茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

釜ってこんなの

茶湯釜は、大別して「芦屋(あしや)」「天命(てんみょう)」「京作(きょうさく)」の三種みたいです。

西村道冶著『釜師之由緒』によると、
「釜鋳元祖は、土御門院建仁年中、栂尾明恵上人、筑前国蘆屋に御茶湯釜初而鋳しむる也」
とあって、茶湯釜の起源は建仁年間(1201年〜1204年)に明恵上人が、
芦屋の鋳物師に鋳させたのに始まるそうで、桃山時代以前のものをとくに古芦屋と呼ぶみたいです。
※「天命釜の方が古いよ」とする説もあるとか。

芦屋釜の特色は引中型(ひきなかご)を用いていることと、
真形(しんなり)釜が多く、鐶付(かんつき)は鬼面を用い、
地肌は滑らかで鯰肌(なまずはだ)が多く、陽鋳の絵画的地紋で飾られていることのようです。
また、胴部には羽をめぐらしていて、多くは地にヘラ押しによる文様を表しているそうです。
ちなみに、引中型の説明をすると、
中子(なかご)が、縄を巻いた上にもみ殻・寸莎・髪の毛などを混ぜた土を塗り、
軸を回転させる方法で作成するため、
回したことで出る挽き目がうっすらと釜の内側に細い筋として残る状態のことを言うみたいです。
※中子(なかご):胴部の厚みが薄く、鋳型の中空部を作るために内に収める型

天命釜(天明・天猫)は、下野国(栃木県)佐野天明の地で鋳造されたものの総称で、呼び名は、
1633年に地名の「天命」が「天明」に改まったとか、
天猫は利休が洒落てつけたとか、
他にも「関東釜」とかいろいろあるみたいです。
1081年、佐野に移入した鋳物師是閑が湯釜を鋳たのが天明釜のはじめだそうで、
桃山時代以前のものを特に古天明と呼ぶようですが、茶湯用に鋳出したのは東山時代頃みたいです。
天命釜の作風は、大体が厚作・丸形の無地文が多く、
鐶付は遠山・鬼面・獅子が多く見られとのこと。
釜肌は、粒子の粗い川砂を鋳型に打ち重ねた「荒膚」「小荒膚」、
手や筆、刷毛で鋳物土を鋳型に直接弾くように付けた「弾膚(はじきはだ)」、
型挽きのときあえて挽き目を誇張した「挽膚(ひきはだ)」といった荒々しい肌感だそうです。

京作釜(京釜)は、 武野紹鴎千利休 による茶道の流行にともなって、
芦屋・天命の古作ばかりでなく、茶人の好みの釜を注文することで流行った釜のようです。
芦屋や天命の釜では鋳物師の名が出るものは少なく地名をもってするのに対し、
京作釜では、 武野紹鴎織田信長 の釜師をつとめた「西村道仁」や、
秀吉利休 の釜師として「辻与次郎」のように、鋳物師の名が前面に出てくるみたいです。

