窯変等の基本法を学んだそうです。
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氏名 | 島田竹宝斎(しまだちくほうさい 本名:義春) | ||||||||||||
経歴 |
昭和29年 京都生まれ。
昭和45年 師:初代・二代目竹宝斎に師事。 昭和55年 独立する〜以後も二代目竹宝斎に師事。 平成09年 三代竹宝斎を襲名。 平成10年 茶道美術公募展入選。 | ||||||||||||
コメント |
竹割・籠編み・染め・拭き漆の全行程を行っているようです。
網代返抜き編みの技法を得意とするとか。
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氏名 | 清水晃樹 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
清水晃樹は、氷見晃堂(ひみこうどう)宅に住み込み弟子として十数年修業、
その後、主に国宝・重要美術品等の修復を手掛けたりした人のようです。
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氏名 | 而妙斎(じみょうさい) | ||||||||||||
経歴 |
昭和13年 1938年生まれ。表千家14代家元。13代即中斎の長男。
昭和42年 大徳寺の方谷浩明老師より「而妙斎」の号を与えられて宗員となる。 昭和54年 即中斎逝去。 昭和55年 2月28日に14代宗左を襲名。 平成02年 利休400年忌を迎え、法要をいとなみ茶事を催す。 | ||||||||||||
コメント |
表千家第十四代家元の而妙斎宗左は、襲名以前は宗員と称していたみたいです。
第十三代即中斎の長男として1938年に生まれ、 1967年に大徳寺の方谷浩明老師より「而妙斎」の号を与えられて宗員となったようです。 1980年2月28日に十四代宗左を襲名したとのこと。 1990年の利休四百年忌には、法要をいとなみ茶事を催したそうです。
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氏名 | 秀峰 | ||||||||||||
経歴 |
秀峰窯−三代秀峰
1958年 京都に生まれる。 1983年 大阪工業大学電子工学科卒業。 1984年 京都府立陶工職業訓練校成形科修了。 1985年〜1986年 京都市工業試験場陶磁器研修コースにて釉薬について学ぶ。 1993年 ギャラリー壺空・陶芸楽美にてそれぞれ二人展。 1999年より3年間、穴窯による作品を手がける。 2006年 京焼清水焼展 NHK京都放送局局長賞受賞。 | ||||||||||||
コメント |
平安秀峰。
秀峰窯の陶祖千葉吉蔵は、明治中期の福島県会津本郷焼において染付の絵付け職人として活躍したそうです。 希代稀なる名人と謳われ、号を「千山」と称し、色絵の作品も手がけたのだとか。 一代目 秀峰 吉蔵の三男の千葉四郎(武内四郎)は、戦前に京都東山今熊野の地に入り、 雅号を「秀峰」とし染付磁器の生産を開始したようです。 戦後は染付磁器のみならず交趾の作品も手がけるようになったのだとか。 二代目 秀峰 武内敬吉郎は、交趾と染付を融合させた作品を多く手がけるそうです。 交趾デザインの定番となった「交趾蝶々」のデザインの発案者のようです。 三代目 秀峰 敬吉郎の息子の武内真司は、轆轤成形や型成形等、成形技術を得意とするそうです。 染付磁器・交趾の作品の品質向上を目指しているそうです。
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氏名 | 松雲窯(泉喜仙) | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
大樋焼は、石川県金沢市にある、340年余の伝統をもつ楽焼の脇窯だそうです。
加賀の河北郡大樋村で、窯を建てて藩の焼物御用を務めた「長左衛門」が、 稀有な茶の湯の道具として発展させたもので、 加賀藩からの手厚い保護を受け、現在に至っているようです。 加賀五代藩主前田綱紀松雲が、初代喜仙茶道を精進したそうで、 松雲の徳を偲び大樋の脇窯として 「宗和流家元辰川宗弘宗匠松雲窯」としたもののようです。
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氏名 | 松光山栄光 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
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山口県萩市大井3216-1にある窯元。
ジャズ好きで、ショールームには手作りのレコードなどが置いてあるのだとか。
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氏名 | 昌山 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 庄司 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 浄也 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 白井半七 | ||||||||||||
経歴 |
初代白井半七
京都の土風炉師より技法を修得。 貞享年間(1684〜88)頃 土風炉や種々の茶器を制作。 二代白井半七 享保年間(1716〜36)頃 瓦器に施釉した楽焼風の軟陶を制作して今戸焼と呼ばれた。 四代・五代白井半七 京都の伏見人形の影響を受けた今戸人形を制作。 天保年間(1830〜44)頃 浅草寺参詣等の土産物として隆盛。 七代白井半七 1923年の関東大震災で被災して窯が崩壊した為、兵庫県伊丹市に移窯。 七代までを「隅田川半七」「隅田川焼」「今戸焼」と呼ぶ。 ※現在は東京都台東区今戸で分家となる五代白井靖二郎が今戸焼を守り伝えている。 八代白井半七(1898年〜1949年) 小林一三の招きによって兵庫県宝塚市に移窯し、 仁清・乾山写し等の華やかな京焼の作風を採り入れる。 九代白井半七(1928年〜1987年) 1980年 兵庫県三田市大原に移窯しました。 | ||||||||||||
コメント |
白井半七は江戸・今戸焼を代表する陶家で、
初代白井半は、貞享年間(1684〜88)頃に、土風炉や種々の茶器を制作したようです。
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氏名 | 申相浩(しんさんほん) | ||||||||||||
経歴 |
1947年(檀紀4280) 韓国ソウルに生まれる。
