茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

棗ってこんなの

薄茶器の一角「棗」は、文献上『天王寺屋茶会記』の永禄7年(1564年)に
津田宗達の茶会で用いられたのが最初となっているみたいです。
村田珠光に塗師の羽田五郎が、棗形茶器を作ったのが最初とも言われますが、
史料による裏付を持たないことから研究者の間では疑問視されてるとか。
寸法は、珠光棗→紹鴎棗→利休形棗と小さくなっていったみたいです。

棗の形としては「珠光棗」「紹鴎棗」「利休棗」「長棗」「平棗」「白粉解棗」「尻張棗(下張棗)」
「鷲棗」「胴張棗」「丸棗」「河太郎棗」「碁笥棗」「老松割蓋茶器」「町棗」「盛阿弥棗」「宗長棗」
「一服入棗」「壺棗」「寿老棗」「帽子棗」「まがき棗」などなどずいぶんたくさんあるみたいです。

利休棗は大中小をさらに大中小に分けた9段階に分類されるらしいですが、
実質的には「大棗」「中棗」「小棗」の3種に分類するのが普通みたいです。

棗の名は、黒梅擬(くろうめもどき)科の植物の棗の実に形が似ていることから来ているとのこと。
この植物、初夏に芽を出すことから「夏芽」と書くこともあるとか。
秋に赤い楕円形の実がなって、
熟すと赤黒く乾燥して「動悸・息切れ・不眠・血圧」なんかに効く薬になるみたいです。

棗以前の木製の茶器という意味では
「頭切(づきり)」「薬籠(やろう)」「茶桶(さつう)」「金輪寺(きんりんじ)」
などのもあったみたいです。

薄茶器と言えば他に「中次」が思い当たるけど、
藪内流の竹心紹智(不住斎)著『源流茶話』には
「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」
とあって、挽家が薄茶器となったようです。

挽家は、木地(鉄刀木・欅・花櫚・桑・黒柿・沢栗・柚)や塗物・蒔絵・独楽・竹なんかで出来ていて
「肩衝:中次形」「文琳・茄子:棗形」「丸壺:丸形」「瓢形:瓢形」に分かれていますが、
例外もけっこうあるようです。

また、「棗の形」についてと、 「棗の塗り」については、別ページで説明しています。

読み:わじまぬりおおなつめ
作品名:輪島塗大棗
作者:高名光夫
備考:八仙花文

輪島塗大棗
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この輪島塗、古墳時代から能登のことを「倭島(わのしま)」と呼んでたのが語源らしいです。
「輪島」となったのは室町中期以降みたいです。

輪島塗自体は「根来塗(ねごろぬり)」の流れを汲んでいて、
輪島古来の漆技に加味されて今に至ったと考えられているようです。

丁重な手作業で知られる輪島塗、その「塗の工程」は124工程もあるそうです。

高名光夫は、昭和31年生まれの日展会友。
高名光夫漆芸工房は、チルチンびと「地域主義工務店」の会主催のWebページで
取り上げられたりしているみたいです。

八仙花は、紫陽花の中国での呼び方。他に「綉球花」とも言うそうです。


読み:りきゅうがたしんぬりちゅうなつめ
作品名:利休形真塗中棗
作者:川端近左

利休形真塗中棗
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真塗は、黒漆を使い黒く仕上げた漆器(黒塗り)のうち、
すべて黒いものを指していて、「総黒(そうくろ)」とも言うそうです。
漆は縄文時代から既に利用されてて、土器の接着や装飾、木製品・装身具に漆を塗ったものがあったみたいです。

弥生時代からは武器への漆塗装、古墳時代には皮革製品や鉄製品などにも加工されてたそうです。
奈良時代には漆製品なんかも出てきたみたいです。

漆の語源は、橘忠兼編の『以呂波字類抄』によると、
 倭武皇子(やまとたけるのみこ)が猪狩りの後、
 狩りに使った黒い汁を持ち帰って、
 持っていた物に塗ったら綺麗に染まったから、
 その地を漆河原(嬉河原:うれしかわら)と名付けた
ということから来たみたいです。

漆の木が自生している曽爾郷に漆部造(ぬりべのみやつこ)を置いたりもしたようです。

初代川端近左は、幕末の京都の油屋で、屋号が近江屋、名前は佐兵衛。
そこで雅号を「近左」(佐→左)としたみたいです。
初代川端近左の息子「川端玉章」は、
明治の日本画家で川端画学校を開くなど画壇の重鎮だったそうです。
川端近左の6代目は2000年に襲名。
「襲名記念 六代 川端近左漆芸展」(2001年5月)なんかも開かれたみたいです。


読み:ほんくわわきんなかつぎ
作品名:本桑和巾中次
作者:中村宗悦

本桑和巾中次
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桑の木は、落葉性の高木で数メートル〜15メートル程になるそうです。
クワの木質はかなり硬く、磨くと深い黄色を呈して美しいので、しばしば工芸用に使われるようです。
特に良材とされるのが、伊豆諸島の御蔵島や三宅島で産出される「島桑」で、 緻密な年輪と美しい木目と粘りのあるみたいです。
江戸時代から江戸指物に重用され、老人に贈る杖の素材として用いられたとか。
国産材の中では最高級材に属するそうです。

和巾点は、玄々斎による裏千家の点前の整理(法護普須磨の小習を含む三十二条の板書き)の一環として、
禁裏への茶の献上を強く望み、慶応元年6月、
中院家の仲介により献上が許され、それを記念して「和巾点」が再興したとのこと。
元々、和巾点は、 利休 時代から唐物や棗などの由緒あるものを扱う作法として扱われていた点前が、
いつのまにかなくなったみたいです。
1866年正月19日、玄々斎は、禁裏へ濃茶竜影と新作白竹真削り茶杓を献上し、
その献残の茶をもって「 利休大居士 の古書により」和巾点を復興し、披露したようです。

玄々斎が内裏へ提出した『禁中への献茶の儀を旨とする口上書き』には、
  「右先例ヲ以献茶再興奉願候処、慶応元丑年六月、中院家ヲ
  以御聞済被仰出候ニ付、則同年八朔ヨリ去ル巳年迄毎年春
  秋献上仕候左ノ通り
  御濃茶 銘龍之影 木地中次ニ納メ一箱
  御茶杓 白竹真削共 筒 宗室作一箱」
とあるみたいです。

ちなみに、この会で使用した菓子菱花平とは、 現在まで家元初釜に限って用いられている花びら餅の原型だそうです。


読み:すずむしふぶきなつめ
作品名:鈴虫雪吹棗
作者:北村葵春
価格:15,000円

鈴虫雪吹棗
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鈴虫の季語は秋だとか。

雪吹棗は、蓋と身との境目がわからないようになっているところから、
一寸先も見えない吹雪にたとえ、この名があるそうです。


読み:じゅりんなつめ
作品名:寿輪棗
作者:一峰
備考:鵬雲斎好写

寿輪棗
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寿輪とは、六輪一露の六輪うち、「色心不二」をあらわす言葉だそうです。
六輪一露は、金春禅竹により考え出された能と音曲・舞の理論体系だとか。

能楽論書、金春禅竹著『六輪一露之記』によると以下のようになるみたいです。
第一、寿輪歌舞幽玄の根源、見風聞曲して感を成すの器なり。円満長久の寿命たるに依って、寿輪と名つく。
第二、堅輪この立ち上る点、精神と成りて、横・竪顕はれ清曲生ず。これすなわち、無上上果の感主たり。
第三、住輪短所の所、諸体の生曲を成ずる安所なり。
第四、像輪天衆地類、森羅万象、この輪に治まる。
第五、破輪天地十方、無尽異相の形を成すも、本来この輪中に生ず。しかれども、仮に円相を破るの儀を以っての故に、破輪と名付る也。
第六、空輪無主無色の位、向去却来して、また本の寿輪に帰す。
一露無上の重位にして、空・色の二見に落ちず、自在無碍にして一塵もさはる事なし。これすなはち性剣の形と成る。


ちなみに、能楽は、金春流のほか、宝生流・観世流・金剛流・喜多流などがあるようです。
それぞれの違いは、以下のようになっているみたいです。
観世流流祖は室町初期に奈良で栄えた大和猿楽の観阿弥。
その子世阿弥は演者、作者、理論家として多大な功績を残す。
この父子によって能は大成され、江戸時代にはシテ方筆頭の地位を与えられ、
現在もシテ方の最多数が所属する。優美で繊細な芸風をもつ。
宝生流流祖は観阿弥の長兄、宝生大夫。室町末期には小田原の北条氏に保護されたという。
江戸時代には5代将軍綱吉、11代将軍家斉に愛好された。古くから観世流と縁戚関係にあり、芸風も近い。
東京や北陸に基盤があり、華麗な謡を重視した重厚な芸風をもつ。
金春流五流の中で最も古い家柄。東京や奈良を本拠地とし、興福寺や春日大社との関わりも深い。
世阿弥の娘婿、金春禅竹は能作者、理論家として活躍。桃山時代には 豊臣秀吉 に後援された。
古風な様式を残したのびやかな所作や拍子にこだわらない自在な謡が特徴。
金剛流古くから法隆寺に属した坂戸座が源流とされる。
能「土蜘蛛」の千筋の糸を創案した金剛唯一などの人物を輩出。
昭和11年に宗家が途絶えたが、弟子家の野村金剛家が宗家を継承し、
京都や東京を中心に活躍。写実性と「舞金剛」と言われる豪快な舞に特徴がある。
喜多流流祖の北七大夫長能は金剛座の役者であったが、徳川秀忠の強力な後援を得て独立し、
室町時代から続く従来の4流派に加え新たに喜多流創設を認められた。
地方大名に支援され、芸風は武士道的精神主義が強く、素朴かつ豪放な気迫に満ちている。


読み:いとまきなつめ
作品名:糸巻棗
作者:一峰
備考:桐箱入/鵬雲斎好写

糸巻棗
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吉田一峰は、昭和29年9月生まれで、
昭和43年から6年間 荒井正春 に蒔絵技術の指導を受け、
兄弟子蓑輪一星氏と共に棗専門に勉強したそうです。
昭和51年に独立したとのこと。


読み:おいまつちゃき
作品名:老松茶器
備考:紙箱入

老松茶器
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老松棗とは、原叟が、山崎妙喜庵にある名木豊公袖摺松で好んだもので、
碁笥棗に似た身へ、蝶番付の割蓋がついているものみたいです。
単に割蓋のみのものは「一燈好」だそうです。


