茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

水指ってこんなの

水指には、金属・磁器・陶器・塗物・木地などいろいろありますが、
藪内竹心著『源流茶話』によると、
 村田珠光 が備前や信楽の水指、
 武野紹鴎 が釣瓶の水指、
 千利休 が曲物の水指
をそれぞれ用いたのだとか。

水指の蓋には、共蓋(替蓋)以外に、
別の用途で使用されていたものを水指に転用したものに、
漆塗りの塗蓋つくって使用する場合もあるみたいです。

この塗蓋、天皇から頂いた青磁水指の蓋が、
応仁の乱の混乱で割れてしまった為、
足利将軍が塗りの蓋で代用したのが始まりだとか。

かざり物をする場合に塗蓋を使うのは、
 「掛物の風袋の先の[露]、
 花の[露]、
 茶杓のかい先の[露]で三露。
 水指は水で濡らして使用するから、
 共蓋にすると[露]が入って四露になる。
 これはよろしくない。」
ということから来ているようです。

偶数は陰数として忌み嫌われていたみたいで、
さらに「4」は「死」に繋がり、
確かにあまりよさそうではないように思います。
(ちなみに陰数の奇数は 茶菓子のページ にて別途説明。)
普通、三露は
「席入り前・中立ち前・退出前の三度にわたって露地にまく打ち水」
のことだそうです。

ゲーム「信長の野望」にも、
青磁雲龍水指(足利義教所持)」・「青磁太鼓胴(砧青磁の最高傑作)」
抱桶(東山御物・大名物)」・「古染付葡萄棚(白磁・共蓋・夏用)」
絵高麗水草紋(北宋磁州窯の水指)」・「高霊仁寿府(李氏朝鮮、三島暦手の芋頭水指)」
南蛮櫛目(紹鴎糸目水指と同時代の物?)」・「南蛮縄簾(南蛮水指)」
柴庵(信楽焼の古格の代表作)」・「青海(武野紹鴎所持)」
黄釉沙金袋(高取焼白旗山窯の水指)」・「古岸(織部好みの志野芦絵水指)」
遠州高取(遠州好み:小堀遠州)」・「金屋(中興名物、遠州瀬戸、一重口の水指)」
伊賀共蓋(織部好み:古田織部)」・「備前種壷(水指に見立てたもの)」
耳付壷(漢作の水指、黒田家に伝わる)」
といった水指が出てくるようです。

利休百首では
・運び点てで水指を置く位置は畳の横幅を二つ割りにした中央にしなさい
・手桶水指の場合、置きあわせは手を横一文字にし、蓋は両手で前を取り、向こうの蓋に重ねなさい
・台目畳の時に水指は客付の畳から畳目が九ツ目の所に置きなさい
といったことが載っているみたいです。

水指を材料別に分類する以下のような感じになるでしょうか。

金属 唐銅
銅製
砂張
真鍮
毛織
陶磁器 中国系 青磁
白磁白磁捻梅水指
染付染付芋頭水指
染付桜川水指
呉須
祥瑞祥瑞腰稔水指
南蛮
安南
オランダ
赤絵・色絵
交趾黄交趾水指(小)
絵高麗
朝鮮系 三島
象嵌
鉄絵文様
御本手
国焼系 伊賀
信楽
備前
丹波
志野
織部
瀬戸瀬戸一重口水指
高取高取水指
高取竹節水指
御室水指(紫交趾さざえ)
寿づか菱馬水指
御深井御深井水指
唐津
木・竹製品 手桶朱手桶水指
黒手桶水指
釣瓶
曲物曲水指(上)
曲水指春慶塗



『利休百首』に
43:「はこびだて水指置くは横畳二つ割りにてまんなかに置け」
45:「水指に手桶出さば手は横に前の蓋とりさきに重ねよ」
66:「二畳台三畳台の水指はまず九つ目に置くが法なり」
とあるようです。

読み:しょんずいこしねじりみずさし
作品名:祥瑞腰稔水指
作者:高野昭阿弥

祥瑞腰稔水指
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祥瑞は、江西省景徳鎮の民窯で明末期〜清初期に作られた青花磁器のことみたいです。

高野昭阿弥は、京焼・清水焼で評判の窯元。
京焼・清水焼の始まりは平安時代以前で、
平安京の造営と同時に本格的に焼き物作りが始まったようです。
名称は、清水寺への参道である五条坂界隈で
清水六兵衛・高橋道八など多くの窯元があったのが由来みたいです。


読み:たかとりみずさし
作品名:高取水指
作者:亀井楽山
備考:鵬雲斎宗匠書付

高取水指
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高取焼は、黒田如水・ 小堀遠州 らが九州の風土の中で育てあげた茶陶窯。
遠州七窯の一つで、筑前黒田藩の御用窯のようです。
最初、永満寺窯を築いた朝鮮から来た八山(和名=八蔵重貞)が、
黒田長政に「高取」の姓を拝領、1614年に「内ヶ磯窯」を築いたらしいです。
小堀遠州 の指導を受けて「遠州七窯」の筆頭として多くの中興名物を造りだしたみたいです。
最後は白旗山の窯で生涯を終えたそうです。

四代・源兵衛勝利は、1716年に早良郡麁原郡に東皿山窯を開いて、
一年の内半年は鼓窯(現福岡県朝倉郡東峰村小石原鼓:宗家の現住所)に滞在して、
双方で制作を行う「掛勤」を始めたみたいです。
宗家の取焼の技術は一子相伝とのこと。

亀井楽山は、高取焼味楽窯十四代目味楽の弟で、
大徳寺管長の方谷浩明より「楽山」の号名を受けた人らしいです。
この味楽窯、小石原鼓から今の西新町に1686年に移窯したものみたいです。
ちなみに亀井楽山の窯は楽山窯というそうです。


読み:はくじねじりうめみずさし
作品名:白磁捻梅水指
作者:手塚祥堂
寸法:高さ12cm/口径21cm
備考:桐箱よごれ有り

白磁捻梅水指
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ケイ酸とアルミニウムを主成分とする白色の粘土の素地に、
鉄分のない植物灰と高陵石から精製された透明釉薬を掛け、
高温の還元炎で焼き上げて作る磁器の一種だそうです。
起源は560〜570年代の北斉(中国)で、青磁の製造技術の完成と共に発展したみたいです。
北宋時代の定窯で、白磁の名品が多く作られるようになったようです。

日本に白磁の製造技術が伝来したのは、文禄・慶長の役(1592年〜1598年)に際し、
朝鮮半島から来た陶工によってもたらされたそうです。
1616年ごろ、佐賀県有田の泉山で、白磁に適した地層が見つかり、
李参平によって、白磁が製造され定着したみたいです。
文化・文政年間(1804年〜1830年)ごろには、白磁は日用品として普及するとのこと。

手塚祥堂陶苑の代表者手塚央は、1934年京都生まれで、
初代手塚玉堂を父に持つ五人兄弟の次男。
(長男は1933年生まれの二代目手塚玉堂。)
1959年に京展出品以後、三軌会展・日展他に出品しているとか。
1970年以降は、三軌会展を中心に発表しているそうです。


読み:そめつけいもがしらみずさし
作品名:染付芋頭水指
作者:手塚祥堂

染付芋頭水指
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染付は、白地に青(藍色)で文様を表したものを指すみたいで、
中国・朝鮮では青花と呼ばれる磁器の加飾技法の1つだそうです。
この技法は中国元時代(1271年〜1368年)の景徳鎮窯で創始され、
朝鮮・日本・ベトナムなどに広まったみたいです。
日本では十七世紀に伊万里焼が作り始めたようです。

清水焼の郷「清水焼団地」に窯を構える手塚祥堂陶苑から一言、
「工芸団体・三軌会で、
陶芸・染色・漆芸・金工・木工・竹工・革工・人形・紙芸・ガラス・硯・刺繍・その他諸工芸の皆様と
研究団体を作り、東京・京都・名古屋・仙台・山形他で毎年展覧会を開催しています。」
とのこと。


読み:たかとりたけふしみずさし
作品名:高取竹節水指
作者:亀井味楽

高取竹節水指
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高取焼の大きな特徴は、七色の釉薬を特色とする「高取焼釉薬」だそうです。
また、形や装飾の簡素さがあるとのこと。
胎土となる土の配合、釉薬のかけ具合、登窯の作用によって、
様々な表情を生みだすことを想定した上で、その魅力を活かすように作られているとか。

