茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

蓋置ってこんなの

蓋置に関しては、
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に「武野紹鴎 が一寸三分に切って水屋に使っていたものを、 利休 が一寸八分に改めて茶席に使用した」とか、
山上宗二著『山上宗二記』に「釣瓶・面桶・竹蓋置、此の三色、紹鴎好み出されたり」とか、
松本見休著『貞要集』に「竹輪は紹鴎作にて」などという記述があるようです。

蓋置の名は、釜の蓋を載せる器ということで、
「蓋置」となったようです。

蓋置は初め、台子皆具の一つとして、唐銅で登場し、
水指などと似た意匠だったそうです。
それが独立して個々に用いられるようになったとか。

唐銅から、それを写した陶磁器、さらに見立応用品なども加わり、
多種類になっていったみたいです。

蓋置のことを「隠架」といった書物(『貞要集』)もあるそうで、
蓋置は建水の中に隠れるという意味みたいです。
ただ、一般的には「蓋置」と言うようです。

『貞要集』に
「総而蓋置を隠架と云也、
此心は、水覆の内に入、
台子に置候は、架に隠すと云儀なり、
それを五徳の蓋置計を隠架と云は誤也」
とあるみたいです。

蓋置の種類は多く、特に「表七種(千利休選出)」と
「裏七種」の「七種蓋置」が有名みたいです。
表七種は「火舎」「五徳」「三葉」「一閑人」「栄螺」「三人形」「蟹」で、
裏七種は「印」「惻隠」「太鼓」「輪」「井筒」「糸巻」「駅鈴」だとか。

ここでは、七種蓋置について一覧にしてみます。
表七種 火舎(火舎香炉) ほや。
火舎は、火屋・穂屋とも書き、香炉・手焙・火入などの上におおう蓋のこと。
七種蓋置のうち、最も格の高いものとして扱われ、主に長板や台子で総飾りをするときに用いる。

火舎は、「火舎香炉」の略称で、小さな火舎香炉を起用したのが最初。
利休は「香炉蓋置」と言ったとか。

火舎香炉に関する詳細は、こちら。
五徳 ごとく。
炉や風炉中に据えて釜を載せる五徳をかたどった蓋置。
火舎蓋置に次ぐ格の蓋置として、台子、袋棚にも用いられるが、
透木釜、釣釜を使う炉の場合や、切合の風炉の場合など、
五徳を使用しない場合に用いる。

※三本の爪のうちひとつだけ大きな爪がある場合は、
 それを「主爪」というのだとか。
三葉 みつば。
三つ葉は、セリ科の多年草。和名の由来は葉が3つに分かれている様子から付いた名前。

大小の三つ葉を上下に組み合わせた形の蓋置。
ふつうは大きな三つ葉形と小さな三つ葉形が
背でくっついた形で交互についている。

仙叟好の片三つ葉は、半分はまるい高台になっているとか。
一閑人 いっかんじん。
井筒形の側に井戸を覗き込むような姿の人形がついた蓋置。
閑人(ひまじん)が井戸を覗いているようなので別名「井戸覗き」ともいう。

人形の代わりに龍・獅子などが付いたものもあり、
また、人形のないものは井筒(いづつ)、無閑人(むかんじん)などともいうとか。
栄螺 さざえ。
栄螺貝の内部に金箔を押したものを使ったのが最初といわれ、
のちにこれに似せて唐銅や陶磁器でつくたものを用いるようになったとか。

置きつけるときは口を上に向けて用い、
飾るときは口を下に向けて飾る。
三人形 みつにんぎょう。
三閑人・三漢人・三唐子ともいい、
三人の唐子が外向きに手をつなぎ輪になった形の蓋置。
中国では筆架・墨台で文房具の一つで、それを蓋置に見立てたものだとか。

三体の内の一体だけ姿の異なる人形があり、その人形を正面とする。
かに。
文鎮や筆架などの文房具を蓋置に見立てたものみたいです。

蟹蓋置は、東山御物にあり、
足利義政が慈照寺の庭に十三個の唐金の蟹を景として配し、
その一つを紹鴎が蓋置に用いたのがその始まりだとか。
裏七種 足利義政が臨済禅師の銅印を蓋置に用いたのが初めみたいです。

火舎蓋置と同様に扱うが、
火舎蓋置は草庵には用いないが、
印の蓋置は草庵でも用いるとか。

自分から読む方に向けて柄杓の柄をつけ、
飾るときは印面を下にする。
惻隠 そくいん。
太鼓 輪が中ほどで膨らんでいるもの。
単に「吹貫(ふきぬき)」ともいう。

元は台子皆具の一つ。
唐銅製の円筒形のもので、
多くは精巧な地紋や透かしがある。
のちに陶磁製や竹製のものも造られる。

輪が中ほどで膨らんでいるものを「太鼓」、
輪が中ほどで細くなったものを「千切(ちぎり)」という。
井筒 いづつ。
糸巻 四本の柱を立て上下で繋いだ形。
糸を紡ぐ糸枠の形をしているためこの名があり
「糸枠(いとわく)」ともいう。
実際の糸を巻いたものや、本あるいはそれ以上のものもある。
駅鈴 円形の中央を丸く抜いた環状を横に割った形。
律令制で官命によって旅行する者に
中央官庁と地方コクガから下付した鈴のこと。

主に槍の鞘建水に用いる。

読み:たけふたおきいっそう
作品名:竹蓋置一双
作者:竹師宗篤
備考:黄梅院・小林太玄

竹蓋置一双
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竹の蓋置は炉・風炉の別があり、陶磁器の蓋置は炉・風炉とも使うようです。

影林宗篤は、 福本積應堀内宗心 ・小林太玄などの書付を受けた人みたいです。
小林太玄は、昭和13年に奉天(今の中国遼寧省の瀋陽)で生まれた人で、 昭和50年には大徳寺塔頭黄梅院住職に就任したとのこと。


読み:はぎやきみつにんぎょうふたおき
作品名:萩焼三人形蓋置
作者:岡田裕

萩焼三人形蓋置
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「一楽二萩三唐津」の「萩」にあたる萩焼は、山口県萩市一帯で焼かれる陶器のことで、
「貫入」と「七化け」が特徴としてあるそうです。
「貫入」とは、器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、
「七化け」とは、貫入が原因で、
長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透して器表面の色が枯れた味わいを見せることだとか。
萩焼は、1604年藩主毛利輝元の命で、朝鮮人陶工の李勺光・李敬の兄弟が城下で、
御用窯を築いたのが始まりらしいです。

閑人を「俗世間を離れてわび住まいする風流人。」と訳すと、
松尾芭蕉の『野ざらし紀行』に閑人の茅舎から「蔦植て竹四五本のあらし哉」
という俳句が出てきたりします。

萩焼窯元「晴雲山」の岡田裕は、日本陶芸展・日本伝統工芸展などに多数入選していて、
NHKテレビの陶芸監修などもしているみたいです。


読み:みしまうしふたおき
作品名:三島牛蓋置
作者:松古窯芳山

三島牛蓋置
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見島牛は、山口県萩市見島で飼育されてきた日本在来牛で、
西洋種の影響を受けていない日本の在来牛は、見島牛と口之島牛の2種類しか残っていないみたいです。

佐久間勝山 の息子、佐久間芳山は、昭和5年生まれで松阪萬古松古窯の五代目だそうです。
伊勢の萬古焼が、昭和のはじめに裏千家淡々斎より、御好窯「松古」の御印を受けたとのこと。

萬古焼は、桑名の豪商、沼波弄山が元文年間(1781年〜1740年)に朝明郡小向で創始したようです。
葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つそうで、
陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(b器)に分類されるとのこと。


読み:いちょうえふたおき
作品名:銀杏絵蓋置
作者:田中寿宝
価格:3,000円

銀杏絵蓋置
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イチョウは、裸子植物門イチョウ綱の中で唯一の現存している種だそうです。
人為的な移植により世界中に分布していて、
年平均気温が 0〜20℃の降水量500〜2000mmの地域に分布しているとか。
針葉樹とされる場合もありますが、厳密には広葉樹にも針葉樹にも属さないみたいです。
原始的な平行脈を持ち、二又分枝するようです。

イチョウの名の由来は、
葉の形をアヒルの足に見立てた中国語「鴨脚(イアチァオ)」の転訛のようです。

田中寿宝は、昭和49年、建仁寺七代管長竹田益州から「壽寶」の雅号、
並びに雅号の書きいれられた暖簾をもらい、
同年独立し主に茶の湯の道具を作陶するようになったそうです。

寿宝工房は、京都府東山区東大路通松原上る4丁目毘沙門町40にあり、
京焼の仁清風の絵付けが体験できるみたいです。
上絵の絵付けができる数少ない工房なんだとか。
色付け体験 湯呑み・壁掛け皿:各4,000円
陶筆・陶化粧刷毛:各16,000円
抹茶碗:各30,000円
送料別・着払いだそうです。


読み:せいじうんかくふたおき
作品名:青磁雲鶴蓋置
作者:久世久宝
価格:3,000円

青磁雲鶴蓋置
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青磁は、青磁釉を施した磁器またはb器のことで、紀元前14世紀頃の中国(殷)が起源だそうです。
青磁の青緑色は、釉薬や粘土に含まれる酸化第二鉄が、
高温の還元焼成によって酸化第一鉄に変化する事で発色しているとのこと。

雲鶴は、高麗の青磁のひとつで、
表面に白土をはめ込んだ象眼青磁で、雲や鶴の模様を表しているそうです。
雲鶴にはもうひとつ意味があって、雲と鶴とを組み合わせた文様として、
位袍(いほう:官位によって定められた色の袍)に多く用いられ、親王および太閤の所用とされたようです。

初代久世久宝(彦五郎)は、1874年生まれ。
裏千家圓能斎よりその技量を認められ久宝の号をもらったそうです。
作品は伝統の京焼、粟田焼の優雅さをだした色絵や仁清写を得意としたみたいです。
陶印は丸印「久宝」、枠無押印「仁彦」などだとか。