「釜形」について
は、別ページで説明しています。
作品名:遠山霰釜
作者:橋本辰敏
価格:10,000円
備考:中古品/木箱入
 使用感あり/内少々サビ有

遠山霰釜
※画像を押すと拡大できます。
遠山とは、遠くの山・遠くに見える山のことで、
道具の模様や部分が遠山の形に似ているものを指すそうです。

鵬雲斎好の遠山釜は、筒形の風炉用の釜で、
鵬雲斎が家元襲名後、昭和四十年に好んだものみたいです。

遠山釜は、胴全体に大小大小中中大の遠山の絵が見られ、
山全体は小霰地紋になっているようです。

鵬雲斎に因んで雲の形のかん付が付いており、
唐銅の蓋に、南鐐の銀杏の摘みが付き、
座は銀杏の葉三枚を合わせた形なのだとか。


作品名:富士釜(風炉用)
作者:橋本辰敏
備考:中古品/木箱入
 使用感あり

富士釜(風炉用)
※画像を押すと拡大できます。
口が小さく、肩から胴にかけて、
裾が広がり富士山の姿に似た形の釜だそうです。

室町時代後期、釜本来の姿・形を離れたもの「他物釜」
が作られ始めるようです。
その典型例がこの富士釜みたいです。

特に、藤の松原、雲の鐶付様式は繰り返し作られ、
今日に至っているそうです。

最も古い記述は、
『天王寺屋会記』天正19年2月21日田嶋勘解由左衛門会に
「一 ふじなり釜」
とあるようです。

芦屋では、天正〜慶長年間にかけて、
筑前芦屋や博多芦屋で鋳造されており、
霰や霙が施されているものが多いのだとか。

龍目・雁・兎などの地紋のものもあり、
鐶付は兎・茄子・鉦鼓など和様のものが多い

天命では、室町末期の作に鬼面鐶付のものがあるとか。

京作では、桜川地紋を鋳出した道仁の「桜地紋」、
牡丹紋をあらわした五郎左衛門の「牡丹紋」
などがあるとのこと。

好みものでは、裏千家四世仙叟好みの「四方富士釜」、
表千家七世如心斎好みの「擂座富士釜」、
裏千家十三世円能斎好みの「南鐐富士釜」、
裏千家十四世淡々斎好みの「三友地紋」、
などがあるそうです。

ちなみに、富士山は、標高3,776 mで、
山頂部は浅間大神は、噴火を沈静化するため、
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立されたそうです。

日本三名山(富士山・白山・立山)・日本百名山・日本の地質百選に選定され、
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産にも登録され
ているとか。

山頂の水の沸点は87.8℃くらいで、気圧は0.64気圧(636hpa)くらい、
7月・8月の登山シーズンの山頂付近の気温は、
最高気温が10℃、最低気温が3℃程度だそうです。
入山料は任意で1000円だとか。


作品名:刷毛目釜(風炉用)
備考:未使用品/紙箱入

刷毛目釜(風炉用)
※画像を押すと拡大できます。
刷毛目肌は、釜肌の一つで、
刷毛で刷いたような筋目のあらわれた肌のことをいうそうです。

これは、鋳型の表面に泥土をつけ、
ささらや刷毛でその泥をなぞって、
刷毛目が引かれたように筋目を付けるのだとか。

左写真のような口造りの他、
「姥口」などの刷毛目釜も多く販売されているようです。


作品名:万代屋釜
(南鐐つまみ風炉用)
作者:佐藤浄義
価格:35,000円
備考:木箱入

万代屋釜
※画像を押すと拡大できます。
万代屋釜は、鬼面鐶付で、
肩及び腰に二本の筋があり、その間に擂座がある釜だそうです。

天明作を利休が好んで辻与次郎に作らせ、
女婿の万代屋宗安に贈ったといい、
そのことからこの名があるのだとか。

口造りは「広口」「輪口」「繰口」などがあるそうで、
擂座の代わりに肩下に巴紋のあるもの、
口端にも擂座のあるものなど色々な種類があるようです。

万代屋釜は、本歌とされるものは天明作で、
薮内家に伝来するみたいです。


■万代屋宗安
万代屋宗安は、安土桃山時代の堺の富商で、千利休の女婿だそうです。
義兄弟の千道安千少庵・利休の甥の千紹二と共に、
利休の大徳寺三門金毛閣造営に尽力したようです。

村田珠光伝来の投頭巾の茶入を 秀吉に献上することで、
利休の助命を企図したが成功しなかったとか。

好みの「万代屋釜」の他、
所持の名物裂に「万代屋緞子」があるそうです。
堺の南宗寺に供養塔があるみたいです。


■文献
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「萬代屋 天メウ作、萬代屋宗安所持、
形一様ならすと云とも広口、鬼面、輪口、肩に筋あり、
累座のあるとなきとあり」
とあるそうです。

『名物釜所持名寄』に
「一万代屋釜 安國寺ト文字
梅折枝アリ 高野是閑 有馬涼及」
とあるとか。


作品名:車軸釜
作者:加藤忠三朗
備考:淡々斎好/新品/桐箱入

車軸釜
※画像を押すと拡大できます。
決まった形はないそうで、腰周りが広く、
胴から口にかけ狭まって立ち上がった形の釜の総称のようです。

荷車などの車輪の中心部に似ているところからの呼称で、
古くからこの名があるとか。
天明に多く見られるそうです。

外周部分を支えているリムと、車輪の中心にあるハブをつなぐ部分を
「スポーク」と呼ぶそうで、
左写真の車軸釜はこの「スポーク」がはっきり出ていますが、
「スポーク」がなく、円盤状になっているものも多々あるようです。