以下に高取焼(宗家)の名称を簡単に説明しようかと思います。
名称1 名称2 備考
創始時代の高取焼 高取永満寺窯 筑前国主黒田如水・長政親子が、陶工八山を見出し、1606年製陶所を設け開窯させた。
五十石の禄を賜り、士分に列し御用窯として藩主に被護されて来た。
古高取 永満寺窯 1606年に始まる。
内ヶ磯 1611年に始まる。
山田窯 1624年に始まる。
遠州高取 村白旗山窯 1630年小堀遠州の指導にて作陶。
小石原高取 朝倉郡小石原鼓に移転。
御庭焼高取 1686年、早良郡に移転。
現在の高取焼 味楽窯 1717年、藩主の命に依り朝倉郡小石原より西新町に移転。

高取焼味楽窯の第十三代亀井味楽は、1944年に農商省より技術保存者として認定されたそうです。

第十四代亀井味楽は、1931年福岡生まれ。日本工芸会正会員、文化連盟理事、
福岡市無形文化財保持者だそうです。
祖父の第十三代亀井味楽に師事したみたいです。

当代の第十五代亀井味楽は、1960年生まれ。2001年に「第十五代味楽」襲名したようです。
現在は地域の催事をはじめ、日本各地にて講師として陶芸の魅力を広めたり、
陶芸教室などにも力を入れているとか。


作品名:御深井水指
作者:藤山
備考:桐箱入

御深井水指
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御深井焼(おふけいやき)は、主に17世紀後半〜18世紀に盛行したみたいです。
灰釉に長石を加えて透明度を高めた釉を施すとともに、
摺絵・型打ち・貼付文などを用いた陶器類の呼称だそうです。

本来は、尾張徳川家の御庭焼の一種で、名古屋城内の御深井丸で窯を築き、
上記のような釉を施した陶器が焼かれ、それを「御深井焼」と呼んだようです。

開窯については初代藩主徳川義直のころの寛永年間とする説と、
二代藩主光友の時代とする説があるみたいです。

美濃窯・瀬戸窯で江戸時代初頭から使い始めた灰釉(かいゆう)系の透明度の高い、
いわゆる御深井釉を使って茶具、仏具や飲食器を焼いたそうです。

明の帰化人で義直に仕えた「陳げんぴん」もこの窯に参与したといわれていて、
ベトナムの染付写しが流行したのも特色の一つなんだとか。

御深井窯は殿様窯ともよばれて格の高さを誇り、
材料や陶工にも吟味を尽くして存続したが、1870年に廃されたようです。

現在は、御深井焼に似た長石を加えた灰釉を施し型打ちをしたり、
摺絵などを施文した焼き物一般にまで呼称としてひろがり定着しているそうです。


作品名:菱馬水指
作者:石崎靖典
備考:寿づか焼/木箱入

菱馬水指
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寿づか焼(すづかやき)は、株式会社クリエイト寿づかのセラミック事業部で
創られた自社ブランドだそうで、
昭和9年に石崎茂一郎により創業した会社「カネモ石崎製陶所」から発展したようです。
寿づか焼清宝窯は、三重県四日市市平尾町2847−1にあり、TEL:0593-25-2881だそうです。

同じような絵柄の水指に「呉須菱馬水指」があります。
呉須水指の形物としては菱形と十二角形が喜ばれるみたいですが、
菱形のうち、馬絵のあるものが一番珍重されるそうです。

呉須菱馬水指の場合、
菱形の両面かけて大きく窓をとり、前面に二匹、後面に一匹の馬を描いていて、
蓋には山水文を描き、摘みは竹の節となっているみたいです。

呉須は明末清初の頃、華南仙頭方面の民窯の製で、
染付の発色に黒みがあって一種下手に属するもので、
官窯の作にみられない素朴さがかえって茶入の好みに適い、
盛んに彼地に注文されたんだとか。


作品名:曲水指(上)
作者:高木誠明
備考:紙箱入

曲水指(上)
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曲物は、薄い板材を、円形・楕円形などに曲げて底をつけた容器の総称で、
檜・杉・ヒバ・サワラなど比較的くせのない材料で薄板を作り、
熱湯の中につけて煮込む「蒸煮」という工程を経て、
柔らかくなった板を曲げ、木または竹の鋏で挟んで乾燥させ、
合わせ目を薄く帯状にした桜の皮などで縫い合わせ底を取り付けたものだそうです。
曲水指の他、曲建水などもあるようです。

なお、 曲物に関する細かい工程 はこちらで紹介しています。


作品名:曲水指春慶塗
備考:ヘギ目/紙箱入

曲水指春慶塗
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春慶塗(しゅんけいぬり)とは岐阜県高山市などで生産される漆器のことだそうです。

板を立体的に仕上げる曲げの技法が優れているようで、
他の漆器とは違い、天然の木目の美しさをそのまま活かし、
「透き漆」と呼ばれる透明の漆が用いられるのだとか。
下地の色は黄色、紅が用いられ、完成時の色味を変えるみたいです。
また、軽くて丈夫だそうです。

ヘギ目というのは、丸太を裂いた場合、裂かれた面に出る自然の線条凹凸柾目のことだとか。
特殊なカンナなどで人工的にへぎ目模様をだす技法は「取りへぎ目」というそうです。


作品名:細水指竹画
作者:阿山人
備考:桐箱入

細水指竹画
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10月始めから開炉までの時期に、点前畳中央に風炉を据える扱いをする「中置(なかおき)」。
水指は釜の右側から左側に置くのですが、これは、
「10月にもなれば肌寒い日もあり火の気が恋しくなるため、
火を少しでも客に近づける気持ちで、
それまで道具畳の左に据えられていた風炉を真中に寄せ、
その反対に、水を入れた水指は客から遠ざける。」
といったことによるようです。

中置の時に「細水指」を使うのは、
左側に水指を置くと、水指を置く場所が普段よりも狭くなるため、
胴廻りが細く背の高い細水指を使用することになるみたいです。


作品名:黄交趾水指(小)
作者:清楓
備考:雲錦流絵/高さ17cm/
口径13.6cm/紙箱入

黄交趾水指(小)
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雲錦模様は、満開の桜と紅葉とを配した色絵模様のことで
雲錦の雲は白雲で桜花を、錦は錦織で紅葉を表現したものなんだそうです。
琳派の画風を写したものだとか。

少々話がずれますが、「中国雲錦」というのは、
千五百年以上の歴史を持つ、中国歴代皇帝に愛された絹織物だそうです。
「雲錦」の名の由来は、
錦織りの生地が雲や霞の如く美しいためであるとか、
その図案に雲が多く描かれているためなど、
と言われているそうです。

さて、話を「雲錦模様」に戻すと、
京都の言葉遊び「吉野山の桜は雲かとぞ見え、竜田川の紅葉は錦の如し」
からとられたもののようで、幕末の京焼の陶工「仁阿弥道八(高橋道八)」が考案したそうです。
・・・と、ネットで調べると、口をそろえてそのように出ているのですが、
実際は誰が創った文章なのでしょうか?

少々詳しく見ると、
平安時代前期の勅撰和歌集『古今和歌集』の仮名序に
「いにしへよりかく伝はるうちにも奈良の御時よりぞ広まりにける。
かの御代や歌の心を知ろしめしたりけむ。
かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。
これは君も人も身をあはせたりといふなるべし。
秋の夕べ竜田川に流るるもみぢをば、帝の御目に錦と見たまひ、
春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける。

とあるそうで、

「竜田川 もみぢ乱れて 流るめり 渡らば錦 中や絶えなむ」(古今和歌集 読人知らず)

「桜花 さきにけらしな あしひきの 山のかひより 見ゆる 白雲」(古今和歌集 紀貫之)
が該当してくるみたいです。
(百人一首の「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは」もありますね。)

吉野山の桜の雲、竜田川の紅葉の錦。
「春・秋」「山・川」「花・木」「桜色・紅葉色」「雲・錦」の対比。

京都の平安京から、かつての都、奈良の平城京は、
「平安宮大極殿跡→平城宮大極殿跡→吉野山」という感じにほぼ一直線上に
ならんでいるそうです。

竜田川も大和川水系の支流。
奈良県を流れる一級河川なので、
当然、奈良の方を向けば思い至ったのではないでしょうか。

「雲錦模様」に込められたいにしえの人々の想い。
今も同じを感慨に耽ることができると良いですね。


作品名:瀬戸一重口水指
作者:唐三郎
備考:紙箱入

瀬戸一重口水指
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瀬戸焼は、日本六古窯の一つで、
鎌倉時代に、加藤四郎景正が中国の宋から施釉陶器の技法を伝えたのが始まりだとか。
この鎌倉時代〜室町時代末までを特に「古瀬戸」と呼んでいるそうです。

桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、
日用雑器も作られるようになるみたいです。
江戸時代、伊万里焼に市場を奪われ「瀬戸焼」は衰退していくそうです。

