茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

香合ってこんなの

まず、歴史上「香合」という言葉が出るところまでを説明できれば思います。


■中国の香合
中国科学院考古研究所編『長沙馬王堆一號漢墓』には、
出土した漆塗りの小合子の一つに
「香草類植物」が入っていたという記述があるみたいです。
これが香合のはじまりなのでしょうか・・・。

長安城の興化坊で出土した金銀の合子には、
白英・紫英・朱砂・乳石・琥珀といった仙薬が入っていて、
その裏蓋には、その薬物の名称や量が丁寧に書いてあったそうです。
唐代の勅撰書物『新修本草』には、
「不老長寿を願った貴族達が服用した」と載っているとか。


■日本での香合
日本でも、904年に建立された仁和寺円堂の跡から
純金・銀・白磁・青磁といった合子が出土したとのこと。
平安・鎌倉時代の写経を埋納した塚(経塚)から出土した影青合子(いんちんごうし)は、
後に、しばしば「香合」として使われるみたいです。
その後、南北朝時代の『喫茶往来』、室町時代の『室町殿行幸御飾記』などに、
ようやく「香合」が出てきます。

茶会記での初出は、
松屋家の茶会記『松屋会記』に、
1542年「床に香炉、立布袋香合」
とあるものでだそうです。
以降、神谷宗湛著『宗湛日記』の
1593年「スミトリ ヘウタン ツイ朱ノ香合 ホリモノアリ スミノ上ニオキテ」や、
1599年「香合 今ヤキ」など、
炭道具として独立した形での香合の記述があるようです。

同じく、松屋家の茶会記『松屋会記』に、
1601年「炭斗フクヘ、桑箸、香合備前、御炭両度アリ」
とあって、「和物の焼物香合」が登場するみたいです。
寛永年間(1624年〜1645年)に入ると、
ようやく「唐物の焼物香合」が茶会記に出てくるとのこと。


■香合とは
では、ここから、香合の本題の説明に入ろうかと思います。
古くは、「唐物の塗物の香合」が大半で、
「室礼」(座敷飾り)に、香炉に付属して置かれたとか。

その後、草庵の茶室でも香炉と一対で席中に持ち出し飾られたみたいです。

この頃の香合は、稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「香合は道具中にも至て軽き物ゆへ、
利休百会にも香合の書付なし、
夫故に名物も少なし、名物は堆朱青貝に限る」
といった感じの記述があるくらい、かなり軽く扱われていたようです。


■香合の台頭
天正年間(1573年〜1592年)になると「黄瀬戸」の香合が、
慶長〜元和年間(1596年〜1624年)の頃には
「志野」「織部」「備前」「信楽」「伊賀」「唐津」
といった「和物の香合」が焼かれるようになるそうです。

前述の通り「唐物の焼物香合」は、この後年の寛永年間に出てくるみたいです。

江戸時代中期〜享保年間(〜1735年)の頃になると、
風炉には木地、塗物等の香合を使い、
「伽羅(きゃら)」「沈香(じんこう)」「白檀(びゃくだん)」
などの香木を使うようになるそうです。

また、炉には普通は陶磁器のものを使い、
「練香(ねりこう)」を使うみたいです。
炉の炭手前で灰器に濡灰を盛って使われ始める頃には、
「焼物香合+練香」という組み合わせで使うようなったとのこと。
これは、練香を塗物香合に入れると毀損の恐れがあることからこうなったそうです。

江戸時代後期の文化・文政年間(1804年〜1830年)頃になると、
蓋置などとともに小物に趣向を凝らす事が盛んになって、
「唐物」を中心に「陶磁香合」が重く扱われるようになるようです。
1855年には、唐物香合を主に編集した『形物香合相撲番付』などが登場するとか。


■形物香合相撲番付
少々『形物香合相撲番付』を細かく見ると、
「染付」:八十五種、「交趾」:六十四種、「青磁」:二十九種、「祥瑞」:十九種、
「呉須」:十六種、「宋胡禄」二種の計二百十五種の唐物の香合が選出され東西に分けられていて、
行司に「塗物香合」:三種、
頭取に「和物の焼物の代表的なもの」:七種が選ばれ、
勧進元に「呉須台牛」:一種と「紅毛」:二種、
差添に「南蛮・寧波染付」:二種
世話人の部に「その他」が入れられているみたいです。

番付トップは、西の大関「染附・辻堂(つじどう)」で、
四方箱形の上に四角錐が乗り、松葉と木の葉の二種の落葉紋が描かれたものだそうです。

東の大関は「交趾・大亀(おおがめ)」で、亀の姿をした大ぶりの香合なんだとか。

以下、関脇の「呉洲・菊蟹(きくかに)」「交趾・臺牛(だいうし)」、
小結の「青磁・桔梗(ききょう)」「交趾・桃(もも)」
と続いて行くようです。


■香合の種類

以下に、香合の塗り・木地・焼物などの種類を表にしてみました。
種類の大別種類内容備考
塗り堆朱(ついしゅ) 油を混ぜた漆を幾重も塗り厚い層を作り、文様を彫刻したものだそうです。
通常の漆は硬くて彫刻が困難だが、
油を混ぜることで、軟らかくなり彫刻が可能になったのだとか。

唐時代に始まり、宋以降盛行したようです。
元代には張成・楊茂が名匠として知られ、
清代には俗に「はしか彫」という繊細な技巧を用いたものが出現したそうです。

日本には平安時代末から鎌倉時代初頃に伝来し、
室町時代頃本格的に製造が始まったみたいです。

茶道具としては室町時代から珍重されるようになるとか。
中国では「剔紅(じっこう)」と呼ばれるようです。
屈輪/倶利(ぐり) 堆朱(ついしゅ)や寺院建築などに用いられる、
蕨(わらび)形の曲線の連続文様のことだそうです。

色彩を塗り重ね、きわめて厳しく正確に唐草仕立てで構成されている様が、
「ぐりぐり」とした風情から、このようなデザインの総称を
「屈輪文様」または「屈輪屈輪」などと呼ぶみたいです。
堆黒(ついこく)/
堆烏(ついう)
堆朱と同じ技法で、黒漆を厚く塗り重ねて文様を彫刻したものだそうです。
素地の表面に漆を数十〜百回あまり塗り重ねて、
適当な厚さにした漆層に刀で文様を浮彫状に表したものだとか。
中国では「剔黒(てきこく)」と呼ばれるようです。
堆黄 堆朱と同じ技法で、特に表面を黄漆でおおったものだそうです。

中国では「剔黄」と呼ばれるようです。
彫彩漆/紅花緑葉 堆朱と同じ技法で、黒・黄・緑・褐などの
各色の漆を塗り重ねたものを「彫彩漆」と言い、
花を朱色、葉を緑などと表現したものを「紅花緑葉」と言うそうです。
中国では「剔彩」と呼ばれるようです。
蒟醤(きんま) タイ・ミャンマー産の漆器、また、その技法のことだそうです。

素地は、多く竹を編んで作った籃胎(らんたい)で、
黒漆塗りの表面に文様を毛彫りし、
朱漆などの色漆を充填(じゅうてん)して研ぎ出したものだとか。

文様を彫る際は「蒟醤刀」という刃物を使うようです。

蒟醤刀のサイズは、
大きいもので、横幅:5.6mm、高さ:5.3mm、長さ:182mm
小さいもので、横幅:4.8mm、高さ:5.0mm、長さ:195mm
だそうです。

日本には近世に伝わり、茶道具として珍重されたみたいです。
存星/存清
(ぞんぜい)
漆地に彩漆を象嵌したものだそうです。
やや厚肉に塗った漆地を彫って各種の彩漆を充填し、
平らに研出して文様をあらわし、
輪郭や細部は鎗金(そうきん)の線でくくるみたいです。

中国の明代初期に創案され、
特に15世紀前期(宣徳期)の遺品が最も古く、
嘉靖〜万暦期(152年〜1620年)に最盛をむかえたのだとか。

現存するものの底には「存星造」の刻銘があるようで、
存星を作者名とする説もあるとか。
中国では填漆(てんしつ)と呼んだようです。

『君台観左右帳記』に、
「色は黒あるいは赤、地は錦のように彫る」
とあるそうです。
象谷塗(ぞうこくぬり) 江戸末期、玉楮象谷(たまかじぞうこく)が、彫漆・蒟醤・存星などの漆器を、
独自に消化して創始した塗り物だそうです。

中塗りの上に草花などを彫刻し、青・黄・紅などの色漆をつめて研ぎ出し、
仕上げ塗りをしたものなのだとか。

現在、高松市の名産となっているそうで、
この高松漆器(讃岐漆器/香川漆器)は、彫漆・蒟醤・存清・後藤塗・象谷塗の、
五つの技法が国の伝統的工芸品に指定されているようです。
後継者育成施設として、香川県漆芸研究所や高松工芸高校があるそうで、
多くの著名な漆芸家を輩出しているみたいです。
螺鈿(らでん) 貝殻の内側、虹色光沢を持った真珠層の部分を切り出した。
板状の素材を、漆地や木地の彫刻された表面にはめ込む手法だそうです。

使用される貝は、夜光貝・白蝶貝・黒蝶貝・
カワシンジュガイ(青貝)・アワビ・アコヤガイなどみたいです。

昔インド洋で取れたシャコガイが始まりだそうです。
このシャコガイは、当時、金銀・瑠璃に次いで貴重なものだったとか。

日本では、螺鈿は奈良時代に唐から輸入され、
琥珀や鼈甲と組み合わせて楽器などの装飾に使用されたようです。
正倉院宝物として「螺鈿紫檀五絃琵琶」「螺鈿紫檀阮咸(げんかん)」などがあるとか。

平安時代になると、螺鈿の技術は急速に向上し、
漆芸の装飾技法として蒔絵との併用が盛んに行われたそうです。

鎌倉時代になると螺鈿は鞍の装飾として人気を博し、
室町時代になると中国の高価な螺鈿細工の影響を強く受けたようです。

安土桃山時代にはヨーロッパとの貿易によって螺鈿産業は急成長するとか。
日本ではこの頃の輸出用の漆器を南蛮漆器と呼んでいるそうです。

江戸時代になっても螺鈿は引き続き人気を博したものの、
鎖国政策によってヨーロッパとの貿易は大幅に縮小されたため、
螺鈿職人は必然的に日本向けの商品に集中することとなったようです。

江戸時代の螺鈿職人としては、
生島藤七・青貝長兵衛・杣田光正・杣田光明兄弟などが名高いのだとか。

現在の日本では奈良漆器によく行われていて、
代表的な作家に北村昭斎・樽井禧酔がいるそうです。
独楽(こま) 中国南部やタイなど東南アジアを中心に造られた
同心円文様を、朱・黄・緑などの色漆で塗り分けたものだそうです。

中には、その上から針彫りや金蒔絵で、
微細な文様を加えたものもあるとか。
蒔絵(まきえ) 漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、
それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで、
器面に定着させる技法だそうです。

蒔絵の起源は、古代中国(紀元前1世紀〜3世紀)とされるようですが、
戦後の混乱とその後の国際情勢により、
詳しい研究はまだされていないとのこと。
世界最古の蒔絵の遺物は、平壌の博物館にあるみたいです。
かつては、日本起源説が有力だった蒔絵ですが、
2009〜2010年の宮内庁正倉院事務所の調査研究によって、
「末金鏤作」が砥出蒔絵であったことが判明するとともに、
「金銀鈿荘唐大刀」の「大刀刀身」が、
中国製の特徴を備えていることが判然としたことで、
その起源を中国に求めることが自然となったそうです。
一閑張/一貫張
(いっかんばり)
竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作るそうです。
また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もあるとか。

形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にするようです。

器の表面に紙をはって漆を塗った技法は、
17世紀中国西湖飛来峯出身で日本に帰化した、
飛来一閑が創作した塗り方みたいです。

より古い技法に、紙をはり重ねてボディとする
「張抜(はりぬき)」というものがあるそうです。
いつのころからか、この張抜も一閑張と呼ばれるようになったとか。
明から日本に亡命した飛来一閑が伝えて、
広めた技術なので「一閑張」になったという説や、
農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので、
「一閑張」と呼ばれるようになったという説があるとか。
根来塗(ねごろぬり) 黒漆による下塗りに朱漆塗りを施す漆器で、
名称は和歌山県の根来寺に由来するそうです。

鎌倉時代、高野山における対立により、
紀伊国根来寺に本拠を移した新義真言宗の僧徒が、
寺内で使用するために製作した漆器が有名となったため、
広く朱漆器が「根来塗」と呼ばれるようになったのだとか。