スポークという名は、木工で使われるある種の棒状の木材から来たもので、
初期のスポークホイールが木製であったことからこの名がついたのだとか。


作品名:透木釜(肩七宝)
作者:佐藤清光
価格:10,000円
備考:木箱入(木箱よごれ)
釜底サビ有り

透木釜(肩七宝)
※画像を押すと拡大できます。
透木は、釜の羽根が炉壇や風炉の肩に掛かる場合に用いる、
拍子木形の木のことだそうです。
炉用の方が風炉用より少し大きいみたいです。

風炉では、夏の暑い時期、
炉では風炉にかわる前の温かくなってきた時期に、
炭火から釜を少しでも遠ざけ、通気を良くするために用いるようです。

古風の真の釜は、透木据えだったそうです。

好ものは、以下みたいです。
利休好:厚朴(ほお・こうぼく)
宗旦好:桐
竺叟宗室好:桜
円能斎宗室好:梅

なお、透木に関する詳細は、別途説明しています。


作品名:富士釜
(惺斎好花押入)
価格:20,000円
備考:紙箱入/未使用品

富士釜
※画像を押すと拡大できます。
富士釜は、茶の湯釜の形状のひとつで、口が小さく、
肩から胴にかけて裾が広がり富士山の姿に似た形の釜だそうです。

惺斎好は、鐶附部分に龍耳がついた龍耳富士釜みたいです。


■惺斎敬翁宗左
惺斎は、茶道表千家十二世家元のようです。
1863年(文久2年)生まれ。十一世碌々斎の長男で、幼名は与太郎、
名は宗員、号は惺斎・敬翁だとか。

明治20年に京都御所で明治天皇に茶を献じた父、碌々斎は、
明治25年に惺斎に家督を譲るようです。
その後長く親子二人三脚で茶道を盛り立てていくとか。

明治39年、惺斎は、焼失した不審庵を再興し、松風楼を増築したようです。

昭和12年、75歳で死亡したようです。

好みの茶道具は歴代中最多で、そのためか、
好み物をまとめた一冊の書物『看雲』が編まれているそうです。
好み物の種類は、焼物では萩焼、薩摩焼、瀬戸焼、膳所焼などの窯から、
指物で箱根細工、鎌倉彫などがあるようです。