明治に入り、1873年にウィーンで開催された万国博覧会に出品された
「瀬戸もの」が評判となるみたいです。
以後、海外からの注文が多くなり、世界に瀬戸の名が広まるようです。

第一次世界大戦時、海外での陶磁器の生産がストップすると、
海外でも、日本の瀬戸焼の需要が高まるそうです。

世界大恐慌・日中戦争・第二次世界大戦と続く混乱の時代、
陶磁器産業は軍需優先による影響を真っ先に受け、物資・燃料の欠乏を招くようです。
そんな中、瀬戸焼は燃料の石炭の代わりに亜炭(皮木)を使って、
生活用陶磁器や当時不足していた金属製品の代用品の生産へと移行することで、
この時代を乗り越えていくそうです。

第二次大戦後、瀬戸窯業は戦災をほとんど受けなかったことや、
戦後の物資不足による生活用具の需要が高かったことなどにより、
急速に復興していくようです。
そして、日本の高度成長を機に、一層躍進していったみたいです。


作品名:染付桜川水指
作者:景雲
価格:20,000円
備考:木箱入

染付桜川水指
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明時代の古染付桜川水指は野村美術館や藤田美術館にあるようで、
青翠美術館には蓋付の古染付桜川水指もあるそうです。

水指に水を入れたときに浮かぶ桜の花。
この桜花文様、中国ではあまり見られないそうで、
和風といった感じになるのでしょうか。

胴周りの「波頭文」は、躍動感あるダイナミックな波の形を文様化したもので、
江戸時代に好まれたんだそうです。
明の天啓時代独特の文様なんだとか。

波模様というと、絵画・版画家「アンソニー・キャセイ」を思い浮かべます。
クリスチャン・リース・ラッセンが、波(海)の描き方に関して師匠と仰ぐ人物で、
渦巻き砕ける波、砂に広がる泡立つ波、水滴が砕ける波など、
現代画家として波を描かせたら右に出るものはいないのではないでしょうか。

個人的にはアンソニー・キャセイの「トワイライトシャワー」が好きで、
雲間から指し込む光が、海を照らし出す刹那、
波が岩にぶつかり大きな水しぶきが上がる様。
その一瞬は一度見逃したらもう出会うことができないと思わせるような
自然が織りなす美は、一期一会に通じるような気がするのは私だけでしょうか。


作品名:朱手桶水指
作者:岡本陽斎
価格:28,000円
備考:桐箱入

朱手桶水指
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利休百首45:水指に手桶出さば手は横に 前の蓋とりさきに重ねよ

解釈はいろいろですが、
置き合わせは、手を横一文字にして、蓋は割り蓋になっているから、
前の方の蓋をとり、向うの蓋に重ねておくということだそうです。

もう少し具体的に説明すると、2パターンあるみたいで
@両手で前の方の蓋をとって、右手を向うに繰り出して回して、
丸いほうをむこうにして、両手で向うの蓋の上に重ねる。
蓋を閉める時は、この反対に扱えばよい。
蓋の合わせ目は、上へかかっている方を手前にする。
人差し指を下にして右手で点前の蓋の前の中央をとり、
そのまま一手で水指の手を越して、向うの蓋の上に立て、
水指の手にもたらせて置く。
このときは水指の手前の方にあったところが上に向くことになる。

A右の手で水指の点前の蓋の中央を取り、
水指の勝手付のほうへ、丸味のあるほうを畳につけて、
普通の水指の蓋を取るようにして置いてもよい。

岡本陽斎は、昭和7年京都生まれの塗り師。
工房は石川県中山町にあるのだとか。
この作家の棗は、とてもきれいですよね。


作品名:黒手桶水指
作者:岡本陽斎
価格:25,000円
備考:桐箱入

黒手桶水指
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真塗の手桶形で、割蓋(わりぶた)がつくそうで、真の水指とも言うとか。
蓋を取る時の手の扱いが難しく、
立花実山著『南方録』に
「真の手桶の水指は把手(とって)が横になるように置き、
つるべの水指は竪になるように置け、
という人がいる。

また逆に手桶は竪、つるべは横という人もいる。
宗易は両方とも横になるように置くのがよいといわれた。
竪に置いたのでは第一把手につかえて柄杓の動きがむずかしい。
それにすでに竪に置くべきものと決った法があるならとやかくいうまでもないが、
定法がないものなのだから、動作のやりやすいのがよい。

手桶は炉のときだけに用いなさい。風炉はけっして使ってはいけない。
つるべは四季を通じて用いるが、ことに口切、朝会などによい。」
とあるそうです。


作品名:水指(紫交趾さざえ)
作者:御室窯
価格:48,000円
備考:桐箱入

水指(紫交趾さざえ)
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サザエには、棘がある場合(有棘型)とない場合(無棘型)があるそうで、
現在、棘の有無には環境要因と遺伝的要因の両方が関与しているのではないか
と考えられているそうです。

有棘型は、殻に五本内外の螺筋があり、成長すると管状の棘を伸ばすようです。
サザエ科は国内に54種いるのだとか。

サザエの栄養素は、
タンパク質:19.4g
脂質:0.4g
カリウム:250r
亜鉛:2.2r
ビタミンB12:1.3μg
みたいです。

サザエの旬は春から初夏。
新鮮なサザエは、貝のフタを引っ張ったとき強く引っ込むそうです。
生食する場合は、身を塩もみしてよく洗って刺身にすると良いようです。
つぼ焼きは、酒としょうゆをかけるとおいしくなるのだとか。


作品名:曲水指
備考:紙箱入

曲水指
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室町時代の1554年(天文23年)に書かれた、
一オウ軒宗金著『茶具備討集』に、
水指の種類を以下の19種類を挙げているそうです。

 一茶桶 一餌畚(えふご) 一抱桶(だきおけ) 一半桶 一引切 一桔(つるべ)
 一反花(かえりばな) 一飯胴 一甑(こしき) 一水続(みずつぎ)
 一湯瓶(とうびん) 一煎茶瓶 一篠耳(ささみみ) 一茶盆(さぼん)
 一雷盆(らいぼう) 一磬形(きんなり) 一芋頭(いもがしら)
 一滋賀楽物(しがらきもの) 一備前物

特に「芋頭」については、
「土の物であり、当世、数寄者が愛蔵してその名を芋頭とつけた」
という説明があるようです。


作品名:曲水指
備考:蓋裏よごれ有・紙箱入

曲水指
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天文年間(1531年〜1555年)の水指を『茶会記』などから見た場合、
木製の水指が大半を占めていたそうです。

木地の曲の水指、木地の釣瓶水指、木地の手桶水指などが
記載されているみたいです。

茶会には、実用品をそのまま用いたり、サイズを変えたり、
漆塗を加えたりして使っていたとのこと。

一世代前の14世紀〜15世紀の絵巻物にも、
木地曲水指が登場しているようで、
1351年に描かれた『慕帰絵』(西本願寺蔵)や、
15世紀に描かれた『掃墨物語絵巻』(徳川美術館蔵)などに、
曲水指の図が描かれているそうです。

これらの絵巻物に描かれた曲水指は、
箍(たが)をはめた円形の桶形水指で、
口縁と裾は黒、胴は朱色に塗り分けられているのだとか。
このことから、黒漆と朱漆で染め分けていたと推測されるようです。

16世紀に描かれた『おようのあま絵巻』(サントリー美術館蔵)の水指は、
本商品と同じような木地の曲の水指で、一人住まいの侘びた寺院であっても、
木地曲水指と風炉釜は、備え付けてあった様子が窺えるそうです。


作品名:古染付水指(山水絵)
作者:林淡幽(五山窯)
価格:120,000円
備考:桐箱入

古染付水指(山水絵)
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古染付(こそめつけ)は、中国明時代末期の天啓年間(1621-27)を中心に、
江西省景徳鎮の民間の窯で焼成された青花磁器(いわゆる染付)のうち、
日本に輸入されたものに対する日本独自の呼称だそうです。

その多くは、日本の茶人からの注文によって作られたみたいで、
花生や水指・懐石道具類・茶碗・香炉・香合といった作例が多いのだとか。

古染付の贋物は比較的わかりやすいようです。
虫食いで見るのが一番なのだとか。

贋物の虫食いは意図的に造ったもので、明らかに本物の自然な虫食いとは違うそうです。
梅瓶、芙蓉手花瓶の贋物には図柄の良すぎるものが多いとか。


作品名:朝鮮唐津水指
作者:利左ェ門
備考:桐箱入

朝鮮唐津水指
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唐津焼の一種、朝鮮唐津は、黒飴色の釉と、
白濁した藁灰の釉を掛け分けたもので、桃山時代から江戸初期に焼かれたようです。