四代久世久宝は、1925年京都府生まれの陶芸作家。
二代久世久宝に陶芸を学び、1987年、四代久世久宝を襲名、
仁清写色絵付・青金襴手・染付などを手がけているそうです。


読み:きりこあかふたおき
作品名:切子紅蓋置
作者:元比古

切子紅蓋置
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切子には、江戸切子と薩摩切子などがあるようで、それぞれ以下のような違いがあるみたいです。
江戸切子:都の伝統工芸に認定された吹きガラスで、
江戸末期の切子は、透明な鉛ガラス(透きガラス)にヤスリや金棒と金剛砂によって切子細工をし、
木の棒等を用いて磨き、手作業による手摺り工程による細工によって
制作されたものと考えられているそうです。
薩摩切子:薩摩藩において幕末に生産されていたのが、のち途絶え、近年復刻されたそうです。
江戸切子より細かい細工(籠目紋内に魚子紋等)で、
色被せと呼ばれる表面に着色ガラス層をつけた生地を用いたものが多く、
またホイールを用いた深いカットと大胆な形なんだそうです。

南元比古は、昭和25年新潟県生まれ。


作品名:鶴亀蓋置一双入
作者::韓国慶安窯
備考:桐箱入

鶴亀蓋置一双入
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「鶴は千年、亀は万年」とあり、長寿・夫婦円満の象徴としての印象が強い鶴亀。
すでに平安時代から装飾のモチーフに用いたそうで、歴史物語の『栄花物語』「けぶりの後」の条に
「女房の装束例の心々にいどみたり。すぢをき、鶴亀松竹など、心々にし尽くしたり」
とあるようです。

鶴は、夫婦仲が大変良く一生を連れ添うこと(夫婦鶴)とか、
鳴き声が共鳴して遠方まで届くことから「天に届く=天上界に通ずる鳥」
といったことが言われているそうです。
また、欧米などでも「神秘の鳥」「幸運のシンボル」とされているみたいです。

鶴の長寿説は紀元前120年頃に書かれた淮南王劉安著『淮南子(えなんじ)』の
「鶴千歳」「容姿が端麗なところから仙人に侍する鳥」に由来するそうです。

亀の夫婦円満の象徴というは『浦島太郎』のお話からきているみたいで、
「浦島太郎が老人になったのちも乙姫(亀姫)が太郎を慕い続けて添い遂げ、
やがて太郎は鶴に、乙姫は亀に化身した」ということのようです。

日光東照宮には、亀の上に鶴が乗っている象があるそうで、
「かごめかごめ」の歌の中の「夜明けの晩に、鶴と亀がすべった」の鶴と亀のことみたいです。
これには、徳川埋蔵金のヒントが隠されていると言われているようです。

ちなみに、実際の寿命は、鶴は30〜90歳くらい、亀は100歳以上なんだそうです。


作品名:青磁七種蓋置
作者:かい次郎(「かい」は金偏に皆)
備考:紙箱入

青磁七種蓋置
※画像を押すと拡大できます。
上述の表にある表七種蓋置です。

七種蓋置に関しては、『茶湯古事談』に
「近代七ツのふた置といふハ、三ツ葉、蟹、
さゝひ、ほや香炉、三人坊主、五徳、わ、此等也となん 」
とあるそうです。

それぞれの代表的な文献の記述を見てみると以下のようになるようです。
蓋置『南方録』『茶道筌蹄』その他
火舎蓋置 穂屋 天子四方拝の時、
用玉ふ香爐といへり、
さまによりて蓋置に用る時も、
殊外賞翫の一ツ物なり、
草庵に用たる例なし、
袋棚以上に用、
手前の時、賞翫の置所等秘事口傳
火屋 ホヤ香爐をかり用ゆ 『源流茶話』

「ほや香炉と申候ハ、
いにしへ唐物宝形つくりえ香炉のふたを翻し、
釜のふた置ニ見たて、袋をかけ、真の具に被定候、
ほやとハ蓋宝形つくりなれは也」
五徳蓋置 火卓 爪を上にしても、
又下にしても用、
火卓掛の炉、又は風炉に相応せず、
釣釜によし
五徳 開山五徳と云は紹鴎所持、
台子は切懸釜ゆへ、いにしへは五徳を多く用ゆ
『貞要集』
「総而蓋置を隠架と云也、此心は、水覆の内に入、
台子に置候は、架に隠すと云儀なり、
それを五徳の蓋置計を隠架と云は誤也」

『槐記』
「今の人五徳の蓋置の名を、カクレガと云と覚へたるは大なる僻事なり、
それは五徳のふたおきと云ふ也、
台子の七かざりに風炉釜水指を始として皆カネのものを用る、
柄杓は柄杓立あり茶筌は茶筌のせありて、
蓋置ばかりは飾り付る処なし、
もろもろ荘り付けて亭主の持ち出るものはコボシばかりなり、
夫故蓋置コボシの内へ入込て出るをカクレガと云、
コボシの内へ入て見へざりければなり、
乃至、カネの蓋置をコボシへくみたるをカクレガと云からしてカネのものをカクレガと云、
五徳の名にあらず」
一閑人蓋置 青磁一閑人 元来香炉なり、
仙叟箱書付には青磁香炉一閑人とあり、
何れの時よりかフタ置となる

同無閑人 人形のなきを云ふ

赤絵の獅子 一閑人のごとく、人形の所が獅子になる也
『茶道望月集』
惻隠の蓋置は、一閑人共云、是を棚に置時は、
人形を前へ見て置、堵炉の時は人形を向へ見也、
又風炉の時炉にても向点の時は、人形を前へ見て柄杓を掛る、
釜の蓋を置時は、柄杓を取左へ渡し、右手にて横になして、
人形の面を我左の方へ会釈置、夫へ蓋を置事能、
幾度も柄杓置時は堅に取直し置、蓋は兎角横になして置也
栄螺蓋置 栄螺 大は真鍮、千家にては用ひず、小は唐金、利休所持
三人形蓋置 唐子三人手を組合せたる形なり

利休所持、原叟書付あり、和物也、冬木氏伝来
『茶道望月集』
三漢人の蓋置迚唐人三人並びたる形あり、
其中に羽織着たる人形有もの也、
夫を表として、四畳半炉にては真向になし、
風炉の向点の炉は前へなして置也
蟹蓋置 筆架をかり用ゆ 『雲集蔵帳』
「大名物 蟹蓋置 東山御物 紹鴎 利休 小堀 土屋 酒井雅楽頭」
三葉蓋置


加藤かい次郎(「かい」は金偏に皆)は、Webで検索すると「泉窯」と出てきます。


作品名:竹蓋置一双
備考:紙箱入

竹蓋置一双
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ここでは、竹蓋置の記載がある文献をいくつか紹介しようと思います。

山上宗二著『山上宗二記』に、
「竹蓋置は紹鴎創案で利休がひろめたもの」とあるようですが、
江岑宗左著『江岑夏書』には、
「竹蓋置は利休がはじめて作り、少庵が京へ持ち込んで京衆を驚かした」とあるそうです。

同じく『江岑夏書』に、利休が二人に竹の蓋置を選ばせたところ、
千道安は節のついたゴツゴツとした蓋置を、
千少庵は節のない滑らかな蓋置を選んだというエピソードがあり、
道安は磊落な性格、少庵は繊細な性格であったとされるのだとか。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に、
「竹青白 紹鴎始なり、節合を切、一寸三分なり。
元水屋の具なりしを、利休一寸八分に改め、
中節と上節とを製して、道安少庵両人へ贈らる。
上に節あるを少庵に送り、
中に節あるを道安取られしなり、
是よりして席に用ひ来る。
炉には中節、風炉には上節と定む。」
と、炉と風炉の蓋置に関しての記述があるそうです。

『茶譜』には、
「利休流蓋置青竹を用、尤根竹を用ことも有、
然ども根竹は老人など用て吉、若輩成者は青竹を用て潔と云々」
とあるようです。


作品名:染付筍蓋置
作者:高野昭阿弥
価格:3,000円
備考:木箱入

染付筍蓋置
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染付は、磁器の加飾技法の1つで、白地に青で文様を表したものだそうで、
コバルトを主成分とする絵具が使われるようです。

コバルトの鉱石は、古代からエジプトや中国で、
ガラスや陶磁器を青く彩色するのに用いられていたみたいです。
八世紀の唐三彩に、色釉の呈色剤として登場し、
九世紀にはイスラムで染付が創始されるようです。
中国でも同じ九世紀頃に染付がくふうされるみたいです。

日本では十六世紀に、美濃焼でコバルト呈色の染付が行われたようですが、
盛行するのは十七世紀になって、
伊万里焼が中国製の呉須を入手して染付を焼造してからだそうです。


作品名:青海波蓋置
作者:加賀瑞山
価格:5,000円
備考:桐箱入/箱よごれ有

青海波蓋置
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青海波(せいがいは)は、祝い事に舞われる雅楽の演目
「青海波」の衣装に使われる文様で、
半円形を三重に重ね、波のように反復させたものだそうです。

また、元禄時代、漆工の青海勘七が特殊な刷毛で波模様を書き、
青海波と呼ばれる様になったともいわれるとか。

吉祥模様で、末広がりに広がっていく様子から、
縁起の良い柄として広く愛されているようです。

青海波の舞は、二人の楽人がゆったりと、
袖を振りながら舞う非常に優美な舞で、
源氏物語の第七帖「紅葉賀」の場面に取り上げられたことで有名なのだとか。

青海波の装束を着る時は、青海波と霞の模様が刺繍された下襲に、
牡丹などが織られた半臂をまとい、
千鳥が刺繍された袍の右肩を袒ぎ、太刀を佩き、別甲をかぶるようです。