読み:しゅぬりあみめひらなつめ
作品名:朱塗網目平棗
作者:輪島塗廣谷製
価格:20,000円
備考:蓋裏金箔くすみ有り

朱塗網目平棗
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輪島塗は厚手の木地に、
生漆と米糊を混ぜたもので布を貼って補強し、
生漆と米糊、そして焼成珪藻土を混ぜた下地を、
何層にも厚く施した、
「丈夫さ」に重きをおいて作られている漆器みたいです。


読み:みるがいちゅうなつめ
作品名:海松貝蒔絵中棗
作者:田口光村
価格:15,000円

海松貝蒔絵中棗
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海松貝と言えば、 淡々斎(無限斎)無限斎 と言えば、御令室の清香妙嘉大姉でしょうか。
仙台生まれの清香妙嘉大姉は、 裏千家興隆のため 無限斎 の活動を内から支え、ソロプチミスト日本財団の設立にも尽力したそうです。 ソロプチミスト日本財団の初代理事長に就任し、社会奉仕の精神を広めたようです。
裏千家十四代 無限斎 は財団法人今日庵、社団法人茶道裏千家淡交会を設立し、 今日の裏千家の基礎を築くとともに、 茶道の海外普及と文化交流のために国際茶道文化協会を創立したとのこと。


読み:めばりやなぎちゅうなつめ
作品名:芽張柳蒔絵中棗
作者:正春
備考:桐箱よごれ有り

芽張柳蒔絵中棗
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芽張り柳(芽柳)は、早春、芽の萌え出ようとする柳のことだそうです。


読み:さくらまきえちゅうなつめ
作品名:桜蒔絵中棗
作者:東敬雪

桜蒔絵中棗
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蒔絵は、漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、
それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法のようです。
我が国に現存する最古の蒔絵資料は正倉院宝物の
「金銀鈿荘唐大刀」の鞘に施された「末金鏤作」なんだそうです。


読み:ひのでなつめ
作品名:日出棗
作者:一峰
備考:竺叟好

日出棗
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裏千家七代最々斎竺叟は、表千家六代覺々斎宗左の次男で、七代如心斎の弟だそうです。
裏千家に入られて在位八年、二十五歳の若さで亡くなったようです。
七種蓋置のひとつ一閑人の蓋置や、唐人笠花入、鶴香合や梅蒔絵割蓋茶器などを好み、
書はのびやかでありながら気迫に満ちた筆づかいだったとのこと。画も上手かったとか。


作品名:朝陽棗
作者:陽斎
備考:桐箱入

朝陽棗
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裏千家十四代淡々斎好みの朝陽棗は、
朱刷毛目の上に、黒漆で老松が描かれているそうです。
人は手前で上ってきた朝日を見ていて、間に松ノ木があるので、
太陽の陰になり黒で表現したもののようです。


作品名:大堰川棗
作者:義峰
備考:淡々斎好/桐箱入

大堰川棗
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京都の上桂川は桂川になり、その後に大堰川(おおいがわ)、再び桂川と称され、最終的には大阪の淀川となって流れ、
桜の木目が美しく、十三個の桜の花が描かれた棗は、この大堰川にちなんで名づけられたそうです。
また、裏千家第十五代鵬雲斎の十三詣の記念棗嵐山の桜樹を以て好まれた平棗のようです。

土居義峰は、前端雅峯の弟子。平成11年に伝統工芸士の称号を授かったそうです。


作品名:春野青漆大棗
作者:祐斎
価格:20,000円
備考:桐箱入

春野青漆大棗
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菫、たんぽぽ、つくし、桜草などを描き、春の訪れを、
立ち上がり部分には流水を描き、うららかな春の野を棗全体で表現しているそうです。

漆の色を五系統に分けると、青漆(せいしつ)は、以下の緑系にあてはまるようです。
黒系 鉄粉を混入することによって黒色化したもの。古くは,掃炭と透漆との混合によりつくられた。
赤系 本朱(本朱・赤口・黄口)、あるいは弁柄と透漆との混合によるもの。
黄系 石黄と透漆の混合によるもの。
緑系 石黄とベレンスと透漆を混合するか,黄漆と黒漆を混合する。
うるみ系 本朱又は弁柄と透漆を混合した色漆に黒漆を加えたもの。


作品名:溜塗大棗
作者:中村恭蔵
蓋裏:吉野山蒔絵
備考:桐箱入

溜塗大棗
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溜塗(ためぬり)は、下地の段階で赤い色を着色し、
仕上げに半透明な漆を塗り下の赤が上の漆を通して見える塗り方だそうです。
特に赤の色の強く仕上げたものを「朱溜(しゅだめ)」というのだとか。


■吉野山の桜樹
奈良にある吉野山は、桜の名所みたいです。
吉野山は平安時代頃から桜が植え続けられてきたようです。
特に桜が数多く集まる所があり、
いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に
下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれているのだとか。
かつては、高城山から金峯神社にかけても数多くの桜樹があったのだとか。

吉野山に桜が多いのは、桜が神木であるとされたことによるそうです。

一説に、修験道の開祖とされる役小角が、金峰山で修行を積み、
その結果、金剛蔵王菩薩が出現して、これを感得し、
蔵王権現像を「桜樹」で彫ったとすることから来ているようです。

以降、蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが
最善の供養となる風習が起こり、
平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになったのだとか。


■歌舞伎「義経千本桜」
「道行初音旅(吉野山)」の場面では、文楽・歌舞伎で、
いずれも舞台面は桜花爛漫の吉野山が描かれるそうです。
ここでは、吉野山の方面を見た道中のことだようです。

「河連法眼館(四ノ切)」の場面では、
狐忠信が吉野山の衆徒と大立回りをするそうです。

少し話題が逸れますが、狐といえば「宗旦狐」がいます。
千宗旦に化けてしばしば茶席に現れるということから
茶事の夜噺の時に、「宗旦狐」の香合を飾るそうです。

夜噺の茶事をしていると、「宗旦狐」の香合を見て
狐忠信を想像し、少しほくそ笑むこともあります。


■吉野山の桜の愛護
大海人王子(のちの天武天皇)が、
吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、
これが動機となって天下を定めたので、
桜は霊木であり神木であるとされ、
桜の愛護が始まったみたいです。

吉野山には、神仏が宿るとされる拝所・行場が六ヶ所設けられているそうで、
「靡(なびき)」とか「宿」と呼ばれるようです。

百人一首には、吉野山に関する短歌が二首選出されているようです。
 ・み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
 ・朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里にふれる白雪

中村恭蔵は、林野庁長官賞や全国漆器展等で多数受賞しているそうです。


作品名:秋草蒔絵中棗
作者:北村葵春
備考:桐箱入

秋草蒔絵中棗
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秋の草といえば、秋の七草。山上憶良が詠んだ以下の二首の歌がその由来だそうです。
○秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花『万葉集・巻八 1537』
○萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花『万葉集・巻八 1538』

七草の種類は「おみなえし」「ききょう」「なでしこ」「はぎ」「おばな(ススキ)」「くず」「ふじばかま」で、
覚え方は「おきなはすくふ(沖縄救う)」なんだとか。


作品名:ぶりぶり茶器(松竹梅蒔絵)
作者:宗景
価格:20,000円
備考:桐箱入

ぶりぶり茶器(松竹梅蒔絵)
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ぶりぶり(振々)は、木を八角形に削り、両端を細く中央を太く瓜型にして車輪を付け
「ぶりぶり」とひっぱって遊ぶおもちゃだそうです。
江戸時代から小さな子どものおもちゃとして親しまれたのですが、
次第に祝儀用の飾り物として使われるようなったみたいです。
中国で田地を平らにするために用いた瓜形の農具のリクトクが祖型なんだとか。

ぶりぶりの名の由来は複数あって
「教育玩具の1つとして、農耕道具を模して子供のオモチャにした。」
「宮中で大人が遊ぶゲームを子供もやりたがるので、模して子供のオモチャにした。」
などだそうです。

ぶりぶりの形を香合にしたのが、表千家の覚々斎宗左好「ぶりぶり香合」だそうで、
この香合はその息子の又玄斎がもらったので裏千家でも正月に使用されるようになったのだとか。
一説には又玄斎の子供時代にもてあそんでいたぶりぶりの形により、その父が好んだとも言われているそうです。
・ぶりぶり篭
・ぶりぶり香合(覚々斎好・認得斎好)
・ぶりぶり釜(淡々斎代好)
・ぶりぶり棗
・ぶりぶり水指(一燈好)

蒔絵師の宮田宗景は、昭和45年より蒔絵師の蓑輪一星に師事し、昭和50年に独立したそうです。
越前蒔絵見本市で入選、漆芸協会賞等を受賞しているようです。


作品名:四季中棗
作者:中村湖彩
備考:桐箱入/左から春夏秋冬

四季中棗
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春からは「わらび」を紹介します。
「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」(志貴皇子、万葉集8-1418番)
万葉集には「わらび」に関する歌が一首しかないようです。
早春に山野で巻いた新芽が特徴で、この新芽は早蕨(さわらび)と呼ばれるそうです。

夏からは「朝顔」を紹介します。
「朝顔に つるべ取られて もらい水」(加賀千代女)
加賀千代女は、朝顔を多く歌っていることから、
出身地の松任市(現・白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいるそうです。

秋からは「すすき」を紹介します。
「吾木香(われもかう) すすきかるかや 秋くさの さびしききはみ 君におくらむ」(若山牧水)
秋の七草の一つに数えられている「すすき」、
十五夜の月見には、萩とともに「すすき」を飾ることが多いですね。 花札では八月(旧暦)。
沖縄地方には、すすきの葉を環のように結んで魔除けとする風習があるようです。

冬からは「雪」を紹介します。
「田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」(山部赤人)
雪の結晶といえば、中谷宇吉郎でしょうか。
「加賀市中谷宇吉郎雪の科学館」は、
郵便番号:922−0411 石川県加賀市潮津町イ106番地
TEL:0761-75-3323
開館時間:9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日:水曜日
入館料:一般500円 団体420円 高齢者(満75歳以上):250円
 高校生以下及びしょうがい者は無料
だそうです。

