作品名:五角盆真塗
備考:紙箱入 |
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磨き上げの作業を行なわずに、塗っただけのものを
「塗り放し(ぬりっぱなし)」又は「塗り立て仕上げ」というそうです。 この「塗り放し」で用いる漆の一つが真塗みたいです。 他に「溜塗」「花塗」「朱塗」「潤塗」などがあるようです。 塗り放しの艶は塗った漆の種類で決まるとのこと。 真塗は、もともとは黒漆の塗り放しのことをいったそうですが、 現在は油の入っていない「黒呂色(ろいろ)漆」や「赤呂色漆」に、 顔料を混入した色漆を刷毛で塗り放しで仕上げたものをいうようです。 漆を何度もろ過してゴミを丁寧に取り除き、 刷毛目を残さないように塗り上げるため、 高度な技術を要し最高の塗りとして位置づけられるみたいです。 ちなみに「呂色」は、蝋色とも書くそうで、 油を含まない黒又は彩漆を塗り立てし、 表面を研いでから摺り漆を数回行い、 磨き仕上げを行ったものをいうようです。 蝋のようなしっとりとしたツヤのある深みの有る仕上がりになるとか。 研ぎ出しは通常木炭を使用するそうですが、 摺り漆を重ねる毎に炭の質を変える場合もあるみたいです。 これは、木炭の材質により炭の硬度が異なるようで、 仕上げに近づくほど木目の細かさが必要になるからなんだとか。 |
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作品名:真塗大円盆
備考:紙箱入 |
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「大円之草」は円能斎が考案したそうです。
これは、昔から伝わる「大丸盆点」を発展させたものなんだとか。 さて、話は変わって、「大丸盆」というと「ウチワサボテン」というサボテンの一種なんだそうです。 このサボテン、正体がはっきりしてないようで、直径30cmを超える丸い茎節を持つものであれば、 なんでも大丸盆というみたいです。 他の特徴として、 ・茎節は真円に近い丸型 ・目立つ刺はなく、1本でまばら ・茎節は1〜2cm程度の厚みがある ・肌は粉を吹き青みがある とかがあるそうです。 おいしくはないようですが、食べれるらしく、 果実は赤紫色に熟し、美味とはいえないが、ほんのりと甘いみたいです。 棘を取ってピクルスにしたり、せき・解熱などに薬効があるとして、 汁を絞って民間薬として服用されたこともあったのだとか。 現在も、 「ノパル エンデュランス」 :ウチワサボテン/持続・スタミナサポートのサプリ 「フィコ・ディ・インディア」 :ウチワサボテンの実をアルコールに浸漬し、 蜂蜜と砂糖を加えて造られるイタリア産リキュール 「スリムロワイヤル」 :ウチワサボテン末のダイエットサプリ といったものが販売されているようです。 |
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作品名:柿合大円盆
備考:紙箱入 |
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柿合塗りは、木地に漆の代わりに柿渋を刷毛で上塗りした「目はじき塗」だそうです。
このとき、余分な漆を数回から10回程度摺り込み、拭き取りを繰り返すと 「拭き漆(摺り漆)」という別の塗り方になるようです。 「目はじき塗」は、欅・栓・栗など導管のはっきりした材を素地にして、 軽く目止めを施し、木地固め。摺り漆をした後、刷毛で上塗りすることで、 導管の部分の漆がはじかれ、木目にそって小さな穴があくようです。 「拭き漆」と違い「目はじき塗」の方は、 木地の色はあまり影響せず、漆の色がかなり出るとのこと。 「柿渋」は「渋柿」から作られるのですが、 以下のような工程を経るようです。 1.渋柿を1か所に集め、ベルトコンベアーを使って裁断機に送り込む。 2.裁断機でまるごと柿を砕く。 3.スクリュープレスという機械で中の果汁をしぼる。 ⇒出てきた果汁を一番渋と呼ぶそうで、渋の含有量はこの液が最も多いのだとか。 4.一番渋のしぼりかすを別の機械に送り、二番渋、三番渋をしぼる。 5.一番渋と二番渋を混ぜる。 ⇒番渋だけだと水分が少なく凝固するからなんだとか。 6.適当な濃度に調整し、渋の温度を上げ、発酵に不必要な雑菌を熱で殺菌処理する。 7.殺菌処理後、冷却し、発酵タンクで酵母により発酵させる。 8.渋をタンクの中で1年程寝かせ、茶褐色のいわゆる柿渋色に変化したら「古渋」として出荷可能。 |