黒色を付ける鉄釉を上から流し、白色を付ける藁灰釉下から掛け、
やや重なり合った部分が、高温でガラス化し、黒の部分と白の部分が溶け合い、
絶妙な色と流れ具合の変化が特徴になるとか。
黒色と白色、上下逆の物もあるそうです。

唐津焼の名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに
由来するとも言われているみたいです。

唐津焼は、朝鮮からもたらされた技術が基礎になって発展したものですが、
その中心になったのは、秀吉の朝鮮出兵によって、
朝鮮から拉致されてきた陶工だったようです。

1598年、島津軍により拉致された陶工ら3隻の船でおよそ80人だったそうです。
唐津・萩・その他の窯業地では朝鮮陶工に日本社会への同化を求めたのに対し、
差別的な「異化政策」を取り、同化する事を禁止した地域(苗代川)もあったみたいです。
当初、陶工らは、1603年、薩摩藩の庇護のもと苗代川に移り窯業(薩摩焼)を興すまで、
乞食同然の半農半窯の生活を強いられたそうです。

さて、1580年後半、唐津市の南の北波多村にある岸岳山麓に窯が開かれ、
10年ほどで閉鎖された後、朝鮮から連行されてきた陶工により、
肥前の各地で窯場が開かれるようです。
筆による描画技法と施釉の一般化、登り窯が伝えられるとか。
その頃、岸岳山麓の窯で焼かれたのが、
金海の熊川茶碗を写した「奥高麗」と言われているそうです。

北朝鮮の拉致問題、もしかすると、
当時の報復なのではと考えさせられました。


作品名:平水指
(金襴手青海波)
(水指内側 荒磯絵)
作者:手塚祥堂
価格:28,000円
寸法:直径28cm/高さ11cm
備考:木箱入

平水指
※画像を押すと拡大できます。
荒磯(あらいそ)は、波のうち寄せが激しい磯のことだそうです。
一般的には、「あらいそ」と読むようですが、
万葉集などでは「ありそ」と読むとか。

み立たしの島の荒磯(ありそ)を今見れば
 生ひざりし草生ひにけるかも(万葉集・181)

波のうち寄せが激しく、海岸が浸食されやすいため、
主に海岸段丘の多い地域に見られるそうです。
魚類や貝類、海藻などが豊富で、磯釣りなどのスポットともなっているとか。

さて、茶道具の世界での「荒磯」は、波間に躍る鯉の文様を呼ぶ言葉で、
もとは裂地の柄であったものだそうです。

元禄時代の献上手と呼ばれるごく上手の伊万里焼が、
この「荒磯」の図を用いたために、やきものの世界では、
色絵型物伊万里のこの手のものを呼ぶ言葉になったようです。

ちなみに、荒磯金襴・荒磯緞子などの荒磯も、
波に踊る鯉の姿を荒磯と見立てたものみたいです。


作品名:平水指(染付山水)
作者:洞華苑
寸法:直径28cm/高さ12.3cm
価格:15,000円
備考:木箱入(木箱よごれ)

平水指染付山水)
※画像を押すと拡大できます。
平水指の好みものとしては、
裏千家四代目家元、仙叟宗室の平水指と、
同じく仙叟宗室の夕顔彫平水指があるようです。

■仙叟好 平水指
大樋焼で、口造りと裾に縁がついて、
やや胴張り気味の平水指だそうです。
蓋は荒いへぎめで、掻合塗となっているとか。

■仙叟好 夕顔彫平水指
真鍮に夕顔の花と葉を、蔓に配して彫りで表わしているようです。
平凡な盥(たらい)形だそうですが、時代色の金色と、
上品な彫りによって、格調を保っているとか。
輪口の口造りと蓋は一文字で二線を劃(かく)しているそうです。

■仙叟好 夕顔皆具
同じく仙叟好の夕顔皆具では、
杓立・蓋置・建水に全て同様の彫りが施されているようです。
皆具としては、真の皆具になるそうです。
この皆具には、風炉も同じく真鍮の乳足切合わせがついているとか。

杓立は、無蕪(かぶらなし:口が開いていて、
胴に蕪状のふくらみのないもの)で、
肩のあたりに格子透かしのある姿は、
杓立の原型を打破した斬新な形みたいです。

建水・蓋置は、口造りに「折入」の彫り紋を端正にめぐらせて、
裏千家の好み建水の原型をなしているようです。

蓋置は、夜学蓋置に近い優美な形をしているそうです。
(※見た目は、夜学蓋置よりやや平たい感じがします。)

ちなみに「夜学蓋置」というのは、灯台とも言われるそうで、
甕(かめ)形の四方に、火灯窓のような大小の透しがある形の蓋置だとか。
夜学蓋置は、夜に学問をする際、
机上を照らす灯明の火皿の台を転用したものといわれるようです。


作品名:萩水指
作者:田村悟朗
価格:20,000円
寸法:高さ16cm/口径16cm
備考:桐箱入

萩水指
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、水指の歴史について簡単に説明しようかと思います。

禅院での四頭などの喫茶の様子を見ると、
抹茶の入った天目に浄瓶(じんびん)で湯を注ぎ、
茶筅で点てるというもので、
中国から鎌倉時代に日本にもたらされた僧院の茶には、
水指は登場しないそうです。


■水指の登場
日本で「水指」という言葉が初めて現れるのは、
『室町殿行幸御飾記』だそうで、
「御鑵銀 水指青磁らんかん
 杓立 蓋置同鍮石 おきかき鍮石 下水染付」
とあるようです。

この『室町殿行幸御飾記』は、足利義教が、永享9年(1437年)に
後花園天皇を迎えた際の会所飾りを記録したものだそうです。

この本には、他にも
「水指 胡銅鍮石」
「水指 胡銅酒海なり也 蓋の取手龍」
「水指 青磁らんかん ふた鍮石」
「水指 青磁台らんかんあり」
などの記述が見られるとか。

これらの水指は、現存しないそうですが、
14世紀前半の遺跡から、類品が出土しているようです。

こういった水指は、はじめから水指として造られたものではなく、
珍奇で貴重な品々の中で、形や大きさの適うものが、
水指として選ばれたみたいです。

14世紀〜15世紀以降になると、
日常の道具を見立てた水指が絵として残っているそうで、
『慕帰絵』や『掃墨物語絵巻』といった絵画資料にも、
赤と黒の漆塗の桶のようなものを水指として用いている様子が、
登場するようになるようです。

16世紀に描かれた『おようのあま絵巻』では、
茶道具とともに、木地曲の桶が並び、
水指として使っていた様子がわかるとか。


■台子の中の水指
大永3年(1523年)に書かれた『佐川家文書』の「台子寸法の事」に、
「一、たいすの内の道具、風呂、釜ハ左の程に、
水さしハ右のわきに、中のさきに所を見合、
柄酌立可置、酌指の前に少間をへたて、水こほし可置也、
四ツ置合候道具如此に候、
隠家ハ台子とふろとはしらとの間にをく也」
とあるようで、
台子の中に水指・杓立・建水・蓋置を置き合せているそうです。

茶道初期成立時代から、絶頂期の室町時代の能阿弥の頃までは、
唐物至上主義だったため、水指も、日常品の見立てから、
唐物へと変遷していった可能性はあるようです。


■水指棚
武野紹鴎好の小棚で、台子や大棚の時代に、
水指だけを飾る棚を好んだそうです。

この頃になると、水指は、
主役の座を得ることができたと言えるようです。

久保又夢著『茶道望月集』に
紹鴎の水指棚といふもの有、
是は四方共、棚木地板にて中棚もある、
両脇上下の四所に茶碗すかしとて、
志野袋棚の香ざまのごとく成すかし有」
とあるそうです。

ただ、各茶会記によれば、利休が活躍した頃の水指は、
手桶や釣瓶などの日常容器からの見立てが主流を占めていたようです。


■水指の変遷
16世紀前半、備前焼などで作られた水指は、
まるで金属器を写したかのような、端正な造りのものだったようです。

天正16年頃(16世紀後半)、備前焼や信楽焼の水指は、
一重口や矢筈口の水指だったと考えられているようです。

一重口は、それまでの端正な造りのもの、
一転、矢筈口は、力強く個性あふれる作行きものが多かったみたいです。

16世紀後半(特に桃山時代)、もっとも人気があったのは、
芋頭とよばれる水指だそうです。

芋頭というのは、本来、里芋の親芋のことで、
胴の下部に向かって膨らんだ形が似ていることからの名称だそうです。
茶会記には、天文年間より登場するみたいです。

16世紀には、南蛮と呼ばれる東南アジア産の無釉焼締陶器か、
鉄釉のかかったもの、朝鮮半島産の三島(粉青沙器)などが多かったそうです。

その後、美濃焼や志野焼にも歪みの強い造形の水指が現れ、
火襷(ひだすき)と呼ばれる鮮やかな火色が見られたりするようです。

志野焼や唐津焼の水指は、鉄絵といった絵のある器を茶道具として
用いるようになるみたいです。

江戸時代(17世紀)に入り、伊部手と呼ばれるものが現れるそうです。
これは、薄い器壁に塗り土を施した榎膚(えのきはだ)という独自の作品で、
高取焼と共に、新しい侘びの水指を創り出して行くようです。