蒔絵師中村湖彩は、昭和30年 石川県山中町の生まれだそうです。


作品名:桑中次茶器
仕覆:和久田金蘭
備考:紙箱入/中古品

桑中次茶器
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名物裂のひとつ、和久田金蘭(わくだきんらん)は、江戸和久田家に伝来したといわれるもので、
「本和久田金襴」「安楽庵手和久田金襴」「江戸和久田金襴」の三種類があるそうです。

この中から「江戸和久田金襴」を説明すると、
1.「繻子地で、縹・白・浅黄・茶・褐色・薄萌黄などの堅縞に、金糸で丸紋・花獣を織り出したもの」
2.「縹・白・浅黄・茶色の堅縞に、白に浅黄と茶・白に茶と黄の細横縞を挟み、
 横縞のない部分に木瓜形の折枝鳥獣紋を金糸で織り出したもの」
の二種類があるそうです。

松平不昧著『古今名物類聚』にも載っているようです。


作品名:雪吹棗(松竹梅蒔絵)
作者:中村恭蔵
価格:35,000円
備考:桐箱入

雪吹棗(松竹梅蒔絵)
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雪吹棗は、天地同じように面取りしてあり、
天地も分からぬほどの吹雪という意味だそうです。
また、文字も「吹雪」ではなく「雪吹」と逆に書き、
これも天地分からぬという遊び心なんだとか。

慶事・吉祥のシンボルとしての松・竹・梅。
もともとは中国の「歳寒三友」が日本に伝わったものだそうです。

「歳寒三友」は、宋代より始まった、中国の文人画で好まれる画題のひとつで、
 松と竹は寒中にも色褪せず、また梅は寒中に花開く。
 これらは「清廉潔白・節操」
という、文人の理想を表現したもののようです。


作品名:宝船蒔絵平棗
作者:吉田宗利
備考:白金梨地/桐箱入

宝船蒔絵平棗
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宝船は、珊瑚・金銀・宝石などの宝物を積み込み、七福神などが乗る帆船だそうです。
宝船が描かれた図には、
 永き世の 遠の眠りの みな目ざめ 波乗り船の 音のよきかな
という回文歌などが書かれることがあるみたいで、
正月の2日にその絵を枕の下に入れて寝ると良い初夢を見ることができるのだとか。

この棗には、米俵・鶴亀などの縁起物も描かれています。

富の象徴である米俵は、福俵とも呼ばれるそうです。
七福神の一柱、大黒天は、米俵に乗っているそうで、
福袋と打出の小槌を持った微笑の長者として有名ですよね。

長生き・夫婦円満の象徴である鶴亀については、
「鶴亀蓋置一双入」のページ
で、詳しく述べています。

また、亀というと四神の一柱「玄武」を思い浮かべる方もいるかもしれません。
「玄武」の大元となる「霊亀(仙人の住む蓬莱山を支えたと言われる巨大な亀)」などは
「長寿、子孫繁栄の象徴」と考えられたそうです。
ただ「鶴=朱雀」とはならないそうなので、
朱雀・玄武が鶴・亀につながるというわけではないみたいです。


作品名:香次棗(溜塗)
作者:北村葵春
備考:桐箱入

香次棗(溜塗)
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独楽紋香次棗のうち、溜塗(ためぬり)は淡々斎好、黒塗は利休好みたいです。

以下、溜塗について説明します。
古くは、貴族だけが使うことを許された色だったみたいです。

下塗りをして、その上に精製した漆をそのまま塗るそうです。(透漆)
時間が経つと、漆が紫外線によって落ちていき、木目が透けて見えてくるようです。
できあがってから一年ほど箱にしまっておくと漆は強固になり、
あまり透けないものになるそうですが、
ずっと放置しておくと、すぐに透けてくるのだとか。

溜塗には、黄溜・朱溜・春慶塗などがあるそうです。


作品名:遠山蕨大棗
作者:中村香鳳
価格:30,000円
備考:桐箱入

遠山蕨大棗
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ワラビは山菜の中でも灰汁が強く、食べる為には灰汁抜きが必要だそうです。

灰汁抜き方法は、
沸騰した熱湯をその上からかけ、
新聞紙や大き目のポリ袋で落し蓋をして一晩置くようです。
これは、ワラビの組織を軟化させるためなのだとか。

翌日きれいな水で洗いアクを流し、調理するそうです。

また、木灰や重曹を溶かしてアルカリ性にした水を使ったりして
灰汁抜きしやすくしたりもするみたいです。

苦味をとる場合は、重曹を入れる前にワラビを煮ると良いようです。
ただ、加熱しすぎとワラビの食感を損なうのだとか。

灰汁が防腐剤の代わりなるそうです。
防腐剤として確実に日持ちさせたい場合は、
チャック付き保存用バッグに練りワサビを溶かした水と共に
処理したワラビを入れて空気を抜き、
冷蔵庫に保管するとワサビの殺菌作用で1週間ほどは持つようです。

ワラビの産地は、
一位が山形県、二位が秋田県、
この二県で、全国の五割の生産量(平成22年現在)みたいです。

ワラビの旬は、地域により異なるそうです。
九州:3月中旬頃
本州:4月〜5月上旬
東北:6月初旬
北海道:6月初旬(初夏)

ワラビの採取場所は、
比較的日当たりの良い雑木林の縁や草原で、
特に、手入れされていない茶畑などは良いようです。

ワラビは、正しく処理し、おいしく食べましょう。


作品名:溜塗大棗
作者:道竹
価格:10,000円
備考:桐箱入

溜塗大棗
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溜塗は、褐色味の強い透明な漆を厚めに塗り立て仕上げたものだそうです。

透明感のある飴色の漆が美しい塗で下塗りの色で、
朱溜塗・紅溜塗・黄溜塗、木地を見せた木地溜塗などがあるようです。

朱漆の上に透漆をかけたものは、紅溜(べにため)というみたいです。


■溜り醤油
溜塗の「溜」は、「溜(たま)り醤油の色」に由来するという説があるようです。

醤油には、濃口醤油・薄口醤油・さいしこみ醤油・白醤油・溜り醤油などが
あるみたいです。

溜り醤油は、東海地方で製造・消費されている醤油だそうで、
濃口醤油との大きな違いは原料なのだとか。

濃口醤油は、大豆と小麦が半々ですが、溜り醤油は大豆のみで製造するようです。


■醤油の歴史
醤油のルーツは古代中国に伝わる醤(ひしお)だそうで、
日本における最古の歴史は、弥生時代みたいです。

701年の『大宝律令』に、醤を扱う「主醤」という官職名があるようで、
923年公布の『延喜式』には、大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されているそうです。
この時代には、既に、京都に醤を製造・販売する者がいたということになるとか。

「たまり」が文献上に初出したのは1603年に刊行された『日葡辞書』だそうで、
「味噌から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」
との記述があるみたいです。

江戸時代初期までは、日本の醤油の主流は色の濃いたまり醤油だったようです。

1640年代頃、巨大な人口を抱えて醤油の一大消費地となっていた江戸近辺で、
風味が優れており製造工程も改良した「濃口醤油」が考案されたみたいです。

「薄口醤油」は、1666年に揖保郡龍野で、
円尾孫兵衛が醤油もろみに米を糖化させたものを混ぜる事により、
色の薄い醤油を創り出したのが最初なのだとか。

1781年には、玖珂郡柳井津の高田伝兵衛によって「甘露醤油(さしみ醤油)」が開発されたようです。


作品名:甲赤茶器
価格:3,000円
備考:紙箱入

甲赤茶器
※画像を押すと拡大できます。
身は浅く黒漆塗り、蓋は深く朱漆塗りとしたもので、
裏千家五代常叟宗室の好みだそうです。

持ち方は横から。


作品名:桐蒔絵大棗
(腰ケヤキ千筋)
作者:松永松寛
価格:58,000円
備考:桐箱入

桐蒔絵大棗
※画像を押すと拡大できます。
棗は珠光に塗師の羽田五郎が納めたものが最初とされるが、
研究者からは疑問視されているそうです。
藤田美術館他に羽田五郎作の伝来を持つ古様の棗が数点現存しているものの、
史料による裏付を持たないためみたいです。
また武野紹鴎好みとする棗も現存しているが、同様に疑問視されているとか。

それよりも鳳林承章著『隔めい記』の1643年の記述に、
梅の花が棗に入れられているという記述があるそうで、
これは江戸時代初期までは、
棗が茶器に限らず用いられていた証左とされているようです。

藪内竹心著『源流茶話』に記載されている棗が、
肩衝茶入の挽屋を転用したものであるという記述も、
信憑性を失っているそうです。

これらを踏まえて内田篤呉は、棗も茶器の薬籠などと同様に、
薬などを入れていた漆塗りの器の一種から、
転用されたものであろうという推測をしているとか。

確実な記録としては、『天王寺屋茶会記』の1564年8月20日の、
津田宗達の茶会で用いられたのが初例だそうで、
他の木製の茶器よりも、随分と下っていることが判明しているみたいです。
この後、千利休好みとされる棗が、
利休系統の茶人の間で用いられるようになり、
江戸時代には薄茶器として一般化するとか。

安土桃山時代頃までは現在の濃茶と薄茶という区別は明確ではなかったそうで、
こうした木製の茶器も、当初は濃茶を点てるために使われていたとか。
現在は、茶器に残った茶を飲むために薄茶が発生したと考えられているみたいです。


作品名:朱金青海波大棗
(内 梨地)
作者:三代 前端春斎
備考:桐箱入

朱金青海波大棗
※画像を押すと拡大できます。
青海波はもともと中国の青海地方の
民族文様に由来する山岳文様みたいです。

雅楽の演目「青海波」の衣装にその模様があるようで、
半円形を三重に重ね、波のように反復させたものなんだそうです。
元禄時代(1688年〜1704年)頃から流行したのだとか。


■梨地(なしじ)とは
梨地は、蒔絵技法の一種で、金粉を蒔いた地のことだとか。
その名はナシの皮に似ているところからきているそうで、
仕上がりは、細かい粒々状の突起のある塗装仕上がりになるようです。

中国では日本の梨地のことを灑金(さいきん)と呼んだみたいです。

梨地用の金粉は梨地粉というようで、
その製法は金の地金を鑢(やすり)ですりおろした、
いわゆる鑢粉を鋼板の上に散布し、その上に太い針を3〜4本ならべ、
こてで針を圧しながらころがすと、
鑢粉は平らにのびて平目粉ができるのだとか。
これをさらに圧して不整形にちぎれたものを篩(ふるい)にかけて、
大小数種に分けたものが梨地粉みたいです。