千家十職以外の工芸家や各地方の国焼の育成にも尽力するとか。

また、自作の道具もあるのですが、茶碗の「銘香十種」「帰去来」くらいで、
他の宗匠に比べると、種類は少ないみたいです。


■惺斎の花押
惺斎は、時代に応じて3種の花押を使っていたそうです。

明治25年に正式に宗左を襲名し宗匠となるまでの宗員時代は、
幼名の「与太郎」にちなみ「与」の字を意匠化したものを使用したみたいです。

代を継ぐと「飛行機判」の花押になるようです。
初期の飛行機判は比較的平たく、後に伸びやかに描かれるように変わっていくとか。

大正3年からは「自動車判」と呼ばれる、
丸みを帯びた花押に変わるそうです。

本ホームページの富士釜は、その中の「自動車判」に見えます。

明治から大正へと変わる激動の時代、
惺斎は、どのような思いで花押を変えていったのでしょうね。


作品名:棗釜
作者:高橋敬典
備考:木箱入/中古品/
少々シミ有り

棗釜
※画像を押すと拡大できます。
棗釜(なつめがま)は、棗の実の形からこのように呼ばれているとか。
鐶附は茄子が多く用いられるそうです。


■棗の木
ここで言う棗は、クロウメモドキ科の落葉高木である棗のことで、
名前(和名)は、夏に入って芽が出ること(夏芽)に由来するそうです。

漢名は、中国の古書に
「大なるを棗(そう)といい、小なるを棘(きょく)」
という記述があるそうで、
棗の果実が大きいところから来ているみたいです。

中国語「棗子(ざおつ)」は、
子供が早くできるようにという意味の中国語「早子(ざおつ)」に通じて、
子宝と多産の祈りを込めて、庭先に植えられとか。

原産地は中国から西アジアにかけてで、
日本への渡来は、奈良時代以前だそうです。

葉は互生し、落葉樹らしからぬ光沢があり、3脈が目立つのだとか。
花は淡緑色で小さく目立たないみたいです。

木材としては、硬く、使い込むことで色艶が増す事から、
高級工芸品(茶入・器具・仏具・家具)や、
バイオリンのフィッティングに使われるそうでです。


■棗の実
果実は乾燥させたり)、菓子材料として食用にされ、
また生薬としても用いられるようです。

果実は核果で長さ2cmほどの卵型、
熟すと赤黒くなり次第に乾燥してしわができるそうです。

果実を砂糖と醤油で甘露煮にし、おかずとして食卓に並ぶ風習が、
古くから飛騨地方のみで見受けられるみたいです。

韓国では、薬膳料理として日本でも知られるサムゲタンの材料に使われるほか、
砂糖・蜂蜜と煮たものを「テチュ茶(ナツメ茶)」と称して飲用するのだとか。

棗、またはその近縁植物の実を乾燥したものは大棗(たいそう)、
種子は酸棗仁(さんそうにん)と称する生薬などだそうです。


■漢方の大棗(たいそう)
大棗には強壮作用・鎮静作用が有るとされ、
糖・粘液質・リンゴ酸・酒石酸などを含むようです。
甘味もあるのだとか。

葛根湯・甘麦大棗湯などの漢方薬に配合されているようです。

生姜との組み合わせで、副作用の緩和などを目的に、
多数の漢方方剤に配合されているみたいです。

大棗(黒棗)は黒色なのですが、紅棗という赤いものもあるそうです。
特に紅棗は、血の滋養により効果的とされているとか。

棗は一般に、湯に3〜10個加えて服用するようです。

2000年の論文
(Anxiolytic effect of seed of Ziziphus jujuba in mouse models of anxiety.)
によると、大棗をマウスに、0.5・1・2gと摂取させたところ、
うつ症状に改善が見られたことから、抗不安作用や鎮静作用が期待されるそうです。

また、2009年の論文
(Ziziphus jujuba extract for the treatment
of chronic idiopathic constipation: a controlled clinical trial.)
によると、便秘改善効果も期待できるようです。


■童謡「あの子はだあれ」
「あの子はだあれ 誰でしょね なんなんナツメの花の下 
お人形さんと 遊んでる 
かわいい みよちゃんじゃ ないでしょうか」
という歌詞にも「ナツメ」が出てくるようです。

作詞:細川雄太郎、作曲:海沼實による日本の童謡で、
1941年発表されたみたいです。

「梨棗 黍に 粟つぎ 延ふ葛の
 後も逢はむと 葵花咲く」(万葉集 作者不詳)

「玉掃 刈り来鎌麿 室の樹と
 棗が本と かき掃かむため」(万葉集 長意吉麿)

6月には小さな淡い緑色の花を咲かせる棗の木。
さわやかな風のもと、子供たちが遊ぶ姿は、
今も昔も変りなく・・・
と言いたいのですが、残念ながら、
高度経済成長の中、変化が訪れます。

平安の昔から続いた自然は、もうほとんど残されていません。
今の子供たちに棗の実や花を聞いても、
わからないのではないでしょうか。

茶道具の中に「ナツメ」を見いだせる茶道は、
棗にとって最後の居場所なのかもしれません。
この場所だけは、いつまでも後世に伝えていきたいものです。


作品名:五行棚

作品名:雲龍釜
作者:高橋敬典

作品名:真塗紅鉢 尺0

雲龍釜
※画像を押すと拡大できます。
雲龍釜(うんりゅうがま)は、筒釜の一種で
「東陽房釜」なども形態上からは筒釜になるようです。

雲龍文というのは、雲に乗って昇天する龍をあらわしているそうで、
胴に雲龍文を鋳出してあるところからこの名があるようです。

雲龍釜は、利休所持は大きいものは天明作、小さいものは芦屋作なんだとか。
利休好は大中小あり、皆口筒釜で、糸目掛子蓋の共蓋、
大は切子摘み、小は掻立鐶、鐶付は鬼面、真鍮丸鐶が付くみたいです。