作品名:水玉蓋置(トルコ釉)
作者:加賀瑞山
価格:8,000円
備考:桐箱入

水玉蓋置(トルコ釉)
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トルコ釉は、トルコ青・トルコ青釉・ターコイズブルー
などと呼ばれ、本来、中近東地域で作られた
低火土釉を銅で青く発色させたものだそうです。

そのままでは、陶器作製には不向きな為、
新たに高火度釉として開発された物を、
一般的にトルコ青釉と呼んでいるようです。

アルカリ分の勝った釉薬に1%・2%の銅を添加して発色させるみたいです。

使用される媒溶剤は、リチウム・石灰・バリウムなどで、
これらが50%内外を占める調合とすると、透明なトルコ青釉となるのだとか。

融剤に石灰石使うと青くならず緑系になり、
「ターコイズグリーン」と呼ばれているようです。
ターコイズとはトルコ石を意味するそうです。

色材としてのターコイズブルーに用いられる色料は様々で、
顔料としては「コバルトクロム青」「マンガン青」
「フタロシアニン青」「フタロシアニン緑」などがあるようです。

また、セラミック顔料を使用する分野では、
「バナジウムジルコニウム青」のことをトルコ青と呼ぶみたいです。


■バナジウムジルコニウム青
「バナジウムジルコニウム青」は、
ジルコンを母格子にバナジウムが固溶したものだそうです。

ジルコン系の窯業用顔料のうち最も早く開発され、
その後プラセオジムイエローやサーモンピンクも、
実用化されるようになったのだとか。

「バナジウムジルコニウム青」は、
「ジルコニア」+「二酸化ケイ素」+「バナジン酸アンモニウム」を配合し、
鉱化剤として
「フッ化ナトリウム」+「塩化ナトリウム」+「塩化アンモニウム」
を添加し
800℃〜900℃で焼成、粉砕し熱湯で鉱化剤を除去するとできあがるようです。


■セラミック顔料
セラミック顔料は、高い耐熱性と釉薬に対する安定性を持つという点において、
塗料・インキ・絵具・プラスチック等に使用される一般の無機顔料とは、
異なる一群を形成しているそうです。

従来は、釉薬の着色という技術から生み出されていたようですが、
近年では酸化物・複合酸化物・ケイ酸塩といった、
高温で安定な無色の化合物に、
遷移元素のイオン等を固溶させて発色させるという方法で開発されているとか。

耐熱性・耐候性・耐薬品性に優れているみたいですが、
総じて一般の無機顔料より単独での色は鈍く、
着色力が小さいためのが欠点のようです。


作品名:志野蓋置(寸胴松絵)
作者:三代 山口錠鉄
備考:中古品/木箱入/箱よごれ有

志野蓋置(寸胴松絵)
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志野焼は、美濃焼の一種で、
美濃にて安土桃山時代に焼かれた白釉を使った焼物のことだそうです。

志野宗信が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりのようです。

可児市久々利から土岐市泉町久尻にかけて産出する、
耐火温度が高く焼き締りが少ない「五斗蒔粘土」や「もぐさ土」
という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、
志野釉(長石釉)と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を、
厚めにかけ焼かれるものだとか。

通常、釉肌には肌理(きめ)の細かい貫入や柚肌、また小さな孔が多くあり、
釉のかかりの少ない釉際や口縁には、
緋色の火色と呼ばれる赤みのある景色が出るみたいです。

志野茶碗の名が記録上最も早く現れるのは
『津田宗及茶湯日記』のようです。
約33年間で志野茶碗が200回以上使用されたことが記されているとか。

また、『今井宗久茶湯書抜』にも1578年の茶会において、
志野茶碗が使用された記録が残されているようです。

『陶器攷』に
「志野宗信物ズキニテ呂宗白楽の沓鉢ヲ茶碗トス、
是ヨリ志野茶碗ン名出ル、
後今井宗久ヘ伝ハリシ由、
名物記ニ唐物トアリ、
此茶碗ノ出来振ヲ尾州ニテ写シタルヲ志野焼ト云」
とあるようです。


■白天目
初期の志野茶碗として「白天目」と呼ばれる茶碗があるそうです。

現在伝世している白天目茶碗は3つあり、
一つは徳川本家伝来のもので、これは朝鮮製の刷毛目茶碗みたいです。

残り二つは武野紹鴎が所持していたもので、
一つは尾張徳川家に、もう一つは加賀前田家に伝来したものだとか。

前田家伝来の方には、
「紹鴎セト白天目」と利休の箱書・添状もついていて、
『玩貨名物記』『古今名物類聚』『古名物記』などにも、
記載された和物名物茶碗だそうです。


■志野焼の種類

志野焼には以下の種類があるそうです。
種類内容備考
無地志野文字通り絵模様が少ない白無地。志野茶碗 銘卯の花
鼠志野 下地に鬼板と呼ばれる鉄化粧を施し、
文様を箆彫りして白く表しさらに志野釉をかけて焼く。
掻き落とした箇所が白く残り、
鉄の成分は窯の条件などにより、
赤褐色または鼠色に焼き上がる。
志野茶碗 銘峰紅葉
赤志野鼠志野と同じ手法ながら赤く焼き上がったもの。撫子文鉢
紅志野酸化第二鉄を含む黄土である赤ラクを掛けた上に鉄絵文様を描き、
さらに志野釉をかけて焼いたもの。
絵志野釉の下に鬼板で絵付けした上に志野釉をかけて焼いたもの。国宝:志野茶碗 銘卯花墻
練り上げ志野
(練込志野)
赤土と白土とを練り混ぜ志野釉をかけて焼いたもの。志野茶碗 銘猛虎
志野織部大窯で焼かれた古志野と区別し、連房式登窯で焼かれたものを指す。


作品名:菖蒲蓋置
作者:加賀瑞山
備考:桐箱入

菖蒲蓋置
※画像を押すと拡大できます。
単に菖蒲というと、
 @「ショウブ」サトイモ科の多年草。
 A「アヤメ」アヤメ科の多年草。
 B「ハナショウブ」アヤメ科の多年草。
 C「菖蒲町」埼玉県にあった自治体(現・久喜市)。
の四種類があるようです。


■アヤメとは
ここでは、「アヤメ」の説明をしようと思います。

アヤメは山野の草地(乾燥地)に生え、葉は直立し高さ40〜60cm程度、
5月ごろに径8cmほどの緑色の花を1〜3個つけるそうです。

外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があるのが特徴で、
「文目」「綾目」といった和名がついているとか。


■アヤメの見分け方

アヤメの仲間は、世界で200種類が知られているそうです。

ここでは区別の難しい「アヤメ」「ハナショウブ」「カキツバタ」
の違いを、簡単に説明しようかとおもいます。
区別方法アヤメハナショウブカキツバタ
花びらの
基部分の色
網目模様黄色
場所乾燥地湿地湿地
品種変化少ない変化に富むあまり多くない
葉の主脈目立たない葉の中央に表に一本、
裏に二本
目立たない
漢字菖蒲花菖蒲杜若
名前の由来剣状の細い葉が、
縦に並んでいる様子が
文目(あやめ)模様
葉が菖蒲に似ているから 衣の染料に使われたことから
「書付花」と呼ばれていたのが
なまったもの。
背丈30〜60cm80〜100cm50〜70cm
花の大きさ小輪大輪中輪


作品名:紫陽花蓋置
作者:芳華
価格:3,000円
備考:桐箱入

紫陽花蓋置
※画像を押すと拡大できます。
アジサイは、落葉低木だそうで、
「ホンアジサイ」「ガクアジサイ」「セイヨウアジサイ」などがあるようです。
花の色がよく変わることから、「七変化」「八仙花」とも呼ばれるみたいです。

最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、
平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれているそうで、
アジサイの名の由来は、
「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」がなまったものという説が
有力なのだとか。

花(萼)の色はアントシアニンという色素によるものだそうで、
アジサイにはその一種のデルフィニジンが含まれているとか。

そのため、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、
アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈するようです。

逆に土壌が中性やアルカリ性であればアルミニウムは溶け出さず、
アジサイに吸収されないため、花は赤色となるみたいです。

花色は開花から日を経るに従って徐々に変化するそうです。

最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、
それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、
赤や青に色づいていくのだとか。

さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、
青色の花も赤味を帯びるようになるそうです。
これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こるみたいです。


作品名:色絵東風蓋置
作者:高野昭阿弥
備考:木箱入

色絵東風蓋置
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「東風吹かば、匂いおこせよ、梅の花、主無しとて、春を忘るな」(菅原道真)

「春の東風が吹くようになったら、花を咲かせて香りを届けておくれ、梅の花よ。
私がいなくても、春を忘れないでいておくれ。」
という意味だそうです。

東風は「こち」と読みますが、東西南北それぞれ、呼び方があり、
南風「はえ」、西風「ならい」、北風「あなじ」というようです。

必ずしも季節を表すわけではないのですが、
東風:春に吹く東の方から吹いてくる風
南風:梅雨の最盛期の強い南風
西風:東日本の太平洋側で吹く冬の季節風
北風:冬に西日本で吹く強い北西季節風
といった感じになるようです。

ただ、風は気圧傾度力によって発生するため、
必ずしも上のように、
風が季節感を表すわけではないみたいです。

他にも、常に日本には、
西からの「偏西風」や
東からの「貿易風」「極東風」
が吹いたり、
海岸付近で日中と夜間で風向が逆転する「海陸風」、
山と谷の間で日中と夜間で風向が逆転する「山谷風」、
といったものがあったりと、
実際は、かなり複雑なようです。

東風に春の季節感を味わえる菅原道真は、
本当に風流な人だったのでしょうね。


作品名:唐金朝顔蓋置
作者:金谷宗林
価格:20,000円
備考:桐箱入

唐金朝顔蓋置
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、朝顔について説明しようと思います。

世界的に見ても、
これほど形態が多種多様に変化した園芸植物は他にないそうです。
ほとんどの変異は江戸時代に生まれたもので、
変異の著しいものには種子を作る事ができないものもあるようです。