1965年(18歳) 申相浩陶芸研究所を設立。韓国産業美術展覧会に出品、8回入賞する。 1973年(26歳) 日本巡回個人展(東京、大阪他)。弘益大学校を卒業。 1975年(28歳) 弘益大学校産業美術大学院修士課程(陶・磁器学部)を卒業。 1980年(33歳) 個展(東京新宿三越開店50周年記念招待)。 1981年(34歳) 弘益大学校教授となる。 1984年(37歳) 第9回陶磁器ビエンナーレ出品(フランス)。 1989年(42歳) ソウル現代公募展審査委員及び招待出品。 1991年(44歳) 大韓民国工芸大展招待作家及び選定委員。 1998年〜2003年 弘益大学校美術大学学長を務をめる。 | ||||||||||||
コメント |
陶房窯の陶芸家、申相浩(シンソウコウ)、向こうの呼び方だと「シンサンホン」となるみたいです。
1947年、韓国ソウル生まれで、18歳(1965年)には「申相浩陶芸研究所」を設立しているようです。 1975年に韓国の私大「弘益大学校(ホンイクだいがっこう)」修士課程を卒業後、 韓国産業美術展覧会に出品、8回も入賞したそうです。
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氏名 | 須賀玄道 | ||||||||||||
経歴 |
大正8年 大分県生まれ。
昭和22年、瑞泉寺住職とな至る。 | ||||||||||||
コメント |
元方広寺派管長足利紫山老師、
元建仁寺派管長竹田頴川老師に就いて修行、 人見少華に就き日本画を学ぶ。 大徳寺派布教師に任命され既に三十余年の巡教歴あり。
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氏名 | 杉田祥平 | ||||||||||||
経歴 | 現在四代目。 | ||||||||||||
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杉田祥平は、現在四代目。江戸後期に作られた清閑寺窯で作陶中。
清閑寺窯は旧伯爵・清閑寺家の許可を得て江戸後期に築窯され、 初代菊次郎、二代目龍斎、三代目祥平を経て、四代目杉田祥平が平成11年に襲名。 京焼・清水焼の代表的な仁清・古清水の流れを茶陶器の製作を通して継承し、 その造形美と典麗優美な桃山文化の彩色美の中に、 現代感覚を併せ持つ技法で作陶に邁進され、全国の有名百貨店などで展示会を開くなど、活躍。 京都伝統陶芸家協会会員。 また、当代の息女・杉田眞龍(すぎたまりゅう)は父の薫陶を受け女性の目、 若い感覚で茶陶器に挑んで、注目の作家です。 以下、杉田祥平のコメント 「この地に生まれ育って60余年。自分にとって世界中、 何処を探してもこんな良い所はないと思い続けて日々送らせて頂いています。 駅へも近いし、祇園も近い、こんな茶わん坂に惚れ込んでいる私は、 どんなことがあっても、ここから離れることは出来ません。 朝6時、大谷さんの鐘の音と小鳥の囀りを耳にして、一日が始まります。 目には清水さんの三重の塔、季節の移りゆく東山を眺め、 [さー、今日も一日が始まるぞ!]と、なんとも気持ちの良い、ここ茶わん坂。 この茶わん坂は、昔はリヤカーやら桟板(さんいた)に品物を載せて下の共同窯へ運んだもので、 ここ清水独特の風情があって、なかなか良いものでした。 今は、電気窯などつかっていますが、あの頃共同窯に入れる薪を探しに(調達に)、 仲間と夜久野の方へ行ったりもいたしました。 その薪も松の木で節のないものを選んだりして、いろんな苦労がありました。 節があったらそこで火力が弱りますからね。懐かしいことです。 共同窯は前後1週間程かかりました。窯の掃除からはじまって、 ゴウに入れるも灰を被るものは前の方、素焼は後ろといろいろと場所が決まっていたり、 燃やす薪も入れる場所が違い、ここは四ツ割、ここは八ツ割と選んで入れたものです。 当番は1晩中ついていて、火の色をみながらだんだんと温度を上げていったものです。 焼き上がると、2日間程かかって冷やしました。 火入れ、窯出し、掃除と、そういう時に顔を合わせて親しいさしてもらいました。 あの頃は、仲間意識も強かった様に思います。今は個々にしてますので、なかなか顔を合わすこともなくなりました。 この茶わん坂、昔は櫓を組んで、下から上まで盆踊り、 又、地蔵盆の時は道に幕を張って映画上映などをみせてもらいました。 ローラースケートもようしたし、千両飴を売ったはるとこもあって楽しかったですね。 車社会の今は考えられないことですね。 」
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氏名 | 杉本貞光 | ||||||||||||
経歴 |
1935年 東京に生まれる
1968年 信楽山中に穴窯築窯・茶陶信楽とレリーフ制作 1974年 大徳寺立花大亀老師よりご教導を受け今日に至る 沖縄海洋博にレリーフ制作(レリーフ活動を終える) 1979年 茶陶伊賀の研究制作・大徳寺・如意庵にて個展 1981年 長次郎風の黒茶碗、光悦風の赤茶碗の研究制作 1985年 高麗物、井戸、粉引の研究制作 1992年 吉兆・湯木美術館に収蔵される 1994年 エール大学美術館に収蔵される 1995年 自然灰釉による彫塑の制作 1997年 施釉による彫塑の制作 1999年 古信楽土発見 2002年 京都・建仁寺晋山記念として井戸茶碗を納める | ||||||||||||
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氏名 | 鈴木表朔 | ||||||||||||
経歴 |
初代鈴木表朔
1874年 滋賀県安曇川町に生まれる。幼名井上捨吉。 蒔絵師・鈴木長真の養子となり鈴木表朔を名乗るが、後にキュウ漆に転じ、二代木村表斎に師事する。 1909年 伊勢神宮の神宝の塗を担当 1911年 御大典、高御座、御帳台、万歳幡の塗を担当 1916年 内務省御用となる。 1919年 神坂雪佳主宰の佳都美村に参画。 1943年 死去。 漆器同業組合代議員、京都美術工芸会会員などを務める。 二代鈴木表朔 1905年 京都生まれ。本名は貞次。俳号貞路。父・表朔の元で漆塗りの技法を学ぶ。 1926年 21才の時に、聖徳太子奉賛展入選を果たしたのを皮切りに、創作活動を開始する。 1934年 流型派工芸展に出品。美術の新潮流に反応した作品を制作した。 その後、京展入賞、帝展、文展などに出品を続ける。 1937年 32歳の時に、パリ万国博銀賞を受賞する。 1978年 「現代の工芸作家展」出品、「漆と共に50年」記念個展を開催。 1981年 古希記念個展を京都高島屋で開催。 1991年 死去。 三代鈴木表朔(鈴木雅也) 1932年 京都生まれ。 日吉丘高校(現・京都市立銅駝美術高等学校)漆工科卒業の後、東京芸術大学漆工科に入学。 松田権六、六角大穣の指導を受ける。 卒業制作が日展に初入選。 卒業後、同大学専攻科一年修了。 1956年 京都にて「建築と工芸グループ」を結成。 日展をはじめ、日本現代工芸展、京展など数多くの展覧会へ出品し、継続して入賞を果たす。 1968年 漆芸グループ「フォルメ」結成。漆芸の新たな可能性を模索する活動を、展開する。 1973年 日展特選。後には審査員となる。 1988年 京都府京都文化博物館歴史展示室の造形演出作品の企画・制作を行う。 1991年 日工会展審査員、日展評議員を務める。 1993年 日工会展内閣総理大臣賞受賞。 現在、東京、京都にて個展数回開催。創作を続けている。 | ||||||||||||