塗装方法は高粘度、低圧で吹き付けを行うそうです。
重装中にビーズを混入して吹き付ける方法もあるとか。

また、鋼板加工の分野では、冷間圧延の際にロールの肌を、
梨地状に組くした圧延ロールを使い、
鋼板の表面を梨地状に仕上げることを「梨地仕上げ」というようです。


作品名:春秋棗
価格:8,000円
備考:紙箱入

春秋棗
※画像を押すと拡大できます。
表千家十三代家元即中斎宗左好の棗で、
一つの棗に、梅の絵と菊の絵の2種類の蓋がついているそうです。
梅は春、菊は秋に使うことから、春秋棗といわれているとか。

即中斎好の茶器は他に、
・芽張柳大棗一閑
・早苗蛍雪吹
・大棗鳳凰
・大棗誰ヶ袖
・南天大棗一閑
・金銀笹雪吹
などがあるようです。


■棗の扱い
表千家での茶器の扱いは、棗かその他の茶器かで分かれるそうで、
棗の場合は、茶碗の横に蓋を置き、蓋は、この字に拭くみたいです。

表千家の場合、男女で所作に違いがあるようです。
例えば、棗を拭いた後、男性の場合は、
服紗を棗の甲に乗せ手前から向こうへと拭きおろすのだそうです。
他にも、拝見の際、棗を持って回る場合、
女性は右手を畳につけるのですが、
男性は畳に手をつかないなどがあるようです。

棗をふくさで包んでする濃茶点前の「包みぶくさ」の場合、
この字にふいて、甲ぶきだそうです。

茶入が小・中棗のとき、男子は、お茶をはくと茶杓を茶碗のふちで一つ打ったら、
右手に握りこみ、茶入の蓋をして戻し、左手で扱って茶杓を持ち直し、
お茶をさばいて茶碗のふちで二度打って茶入の上に返すようにするみたいです。

ちなみに、裏千家では、所作に男女の区別はないようです。


作品名:蜻蛉蒔絵中棗
(ラデン入)
作者:田中宗凌
備考:桐箱入

蜻蛉蒔絵中棗
※画像を押すと拡大できます。
蜻蛉(トンボ)は、季語として用いるとわかりにくい部類に入るでしょうか。
「蜻蛉生る」などは、夏の季語のようですし、
トンボの種類や、歳時記によっても季節が違うみたいです。

簡単にまとめると以下のようになるみたいです。
○夏の季語
・新潮社の歳時記:鉄漿蜻蛉、川蜻蛉、灯心蜻蛉
・虚子編の歳時記:糸蜻蛉(灯心蜻蛉)、川蜻蛉(鉄漿蜻蛉)
・秋桜子編の歳時記:赤蜻蛉以外
・戍子編の歳時記:蜻蛉、あきつ、やんま、塩辛とんぼ、麦藁蜻蛉

○秋の季語
・新潮社の歳時記:蜻蛉、赤蜻蛉
・虚子編の歳時記:とんぼう、あきつ、やんま、赤蜻蛉、精霊蜻蛉
・秋桜子編の歳時記:赤蜻蛉
・戍子編の歳時記:赤蜻蛉


■トンボの種類
まず、赤トンボから。
赤トンボは体が赤いトンボの総称で、日本では21種類いるそうです。
つまり、赤トンボというトンボいないようです。

次にトンボの生物学的分類から見ると、
トンボは以下の「科」に分類されるようです。
・トンボ科
・ヤンマ科
・イトトンボ科
・サナエトンボ科
・オニヤンマ科
・カワトンボ科
・エゾトンボ科
・アオイトトンボ科
・モノサシトンボ科
・ムカシトンボ科
・ムカシヤンマ科
・ミナミカワトンボ科

この中で、日本にもっとも種類がたくさんいるのがトンボ科だそうです。
「トンボ科」の下の「属」に分類されるものは以下のものだとか。
・アカネ属
・シオカラトンボ属
・チョウトンボ属
・ハネビロトンボ属
・ハラビロトンボ属
・ショウジョウトンボ属
・ヨツボシトンボ属
・ヒメトンボ属
・カオジロトンボ属
・オオメトンボ属
・コシアキトンボ属
・ハッチョウトンボ属
・コフキトンボ属
・ウスバキトンボ属
・ホソアカトンボ属
・アオビタイトンボ属
・ヒメキトンボ属
・コシブトトンボ属
・ベニトンボ属
・アメイロトンボ属
・ウミアカトンボ属
・オオキイロトンボ属
・シマアカネ属
・アジアアカトンボ属
・アカスジベッコウトンボ属

このうち「アカネ属」で有名なのが、赤トンボこと「アキアカネ」でしょうか。
様々なトンボを代表して、以下にアキアカネの生態などを説明しようかと思います。


■アキアカネについて
九州から北海道まで、日本全国に広く分布しているみたいです。

初夏に羽化した個体は避暑地を求め、高い山へ移動するそうです。
そして、10月初旬あたりに一斉に平地へ移動するようです。
これは、アキアカネが暑さに強くないことに起因するみたいです。

また、移動距離は、他のトンボと比べて極めて長距離なのだそうです。

翅(ハネ)を休めて止まるトンボですが、
アキアカネの場合、翅を体の下に徐々に下げて休むのが特徴だそうです。
他のトンボは、翅を水平のまま、若しくは垂直に閉じて休むみたいです。

何万匹というアキアカネの集団が空を覆い尽く姿は、
ニュースにもなったとか。

その後、12月上旬までに、町中の水たまりや、
収穫の終わった田んぼなどに産卵し、一生を終えるようです。
これを専門用語で「一年一世代」と言うのだとか。

トンボは産卵管を持って産卵するものと、
生殖弁で産卵するものがあるみたいですが、
アキアカネは、後者だそうです。

一匹のトンボは、通常、一生に3000個〜5000個を産卵するようですが、
成熟して、産卵できるようになるのは、その中の10匹程度だそうです。


■最後に
寒くなってきたある秋の朝、都会の片隅でふと空を見上げると
空一面にアキアカネの飛ぶ姿が見れるかもしれません。

「赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり」(正岡子規)

次々と失われつつある自然を、
昔のまま、今も変わらず健気に伝える赤トンボは、
いつまでも、いつまでも、後世に残していきたいものではないでしょうか。


作品名:あけぼの棗
価格:6,000円
備考:紙箱入

あけぼの棗
※画像を押すと拡大できます。
あけぼの棗は、裏千家十一代家元・玄々斎好だそうです。

この一如斎玄室が7歳の時、点茶始めの披露として好んだ棗が「あけぼの棗」で、
朱塗の中に黒絵で鶴一羽、胴に松と亀が描かれているのだとか。

このあけぼの棗の箱書には「就玄室点茶始好之 発丑春」と書かれたものと、
別にもう一点「因慶事好之 発丑春」と書き、九条家へ献上されたものがあるようです。

あけぼの棗の本歌は、八代宗哲が造ったそうですが、
出来た当時から大変評判が良かったため、同じ作者で写が数多く造られたようです。
本歌との区別は、盆付が黒塗になることみたいです。

玄々斎が37歳の時に生まれた長男が、千代松(一如斎)だそうです。
また、一如斎が生まれてから4年後、長女の猶鹿子が誕生するみたいです。
このとき好んだ棗が「豊兆棗」なのだとか。

この一如斎は大変優秀で玄々斎自慢の息子だったようですが、
17歳で病死するそうです。


■玄々斎の後継ぎ
一如斎が亡くなった翌年、玄々斎の兄である渡辺又日庵の末っ子、
渡辺織衛を養子に迎え、千宗淳と名乗らせるようです。
その後徹玄斎と名乗るのですが、後は継がずに三河へ帰ってしまうそうです。
理由は、「諸芸人鑑札制度」や、大名の庇護が無くなったことなど、
いろいろあったようです。

「諸芸人鑑札制度」というのは、明治政府が導入した、
各都府県で定めた、遊芸に携わる人間に対して税金をかけたもので、
京都では明治3年に、窮民授産所の費用向けとして、
諸興業の売上に20分の1の課税をしたみたいです。
茶道も芸事のひとつとして課税対象となったようです。

明治5年、三千家連名で、三千家を代表して玄々斎が、
「茶道は単なる遊芸ではない」と反論した口上書『茶道の源意』を
京都府知事長谷信篤宛に提出し、課税対象から外れることができたとか。

『茶道の源意』本文は、
「茶道の源意は忠孝五常を精励し節倹質素を専らに守リ・・・」
で始まり、
茶道は儒教の教えを基礎にして成立発展した精神文化で、
単なる遊芸ではないということを書いたようです。

玄々斎が62歳の時、娘の猶鹿子に、
京都の名家角倉家の次男を婿養子として迎えるそうです。

この婿養子が裏千家十二代家元・又みょう斎玄室となるみたいです。
翌年、又みょう斎の長男の駒吉(裏千家十三代家元・円能斎)が生まれるそうです。

猶鹿子は、京都女紅場(後の府立第一高女)に茶道教授として勤務するようですが、
NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重もここの生徒だったそうで、
新島八重に、直接、茶道を教えたのだとか。