多様な遺伝子変異を持つ朝顔は、
早くから遺伝学研究の対象となり、遺伝子配列が知られていたそうです。
現在も遺伝学の研究材料として用いられているとか。


■朝顔ブーム
江戸時代、二度の朝顔ブームが起きるそうです。

第一次ブームは、文化文政期みたいです。
このころから木版多色刷りの朝顔図譜が刊行され始めるそうです。

第二次ブームの嘉永安政期では、
より複雑な突然変異体を含む図譜が多数出版されたようです。

文化14年(1817)の四時庵形影著『あさかほ叢』では、
朝顔の詳細な図柄が、丁寧に描かれており、
横に、特徴などが記載されているみたいです。

江戸時代のブームで作られた多種多様な朝顔を、
現在では「変化朝顔」と呼ぶそうで、
特に珍しく美しいものは、オモトや菊などと同様、
非常な高値で取り引きされたようです。

変化朝顔には、以下のものがあるようです。
 獅子咲牡丹
 車咲牡丹
 采咲牡丹
 出物・正木


■獅子咲牡丹
変化朝顔のうち、ここでは「獅子咲牡丹」についてのみ説明しようと思います。

原始的な獅子は、ろうと状の花の外に髭状の附属弁がついた、
袴獅子や乱獅子とよばれるものだったようです。

その後、風鈴と呼ばれる、
筒状の花弁の先端が折り返した花弁のものが現れ、
この芸を見せるものが主に鑑賞されるようになるみたいです。

獅子咲には花弁が風鈴にならない、
髭とよばれる花弁が混じることが多いようです。
ほとんど混じらないものを総風鈴と呼ぶそうで、
芸の程度が高いのだとか。

現在、葉が強く抱えた掬水爪龍葉や握爪龍葉・玉龍葉のものが多く残っているようです。
ちなみに、掬水爪龍葉(きくすいつめりゅうば)というのは、
手のひらで水をすくう形や龍の爪に例えたものだそうです。


■肥後朝顔
熊本藩では武士たちによる園芸が盛んだったようで、
朝顔も花菖蒲や菊・芍薬・椿・山茶花などと共に愛好されたのだとか。

この花は変化朝顔とは違い、本来の朝顔の花型を保ち、大輪で、
これを「肥後朝顔」と呼ぶそうで、
これが後世の大輪朝顔の祖先の一つになったのだとか。

これら熊本の六種類の園芸植物(朝顔・花菖蒲・菊・芍薬・椿・山茶)は、
現在「肥後六花」と総称され、熊本に伝えられているみたいです。

肥後六花という言葉は、
昭和30年代から40年代にかけて自然発生的に生まれ定着したもののようです。

肥後六花の共通の特徴としては、
 花芯(雄蕊)が見事なこと
 花形が一重一文字咲きであること
 花色の純粋なこと
の三点があるのだとか。

さて「肥後朝顔」の話に戻ると、
中輪咲きで、花径は10-15センチメートル、
六曜〜九曜の合弁漏斗形。
花色は紅・桃・青・白・海老茶・紫などがあり、
いずれも純色で覆輪はないそうです。

小鉢本蔓作り(行儀作り)という独特の仕立て方をするようです。
本焼の12cm小鉢に植え、本蔓を摘芯せずに鉢の3倍ほどの高さに止め、
かつ第一花を草丈の4分の1の位置に咲かせるのだとか。
このような、鉢と茎葉と花の釣りあい、品位を重視するみたいです。

熊本では1899年に凉花会が結成され、
種子を門外不出として育成・保存に努めたそうです。
第二次世界大戦や1953年の水害ののち、
徳永据子が守り続けていた種子から再興したみたいです。


■明治以降の朝顔
明治時代以降も変化朝顔は発展し、
「東京朝顔研究会」などの愛好会が生まれ、もてはやされたようです。

この頃にはあまりな多様性よりも花型の洗練が追求され、
対象となる花型が絞られたのだとか。

やがて花型の変化ではなく、花径の大きさを追求する「大輪朝顔」が発展し始め、
戦後は大輪朝顔が主流を占めるようになるのだとか。
中には、直径20cm以上にもなる花を咲かせることのできる品種も現れたそうです。


■幻の朝顔
江戸時代に作られたとされる「黄色の朝顔」と「黒色の朝顔」は、
再現が度々試みられているが、現在、完璧な再現に至っていないそうです。
このため「黄色の朝顔」「黒色の朝顔」は、「幻の朝顔」と呼ばれるのだとか。


■日本以外の品種改良
高温を好む植物で短日性のため、
イギリス等の高緯度地域での栽培は難しく、
欧米ではあまり品種もないのだとか。

そんな中、庭園用の多花性品種として、
鮮紅色中輪の「スカーレット・オハラ」などが作出されている。

なお近縁種のマルバアサガオは比較的早くから欧米で栽培され、
花色の変異も色々見られるのだとか。
「ヘブンリー・ブルー」などのソライロアサガオは近縁の別種みたいです。


作品名:唐金ホヤ香炉
価格:3,000円
備考:紙箱入

唐金ホヤ香炉
※画像を押すと拡大できます。
火舎(火屋・穂屋)は、
香炉・手焙・火入などの上におおう蓋のことだそうです、

火舎(ほや)は、火舎(かじゃ)とも読むようで、
元々、浅い円筒形の胴の上端に大きく外反する鍔状の縁を持つ容器に
獣脚をつけた火鉢のことを言ったみたいです。
正倉院の大理石製の本体に五匹の金銅製獅子脚を持つものなどがその例なのだとか。

小型の青銅製鋳造品で透しのある蓋を持つ火舎は、
仏教の供養具の香炉として後世までつくられたようです。

三彩釉の火舎は8世紀、
瓦質土器の火舎は平安・鎌倉時代にも多く用いられたようで、
大型のものは「火鉢」、小型製品は「香炉」として用いられたみたいです。

仏前に焼香するための香炉は、その形式や用途から幾種類かに分かれ、
密教で主として用いられるのが火舎香炉なのだとか。

その形式は鍔形の縁をつけた浅い目の火炉の下に三脚を備えたもので、
頂上に宝珠形のつまみをつけた香煙を出す孔饅頭形の蓋をかぶせたものみたいです。

この三脚つきの火炉の形は、中国の唐時代には流行していたそうで、
わが国でもその伝来は早かったようで、
法隆寺の玉虫厨子の絵(飛鳥時代)にも描かれているのだとか。


■国宝『玉虫厨子』
玉虫厨子(たまむしのずし)は、
飛鳥時代、推古天皇が朝夕拝む、念持仏として造像したものだそうです。

「厨子」とは、仏像などの礼拝対象を納めて屋内に安置する、屋根付きの工作物のことで、
実際の仏堂建築の外観を模した造りになっているのだとか。

747年に書かれた『法隆寺資材帳』には、金堂に「宮殿像二具」があり、
そのうちの一つが、玉虫厨子とされているようです。

香炉(三脚つきの火炉)は、須弥座正面(舎利供養図)の中心に描かれているようです。

『玉虫厨子』須弥座正面の図について、舎利供養説のほか、
・佛舎利供養説
・宮殿部本尊に対する供養説
・焚香供養説
・讃仏供養説
・舎利讃歎説
・仏国土幻想説
・舎利化生説
などが議論されているみたいです。

この須弥座正面の図は、蓮華・飛天・香炉・僧侶・獅子や、
竹を含む植物・岩場そして雲気などで構成され、
構図は、シンメトリーとなっているようです。

絵画は朱を主体として、黄・緑を含むわずか三色で描かれているのだとか。
技法については、漆絵説と顔料を荏胡麻油で溶いた密陀絵とする説、
二つの技法を併用しているとする説があるそうですが、現在は、併用説が有力となのだとか。


■茶道でのホヤ蓋置
茶道のホヤ蓋置は、火舎のついた小さな香炉を蓋置に見立てたもので、
七種蓋置のうち、最も格の高いものとして扱われるようです。

ホヤ蓋置の扱いは、釜の蓋を置く前に、
蓋置の蓋を開けひっくり返し、上部を平らにするなど、
少々特殊みたいですので、詳細は省きますが、
主に長板や台子で総飾りをするときに用いるようです。

小西酒造の『凌雲帳 入門之栞  地之巻』の穗屋(ほや)に、
「用ふる毎に左掌へのせ、蓋を裏返して重ねて用ひ、
用ひ終れば同樣にして一々蓋をなす。」
とあるようです。


作品名:かがり火蓋置
価格:3,000円
備考:紙箱入

かがり火蓋置
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ここでは、たき火と篝火(かがりび)の違いから説明しようかと思います。

たき火は、火を使って暖を取ったり、煮炊きや照明に使うようです。
地面などに直接燃えるものを置き、火をつけるやり方で、
とても原始的です。

その後、日本の囲炉裏、モンゴルのパオ、
インディアンのテントなどのように、
暖をとって煮炊きして照明にする形態へと発展していったみたいです。

これを「様式の変化」とすると、
篝火は「利用方法の変化」といったことになるようです。

たき火の場合、ずっと完全燃焼しているのはむしろ都合が悪いのですが、
篝火のように、火を照明にだけ使用する場合、常に燃え続ける必要があります。

また、わざわざ上にあげて照明として利用したのは、
照明だけが目的なら高いところに置いたほうが良いですし、
昔は、燃えないで地面から持ち上げて、
薪を燃やすことが出来るのは石と鉄素材だけだったからなのだとか。


■紫式部著『源氏物語』より
篝火は、『源氏物語』第二十七帖の巻名にもなっているそうです。

巻名は、光源氏と玉鬘(たまかずら)が交わした贈答歌
「篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬほのほなりけれ」
および
「行く方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば」
に因むのだとか。