古い朱漆器では、表面の朱漆が摩滅して、
下地に塗られた黒漆が所々露出し、模様のように見えるそうですが、
これを人工的に再現したものもあるみたいです。

1585年、豊臣秀吉の根来攻めにあたって、
漆器職人達も根来を退去し、海南黒江・輪島・薩摩等に移住して、
それぞれの土地に漆器の技法を伝えたのだとか。

朱漆をかけず、黒漆のまま仕上げたものは、
「黒根来」と呼ばれ、茶道具として珍重されるみたいです。
「根来塗」の詳細に関してはこちら
鎌倉彫(かまくらぼり) 木地に模様を薄肉彫刻した素地に直接黒漆を塗り、
その上に朱・青・黄など色漆を塗り重ねて、
磨き仕上げる技法だそうです。

鎌倉時代、中国の宋から陳和卿が伝えた、
「紅花緑葉」を真似て仏師の康運(もしくは康円)が、
仏具を製作し始めたのが鎌倉彫の起源みたいです。
木地 木地をそのまま使うものを木地と言うそうで、
木地面に文様を彫り、彫線に生漆を引き、
金箔を沈めたり、色漆を嵌入(かんにゅう)する、
「象嵌」といった技法などで作るようです。
桑の他に「槐(えんじゅ)」「柿」「檜」「杉(屋久杉など)」
「桐」「榧(かや)」「桜」「楡」「楓」「樫」などもあるそうです。
黒壇 カキノキ科カキノキ属の熱帯性常緑高木で、
原産地はインド南部からスリランカで、
ほかの熱帯地方にも植樹されているが、
あまり生育はよくないのだとか。

黒い黒檀ほど貴重とされるが高価なのだとか。
乱伐が進んだことから複数の国で、保護対象となっていて、
輸出や取引が禁止されているとか。

2012年、アメリカのギターメーカーであるギブソン社は、
マダガスカルから黒檀を違法輸入したとして、
30万ドルの罰金を司法当局から命じられたそうです。
黒壇の他に「紫檀」もあるようです。
木地蒔絵 木地の木目を生かして、漆を塗らずに蒔絵を施すことだそうです。
木地象嵌/木象嵌
(もくぞうがん)
様々な色調の木材をはめあわせて絵の板を作り、
それをカンナで薄く削り、和紙に貼り付けたもので、
いわゆる「寄木細工」の技法のひとつだそうです。

寄木象嵌の一種「木画」は、木地の素朴な木理を利用して、
これを菱形などに交互に組み合わせたものの他に、
は紫檀・黒檀・鉄刀木(たがやさん)・花櫚(かりん)・黄楊(つげ)木・
黒柿・象牙・青角(あおづの)など、
色の異なった素材を組み合わせて各種文様を表したものがあるようです。

後者には、花鳥などの自由な絵画文と、
市松文・矢筈文などの幾何文があるとか。
秋山逸生は、日本の木工芸家で、
2006年現在、重要無形文化財
「木象嵌」の唯一の保持者だそうです。
焼物祥瑞(しょんずい) 中国の明末〜清初を中心に江西省景徳鎮の民窯で、
日本の茶人たちの好みを反映して作られた、
精緻な絵付の青花磁器だそうです。

一部の作品の底に
「五郎大甫 呉祥瑞造」
の染付銘があるところから祥瑞と呼ばれるとか。

精選された磁土を用い、
鮮烈なバイオレット・ブルーに発色する青料(呉須)で、
絵柄が器物のほとんど全体に描かれているみたいです。
「形物香合番付」は19種類あるそうです。
西二段目6〜8(3種類)、西三段目6〜9(4種類)、
東四段目11〜14(4種類)、東五段目5〜11・20(8種類)
青磁(せいじ) 中国の殷代から焼かれた高火度焼成の青みを帯びた
磁器質のものだそうです。

後漢末ごろには、釉調も整い、色も淡緑色に洗練され、
宋代に至って、優秀な青磁(高麗青磁や安南青磁など)が、
造られたようです。

特徴的な青緑色は、釉薬や粘土に含まれる酸化第二鉄が、
高温の還元焼成によって酸化第一鉄に変化する事で発色するのだとか。

色艶は全く異なるが、酸化クロムの還元で発色させるタイプのものも
青磁と呼ばれているみたいです。

日本の青磁は、17世紀以降でだそうです。
有田を中心とする磁器胎のもので色絵などと併用したものも多いとか。
「形物香合番付」は29種類あるそうです。
西一段目の、小結「桔梗」、前頭1「桃」、前頭7「一葉」
東二段目の「1.開扇・2.木瓜・3.一輪菊・4.犬鷹・5.鷹仝・
6.木魚・7.袋鼠・8.開扇・16.鞠挟・17.蜜柑・18.六角・
19.菱・20.分銅・21.田楽箱」
東三段目の「1.菊伽藍・2.角・3.布袋・4.柿・5.木魚・
19.雁・20.酒会・21.蘭鉢・22.長角・23.寸切」
東五段目の「18.トキヤロ・19.茶臼」
交趾(こうち) 黄・紫・緑・青・白などの細かい貫入の入る釉薬のかかった
焼き物の事を指すそうです。

生地は陶器、磁器で成形され、素焼き、または高温で焼き締めるようです。
次に交趾釉を施釉し、低火度焼成による焼成を経て完成するのだとか。

名称はベトナムのコーチシナ(交趾支那)との貿易で、
交趾船によりもたらされたことに由来するみたいです。

交趾焼は主に茶の湯の世界で珍重され、香合がとくに尊ばれるそうです。
江戸時代に数寄者の間で作成された香合番付では、交趾の香合がその上位を占めるとか。

京都において、楽家や永楽善五郎がその写しものを制作した事から、
九谷焼や京焼でもその写しが作られることとなるようです。

台湾には19世紀に中国の広東より民芸としてもたらされ、
交趾陶・嘉義焼とも称されるとか。
「形物香合番付」は64種類あるそうです。
東一段目全部(14種類)、東二段目9〜15(7種類)、東三段目6〜18(13種類)、
東四段目1〜10・15〜26(22種類)、東五段目2〜4・13〜17(8種類)
楽(らく) 楽焼は、手とへらだけで成形し「手捏ね(てづくね)」と呼ばれる方法で作成し、
750℃〜1100℃で焼成した軟質施釉陶器だそうです。

狭義には樂家の歴代当主が作製した作品や、
樂家の手法を得た「金沢の大樋焼」「京都の玉水焼」などが含まれるようです。

広義には同様の手法を用いて作製した陶磁器全体を指すとか。

16世紀後半、瓦職人だった長次郎が千利休の指導により、
聚楽第を建造する際に、
土中から掘り出された聚楽土を使って焼いた「聚楽焼(じゅらくやき)」が
始まりみたいです。

二代目・常慶の父の田中宗慶が、
豊臣秀吉より聚楽第からとった「樂」の印章を賜り、
これを用いるとともに家号にしたことから楽焼となったようです。

「黒楽」の製法は、
まず、素焼き後に加茂川黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干し、
乾いたらまた釉薬をかけるといったことを十数回繰り返してから、
1000℃程度で焼成するそうです。

焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって、
窯から引き出し急冷することで、黒く変色するのだとか。

「黒楽」は、1581年〜1586年頃に長次郎によって、
黒楽茶碗が焼かれたのが始まりだとか。

「赤楽」の製法は、
赤土を素焼きし、透明の釉薬をかけて800℃程度で焼成するそうです。
京焼(きょうやき) 粟田口焼、御室焼など、楽焼を除く京都で作られる作品の総称だそうです。

一度焼成した後に上絵付けを施す上絵付けの技法を用いた陶器が多く、
作家ごとの個性が強いのが特徴だとか。

1590年代末には京焼の生産が始まっていたと考えられているとか。
この頃の作品については不明な点が多いが、
低温で焼成し、鉛を含む釉薬が使用されていて、
技法やデザインが多様なことが特徴らしいです。

17世紀に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗・茶入など茶陶の製造が盛んになり、
瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人とその技法をベースとして、
高麗茶碗の写しなどが作られたようです。

京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼(粟田焼)は、
寛永年間には粟田口で生産を行なっていて、
ここでは中国の茶器の写しや天目茶碗が作られたみたいです。

同時期では、八坂焼は1640年、清水焼は1643年までには、
存在が確認されているようです。

これに続いて御室焼・御菩薩池焼(みぞろがいけやき)・
修学院焼なども作られたのだとか。

1653年頃、赤色系の上絵付を施した御室焼が、
野々村仁清によって初めて作られたようです。
調合・焼成の困難な赤色系の絵付を、
17世紀に成功させたのは陶器では国内初だったそうです。
織部焼(おりべやき) 古田織部の指導で創始され、交趾焼を元に、
織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産したそうです。

大量生産のため、陶工加藤景延が唐津から連房式登窯を導入したとか。

元和年間に入ると、器形と模様の単純化が急速に進み、
瀟洒な作風へ変貌していったみたいです。
これは、古田織部の切腹との関係が指摘されているようです。

元和末年から寛永初めになると、
古典的青磁の復興を目指した黄緑色から淡青色の御深井釉を用いた、
「御深井焼」が本格化し、織部焼は姿を消すそうです。
宋胡録(すんころく) タイのスコータイ県サワンカローク周辺で作られる陶器だそうです。

「宋胡禄」の語自体は産地である「サワンカローク」の音訳みたいです。

13世紀頃にラームカムヘーン大王が中国から陶工を呼び寄せ、
生産に成功したのが最初だとか。

14世紀〜15世紀頃には輸出ように頻繁に作られ、
中国人の商人によって日本へ持ち込まれたようです。

日本では茶器としてつかわれ、
茶道が普及し始めた戦国時代から注目を集めて、
江戸時代には茶人に広くもてはやされたみたいです。
「形物香合番付」は2種類あり、
西の最上段前頭2枚目「宋胡録・柿」が、
西二段の16枚目に「大中小・宋胡録・食篭」があるとか。
染付 白地に青(藍色)で文様を表したものだそうです。

中国元時代の景徳鎮窯で創始され、
朝鮮・日本・ベトナムなどに広まったようで、
日本では17世紀に伊万里焼が作り始めたみたいです。

磁器に釉薬を掛ける前の素地に文様を描く技法で、
呉須と呼ばれるコバルトを主成分とする絵具が使用されるとか。

磁土を一度素焼きしてから、呉須で図柄を描き、
その上から透明釉を掛けて再度焼成すると、
呉須が焼成後は青(藍色)に発色するようです。

ただし、日本の初期伊万里の磁器のように、
素焼きをしていない素地に呉須で図柄を描き、
その上から透明釉を掛けて焼成する技法「生掛け」もあるとか。

中国・朝鮮では「青花」と呼ばれるみたいです。
「形物香合番付」には85種類あるそうです。
西一段目の大関「辻堂」の他、前頭2〜5・9・11(6種類)、
西二段目1・9〜19(12種類)、西三段目1〜4・10〜23(18種類)、
西四段目6〜26(21種類)、西五段目全部(27種類)
呉須 陶磁器に用いる顔料の一種で、
焼成により釉薬と溶けて青い色を出すのだとか。

呉須土の主成分は酸化コバルトで、
鉄・マンガンなどの酸化物が不純物として含まれ、
これらが多いと釉の色が青紫色から、
くすんだ色になるそうです。

「形物香合番付」には16種類あるそうです。
西一段目の関脇「菊蟹」の他、前頭8・10、
西二段目2〜4・20・21(5種類)、西三段目5「鳥宝珠」、
西四段目1〜5(5種類)、東五段目1・12(2種類)
勧進元の「臺牛」
蛤海松絵や緋扇貝などがあるようです。
金属金属 砂張(さはり)・毛織(もうる)・金・銀・七宝などがあるようです。

ただ、風情に乏しいため、水屋用として使い、
あまり客間には出さないそうです。

読み:あまおぶねこうごう
作品名:蜑小舟香合
作者:前端春斎

蜑小舟香合
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蜑小舟は、海人(あま)の乗る小舟を指すようです。
蜑小舟で思い当たるのは、
『百人一首』の「世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも」
『万葉集』の「白波の八重折るがうへに 海人小舟はららに浮きて」
といったあたりでしょうか。
少し話がずれますが、福岡県北九州市若松区蜑住の「蜑住」は、
海士(海女)が集住していたことに由来するものみたいです。

蜑小舟…「五器」と称す玄々斎好・五種の道具のひとつで、
鷹司輔信より拝領した富士山中の松を以って作ったそうです。
他に「水指 三島角」「溜塗 香狭間透かし煙草盆」
「矢筈香合」「玄々棚(杉棚)」とかがあるみたいです。