江戸時代始め、磁器(伊万里焼)が完成する1620年までは、
海外からの水指を使っていたようです。

華麗な意匠の新しい水指を求め、茶人達は中国だけではなく、
はるか遠くヨーロッパにもその視線を向けるようです。
景徳鎮の古染付や祥瑞、デルフト窯のオランダなどの水指が、
この頃のものみたいです。

他に、安南(ベトナムの陶磁器)や宋胡録(タイの陶器)が、
朱印船によりもたらされるそうです。
基本的には、明るい色調のものが好まれたみたいです。

また、景徳鎮には芋頭が注文されているそうで、
山水文を描いた染付磁器として日本にもたらされたようです。

16世紀中ごろ、京焼色絵の泰斗、野々村仁清が登場します。
水指では、棗形に華麗な色絵のあるものや、
信楽写の焼締陶、錆絵という鉄絵のあるもの、
白濁釉が流れかかるものなどが大いに好まれたそうです。

こうして水指は、時代のニーズに合わせ変遷していったようです。


作品名:万古焼水指
作者:佐久間芳丘(松古窯)
寸法:高さ16.2cm/菱径18cm
備考:桐箱入

万古焼水指
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本品は、管耳(くだみみ)のある水指のようです。

万古焼(萬古焼/ばんこやき)は、桑名の豪商・沼波弄山が、
元文年間(1781年〜1740年)に朝明郡小向で創始したようです。

葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つそうで、
陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(b器)に分類されるとのこと。

沼波弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、
名前の由来みたいです。

萬古不易というのは、永久に変わらないことだそうです。
これは、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した概念「不易流行」
(不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず)
から来ているようです。

2011年1月5日の天声人語にも「不易流行」に関する記述があったそうです。
「時勢に棹(さお)さすだけでは流される。
目先の変化や、皮相な流行にたじろがぬ[不易]を身の内に養いたいとも思う。
時に遅れず、されど追わず。そう生きたいが、なかなか難しい。」

この不易流行は、温故知新に繋がるものがあるようです。
温故知新は『論語(為政篇)』の
「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知れば、
以って師と為るべし」
から来た語です。

目まぐるしく変わる世界情勢。仕事優先の社会。
高齢化、年金、原発、異常気象といった諸問題。

かつて戦国時代を生き抜いた武将たちが、
一時の平穏を茶道の中に見出していたとしたら、
現在のストレス社会に於ける、茶道に対峙する和敬の心に
通じるものがあるのでないでしょうか。

シェークスピアの格言に
「There is nothing either good or bad,
but thinking makes it so.」
(物事によいも悪いもない。考え方によって良くも悪くもなる。)
というのがあるそうです。

「萬古不易」の作品は、茶道というオアシスの中で、
更に輝き、一つの芸術へと昇華して行く。
そんな気持ちで、茶道具に接することで、
私たちが、現在を生きぬくヒントになると良いですね。


作品名:緑彩彫水指
作者:手塚玉堂
価格:35,000円
備考:木箱入

緑彩彫水指
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三彩彫(さんさいぼり)は、彫漆(ちょうしつ)・むき彫ともいうそうです。

堆朱は彫刻をした上に漆を塗り重ねるのに対して、
三彩彫は、木地に色漆(朱・黄・緑)を、
塗り重ね最後に黒を塗り磨き上げるのだとか。
そこに文様に応じて色が出るように彫刻をしていくようです。

写実的な図などが多く用いられ、
繊細な彫刻と色漆の華やかさが特徴みたいです。


作品名:絵唐津水指
作者:武村利左ェ門
寸法:高さ15.5/巾20.0cm
備考:木箱入

絵唐津水指
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絵唐津は、鉄分を含んだ土や岩石をすりつぶして絵具として、
文様を描いたものだそうです。胎土は、種々あるみたいです。

鉄分の少ない白土に、
飯洞甕・道納屋谷・阿房谷・藤の川内などの諸窯があるようです。
長石釉がかけられ、酸化焔焼成では枇杷・淡桃に、
還元焔では白・灰白に発色するのだとか。

鉄分の多い銹谷(さびたに)・小峠奥・多久高麗谷・内田皿屋などの諸窯では、
還元焔の場合には釉色は青磁風に、酸化焔では茶褐色に発色するようです。

両者の中間に位置する、
甕屋の谷・焼山・権現谷・牛石・市若屋敷・川古窯の谷下・小森谷などの諸窯では、
釉色は焔の性質によって白・桃・青・赤茶などに発色するそうです。


■絵唐津の文様
絵唐津の文様には、李朝直伝のものと、
日本化された織部風のものがあるようです。

李朝系には、点・曲線・円・双円・X・十字文・草花文などがあるそうで、
織部系には、芒(すすき)・竹・笹・松・
蔓草・千鳥・雀・鷺(さぎ)・橋などがあるみたいです。


作品名:黄交趾乱桐水指
作者:橋本城岳
寸法:高さ20.0cm/口径17.5cm
備考:木箱入

黄交趾乱桐水指
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、「桐」について説明しようかと思います。


■風炉先の乱桐
・表千家十二世惺斎好、乱桐風炉先
・表千家十四世而妙斎好、雲砂子乱桐風炉先
などがあるようです。


■故事の「桐一葉」
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」または「桐一葉」
という諺があるのですが、
これは、『淮南子(えなんじ)』説山訓の
「一葉落つるを見て、歳の将に暮れんとするを知り、
 瓶中の氷を見て、天下の寒きを知る」
から来ているみたいです。

意味は、わずかな前兆を見て、その後に起こるであろう大事を、
いち早く察知することだそうです。

英語で同じ意味の熟語は、
A straw show which way the wind blows.
「一本の麦わらを見れば風向きがわかる」
になるようです。

『淮南子』は、前漢の武帝の頃、淮南王劉安が、
学者を集めて編纂させた思想書だそうです。

全部で二十一篇あるそうで、
説山訓は、巻十六にみたいです。

『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるようですが、
現在「内二十一篇」しか伝わっていないのだとか。


■坪内逍遙の『桐一葉』
『桐一葉』は、坪内逍遥作の歌舞伎の演目で、
1894年11月〜1895年9月にかけて『早稲田文学』に連載されたようです。

全部で六幕あるそうで、関ヶ原の戦い直後の豊臣家の混乱がテーマみたいです。

『実演用桐一葉』の序文で、『桐一葉』に関して、古典と活歴からいいとこどりし、
シェイクスピア作品のような調和のとれたものを目指した、
と逍遙自身が言っているそうです。

この演目の前提として、
豊臣家を滅ぼそうとする徳川家康が、
方広寺の鐘の銘にあった「国家安康」「君臣豊楽」の句が、
徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、
家康及び徳川家を冒涜するものだという難癖を付けた
という話があるようです。

「桐一葉落ちて天下の秋を知る。」
は、主人公片桐且元の言葉だそうです。


■高浜虚子の俳句
「桐一葉日当たりながら落ちにけり」

これは、初秋の明るい静けさの中を、
大きな桐の葉が一枚、日の光を受けながら、
ひらひらと落ちていくといった、
秋の日差しの一瞬を捉えた写生の句だそうです。


作品名:輪島塗水指
作者:塩安製
価格:30,000円
寸法:高さ18.0cm/口径15.5cm
備考:木箱入

輪島塗水指
※画像を押すと拡大できます。
石川新情報書府の1998年度の統計によると、
輪島塗関連の事業所数は699で、
市全体の事業所数の約3分の1を占め、
従事者数の2140人だそうです。