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作品名:真塗八卦盆(ラデン入)
備考:紙箱入 |
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「卦」は、爻(こう)と呼ばれる記号を三つ組み合わた三爻からできていて、
─陽(剛)と--陰(柔)の2種類の組み合わせで八卦になるそうです。 爻の順位は下から上で、下爻・中爻・上爻の順になるようです。 また、八卦を2つずつ組み合わせることにより六十四卦が作られるのだとか。 |
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作品名:七宝盆
作者:貞斎 備考:溜塗/竹張/桐箱入 好み:鵬雲斎好 |
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「星付き七宝」形の溜塗の菓子器のようです。
七宝は、輪つなぎの一種で、 円形を四つ重ねてつないだ連続文様のことだそうです。 七宝の名は、四方に輪が広がっていくところから四方となり、 四方が七宝になったという説があります。 「星付き七宝」は、この七宝紋の部品のつなぎ目に、 小さい円を重ねた連続模様だそうで、「星」の名称は、 日本では古来から星を丸で表すことによるみたいです。 七宝紋には、他に 「陰七宝」「丸に七宝」「七宝に花角」「陰七宝に桔梗」 「星月七宝に花角」「割り七宝菱に花菱」「四つ七宝の中に陰花角」 などがあるようです。 「大岡七宝」という家紋を使う藤原支流の大岡氏は、 江戸幕府が編修した系譜集『寛政重修諸家譜』によると、 鎌倉時代、関白・九条忠教が、大岡郷に移り住み、 名字を大岡と称したのが始まりだそうです。 |
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作品名:松葉盆
作者:象彦(九代目西村彦兵衛) 価格:2,000円 寸法:縦7cm、横14cm 備考:紙箱入/2枚有り |
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ここでは「松」に関する雑学を少し取り上げようかと思います。
松は常緑樹として冬も緑の葉を茂らせることから、 若さ・不老長寿の象徴とされ、 竹、梅と合わせて「松竹梅」としておめでたい樹とされるようです。 松羽目として能舞台には背景として必ず描かれているみたいです。 歌舞伎でも能・狂言から取材した演目の多くでこれを使い、 それらを「松羽目物」というそうです。 日本の城にも植えられ、非常時に実や皮が食料として重宝されてきたのだとか。 羽衣の松は御穂神社のご神体で、 祭神の三穂津彦命(大国主命)・三穂津姫命が降臨する際の依り代とされるそうです。 東日本大震災による津波に襲われほぼ壊滅した高田松原の中で ほぼ唯一流されずに残った奇跡の一本松。 岩手県陸前高田市の高田松原は、350年にわたって松を植林し、当初、約七万本あったみたいです。 秦の始皇帝が雨宿りに使った松に「大夫」の爵位を授けたことから 松の異名を「大夫(太夫)」というそうです。 謡曲「高砂」は、高砂の松を題材としたもののようです。 子の日(ねのひ)のときに、千年の寿命を祈って小松を引き抜く 「子の日の松」というのがあるそうです。 この子の日の小松引きという行事にあわせて和歌を詠むことがあったそうです。 |
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作品名:つゆ草瓢盆
作者:象彦(九代目西村彦兵衛) 価格:2,000円 寸法:縦12.5cm、横14.5cm 備考:紙箱入/2枚有り |
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つゆ草(露草/鴨跖草)は、朝咲いた花が昼しぼむことが、
朝露を連想させることから「露草」と名付けられたようです。 また、古くは「つきくさ」と言ったそうで、 それが転じて「ツユクサ」になったという説もあるそうです。 『万葉集』での「つき草」は、儚さの象徴として 以下の九首があるそうです。 ・つき草に衣ぞ染むる君がため斑(まだら)の衣摺らむと思ひて ・つき草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ ・つき草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも ・朝露に咲きすさびたるつき草の日くたつなへに消ぬべく思ほゆ ・朝咲き夕は消ぬるつき草の消ぬべき恋も我れはするかも ・つき草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ ・うちひさす宮にはあれどつき草のうつろふ心我が思はなくに ・百に千に人は言ふともつき草のうつろふ心我れ持ためやも ・つき草のうつろひやすく思へかも我が思ふ人の言も告げ来ぬ ■つき草に関する短歌 このうち、一首だけ見ていこう思います。 ・つき草のうつろひやすく思へかも 我が思ふ人の言も告げ来ぬ(大伴坂上家之大娘) ⇒ぼんやりとした月灯り(又は、満ち欠けする月)のように、移ろいやすいつゆ草。 あの人はわたしの心を、その様に思っているのだろうか、 私が想っているあの人は、何も言って来ない。 原文は「月草之 徒安久 念可母 我念人之 事毛告不来」で、 大伴坂上家之大娘(坂上大嬢)が、大伴家持に贈った歌だそうです。 つゆ草は、藍色の花をつけ、染めると美しい藍染めになるそうです。 ただ、水で洗うと落ちやすいので、 この短歌では「変わりやすい」という意味で使われるのだとか。 ■坂上大嬢について 坂上大嬢は、大伴宿奈麻呂と坂上郎女の長女で、大伴家持の従妹みたいです。 天平4年(732年)頃から家持との間に歌の贈答するようで、 大伴家持と恋仲となり、やがて二人は結ばれるそうです。 家持には、数多くの恋人がいたようで、 彼女はいろいろ心配だったことでしょう。 大伴家持の正妻となるのは、平城京から恭仁京(740年〜744年)に遷都した時期だそうで、 同744年に難波京へ移り住むようです。 740年に藤原広嗣の乱があり、大伴家持は、この乱の平定を祈願する聖武天皇の 伊勢行幸に従駕(伊勢へ行くのに付き従った)したそうです。 ■藤原広嗣の乱とは ここで、ちょっと当時の時代背景を補足します。 737年、朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去、 政治を担ったのが橘諸兄に、唐から帰国した吉備真備と玄ムが重用されます。 738年、九州の大宰府に送られた藤原広嗣は、 「橘諸兄に左遷されたんだ、きっと吉備真備らが扇動したに違いない。」 と、強い不満を抱いたようです。 740年8月末、がまんの限界にきていた藤原広嗣は、政治を批判し、 吉備真備と玄ムの処分を求める上表(天皇宛ての手紙)を送るそうです。 同年9月、藤原広嗣の乱が勃発します。 藤原広嗣の軍は一万人以上、 聖武天皇の軍(朝廷軍)は一万七千人を それぞれ動員したようです。 広嗣軍は、兵を三つに分け、板櫃付近で朝廷軍を包囲する 三包囲作戦を立てます。 同年9月末、朝廷軍は関門海峡を渡り、九州の板櫃鎭を攻略。 「広嗣は悪いやつだから、見切りをつけて都へ帰ってきなさい。 あと、広嗣をやっつけたら、昇進させてあげるよ。」 といった勅が九州諸国の官人、百姓宛てに発せられます。 同年10月9日、広嗣軍と朝廷軍は、板櫃川で戦になります。 河の西側に広嗣軍(一万人)、東側に朝廷軍(六千人)。 広嗣軍の三つに分けた兵もまだ、そろっていない状態でした。 朝廷軍が、 「天皇が、広嗣は悪い奴だと言ってるよ。投降したら。」 と言うと、 広嗣は「吉備真備と玄ムが悪い奴なんだ、天皇がだまされているんだ。」 すると、朝廷軍は、 「じゃぁ、なんで軍隊連れてきたの?」 広嗣は答えに窮したそうです。 問答を聞いていた広嗣軍の人達は、次々に朝廷軍に投降します。 広嗣は、博多から五島列島へ船に乗って渡り、 耽羅嶋(済州島)に潜伏します。 同年10月23日、広嗣は朝廷軍の安倍黒麻呂に捕えられます。 同年11月1日、広嗣は処刑されます。 一方そのころ、乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如、 「関東に下る」と言い出し都を出てしまうそうです。 以降、伊賀国→伊勢国→美濃国→近江国→恭仁京→難波京→平城京 といった具合に、転々と遷都を繰り返すようです。 ■大伴家持と坂上大嬢 「藤原広嗣の乱」にかき回された時代に結婚した二人。 生涯を共に過ごすことになるようです。 以降も激動に時代で、757年の「橘奈良麻呂の乱」、 782年の「氷上川継の乱」、785年の「藤原種継暗殺事件」 など、結構波乱の人生だったことが窺えます。 大伴家持は、天皇につき従い、着実に昇進していきます。 子供(大伴宿禰永主、陸奥介伴春宗、女子二人の計四人)には恵まれますが、 真偽はともかく「藤原種継暗殺事件」の犯人にされたため、 結局、子供は島流しになります。 大伴家持も、「藤原種継暗殺事件」直前に亡くなります。 ■『万葉集』について 759年以降に成立したとされる『万葉集』。 一人の編者によってまとめられたのではなく、 巻によって編者が異なるそうで、 大伴家持よって二十巻に最終的にまとめられたようです。 大伴家持は、751年までに223首の歌を詠み、 755年、難波で防人の検校に関わり、防人歌を収集、 759年1月に、因幡国国府で『万葉集』最後の歌を詠んだそうです。 万葉集巻四、集歌583に以下の歌があります。 ・つき草のうつろひやすく思へかも 我が思ふ人の言も告げ来ぬ 激動の時代を共に生きた妻の歌を入れたとき、 万感の思いがこみ上げたのではないでしょうか。 儚さを表す「つゆ草」。 もしかすると、大伴家持夫妻は、 つゆ草に平和を重ねていたのではないでしょうか。 平和とは何か。改めて考えさせられます。 |
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作品名:柿合千歳盆
価格:3,000円 備考:中古品使用感あり/紙箱入 |
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千歳盆とは、裏千家十四代淡々斎の還暦のお祝いに、
奥さんの清香院(千嘉代子夫人)が考案した盆略点前だそうです。 本歌の蓋裏に 「千歳まで かわらぬいろのにはの松 きみがよわいも かく こそありなむ (千歳万て 可わらぬ以ろの耳は乃松 幾美可与者ひ裳 かくこ所 阿羅奈舞)」 という長寿を願う歌があるみたいです。 嘉代子夫人は、1897年、宮城県仙台市に生まれたそうです。 1917年、裏千家14代家元千宗室(淡々斎)と結婚、 国際茶道文化協会理事長などをつとめ、 茶の湯の海外普及につくしたのだとか。 仙台・京都両市の女性初の名誉市民となったようです。 1980年に死去したみたいです。 |
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作品名:手付盆(春慶塗)
価格:5,000円 寸法:高さ3.7cm、奥12.5cm、幅20cm、 手付高さ14.5cm 備考:紙箱入 |
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お菓子やお料理を盛り付けたり、
調味料トレーや花器などに使用できるようです。 |
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作品名:手付盆(春慶塗)
価格:5,000円 寸法:高さ3.7cm、幅17cm四方、 手付高さ15cm 備考:紙箱入 |
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春慶塗(しゅんけいぬり)は、
板を立体的に仕上げる曲げの技法が優れているようです。 他の漆器とは違い、天然の木目の美しさをそのまま活かし、 「透き漆」と呼ばれる透明の漆が用いられるのだとか。 下地の色は黄色、紅が用いられ、完成時の色味を変えるみたいです。 また、軽くて丈夫だそうです。 |
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作品名:点心盆(小)
(春慶塗2枚組) 価格:5,000円 寸法:縦18cm、横24.5cm 備考:紙箱入 |
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「点心」という名前は中国語で、
禅語『空心(すきばら)に小食を点ずる』からきたという説や、 心に点をつけることから心に触れるものと言う説があるそうです。 食事の間に少量の食物を食べることなので、 菓子や間食、軽食の類いは全て点心と呼ばれるとか。 茶を飲みながら点心を食べることを飲茶(ヤムチャ)というそうです。 日本には室町時代に伝来したようです。 間食という言葉自体は、奈良時代にはあったそうですが、 当時は朝夕二食が普通で、労働の激しい鍛冶職人などは、 朝夕の間に粥や飯の小食をとっていたのだとか。 ■中国の点心 中華点心は味によって甘味のある「甜点心」と、 塩味のある「鹹点心」、 甜点心・鹹点心のどちらでもない「小食(シャオシ)」に分かれるみたいです。 中国の唐代以前の点心は、すべて小食(シャオシ)と呼ばれていたそうです。 唐代における点心は、餃子やワンタン、麺類が主役だったようです。 このころ、砂糖が登場し、砂糖で甘味をつけた菓子(主に揚げ菓子)が出てくるとか。 元の時代に入ると、麺類以外にアラビヤ系の食べ物「回々(ホイホイ)食品」が登場、 のち日本に伝わり、法隆寺の供物にもなる「巻餅(ケンビン)」がその代表格だそうです。 