読み:つぼつぼまきえこうごう
作品名:壺々蒔絵香合
作者:中村宗悦
価格:6,000円
備考:而妙斉好写

壺々蒔絵香合
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壺々は「底が平たく、中ほどが膨れ、口の狭い土器」のことみたいです。
この土器、直径3〜4cmほどの壷形をした素焼。つぼつぼと重ねて云うのは、
幼な言葉が、一般にそう呼ばれるようになったとのこと。
『都名所図会』や『諸国年中行事』によると、江戸時代の伏見稲荷で売られていたとか。

中村宗悦は、日本の漆芸家で、1979年来、全国漆器展において多数の賞を受賞しているみたいです。
この全国漆器展は「日本漆器協同組合連合会の主催による全国規模の漆器展示会」だそうで、
会津塗・輪島塗・山中塗・木曽漆器・津軽塗等、国内の有力産地の漆器が展示即売されているらしいです。


読み:ごふくこうごう
作品名:五福香合
作者:伊藤表正
備考:直径6cm

五福香合
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中国殷時代の書経、箕子(きし)著『洪範』によると、五福というのは「長寿である」
「経済的に余裕がある」「心身ともに健康である」
「善良な心をもつ」「天寿を全うする」の5つのことらしいです。

余談ですが、明治8年に開校した熊本市立五福小学校は、
五福教育という目標を掲げているそうです。

漆工芸家の伊藤表正は、塗師である田中表阿弥と田原表阿弥に師事してのち、
茶道塗師として活躍、主に裏千家好写の棚をたくさん作ったとか。


読み:さんすいまきえこうごう
作品名:山水蒔絵香合
作者:田原一斎
価格:38,000円
備考:直径8cm

五福香合
※画像を押すと拡大できます。
蒔絵は、漆器の表面に漆で何かを描き、乾く前に金・銀粉を「蒔く」技法とのこと。
主な技法としては「研出蒔絵(とぎだし)」「平蒔絵」「高蒔絵」
「肉合蒔絵(ししあい)」「卵殻蒔絵」「スクリーン蒔絵」なんかがあるみたいです。

三代目 田原一斎の息子、田原寛季は「京都桐箱工芸」という明治10年創業の店を営んでいるようで、
初代より受け継がれた言葉は
「誠意がなくなれば継ぐな、お客様に喜ばれなくなれば商売はやめろ」
だそうです。


読み:こうらいせいじこうごう
作品名:高麗青磁香合
作者:申相浩
価格:10,000円
備考:桐箱よごれ有り

五福香合
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高麗は、918年に王建(太祖)が建てて、1392年まで続いた朝鮮半島の国で、都は開城だったそうです。
元来「高麗」は高句麗の後期における正式な国号で、
当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、
現代中国では区別のため「王氏高麗」と呼ぶこともあるようです。

当時、贅沢に生きた高麗の貴族は、自らの欲望を満たすために、
多様な芸術作品を作って鑑賞したみたいです。

高麗の磁器は新羅と渤海の伝統と技術を土台にして、
宋の磁器技術を受け入れ、
貴族の全盛期であった十一世紀に独自の境地を成したそうです。
特に翡翠色が出る青磁が発展したとのこと。

さて、この香合は、炉用なので、練香を使うかと思います。
ということで、茶道で使用する「練香」の作り方を説明しようと思います。

練香の材料は、以下だそうです。
 ・香りの素(沈香、白檀、龍脳、丁子、甘松、安息香、薫陸、貝甲香、麝香)
 ・炭粉
 ・蜂蜜と梅の水溶液

あとは、混ぜて、丸めるだけのようです。
香木や線香とは違い、練香はほどよい湿り気が必要で、乾燥すると、香りがしないそうです

また、蜂蜜をたくさん使うと、ドロドロになってしまい、
少なすぎると乾きすぎてバラバラになるそうなので、注意が必要とのこと。

陶房窯の陶芸家、申相浩(シンソウコウ)、向こうの呼び方だと「シンサンホン」となるみたいです。
1947年、韓国ソウル生まれで、18歳(1965年)には「申相浩陶芸研究所」を設立しているようです。
1975年に韓国の私大「弘益大学校(ホンイクだいがっこう)」修士課程を卒業後、
韓国産業美術展覧会に出品、8回も入賞したそうです。


読み:はぎやきうまこうご
作品名:萩焼馬香合
作者:守繁栄徹
価格:10,000円

萩焼馬香合
萩焼馬香合
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萩焼は、山口県萩市一帯で焼かれる陶器のことだそうで、
1604年に藩主毛利輝元の命によって、朝鮮人陶工、
李勺光(山村家)・李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりみたいです。
萩焼の主な作家に以下の人がいるようです。
坂高麗左衛門・坂倉新兵衛(十二代坂倉新兵衛:選択無形文化財)・
三輪休和(十代三輪休雪:人間国宝)・三輪壽雪(十一代三輪休雪:人間国宝)・
田原陶兵衛・吉賀大眉・坂田泥華

守繁栄徹(萩焼窯元:蓮光山)は、昭和05年生まれ。
昭和42年に萩市江向に開窯したそうです。
昭和49年に萩焼伝統陶磁協会会長就任、
日本文化振興会萩焼芸術文化の社会文化功労賞(平成04年)や、
世界平和文化財団より世界平和十字勲章(平成05年)を受賞したようです。


読み:つたのきこうごう
作品名:ツタの木香合
作者:峰春

ツタの木香合
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ツタは、ブドウ科ツタ属のつる性の落葉性木本のことで、 アマヅラ・ナツヅタ・モミジヅタといった別名があるようです。


読み:たむけやまこうごう
作品名:手向山香合
作者:北村葵春
備考:淡々斎好写

手向山香合
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手向山は、福岡県北九州市小倉北区赤坂四丁目にある高さ七十六メートルの山だそうです。
足立山系最北部に位置し、正面には関門海峡・彦島・巌流島などが見えるとか。
宮本伊織(宮本武蔵の養子)が、山頂から巌流島が見渡せる手向山山頂に 養父の顕彰碑を建立したみたいです。

淡々斎は、茶道裏千家十四世家元で、東京生まれ。
裏千家十三世円能斎の長男で三十歳で家元を継承したそうです。
淡交会を結成したり、国際茶道文化協会を設立したりしたようです。


作品名:花いかだ香合
備考:淡々斎好/紙箱入

花いかだ香合
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季節は晩春、川面に広がる花が連なった「花いかだ」。
地面に散り一面花模様となったものは「花むしろ」というそうです。

「ハナイカダ」をウィキペディアで調べると、
北海道にも自生する葉っぱの上に花が咲く、
別名「嫁の涙」という落葉低木が出てきます。

この別名、以下の民話から来ているそうです。
「殿様の使いから[葉に実のなる木を見つけてこい]と命じられ、
若いお嫁さんが夜遅くまで山中山と空を必死で探すが見つからない。
悔し涙の一粒が足元に落ち、月で光った涙の玉が
木の葉の真ん中で真珠のように輝いた」

一説には、昔、川に筏にくくりつけた骨壷を流し、
早く紐がとけて壷が川に落ちると早く極楽にいけるとの言い伝えがあったそうで、
花は骨壷と一緒に添えられていたものなんだとか。
この情景が花いかだの由来なんだそうです。

室町時代の蒔絵師幸阿弥家が作成した花筏蒔絵。
筏流しは美しいが儚い、それと同じで我々も今をこそ大切に生きるべきだと伝えているのだそうです。

皆さんには「花いかだ」から一期一会の精神が伝わってくるでしょうか。


作品名:交趾馬絵香合
作者:高野昭阿弥
価格:3,000円
備考:紙箱入

交趾馬絵香合
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黄交趾と緑交趾の香合で、
鮮やかな色彩と精緻な文様表現に特色があるそうです。

交趾の文様は、口金のついた筒に白泥を入れて絞り出しながら、
器物の表面に文様を描き出し、
その線を境に色釉で染め分けていく「いっちん」という技法で
表現するそうです。
中国の明代の「法花(ほうか)」というやきものの流れを汲んでいるのだとか。


作品名:隅田川香合
作者:高野昭阿弥
価格:3,000円
備考:木箱入

隅田川香合
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隅田川香合は、形物香合相撲番付表の西四段目十四位に位置する香合で、
蓋の甲に対角を結んで川に架かる橋を表わしたハジキ(弦状の摘み)が付き、
これを境に上部に枝垂柳、下部に川面を行く船人物を描いたものだそうです。

能楽作品の一つ「隅田川」から取られたようで、
以下のような概要みたいです。

ちなみにカケリとは、精神の不安定な状態をあらわすとされる、
曲中に挿入される比較的テンポの速い囃子だそうです。

■謡曲「隅田川」
渡し守が、最終便のとき、
「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」
と京都から来た旅の男と話していると、カケリを舞い狂女が現われる。

そこで、渡し守が、
「面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ」
と言うと、狂女は、
「名にし負はば 逢坂山の さねかづら
 人に知られで くるよしもがな」
という人目を忍ぶ恋を詠んだ歌の、恋人をわが子に置き換え、嘆く。

渡し守も心打たれ
「かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。
この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ」
と、親身になって舟に乗せる。

対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、
大ぜい集まって念仏を唱える行事「大念仏」だと答え、
哀れな子供の話を聞かせる。

京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、
病気になってこの地に捨てられ死んだという。

里人は余りにも哀れな物語に、子供の願いどおり、
塚を作り、柳を植え、一年目の今日、
一周忌の念仏を唱えることにした。

それこそわが子の塚であると狂女は気付く。
渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。

狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、
渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。

やがて狂女の鉦の音と念仏が寂しく響く。
そこに愛児の念仏を唱える声が聞こえる。

尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。
だが東雲来る時、母親の前にあったのは、
塚に茂る草に過ぎなかった。


作品名:仁清結文椿香合
作者:通次阿山
備考:桐箱入

仁清結文椿香合
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結び文形は、細く巻きたたんだ書状の上端または中央を折り結んで、
結び目に一筋墨を引いたものだそうです。
古くは艶書(えんしよ)に、のちには正式の書状にも用いたのだとか。
箸袋などをたたむ際によく使われるようです。

椿は、種類によっては12月頃から咲くようですが、
通常は3〜5月が開花時期のようです。
江戸時代にはブームになり、
様々な品種が改良され、現在も多数残っているのだとか。

花言葉は「理想の愛」「控えめ」「慎み深さ」
「美徳」「至上の愛らしさ」「完全な愛」などだそうです。


作品名:赤絵香合
作者:犬山焼 後藤陶逸
備考:木箱入

赤絵香合
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赤絵香合というと、形物香合相撲番付表の前頭十枚目「呉須赤絵牡丹香合(赤絵四方入)」を
思い浮かべる方もいらっしゃると思います。

呉須赤絵牡丹香合は、明時代の香合で、
四角形の四隅が入り込んだ四方入角の形、
胴回りはやや膨らみ、呉須と赤絵で文様を描いたものだそうです。
茶席では、紅一点の働きをなしたようで、
江戸時代には、かなり人気だったのだとか。

犬山焼は、江戸時代の初めごろ、犬山市東部の今井に窯を築いたのが始まりのようです。
その後、80年ほどで廃窯し、それから20年ほど経ってから、
犬山市北部の丸山に窯を築いたみたいです。
近世犬山焼は京都や瀬戸・名古屋などから陶工・画工(職人)を招いて
「赤絵」を描くようになったのだとか。

犬山焼窯元 後藤陶逸陶苑は、愛知県犬山市犬山相生14にあるそうで、
犬山駅より名鉄バス「モンキーパーク」バス停から徒歩1分
みたいです。


作品名:御所車香合
作者:西尾瑞豊
備考:紙箱入

御所車香合
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御所車(ごしょぐるま)は、「源氏車」「牛車」とばれる、
ウシや水牛に牽引させる車のことだそうです。


■中国の牛車
中国では、子牛に引かせる車を犢車(とくしゃ)というそうで、
先秦時代から現在まで、主に荷車として利用されているのだとか。
二輪車で車輪は放射状のものが多いようです。