又みょう斎は玄々斎の引退に伴い、明治4年に20歳で家元を継ぎ、
14年後、家督を長男駒吉に譲り、地方を回り茶道の振興に努めたみたいです。


作品名:黒吹雪棗
(井伊大老好)
残菊に鶴蒔絵
作者:千穂
備考:桐箱入

黒吹雪棗
※画像を押すと拡大できます。
井伊直弼好の「月次茶器(つきなみちゃき)」の一つ、
10月の残菊に鶴蒔絵黒漆塗吹雪みたいです。

通常、雪吹棗は雪が先なのですが、井伊直弼好の吹雪は、
雪が後になるようです。


■月次茶器とは

井伊直弼好の月次茶器は、藤原定家が各月を代表する花鳥を詠った
『詠花鳥倭歌』の24首をもとにしたものだそうです。

井伊直弼は、絵画にも堪能だったそうで、直弼の考案により、
大和絵伝統の月次花鳥図を基に京都の千家十職、八代中村宗哲により作られたのだとか。

以下に「月次茶器」の基になったと思われる歌を記載してみます。
蒔絵茶器歌:花歌:鳥
1月柳竹に鶯蒔絵黒漆塗大棗 柳:うちなびき 春くる風の 色なれや
 日をへてそむる 青柳の糸
鶯:春きては いく世もすぎぬ 朝戸いでに 
 うぐひすきゐる まどの群竹
2月桜に雉蒔絵朱漆塗薬器 桜:かざし折る みちゆき人の たもとまで
 櫻ににほふ きさらぎのそら
雉:かり人の 霞にたどる 春の日を
 つまどふ雉の こゑにたつらん
3月菫に雲雀蒔絵溜塗中棗 藤:ゆくはるの かたみとやさく 藤の花
 そをだにのちの 色のゆかりに
雲雀:すみれさく ひばりのとこに やどかりて
 野をなつかしみ くらす春哉
4月卯花に郭公蒔絵潤塗面中次 卯花:白妙の 衣ほすてふ 夏のきて
 かきねもたわに さける卯花
郭公:郭公 しのぶの里に さとなれよ
 まだ卯の花の 五月まつころ
5月橘に水鶏蒔絵黒刷毛目塗白粉解 廬橘:ほととぎす なくや五月の やどがほに
 かならずにほふ のきのたち花
水鶏:まきのとを たたくくひなの あけぼのに
 人やあやめの 軒のうつり香
6月撫子に鵜飼蒔絵透漆塗金輪寺 常夏:大かたの 日かげにいとふ 水無月の
 そらさへをしき 常夏の花
鵜:ながき世に はねをならぶる 契りとて
 秋まちわたる 鵲のはし
7月女郎花に鵲蒔絵潤朱塗下張棗 女郎花:秋ならで たれもあひみぬ 女郎花
 契りやおきし 星合のそら
鵲:長き夜に はねを並ぶる 契とて
 秋まちわたる 鵲のはし
8月萩に雁蒔絵紅溜塗八角中次 鹿鳴草:秋たけぬ いかなる色と ふく風に
 やがてうつろふ もとあらの萩
初鴈:ながめつつ 秋の半も 杉の戸に
 まつほどしるき 初鴈のこゑ
9月薄に鶉蒔絵透漆塗平棗 薄:花すすき 草のたもとの つゆけさを
 すてて暮れゆく 秋のつれなさ
鶉:人目さへ いとど深草 かれぬとや
 冬待しもに 鶉なくらん
10月残菊に鶴蒔絵黒叩塗吹雪 残菊:十月 しもよの菊の にほはずは
 秋のかたみに なにをおかまし
鶴:夕日かげ むれたるたづは 射しながら
 しぐれの雲ぞ 山めぐりする
11月枇杷に千鳥蒔絵洗朱塗丸棗 枇杷:冬の日は 木草のこさぬ 霜の色を
 葉かへぬ枝の 花ぞまがふる
千鳥:千鳥なく 賀茂の河せの よはの月
 ひとつにみがく 山あゐの袖
12月早梅に水鳥蒔絵春慶溜塗割蓋茶器 早梅:色うづむ かきねの雪の ころながら 
 年のこなたに 匂ふ梅が枝
水鳥:ながめする 池の氷に ふる雪の
 かさなるとしを をしの毛衣



■井伊直弼(宗観)の茶の湯
1842年、28歳の井伊直弼は、従兄弟の摂専に宛て
「近此より楽やきを教えてもらひ候」と書き送ったそうです。

この4年後の1846年に、兄直元の死によって、急遽世継となり、
さらに4年後に藩主となるようです。
作陶をいつまで続けていたかは不明だそうですが、
現存する作品の数は40点、記録では100を超える作例を確認できるとか。

作陶法は、藩士の小野田小一郎に習い、その後に、
江戸の陶工三浦乾也(六世乾山)に師事したようです。

後に井伊直弼は、『緒方流陶術秘法書』を著し、
乾山流の釉の扱い方などを記したみたいです。

ただ、直弼の作品は、乾山流の華やかな描絵の手法や、
ロクロを駆使した作陶は見られず、
楽焼の特徴である手捏ねを主体にしていたようです。

楽焼の師匠は、明確にはわかっていないそうですが、
石州系の大名茶人、松平不昧や片桐貞信なども、
楽焼を製作していたようなので、これら先人たちの流れを受け、
楽焼製作を始めたと思われるのだとか。

直弼は、利休の侘び茶を重んじたそうで、
楽茶碗も、当時としては大変地味な「利休形」の茶碗を、
作っていたみたいです。

茶人としては、宗観、または無根水と号し『茶湯一会集』を著したようです。
この『茶湯一会集』は、茶会にのぞむ心構えとして
「一期一会」の思想が語られているそうです。
また、茶会が終わった後たった一人で茶を飲み、
自分自身との対話を茶の中に求めた「独座観念」を主張しているとか。


■埋木舎(うもれぎのや)
埋木舎は、滋賀県彦根市尾末町にある屋敷で、
井伊家の十四男として生まれた井伊直弼が、
十三代彦根藩主となるまでの15年間(17歳〜32歳)を過ごしたそうです。

井伊直弼は、5歳で母親を失い、17歳で父と死別、
それを機に槻御殿からこの埋木舎に移り住み、
三百俵の捨扶持で養われる身となったそうです。
側室腹の14男だから文句は言えないとあきらめていたようです。

「埋木舎」は直弼の命名で、
本来は「尾末町御屋敷」あるいは「北の御屋敷」の名で呼ばれていたとか。

「埋木舎」の名の由来は、不遇の人生であることを詠んだ
「世の中を よそに見つつも うもれ木の
 埋もれておらむ 心なき身は」(井伊直弼)
の歌からで、
自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)埋もれ木と同じだとして、
逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけたようです。

「埋木舎」の 裏手には「じゅ露軒」という茶室があったそうで、
数多くの弟子に一期一会の茶道精神を伝えたみたいです。

他にも茶室「天光室」があったそう、現在、彦根城博物館に、
鉄筋コンクリートで復元され、御殿部分が木造で復元されているようです。


作品名:老松割蓋茶器
作者:岡本陽斎
備考:桐箱入/
箱少々よごれ有り/中古品

老松割蓋茶器
※画像を押すと拡大できます。
老松茶器は、背が低く割蓋になっているため、
裏千家では、平棗の扱いを参照するそうです。

水指前の置き付けは、蓋が縦に(割蓋が左右に)なるように置くようです。

持ち方は、右手の時も左手の時も、
平棗と同様に上から半月に持つみたいです。

拭く場合は、右手の帛紗を縦に持って、
蓋の上を、左側、右側、縦(「り」の字の拭き方)と拭くそうです。

拭き終わってからの扱いは、平棗と同じく、
置き付けは縦に、茶杓は火付(釜のある方)に置くみたいです。

茶を掬う場合は、蓋の拭き方と同じく、左手の平にのせて、
左の親指で軽く蓋の左側を押さえ、
右手は茶杓を握り込んで右側の蓋をあけ、
茶杓を持ち直して縦にお茶を掬うそうです。

その後、再び茶杓を握り込んで蓋を閉め、
扱って左手で半月に持って定座に置くようです。

拝見に出すときは、蓋上を「り」の字に拭いたら、
左の親指で左の蓋を軽く押さえ、
右手は帛紗を握り込んで右側の蓋を開けて、左側に重ね、
帛紗を持ち直して、右側の合口を縦に丸く拭くそうです。

再び帛紗を握り込んで、元のように蓋を閉め、
前むこうを正して、右手で半月に持ち、定座に出すみたいです。


作品名:塗三点セット(雲錦流)
備考:紙箱入/樹脂製

塗三点セット(雲錦流)
※画像を押すと拡大できます。
「雲錦」という名の由来は、
錦織りの生地が、雲や霞のように美しいため、
または、その図案に雲が多く描かれているため、
などがあるそうです。

図案や手織りの技巧は、1500年以上前から、
中国で代々継承され続けてきたものみたいです。

中国雲錦は、中国歴代皇帝に愛された絹織物だそうで、
特に「曹世織局」の中国雲錦は、
その高い技術と品質の良さで、
世界中に多くの愛好者を持つようです。


作品名:塗三点セット(独楽木製)
備考:紙箱入

塗三点セット(独楽木製)
※画像を押すと拡大できます。
回すと色が見える白黒の独楽に、
「ベンハムの独楽」というのがあるそうです。

「ベンハムの独楽」は、イギリスのおもちゃ製造業者である、
チャールス・ベンハムが作成したから、この名があるそうです。
1895年に下図のような上面を塗り分けた独楽を発売したようです。

ベンハムの独楽を回すと、弧状の薄い色があちこちに見えるみたいです。
この色はフェヒナーの色と呼ばれるそうで、
誰が見るかによって異なる色となるのだとか。
現在でも、なぜこのような現象が起こるのか、
完全には理解されていないようです。


■ベンハムの独楽の例
ベンハムの独楽 ベンハムの独楽 ベンハムの独楽 ベンハムの独楽


作品名:金地源氏車平棗
作者:一后一兆
備考:桐箱入二重箱/
少し小さめの平棗です。

金地源氏車平棗
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、平棗をいくつか説明しようかと思います。

○水葵蒔絵平棗
 尾形光琳作の平棗で、
 酒井抱一の箱書と仕覆が添っているそうです。
 平棗でありながら、糸底がなく、
 水葵の根は底面から伸び上がり、器体を覆って、
 花の先端を再び底面へと回しているみたいです。
 特に、貝の切り方、錫板の断ち方は大胆なのだとか。

 付属の仕覆は、浅葱縮緬御物袋、
 内箱蓋表に「棗 青々光琳製」
 内箱蓋裏に「抱一暉真記 印」
 寸法は、高さ5.2cm×径8.7cm
 だそうです。


○楓鹿蒔絵平棗
 桃山時代の蒔絵棗で、平棗としてはやや背が高いそうです。
 塗・蒔絵とも町棗風のざんぐりした作行きみたいです。
 町棗というのは、無名の町塗師の手になる粗雑な棗だそうですが、
 その侘びた感じが利休をはじめ、茶人に取り上げられたようです。

 楓も鹿も絵梨子地(えなしじ)や金の蒔分け、
 漆の濃淡によって画面の変化を出しているため、
 複雑に紅葉している楓の印象をうまく表現しているみたいです。

 鹿は、遠景に二頭、近景に二頭の雄雌を描いているようです。
 楓に比べ、鹿の表現はやや固さが残るものの、
 秋の茶には、この上ない図柄みたいです。

 寸法は、高さ6.1cm×径8.0cmだそうです。


○柳蒔絵平棗
 黒漆塗の平棗に、金平蒔絵で柳樹を描いたものだそうです。
 若芽をいっぱいにつけた枝が、
 暖かな春風にふわりと翻弄される刹那が見てとれるようです。