この「巻餅」、薄く焼いたクレープ状の小麦粉の生地に羊の肉を巻いて食べるようですが、 日本に伝わってからは、味噌を塗り、干し柿を芯にして巻くようになるのだとか。 その後、この巻餅は「麩の焼」という菓子に変身をし、 利休の好む茶菓子となるみたいです。 さて、中国の清代になると、点心はさらに発展するようです。 袁枚著『随園食単』は、美食家であった彼が、中国各地を歩いて見つけた美味の料理書で、 1792年に刊行されたそうです。 この『随園食単』は、まず料理に関する一般的な心得を須知単・戒単で述べ、 ついで料理の材料により、 海鮮単・特牲単・雑牲単・羽族単・水族有鱗単・水族無鱗単・雑素単の7部(217種)に分け、 これに小菜単43種、点心単55種、飯粥(はんしゆく)単、茶酒単を加えて、 それぞれの調理法や品評を記しているみたいです。 現代中国では、点心の専門書があり、 香港の萬里書房から出版された葉榮華著『中国點心大全』などは、 広東・福建など八地方の点心261種類を紹介しているそうです。 ■日本の点心 日本に点心という言葉が登場するのは室町初期だそうです。 鎌倉時代中期には、空腹時に点心を摂る習慣が禅宗の移入とともに、 もたらされるみたいです、 禅宗では、点心を「てんじん」と読むそうで、 イエズス会が1603年刊行した『日葡辞典』にも「tenjin」とあるのだとか。 中国で「てんじん」と発音したのは、宗時代の上海や杭州あたりだそうで、 禅宗とともに、この地方から伝わったと推察されるみたいです。 この発音は、特に「唐宗音」というそうで、例えば「行」という字だと、 @行為(こう)、A修行(ぎょう)、B行脚(あん)の、 Bの読みがそれにあたるようです。 また、鎌倉中期まではなかった「調菜(ちょうさい)の技術」も、 点心と共に伝わったみたいです。 調菜というのは、味噌や醤油を使い、野菜・乾物を煮たり和えたりして 味付けすることで、日本料理の型がここで出来てくるようです。 すり鉢(雷鉢)も、この頃普及するそうです。 秀吉の時代、点心は小付(こづけ)と呼んだこともあったみたいです。 現在では、これは容器自体を指すのですが、 1585年3月13日の小付は、 豆腐・かんぴょう・こんにゃく・岩たけを煮て、 汁ごと飯にかけて出したのだとか。 江戸時代の点心は『庭訓往来』(室町時代に刊行)を教科書としているそうです。 この本から、点心料理は塩味のある「鹹点心」、お茶請けは甘味のある「甜点心」という、 日本の点心の形式が、室町時代以後に確立したことが窺えるみたいです。 |
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作品名:青楽金松画方盆
作者:川崎和楽 価格:5,000円 寸法:23.5cm四方 備考:木箱入 |
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ここでは、岩手県陸前高田市にある、奇跡の一本松について説明しようかと思います。
岩手県陸前高田市気仙町の高田松原跡地に立つ、 松の木のモニュメント「奇跡の一本松」は、 2011年3月11日の東日本大震災で、 津波に耐えて、立ったままの状態で残った松だそうです。 やがて一本松は、被災した住民たちの間で「奇跡の一本松」、 あるいは「希望の松」と呼ばれるようになったとか。 震災前の高田松原は、江戸時代の1667年、 高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、 仙台藩と住民の協力によって6200本のクロマツが植えられたようです。 その後、享保年間に、松坂新右衛門による増林が行われ、 以来、クロマツとアカマツからなる合計7万本もの松林は、 仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、 景勝の一つだったみたいです。 その白砂青松の景観は世に広く評価されていたのだとか。 ■一本松の状態 震災を生き延びた一本松、その後の生育は当初から厳しい状況にあったようです。 震災の当日は10時間以上も水没していた上、 津波により海水や油・化学物質が、根元の土壌に染み込んでおり、 幹にも漂流物による傷が付いていたそうです。 また地震のため周囲の地盤が80センチメートル程度沈下し、 根が海水に浸るようになったみたいです。 この状況に対し、日本造園建設業協会の岩手県支部を中心に、造園業者など57名が集まり、 プロジェクトチームを組織して一本松の保護に当たることになったのだとか。 