コメント |
鈴木表朔は京都の代表的な塗師で、表派(ひょうは)という塗師の系統にあるそうです。
表派初代の木村表斎(1817〜1885)は、朱塗・真塗を得意とし、 現代に続く京塗の伝統を形作ってきたとのこと。 三代目鈴木表朔(当代)の鈴木雅也氏は、 表派の技術を引き継ぎながら製作を通して、 漆塗の新たな可能性を追求されているようです。
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氏名 | 清楓 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 清襴 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
ブランド名みたいです。
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氏名 | 千漢鳳(せん かんぽう) | ||||||||||||
経歴 |
1933年 東京生まれ。終戦で韓国へ帰り、慶尚北道の民窯に入門、作陶生活に入り、
以降、茶道具専門の窯元とし、その作品が日本でも知られるようになる。 1975年 加藤唐九郎氏の下で教えを受ける。 1978年 佐賀博物館より特別ゲストとして招かれる。 1982年 大韓民国郷土文化大賞を受賞。 1990年 盧大統領訪日に際し皇室への贈呈碗制作。 1991年 神戸博物館の日韓文化交流展に出品。 1995年 大韓民国陶芸部門名匠認定。 | ||||||||||||
コメント |
聞慶窯の千漢鳳は、1933年東京生まれ。
1972年に聞慶窯を設立し、現聞慶大学の陶磁器工芸科の名誉教授なのだそうです。 朝鮮一のどんぶり鉢を守る作家だとか。 韓国陶芸の巨匠で、1995年大韓民国陶芸部門名匠に認定されているようです。 千漢鳳は、1975年に加藤唐九郎のもとで修業したそうです。 加藤唐九郎は、1897年生まれの陶芸家で、 桃山時代の陶芸の研究と再現に努めた人のようです。 1948年に帰国後、慶尚北道聞慶に民窯入門して1972年に聞慶窯を設立した。 現聞慶大学の陶磁器工芸科の名誉教授だ。朝鮮1のどんぶり鉢を守る作家。 韓国陶芸の巨匠天旱峰先生は一生を茶碗製作に精進して来た作家。 以下、63歳の時、NHKのドキュメンタリーでのコメント 「井戸茶碗は、厚い口造り、梅花皮(かいらぎ)、兜巾(ときん)など色々言われるが、一番難しいのは枇杷色です。」
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氏名 | 宗景 | ||||||||||||
経歴 |
宮田宗景
昭和28年生まれ。 昭和45年 蒔絵師蓑輪一星氏に師事。 昭和50年 独立。 越前蒔絵見本市入選、漆芸協会賞等受賞。 | ||||||||||||
コメント |
蒔絵師の宮田宗景は、昭和45年より蒔絵師の蓑輪一星に師事し、昭和50年に独立したそうです。
越前蒔絵見本市で入選、漆芸協会賞等を受賞しているようです。
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氏名 | 宗祥 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
輪島作家。
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氏名 | 象彦 | ||||||||||||
経歴 |
1661年 創業。創業者初代安居七兵衛。
1600年末 象牙屋 二代橘七兵衛の息子二人が南北に分かれ商いする。 1750年 南北両家断絶。西村家が引き継ぐ。 1800年代 三代目西村彦兵衛が「白象と普賢菩薩」を描く。 屋号「象彦」へ改称。 1950年頃 九代目西村彦兵衛が継ぐ。 | ||||||||||||
コメント |
象彦は、寛文元年(1661年)に創業したそうです。
当時は象牙屋と言ったようで、創業者初代安居七兵衛が、 京都寺町に唐物道具商を開舗したみたいです。 1800年代、蒔絵技術に秀でた三代目西村彦兵衛の、 晩年に「白象と普賢菩薩」を描いた蒔絵額が、洛中で大評判になり、 この額を象牙屋の「象」と彦兵衛の「彦」の二文字を取り「象彦の額」 と呼ぶようなったのだとか。 幕末〜明治にかけ、それまで高級漆器の主要な注文主であった大名は没落し、 残された富豪層も天皇の東京行幸に伴って東京へと居を移していったそうです。 また、生活様式の西洋化による漆器そのものに対する国内需要の低下もあり、 象彦に存続の危機が訪れるようです。 多くの職人が離散し、代々続いた有名な塗師屋や蒔絵師も姿を消したみたいです。 蒔絵の施された漆器を焼いて、残った金を取ることを業とする者もいたとか。 そんな中、日本の美術工芸の衰退を危惧した三井家(江戸店持ち京商人)が、 蒔絵の分野において、象彦を庇護をするそうです。 象彦は、多くの職人を統括し、材料・技法・意匠までを監修する アートプロデューサー的存在となっているみたいです。 作品の作者名が象彦作ではなく象彦製となっているのは、この為なのだとか。 自ら筆をとって制作を行った、三代目西村彦兵衛が、ちょっと特殊だったようです。
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氏名 | 蔵珍窯(ぞうほうがま) | ||||||||||||
経歴 |
■蔵珍窯
昭和45年創業。 ■社家12代 小泉 蔵珍 岐阜県立陶磁器試験場工芸科研修生課程を修了し、 幸兵衛窯にて修業。 5代目幸兵衛、加藤卓男(人間国宝)両氏に師事。 | ||||||||||||
コメント |
蔵珍窯は、岐阜県多治見市大平町にある。
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氏名 | 宗楽 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 高木誠明 | ||||||||||||
経歴 |
高木誠明(たかぎせいめい)
有限会社たかせ物産代表。 | ||||||||||||
コメント |
独自に地元の杉を使い、京都のお茶の世界に挑戦する。
茶室建設、茶道具を主に研究し、技術のほかに約束事の多いお茶の世界に入る。 茶室は地元青森県の他、東京、仙台、盛岡、宮古等各地に建て、好評を博す。 昭和55年東京都嶋屋(日本橋)美術画廊で個展。 昭和56年、日芸展25周年記念出品。
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氏名 | 高名光夫 | ||||||||||||
経歴 |
昭和31年 石川県輪島市に生まれ。
昭和57年 第三十八回石川県現代美術展 初入選『窟』。 平成03年 第一回日本工匠会展会員賞受賞 『並ぶ』 。 平成08年 第六回日本工匠会展企画展示特別賞 「四曲屏風・海はストライプ」受賞。 平成23年 第四十四回日展『虹と海と・・・』特選受賞。 他、日展・日本工匠会展多数受賞。 | ||||||||||||