青磁雲龍水指の武野紹鴎所持の絵図を、
利休自ら写して辻与二郎に作らせたそうです。

少庵好は、兔鐶付で大のみの釜。
仙叟好は、形が小さく裾が少し広がりの釜。
織部好は、龍に角がなく、その他胴を肩衝として口を立口としたもの、
折口となったもの、胴裾を蕪状に膨らませた座付雲龍、
四方筒形の四方雲龍など色々あるとか。

『南方録』に
利休雲竜の釜は、青磁雲竜の御水差の紋、
紹鴎に絵図ありけるをかりて、利休の自筆にてうつし、
釜に鋳させられたる由物がたりなり。
大雲竜は天明、小雲竜は芦屋作なり。小雲竜は少胴となり。」
とあるそうです。

『茶湯古事談』に
「雲龍の釜、利休はしめて好ミ鋳させし也、
大方ハ五徳なしに釣し、
或時秀吉公の御前にて雲龍釜にて利休たてしに、
折節近習多くて十服はかりたてしに、
始終その湯さめさりし、
雲龍にて数服たつるにハ色々のならひ多く、
いつも七八分めに湯のミえる様になす事となん」
とあるみたいです。


作品名:唐金朝鮮風炉釜
作者:畠春斎(釜)
備考:木箱入

唐金朝鮮風炉釜
※画像を押すと拡大できます。
朝鮮風炉は、真形釜を合わせるのが、
約束とされているみたいで、
本作品も、真形釜のようです。

茶湯釜の最も基本的な形だそうで、
口は繰口(やや内側に繰り込んだ形)、
肩はなだらかで、胴の中央に鐶付が付き、
胴の上部と下部のつなぎ目に庇(ひさし)のように出ている
「羽(は)」をめぐらした釜のようです。

厨房以外で茶を煮だすため風炉に掛ける釜として、
筑前芦屋で鎌倉時代初期に創案されたみたいです。
一般炊飯用の湯釜として用いられていた平釜を、
風炉に掛けるためにこのようにしたそうです。


■芦屋楓流水真形釜
見た目は、幾分違いますが、
重要文化財にも真形釜があるようです。

雄々しい両肩の鐶付、一部に見られるなめらかな鯰肌、
胴部に文様を表すなど、芦屋釜の特色を豊かに示しているそうです。

躍動感ある鶏・楓・流水・州浜など、雅びな文様表現で、
楓と流水のモチーフから、日本では古来紅葉の名所として親しまれた
「竜田川」の愛称があるみたいです。


作品名:天猫釜(繰口)
(菊梅地紋)
作者:十三代・宮崎寒雉極
備考:木箱入/風炉用

天猫釜(繰口)
※画像を押すと拡大できます。
天命釜・天明釜とも言うそうです。

古くは天命といったようですが、
寛永十年(1633年)、井伊掃部頭が領したときに、
天命と小屋の二字を合して天明村としたと伝えられ、
天猫は利休が洒落てつけたといわれているとか。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に、
「真形 シコロ羽かたのつかぬを鶴首真形といふ、
 蘆屋天猫に多し、其後はこの写しなり、
 古作ゆへ好しれす、底にかへしと云てほそき輪あり」

「乙御前 信長公御所持、
 当時加賀公御所持、信長公より其臣柴田へ下さる、
 其時の狂歌に、朝夕になれしなしみの姥口を、
 人に吸せんことおしぞ思ふ。
 このカマの写しは加賀侯御所持故寒雉をよしとす、
 天猫に輪口あれとも姥口をよしとす」