乗物としての牛車は、漢代以前は貧者に限られていたみたいです。

後漢末の霊帝・献帝のころから六朝の間に、
天子から士大夫にいたるまであらゆる階層の常用車となったようです。

この時代、馬車は流行しなくなり、
とくに優れた牛を賽牛と呼び、
ときには千里の馬になぞらえて八百里の牛と称して珍重したのだとか。


■日本では
平安時代、貴族の一般的な乗り物だったようです。

移動のための機能性よりも、使用者の権威を示すことが求められ、
重厚な造りや華やかな装飾性が優先されたそうです。

金銀の装飾を施すなど華麗という以上に、
奢侈(しゃし)に流れる弊害のために、
894年、一時乗車が禁止されたこともあるとか。

この当時の奢侈禁止令は、721年の
「節を制し度を謹しみ、奢侈を禁防するは、
政を為すに先とする所にして百王不易の道なり」
などによるもののようで、
その対象は主に貴族・官人層だったそうです。


■日本の牛車
牛車は、主に2人・4人・6人乗りがあったそうです。

乗降は、後方から乗り、降りるときは、
まず牛をはずし、軛(くびき)のための榻(しじ)を、
人のための踏台として前から降りるようです。

ここで、少々言葉の解説を。

「軛(くびき)」は、牛車に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具で、
車輌の牽引をする場合、
それぞれの個体の頸部に軛を挟み、
そこに轅(ながえ)を取り付けて車につないで用いるもの。

「轅(ながえ)」は、牛車の前方に長く突き出ている、
二本の棒のことで、先端に軛をつけて牛や馬にひかせるもの。

「榻(しじ)」は、牛を外したとき、
車の轅の軛を支え、乗り降りに際しては踏み台とする台のこと。

各部の名称は関根正直著『宮殿調度図解』に詳しいようです。


■牛車の名称

牛車に乗る人物の位や、祭事用などにより、形の違う牛車を使用したようです。
名称人物の位備考
唐廂車/唐車
(からびさしのくるま)
上皇・摂政・関白 屋根が唐破風のような形状になっている。
最高級の牛車で、晴れの舞台用。
「蘇芳簾」という赤い簾(すだれ)をかけ、
下簾は蘇芳の浮線綾にいろいろな糸で唐花・唐鳥を縫っている。
雨眉車
(あままゆのくるま)
摂政・関白 直衣姿の折に使用。
唐廂車の簡略版で、眉が唐破風のような形状になっている。
簾は青く、下簾の帳も青裾濃。
檳榔毛車/毛車
(びろうげのくるま)
上皇以下・四位以上の上級貴族
又は、入内する女房や高僧
檳榔を細かく裂いて屋根を葺いた車。見物はない。蘇芳簾で下簾は赤裾濃。
檳榔廂車(びろうひさしのくるま)上皇・親王・摂関・大臣 檳榔毛車に見物を設置したもので、前後眉下と見物の上に廂(ひさし)が付いている。
糸毛車
(いとげのくるま)
- 上葺(車箱の屋根部分)を色染めした糸で覆った車で、見物は設けていない。
青糸車、紫糸車、赤糸車がある。
青糸車皇后・中宮・東宮
糸毛車の一種。皇后・中宮・東宮の乗用車。
紫糸車女御・更衣・尚侍・典侍 糸毛車の一種。女御・更衣・尚侍・典侍の乗用車。
赤糸車女使「賀茂祭り」の際に、女使が使用する。
網代車
(あじろぐるま)
大臣ほか 車箱の表面に、檜や竹などの薄板を張った車の総称で、
袖や立板などに漆で絵文様を描いたものが多い。
家文を付けた車は「袖白の車」「上白の車」と呼び大臣の乗用車。
半蔀車
(はじとみのぐるま)
上皇・摂関・大臣・大将 見物の懸戸が外側にはね上げたような造りとなっていて、
開閉可能の半蔀を設けた車。
八葉車
(はちようのくるま)
大臣から公卿・地下 網代を萌黄色に塗り、
九曜星(大きな円の周りに小さな円を八つ書いたもの)の文様を描いた車。


作品名:香合(神代杉)
 (出世矢羽根)
作者:清水晃樹
価格:10,000円
備考:桐箱入

香合(神代杉)
香合(神代杉)
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神代杉は、水中・土中にうずもれて長い年月を経過した杉材のことだそうです。
過去に火山灰の中に埋もれたものなのだとか。
そのため、千年単位で生きたまま腐らず埋まっているようです。

青黒く、木目が細かく美しいみたいで、
伊豆半島・箱根・京都・福井・屋久島などから掘り出され、
工芸品や天井板などの材料として珍重されるようです。

神代の昔から眠りつづけているというところから「神代杉」というようです。

神代杉の材質は脆く、やや青がかった灰色をしているとか。
「のみ」を打った瞬間の木目は白いが、数十秒の間に空気と光に触れ、
みるみるうちに黒くなるそうです。

ちなみに、炭化がさらに数万年進んだ物は石炭になるようです。


■銘木(埋も木)とは
神代杉は銘木の一種で、建築部材・家具・筆記用具・茶道具などに使われてきたそうです。

銘木としては、屋久島に自生する樹齢1000年以上の杉「屋久杉」が有名で、
幹が太いため大きな一枚板が取れるようです。
天然の屋久杉は、1993年以降、伐採が禁止されているのだとか。

杉の他に、「榧(かや)」「楢(なら)」「桂(かつら)」などがあり、
どれも非常に希少価値の高い銘木のようです。

日本では、数千万年前以降の地層に産出するそうで、
仙台の広瀬川で珪化木などと共に産する仙台亜炭が有名なのだとか。
埋れ木細工は仙台の名産みたいです。

これらの埋も木は、長い年月をかけて圧力を受けたために変成し、
半ば炭化したもので、亜炭の一種だそうです。

炭化は、酸素を遮断した状態で加熱を行うと、炭素化合物は分解が生じ、
その中から揮発性の低い固体の炭素分が比較的多く残る現象みたいです。


■出世矢羽根
破魔矢の一種、出世矢は、
「強く大きく、そして出世も・・・」との願いを込めて、
二段目の数多い羽根を社会にたとえ、
一本の抜き出た羽根を我が子の将来とするデザインだそうです。


■破魔矢とは
破魔矢は、正月の縁起物として寺院・神社で授与される矢で、
家屋を新築した際の上棟式に呪いとして鬼門に向けて棟の上に弓矢を立てたり、
新生児の初節句に親戚や知人から破魔矢・破魔弓を贈る習慣もあるとか。

正月に行われていた弓の技を試す
「射礼(じゃらい)」という行事に使われた弓矢に由来するようです。

元々「ハマ」は競技に用いられる的のことを指すようで、
これを射る矢を「はま矢(浜矢)」、弓を「はま弓(浜弓)」と呼んだみたいです。

「はま」が「破魔」に通じるとして、
正月に男児のいる家に弓矢を組み合わせた玩具を贈る風習が生まれ、
後に、一年の好運を射止める縁起物として初詣で授与されるようになったそうです。

一般に破魔矢の先が鋭く尖っていないのは、
目標とする人や物自体ではなく、
「邪魔」が発する邪気・邪意・邪道・邪心等の妖気を、
破り浄化する用を為せばよいので、
鋭利な刃物である必要が無い為なのだとか。

破魔矢のみがよく流通しているが、
正式には、破魔弓で射て初めて邪魔を破り浄化する効力を発揮するようです。

一般人が破魔矢を持つ意味は、
破魔弓は神や神主や破邪の能力を有する者が持って方向と力と気を定めて構え、
破魔矢の所有者は破りたい魔に対する矢を提示する形で射られる、
との仕組から来るそうです。

飾り方としては、
本来はその時々の凶方向や逢魔の方角に先を向けて配置するのが正式だが、
通常言われている凶方向や神社などでの指示に従って飾っても、
心の中で邪気に向けて破魔矢を射るとの意味合いで飾っても、
効力を発揮すると言われているとか。


作品名:重色紙香合
 (神代杉/紅葉絵)
作者:清水晃樹
備考:桐箱入

重色紙香合
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色紙形(しきしがた)というのは、短冊形に対して、
正方形に近い四角形のことをいうそうです。

この色紙形が重なったようになっているものが、
重色紙なのだと思われます。


■色紙とは
色紙は、古くから短冊と同様に書道作品に用いられ、
絵画作品にも多く用いられたそうです。

書画用の色紙は正方形に近い形の厚紙でできていて、
金縁が施され、片面には金粉や銀粉などを散りばめられているものも多いとか。

なお、色紙は本来は金粉や銀粉などが散りばめられているほうが表面であるが、
書画やサインなどは謙遜の意味で、
あえて裏面の白いほうが用いられるといわれているそうです。

色紙という名前は、元来、染色した紙のことをいったようです。

詩歌などを書く料紙としては、
屏風や障子などに詩歌などを書き入れるために染色した紙を押し、
これを色紙形と呼んだことに由来するのだとか。


■色紙の寸法
色紙の寸法は、
大は縦六寸四分に横五寸六分、
小は縦六寸に横五寸三分
の二種があり、これに準じた方形の料紙をも、
総称して色紙といっているようです。

享保19年刊『本朝世事談綺』に
「色紙短尺の寸法は三光院殿よりはじまる御説、
大は堅六寸四分、小は堅六寸、横大小共に五寸六分」
とあるそうです。

安永6年刊『紙譜』に
「色紙大小あり、
縦大六寸四分、小六寸、横大五寸六分、小五寸三分」
とあるみたいです。


■小倉色紙
色紙として最も古いものとしては、
藤原定家筆と伝える小倉色紙だそうです。

これは、小倉百人一首の歌を、
その撰者藤原定家がみずから書した色紙みたいです。

小倉百人一首は、京都嵯峨の小倉にあった、
山荘の障子(襖障子)に貼る色紙形に
宇都宮頼綱の依頼によって書かれたものだとか。
そのため「小倉山荘色紙和歌」とも呼ばれるみたいです。

江戸時代、定家は歌道の上でたいへん崇められ、
書も名筆として尊ばれ評判も値段も高かったようで、
小倉色紙が最高で1枚1000両を越したとか。


■茶道では
武野紹鴎が始めて掛物に色紙を懸けたとされているそうです。

『今井宗久茶湯日記書抜』に
「天文二十四年十月二日 紹鴎老御会 宗久 宗二
一 イロリ 細クサリ 小霰釜、水二升余入、ツリテ、
一 床 定家色紙、天ノ原、下絵に月を絵(書)ク、手水ノ間に巻テ、
一 槌ノ花入 紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ、
一 円座カタツキ、水サシ イモカシラ 
一 シノ 茶ワン 備前メンツウ」
とあるとか。


作品名:堆朱香合
作者:三野原晃一
備考:桐箱入

堆朱香合
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堆朱は、油を混ぜた漆を幾重も塗り厚い層を作り、
文様を彫刻したものだそうです。
熱や酸化に強い上、湿気、変質に強いみたいです。

日本には平安時代末から鎌倉時代初頃に伝来し、
室町時代頃本格的に製造が始まったそうです。

ちなみに、塗りの格は
堆朱→堆黒→真塗→蒔絵→青貝→黒塗→一閑張→木地
の順みたいです。

また、木地の格は、
紫檀→黒檀→鉄刀木→桑
なんだとか。

素材の区別としては、
 真:堆朱、堆黒、真塗、青貝(螺鈿)蒔絵
 行:塗
 草:木地など
のようです。


■中国での堆朱
中国で剔紅(てきこう)などと呼ばれ宋以降盛行したとか。
色の違いによって「剔紅」「剔黒」「剔彩」「剔犀」
などに分けられるようです。

堆朱の起源は、明代の書『キユウ飾録』によると、
唐代の四川・雲南一帯だそうですが、
その当時の堆朱作品は未だ発見されていないとのこと。

宋代は堆朱工芸が発展した時代で、
この時代に剔紅や剔犀が誕生したようです。

宋代の剔紅・剔黒の作品としては、
故宮博物館の『桂花紋剔紅盒』(中国)
円覚寺の『醉翁亭図朱錦地剔黒盒』(日本)
などがあるそうです。

また、剔犀の作品は、
江蘇省武進や山西省大同など、
南宋・金代の古墳から多数出土しているみたいです。

明代初期には皇宮が監督する漆器作り専用の果園厰が設置されたようです。
全国各地の優秀な職人が北京に集められたのだとか。

1949年、北京市は民間の工芸職人を集めて北京堆朱生産合作社を創立し、
1958年にはその名を北京市堆朱工場へ変更、
北京堆朱工芸の伝承と発展において重要な拠点となったそうです。


作品名:彩漆香合(銀杏絵)
作者:楽全
価格:10,000円
備考:桐箱入

彩漆香合(銀杏絵)
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彩漆は、伝統工芸品用語で、漆に種々の絵具を加えて着色したものだそうで、
松煙や鉄分による黒漆、朱(硫化第二水銀)による朱漆、
石黄による黄漆などがあるとか。