光源氏、36歳の七月初旬、
玉鬘のもとを訪れた光源氏は、
琴を枕にして彼女と寄り添う。
そして己の恋情を庭前に焚かせた篝火に例え、
歌を詠むそうです。

「篝火にたちそふ恋の煙こそ
 世には絶えせぬほのほなりけれ」

 篝火とともに立ち上る恋の煙は
 永遠に消えることのないわたしの思いなのです。

第二十五帖 蛍では、
光源氏が、兵部卿宮に蛍を放って玉鬘の姿を見せるシーンがあるそうです。

 宮の長いお言葉に対して返辞がしにくい気がして、
 玉鬘が躊躇している時、
 光源氏はそばへ来て薄物の几帳の垂たれを一枚だけ上へ上げたかと思うと、
 蝋の燭を、だれかが差し出したかと思うような光が、
 あたりを照らした。玉鬘は驚いていた。

 夕方から用意して蛍を薄様の紙へたくさん包ませておいて、
 今まで隠していたのを、
 さりげなしに几帳を引き繕うふうをして、
 にわかに袖から出したのである。

 たちまちに異常な光がかたわらに湧いた驚きに、
 扇で顔を隠す玉鬘の姿が美しかった。

 強い明りがさしたならば宮も中をおのぞきになるであろう、
 ただ自分の娘であるから美貌であろうと、
 想像をしておいでになるだけで、
 実質のこれほどすぐれた人とも認識しておいでにならないであろう。

 好色なお心を遣る瀬ないものにして見せようと光源氏が計ったことである。
 実子の姫君であったなら、
 こんな物狂わしい計らいはしないであろうと思われる。

光源氏はそっとそのまま帰るのですが、
宮は、この光源氏の策にハマり、玉鬘に対し、
 「鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに
 人の消つには消ゆるものかは」
と詠います。
玉鬘は、
「声はせで身をのみ焦がす蛍こそ
  言ふよりまさる思ひなるらめ」
とさりげなく答え、奥の方へ入ってしまいます。

ほのかな光を生み出す、夜の篝火と蛍。
うっすらと見える顔が、恋心をいだかせ、
静かに歌を交わす二人。

篝火は、どこか懐かしく、
そしてロマンチックな情景が、
似合っている気がします。


作品名:唐金突羽根蓋置
作者:金谷浄雲
備考:桐箱入

唐金突羽根蓋置
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ここで言う、突羽根(つくばね)というのは、
本州、四国、九州の山野などに自生する、
ビャクダン科の落葉低木の果実のことだそうです。

果実の先端には花の後に苞が残り、
羽根突きの羽子(はご)に似ているのだとか。

その形から、正月料理に使われるそうで、
秋に実った果実を塩漬けや酢漬けにしておき、
正月の椀盛やおせちに使用するみたいです。

突羽根の花は、淡紅紫色で100〜200枚もある菊咲き(段咲き)だそうです。
京都では、4月下旬に咲くようです。

ツガやモミなどに半寄生し高さは1m〜2mくらいで、雌雄異株みたいです。


作品名:萩一葉蓋置
作者:田原陶兵衛(13代)
価格:20,000円
備考:桐箱入

萩一葉蓋置
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ここでは、江岑宗左著『江岑夏書』から、エピソードを2つ紹介しようかと思います。


■エピソード1:いろいろな蓋置について
青磁の蓋置で透かしがあるものを「夜学の蓋置」というそうです。
中国では、机に灯火を置く道具のことだとか。

「五徳」の蓋置は鉄製で、作者は開山という人だと伝わっているようです。
唐銅の「サザエ」「蟹」「火舎香炉」の蓋置には、大事な扱いがあるみたいです。
その他にもいろいろな蓋置があるとか。

竹の蓋置は、利休がはじめて作ったそうです。


■エピソード2:「節なし」と「節あり」の竹蓋置

利休が竹の根元で「節なし」と「節あり」の二つの蓋置を切って、
少庵道安に見せたところ、 少庵は「節なし」を取り、
道安は「節あり」を取ったそうです。

利休は「節なし」の方が良いと言ったとか。
その蓋置は、少庵から宗旦に渡り、
宗旦から前田利常(備前守)へ渡ったそうです。

前田利常は、ことのほか秘蔵したようです。

この話は、久須見疎安著『茶話指月集』にもあるとか。

ちなみに、前田利常は、前田利家の四男だそうです。


■竹蓋置の補足
竹蓋置は、竹を逆竹に切って節に小さな空気抜の穴をあけた蓋置で、
利休が最初に茶席で使い始めたようです。

元々、武野紹鴎が節合一寸三分に切って、
面桶の建水とともに水屋に使っていたものを、
利休が一寸八分に改めて、茶席に使用したのだとか。

もとは青竹を切って、一回ごとに使い捨てたそうで、
このことから、竹蓋置を「引切(ひききり)」とも言うようです。


■夜学蓋置の補足
夜学蓋置(やがくふたおき)は、甕形の四方に火灯窓のような、
大小の透しがある形の蓋置だそうです。

夜に学問をする際、机上を照らす灯明の火皿の台を転用したものだとか。

『茶之湯六宗匠伝記』に
「唐物の蓋置は、古の物、かねの物、
共におしなべて総名を夜学のふた置と申ならはし候、
其の子細は、夜唐にては学問をする時分に、
此ふた置を置、かわらけにあぶらを入、
とうしんをたふと入、火をとぼし、
卓の上に置、何にても書物を見るために、
夜学の蓋置と云」
とあるようです。


作品名:七種蓋置(色変わり)
作者:加藤五陶
備考:紙箱入

七種蓋置(色変わり)
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昔の人は、七種蓋置を以下の短歌で覚えたそうです。

「かにさざえ 一閑人に 穂屋香炉
 三つ人形に 三つ葉かくれが」

ここで言う「かくれが」というのは、五徳の別称だとか。

七種蓋置は、運び点前には用いない方がよいそうで、
棚物を使用する場合にふさわしいものみたいです。

この棚物は、小棚や台子皆具の中に入れてもよいのだとか。

以下、穂屋香炉の扱いについてのみ説明しようかと思います。


■穂屋香炉
穂屋香炉は、火屋、又は、火舎とも書くようです。

穂屋香炉の蓋置は、通常、唐銅製が多く、
古くは香炉の蓋置と呼ばれたそうです。
香炉の応用ということで、必ず、共蓋の火舎がついているみたいです。

台子・長板の総荘り以外には用いない方がよいようで、
柄杓をこの上に引くことはしないとのこと。

つめが奇数の場合は、一つを前に、
偶数の場合は二つを前にして荘るそうです。

釜の蓋を載せるときは、穂屋の蓋を開けて重ねるようです。

蓋の開け方は、和とじの本をあける要領で、左から右へ返し、
閉める場合は、この反対に右から左へ返すそうです。

濃茶では、釜の蓋を取る直前に穂屋の蓋を開け、
釜の蓋を閉めたら、すぐに穂屋の蓋も閉めるみたいです。

薄茶では、建水から穂屋香炉を取りだし、
すぐに蓋を開けて、地板に置き、
終わりも拝見を所望されてから、蓋を返して、
もとの形にするのだとか。


作品名:竹蓋置一双
(柳生の竹を以って)
作者:柳生紹尚(前大徳)
価格:10,000円
備考:桐箱入

竹蓋置一双
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竹の蓋置は、使い勝手が良いそうで、陶磁器でも竹の節を写しているそうです。
木米・保全・仁阿弥等の名工を始め、国焼でも多くつくられたのだとか。

さて、ここでは、竹の蓋置について説明しようかと思います。

○青竹
「引切(ひききり)」とも言い、武野紹鴎が節合一寸三分(約3.9cm)に切って、
面桶の建水とともに水屋に用いたのを、利休が一寸八分(約5.4cm)に改めて、
小座敷にも使用したそうです。

のちに、高さ一寸八分として、節を上いっぱいに切ったものを少庵に、
節を中程に切ったものを道安に与えたことから、
節の位置で風炉と炉の区別ができたみたいです。

「引切」の名は、のこぎりで引き切ったままの意味のようで、
青竹の清々しさを尊ぶのだとか。
そのため、青竹の蓋置は、一回限りの使い捨てが原則のようです。

寸法は釜の蓋に合わせるべきだそうですが、
大体、利休好のそれに従っているみたいです。

引切は、逆竹に切るのが約束だそうです。
そうして、節に小さな空気抜きの穴を開けておくようです。
穴を開けないと、釜の蓋裏に蓋置が密着することがあるからだとか。

穴は無造作に叩き開けた方が面白いそうですが、
後には、三角とか星型にも細工するようになったみたいです。


○白竹
一回限り使い捨てるべきを、師家の手がけたものを懐かしむあまり、
油抜きして花押などを乞い、後日、再び思い出に使ったり、
あるいは永久に記念したところから、
転じて、白竹の蓋置が出来たそうです。
もちろん、炉・風炉一双入りなども作られるようになったみたいです。

白竹の蓋置には、花押ないし、宗匠家の手択があることを望むのだとか。
多くは添書で、ときに、彫り込んであることもあるようです。


○変わり竹
二つ節・三つ節・布袋竹・亀甲竹・四方竹・絞竹・
実竹・半枯竹・猪の目竹、など
珍しい竹で作られた蓋置だそうです。

例えば、布袋竹(ほていちく)は、
稈の基部から枝下あたりまでの節が斜めになって、
節間が不規則に短く詰まって膨らんでいるようで、
それが、七福神の布袋の膨らんだ腹を連想させることから、
布袋竹と名付けられたみたいです。

節の斜めになった部分が握りやすく、乾燥材は折れにくいため、
釣り竿として使われるのだとか。


○その他
金森宗和好で、煤竹を節いっぱいに切り、
堅に五分幅程の胡麻竹をついで、上下を鎹(かすがい)で止め、
内部を黒漆にしたものを宗和竹と言っているそうです。

同じく金森宗和好に、破れ車があるそうで、
これは、下部を斜めに切り廻してあるのだとか。

裏千家十代・認得斎好に、白竹で蔦(つた)の蒔絵があるようで、
裏千家八代・又玄斎一燈好は、菊置上の蓋置なのだとか。


作品名:黄交趾七宝蓋置
作者:光山
備考:木箱入

黄交趾七宝蓋置
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七宝文様の「七宝」とは仏法の「七つの宝」で富貴を表し、
かつ無限に連鎖する金輪の交叉から成る文様のため、
「無限の子孫繁栄」などを表のだそうです。