「百会 利休百会に用ゆ、天猫作、ウバ口、鬼面鐶付、唐金薄モリ蓋、当時柳沢侯御所持」

「鉈 百会に似て肩に張ありてナダメあるゆへナタカマといふ、
 天猫作、利休所持、当時は加賀侯にあり、故に寒雉をよしとす」

「唐犬 宗旦所持、天猫作とも、
 蓋三ミセン耳なるゆへ見立てヽ唐犬カマといふ、伊勢神戸侯御所持」

「巴蓋 少庵所持、霰平カマ、切カケ、鐶付鬼面、天猫作、
 蓋は少庵好、巴の地紋あり、山中氏所持」

「土斎 宗旦このみ、土斎へ好つかはすなり、
 元来天猫作、ソコ九兵衛作、唐金モリ蓋、柳沢侯御所持」

「四方口 元伯このみ、元来天猫作、ソコオダレになほす、
 鬼面、トモ蓋、元伯より探幽へ伝ふ、浄味写しにはナタメ鐶付あり、千家は鬼面を用ゆ」
などとあるようです。


■繰口(くりくち)
繰口は、口の立ち上がりが一度くびれたあと、
上方に向かって外側に曲線を描いて開いた形状のものをいうそうです。

立口の立ち上がりが内側に繰れているところから、
この名があるみたいです。

繰口は、筑前芦屋釜に多く見られ、真形釜は通常繰口に作られるとか。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「累座 元伯このみ、
 元来天メウ作の大カマを老人のために底を切あげたるなり、
 クリ口、累座、鬼面、唐金蓋、山中氏所持、俗に座阿弥陀堂と云ふ」
とあるようです。


作品名:富士釜(雲鐶付)
作者:増山馨鉄
備考:桐箱入/桐箱は少し古め
 釜内少しサビあり

富士釜(雲鐶付)
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、錆び(サビ)の落とし方と、
しまい方について説明しようかと思います。


■錆びの落とし方
内側が赤く錆びている釜は、
そのまま使用しても錆が出るばかりだそうです。

そこで、錆びをごしごし落とし、
お茶の葉・さつまいもの皮・タンニン酸などで、2日ぐらい煮れば、
内側に被膜ができて、ある程度は錆が押さえられるようです。

業者に頼んで焼き直すというのも良いみたいです。

また、手で釜を持つ時は、釜の中へ手を入れて持ち、
釜の肌に、手あぶらが付かないように注意するそうです。
もし、素手で持ち、手あぶらなどの汚点を作ると、
容易に取り除くことができず、錆びのもとになるとか。


■使用後のしまい方
使用済みの釜は、水屋の釜据に載せ、
釜の蓋をとり、釜の湯を汲んで釜肌にかけ、
水をさしては、また釜にかけ、
暫時、薄めながら洗い流すそうです。

湯を、たらいにあけ、釜をふせ、底にも同様にかけ、
切りわらで軽く灰や汚れを落とし、
水できれいに洗い流して、
底を雑巾で軽くおさえて水気を切るようです。

釜の内部も布巾で水気を除き、
完全に炭火を取った五徳にかけて、
余熱で釜の内部が乾くまで置いておくみたいです。


作品名:撫肩釜(炉用)
(松風文字直筆写)
作者:菊地正直
備考:桐箱入/南鐐つまみ
 /即中斎好

撫肩釜(炉用)
※画像を押すと拡大できます。
摘み部分が南鐐(銀)でできた炉用の釜みたいです。

炉用は大ぶりの炉釜、風炉は小ぶりの風炉釜や、
口の狭いものを用いるとあるのですが、
具体的には、以下のようになるみたいです。


■棚の炭手前から大きさを考える
炭手前の場合、釜を上げてから勝手付に移動するとき、
棚の目と敷き合わせの間を通るみたいです。

棚は、畳16目(8寸)のところに置くため、
直径8寸の釜を通すことはできないため、
風炉釜の直径は7寸程度となるみたいです。


■炉の寸法
一方、現在の炉縁は、1尺4寸位あるみたいで、
8寸程度の釜は十分入るようです。
ちなみに、眉風炉は1尺位、
道安風炉は1尺1寸位だそうです。

炉の寸法が決定したのは、『天王寺屋会記』の
永禄十一年(1568年)に行われた山上宗二の茶会だそうです。

炉の寸法の変化に影響を受けたものもあるようです。
羽釜では、大きすぎて炉で使用できないため、
鎚で羽を叩き落とした釜を用いるようになったり、
その羽を落としたところの風情を楽しむようになり、
「羽落ち」のように人工的な装飾につながってきたのだとか。


作品名:富士釜(筋入り)
価格:8,000円
備考:紙箱入/内サビ有り
 /中古品

富士釜(筋入り)
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、釜に関するいろいろな取り扱いについて、
説明しようかと思います。