年間の生産額は、90億円で
国が伝統的工芸品として指定する漆器では、
全国に22ある産地の中で1位なのだとか。

1977年、輪島塗が重要無形文化財に指定されると同時に、
輪島塗技術保存会を発足させ、
重要無形文化財技術保持団体の認定を受けたみたいです。

輪島塗技術保存会は、各工程を代表する技術者22人、
学識経験者1人、団体会員2人で構成されているようです。


■輪島塗六職
塗師屋・椀木地・曲物・指物・蒔絵・沈金の6業種は、
江戸時代から輪島塗六職と呼ばれ、
それぞれが組合を形成しているみたいです。

このうち、木地の製造分野は、熟練職人の減少が著しいようで、
椀木地が16人、朴木地が17人、指物が45人、曲物が12人、
なのだそうです。

減少の理由は、
1.木地の製造者は、木地に狂いが生じないように、
 原木を何年もかけて乾燥させるために多くの在庫を必要とすること。
2.原木から木地を製造するため、
 木工機械などの設備投資を必要とすること。
3.蒔絵や沈金の世界に比べ、地味なイメージがあること。
などが挙げられるみたいです。

2000年からは、輪島市が、木地・塗部門後継者に、
奨励金を支給する制度が整えたようです。


■職人の育成
「年季奉公」「年季明け」「礼奉公」の各ステップを経て、
一人前の技術を身につけていくようです。

まず、親方のところに弟子入りし、
4年程度の「年季奉公」をするそうです。
最初のうちは、掃除や準備作業・荷作り・雑用が割り当てられ、
そんな中から仕事の段取りを覚え、
次第に簡単な仕事が任されるようになるみたいです。

「年季明け」の儀式は1月の新年会に併せて行うそうで、
親方と弟子は親子固めの盃を交わし、
それぞれ所属する六職の組合から修了証書が渡され、
親方からはお祝いの品として着物やスーツが贈られるとか。

年季が明けても、半年から1年間は、
「礼奉公」として安い給料で、親方の手伝いをするそうです。

こうして弟子は、晴れて職人となるようですが、
全ての作業で一人前の域に達するには、10年程度かかるみたいです。


作品名:黄交趾荒磯水指(塗蓋付)
作者:高野昭阿弥
備考:紙箱入

黄交趾荒磯水指(塗蓋付)
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荒磯(あらいそ)とは、波のうち寄せが激しい磯のことだそうで、
一般的には「あらいそ」と読むのですが、
万葉集などでは「ありそ」と読むようです。

荒磯文様は、波に踊る鯉(吉祥の魚・出世魚)の文様だそうです。
端午の節句の「のぼり」などにされ、
また鯉の滝登りは吉祥文様とされてきたのだとか。

鯉は海にはいないのですが、跳ね上がった鯉の姿から、
荒波を想起して名称にしたもののようです。


■登龍門
中国では、鯉が滝を登りきると龍になるということで、古来尊ばれたそうです。

『後漢書』李膺伝に以下の話があるそうです。
 李膺は宦官の横暴に憤り、これを粛正しようと試みるなど公明正大な人物で、
 司隷校尉に任じられるなど、宮廷の実力者でもあったそうです。

 もし若い官吏の中で彼に才能を認められた者があったならば、
 将来の出世が約束されたということであったのだとか。

 このため彼に選ばれた人のことを、
 流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、
 「竜門に登った」と形容したそうです。

 ここで言う「竜門」とは、夏朝の皇帝・禹がその治水事業において
 山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流のことのようです。


■鯉のぼり
鯉のぼりは、江戸時代に武家や裕福な庶民の家庭で始まった風習で、
立身出世の象徴だそうです。

武家では、端午の節句を「菖蒲の節句」として、
厄払いとして用いる「菖蒲」に「尚武」をかけて、
男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事としたそうです。

また、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、
玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れたのだとか。

一方、商家では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、
のぼりの代わりに、五色の吹流しを美々しく飾るようになったみたいです。
吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、
一部の家庭では「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描くようなり、
これが、現在の鯉のぼりの原型みたいです。

当時は、江戸を含む関東地方の風習で、関西では無い風習だったようです。
1838年刊『東都歳時記』には、
「出世の魚といへる諺により」鯉をのぼりに飾り付けるのは
「東都の風俗なりといへり」
とあるそうです。

鯉のぼりは、本来は真鯉(黒い鯉)のみで、
明治時代から真鯉と緋鯉(ひごい)の対で揚げるようになり、
昭和時代からは家族を表すものとして、
子鯉(青い鯉)を添えたものが主流になったみたいです。

真鯉に赤い裸の男の子がしがみついている柄のものがあるそうですが、
これは金太郎が自分より大きい鯉を捕まえた伝説をもとにしているとか。


作品名:釣瓶水指
(利休好写)
備考:紙箱入

釣瓶水指
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名水点の水指は、新しい木地の釣瓶(つるべ)を使用するそうです。
まず水で十分に湿らせて置き、シメを張るようです。

シメ飾りの御幣(ごへい)は、
前後に二つずつ、両横に一つずつ縄に付け、
勝手付の向こうの角で縄を結ぶみたいです。

御幣とは、神道の祭祀で用いられる幣帛の一種で、
2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだもののようです。
幣束(へいそく)・幣(ぬさ)ともいうとか。

御幣は、紙(通常は奉書紙・美濃紙・半紙)を用いるのが一般的だそうです。

作り方は、流派によって違うようですが、一例を挙げると、
紙を二つ折りにして、縦7cm、横6cmの紙のワサを手前にして、
縦に四等分し、縦の長さの三分の二のところまで交互に切り込みを入れ、
手前へ順々に折っていくようです。

紙垂の断ち方・折り方は、主なものに吉田流・白川流・伊勢流があるそうです。


作品名:色絵菊唐草水指
作者:清閑寺窯祥平
寸法:高さ14.8cm/口径15.5cm
備考:木箱入

色絵菊唐草水指
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菊唐草文様は、皇室の文だそうで、
上皇の装束などによく見られるみたいです。

少々、模様が違いますが、同じ菊唐草として、
大正の御大典で皇后が五衣長袴の際に着た、
表着(うわぎ)に見られる文様もあるようです。

有職文をモチーフにしているようですが、
時代の影響からか、どことなくヨーロッパの印象を受ける形式化した文様だとか。

「菊唐草かに八葉菊」は、この文様のモチーフとなったもので、
江戸時代の上皇の赤色袍に見られるみたいです。

有職文様(ゆうそくもんよう)というのは、
中国から伝来し日本に定着した模様で、有識文様ともよばれるとか。

平安時代、宮中の儀式や行事に関する研究者や学者のことを有識者と呼んだようで、
その人たちが着用していた衣服の模様が有職模様だそうです。

水蒸気が立ち上がる様子を文様化した立涌文、
正六角形の幾何学文様で亀の甲に似ていることからつけられた亀甲文、
二羽の蝶を向かい合わせて、丸や菱形の中に配置した向蝶文のほか、
石畳文・七宝文・菱文・丸文などがあるみたいです。


作品名:赤ハダ焼七宝絵耳付水指
寸法:高さ15.0cm/口径14.5cm
備考:桐箱入/塗蓋付/
即中斎書付

赤ハダ焼七宝絵耳付水指
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赤膚焼は、小堀遠州の好んだ、
遠州七窯のひとつだそうです。

特に茶道具を造る窯として始まったとか。

赤膚焼の里・赤膚山は、
平城京の南西部に位置し、
良質の陶土の産する所みたいです。


■赤膚焼の歴史
赤膚焼は、天正年間(1573年〜1593年)に、
大和郡山城主であった豊臣秀長が、
尾張常滑の陶工与九郎を招いて、
五条山独自の登窯を始めたそうです。

その後、野々村仁清が、当地において種々工夫を重ね、
郡山藩主・柳沢家の御用窯となるようです。

江戸時代初期に柳沢尭山が赤膚焼(尭山焼)を再興し、
遠州七窯の一つとして数えられるようになるみたいです。

江戸時代後期には藩主・柳沢保光の保護を受け、
天保年間(1830年〜1844)には、
名工・奥田木白が、仁清写しなどの技術を披露し、
世に広めたようです。

一方、文政年間(1818年〜1830年)には、
五条山に三窯あり
「東の窯」「中の窯」「西の窯」
と呼ばれていたのだとか。

明治時代には「東の窯」と「西の窯」は、
廃窯されたようです。

現在、残された「中の窯」の大型登り窯は、
登録有形文化財として古瀬堯三窯で見学することができるそうです。


■赤膚焼の特徴
赤膚焼は、器肌に赤みを帯びているそうです。

名の由来は、その器肌という説と、
地元の地名から来たという二説があるとか。

その赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、
奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られるようです。

奈良絵とは御伽草子などを題材とした庶民的な絵柄で、
微妙な稚拙な構図が器肌の素朴さを巧く引き出しているとか。

現在、奈良県の伝統工芸として六つの窯があるみたいです。
・大塩昭山(奈良市)
・大塩玉泉(奈良市)
・大塩正人(奈良市)
・古瀬堯三(奈良市)
・小川二楽(大和郡山市)
・尾西楽斎(大和郡山市)