 柳の幹が左右にくねりながら、胴の下部から蓋上に向かって伸びて行く様、
 その幹から四方へと伸びる細枝、
 共に筆勢のある自由な表現となっているのだとか。

 ざらりとして荒く良質で味わい深い金粉の下から、
 手擦れにより下地の弁柄を混ぜた赤い絵漆が、ほのかに現れ、
 雅味を添えているそうです。

 合口は沃懸(いっかけ)、内側と糸底は黒漆塗みたいです。
 沃懸とは、漆器の合口や縁に金銀粉を蒔いて装飾としたものだそうです。


○鶴亀絵平棗 一双
 武者小路千家四代・直斎堅叟の好んだ平棗のようです。
 木地に直接墨を用いて、鶴と亀を描き、
 その上に透漆を塗り仕上げているのだとか。

 蒔絵では現せない筆勢や、水墨画ならではの墨の濃淡が、
 味わい深い魅力となっているみたいです。

 鶴亀の図は、絵所預の土佐光貞により描かれたものだそうで、
 蓋裏には直斎藤の花押が朱漆で記されているようです。

 木地および漆は、江戸時代中期の挽物師・戸沢左近によるものみたいで、
 糸底に「左近」の彫銘があるのだとか。

 寸法は、共に、高さ5.8cm×径8.0cmだそうです。


作品名:老松茶器
価格:8,000円
備考:紙箱入

老松茶器
※画像を押すと拡大できます。
北野天神として祭られた菅原道真は、
陰謀によって九州の太宰府に左遷されたそうです。
都を想い
 東風吹かば 匂いおこせよ梅の花
 主なしとて 春な忘れそ
と、庭の梅を懐かしむ歌を詠むのだとか。

すると、都から歌に詠まれた梅が飛来して根付いたそうです。
これが飛梅、紅梅殿なのだとか。

道真の京都の邸宅には、その梅と並んで、
桜と松とが生えていたみたいです。

梅が太宰府へと主を慕って飛んで行った後、
同じく道真の京都の邸宅に生えていた桜の木は、
道真が去り際に、梅にばかり歌を遺して、
自分には言葉をかけてくれなかったことを悲しく思い、
主との別れを悲しんで枯れてしまったのだそうです。

その報せを配所で聞いた道真は、
 梅は飛び 桜は枯るる 世の中に
 何とて松の つれなかるらん
という歌を詠んだようです。

すると、今度は道真に「つれない」と咎められた松が、
梅の後を追って同じく太宰府へとやってきたそうで、
これを「追い松(老松)」といい、
飛び梅(紅梅殿)・老松は、共に太宰府天満宮で、
末社の神として祀られているとか。


■初番目物 脇能 老神物「老松」
ここでは、能の演目「老松」について説明しようかと思います。

本作は、道真にまつわる奇跡を語る神能で、
簡単に説明すると、梅津某が太宰府安楽寺に参詣し、
老翁から老松と飛梅のいわれを聞き、
のち、夜ふけになって、老松の精と梅の精が現れて、
舞を舞うという話だそうです。

「紅梅殿」という小書がつくと、
通常では登場しない紅梅殿の精が出るみたいですが、
老松の詞章には、もともと紅梅殿の精が登場するような記述があるそうで、
こちらの演出の方が、本来の形に近いと考えられているとか。

では、詳細を見ていこうかと思います。


■老松の謂われ
場所は、菅原道真をまつる太宰府・安楽寺。
梅の花咲く、のどかな新春のある日のこと、
都の人・梅津某が、従者を引き連れ参詣しに来たようです。

そこに、老人と若い男がやってくるそうです。

梅津某が声をかけると、二人は、
境内の飛び梅はこの地では「紅梅殿」と呼び敬われ、
梅に続いて飛来した老松もまた、神木であると教えるみたいです。

そして老人は、この社の謂われを語るという、
「独吟(クセ)」の部分が、はじまるそうです。

この社の天神様の愛した梅と松、
梅は文学を好んで色香を増し、
松は始皇帝を雨から守った徳をもつとか。
「名高き松梅の花も千代までと・・・」
と言うと、二人は姿を消してしまったそうです。

中国では、梅は文学を好むので「好文木」といわれ、
松は秦の始皇帝の雨やどりを助けたので
「大夫」の位を授けられたという故事があるようです。

この「クセ」の部分の全文は以下のようになっているみたいです。
 「げにや心なき。草木なりと申せども。かかる浮世の理をば。知るべし知るべし.
 諸木の中に松梅は。ことに天神の。ご自愛にて.
 紅梅殿も老松もみな末社と現じ.たまえり。
 さればこの二つの木は。わが朝よりもなお。漢家に徳を現わし。
 唐の帝のおん時は。国に文学さかんなれば。
 花の色を増し。匂い常より勝りたり。文学すたれば匂いもなく。
 その色も深からず。さてこそ文を好む。木なりけりとて梅をば。好文木とは付けられたれ。
 さて松を。太夫という事は。秦の始皇の御狩の時。
 天俄にかき曇り.大雨しきりに降りしかば。帝雨を.しのがんと.小松の陰に寄りたもう。
 この松にわかに大木となり。
 枝を垂れ葉を並べ。木の間透間をふさぎて。その雨を漏らさざりしかば。帝太夫という。
 爵を贈りたまいしより松を太夫と申すなり。
 かように名高き松梅の。花も千代までと。
 行く末久しみ垣守。守るべし守るべしや。
 神はここも同じ名の。天満つ空も紅の。
 花も松ももろともに。神さびて失せにけり跡.神さびて.失せにけり。」


■老松の登場
二人が姿を消したことに驚いた梅津某は、
従者に土地の者(安楽寺門前の者)を呼ばせ、
その人から詳しく道真の事蹟や道真を慕って飛んできた梅、
後を追ってきた松の話を聞くそうです。

先刻の二人が神の化身だと確信した梅津某は、
更なる奇跡を見ようと、その夜は、松の木陰で休むみたいです。

すると、老松の神霊(松の精と梅の精)が、紅梅殿に呼びかけながら登場し、
二柱の神はこの客人をもてなそうと、歌をうたい、舞を舞うそうです。

ここで「仕舞(キリ)」がはじまるようです。

若々しい紅梅殿は舞の袖をひるがえし、
長寿の松は御代の春を祝福するようです。
そして、春の栄えは、行く末久しく続くのだとか。

この「キリ」の部分の全文は以下のようになっているみたいです。
 「さす枝の。さす枝の。梢は若木の花の袖。
 これは老木の神松の。これは老木の神松の。
 千代に八千代に。さざれ石の。
 巌となりて。苔のむすまで。苔のむすまで.
 松竹。鶴鶴の。齢をさずくるこの君の。
 ゆくすえ守れと我が神託の。告を知らする.
 松風も梅も。久しき春こそ.めでたけれ。」


作品名:御所車大棗
(内 梨地)
作者:清瀬一光
備考:桐箱入・塗箱入/
鵬雲斎書付

御所車大棗
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、「御所(ごしょ)」について説明しようかと思います。

「御所」とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、
またはその人を指す、歴史上の称号のひとつだそうです。

摂家や将軍家とその一門・公卿・寺社に許された御所の称号を、
「御所号」または「公家号」というようです。
この「御所号」に次ぐ敬称が「屋形号」だそうです。

御所号は主に朝廷や幕府がそれぞれ家柄や格式によって、
寺社・公家・大名家に許すものみたいで、
尊称としては最高級に位するのだとか。

武家政権においては、室町幕府及び江戸幕府が、
一門または臣下のうち、御所号に匹敵する格式を有する家にこれを許したそうです。

室町時代、主に足利将軍家の当主及び連枝・鎌倉公方家の一門・
鎮守府将軍として南朝方の有力公家大名であった北畠氏とその一門が御所号を称したようです。

江戸時代には、鎌倉公方家の末裔である足利国朝が江戸幕府に帰参する折、
御所号を許され、国朝に始まる喜連川氏が御所号を免許されたみたいです。

単に「御所」と呼ばれる場合は、今上天皇の御所を指すそうです。
天皇の御所は皇宮とも呼ばれ、都城や城に建てられたものは宮城とも呼ばれるとか。
江戸城跡の宮城は太平洋戦争後に皇居と呼ばれ、現在は御所とほぼ同義で用いられているそうです。

また、京都御所は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設で、
2014年現在、宮内庁京都事務所が管理しているようです。
この京都御所の隣には、退位した天皇の御所として仙洞御所があるそうで、
庭園と茶室があるみたいです。


作品名:秋がすみ蒔絵大棗
(溜塗 内 黒)
作者:前端雅峯
備考:桐箱入・塗箱入

塗三点セット(雲錦流)
※画像を押すと拡大できます。
「霞(かすみ)」は、気象学上の用語ではないそうですが、
春に起こる霧状の現象、
特に山腹などの遠景に淡く掛かっているものは、
一般に「霞」と呼ばれ、
「霧(きり)」は、主として秋に用いる、
という使い分けがされているのだとか。

「霞」には、学術的な定義は無いそうです。
「霞」は、春に「霧」や「靄(もや)」などによって、
景色がぼやけて見える状態を指すみたいで、
視界が1km未満であれば「霧」、それ以上は「靄」と呼ぶようです。

霞・霧・靄は、大気中の水分が植物の蒸散が活発化するなどの要因によって増え、
気温の低下などによって微粒子状(細かい水滴)となって、
目に見える状態になるそうです。
昼と夜の変わり目で気温差の大きい日に起こりやすいみたいです。

季語では霞が春、霧が秋と分類されているとか。


作品名:雲錦蒔絵中棗
作者:祐哲
価格:15,000円
備考:桐箱入

雲錦蒔絵中棗
※画像を押すと拡大できます。
雲錦紋様は、満開の桜と紅葉とを配した色絵模様で、
尾形乾山が発案者だそうです。

満開の桜を「雲」に、鮮やかに色づいた紅葉を「錦」に見立て、
「雲錦」と言うようになったのだとか。

では、なぜ桜の雲、紅葉の錦なのでしょうか。
特に資料も見当たらないので、勝手に想像してみようかと思います。


■桜雲(おううん)
尾形乾山は、尾形光琳の6歳下の弟で、
1663年、京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれたそうです。