努力の結果、7月には新芽が伸び、 緑葉の伸長と球果(松かさ)の形成も見られたようですが、 完全な回復までには至らなかったそうです。 結果、2011年12月13日、一本松の維持に向けた活動を終了するみたいです。 一本松の生命維持の断念が決まった後も、一本松はそのままの状態で現地に立ち続け、 見学に訪れる人も絶えることはなかったようです。 ■奇跡の一本松保存プロジェクト 一本松を生きた状態で保存することを断念した後、 市の方針として、一本松をできるだけ現状に近い形で、 現場に自立させることになったそうです。 陸前高田市市長の戸羽は、 「建物を残しても希望は持てないが、一本松は復興や希望の象徴となる。 世界中から応援をもらっているので残す責任がある。」 と言い、市民もおおむね保存を歓迎したようです。 ただ、保存が決まった当時は、市内の瓦礫処理すら進んでいない状況だったようで、 被災者への支援や復興事業の推進よりも、 一本松の保存が優先されることに不満を持つ住民もいたのだとか。 乃村工藝社などが請け負ったこのプロジェクトは、 「奇跡の一本松保存プロジェクト」というみたいです。 プロジェクトの主な内容は、以下の通りだそうです。 1.幹を5分割し、中心部をくり抜いた上で内側と外側から防腐処理し、 金属製の心棒を通して元の場所に再設置する。 2.枝葉部分は現物を保存することが難しいため複製を作る。 3.根の部分は切除して別に保存することを計画する。 4.雷対策として避雷針を設置する。 作業は、当初、2013年3月11日までの完了を目指したようですが、 最終的には、2013年6月30日までかかったみたいです。 保存作業に1億5,000万円、完成後の維持管理に年間20万円の費用がかかる、 と試算されたそうで、陸前高田市は募金によってこれを賄うことを決めたそうです。 募金は、2013年6月27日に目標の1億5,000万円を達成、 2014年3月末に募金の呼びかけを終了、残金は一本松の維持管理や、 周辺の整備に充てることを発表したみたいです。 ■再生と希望 一本松自体の保存とは別に、 一本松から採取した種子や枝の接ぎ木によって、 後継樹を育てる試みも進められているそうです。 日本造園建設業協会の岩手県支部が中心になったプロジェクトの1つ、 「後継樹育成チーム」に、住友林業も参加したようです。 住友林業は、一本松の種子・接ぎ木をもとに後継樹の育成し、 将来は陸前高田市に戻し、松原を再生させようとしているみたいです。 はじめ、住友林業は2011年4月に一本松の枝を採取し、 集めた松かさから種25個を得たようですが、 結局、すべて順調には生育しなかったようです。 2012年9月、保存のために一旦伐採された際、 75個の種を取り出し、9本が発芽、 2013年6月時点で約3cmに生長したみたいです。 遺伝子そのものを残すため、クローニングによる増殖も試みられ、 接ぎ木・挿し木・組織培養の三手法が用いられたそうです。 挿し木と組織培養については、生育途中で枯れたものの、 接ぎ木から育てられた苗は、2013年6月に高さ80cmに生長したのだとか。 復興を望む人々の希望を担うモニュメント「奇跡の一本松」。 未来の子供たちへ、一つの大きなメッセージが送られている気がします。 「どんな逆境も乗り越え、力強く生きよ」と。 |
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作品名:津軽塗四方盆
価格:2,000円 寸法:25.5cm四方 備考:紙箱入 |
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津軽塗は、青森県弘前市を中心に行われている、
唐塗といわれる変わり塗りだそうです。 漆下地をし、中塗の上に粘くした色漆を塗り、 多くの穴を開けた箆(へら)で押さえて円い斑文を作り、 その上に色漆と透漆を交互に重ね、砥石で研ぎ出したものみたいです。 また、粘い色漆を塗った上に栗粒や豆を蒔くなどもするとか。 津軽の馬鹿塗というあだ名があるようで、 馬鹿でないと出来ないというくらい、 丁寧で堅牢な塗りという意味みたいです。 また、ここでは、ぶなこ漆器というものも作られているようです。 極く薄い板を細くし、テープのように巻いて真ん中を押し出し、 鉢や盛器など各種の形を作って漆で塗り固めたもので、 面白い形のものができていたそうですが、 最近は上塗に合成樹脂塗料をよく使うみたいです。 |
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