大塩姓が三軒あるのですが、
すべて親戚関係にあるそうです。

そのうち、大塩昭山が最も古く、
名前の由来は昭和になって開かれた窯であることから来ているとか。


作品名:高麗水指
作者:千漢鳳
価格:20,000円
寸法:高さ15.0cm/口径18.0cm/
奥行20.7cm
備考:桐箱入

高麗水指
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水指は、点前のときに釜に注ぎ足す水や、
茶筅・茶碗などを清める水を入れておく器で、
「水差」や「水器」ということもあるようです。

元々は、皆具の一つであったものが、
個別に使われるようになったとも、
日用雑器から取り上げられたとも、
考えられているそうです。


■初期の水指
藪内竹心著『源流茶話』に、
初期茶道時代の水指についての記述があるみたいです。

それによると、
 古くは唐物の金属製の水指や、
 真塗の手桶が用いられていたのを、
 村田珠光が、備前焼や信楽焼のものを使い始め、
 武野紹鴎は、釣瓶の水指を好み、
 千利休は、曲ものを取り上げ、
 また、極わびものとして片口も許容した。
とあるそうです。

上記では、今日茶席で用いられる水指の
ほぼすべての材質(金属・陶器・木製)が登場したようです。


■金属製の水指
金属製の水指には、古銅と称される唐銅や、
南蛮と朝鮮の二種類がある砂張(さはり)、
毛織(モール)などがあるみたいです。

装飾性には欠けるものの、台子や長板などに荘られると、
荘重な雰囲気が醸し出されるそうです。


■陶磁器製の水指
陶磁器の水指を産地別に見ると
 中国:唐物⇒青磁水指・染付水指・赤絵水指
 東南アジア:島物
 ⇒南蛮水指・ハンネラ水指・安南水指
 ヨーロッパ:和蘭(オランダ)⇒莨葉水指
 日本:和物
といった感じになるみたいです。


■木製の水指
木製の水指では、手桶や釣瓶が古くから
使われているようです。


■現今の水指
ガラス製品の水指などがあるみたいです。


作品名:高麗水指
青磁象嵌(鶴)
作者:梁命煥(青珍窯)
価格:20,000円
寸法:高さ17.0cm/口径13.5cm/
巾19.0cm
備考:桐箱入

高麗水指
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象嵌(ぞうがん)は、
地の素材となる金属・木材・陶磁などを彫り、
そこに金・銀・貝・地と異なる色や種類の木や陶磁など、
他の材料をはめ込んで模様を表すものみたいです。

金工象嵌・木工象嵌・陶象嵌等があるようです。

象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味があるそうです。

そのため、象嵌本来の意味は、
一つの素材に異質の素材を嵌め込むとなるとか。


■金工象嵌
例えば金工象嵌の場合、シリアのダマスカスで生まれ、
シルクロード経由で、飛鳥時代に、
日本に伝わったそうです。

江戸時代には京都などに優れた職人が多数生まれ、
日本刀の拵えや甲冑・鏡や根付、
文箱・重箱などに腕を振るったみたいです。

素材としては金属だけではなく、
彩色した木材や骨片・貝殻・陶磁器なども用いられるとか。


作品名:乾漆細水指
(秋草文片身替)
作者:長利
寸法:高さ18.0cm/菱口径14.5cm/
備考:桐箱入/
塗蓋つまみラデン張

乾漆細水指
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乾漆造(かんしつぞう)は、
彫像制作の技法の1つで、麻布を漆で張り重ねたり、
漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて像を形作る方法だそうです。

乾漆造の源流は中国にあり、
「夾紵(きょうちょ)」あるいは「ソク」と呼ばれた技法みたいです。
彫像のみならず、器物や棺などの製作にも用いられたとか。

日本では7世紀末から8世紀にかけて、
仏像の制作に多用されたそうですが、
平安時代以降は衰退したみたいです。

乾漆造には麻布を1cmほどの厚みに貼り重ねて形成する「脱活乾漆造」と、
これを簡略化した技法「木心乾漆造」があるとか。


■脱活乾漆造の脱活乾漆像
「脱活乾漆像」の「脱活」とは
「張子の虎」のように内部が空洞と言う意味で、
「乾漆」とは「漆」が乾いて堅くなったと言う意味だそうです。

以下、作業工程です。
1.大まかな塑像を造る。
2.乾燥した塑像の表面を「漆」に浸した「麻布」で包む。
3. この「麻布の像」を「漆風呂」で接着剤の漆の乾燥を促し、
 麻布同士を固着させる。
4.さらに漆に浸した麻布で像全体を被う。
5.再度麻布の像を漆風呂に入れ漆を乾燥させる。
6.2〜5を数回〜10回程度繰り返す。
7.像内の塑像をばらばらにして取り出し、
 空洞になった像内に薄板の木枠の心木を納め、
 像と心木を釘で固定、
 漆が収縮して像が痩せるのを防ぐ。
8.「張子の像」のようになった「麻布の像」の表面に、
 漆に木の粉末などを混ぜて作ったペースト状の堅さの
 「木屎漆(こくそうるし)」を使って細かい仕上げをする。
9.「脱活乾漆像」が完全に乾燥すれば
 「漆箔」または「極彩色」を施して完成。


■木心乾漆造
天平時代後半、インフレにより国家財政も破綻し、
造像が国家的な事業から私的な事業に変わっていったそうです。

仏像の制作に莫大な資金を消費することも出来なくなり、
高価な素材である漆による「脱活乾漆像」の制作は不可能となったようです。

そこで素材が高品質でない不純物を含む漆でもよく、
しかも漆の使用量が少なくて済む「木心乾漆造」が、
考案されたみたいです。

漆の節約のためだけでなく、
漆の乾燥に時間が取られるのを避けるために、
薄い乾漆なんだそうです。

薄い乾漆は、原型の造形が丁寧に造られないとできないため、
次第に完成木彫像に近いものに変わっていくようです。

原型の木彫が、漆と麻布で隠蔽されるとはいえ、
干割れや歪が出たのでは、
像の表面に悪影響を及ぼすため、
原型の木材も良材でなければならないのですが、
経費節減に逆行します。

そこで考え出されたのが「内刳りの技法」だそうです。

像の内部を空洞にして、重量の軽減、干割れの防止するもののようで、
これは、原型の木材の品質を落としても、
像の制作を可能とする技法みたいです。

次代の平安時代に主流となった木彫像は、
この「内刳りの技法」によるものだそうです。


作品名:備前焼水指
作者:田中陶豊
価格:10,000円
寸法:高さ14cm/口径17cm
備考:紙箱入

備前焼水指
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備前焼(びぜんやき)は、
岡山県備前市周辺の土をこねてできた陶器だそうです。

平安時代に作られた須恵器から発展し、
鎌倉時代初期には還元焔焼成による、
焼き締め陶が焼かれたようです。

鎌倉時代後期には酸化焔焼成による、
現在の茶褐色の陶器が焼かれるみたいです。

特に備前市伊部地区で盛んで、
「伊部焼(いんべやき)」の別称もあるようです。



作品名:備前焼水指
作者:陶峰
価格:10,000円
寸法:高さ14.5cm/口径14.0cm
備考:紙箱入

備前焼水指
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備前焼は、平安時代に作られた須恵器から発展し、
鎌倉時代初期には還元焔焼成による、
焼き締め陶が焼かれたそうです。

鎌倉時代後期には酸化焔焼成による、
現在の茶褐色の陶器が焼かれるみたいです。

当時の主力は「水屋瓶」や「擂鉢」など実用本位のもので、
「落としても壊れない」と評判が良かったのだとか。

この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重されるようです。

室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに
茶陶としての人気が高まるようですが、
江戸時代には茶道の衰退とともに衰えるそうです。

これは、安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因だとか。

以降、備前焼は再び「水屋瓶」や「擂鉢」「酒徳利」など、
実用品の生産に戻るみたいです。

この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されているようです。


作品名:備前焼水指
価格:10,000円
寸法:高さ15.0cm/口径16.5cm
備考:紙箱入

備前焼水指
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日本六古窯の一つ備前焼は、
岡山県備前市周辺を産地とする陶器・b器のことだとか。

六古窯というのは「瀬戸」「常滑」
「丹波」「越前」「信楽」「備前」のことで、
最も歴史が古いとされているのが「備前」らしいです。

釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって、
堅く締められた赤みの強い味わいや、
「窯変」によって生み出され、
一つとして同じ模様にはならないのが特徴だとか。