同じ大きさの円の円周を四分の一ずつ重ねて繋いでいく文様で、
有職文では「輪違い」と呼ばれるとか。
また、文様の中に花菱を入れたりと、
ほかの文様と組み合わせることも多いみたいです。


■七宝とは
七宝は、本来、仏法において貴重とされる七種の宝のことだそうです。
無量寿経においては、
「金、銀、瑠璃、玻璃、シャコ、珊瑚、瑪瑙」、
法華経においては、
「金、銀、瑪瑙、瑠璃、シャコ、真珠、マイカイ」を指すみたいです。
以下、七宝を一つずつ見ていこうかと思います。


■金(きん)
精錬の必要がない単体金属で、鉄などよりも早く、
人類が最初期から利用していたようです。
産出は非常に限られたいたため、
有史以前から貴重な金属(貴金属)だったみたいです。

金の長い年月を経ても変化しないという性質は神秘性を産み、
不老不死との関連としても研究されたとか。

占星術において、中心に点が描かれた円の記号は、
太陽を表すと同時に金も表したようです。
また、エジプトのヒエログリフや初期の漢字においても使われたそうです。

金は歴史とともに利用価値の高さゆえ、豊かさと富の象徴となり、
金そのものの所有や鉱山の所有、採掘の権利などが、
しばしば個人間から国家間の規模にいたるまでの、
争奪や係争の要因ともなったようです。

展性・延性に優れ、最も薄くのばすことができる金属で、
1gで約3000mの線に伸ばせるみたいです。


■銀(ぎん)
室温における電気伝導率と熱伝導率・可視光線の反射率が、
いずれも金属中で最大なため、美しい金属光沢を有し、
大和言葉では「しろがね/しろかね」と呼ばれたそうです。

延性および展性に富み、その性質は金に次ぎ、
1gの銀は約2200mの線に伸ばすことが可能なのだとか。

銀は、美しい白い光沢を放つことから、
占星術や錬金術などの神秘主義哲学では月と関連づけられ、
銀は男性を、金は女性を意味していたそうです。

ある時を境に位置が逆転し、
銀は月や女性原理などを象徴する物となり、
金は太陽や男性原理などを象徴する物となったのだとか。

各種競技・コンクール等で、
2位の場合に送られるメダル等に使われていることから、
「二位」という象徴的意味に用いたり、
諺で「雄弁は銀、沈黙は金」と、
金に比べて一段劣ることの象徴にもされているようです。


■瑠璃/琉璃(るり)
瑠璃は、ラピスラズリの和名で、
深い青色から藍色の宝石だそうです。
しばしば黄鉄鉱の粒を含んで夜空の様な輝きを持つとか。

ラピスラズリは世界で最初にパワーストーンとして認識された石と言われ、
「最強の聖石」とも呼ばれるようです。
地面の属性を持ち、第6チャクラ(額)と、
第7チャクラ(頭部)を活性化させるみたいです。

パワーストーンの効能としては、
人間同士のトラブルなどコミュニケーションの改善、
頭脳を明晰化させる、強運を導くなどがあると伝えられ、
頭痛・喉の痛みにも効能があるとかないとか。

これらの言い伝えに科学的根拠はないようです。

石言葉は「尊厳・崇高」だそうです。


■玻璃(はり)
水晶(すいしょう)のことで、
花崗岩質ペグマタイト・熱水鉱床などに産出するようです。

水晶は、代表的な圧電体で、圧力が加わると電気が発生するそうです。

このため、初期のレコードプレーヤーのピックアップに使われたり、
現在は、水晶発振器として最も活用されているみたいです。
時計が単に「クォーツ」(水晶の英名)としばしば呼ばれるのは、
水晶発振器を利用した時計が最も多いからなのだとか。

この原理を利用して、水晶微量天秤(QCM)と呼ばれる
微量質量を正確に測定するための装置の研究が行われているようです。

古くから水晶は、神や仏の代わりにされてきましたそうで、
その御神体が水晶、という神社も数多いみたいです。


■シャコ
シャコは、白い珊瑚または美しい貝殻を言うようです。

ザルガイ科シャコガイ亜科に属する二枚貝の総称で、
貝殻は扇形で、太い五本の放射肋が波状に湾曲し、
光沢のある純白色で厚いそうです。

最も大型のオオシャコガイは、殻長2m近くあり、
重量200kgを超えることがあるとか。


■珊瑚(さんご)
元来、珊瑚と呼ばれたのは宝石として使われるサンゴだそうで、
深海に生息し、樹枝状の群体を作り、
骨格は石灰質で、緻密で固い骨格を成しているようです。

アカサンゴ・モモイロサンゴ・シロサンゴ・ミッドサンゴの四種が
「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」
によりワシントン条約附属書V類に掲載され、
2008年7月1日より国際輸出の際は、
輸出国管理当局が発行する輸出許可書、
または原産地証明書等が必要とされるそうです。

珊瑚の美しく豊かな色合いは神秘的であり、
昔から安産・魔除け・天災・毒物に対する御守りとして、
宝を生む・幸福が集まる・願い事が叶うなどと謂われているとか。

特に珊瑚やヒスイは、
中国では「不老不死」「開運」のアイテムとして珍重されているそうです。

日本産珊瑚のうち、日本、中国、台湾で最も人気があるのはアカサンゴで、
そのうちでも深みのある赤を市場では血赤珊瑚と呼んで、最高ランクとされ、
台湾や中国の富裕層に人気が高く、二国の発展に伴い値段の高騰が激しいそうです。


■瑪瑙(めのう)
瑪瑙は、縞状の玉髄の一種で、オパール・石英・玉髄が、
火成岩の空洞中に層状に沈殿してできた、鉱物の変種みたいです。
瑪瑙の名前は、石の外観が馬の脳に似ているためつけられたようです。

ただ、この瑪瑙、仏法では、エメラルドを指すという説もあるそうです。

エメラルドは、緑柱石の一種で、強い緑を帯びた宝石みたいです。
和名は、翠玉(すいぎょく)・緑玉(りょくぎょく)で、
世界の4大宝石にも数えられているそうです。

ギリシアやローマでは、占星術の影響でヴィーナスに捧げられていたり、
ユダヤの伝説では、ソロモン王が神から授けられた宝石の中に、
エメラルドが入っていたようです。

サンスクリットの医術では、エメラルドは解毒のほか、
下剤・消化を助ける等の効果があるとされていたみたいです。

ペルシアやアラビアの聖者たちも、解毒のほか、
癲癇を治す、肝臓病やらい病に効くなど万能薬扱いしていたそうです。


■真珠(しんじゅ)
貝から採れる宝石の一種で、天然では産出が稀なのだとか。
加工が容易で、「月のしずく」「人魚の涙」とも呼ばれているほど、
美しい光沢に富むため、世界各地で古くから宝石として珍重されてきたようです。

その希少性から薬としての効能を期待し、
服用される例がしばしば見られるみたいです。

日本は古来から、真珠の産地として有名だったそうで、
『日本書紀』『古事記』『万葉集』に、真珠の記述が見られるのだとか。
『魏志倭人伝』にも邪馬台国の台与が、
曹魏に白珠(真珠)5000を送ったことが記されているようです。


■マイカイ
詳細は不明ですが、中国に産する美しい赤色の石だそうです。


作品名:沈金松竹梅蓋置
作者:大西清右ェ門
備考:桐箱入

沈金松竹梅蓋置
※画像を押すと拡大できます。
沈金(ちんきん)は、漆面に沈金ノミ(刀)で文様彫り込み、
その彫目に漆を摺り込んで金箔を押し込んで行く技法だそうです。
彫ったままで、何も埋め込まない場合は、
沈金とは言わずに「素彫り」と言うみたいです。

微妙なノミの角度と彫りの深さが、発色の具合を決定するようで、
いったん漆面に沈金ノミを立てたら、消すことはできない、
運刀の一彫り一彫りが緊張の連続なのだとか。

かつては中国・タイ・インドなどでも行われたようですが、
現代では日本で最も盛んに行われているみたいで、
特に輪島塗で、よく使われる技法だそうです。

金箔・銀箔・金粉などの代わりに、顔料を埋め込む場合も有るとか。

沈金は、中国から伝わった技術だそうで、
室町時代以降に相当数作られ、
現在も、手箱その他が、何点も残っているみたいです。

古くから東北や北陸地方で盛んに行われていたようですが、
北陸では、沈金ノミを向こうへ突いて彫るのに対し、
東北では、手前に引いて使い、
数本の平行線を引ける刀なども工夫しているとか。

東北では、秋田の川連(かわずら)、北陸では、輪島や山中などで行われ、
棚・屏風などの大きなものから、小さな盆に至るまで、
各種のものに沈金を施しているそうです。


作品名:南鐐七宝蓋置
作者:木村清雲
備考:桐箱入

南鐐七宝蓋置
※画像を押すと拡大できます。
南鐐(なんりょう)は、純度の高い良質な銀のことだそうで、
美しい銀を意味する場合もあるようです。

江戸時代に流通した銀貨「南鐐二朱銀」も、
通称「南鐐」と呼ぶみたいです。
「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、
良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味だそうです。
南鐐二朱銀の純度は98%と、当時としては極めて高いものだったとか。

金工師木村清五郎は、1992年、二代目木村清五郎を襲名、
南鐐製品では清雲という号で襲名したようです。


作品名:ボンボリ蓋置
備考:紙箱入

ボンボリ蓋置
※画像を押すと拡大できます。
「ぼんぼり」は「ほんのり」の語の転訛だそうで、
灯火を紙や布の火袋(ほぶくろ)で覆い、
「火影のほのかにすいて定かならぬ」
をいったみたいです。