コメント |
高名光夫は、昭和31年生まれの日展会友。
高名光夫漆芸工房は、チルチンびと「地域主義工務店」の会主催の Webページで取り上げられたりしているみたいです。
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氏名 | 高野昭阿弥 | ||||||||||||
経歴 |
初代 高野昭阿弥
昭和05年 初代昭阿弥創業。 二代目 高野昭阿弥 昭和16年 京都市に生まれる。 昭和41年 京都市立美術大学卒業後、初代昭阿弥の許で仕事を覚える。 昭和55年 初代と共に50周年記念展を催す。 平成05年 二代目となる。 平成08年 京都にて昭阿弥工房展を行う。 | ||||||||||||
コメント |
高野昭阿弥は、京焼・清水焼で評判の窯元(昭阿弥窯)。
京焼・清水焼の始まりは平安時代以前で、 平安京の造営と同時に本格的に焼き物作りが始まったようです。 名称は、清水寺への参道である五条坂界隈で 清水六兵衛・高橋道八など多くの窯元があったのが由来みたいです。 二代目高野昭阿弥は、先代昭阿弥のもとで二十五年にわたり薫陶を受けたそうです。 磁器を主に幅広い器の製作を通して、幅広い器の作品を作っているようです。 豊かな色彩感と伝統性をふまえた独自の京焼の創造を目指しているのだとか。 染付の技法、成形の技法には高い評価があるようです。
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氏名 | 高橋悦道 | ||||||||||||
経歴 |
昭和23年 大徳寺僧堂へ、後藤瑞巌・小田雪窓に師事。
昭和28年 臨済宗大徳寺派明星寺住職。 | ||||||||||||
コメント |
明星寺は、〒520-0361 滋賀県大津市伊香立途中町468にあり、
長享2年(1488年)宗宝に開基したそうです。 本尊は、釈迦如来だとか。
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氏名 | 高橋敬典(たかはし けいてん) | ||||||||||||
経歴など |
1950年 長野垤志に師事。
1951年 日展で初入選。 1961年 昭和天皇の山形県行幸で釜を献上。 1963年 日本伝統工芸展奨励賞受賞。 1972年 日本伝統工芸展鑑査委員となる。 1976年 日本伝統工芸展NHK会長賞受賞。 1979年 皇太子明仁親王の山形県行啓で釜を献上。 1996年 重要無形文化財「茶の湯釜」保持者に認定される。 2009年 慢性腎不全により逝去。88歳没。 | ||||||||||||
コメント |
日本の金工家で、山形県山形市出身だとか。
鋳物作家として重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されるようです。 本名は高橋高治(たかじ)みたいです。 映画監督の村川透は女婿だそうです。 社団法人日本工芸会参与、山形鋳物工業団地協同組合副理事長、 山形市輸出入組合理事、山形県物産協会理事等を歴任したようです。
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氏名 | 多気檗山(たきばくざん) | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
三重県出身の工芸家。
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氏名 | 武腰泰山 | ||||||||||||
経歴 |
初代・泰山
明治12年 石川県に初代・善平の三男として生まれる。
昭和21年 67歳で没。 | ||||||||||||
コメント |
幼少の頃から、九谷上絵の巨匠・父善平から厳しく教えを受けたようです。
画風は九谷庄三風の柔らかさと、 深みがあり繊細な運筆での田園風景は優れているとか。 三代・泰山は武腰敏昭、四代・泰山は武腰潤みたいです。
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氏名 | 武田士延 | ||||||||||||
経歴 |
昭和06年 大阪府生まれ。
昭和18年 東福寺塔頭荘厳院 高橋浩州師の徒弟となる。 昭和26年 東福寺専門通場掛塔 林恵鏡師の教えをうける。 昭和30年 大阪教育大卒。 昭和35年 妙喜庵住職となる。 | ||||||||||||
コメント |
妙喜庵は、臨済宗 大本山東福寺派 豊興山 妙喜禅庵の略。
国宝の茶室「待庵(たいあん)」があるようです。 室町時代の明応年間(1492年〜1501年)創建だそうです。 開山は東福寺開山聖一国師の法嗣、春嶽士芳禅師みたいです。 「妙喜庵」の寺号は、宋の大慧禅師の庵号からつけられたもので、 連歌の祖である山崎宗鑑の隠棲地なのだとか。 ■「待庵」とは 日本最古の茶室建造物であると同時に、 千利休作と信じうる唯一の現存茶室だそうです。 寺伝に、天正10年(1582年)、山崎の戦いのおり、 羽柴秀吉の陣中に 千利休により建てられた、 二畳隅炉の茶室を解体し移築したとあるようです。 「茶席」はわずか二畳で、天井は三つの部分に分かれているみたいです。 天井は、それぞれ、 床の間前は床の間の格を示して平天井、 炉のある点前座側はこれと直交する平天井、 にじり口側)を東から西へと高くなる掛け込み天井、 となっているようです。 「茶席」と「次の間」と「勝手の間」を含んだ全体の広さは、 四畳半大となっているそうです。 次の間は、二畳茶室の西隣に襖を隔て、 一畳に幅8寸ほどの板敷きを添えた部屋みたいです。 勝手の間は、次の間の北側にある一畳間のようです。 一重棚を備えた次の間と、三重棚を備え、 ひと隅を塗り回しとする、勝手の間の用途については、 江戸時代以来、茶人や研究者がさまざま説を唱えているそうですが、 未だ明らかになっていないとのこと。
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氏名 | 高取喜恵 | ||||||||||||
経歴 | 昭和44年 福岡県美術展入選。 | ||||||||||||
コメント |
高取喜恵は、福岡県で生まれた陶芸家で、
本名は高取キセ子だそうです。 十三代・高取八仙の妻で、家業を手伝ううちに、 自らも作陶するようになり、夫である十三代・高取八仙に師事するとか。 唐物に似た薄作りの茶入れを得意とし、 高取焼の繊細かつ華麗さを表現するために制作活動に励んでいるようです。
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氏名 | 高取八仙 | ||||||||||||
経歴 |
十三代 八仙
平成17年度 秋の叙勲に際し、瑞宝単光章を受章。 | ||||||||||||
コメント |
現在の八仙窯は、明治三年に住居兼仕事場として建てられた。
後継者は、高取忍。 妻は、高取喜恵。
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氏名 | たち吉 | ||||||||||||