他方、江戸時代前期の成立の本に浅羽成儀著『桜雲記』という
南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記があるそうです。

書名は、南朝の舞台が吉野であることから、
雲かと見紛うばかりに咲き誇る、
吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものみたいです。

桜の花がたくさん咲いて雲のようにみえることを「桜雲」というそうですが、
このあたりが出所でしょうか。


■紅葉の錦
「紅葉の錦」は、菅原道真の短歌からかと思われます。

 このたびは 幣も取りあへず 手向山
 紅葉の錦 神のまにまに(『古今和歌集』/百人一首 24番)

意味は、
 「今度の旅は急のことで、道祖神に捧げる幣(ぬさ)も、
 用意することができませんでした。
 手向けの山の紅葉を捧げるので、
 神様、御心のままにお受け取りください。」
となるのだとか。

「手向山」が現在どこなのか、はっきりしていないそうですが、
大和と山城の境のあたりだったみたいです。

さて、雲錦紋様は、一年中使える紋様だそうです。

時代を超えても、美しいものを愛でる人々の心は同じように感じます。
現代は、その心を持っていることすら忘れるくらい、
忙しいのではないでしょうか。

茶道を通じ、少しでも昔の人々が愛でた自然を感じられれば、
とても素晴らしいことだと思います。

 春には桜の花が咲き、夏には草の香りが漂う。
 秋には紅葉が舞い落ちて、花の芽となり冬を越す。

皆さんも、自然が見せる美の刹那を、感じてみてはいかがでしょうか。


作品名:芽張柳蒔絵中棗
(内箔)
作者:祐哲
備考:桐箱入

芽張柳蒔絵中棗
※画像を押すと拡大できます。
「芽張柳(めばりやなぎ)」は、早春、芽の萌え出ようとする柳のことだそうで、
芽柳(めやなぎ)とも言うようです。
季語は、新芽を吹く時季に合わせて仲春(陰暦二月の異名)とするのだとか。
ちなみに「柳」単独だと晩春になるみたいです。

「仲春の候」は、初春と晩春の間の期間を指すそうで、
啓蟄(3月6日頃)から清明(4月5日頃)に入るまで、
またはその辺の時期を指すことが多いとか。

「東の芭蕉・西の鬼貫」と称された上島鬼貫の俳句に、
 芽柳の 奥たのもしき 風情かな
というのがあるそうです。


作品名:波車蒔絵中棗
(溜塗)
作者:庄司
備考:桐箱入

波車蒔絵中棗
※画像を押すと拡大できます。
「波車紋(なみぐるまもん)」は、
「片輪車文(かたわくるまもん)」ともいうそうで、
車輪に流水などを組み合わせてあらわされる紋様だそうです。

これは、平安時代、常用された牛車の輪を、
川水に浸して乾燥を防ぐ光景だそうです。

平安時代後期には、文様として完成したようで、
東京国立博物館所蔵の国宝『片輪車文様蒔絵螺鈿手箱』が
有名どころみたいです。


作品名:四季の花平棗
作者:宗祥
備考:桐箱入

四季の花平棗
※画像を押すと拡大できます。
四季の茶花についての説明は、
本ホームページの「茶花のページ」に譲るとして、
ここでは、夜会の花と禁花について説明しようかと思います。


■夜会の花
夜会の花は、古い時代には、色彩によっては灯火に紛れてはっきり見えず、
清雅を欠くことと、影を嫌うことから、まったく用いられなかったそうです。

紹鴎時代から、白色であれば紛れないで、色をそのまま賞翫できるので、
活けても差し支えないこととなったみたいです。

茶事の場合、掛物を先に、後入りに花を活けるのが順序だそうですが、
昔は徒歩か駕籠であり、時間も相当かかるので、
現今の時刻よりも早い夕明かりのある間に席入りして、
原色の花を見るために、初入りに花を先に用いたのだとか。

夜咄茶事は、大体、12月〜2月にかけて催されるため、
花は「椿類」「梅類」や「水仙」「雪割草」「寒木瓜」などの、
いずれも白色が用いられるそうです。

ただ、現在は、蛍光灯などで昼と変わらない明るさになっているため、
昔の約束にこだわって花を用いないことや、用いても白一色というは、
あまり良くないみたいです。

明るい電灯の灯っている席ならば、大寄せの催しの場合などは、
色花でも平常通り原色を活かして活けて良いそうです。

正式の夜咄茶事では、蝋燭か灯心を用いて、
約束通り白色の花を活け、夜もすがら暗い灯火のもとで、
しみじみ親しみ合というのも良いようです。

また、夜咄茶事では、花の代わりに「水盤」や
「平鉢などに石菖」を用いても良いみたいです。
特に石菖は、灯火の油煙で濁った席中の空気を清掃する効果があるため、
よく用いられるそうです。


■夜会の花の文献
立花実山著『南方録』に
「夜会に花を嫌ふこと、古来の事なりしを、
紹鴎宗易吟味のうへ、夜会にも花によりていけ申に極りし也。
凡花はいけす、白き花不苦」
とあるようです。

津田宗及著『津田宗及茶湯日記』に
「床 かぶらなし 水仙花入
永禄二年十月十三日晩さつまや宗折会」
とあるみたいです。

『石州流入花覚書』に
「夜会ノ花ノ事、
夜ハ初入ニ入テヨシ赤キ花黄色ヲ嫌フ、
白キ花ヲ入へし夜会花ヲ不入ト云物語休師後妻宗恩
月ノ影ヲ受スヤト云詩ノ心ニテ夜モ面白シト也、
初入ニ入レル事モトヨリ待タル心ナリ、
後入ニ入ルル事必定ナキ事ナリ、
花ノ体モ色合モアサヤカナラス、
夜陰ハ凋ム花多シ」
とあるそうです。

『宗春翁茶道聞書』に
「一、夜の花に入様有、口伝、見様口伝、申かたき事共ある也。」
とあるのだとか。


■禁花
立花実山著『南方録』の覚書に、禁花を詠んだ狂歌があるそうです。
「花入に 入ざる花はちんちやうげ みやましきみに けいとうの花」
「女郎花 ざくろ かうほね 金銭花 せんれい花をも 嫌なりけり」

狂歌から読み取れる禁花は、
 香りたかい花・茶花としてはみせどころのない花・あくどい花・
 名称を忌む花・季節なしの花・実のある花
みたいです。

また、花を活ける場合、花数は奇数を原則とするそうです。
二種は差し支えないようですが、それ以上の偶数は嫌うとか。
更に、掛物の花と同様の花は避ける必要があるようです。

さて、『南方録』の狂歌の花を、一つ一つみていこうかと思います。

「沈丁花(ちんちょうげ)」は、香りが強いため、
茶室で焚く香(こう)の匂いを紛らわせ、その雰囲気を壊してしまうそうです。
にじり口を入ってからの茶室では、
総じて強い香りのものは敬遠されるみたいです。

そのことから、体に香水をつける場合も、
茶会では、ほのかな香りのものにするのが、大人の嗜みのようです。

「太山樒(みやましきみ)/深山樒」は、季節なしの花だそうで、
茶花としてのみせどころもなく、
名称も良くないため、嫌われたそうです。

このミカン科の深山樒は有毒で、悪しき実の意味のアがとれて
「シキミ」という名が付いたという説もあるようです。

「鶏頭(けいとう)」は牡鶏のトサカの形をしていて、
その形状が茶花にふさわしくない上、
色彩があまりにもあくどい原色であるところから嫌われたそうです。

「女郎花(おみなえし)」は、活けて古くなると、
悪臭を放つため嫌われたそうですが、
茶花として用いることもあるそうです。

名称が遊郭の「女郎(じょろう)」と読み嫌ったとの説もあるようですが、
同時に「可憐な乙女」のことを指すようで、
むしろ茶花にふさわしいとする説もあるみたいです。

「柘榴(ざくろ)」は、実のある花で、茶花としてもみどころがないため、
嫌われたようですが、
古い文献などには「白ザクロ」の名で用いられていたのが見られるとか。

「河骨(こうほね)/川骨」は、骨という字が入っていることから嫌われたようです。
ただ、茶花としてその形状は悪くはなく、利休自身もこの花を好んで、
園城寺の竹花入に活けたという話があるのそうです。

「金銭花(きんせんか)/金盞花」は、もともと仏花で、茶花としての見どころもなく、
季節を問わず咲く花なため、嫌われたようです。

「仙蓼果(せんれいか)」は、どんな花なのかよくわからないそうですが、
「鮮麗花」とすると、派手で華やかな花と解釈できるとする説もあるみたいです。


作品名:桜皮桜彫中棗
作者:福井正人
(伝統工芸作家)
価格:10,000円
備考:木箱入

桜皮桜彫中棗
※画像を押すと拡大できます。
樺細工師の福井正人は、
昭和40年より現在の仕事をしているそうで、
平成06年度に、伝統工芸師の認定を受けたようです。

角館町樺細工伝統工芸展、
秋田県議会議長賞受賞などの受賞歴をもつとか。


作品名:柳蒔絵中棗
作者:岡本陽斎
備考:桐箱入

柳蒔絵中棗
※画像を押すと拡大できます。
柳(やなぎ)は、ヤナギ科ヤナギ属の樹木の総称で、世界に約350種あり、
主に北半球に分布するそうです。

ただ、日本で柳と言えば、一般に枝垂柳(しだれやなぎ)を指すことが多いようで、
本作品の柳もこの枝垂柳みたいです。

枝垂柳は、中国原産の柳で、
日本へは奈良時代に入ってきたそうです。

中国では、この木で矢を作ったので「矢の木」というようで、
「やのき」→「やなぎ」へと変化したみたいです。

枝垂柳は、漢方薬としても用いられるようで、
枝の部分を「柳枝」、 葉を「柳葉」、花を「柳花」、
根を「柳根」、樹皮を「柳白皮」、種子を「柳絮」
と、それぞれ呼ぶみたいです。

枝垂柳は、奈良の都・平城京の街路樹として植えられたとか。

万葉集に
 ももしきの 大宮人の かずらける
 枝垂柳は 見れど飽かぬかも
など数点の枝垂柳を読んだ歌があるそうです。

柳には大別して、枝が垂れるものと、上に向って立つものがあるようで、
万葉集では、垂れるものを柳と書き、
立つものを楊と書いて区別しているみたいです。
ただ、厳密ではないとのこと。