「ぼんぼり」は、はじめ広く灯火・茶炉(さろ)などに取りつけた、
「覆い」のことだったようです。

次第に、小型の行灯(あんどん)を言うようになり、
その後、紙・布などをはった火袋を取りつけた、
手燭や燭台を呼ぶようになったのだとか。

手燭や燭台は、ろうそくを用いる灯火具で、
普通は、灯台のように裸火を灯したようですが、
その炎が風のためにゆり動かされ、
吹き消されたりするのを防ぎ、かつ失火を避けるために、
行灯のように、火袋を取りつけた「ぼんぼり」が考案されたそうです。


■上巳の節句のはじまり
古来、中国では「3月最初の巳(み)の日」に、
水辺で禊(みそぎ)を行い、
心身を清める「上巳の祓い」という風習があったようです。

それが次第に、水辺で遊び、宴を行うようになったみたいです。

書聖・王義之が蘭亭で催した曲水宴が有名だそうで、
名士が集い、水流に盃を浮かべて詩歌を詠んだのだとか。
この時、記された『蘭亭序』は、書の最高峰として知られるようです。

その後、魏の時代には「3月3日」に行われるようになり、
日本には、奈良・平安時代になってから
「3月3日の曲水宴」として遣唐使が日本に伝えたみたいです。

『日本書紀』には、
「三月上巳幸後苑曲水宴」
とあるようで、
顕宗天皇が、485年3月に、
宮廷の儀式として曲水の宴を行ったみたいです。

そして、平安時代「上巳の節句」の日に、
人々は野山に出て薬草を摘み、
その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願ったそうです。


■上巳の節句と桃の節句
3月3日に行われるひな祭りの風習は、
曲水の宴から生まれたものだそうです。

もともと人形を流して厄を祓っていたのが、
ひひな遊び(ひいな遊び)と自然に結びつき、
今の座り雛の形に変化したようです。

江戸幕府は「五節句」を制定し、
3月3日を「桃の節句」と定めると、
5月5日の「端午の節句」が男の子の節句であるのに対し、
3月3日は女の子の節句として定着して行くそうです。

明治時代になると、旧来の節句行事を廃止して、
新しい祝祭日を設けるみたいです。

節句行事は一時衰えるようですが、
長い間人々の生活に根を下ろした行事は、
簡単になくなるものではなく、やがて復活するそうです。

「上巳の節句」を「桃の節句」というのは、
上巳の節句が、桃の時期だからということ以外に、
桃は不老長寿を与える植物とされていたようで、
百歳(ももとせ)まで長生きできるよう、
桃の節句には、桃花酒を飲む風習もあったからみたいです。


■桃の節句とひな祭り
室町時代末頃から始まった3月3日のひな祭りは、
江戸時代に華麗な女の子のための行事となって行くみたいです。

1629年、京都の御所で盛大なひな祭りが行われたのをきっかけに、
幕府や大奥でもひな祭りを行うようになり、
やがて武士階級から町人へ、江戸から地方へと広まって行くようです。

江戸時代中頃になると、
女の子の誕生を祝って、初節句にひな人形を飾る風習も生まれ、
豪華なものも作られるようになっていったそうです。

日本橋十軒店や浅草茅町など、江戸市中に雛市が立ち並び、
各所で大変にぎわったみたいです。

『御触書宝暦集成』十五では、
「雛は八寸以下、雛諸道具は蒔絵は不可」
として、華美になりすぎるひな人形を戒める、
幕府のおふれまで出されたようです。

しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる、
精巧を極めた小さな雛人形が流行するそうです。

江戸時代後期には「有職雛」と呼ばれる、
宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、
さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れたみたいです。

18世紀終わり頃より囃子人形が現れ、
幕末までには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案されたようです。

雛飾りは嫁入り道具や台所の再現、
内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、
御殿や壇飾りなど、急速にセットが増え、
スケールも大きくなっていったそうです。


■雛人形の飾り方
壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがあるようです。

かつての日本では「左」が上の位であったそうで、
人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が、
一番の上位で天皇から見ての左側(向かって右)にいるのだとか。

飾り物の「左近の桜・右近の橘」での桜は、天皇の左側になり、
これは宮中の紫宸殿の敷地に、実際に植えてある樹木の並びだそうです。

明治天皇の時代までは左が高位という伝統があったため、
天皇である帝は左に立ったようです。

しかし、明治の文明開化によって日本も西洋化し、
その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立ったそうです。

以降、皇室の伝統として、昭和天皇は、何時も右に立ち、
香淳皇后が左に並んだみたいです。

男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く、
それが一般的になり、結婚式の新郎新婦もそれに倣っているとか。

社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、
男雛を向かって左に置くのを「現代式」、
右に置くのを「古式」としているそうです。

飾り方にも全国各地で色々あるようですが、
多くは以下の三種の飾り方みたいです。
・御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
・御殿の内の一室を拝しての飾り方
・屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
ただ、実際には、特に飾り方に決まりごとはないとか。

七段飾りは高度経済成長期以降、
八段飾りはバブル期以降に飾られたようです。

最近では部屋の大きさに合わせたり、
雛人形を出し入れしやすいように、
段数を減らしたものが主流となっているみたいです。

祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると、
結婚が遅れるという話は、昭和初期に作られた俗説だそうです。

「旧暦の場合、梅雨が間近であるため、
早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから」
とか、
「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、
などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」
というのが理由みたいです。


作品名:交趾松葉蓋置
作者:永泉
備考:桐箱入

交趾松葉蓋置
※画像を押すと拡大できます。
交趾焼(こうちやき)は、中国南部で生産された陶磁器の一種で、
名称は、ベトナムのコーチシナ(交趾支那)と日本との貿易で、
交趾船によりもたらされたことに由来するようです。


■コーチもの=珍しいもの
16世紀の中頃、80年〜85年間、盛んに貿易をしていたようで、
コーチ通いの貿易船が持ち帰る物品は「コーチもの」と言い、
世界各国の珍しいものを持ち帰ってきたそうです。

そのため「コーチもの」というのは「珍しいもの」、
という意味合いを持つのだとか。

例えば、1728年に日本に来た動物の「象」は、
「コーチから来た」ことになっているようですが、
当時ベトナムにはいなかった生き物だそうです。

また、香合には「カワチ」「河内」「交趾」、
という三つの呼び方があったのですが、
象のインパクトが強かったのか、
象の上陸後「交趾」に統一されて行くみたいです。

従来までは、ベトナムから入ってきた焼き物と認知されてきたのですが、
近年の研究でこの可能性が再考され始めているそうです。

中国福建省平和県田杭の田んぼの下から、多数の交趾焼のかけらと
日本の寛永通宝が出土したようで、
実は、中国原産だったのではないかとのことです。


■茶の湯との関わり
主に茶の湯の世界で珍重され、香合がとくに尊ばれるそうです。
江戸時代に作成された『形物香合相撲』番付表では、
交趾の香合がその上位を占めるみたいです。

茶の湯で珍重されるという事で、
京都において楽家や永楽善五郎がその写しものを制作した事から、
九谷焼や日本の京焼でもその写しが作られることとなり、
その制作は全国で行われたようです。


作品名:仁清蓋置
作者:宗楽
価格:2,000円
備考:紙箱入

仁清蓋置
※画像を押すと拡大できます。
野々村仁清は、生まれ育った丹波から出て、
粟田口(粟田焼)附近で修業を積み、
茶入づくりの本場・瀬戸でも修行を積んだそうです。

その後、再び粟田口に戻り、焼物づくりに励んだみたいです。
その頃、茶人・金森宗和と出会ったようです。

仁清は、1647年頃、仁和寺門前で御室窯を開き、
茶器に「仁清」の印を捺したそうです。

これを御室焼、または仁清焼というみたいです。


■金森宗和との関係
金森宗和は、御室焼の一番の推進者だそうです。

加賀の地で宗和流の茶道を普及させた際、
多くの御室焼を加賀藩に取り入れたみたいで、
『加賀前田家表御納戸御道具目録帳』や
『本多家古文書』などには、
藩主前田家や、家老の本多家などに、
多数伝世したことが記録されているようです。


■仁和寺の再建と御室窯の推進
仁和寺の再建費用は、徳川幕府が出したそうです。
すると、御室窯の築窯費用についても、
幕府が負担したと考えられるみたいです。

仁和寺造営奉行の木下利当は、
御室窯開窯から2年後、慶安2年(1649年)8月4日、
鹿苑寺の鳳林承章、南禅寺金地院の最岳元良、
竜安寺の偏易の3人に、
清衛門が水指・皿・茶碗などを、
轆轤で挽くところを実見させたようです。

また、『隔冥記』によると、
大和新庄の領主で三十三間堂修理奉行・桑山一玄は、
御室焼をいろいろと宣伝していたみたいです。


■年代別に見る御室窯の製品
御室窯の製品は、大きく三つに分かれるみたいです。

@1647年(開窯)〜1656年(金森宗和の没年)
A1656年頃〜1675年(丸亀藩が江戸上屋敷を造営)
B1675年頃〜1681年(仁清の没年)

@は、宗和好みの茶器を作成した時期のようです。
宗和好みの茶器というのは、
・轆轤挽きされた端正な形状
・絵や文様によるテーマの表出
この頃は、割りとシンプルなものだったみたいです。

尾形乾山著『陶工必用』に
「金森宗和老人好み之茶器仁清専製之」
とあるそうです。

Aは、色絵陶器の完成をみる時期のようです。
丸亀藩二代藩主京極高豊が、
桜田久保町に新築した上屋敷の書院を装飾するため、
狩野派の絵師田中八兵衛が描いた下絵を渡して、
仁清に発注したと考えられている一連の色絵茶壷が有名だそうです。