経歴 |
1752年 創業。
明治中期 屋号「橘屋吉兵衛」を「たち吉」と改称。 1949年 株式会社に組織変更。 1957年 銀座に東京店開設。 1969年 京都山科に物流センター竣工。 1971年 福岡営業所開設。 1973年 名古屋営業所開設。 1980年 新東京物流センター竣工。 1991年 京都物流東センター竣工。 2003年 岐阜県多治見市に商品センター開設。 | ||||||||||||
コメント |
株式会社たち吉は、京都市下京区に本社のある陶磁器の販売会社だそうです。
京焼だけでなく全国各地の陶磁器を仕入・販売していて、 2006年には、全国の百貨店などに百以上の店舗があったようです。 陶磁器製品の売上高が100億円を超える国内でも数少ない会社の一つだそうで、 特に和食器のメーカーとしては突出した規模の存在なのだとか。
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氏名 | 立花大亀 | ||||||||||||
経歴 |
明治32年 大阪出身生まれ。臨済宗の僧。
大正10年 出家。 京都大徳寺塔頭の徳禅寺住職。 昭和38年 最高顧問。 昭和48年 大徳寺内に如意庵を復興して庵主となる。 昭和57年 花園大学長。 平成17年 105歳で死去。 | ||||||||||||
コメント |
立花大亀は、明治32年12月22日、大阪出身生まれの臨済宗の僧。
大正10年出家。京都大徳寺塔頭(たっちゅう)の徳禅寺住職となったようです。 大徳寺派宗務総長を2期つとめたそうです。 昭和38年最高顧問。 昭和48年大徳寺内に如意庵を復興して庵主となったとか。 昭和57〜昭和61年花園大学長。 平成17年8月25日、105歳で死去。 著作に『度胸の据え方』『利休に帰れ』などがあるみたいです。
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氏名 | 田中香泉 | ||||||||||||
経歴 |
平安 田中香泉
昭和33年 京都生まれ。 昭和61年 山科にて独立築窯。 平成元年 伏見区に工房を移す。 平成05年 現代の京焼・清水焼をパリ展に出展。公募展などに出品入選。 | ||||||||||||
コメント |
京焼・清水焼の作品を海外に広めている人だそうです。
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氏名 | 田中寿宝 | ||||||||||||
経歴 |
田中寿宝(田中壽寶)
伯母の二代目久世久宝 のもとで、作陶に専念。 昭和49年 二代目久宝没後 独立。 建仁寺官長竹田益州老師より「壽寶」の雅号を賜る。 ============== 田中 綏寶(たなか すいほう) 昭和43年 田中寿宝の長男として京都に生まれる。 平成4年 嵯峨美術短期大学デザイン専攻卒。 京都精華大学美術学部造形学科卒。 父、田中壽寶に師事、釉薬を大西政太郎、日本画を内田勇一に師事。 京都府工芸産業技術コンクール入選。 平成14年 伝統工芸士に認定される。 | ||||||||||||
コメント |
幕末に尊皇攘夷派の田中河内介を輩出した幼少の頃より祖父(初代久宝)のもと、
土に親しみ初代久宝より焼き物の技術を伝授され、絵を南画院院友矢田百渓師に学び陶芸を志すそうです。 二代目久宝のもとで仁清・乾山・染付・祥瑞・金襴手・繊細な彫刻その他いろいろと作陶に専念・研究したとのこと。 二代目久宝の許しを得て、昭和49年二代目久宝の没後、 建仁寺七代管長竹田益州老師より「壽寶」の雅号並びに雅号の書き入れられた暖簾を賜り、 同年独立し主に茶の湯の道具を作陶するようです。 以下、略歴として、 ○第4回京展に入選する。 ○京都伝統陶芸家協会二凌会顧問になる。 ○第7回京焼・清水焼展市長賞を受賞する。 ○通商産業大臣認定伝統工芸士に認定される。 ○鷲峰山高台寺より「高台寺写」の許可並びに推薦を賜る。 ○平成11年度京都府伝統産業優秀技術者表彰[京の名工]を受ける。 ○京都府匠会に入会する。 寿宝工房は、京都府東山区東大路通松原上る4丁目毘沙門町40にあり、 京焼の仁清風の絵付けが体験できるみたいです。 上絵の絵付けができる数少ない工房なんだとか。 色付け体験 湯呑み・壁掛け皿:各4,000円 陶筆・陶化粧刷毛:各16,000円 抹茶碗:各30,000円 送料別・着払いだそうです。
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氏名 | 田中宗凌 | ||||||||||||
経歴など |
石川県山中町出身。
中村宗尹(そういん)に師事。 加賀蒔絵師として、永年棗の製作に研鑽。 | ||||||||||||
コメント |
加賀蒔絵師。
2005年10月1日に旧来からの加賀市と山中町が新設合併し、 加賀市となったようです。
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氏名 | 田中芳華 | ||||||||||||
経歴 |
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氏名 | 田村悟朗(たむらごろう) | ||||||||||||
経歴など |
昭和16年 山口県赳玖珂郡生まれ。
昭和54年 小迫窯を開窯(登り窯)。 昭和62年 郷里(山口県玖珂郡)に通化寺焼の窯を開窯。 | ||||||||||||
コメント |
萩焼の陶芸家。
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氏名 | 田原一斎 | ||||||||||||
経歴 |
三代目 田原一斎
明治31年祖父:為治朗が始める。 昭和15年京都市中京区で生まれ。師:父のもと研鑽。 昭和42年父の死後3代を継承。 昭和48年山科にて工房開設。 以後個展を多数開く。 | ||||||||||||
コメント |
三代目 田原一斎の息子、田原寛季は「京都桐箱工芸」という明治10年創業の店を営んでいるようで、
初代より受け継がれた言葉は 「誠意がなくなれば継ぐな、お客様に喜ばれなくなれば商売はやめろ」だそうです。
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氏名 | 田原陶兵衛 | ||||||||||||
経歴 |
十二代 田原陶兵衛
1925年 山口県長門市に生まれる。 1944年 旧制山口高等学校在学中に召集を受けて満州に渡る。 1945年 シベリアに抑留される。 1948年 抑留先のシベリアから復員後、長兄十一代田原陶兵衛に後継者不在の為家業を継承。 1956年 十二代田原陶兵衛を襲名。 1972年 日本工芸会正会員。 1981年 山口県の無形文化財保持者に認定。 1991年 66歳没。 | ||||||||||||
コメント |
十代陶兵衛の二男として山口県長門市に生まれたそうです。