また、釜自体のしまい方は、
前述の「■使用後のしまい方」で、
説明しているので、ここでは割愛します。


■釜の蓋のしまい方
釜の蓋は、共蓋の場合は、布に包まぬようにして、
唐銅の場合、布に包んで、蓋と別にするそうです。

中仕切りのある箱であれば、その上に蓋を入れ、
箱に蓋をして、湿気の少ない場所にしまっておくようです。

釜は鉄でできているため、湿気と塩気が一番禁物なのだそうです。


■点前時の扱い
釜の湯が使用しているうちに少なくなり、
しかも沸き帰っている場合、水を差すのですが、
一度に冷水を差すと、釜に亀裂が生じ、
漏れるようになることがあるみたいです。

また、釜の蓋を蓋置を使用せずに、
畳、その他に逆向きに置くことがあるそうですが、
これだと、摘みを損じたり、ぐらつきが生じることがあるとのこと。
必ず、蓋置の上に蓋を置くことを心得た方が良いみたいです。


■釜に文字などがある場合
釜に文字や絵・花押がある場合、炉・風炉問わず、
文字などのある方を亭主が見て正面になるように据えるそうです。

蓋に文字のある時も同様にするとか。

釜の文字が両面にある場合は、書きはじめの方を亭主の方に向け、
名前がきと花押のある釜は、
名前がきを手前に、花押を向こうにするようです。

ちなみに、炉縁の場合は、釜と反対で、
表に花押のある物は客座から見る為、
亭主の座す側に納めるそうです。


■長期間使用しなかった釜
長い間使用しなかった釜や、古い釜は、
使用する前に、二・三度、
普通より弱めの火にかけ、
鉄気やさび、湿気の臭いを除いて使う必要があるそうです。


作品名:透木釜(富士型)
作者:佐藤浄清
備考:木箱入/
少々内サビ有

透木釜(富士型)
※画像を押すと拡大できます。
透木釜は、平たくて羽がついている形の釜で、
釜の羽を透木の上に乗せて釜を支えるそうです。

透木にあててかける釜の意味から命名されたみたいです。

なお、表千家では、3月に透木釜、4月に釣釜、
裏千家では、3月に釣釜、4月に透木釜をかけるそうです。

茶会記によると、永禄年間には、
既に透木釜の普及がみられるようです。

なお、
「透木」についてはこちら。


■古天明平蜘蛛
平蜘蛛釜は、透木釜として用いる釜だとか。

中でも有名なのが、
古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)でしょうか。

古天明平蜘蛛は、戦国武将松永久秀所持とされる、
大名物の古釜みたいです。

松永久秀は織田信長へ臣従した際に、
名物・九十九髪茄子を進呈したそうです。

それ以降、信長から、
幾度も所望された平蜘蛛に関しては断っているようです。

後に、久秀は信長に侵攻され信貴山城にて自害するも、
この際に平蜘蛛は、信長の手に渡るのを潔しとしない久秀によって、
打ち壊されたとも、
爆死のために爆薬を仕込まれ消失したともいわれているとか。

一方で現存するとする意見もあるようです。

静岡県浜松市西区舘山寺町の浜名湖舘山寺美術博物館には
「平蜘蛛釜」と伝わる茶釜があるそうで、
その由来によれば、
信貴山城跡を掘り起こした際にこの茶釜が出土し、
信長の手に渡り愛されたものだとか。

また、松永久秀と親交のあった柳生家の家譜『玉栄拾遺』には、
久秀が砕いた平蜘蛛は偽物で、
本物は友である柳生松吟庵に譲ったという記述があるそうです。


■文献
『川角太閤記』に
 「平蜘の釜と我等の頸と、
 二ツは、信長殿御目に懸けまじきとて、
 みじんこはいに打ちわる。
 言葉しも相たがわず、
 頸は鉄炮の薬にてやきわり、
 みじんにくだけければ、
 ひらぐもの釜と同前なり。 」
とあるようです。

『老人雑話 巻上』 に
 「霜台は秘蔵の茄子の茶壷、
 平蜘蛛と云釜を打ち砕きて
 其のち自殺す。 」
とあるみたいです。



トップページ 商品 売買方法
ひと口知識 お茶室