仁清は受け取った下絵を、見事に壺の表面に再現し、
壺という三次元のキャンバスが持つ特性を、
存分に活かした立体的な作品を生み出したみたいです。

Bは、御室窯の最隆盛期で、
色絵陶器を各地に展開した時期になるようです。

『森田九右衛門日記』に、
「御室焼別替儀、釜迄無之候、
 掛花入ニしゃくはち有、
 かうろニえひ有、おし鳥・きしなと有」
とあるそうで、
この頃には、おしどりや雉の香炉が、
既に製品化されていたみたいです。


作品名:銀杏絵竹蓋置
(一双入)
備考:紙箱入

銀杏絵竹蓋置
※画像を押すと拡大できます。
竹蓋置(たけのふたおき)は、竹を逆竹に切って、
節に小さな空気抜の穴をあけた蓋置だそうで、
運び点前または小間で用いるようです。

炉・風炉の別があるみたいで
風炉用は「天節(てんぶし)」といい上端に節があり、
炉用は「中節(なかぶし)」といい節が真中よりすこし上にあるとか。
吹貫のものは時期を選ばず用いるのだとか。

ただ、利休時代、天節を風炉に、中節を炉にと、
定めた記録(逸話)はないそうです。

裏千家八代一燈より以前は、
炉・風炉での蓋置の区別はなかったみたいです。

竹蓋置は、引切(ひききり)ともいい、
当初、青竹を鋸で切ったものを一回限りの使い捨てとしたようです。
後に、使われた青竹を油抜きして花押などを乞う様な事が行われ、
転じて白竹の蓋置ができたみたいです。


作品名:青釉水玉透蓋置
作者:楽入
価格:3,000円
備考:紙箱入

青釉水玉透蓋置
※画像を押すと拡大できます。
青釉は次のような方法でつくられるそうです。

@無色釉に青顔料を5〜10%加える。
 
A無色釉に酸化コバルトを加える。
 (コバルトだけでは、わずかに紫がかった青になるそうです。)

B無色釉に酸化コバルトか燐酸コバルトを、
 亜鉛華またはアルミナとともに加える。
 (ウルトラマリンあるいは空色の釉になるようです。)

C無色釉に酸化コバルトと、
 少量の酸化マンガンとの混合物えを加える。
 (紫がかった青釉が得られるみたいです。)

D無色釉に酸化コバルトと、
 少量の酸化クロムとの混合物を加える。
 (帯緑青色釉が得られるとか。)


作品名:青釉七宝透蓋置
作者:加賀瑞山
備考:木箱入

青釉七宝透蓋置
※画像を押すと拡大できます。
七宝とはもともと仏典での用語で、
大変貴重だった七種の宝のことだそうです。

七種の宝は『無量寿経』だと
「金・銀・瑠璃・玻璃(はり)・珊瑚・めのう・しゃこ」のことを、
『法華経』だと
「玻璃・珊瑚」の代わりに「真珠・マイ瑰」のことを指すそうです。

七宝文様は、同じ大きさの円の円周を、
四分の一ずつ重ねて繋いでいく文様で、
有職文では「輪違い」と呼ばれるみたいです。

正確には、この七宝文様と、
仏教用語の「七宝」との関係については不明だそうで、
古くは「四方襷(しほうたすき)」という呼び名があって、
その「四方(しほう)」が「七宝(しっぽう)」へと変化した、
という説があるようです。

現在では、七宝の円形は円満を表し、
吉祥文様としてのイメージが定着し、
宝尽くしの一つに数えられるようになった、
縁起のよい文様なんだそうです。


作品名:色絵銀杏蓋置
作者:清閑寺窯
備考:木箱入/
箱は古いです。

色絵銀杏蓋置
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色絵は、各種の彩釉を使って上絵付けする手法で、
赤絵とも言うようです。

「有田に[色絵]はない。[赤絵]だ。」という主張があるみたいです。
絵付業者は「赤絵屋」、窯は「赤絵窯」、掘ってる場所は「赤絵町」
から来ているようです。

「赤絵」という単語の初出は『酒井田柿右衛門家文書』に
「赤絵初リ」
「1647年、喜三右衛門が[赤絵]を完成させ、はじめて長崎で売った。」
などとあるのがそうみたいです。

初代酒井田柿右衛門(喜三右衛門)の開発した「赤絵」が、
後の有田の後継技術となり、本来「色絵」の一種である「赤絵」が、
次第に「色絵」の同義語として用いられるようになったとする説もあるようです。

最近の発掘調査によると、
喜三右衛門が「赤絵」をはじめた窯は、楠木谷窯跡(泉山)の可能性が高いことや、
上絵付けの技術が1種類ではなく、
3カ所の窯場(岩谷川内山・黒牟田山・年木山)で別々に誕生したことなどが、
わかってきたようです。

喜三右衛門の「赤絵」以前に、
楠木谷窯跡では、すでに別の種類の上絵付け磁器が焼かれていたようで、
多くは緑や紫、黄色など寒色系の絵具を多用し、
文様がびっしりと描かれたものだったみたいです。

ちなみに喜三右衛門の「赤絵」は、
乳白色に近い素地に暖色系の絵具を多用し、
余白を活かした構図が特徴的なのだとか。

『酒井田柿右衛門家文書』に
「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、
世上くわっと仕候得共、
某手前ニ而出来立申色絵ニ無御座云々。」
とあるようです。

この文章から、喜三右衛門の「赤絵」が、
当時の複数の上絵付けの技術の中で、
後の有田へと伝承される主たる後継技術となった、
ということがわかるのだとか。


作品名:灰釉蓋置
作者:朝日豊斎
価格:5,000円
備考:木箱入
箱は古いです。

灰釉蓋置
※画像を押すと拡大できます。
灰釉(かいゆう/はいぐすり)は、
木々や藁の灰を原料として釉薬を作り、
それらを掛けて焼かれた陶器のことだそうです。

釉薬そのものを指して呼ぶこともあるとか。

東洋の陶磁器では最も重要視されるようです。

草木の種類によって各種の灰釉が得られるそうです。

大別して柞(いす)灰・土灰・わら灰の3系統に分かれるみたいで、
それぞれ、淡青・淡青緑・乳白色の釉薬ができるのだとか。

焼締めは釉薬をかけず、
土そのものを焼いた品だそうで、
それらに薪などの、
灰がかぶったものを灰被りと呼ぶようです。

灰釉は、この灰被りを意図的に応用したもので、
灰に長石などを混ぜて、器に掛けることにより、
水や油分から器体を保護したり、
装飾の役目も果たすのだとか。

その結果、侘びのある落ち着いた雰囲気と、
土の持つ個性を引き出してくれる作品に仕上がるようです。



作品名:蝶透蓋置
作者:田中寿宝
備考:木箱入

蝶透蓋置
※画像を押すと拡大できます。
蝶(ちょう)は、アゲハチョウ上科・
セセリチョウ上科・シャクガモドキ上科の、
3上科を指すそうで、他のチョウ目(全21上科)は、
全て蛾(が)になるそうです。

外見上最も有用な特徴は、触角の形状だそうです。

蝶の成虫の触角は細長くまっすぐ伸び、
先端が棍棒状にふくらむのだとか。

ちなみに蛾の触角はクシ状や糸状のようです。

また、昼行性の種類が多いみたいです。


■古代日本では
古代日本では 蝶はあまり愛されていなかったそうです。

和歌に蝶が唄われることはほとんどなく、
万葉集いたっては、蝶の歌が1つもないのだとか。

平将門の乱の時、都に蝶の大群が出現して
都人を恐怖させたという伝説もあるみたいです。

日本でも栃木県宇都宮市で、
盆時期の黒い蝶には仏が乗っているといい、
千葉県でも夜の蝶を仏の使いというとか。

蝶を死霊の化身とみなす地方もあり、
飛騨山脈・立山の追分地蔵堂で「生霊の市」といって、
毎年7月15日の夜に多数の蝶が飛ぶそうです。

中世以降、美女を蝶に例えたりして、好意的に、
文学作品にも登場するようになるようです。


■伝承など
世界各地に蝶が、
人の死や霊に関連する観念が見られるようです。

キリスト教では蝶は、復活の象徴とされたそうです。

ギリシャでは蝶は、魂や不死の象徴とされたとか。

美女プシュケーは愛の神エロスと結婚して、
蝶に化身したと伝えているとか。

これらは、人が死んでもその魂が蝶となって、
他の人の肉体に宿ると考えられていたためみたいです。


■通常、虫の名は、大和言葉ですが・・・
この蝶と蛾は「漢語」だそうです。
蝶や蛾もかつては、
「かはひらこ」「ひひる」「ひむし」
といった「大和言葉」で呼ばれていたようですが、
現在ではそのような名称は一般的ではないとか。


■伝説の青い蝶(実話)
1981年生まれのディビッド・マレンジャーは、
蝶が好きの少年で、6才で脳腫瘍(癌)を発症、
余命数ヶ月と宣告されたそうです。

彼の夢は、中南米の密林に住む、
伝説の青い蝶・ブルーモルフォを捕まえることだったようです。

1988年、Make-A-Wish財団は、
昆虫学者ジョージ・ブロサードに依頼、
すでに歩くこともできなかった少年ディビッドを、
メキシコへ移送し、苦闘の末、
ついに夢みていた、伝説の青い蝶を捕まえるのだとか。

帰国後、医学の常識を覆して、
彼の脳の癌は消えていたそうです。

まさに奇跡ですね。

さらに、18才のときには、
一切の癌の治療は不要となったのだとか。

2002年、彼のこの奇跡は
「THE BLUE BUTTERFLY」
という映画になり、日本など世界で公開されたそうです。

ディビッドは、その奇跡は、
青い蝶と 「希望、信念、忍耐」が起こしたものだ、
と言ったみたいです。

現在、彼は、本を執筆したり
講演をしたりしながら、病院をまわり、
病気の子供達を励まし続けているとか。



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