長兄十一代田原陶兵衛に後継者がいなかった為、家業陶芸を継承し、 父や兄(十一代)に陶芸を学んだとか。 1956年、兄の死去により十二代を襲名したようです。 田原家は赤川助左衛門の系統を引く、 深川御用窯(深川萩)の陶芸一族としての名跡みたいです。 1866年、八代赤川喜代蔵の時に、嫡男謙治が赤川性から田原姓に改姓したようです。 十二代田原陶兵衛は独自の高麗朝鮮陶器の研究、 茶道への造詣を深め茶陶中心に発表したみたいです。 田原陶兵衛は田原家当主が代々襲名し現在に至るみたいです。 ■系譜 初代 赤川助左衛門 二代 赤川三左衛門 三代 赤川忠兵衛 四代 赤川佐々エ門(佐兵衛、左々ヱ門) 五代 赤川忠兵衛(喜右衛門) 六代 赤川喜右衛門 七代 赤川忠兵衛 八代 赤川喜代蔵(光高) 置物細工に秀で、青年時代より蘭学に志し、医薬にもくわしく、 木戸孝光等幕末藩士と親交があったとか。 九代 田原陶兵衛(謙治)(〜1934年) 幕末、喜代蔵の嫡男謙治が田原姓を名乗り田原陶兵衛を称したようです。 十代 田原高麗陶兵衛(守雄)(1880年〜1939年) 十一代 田原高麗陶兵衛(忠太郎)(〜1956年) 十代陶兵衛の長男で、1943年に技術保存窯指定されたそうです。 十二代 田原陶兵衛(1925年〜1991年)) 十代の二男で、1956年に十二代田原陶兵衛を襲名したようです。 十三代 田原陶兵衛(1951年〜) 十二代の長男で、中里重利に師事したそうです。 1992年に父の死去により十三代を襲名したとか。
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氏名 | 淡交社 | ||||||||||||
経歴 | 1949年 株式会社 淡交社設立。 茶道裏千家機関誌『淡交』を刊行。 1960年 東京支社を開設。 | ||||||||||||
コメント |
京都府京都市北区にある裏千家と繋がりが深い出版社だそうです。
主に茶道関係、京都関係の書籍を出版しているとか。 茶道裏千家十四世淡々斎家元の次男、納屋嘉治が、同志社大学卒業の翌年、 裏千家の機関誌「淡交」を刊行する出版社として設立したようです。 淡交社の名前は荘子の 「君子之交淡若水」 (学徳のある立派な人同士の交わりは、 水のように淡々としておられ、清い関係である。 私心のない交わりは壊れることがない) に由来しているそうです。
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氏名 | 淡々斎(碩叟宗室・無限斎) | ||||||||||||
経歴 |
1893年 東京生まれ。裏千家十三世円能斎の長男。幼名は政之輔、号に碩叟。
1923年 30歳で家元を継承。淡交会を結成、 ついで国際茶道文化協会を設立し茶道の海外普及につとめた。紫綬褒章受章。 1964年 享年昭和39年、71歳。 | ||||||||||||
コメント |
淡々斎碩叟は、1893年に東京で生まれた裏千家十四世家元。
十三世円能斎の長男で幼名は政之輔だったそうです。 30歳で家元を継承し、1940年に淡交会を結成したようです。 また、1947年に国際茶道文化協会を設立し、茶道の海外普及につとめたとか。 後に紫綬褒章を受章しているみたいです。 ちなみに「淡交会」というのは、 @家元指導方針を会員が遵守。 A裏千家茶道の基本的な点前作法を全国的に統一。 B茶道文化に関する研究調査を行う。 C裏千家今日庵の目的事業の後援・振興ならびに茶道を修好する方々の研修・福利厚生を図る。 D日本文化の興隆発展に寄与する。 という目的を持っているそうです。 また「国際茶道文化協会」というのは、 日本の伝統文化茶道をもって、世界平和のために貢献し、 国際親善に寄与することを目的としているようで、 @世界各国に対する茶道の普及および紹介。 A茶道に関する展覧会、催事、映像などの企画制作および紹介。 B茶室の建築様式および庭園等の紹介。 Cその他茶道の宣伝普及に関する対外事業。 D青山グリーンアカデミーをはじめとした国内における茶道文化事業の育成および指導。 といった活動をしている団体みたいです。
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氏名 | 竹秀斎 | ||||||||||||
経歴 | 森田竹秀斉。 | ||||||||||||
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氏名 | 千穂 | ||||||||||||
経歴など | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 長好斎 | ||||||||||||
経歴 | 石川県加賀市の竹好師。 | ||||||||||||
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氏名 | 通次阿山(つうじあざん) | ||||||||||||
経歴 |
昭和13年 京都生まれ。
昭和56年 東京淡交センターにて個展。 | ||||||||||||
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大阪市立大学文学部を卒業し、九谷焼の名工「雲外」を祖父に持つそうです。
日本画を池田道夫に師事し、陶芸の指導を父・寛斎(日展作家)に受けるようです。 日本画の技を絵付にいかし、繊細な絵画風京焼の茶陶を制作したみたいです。 茶席に用いられることにより生きてくる美しさをもち、 その場の雰囲気を高めるような、存在感のある茶陶をめざしたのだとか。 ちなみに、通次寛斎は京都の陶絵師で、弟子に桝田屋光生などがいるようです。
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氏名 | 土田友湖 | ||||||||||||
経歴 |
初代 友湖 1687年〜1757年(号:友湖・不染斎)
西陣織の仲買人だったが、袋師・亀岡宗理の弟子となってその家業を継いだ。 表千家の六代・覚々斎の時に千家の袋師となり、 後に七代・如心斎より友湖の号を贈られた。 二代 半四郎 1736年〜1757年(法号:了圓) 初代不染斎の子、初代在世中に没す。 三代 半四郎 1746年〜1784年(号:一得斎友甫) 初代の甥。丁字屋嘉兵衛長男。了圓の養子。 四代 鶴寿院貞松 1719年〜1801年 二代半四郎の姉・くに。 三代半四郎の子供が幼少のため、 表千家八代・卒啄斎の命により家業継承。 1788年、天明の大火により家屋を焼失するが、卒啄斎の援助により再建。 五代 半四郎 1778年〜1825年(号:伸定、蓮乗) 三代一得斎の長男。 この頃、室町一文字屋三右衛門、 笹屋勘右衛門など帛紗を扱っていた家が断絶したため、 表千家九代・了々斎の計らいにより帛紗も扱い始める。 六代 半四郎 1803年〜1883年 五代の子。 天明の大火で焼失した家系図や秘伝書の再編さんを薦めるが、 禁門の変に遭遇、再び家屋及び家伝などの一切を消失。 七代 半四郎 1835年〜1911年(号:聴雪) 西垣家出身。養子として土田家に入る。 表千家十一代・碌々斎の引き立てを受ける。 樂慶入と親交が深かった。 八代 半四郎 1861年〜1911年(号:淡雪) 七代の長女・阿さの婿養子。 養父・聴雪を亡くした一月後に没す。 九代 半四郎 1892年〜1914年 八代淡雪の次男。22才の若さで亡くなる。 十代 浄雪院妙要 1859年〜1940年 七代聴雪の長女、八代の妻である阿さ。 夫・長男・次男の早世及び後継者の三男が幼少のため、家督継承。 十一代 半四郎 1902年〜1965年 八代淡雪の三男、良三。 昭和15年、十代当主で母の阿さが亡くなったため家督継承するが、 太平洋戦争勃発により幾度も召集される。 終戦後、ようやく茶道復活の兆しが出始めた昭和29年に病に倒れ、 以後は入退院を繰り返し、家業に専念できぬまま世を去る。 十二代 半四郎 1939年〜 十一代良三の次男 陽三。当代土田友湖。 1965年 襲名。 | ||||||||||||