昔は、白色の彩漆を作るのは困難とされたようです。

大正時代に白粉が静岡工業試験場で開発され、
白粉と漆を練り合わせた白漆ができたそうです。

現在の白漆は、透き漆に二酸化チタニウムなどの顔料をまぜてつくるのだとか。

ちなみに、白漆は時間が経つにつれ、より白く変化していくみたいです。
そのため「白漆で、もう一つ同じ色のものを下さい。」と言っても
同じタイミングに塗り、同じような時間が経過したものでもない限り、
同じ色にはまずならないので、メーカー泣かせの漆みたいです。

黒漆や朱漆も同様の現象が起きているそうなのですが、
ほとんど目立たないため、
時間が経ってもだいたい同じ色になるようです。


作品名:溜塗丸香合
 (波に千鳥蒔絵)
備考:紙箱入

溜塗丸香合
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波に千鳥とは、絵になるような調和の良いもの、
取り合わせの良いもののたとえだそうです。

「波に千鳥」は、古くから広く親しまれてきた和柄で、
着物やさまざまな日用品のデザインとして広く使われてきたようです。
さまざまなバリエーションがあるとか。

夏によく見かける、かき氷の意匠も「波に千鳥」だそうです。


■チドリとは
チドリは、鳥類チドリ目の総称みたいです。

「チドリ科」に含まれる鳥も年々多くなり、
1905年から、シギ科
1922年から、ミヤコドリ科・タマシギ科・レンカク科
1951年から、セイタカシギ科・タマシギ科・シギ科・ヒレアシシギ科
などが、チドリ科と呼ばれるようになったとか。

チドリは、メスよりもオスの方がやや大型の鳥で、
上面と下面の羽毛の色彩が非連続的に分断された色彩の種が多く、
これにより輪郭をとらえにくくなり保護色になるそうです。

飛翔力は強く、渡りを行う種が多いようです。
発達した後肢により地表を素早く走行することもできるとか。

開発による生息地の破壊、食用や娯楽としての乱獲、
人為的に移入された動物による捕食、
植物による植生の変化などにより生息数が減少している種もいるみたいです。


■日本での千鳥
古来日本では、野山や水辺に群れる小鳥たち、
とりわけチドリなどの仲間を千鳥と呼び、親しんできたようです。

また多くの鳥のことも千鳥あるいは百千鳥(ももちどり)と呼んだそうです。

千鳥の名の由来は、多数が群れる「千の鳥」の意とも、
「チ」という鳴き声からとも言われているとか。

古くは万葉集でも、千鳥を詠み込んだ歌が多数知られ、
箏曲・胡弓曲には「千鳥の曲」があるみたいです。
俳句では「千鳥」は冬の季語であるなのだとか。

短歌としては、以下のようなものがあるそうです。

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば
 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ(『万葉集』柿本人麻呂)

しほの山 さしでの磯に すむ千鳥
 君が御代をば 八千代とぞ鳴く(『古今和歌集』詠み人知らず)

思ひかね 妹(いも)がり行けば 冬の夜の
 川風寒み 千鳥鳴くなり(『拾遺集』紀貫之)

淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に
 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守(『金葉和歌集』源兼昌)


作品名:根来塗香合
 (富士型丸)
備考:紙箱入

根来塗香合
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根来塗は、黒漆による下塗りに朱漆塗りを施す漆器で、
日本の漆器全ての原点といわれているそうです。

朱や赤は、洋の東西を問わず、
魔除けや神聖な意味合いから宗教的な道具や物に、
用いられることが多い色のようです。

日本だけでなく中国・東南アジア諸国など、
漆の樹が生育する地域一帯には、
朱漆を塗った器物を用いる伝統が見られるとか。

鎌倉時代、高野山における対立により紀伊国根来寺に、
本拠を移した新義真言宗の僧徒が、
寺内で使用するために製作した漆器が有名となったため、
広く朱漆器が「根来塗」と呼ばれるようになったようです。

室町時代に隆盛を極め、僧は6000人近く、
領地72万石、寺院数2700以上だったみたいです。

古い朱漆器では、長年の使用で、表面の朱漆が摩滅して、
下地に塗られた黒漆が所々露出し、模様のように見えることが多いそうです。
このような漆器は、特に、茶人に好まれたようです。

これを人為的に再現し、朱塗の中に黒い部分が浮かぶのを、
デザインとして見せることも行われているみたいです。

1585年、豊臣秀吉の根来攻めにあたって、
漆器職人達も根来を退去し、海南黒江・輪島・薩摩等に移住して、
それぞれの土地に漆器の技法を伝えたとされるそうです。

朱漆をかけず、黒漆のまま仕上げたものは、
「黒根来」と呼ばれることがあり、茶道具として珍重されるとか。

高度経済成長期、安価な中国漆器が大量に入り急速に衰えるのですが、
和歌山県では、昭和04年に漆器試験場を立ち上げていて、
平成09年に漆器研究開発室と名称をかえて、
紀州漆器など伝統の工芸品の復活と産地の活性化に
取り組んでいるそうです。

重要文化財としては、
「朱根来塗供物鉢」「朱根来塗供物台」
「朱漆折敷」「朱漆三脚盤」「根来輪花天目盆」
などがあるようです。


作品名:ハジキ香合(織部)
作者:松本鉄山
備考:桐箱入

ハジキ香合(織部)
※画像を押すと拡大できます。
ハジキ香合は、薮内家伝来の燕庵名物「織部袂香合」を、
写した香合だそうです。

古田織部が薮内剣仲の茶事に招かれた時、
着物の袂に入れて持参し、
剣仲に贈ったと伝えられるものだとか。

香合などの蓋の甲に弦形の摘みのついている物を
ハジキというようで、織部焼に多くみられ、
水指の蓋裏にもついているようです。

古墳時代から奈良・平安時代にかけて用いられた
素焼土器の総称もハジキというそうです。
こちらは、赤褐色または黄褐色の土器なのだとか。

形物香合番付の西三段目23に
「染附 竹ハシキ」があるそうです。

これは、裾が窄んだ四方箱形の桟蓋で、
撮みは竹の枝が三本に分かれていて、
左右が蓋の面に貼り付き中央の一本がハジキになっているのだとか。

寸法は一定してないようですが、総じて小振りで、
図柄も様々なものがあるみたいです。


作品名:ケヤキ香合
 (早苗にホタル)
作者:司峰
寸法:4.5cm四方
備考:桐箱入

ケヤキ香合
※画像を押すと拡大できます。
早苗は、苗代から田へ移し植えるころの稲の苗のことだそうです。

旧暦5月は、田植をする月であることから
「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短くなり、
「皐月(さつき)」となったみたいです。

旧暦5月は、現在のグレゴリオ暦でいう、5月下旬〜7月上旬頃だそうです。

田植は、沖縄を除くと全国的に4月〜6月に田植をするようです。
本田の水温が15℃以上が、田植の出きる目安なのだとか。

生育には、20℃で100日程度が必要で、
10℃以下になるとだめだそうです。


作品名:香合(桑)
 (面取青海波蒔絵)
価格:3,000円
備考:紙箱入

香合(桑)
※画像を押すと拡大できます。
青海波(せいがいは)は、祝い事に舞われる雅楽の演目
「青海波」の衣装に使われる文様で、
半円形を三重に重ね、波のように反復させたものだそうです。


■源氏物語
源氏物語第七帖「紅葉賀」には、光源氏が頭中将と共に、
十月に行われる朱雀院行幸のための試楽で「青海波」を舞ったようです。
ただ、源氏を憎む弘微殿の女御が舞を見て不吉な言葉を発し、
周囲の女房から「お人が悪い事」と言われたのだとか。


■雅楽の演目「青海波」
一説には、中国西域地方の青海省の地名を用いたとも、
和邇部太田麿が曲を作り、良峯安世が舞を作り、
小野篁が詠を作ったともいわれ、
我が国が産んだ舞曲であろうともいわれるとか。

特に、打ち物の奏法に「千鳥懸」「男波」「女波」などという、
粋な美しい名称が付けられているみたいです。

青海波の装束は、萌黄顕紋紗に六分波形の文様を幾重にも重ねた地紋で、
その紗の上に表裏会わせて約80か所に千鳥の刺繍が施されているようです。

ちなみに、この衣装の下に着る半臂は、
萌黄地の綾錦に牡丹・唐草・五か・花菱が織りだしてあるそうです。
袖先と襟は、紅地金襴に散雲の金箔通しという豪華絢爛な仕上げなのだとか。

太刀もつけるようで、鞘には千鳥と波文様が蒔絵と螺鈿で付され、
金具は枝菊の透彫りになっているそうです。


作品名:鷺草丸香合
価格:3,000円
備考:紙箱入

鷺草丸香合
※画像を押すと拡大できます。
サギソウ(サギラン)は、ラン科の湿地性の多年草で、
7・8月に、1〜3輪の白い花をつけるそうです。
花は、特に夜になると芳香を発するみたいです。

サギソウは、下側にある花弁(唇弁)の開いた様子が、
シラサギが翼を広げた様に似ていることからの名前だそうです。


■サギソウの盗掘
その可憐な姿からか、保護されている自生地ですら、
盗掘が絶えないとのこと。

環境省により、レッドリストの準絶滅危惧に指定を受け、
岡山県自然保護条例など、いくつかの県では、
その採集が禁止されているそうです。

市販球根を1回開花させるだけなら難しくないそうで、
園芸用に、野生型あるいは普及品種であれば、
一球あたり数百円以下で入手できるようです。

ただ、植物ウイルスの感染による枯死がしばしば見られ、
「同一個体を長年にわたって健全な状態」で維持栽培するのは、
ベテラン栽培家でも容易ではないのだとか。


■無菌播種などによる栽培
種子を次亜塩素酸ナトリウムなどで殺菌して、
微生物・菌類などを排除してから、
栄養成分の入った培地などに無菌的に種子をまくことにより、
比較的容易に「同一個体を長年にわたって健全な状態」に
保つことも可能だそうです。

ただ、営利的には成り立たないため、
研究施設などで実験的に生産される程度で、
一般的にはほとんど流通していないようです。

営利的には「栄養繁殖」という、
胚・種子を経由せずに根・茎・葉などの栄養器官から、
次の世代の植物が繁殖する無性生殖を利用するそうです。

サギクサの場合、地下茎の先端に形成される球茎から、
年2〜3倍程度に増殖できるのだとか。


■サギソウの今後
1968年、世田谷区の「区の花」として指定され、
サギソウに絡んだ昔話も残っているとか。
夏には「サギソウ祭り」も開催されるそうです。

由来は、世田谷区には、
昔、大規模なサギソウの自生地が存在したためなのですが、
現在、世田谷区にはサギソウの自生地は残っていないようです。

サギソウの花言葉は、
「夢でもあなたを想う」
だそうです。

「思ひつつ ぬればや人の 見えつらむ
 夢としりせば さめざらましを」(小野小町『古今集』より)

思いながら寝たから、あの方とお逢いしている夢を見てしまったのでしょう。
もし、夢だと知っていたなら、目を覚ましはしなかっただろうに。
という意味だそうです。

せつなさを感じさせる様な夢から醒めたとき、
ふと窓際を見つめると一輪のサギソウが咲いる。
そんな風景は、現代日本では難しくなりつつあります。

たとえ作りものでも(例えば、サギソウの香合とか)、
サギソウが、夢から醒めた後の活力となってくれると良いですね。


作品名:根来塗香合(菊形)
備考:紙箱入

根来塗香合(菊形)
※画像を押すと拡大できます。
もともと菊は中国から不老長寿の霊草としてもたらされたものだそうです。
今から約1300年前、天武天皇の時代に始まったといわれる、
9月9日の重陽の節会では、天皇をはじめ廷臣たちが菊酒を飲んで、
不老長寿を願っているようです。

また、咲いている菊の花の上に真綿をかぶせ、一晩菊の露を吸いとらせた後、
その真綿で身体をぬぐうと若がえるともいわれていたとか。

菊の文字は、日本書紀において菊理媛神(くくりひめのかみ)と、
神名の一部に現れるそうです。

黄泉を訪問したイザナギ(伊奘諾尊)が、
イザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出し、
黄泉比良坂で生者(イザナギ)と死者(イザナミ)の言葉を取り継ぐ場面で、
伊奘諾尊と菊理媛神が登場するようです。

後に春のサクラに対して、日本の秋を象徴する花となる菊の花。
それが決定的になったのは、鎌倉時代の初め後鳥羽上皇が菊の花の意匠を好み、
「菊紋」を天皇家の家紋とした頃からだそうです。