作品名:祥瑞二閑人水指
作者:曽根幸風
価格:38,000円
寸法:高さ19.5cm/口径21.5cm
備考:桐箱入/
少し小さめの水指です。
立礼等に最適です。

祥瑞二閑人水指
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閑人は、ひまじんのことで、
蓋置の場合、一閑人(いっかんじん)は、
井筒形の側に井戸を覗き込むような姿の人形がついているそうです。

閑人が、井戸を覗いているようなので別名「井戸覗き」ともいうとか。

両側に人形があるものは二閑人、
井戸枠だけで人形のないものは無閑人というようです。

三閑人は、三人形・三漢人・三唐子とも言い、
三人の唐子が外向きに手をつなぎ輪になった形の蓋置みたいです。

中国では筆架・墨台などの文房具の一つで、
それを蓋置に見立てたものだとか。


■唐子(からこ)について
唐子とは、中国風の髪形や服装をした子供の事だそうです。

頭の左右に、わずかに髪を残し、
他を剃る江戸時代の幼児の髪形を表す場合もあるとか。

また東海地方などで多く見られる、
山車からくりの「唐子人形」を略して使われる事も多いようです。


作品名:義山水指(総切子)
作者:水崎長寿(水指)
作者:中村湖彩(塗蓋)
寸法:高さ11.5cm/口径21.5cm
備考:桐箱入

義山水指(総切子)
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義山(ギヤマン)は、オランダ語でダイアモンドを意味する
「Diamant」から来ているそうです。

ガラスを切って細工するのにダイヤモンドを用いたことから、
ガラス製品を指して「ギヤマン」と呼ぶようになったとか。

1543年以降、ガラス製造技術が日本に伝わり、
江戸初期の長崎で日本のガラス工芸は花開いたようです。

1834年、初めて江戸で作られたとされている
「切子」が次第に人気を博すと、
次いで大阪や薩摩でも作られるようになるみたいです。

中でも最も水準の高いガラス器を作ったのは薩摩藩だとか。

とりわけ1851年に発明した銅赤ガラスによって、
薩摩藩は名声を馳せたようです。


■明治時代のガラス
1873年、本格的な西洋式のガラス工場「興業社」
(後の品川硝子製作所)が、東京・品川に設立され、
欧米と同じようなソーダガラスの、
日用器が作られるようになったそうです。

官営・民営など多くのガラス会社が設立されたのですが、
技術の未熟・品質の低さ・高価格・供給過剰などにより、
長続きするところは、あまりなかったようです。

そんな中、ガラスが大活躍したのは、
燈火器の分野だったみたいです。

明治前期に国内で急速に普及した石油ランプは、
明治20年代後半から30年代にかけて全盛期を迎えるとか。

明治末期に火災の危険がない電灯が出現するまで、
石油ランプの需要は、
明治のガラス工業を支える主要分野だったそうです。


■大正から昭和のガラス
明治後期から大正初期、
板ガラスの商品化が国内で可能となり、
プレス機械の改良や製ビン機械の導入も始まるようです。

第一次世界大戦の勃発で、
日本のガラス産業は世界市場に進出するようになり、
ガラスの品質は必然的に向上したみたいです。

大正時代後半になると、
原材料の向上や新しい消色剤の登場で、
無色透明なガラスを作ることが可能となるようです。

電気の普及も大きな要因みたいです。

大正後期から昭和にかけて、次第に、
見事なカットガラス製品が作られるようになっていくとか。


作品名:櫛目水指
作者:小川文斎
価格:8,000円
寸法:高さ15.5cm/口径14.0cm
備考:木箱入

櫛目水指
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櫛目というと、新石器時代の櫛目文土器を、
連想する方もいるかもしれません。

櫛目文土器、または、櫛文土器とは、
櫛歯状の施文具で幾何学的文様を施した土器の総称だそうです。

器形は尖底あるいは丸底の砲弾形が基本的みたいです。

新石器時代においてユーラシア大陸北部の森林地帯で発達したようです。

最古のものは、
遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃〜紀元前5400年頃)の遺跡、
から発見されているのだとか。

日本の縄文土器にも類する土器(曽畑式土器)があるようで、
弥生土器にも似た文様をもつものがあるとか。


作品名:御深井水指
作者:加藤藤山
寸法:高さ15.5cm/口径15.5cm
備考:木箱入

御深井水指
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御深井焼(おふけいやき)は、尾張徳川家の御用窯だそうです。

1616年、藩祖・徳川義直が、窯業保護政策のため、
名古屋城外郭の御深井丸に美濃や瀬戸の優れた陶工、
仁兵衛・唐三郎・太兵衛らを招き、窯を築いたようです。

1660年、名古屋城内の御深井丸で、
灰釉に長石を加えて透明度を高めた釉を施した陶器が焼かれ、
それを「御深井焼」と呼んだのが由来みたいです。

明治初年廃藩とともに廃絶すのだとか。


■特徴など
御深井焼は、灰釉に長石を加えて、
透明度を高めた釉を施すとともに、
摺絵や型打ちや、貼付文などを用いた、
陶器類の呼称だそうです。

通常は江戸時代の美濃焼に属するものをいうとか。

ただし、伝統的に「御深井」と呼称されるもののなかには、
灰釉と区別がつかないものもあるそうです。

長石を配合した灰釉を施した陶器は、
江戸時代初頭から前半の、
元屋敷窯・窯ヶ根窯・清安寺窯でも焼かれていたようです。

器形としては、皿や鉢などで、
型打ちや摺絵を施したもの、
向付・丸碗などで摺絵をほどこしたもの、
水指・花瓶・香炉などがあげられるそうです。

しばしば釉薬が溜まる箇所は、
ガラス質で透明な緑色に見えることがあるとか。


作品名:安南蜻蛉水指
作者:永豊
寸法:高さ15.0cm/口径15.7cm
備考:木箱入

安南蜻蛉水指
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安南焼は、ベトナムの焼物(ベトナム陶磁)の総称だそうです。

安南(あんなん)は、フランス統治時代の、
ベトナム北部から中部を指す歴史的地域名称みたいです。

安南という地名は、唐朝が辺境地域の支配のために設置した。
六都護府の一つ「安南都衛府」に由来するみたいです。

1010年、李公蘊がハノイに都を定め
「大越」と号したにもかかわらず、
中国では清に至るまで「安南」と呼びつづけたようです。

ベトナム北部では、質の良い陶土が多く採土されるそうで、
日本では、ベトナムのやきものは、主に茶陶として、
古くからこの名称で親しまれてきたのだとか。

英語の「Aannamese」の名も、
1954年、奥田セイイチ著『安南陶磁図鑑・安南焼』の
日本語「安南焼」の音読みからつけられたものみたいです。

ただ、この安南焼・Annameseという言葉、
当のベトナム人にはあまり好まれないそうで、
通常は、ベトナム陶磁「Vietnamese」、
という言葉を使う例が多いのだとか。


■ベトナム陶磁の特徴
初期のベトナム陶磁は、現在、研究段階だそうです。

その多くは、中国のものと区別がつかないとか。

12世紀になって、白地に簡素な鉄絵が施されるようになり、
15〜16世紀となると、中国・元,明の影響を受けながら、
染付・赤絵が多くつくられるようになるみたいです。

16〜17世紀には「絞手」と呼ばれる、
染付文様の流れた独特の様式が生まれるそうです。

中国陶磁に比べ全体のつくりは重厚で、
文様は軽快な筆致で描かれているものが多いようです。


作品名:瀬戸耳付水指
備考:紙箱入

瀬戸耳付水指
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耳付水指の代表的なものと言えば、
古伊賀水指「破袋(やぶれぶくろ)」だろうか。

寸法は、高さ21.6p 口径15.8p 底径18.2p
現在、五島美術館蔵となっているみたいです。

国宝(当時、重要文化財)に指定されたのは、
1960年6月9日のようです。

「破袋」には、古田織部が、
大野主馬宛に出した消息が付属していたそうです。

残念ながら、関東大震災の折、焼失し、現存していないようです。

 「内々御約束之伊賀焼ノ水指令進入候 
 今後是程のもなく候間 如此候
 大ひゞきれ一種候か
 かんにん可成と存候」


■特徴
下ぶくれとなった袋形に、大きな窯割れのある形状。
破袋の名前の由来となった形状が特徴みたいです。

素地は灰白色の堅い半磁質で、
これを高火度に焼き締めたため、
焼成中の灰がかって全面に、
自然釉(伊賀特有の緑色の釉薬)が薄くかっているとか。

器形は口が広く、頸がくびれ、胴の下ぶくれといった
力強い作品なのだそうです。



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