コメント |
千家十職の一つ、袋師みたいです。
土田友湖の当主の通称は、半四郎で、 隠居して剃髪すると友湖を名乗るそうです。 五代目までは仕覆を生業としていたみたいですが、 以降は茶道具の茶入の仕覆・帛紗・角帯などを作っているようです。 ■土田家の祖先 土田家の祖先は近江国蒲生郡土田村の出身の侍・土田七大夫で、 後に初代彦根藩主・井伊直政に仕官、 鉄砲組頭を代々務めた家柄なのだとか。 ■土田半平 七大夫の四代後の子孫「半平」は、本来跡取りであったが、 実母が早くに亡くなり、後妻に入った継母が男子を生んだ為、 その異母弟に家を譲って武士を廃業、 「越後屋半兵衛」と名乗って西陣織仲買人となったそうです。 その傍ら袋物の仕立ての修行をし、 覚々斎原叟宗左に引き立てられて、 茶入の仕覆などを縫うようになったみたいです。 半平の仕立ての修行は、袋師亀岡二得の子、宗理に習い、 最終的に、奥義一切を伝えられるに至ったそうです。 ■初代亀岡二得 この亀岡二得は、初代が春日神社の田楽法師で、 茶入などの袋物の名手だったようです。 利休や細川三斎の袋物も製作していたとか。 ■二代目亀岡二得 二代目二得は、茶道を好み、 元伯宗旦に「飯後軒」の軒号を贈られ、 それを茶亭に掲げて、飯後の茶事を楽しんだそうです。 ■宗理 この二代目二得の子が宗理で、 この人も茶道を好み、家事一切を半平に譲り、 自身は勢州久居城主の藤堂家に茶頭として仕えたみたいです。 ■初代土田友湖 土田半平は、中村宗哲家の三代目彭祖(ほうそ)と共に、 俳諧を通じ、如心斎天然宗左と交わり、 如心斎から「友湖」の号を賜るそうです。 また、この初代土田友湖(不染斎)は、 二代目二得から伝わっていた「飯後軒」の額を掲げ、 よく茶事をしていたようです。 又玄斎一燈宗室は、その口切りの茶事に招かれて、 「口切りや松葉もなしに飯後軒」 という句を残したのだとか。 1765年、77歳で死去し、辞世の句は 「仏物不滅 我亦常住 法身妙体 是妙法蓮花経 七十七歳 不染斎」 だそうです。
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氏名 | 貞斎 | ||||||||||||
経歴 | 山本貞斎。 | ||||||||||||
コメント |
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氏名 | 手塚玉堂 | ||||||||||||
経歴 |
二代目 手塚玉堂
昭和8年 初代手塚玉堂の五兄弟の長男として生まれる。 昭和52年 二代目手塚玉堂を襲名。 | ||||||||||||
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二代目 手塚玉堂
兄弟に、次男の手塚央(ひさし)、三男手塚大示、五男手塚石雲(充)がいるようです。
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氏名 | 手塚祥堂 | ||||||||||||
経歴 |
1934年 京都市に生まれ。
1959年 京展出品以後、三軌会展・日展他出品 。 1970年以降 三軌会展を中心に発表。 日経新聞社賞・文部大臣奨励賞他受賞。 同支部展で京都府知事賞・京都市市長賞・読売テレビ賞。 建都千二百年記念協会賞他受賞。 三越・高島屋・大丸・松屋・天満屋等。 各百貨店画廊で個展開催。 パリ ビスコンティ画廊等で個展開催。 京都工芸美術作家協会会員。 三軌会会員 同工芸部長。 | ||||||||||||
コメント |
手塚祥堂陶苑の代表者手塚央は、1934年京都生まれで、
初代手塚玉堂を父に持つ五人兄弟の次男。 (長男は1933年生まれの二代目手塚玉堂。) 1959年に京展出品以後、三軌会展・日展他に出品しているとか。 1970年以降は、三軌会展を中心に発表しているそうです。
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氏名 | 手塚大示 | ||||||||||||
経歴 |
昭和12年 初代玉堂の三男として生まれる。
昭和42年 桃山窯を継承。 昭和47年 三越にて桃山窯展を開く。その後個展を重ねる。 昭和52年 伝統工芸士の認定を受ける。 昭和56年 京焼・清水焼展にてグランプリ受賞。 | ||||||||||||
コメント |
手塚大示(平安大示:二代目桃山窯)は、 昭和12年初代玉堂の三男として生まれたそうです。
父の下で陶芸の研究に入り、昭和42年桃山窯を継承。 昭和47年三越にて桃山窯展を開いたりして、その後個展を重ねるようです。 昭和52年伝工士を受けたとか。青磁・仁清・乾山風・金禰手・交趾等制作しているみたいです。
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氏名 | 手塚桐鳳 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
手塚桐鳳窯は、花蝶窯の手塚石雲が監修した窯のことだそうです。
手塚石雲は、 1942年に、手塚玉堂の五男として、京都で生まれたようです。 その後、父の玉堂に師事し、 1971年、京都山科で、勧修寺窯を開窯するそうです。 2002年、還暦を機に大徳寺管長高田明浦老師より 窯名:花蝶窯、陶名:石雲 を貰うそうです。 翌2003年、京都嵯峨で花蝶窯を開窯するみたいです。
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氏名 | 手塚充 | ||||||||||||
経歴 |
昭和17年 手塚玉堂の五男として京都市に生まれる
その後父玉堂に師事して陶芸を学ぶ 昭和46年 独立して京都山科清水焼団地にて勧修寺窯を開窯 昭和47年 陶朱会に入会し以後毎年京都、東京にて発表 昭和48年 東京高島屋雙葉会展 昭和49年 東京三越にて個展 東京三越にて青樹会展 バロリス国際展出品 昭和50年 東京三越青樹会展 東京三小田急第一回個展 東京東武京焼三人展 昭和51年 東京三越青樹会展 東京三小田急第二回個展 東京東武京焼三人展 広島福屋京焼翌檜展 昭和52年 東京三越青樹会展 東京三小田急第三回個展 東京東武京焼三人展 昭和53年 東京三越青樹会展 東京三小田急第四回個展 東京東武京焼三人展 広島福屋京焼翌檜展等に出品する | ||||||||||||