江戸時代前期から栽培熱が高まり、育種が進んで多数の品種が生み出され、
正徳(1711年〜1715年)頃からは「菊合わせ」と呼ばれる、
新花の品評がしばしば行われたみたいです。


■海外の菊
ヨーロッパへは18世紀後半に中国からもたらされたそうですが、
なかなか人気が出なかったようです。

その後幕末の日本から様々な品種がもたらされると、
逆に、大変な人気を呼び、以後、イギリスを中心に、
ヨーロッパでも菊の育種が盛んになったみたいです。


■一文字(御紋章菊)
菊の品種は多数ありますが、
ここでは大菊(一輪菊)の一種「一文字」について説明します。

「一文字」は、「御紋章菊」「広熨斗」「広熨斗」ともいうみたいです。
その名の通り、天皇の「菊のご紋」のように、
平たい花弁が一重で並ぶのだとか。
花弁の数は14〜16枚程になるそうですが、16枚が理想とされるそうです。


作品名:ブリブリ香合
作者:斎藤南斎
備考:桐箱入

ブリブリ香合
※画像を押すと拡大できます。
ぶりぶり(振々)は、木を八角形に削り、両端を細く中央を太く瓜型にして車輪を付け
「ぶりぶり」とひっぱって遊ぶおもちゃだそうです。

さて、今回は数学のお話をしようかと思います。

六角形・八角形などは、正多角形というようで、
全ての辺の長さが等しく、全ての内角の大きさが等しい多角形みたいです。

これらを立体で考えると、正多面体は、5つしかないようで、
正四面体・正六面体・正八面体・正十二面体・正二十面体なのだそうです。

正四面体・正八面体・正二十面体の3つは、正三角形の組み合わせで出来ていて、
それぞれ面の数が4・8・20、辺の数が6・12・30、頂点の数が4・6・12
となっているようです。

正六面体(サイコロ型)は、正方形が6面集まったもので、辺の数は12、
頂点の数は8みたいです。

正十二面体は、正五角形が12面集まったもので、辺の数は30、
頂点の数は20なのだとか。


■正多面体が5つしかない理由
まず、1つの頂点に集まっている面の数を数えるそうです。
それぞれ、
正四面体:正三角形が3面
正六面体:正方形が3面
正八面体:正三角形が4面
正十二面体:正五角形が3面
正二十面体:正三角形が5面
となっているようです。

もし、正六角形で多面体を作ろうとすると、
一つの角が「120度」なので、3面で「360度」
となり、1つの頂点を中心に、平面状態ですきまなく並んでしまいます。
つまり、面の形は、正三角形・正方形・正五角形の三種類しか
考えられないということになるようです。

このことを踏まえると、多面体を作れる正多角形は、
以下の表のようになるみたいです。
面の数1つの頂点に並べられる面の数
正三角形3枚・4枚・5枚
正方形3枚
正五角形3枚


この正多面体の制限は、
オイラーの多面体定理というもので証明できるそうです。
「頂点数+面の数ー辺の数=2」

証明自体は省きますが、この定理からは、
正多面体は5種類しかないことの他に、
・すべての面が六角形であるような多面体は存在しない
・単一の凸n角形で平面を敷き詰めるものはn≧7では存在しない
・2次元以上ですべての頂点の次数が6以上はなく、必ず次数が5以下の頂点をもつ
などが証明できるみたいです。

ちなみに、多角形(平面)の場合、辺と面の数は、同じなので、
「頂点数+面の数ー辺の数=1」
が成り立つのだとか。

※どんどん、茶道具から話題が逸れていきますが、
興味のある方は、引き続きお付き合いください。


■ダイアモンドの結晶形
ダイアモンドは炭素の結晶なのですが、
すべての物質のうちで最も硬いそうです。
これは、結晶内部の炭素原子が密集して配列し、
しかもその相互の結合が非常に強固なためみたいです。

ダイアモンドの結晶形は、形が歪んだり、変形したものが多いそうなのですが、
多くの結晶の形を整理分類してみると、
六面体結晶(キュービック)・八面体結晶(オクタヘドロン)・十二面体結晶(ドデカヘドロン)
という三種類の基本となる結晶の組み合わせで出来ているのだとか。

もう少し、ミクロな見方をしてみると、
その結晶構造は、面心立方格子と呼ばれる一辺の長さ3.56オングストロームの立方体構造で、
各面の中心に1個の炭素原子があるそうです。

その立方体の内部にある炭素原子は、1.54オングストームの長さの腕を4本出して、
まわりの炭素原子と立体的に結合しているのだとか。

この原子間の結合は共有結合と言われる強固な結びつきのため、
原子同士を引き離すには非常に大きなエネルギーが必要になり、
それが硬度が高い原因となっているみたいです。


作品名:塗三点セット(雲錦流)
備考:紙箱入/樹脂製

塗三点セット(雲錦流)
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ここでは、合成樹脂について説明しようかと思います。

合成樹脂は、1835年に塩化ビニルと、
ポリ塩化ビニル粉末を発見したのが最初だそうです。
1869年、ビリヤードの玉の原料としてアメリカで開発され、
セルロイドとして、初めて商業ベースに乗ったようです。

このセルロイド、植物のセルロースを原料としていたみたいです。
全てが、人為的に製造された、高分子化合物からなる物質ではないため、
半合成プラスチックと呼ばれることもあるそうです。

本格的な合成樹脂第一号は、
1909年にアメリカのレオ・ベークランドが工業化に成功した、
ベークライト(商品名)だそうです。
フェノールとホルムアルデヒドを原料とした熱硬化性樹脂で、
一般には、フェノール樹脂というみたいです。

第二次世界大戦後、石油化学の発達により、
主に石油を原料として多様な合成樹脂が作られるようになるそうです。
日本では、1960年代以降、日用品に多く採用されるようになるのだとか。

以降、1970年代には工業用部品として使用可能な、
エンジニアリングプラスチック(エンプラ)が開発され、
1980年代には、更に高度な
スーパーエンジニアリングプラスチック(スーパー・エンプラ)が、
使用されるようになるみたいです。

フライパンに使われるフッ素樹脂のテフロン(商標名)などは、
スーパー・エンプラの有名どころでしょうか。


作品名:塗三点セット(独楽木製)
備考:紙箱入

塗三点セット(独楽木製)
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ここでは、茶箱のはじまりに関して、
少し説明しようかと思います。

立花実山著『南方録』に、
利休が大善寺山で野がけの茶会を催したとき、
尻ぶくらの茶入を茶箱に仕込んで用いた、
とあるそうで、これが、茶箱の始まりのようです。

利休形の茶箱は、桐木地でできているようで、
宗旦好は朱塗り・一閑張りみたいです。

当初、茶弁当といった呼び方もされていることから、
旅先でお茶を一服飲めるように、点前道具一式を仕組んだ
携帯用のものにすぎなかったそうで、
座敷・庭・野山で用いていたようです。

久保長闇堂著『長闇堂記』に、
「茶弁当はと云ふは、是も利休初めての作なり。」
とあるそうです。


作品名:赤楽瓢香合
作者:楽入
価格:5,000円
備考:桐箱入

赤楽瓢香合
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日本では、『日本書紀』の中で、瓢(ひさご)という言葉が登場するそうです。
その記述によると、仁徳天皇11年(323年)、茨田堤を築く際、
水神へ人身御供として捧げられそうになった茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)という男が、
ヒョウタンを使った頓智で難を逃れたという話みたいです。

ここでは、この話について、少し説明しようかと思います。


■茨田堤築堤の物語
あるとき、北河内の茨田地方の低湿地帯を治めるために、
淀川左岸に堤を築こうとしたそうです。

これが、非常に難工事で、築いても築いても決壊してしまったようです。

その時、天皇の夢の中に神が現れて
「武蔵の人強頸(こわくび)と、河内の人茨田連衫子とを、人柱として河の神に捧げよ」
と告げたそうです。

強頸は泣きながら河に入って死ぬのですが、一方の衫子は
「私の命が欲しいと云った神が、もし本当の神ならば、このヒサゴを沈めてみよ」
といって、ヒサゴを二つ河へ投げ入れたが、
沈むこともなく流れていったので、
衫子は死なずにすんだようです。

その後、仁徳天皇11年10月
「天皇は、北の河のコミを防がむとして茨田堤を築く」
とあり、ついに茨田堤は完成するみたいです。


■茨田堤(まんだ/まむた/まぶたのつつみ)
当時のヤマト王権は、中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期で、
瀬戸内海は重要な交通路と認識されていたそうです。

瀬戸内海に面した難波の地に本拠を移したようですが、
草香江と呼ばれる広大な湖・湿地帯が隣接し、
北東からは淀川の分流が、南からは平野川が草香江に乱流しながら流入していたみたいです。

本拠となる高津宮は上町台地上に営まれたそうですが、
上町台地の北からは大きな砂州が伸びていて、
この砂州が草香江の排水を妨げていたようです。

淀川分流や平野川からの流入量が増えると、
容易に洪水や高潮などの水害が発生していたみたいです。
そのため、治水対策の目的も併せて、河内平野の開発を企てたようです。

草香江に流入する淀川分流の流路安定を目的として、
この周辺「茨田」地方に、
堤防を築造することになるみたいです。
堤防は、当時の淀川分流の流路に沿って、20km超にわたって築かれたそうです。

茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しているそうで、
実際に築造されたことが判るのだとか。

この工事では、どうしても決壊してしまう場所が2か所あったようで、
それぞれの箇所に1人ずつ人柱を立てることとなったのだそうです。

その後、結果として工事が成功した2か所は、
強頸(こわくび)が人柱となった場所は、コワクビの断間(こわくびのたえま)、
もう一か所は、茨田連衫子にちなみ、コロモコの断間(ころもこのたえま)と、
呼ばれたみたいです。

「コワクビの断間」は現在の大阪市旭区千林、
「コロモコの断間」は寝屋川市太間に当たるとする伝承があるとか。


■日本最初の大規模工事
日本最初の土木事業としては、この茨田堤以外に、
堀江の開削という事業もあったようです。

『日本書紀』仁徳紀11年の記事に
「天皇は、洪水や高潮を防ぐため、難波宮の北に水路を掘削させ、
河内平野の水を難波の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた。」
とあるそうです。

難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていたため、
ヤマト王権は河内平野の開発を企図し、
草香江の水を排水するための水路を掘削することとしたようです。

水路は上町台地の北部を横断して難波の海(大阪湾)へ通じ、
「堀江」と呼ばれるようになったのだとか。


作品名:薩摩焼香合
作者:はらら窯
備考:木箱入

薩摩焼香合
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薩摩焼と茶人が呼んでいるものは、
苗代川焼・龍門司焼・竪野焼・大隅の帖佐焼・鹿児島の平佐焼を含む、
それらの総称を指すそうです。

薩摩焼は、朝鮮から渡来した陶工たちによって、
はじめて薩摩で陶磁器が焼かれるようになったようです。

その渡来の年代には、二説あるみたいで、
1598年に、藩主島津義弘が朝鮮の役の際に連れ帰ったという説と、
文禄の役(1592年〜)に、最初の渡来があったという説があるとのこと。


■古薩摩の主流
多くの陶工の中で、薩摩焼の主流を成したのが、
金海(星山仲次)と、朴平意の二つの流れのようです。

星山仲次は、1602年ごろ、義弘の館のある帖佐の宇都に窯を築いたそうで、
これが、古帖佐の興りみたいです。
星山仲次は、義弘の命で、瀬戸へ5年間修行に行き、
戻ってから、この古帖佐の窯で茶入などを焼いたようです。

1608年、義弘の転城とともに加治木へ移り御用窯として務め、
義弘没後、1620年に鹿児島城下の竪野へ三度目の移窯を行ったそうです。
竪野焼は、藩の保護のもと、安政年間(1854年〜1860年)まで続いたとか。

朴平意は、1604年から下伊集院村苗代川で、
沈当吉と共に半官半民的な窯を開窯したようです。


■古薩摩の作品
古薩摩の中で、特に大切にされているのが、
御判手と火計手だそうです。

御判手(ごはんで)は、藩主・義弘および義久が、
陶工に命じて作らせた作品の中で、
優秀作のものに限って特別の印(愛用の中国銅印)を、
茶碗の見込みや胴に捺したものみたいです。
印款は「萬」「義」「苗」の字の陰刻だとか。