 春の日に 萌れる柳を 取り持ちて
 見れば都の 大路し思ほゆ(『万葉集』大伴家持)

春の日に、芽吹いている柳を手に取って良く見ていると、
奈良の都大路が思われるという意味だそうです。

平城京の街路樹として整然と並ぶ柳の木。
春風の中、心地よい葉擦れの音が、今も聞こえてきそうです。


作品名:津軽塗中棗
価格:5,000円
備考:木箱入

津軽塗中棗
※画像を押すと拡大できます。
津軽塗(つがるぬり)は、青森県弘前市を中心に、
製作販売される青森県を代表する伝統的工芸品だそうで、
正確な定義というものは存在しないみたいです。

津軽塗という言葉が生まれたのは、
1873年、ウィーン万国博覧会に漆器を展示する際、
その産地を明らかにするため名付けられたようです。


■津軽塗の歴史
津軽塗の成立は江戸時代中期だそうです。

弘前藩の四代藩主津軽信政が、津軽の産業を育成するため、
全国から多くの職人・技術者を弘前に招いたみたいです。

その中に若狭国の塗師・池田源兵衛がいて、
1685年、藩命により江戸へ上り、
塗師の青海太郎左衛門に入門したようです。

翌1686年、池田源兵衛は死亡するものの、
父の遺志を継いだ池田源太郎が、
蒔絵師・山野井の門で修業をするそうです。

1697年、亡父と同じように青海太郎左衛門に入門し、
更に修業を積んだのだとか。

やがて源太郎は、青海一門の一子相伝の秘事
「青海波塗」を伝授されるそうです。
青海太郎左衛門の死後、弘前に帰藩した源太郎は、
1727年、師の姓と父の名を継いで、青海源兵衛と名乗るのだとか。

ある時、青海源兵衛は、漆盤にこびりついた漆を取るため、
砥石で丹念にこすったそうです。
そこに、様々な色が雲状の模様となって現われてきたことから、
この模様を生かすことを思い立ったのだとか。
これが、「唐塗」の技法の始まりみたいです。

その後「京春涼塗」「溜塗」「黄色塗」等の技法へと、
発展していくようです。

明治維新後、津軽の特産品として売り出された時、
これ等の技法をまとめて津軽塗と呼ぶようになったとか。


作品名:寿棗(平棗)
作者:塩徳屋印
(伝統工芸作家)
価格:10,000円
備考:桐箱入

寿棗(平棗)
※画像を押すと拡大できます。
株式会社塩徳屋漆器店は、
石川県輪島市河井町1部39-2にあるそうで、
塩山徳雄が代表を務めているようです。

電話番号は、0768-22-0445
みたいです。


作品名:老松茶器
仕覆:太子間道
備考:紙箱入

老松茶器
※画像を押すと拡大できます。
老松茶器は原叟好で、山崎妙喜庵(やまざきめうきあん)の古松で造るそうです。

扱いは、基本的に大海と同様だそうです。
蓋は「り」の字を書くように拭き、
茶を入れる時は蓋を取らず、左掌へのせ、左の親指で蓋の「ロ」の側を押へ、
右手に茶杓を握り込んで親指・人差し指・中指の三本で、
蓋の左へ折返して、茶をすくうみたいです。

伊丹の小西酒造に伝わる茶道資料
『入門之栞 凌雲帳 地の巻』に
「老松茶器は、原叟好にて山崎妙喜庵の古松を以て造る。割蓋なり。
 扱ひは大海と同樣なるも、蓋は左圖の如く「り」の字形に拭き、
 茶を入れる時は蓋を取らず、左掌へのせ、左の拇指で蓋の「ロ」の側を押へ、
 右手に茶杓を握込んで拇指・食指・中指の三本にて蓋の「イ」の側を、
 左へ折返して、茶を掬ふべし。
 終れば此反對に扱うて、蓋をなす。
 客方へ一覽に供する時は、袱紗を握込んで、
 先のように蓋をあけ、口の右側のみを竪に一度拭くべし。」
とあるようです。

同じく『入門之栞 凌雲帳 地の巻』に
「茶器へ茶を抹くには、濃茶は山形(やまなり)、
 薄茶は杉形(すぎなり)にはき
 (但し棗へは薄茶にても山形にはく)
 之を茶杓で掬ふ時は向側を、右より左へ掬ふべし。
 老松へは、濃・薄とも木目(もくめ)へ直角に竪に、
 一文字にはき、蓋の合せ目は、茶形の通りにして、
 竪に置いて用ひ、茶を掬ふ時は、同じく向ふ側を、右より左へ掬ふべし。
 割蓋・平棗の類皆同樣なり。」
とあるみたいです。


作品名:曙棗
価格:8,000円
備考:紙箱入

曙棗
※画像を押すと拡大できます。
曙棗(あけぼのなつめ)は、裏千家十一代家元・玄々斎が、
長男の一如斎玄室の点前始めの披露として好んだ棗だそうです。

利休好の香次棗の形をとり、華やかな洗朱塗の甲には、
黒漆で立鶴が一羽、胴には松と亀が描かれ、
蓬莱文様を意匠としているのだとか。

表面・盆付は朱塗、内側は黒塗で、
蓋裏に玄々斎の在判があるようです。

当初は28個好み、大変評判になったため、
多くの写しを宗哲に作らせたそうです。
区別をするためか、写しの盆付は、黒塗としているみたいです。

28という数字は、利休忌に因んでいるようです。
裏千家では、利休が、天正19年(1591年)2月28日に自刃したのを偲び、
毎年3月28日に催しているそうです。

また「曙棗」の名称は、蓋の甲を朝日に見立てたことから来ているようですが、
曙と称することで、曙・鶴・松を描き、
吉祥を寿ぐ画題「嵩岳遐齢(すうがくかれい)」に通じるみたいです。


作品名:春秋一双棗
作者:聖哲
備考:桐箱入

春秋一双棗
※画像を押すと拡大できます。
春の棗は、つくしと蝶、秋の棗は、稲と雀でしょうか。
カラカラ鳴る木製の鳥よけもあるようです。


■雀の季語
雀という単語は、単独では季語にならないそうです。
理由は、年中みかける鳥で、
渡り鳥のような季節ものではないからなのだとか。

雀を用いた以下のような単語は、季語となるようです。

春:子持雀・孕み雀・雀の子・雀の巣・巣引雀・雲雀・雀隠れ
夏:内雀
秋:稲雀・雀のたご・連雀・山雀・四十雀・五十雀・小雀・日雀
冬:寒雀・連雀


■竹に雀
竹に雀とは、取り合わせの良い一対のものの例えだそうです。
雀は、害虫を食べ、豊作の手助けをし、
中国では竹は鳳凰に例え、そこに住む雀は、
鳳凰の雛と言い伝えられているみたいです。

他方、竹や笹に雀を添えた家紋を「竹に雀」というそうです。
竹に雀の文様は鎌倉前期『大要抄』に、車文として登場するようです。

上杉家の「竹に雀」は、竹輪に五枚笹を五つ並べ、
中央に対い雀を描く図案だそうです。(『見聞諸家紋』より)

仙台伊達家の「竹に雀」は、抱き竹笹に対い雀という宇和島笹、
伊達家宗家は、江戸期には笹の葉を外側に描いた竹輪笹の中央に、
対い雀を描く図案の仙台笹なのだとか。

仙台笹は、現在、伊達家伯記念會株式会社が商標登録しているみたいです。


■雀の個体数
公益財団法人 山階鳥類研究所によると、
近年、雀は減少傾向にあるそうです。

1987年から2008年までの約20年間に、
雀の個体数は6割減少しているとか。

日本鳥学会誌の「日本におけるスズメの個体数減少の実態」によれば、
個体数自体は、数千万羽の桁だそうで、
保全のための緊急性がそれほど高いわけではないみたいです。
ただ、雀の減少要因は、不明だそうで、
楽観できるわけでもないようです。


作品名:桔梗蒔絵中棗
作者:漆堂
価格:15,000円
備考:桐箱入

桔梗蒔絵中棗
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、蒔絵の種類について説明しようかと思います。
種類備考
研ぎ出し蒔絵
(とぎだしまきえ)
金粉を密に蒔いたり、蒔きぼかしたりして、
絵画的に表現する。
蒔き終わると黒漆で塗り込み、乾いた後、研ぎ出す。
表面は平滑になる。
平蒔絵(ひらまきえ)塗りあがった上に漆で文様を描き、金・銀粉を蒔く。
蒔いたところだけ漆で固め研ぎあげる。
高蒔絵(たかまきえ)漆で文様を描き、炭粉を蒔く。
数回繰り返して、文様を浮き上がらせる。
金粉を蒔き、蒔いたところだけ漆で固め、研ぎあげる。
梨地(なしじ)塗りあがった上に梨地粉を蒔き、
乾燥後に梨地漆を塗り、研ぎあげる。
平目地(ひらめじ)梨地より厚みのある金銀粉を使い、
蒔くのではなく、一粒ずつ置いていく。
金溜地(きんためじ)粉末ほどになった金粉を、
漆を塗った上に蒔きつめる。
漆で薄く固め、研ぎあげる。
銀溜地(ぎんためじ)粉末ほどになった銀粉を、
漆を塗った上に蒔きつめる。
平文(ひょうもん)金・銀の薄い板を裁断したものを、
漆を塗った上に、置いた(貼った)もの。
平脱(へいだつ)とも言う。
むら梨地梨地に濃淡をつけたもの。


作品名:型変棗セット
(八ヶ入)
備考:紙箱入

型変棗セット
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ここでは、いくつかの棗について説明しようかと思います。

○鮟鱇
 下部が丸く、口へ漏斗型に開いているものだそうです。
 一文字蓋なのだとか。

○瓢中次
 瓢箪の形をした中次で、
 蓋の中央に小さな摘みがあるものみたいです。
 全体に糸目の入ったものが多く、
 塗りは朱か摺漆が多いそうです。
 本来、遠州好のようです。

○帽子棗
 撫肩裾張で、冠せ蓋、溜塗のものだそうです。
 ただ、名称は蓋から来た名で、
 棗というには適さないのだとか。

○甲赤
 黒塗の浅い身へ、朱の中次蓋が掛かったものみたいです。
 裏千家常叟の好みだそうです。



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