コメント |
手塚充は、昭和17年の京都生まれで、手塚玉堂の五男。
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氏名 | 洞華苑 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
愛知県瀬戸市仲洞町19にある、
瀬戸・春日井・小牧・犬山の陶磁器を製造。 電話:0561-83-6230
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氏名 | 桃岡堂 | ||||||||||||
経歴 |
1959年 創業 陶胎蒔絵漆器の制作
1963年 シルクスクリーン技法による 陶胎漆器へのダイレクト印刷 1965年 シルクスクリーン技法による 茶道具用陶磁器への上絵付用転写の印刷 1981年 オリジナル版画 (シルクスクリーン版)の制作 1991年 有名作家作品のエスタンプ版画 (シルクスクリーン版)の制作 1996年 デジタル版画技法による オリジナル/エスタンプ版画の制作 2000年 デジタル版画技法による 佛画制作 | ||||||||||||
コメント |
桃岡堂 村瀬工芸社。
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氏名 | 唐三郎 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 藤山 | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
コメント |
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氏名 | 道竹 | ||||||||||||
経歴 |
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コメント |
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氏名 | 陶峰 | ||||||||||||
経歴 |
木村陶峰(木村強)
昭和02年 岡山県・窯元六姓の木村家陶正園の生まれ。 昭和34年ワシントン国際展にてグッドデザイン賞を受ける。 岡山県備前焼陶友会副理事長。 岡山県備前陶芸美術館副理事長。 日芸会に所属 | ||||||||||||
コメント |
木村陶峰(木村強)は、昭和02年、岡山県・窯元六姓の木村家陶正園の生まれ。
岡山県備前焼陶友会副理事長や、岡山県備前陶芸美術館副理事長なのだとか。 岡山県備前陶芸美術館は、古備前から現代に至る作品及び備前焼に関する資料を一堂に集め、 展示・公開・解説することによって、備前焼の普及と振興を図り、 地域文化の向上に寄与するという目的を持って設立されたそうです。 定休日は月曜で、開館はAM9:30〜PM5:00 入館料は、大人:700円(600円)、高校・大学生:400円(300円)、小学・中学生:無料 ()内は20人以上の団体料金 住所:備前市伊部1659-6 TEL:0869-64-1400 FAX:0869-63-8300 日芸会に所属し、 昭和34年ワシントン国際展にてグッドデザイン賞を受ける。 以来陶技の研修に精進している。 =================== 陶正園 窯元六姓の名門、木村総本家十二代目木村長十郎の次男・木村正二により、大正02年に設立された窯元のようです。 伊部の中心地にあり、伝統を継承しながら時代にあったより良い作品作りをモットーにしているそうです。 素朴さとあたたかみを生かした創作作品は多くの人に支持されているとか。 伝統的陶技を生かして、主に茶道具・花器・酒器・置物などを製作しているみたいです。 現在は陶峰と弟の利正の兄弟で、新しい感覚の陶技を求めて日夜研鑽を重ねているようです。
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氏名 | 戸上明道 | ||||||||||||
経歴など |
昭和10年 三重県玉龍に生まれる
昭和32年 龍谷大学卒業 昭和35年 大徳寺専門道場に掛塔 小田雪窓老師に師事 昭和39年 立命館大学院終了 昭和52年 玉龍寺 住職 平成02年 大徳寺前住位稟承 平成18年 閑栖 | ||||||||||||
コメント |
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氏名 | 富田静山 | ||||||||||||
経歴など | |||||||||||||
コメント |
2代目は、京都の清水焼の窯元で、
茶陶を中心に全国的に名工として評価の高かった人らしい。
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氏名 | トム・スミス | ||||||||||||
経歴など |
アメリカ生まれ。
1971年 フレデリクトン高校で教鞭を取る。 1992年 Strathbutler賞受賞。 1999年 カナダ王立協会の芸術部門に選出。 | ||||||||||||
コメント |
トム・スミスは、アメリカ生まれの人のようです。
大学・大学院共にアメリカで学んだ後、 カナダのニューブランズウィック州の州都 フレデリクトンへ移住するのだとか。 1971年 フレデリクトン高校で教鞭を取り、 その後、ニューブランズウィックの大学で、美術(陶芸)の先生になるみたいです。 以降、カナダの陶芸家として有名人になっていくのだとか。 1992年 Strathbutler賞受賞するそうです。 この賞は、ニューブランズウィック州に貢献した芸術家に贈られる賞みたいです。 2年ごとにあるようで、賞金は25,000ドルなのだとか。 1999年 カナダ王立協会の芸術部門に選ばれたようです。 これは、1882年当時、カナダ総督だった ローン侯爵ジョン・キャンベルにより設立されたもので、 メンバーには、世界標準時の提唱者や、著名な医者などがいたそうです。 1883年 イギリス国王の認可を得て、王立(カナダ王立協会)になるみたいです。 現在は、芸術・科学に業績をあげた約1800人が、 選ばれているようで、芸術・人文科学部門、社会科学部門、 科学部門からなっているとか。 トム・スミスの主な仕事は、フォーマルエレメンツや陶芸関係で、 「空間+発想+自然を封じ込めたもの。 三次元の器は、終わりのない探求を可能にする。」 「そして、土との格闘・・・。 土を木で削ったり、釉薬を塗ったり。」 と言っているみたいです。 1982年以来、トム・スミスは、 東洋美学+北アメリカのインスピレーションを融合させた楽焼に集中するそうです。 楽焼の発想に役立ようなこともしているとか。 多数のグループおよびソロ展示に出展し、 世界中の公的・プライベートなコレクションを、 製作していっているみたいです。
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