火計手(ひばかりで)は、原料の陶土を朝鮮から取り寄せ、
日本で焼成したものを言うようで、
数量に限りがある貴重なものだそうです。


作品名:七福神香合
作者:伊東桂楽
備考:桐箱入

七福神香合
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桂窯の伊東桂楽は、
初代の寄神宗白に師事した人だそうです。

桂窯で、茶の湯のやきもの一筋に、
30余年活動しているとか。


作品名:光悦写兎の画香合
作者:楽入
備考:桐箱入

光悦写兎の画香合
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本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、
1558年に本阿弥光二の長男として京都で生まれたそうです。

楽焼白片身変茶碗「不二山」を製作、
舟橋蒔絵硯箱なども残しているようです。
共に国宝に指定されているみたいです。

国宝の茶碗は、この「不二山」と、
志野茶碗の「卯花墻」のみだそうです。

他にも茶碗では「光悦七種(光悦十作)」が重要文化財に指定され、
本作品の基となった「赤楽兎文香合」も重要文化財の1つみたいです。

近衛信尹、松花堂昭乗とともに、寛永の三筆と称されるほどの
書の達人で、その書流は光悦流の祖と仰がれたとか。
ちなみに、信尹は近衛流または三藐院流、
昭乗は松花堂流または滝本流と言うようです。

書は、彼らの没後、その業績を継承して、
さらに発展させることのできる人材が続かなかったようです。


■本阿弥光悦の家庭事情
本阿弥光悦の父・本阿弥光二は、
刀剣の鑑定・研磨・浄拭(ぬぐい)を家業としていたようです。
そして、子がなかった本阿弥光心の婿養子となったのだとか。
後に、光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てたそうです。
また、織田信長とも親しかったようです。

本阿弥家は、足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だそうで、
そんな中、光悦は幼い時から家業を通して、
あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいったようです。

父が分家となり、家業から自由になった光悦は、
身につけた工芸知識を元に、
好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を、
創造するようになったみたいです。


■その時、傑作が生まれた
光悦が40代の時、俵屋宗達と出会い、
厳島神社の寺宝『平家納経』の修理にあたって、
宗達をチームに加え、以後、宗達も、
次々と傑作を生み出すようになったのだとか。

光悦が50代になると、俵屋宗達との合作
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を製作するそうです。
宗達の描いた絵に、後に「光悦流」と言われる書で和歌を書いた傑作で、
現在、重要文化財に指定されているようです。

1615年、光悦は57歳、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が、
豊臣方に通じていたとして自害させらると、
光悦は、徳川家康から京都の西北、
鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたそうです。
この地に、芸術家を集めて「光悦村」を築いたようです。

光悦の呼びかけに応え、多くの金工・陶工・蒔絵師・画家、
創作活動を支える筆屋・紙屋・織物屋らが集い、
その数は、56軒もあったのだったとか。
光悦は、村の経営と指導に当たったみたいです。

光悦は、楽焼の2代常慶、3代道入の指導を受け、
国宝「不二山」や「光悦七種(光悦十作)」などを製作したようです。
また、茶碗の箱に自分の署名を入れるという行為を初めて行うなど、
自由な発想でもって、次々と傑作を造っていったようです。

光悦は、約20年間、79歳で亡くなるまで、
この地で創作三昧の日々を送ったのだとか。


作品名:萩みかん香合
作者:守繁栄徹(蓮光山窯)
価格:5,000円
備考:木箱入

萩みかん香合
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萩焼は、李朝の陶技を中心に踏襲した技術や、
原土が茶陶として最適であった点など、
茶陶として、高麗茶碗の系譜を引く、
近世国焼茶碗の筆頭に挙げられるそうです。

以下、原土についてのみ説明しようかと思います。


■原土
萩の原土の主流は、周防国吉敷郡大道村産出の「大道土」で、
藩政時代は、御用窯以外、大道土の使用を禁じられたほど、
貴重なものだったようです。

藩政時代で、大道土以外の採取地は、
阿武郡松本村中之倉、阿武郡椿村小畑、阿武郡福川村金峯山、
大津郡深川村御所原、大津郡湯本射馬ヶ谷、大津郡釜屋、
豊浦郡阿川村中原山などがあったそうです。

現在使われている萩焼の原土は、
「大道土」「金峯(みたけ)山土」「見島土」などみたいです。

「大道土」は、防府市大道・山口市鋳銭司付近一帯から採取する土で、
砂礫の多い白色粘土だそうです。
ザングリとした手取りの良さが持ち味みたいです。

「金峯山土」は、阿武郡福栄村福川の金峯山から出る白土で、
粘り気のまったくないカオリンの一種だそうです。
通常、大道土に金峯山土を10%〜20%混ぜて耐火性を高めるのだとか。

「見島土」は、萩市沖合の見島で産出する、鉄分の非常に多い赤土で、
軽くて粘りがないのだそうです。


作品名:仁清ブリブリ香合
作者:桃岡堂
備考:桐箱入

仁清ブリブリ香合
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野々村仁清(ののむらにんせい)は、江戸時代前期の陶工で、
丹波国桑田郡野々村(現在の京都府南丹市美山町大野)に生まれたそうです。

通称清右衛門と言ったそうで、仁清の号は、
仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」の字を一字取り門跡より拝領したのだとか。

若い頃は粟田口や瀬戸で陶芸の修業をしたようで、
のち京都に戻り、1644年〜1648年頃、
仁和寺の門前に御室窯を開いたみたいです。

仁清は、色絵陶器を完成し、京焼の祖と称され、
金森宗和の指導を得て優雅な色絵陶や、
仁清釉と称される茶器類を残したとか。

また、破綻なく均一な薄さに挽きあげるような轆轤技に優れ、
「色絵藤花図茶壺」など、国宝もあるみたいです。


作品名:亀香合(木製)
作者:豊泉
寸法:長さ13cm
備考:桐箱入

亀香合(木製)
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、亀に関する言い伝えなどをまとめてみようかと思います。


■鶴は千年、亀は万年
亀は長寿・夫婦円満の象徴だそうですが、
これは、『浦島太郎』伝説の原典の一つにおいて、
浦島太郎が老人になったのちも、
乙姫(亀姫)が太郎を慕い続けて添い遂げ、
やがて太郎は鶴に、乙姫は亀に化身したというところから来ているようです。

歌川広重の『名所江戸百景 深川 萬年橋』には、
手桶の取っ手に吊るされたニホンイシガメであろう1匹の亀が描かれているそうです。
これは画題「萬年橋」の「萬年」を「鶴は千年 亀は萬年」にかけたものみたいです。


■四瑞の亀
中国では麒麟・鳳凰・応竜と共に、亀は「四霊(四瑞)」の一つなのだとか。
麒麟は信義を表し、
鳳凰は平安を表し、
霊亀は吉凶を予知し、
応竜は変幻を表すようです。
短く麟鳳亀竜(りんほうきりゅう)とも言うとか。

霊亀は、中国神話等では、
背中の甲羅の上に「蓬莱山」と呼ばれる山を背負った巨大な亀みたいです。
千年以上を生きた亀が強大な霊力を得た事で、
変異・巨大化したといわれているようです。


■四神の玄武
中国の神話、天の四方の方角を司る霊獣・四神の玄武は、
蛇のからみついた亀の姿だそうです。
玄とは黒を意味し、五行説では北方の色とされるみたいです。
俳句において冬の季語である「冬帝」・「玄帝」と同義で、
冬(北・玄)の象徴だそうです。冬のことを「玄冬」ともいうとか。


■宇宙観の亀
バラモン教による古代インドの人々の宇宙観に、大亀が出てくるようです。
世界は3頭の巨象に支えられ、その巨象たちは1頭の大亀に支えられ、
その大亀は1匹の未曾有の体躯を持つ大蛇の上に乗っているのだとか。


■蓑亀(緑藻亀)
緑藻類の付着したカメのことのことを「蓑亀」と呼ぶそうです。
背中に蓑を羽織ったように見えることに由来し、
日本では他に「緑毛亀」「緑藻亀」などと呼ばれるとか。
中国や日本では長寿を象徴する縁起のよいものとして珍重され、
古くからさまざまな文学作品や芸術作品に記述が見られるようです。


■長寿記録
動物の中でも長寿の代表格で、
確実な長寿記録としては、1766年にセーシェルからモーリシャスに持ち込まれ、
1918年に死亡したアルダブラゾウガメ(マリオンのゾウガメ)の、
152年の飼育記録があるそうです。


■亀甲獣骨文字
古代中国の殷時代後期(約3000年前)には、
銅製などの刃物で亀甲や獣骨などを刻んだ亀甲獣骨文字が使用され、
世界最古の漢字とされているようです。
字形解釈の典拠にもされているそうです。


作品名:桐香合
(扇面海松波)
作者:道場宗廣
価格:10,000円
備考:桐箱入

桐香合
※画像を押すと拡大できます。
風炉には木地・塗物等の香合を使い、
伽羅(きゃら)・沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)などの香木を使うようです。

炉には陶磁器のものを使い、練香(ねりこう)を使うそうです。

古くは、室礼(しつらい)として香炉に付属して置かれ、
大半は塗物だったみたいです。
草庵の茶室でも香炉と一対で席中に持ち出し飾られたようですが、
炭道具として独立した形での香合は、
記録では文禄年間(1573〜1595)以降とされるようです。

漆器や陶磁器の小品から取り上げて使うようになり、
また、桃山時代からは、
焼物香合(黄瀬戸・志野・備前・織部・信楽・伊賀・唐津)を焼かせることも始まったそうです。

もとは日用雑器から取り上げたものが多く、
江戸時代後期、文化・文政年間になると、
蓋置などとともに、小物に趣向を凝らす事が盛んになるみたいです。

唐物を中心に陶磁香合が重く扱われるようになり、安政2年(1855年)に、
交趾・染付・呉州・青磁・祥瑞・宋胡録などの唐物香合を主に215種で編集した
『形物香合相撲番付』が制作されるみたいです。


作品名:秋草蒔絵香合
(ラデン入り)
作者:道場宗廣
備考:桐箱入

秋草蒔絵香合
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「秋草の」という枕詞は、「結ぶ」にかかるそうです。

これは、古代、健康・長寿・旅の安全などを祈るため、
また吉凶を占うため、草の葉や茎を結ぶという風習があったところからのようです。
「妹が門(かど)行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまたかへり見む」(万葉集 3056)
「君が代も我が代も知るや磐代の岡の草根をいざ結びてな」(万葉集 10)


■国歌・君が代
少々、こじつけのようになりますが、
君が代について説明しようと思います。

『古今和歌集』の短歌に、
「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
というのがあるそうで、これが、国歌の歌詞となったみたいです。

「我が君」という単語は、『古今和歌集』と『古今和歌六帖』で出てくる表現だそうですが、
以降の文献では、「君が代」という表現に置き換わっているそうです。

元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、
おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、
色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになるようです。

一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、
『曽我物語』の曽我兄弟や、『義経記』の静御前などにもその例を見ることができるみたいです。


作品名:青磁雲鶴文香合
作者:柳海剛
備考:桐箱入

青磁雲鶴文香合
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中国陶器の香合には、交趾・染付・呉須・青磁・祥瑞などがあり、
その大半は『形物香合番付』に取り上げられているようです。
交趾は六十五種類、染付は八十五種類、
呉須は、藍呉須十四種、呉須赤絵二種、白呉須一種、
青磁は二重九種、祥瑞は十八種載っているそうです。

別の用途として生まれたものは番付の比較的上位に、
日本からの注文品は下位に配置されているみたいです。

雲鶴は、高麗の青磁のひとつで、
表面に白土をはめ込んだ象眼青磁で、
雲や鶴の模様を表しているそうです。

雲鶴にはもうひとつ意味があって、
雲と鶴とを組み合わせた文様として、
位袍(いほう:官位によって定められた色の袍)に多く用いられ、
親王および太閤の所用とされたようです。


作品名:志野柿香合
作者:養心窯
価格:10,000円
備考:桐箱入

志野柿香合
※画像を押すと拡大できます。
志野焼は、美濃焼の一種で、
美濃にて安土桃山時代に焼かれた白釉を使った焼物のことだそうです。

志野宗信が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりのようです。

可児市久々利から土岐市泉町久尻にかけて産出する、
耐火温度が高く焼き締りが少ない「五斗蒔粘土」や「もぐさ土」
という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、
志野釉(長石釉)と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を、
厚めにかけ焼かれるものだとか。

通常、釉肌には肌理(きめ)の細かい貫入や柚肌、
また小さな孔が多くあり、
釉のかかりの少ない釉際や口縁には、
緋色の火色と呼ばれる赤みのある景色が出るみたいです。


作品名:染付山水香合
作者:弘峰
価格:3,000円
備考:木箱入

染付山水香合
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染付は、磁器の加飾技法の1つで、白地に青で文様を表したものだそうで、
コバルトを主成分とする絵具が使われるようです。

コバルトの鉱石は、古代からエジプトや中国で、
ガラスや陶磁器を青く彩色するのに用いられていたみたいです。
八世紀の唐三彩に、色釉の呈色剤として登場し、
九世紀にはイスラムで染付が創始されるようです。
中国でも同じ九世紀頃に染付がくふうされるみたいです。

日本では十六世紀に、美濃焼でコバルト呈色の染付が行われたようですが、
盛行するのは十七世紀になって、
伊万里焼が中国製の呉須を入手して染付を焼造してからだそうです。


作品名:備前蛤香合(胡麻)
作者:木村陶峰
備考:桐箱入

備前蛤香合(胡麻)
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日本六古窯の一つ備前焼(びぜんやき)は、
岡山県備前市周辺を産地とする陶器だそうです。

釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、
「窯変」によって生み出され、
一つとして同じ模様にはならないのが特徴みたいです。

胡麻は、窯変の一種で、
窯焚の最中に、薪の灰が融けて、
生地にくっ付く事によりできる模様だそうです。

また、窯変瓦(ようへんがわら)という、
釉薬を使わずに備前焼と同じ製法で色調を出す瓦もあるようです。

備前焼の魅力である茶褐色の地肌は、
「田土(ひよせ)」と呼ばれる田んぼの底から掘り起こした土と、
山土・黒土を混ぜ合わせた鉄分を含む土で焼かれるそうです。


作品名:染付貝香合
作者:高野昭阿弥
価格:3,000円
備考:木箱入

染付貝香合
※画像を押すと拡大できます。
形物香合は、型にはめ込んで作られた香合のことだそうで、
染付のほか、交趾・青磁・祥瑞・呉須・宋胡禄などがあるようです。

かつて香合は、漆器が大半だったみたいですが、
江戸後期頃から、唐物を中心に陶磁器の人気が高まり、
1855年には、215種の香合を分類した
『形物香合相撲』が版行されたそうです。

現在でも「形物香合番付」として、重宝がられているようです。


■床に飾る香合
香合が本席の床に荘られている場合、
「炭手前を省略させていただいております。」
という意味だそうです。

大寄せの茶会のように、
時間的都合などで略する場合もあるみたいです。

この香合、風炉の時季には、香木を三片、
炉の時季には、三角錐にした練香三つほどを入れるようです。

床の間や書院などに荘る場合は、
紙釜敷を敷くのが基本だそうです。

帛紗や古帛紗を用いることもあるとか。

紙釜敷を床の間に荘る場合は、
紙釜敷のワサを床の中心にして向け、
上座に置くそうです。

また、帛紗の場合は、上座下座関係なく、
ワサを右にして荘るみたいです。


作品名:染付隅田川香合
作者:高野昭阿弥
価格:4,000円
備考:木箱入

染付隅田川香合
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ここでは、七種香合について説明しようと思います。

七種香合というのは、
祥瑞の蜜柑・瑠璃雀・瓜・瓢箪、
古染付の牛・屏風箱
呉須の周茂叔(しゅうもしゅく)の七種みたいです。


以下、七種香合を表にまとめてみます。
種類備考
祥瑞蜜柑[西二段目六位]
葉付の蜜柑の形で、
織紋あるいは丸紋つなぎの上に摘みの葉がある。
巻蔓だけのものもある。
多くが在銘で蓋裏または底に
「五良大甫呉祥瑞造」と二行書きされている。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「織紋もやう上に葉のあるを善とす」
とあるが、文様は様々で、
織文様の他に、松竹梅、山水人物、丸紋、詩語などがある。
葉の数は、五・七・九枚とあり、多いものを上とする。
瑠璃雀[東四段目十三位]
雀の形で、尾羽根が立ち、
染付で紋様を描き青色の釉を総掛けしたもの。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「惣瑠璃羽根少し出て口の穴通る」
とある。

尾羽根は一枚ずつ貼り付けらたもの、
胴と羽根の部分にを点体を描いたものもある。
[西二段目八位](立瓜)
阿古陀状の襞がある、
瓜を立てたような円筒状の形で、
頂上に摘みがある。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「織紋模様りんぼ形の葉ありやろう蓋」
とある。

模様は様々で『茶器名物図彙』に、
丸紋のものが図示され
「丸紋揃ひ詩などあるを賞翫す、
 ツマミ五葉・三葉あり、
 胴合にて底地土見る」
とある。

番付頭註に「銘有」とあるが、在銘のものは稀という。
瓢箪[西三段目六位](鳥差瓢箪)
瓢箪形で、身蓋とも総織紋の地に、
白抜きの丸窓が三つあり、
その中に、蓋は鳥、身は鳥差の絵が描かれている。
鳥差しと違う人物を描いたものもある。
撮みは蔓の切落としと同筒状のものがある。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「瓢箪」
とあり
「丸の内に馬乗と鳥さしの絵あり其外おりもやう」
とある。

遠州好で、下絵は松花堂が、
描き祥瑞窯に注文されたものといわれる。
古染付-
屏風箱[西四段目八位]
長方形で縦長の薬籠蓋で、
蓋の甲に桔梗紋、側面に二頭の馬、
他面に筏乗り、草文などが描れている。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「甲にかげひなたの桔梗あり
 前後に筏乗りと野馬二匹とあり
 横にすゝきの様なるものあり」
とある。

古い箱書附に「胴乱」と記したもの、
甲に山水図中に馬、
側面に座した人物を描いたものを
「屏風箱」としたものなどあるという。
呉須周茂叔[西二段目六位]
四方入角の、やや盛りあがった甲に、
欄干に肘をついた人物が水面を眺めている姿で、
水面に蓮を表す点描のあるものと無いものとがあり、
側面は宝尽しの変形で七宝と巻物の二種が描かれている。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「葉入角欄干あり人物あり
 水にチョボゝとしたるものあり蓮に見立たるなり」
とある。

蓮の花を愛し「愛蓮説」を著した周茂叔に因んだもの。


作品名:鍋島青磁香合
価格:5,000円
備考:紙箱入

鍋島青磁香合
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鍋島焼は、17世紀〜19世紀にかけて、佐賀藩(鍋島藩)において、
藩直営の窯で製造された高級磁器だそうです。

佐賀藩の支配下にあった肥前国有田・伊万里の中で、
大川内山にあった藩直営の窯では、
藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品など、
高級品をもっぱら焼造していたようです。

これを近代以降「鍋島焼」または「鍋島」と言うみたいです。

鍋島焼の伝統は、1871年の廃藩置県でいったん途絶えたものの、
その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、
21世紀に至っているとか。


■鍋島焼の代表例
代表的な鍋島焼は、
色鍋島・鍋島染付・鍋島青磁の三つみたいです。

色鍋島は、藍色の呉須で下絵を描き、本焼をした後、
赤色・黄色・緑色の三色で上絵を付けたものだそうです。
基本的に金色や銀色は使用しないみたいです。
上絵の下に描かれた藍色の輪郭線も特徴の一つのようです。

鍋島染付(藍鍋島)は、透明感のある素地に、
呉須による藍一色の染付を施したものみたいです。
藍色以外の色を使わないため、
線描きや濃(だ)みがはっきりと見え、
気品ある美しさがあるとか。

鍋島青磁とは、大川内山から産出する、
質の高い青磁原石を用いた青磁釉を、
何度もかけて焼き上げたものみたいです。
青磁釉は、鉄分を1%〜2%含んだ釉薬で、
還元焔で焼成することにより、
青緑色に発色するとか。


作品名:古伊万里写香合
作者:利祥
価格:5,000円
備考:木箱入

古伊万里写香合
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伊万里焼と古伊万里の大きな違いは、
作品そのものの持つ骨董的価値の有無だそうです。

江戸時代に、有田で焼成された歴史的、
骨董的価値のある作品を「古伊万里」と呼び、
明治以降に、現在の佐賀県伊万里市で焼成された陶磁器のことを、
「伊万里焼」と呼ぶようです。

本来は、有田焼に対して「古伊万里様式」というのがあるみたいで、
「柿右衛門様式」と「鍋島藩窯様式」に属さない作品を、
「古伊万里様式」と分類するそうです。

「古伊万里様式」は、肥前有田で江戸時代に生産された、
濃い染付と金襴手の磁器で、
当時、有田に隣接する伊万里の港から船積みされたことより、
この名が付けられたそうです。


作品名:矢筈香合(ケヤキ内金)
価格:3,000円
備考:紙箱入

矢筈香合(ケヤキ内金)
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筈(はず)は、元々、
「矢の尾部へV形に加工された弓弦を受ける部分」
の名称だそうで、転じて、筈はV形に形成、
または加工されたものを指すようになるみたいです。

筈には、同じ読み方で「弭(はず)」という、
弓の上下の弦を掛ける部分が存在するそうで、
この混同を避けるため、筈を矢筈、
弭を弓弭(ゆはず)ということもあるようです。

古くは箆(矢の棒の部分)に切込みを入れるだけだったそうですが、
現在では角やプラスチックでできた筈をつけるみたいです。
筈は、挿し込んだ後に筈巻(はずまき)という糸を巻きつけて、
抜けるのを防ぐのだとか。

筈が弦にはまるのは当然のことなので、
当然のことを「筈」というようになったみたいです。

これは今でも「きっとその筈だ」「そんな筈はない」
といった言い回しに残っているようです。


■矢羽とは
矢は、矢尻・箆・矢羽・筈などからなっているようですが、
ここでは、矢羽について少々説明しようかと思います。

矢に取り付けられている羽(矢羽)は、
鷲・鷹・白鳥・七面鳥・鶏・鴨など、
様々な種類の鳥の羽が使用されるみたいですが、
特に鷲や鷹といった猛禽類の羽は最上品として珍重され、
中近世には武士間の贈答品にもなったそうです。

鳥の羽は表裏があり、これを半分に割いて使用するため、
矢羽は二種類できるみたいです。

矢が前進したときに時計回りに回転するのが「甲矢(はや)」、
逆が「乙矢(おとや)」と言うようです。

甲矢と乙矢をあわせて一対で「一手(ひとて)」と言うそうで、
射るときは甲矢から射るのだとか。


作品名:高麗青磁香合
(雲鶴象嵌)
作者:柏岩
価格:5,000円
備考:紙箱入

高麗青磁香合
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高麗青磁は、
朝鮮半島の高麗時代(918年〜1391年)に製作された
青磁釉を施した磁器を指すそうです。

中国(呉越時代)の越州窯の青磁技術を導入し、
焼き始められたものだとか。

越州窯の青磁の色は、
中国では「秘色」と呼ばれたみたいですが、
高麗青磁は12世紀前半頃には「翡色」と評され、
朝鮮半島だけでなく、
中国各地でも名品として高く評価されたようです。

後に、この青磁の技術は失われてしまうそうです。


作品名:掛絡香合
作者:道場宗廣
価格:10,000円
備考:桐箱入/蓋裏蒔絵/
桐箱は古いです

掛絡香合
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掛絡(から/くわら)とは、
僧侶の袈裟についている丸い象牙の輪のことだそうです。

「身に掛け絡(まと)うもの」の意味みたいです。

この袈裟の掛絡を象った香合が、
掛絡香合(からこうごう)だそうです。

基本的には、天地が平らなドーナッツ形の香合みたいです。

茶会記などには「くわら」と記載されているようです。

黒塗・蒔絵などがあるそうで、
仙叟好みは、黒塗の蓋表に桔梗の蒔絵、
蓋裏と底に藤棚の蒔絵があるみたいです。

覚々斎好みは一閑黒だとか。


■仙叟好の掛絡香合
裏千家 四世・仙叟好の香合は、内外ともに黒の真塗りで、
側面は青貝・朱漆にて四条の輪線が、
蓋表は桔梗、内側は蓋・身とも、
藤の花の金蒔絵という意匠だそうです。

桔梗と藤はともに紫の花、
僧侶の衣の色として、
最上の紫衣になぞらえて描かれているのだとか。

7〜8月の時節に用いるみたいです。


■江岑好の掛絡香合「梅月」
掛絡香合「梅月」は、真っ赤な香合で、
五代宗哲作だそうです。

輪を横に二つに挽いて合口をつくり、
全体を梨子地塗とし、合口は金の釦(ぼたん)。
甲に老木の梅花と、
小さい三日月が金蒔絵してあるそうです。



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