茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

掛軸ってこんなの

立花実山著『南方録』に
「掛物ほど第一の道具はなし」
とあるそうです。

また、松井観玉斎著『和漢装コウ志』に「草の表具」を指して、
「茶の湯の掛物はこれに極まる。墨跡は猶もちうべき也」
とあるようで、掛軸は茶道ではとても重要な道具とのこと。

掛軸には仏壇の中に掛けるものと、床の間に飾る「床掛け」の2種類があるそうです。
掛軸の本紙には仏画、肉筆浮世絵、山水画、花鳥画、墨蹟、
古筆、色紙、短冊、画賛、消息、巻物や連作用の対幅などがあるみたいです。

掛軸の形式には、中国の伝統そのままの「文人仕立て」や、
中国→日本式になった「大和仕立て」、
他に創作の表具なんかがあるようです。

大和仕立ては8段階に分かれてて、格が上のものから順に
真の表具(仏画仕立・ひょうほえ)は、真・行・草に、
行の表具(幢ほえ)も、真・行・草、
草の表具(輪ほえ)は、行と草だけあるとのこと。

表具の名称も
「大和表具、茶掛表具、利休表具、本尊表具、仏表具、神聖表具」
などかがあるみたいですが、
真・行・草のどれに当てはまるかは、たぶんこうかなというところで説明してみます。

文人仕立ての表具の名称は
「袋表具(丸表具・本袋表具)、文人表具、明朝表具、太明朝表具、唐表具」
となどがあって、
その他の創作の表具として
「台紙貼り表具、見切り表具、くり抜き表具、描き表具、柱隠」
とかがあるみたいです。


■「大和仕立て」の一覧

ここでは、茶道に関係ありそうな「大和仕立て」だけ説明してみます。
掛軸の名称

大和表具

掛軸は、座って見上げるときに美しく見えるようになっていて、
関東では「上一文字」の丈が「下一文字」の丈の2倍、
「天」の丈が「地」の丈の2倍(要は、上部と下部の比率が2対1)、
関西では、2対1よりも上部を若干短めに作られるとのこと。

ではここで「掛軸の日本での歴史」についてのひと口。
日本では、室町時代は「仏画」や「唐絵」、
村田珠光一休 に墨跡をもらってからは「墨跡」、
武野紹鴎 の時には「古筆」、
江戸時代には「古筆」「色紙」「懐紙」、
宗旦 ( 利休 の孫)の代には「茶人の画賛」などが掛けられたとか。


真の表具

真の表具
「仏画・曼荼羅・頂相(ちんそう)・画像・神号・仏号・道号」などがあるそうですが、
まず茶室用には使わないようです。
表具としては「神聖表具、仏表具、本尊表具」なんて呼ばれるみたいです。
見た目は「中回し」が少し小さくなって
「天」と「地」がくっついたような感じになるみたいです。
総縁(そうべり)と言うらしいです。

以下「表具屋さん」について説明してみます。
「京表具」「江戸表具」「金沢表具」という
表具屋さんの集まり(三大表具)があるみたいです。

江戸表具に注目してみると、
元禄期に大名の江戸屋敷増築の時、
京都から一緒に来た職人が作った文化のようです。
明治→大正→昭和→戦後と浮き沈みを繰り返して、
現在は結構大変とのこと。
新たな道を模索してるみたいです。

材料は紙と水と糊だけなので、
長年の修練がものを言うようです。
「水と刷毛による芸術」と言われるゆえんだとか。

現在は、主に大田区・江東区・台東区などで店を開いているとのこと。


行の表具

行の表具
本紙には
「古筆、墨跡、古画、新画、歌切・懐紙・
詠草(えいそう)・色紙・書画」
とかがあるようです。

表具としては
「本表具、二段表具、三段表具、大和表具」
などと呼ばれていて、
座敷掛けの表具として使われてるみたいです。

見た目は「中回し」が普通で、
「天」と「地」が離れていて、
要は普通の掛軸です。

図の「行の行表具」は、
一文字・中縁・天地と別れているため
「三段表具(大和表具)」と、言われてるみたいです。

以下「軸」について説明します。
軸木の材料には
「象牙、紫檀、カリン、堆朱(ついしゅ)、水晶」
などがあるみたいです。

画題によって、
南画には木製の軸端、
仏画には金属、水晶の軸端
といった感じで付けるようです。

最近は、杉材で作ることが多いみたいですが、
中には内に鉛を入れたりすることもあるそうです。

軸木の先っぽに付ける軸先は、
「象牙、象牙蓋、牛骨、塗物、竹、
プラスチック、樹脂、唐木(黒檀、紫檀、花梨、桜)、
陶器、焼物」などがあるみたいです。


草の表具

草の表具
茶掛表具や利休表具と言って
「茶人の書画、文人・俳人の画賛、禅僧の墨跡、大徳寺物」
などがあるそうです。

掛軸としてはとても簡素で、茶席に適したものなんだとか。
ただ、最近は「仏画仕立、大和表具、文人表具」
くらいしか区別しないみたいです。

以下「風鎮(ふうちん)」について説明します。
風鎮というのは、掛軸が風に揺れないようにするためのもので、
軸先に付けるおもりのことだそうです。
「陶器、磁器、メノウ、水晶、黒檀、プラスチック」などで出きていてるようです。

でもここ最近は
「気密性の高い家じゃ風なんか吹かないよ。
逆に風鎮の重さで掛軸傷んじゃうよ。」
といった事から軽くするようにしてるのだとか。

風鎮の種類としては
「松竹梅鶴亀等の慶事柄:慶事掛の掛軸用」
「無地:佛事とか用」
「山水柄:風景画の掛軸用」
といったものがあるようですが、
趣味で選んでも良いみたいです。

房色はいろいろあるそうですが、
紫・金茶・茶などが多く出回っていて、
佛事にはやっぱり紫が多いのだとか。

高級な風鎮になると、桐の箱に入ってるそうです。



■名物の掛物
立花実山著『南方録』に以下の話があるそうです。

名物といわれる掛物を所持する茶人には、
床の間の心得が必要です。

その掛物が横物(横長)の軸で、上下の丈が短ければ、
床の天井を下げて調整するのがよい。

また、堅物(縦長)の掛軸で、長さがあまるほどであれば、
天井を上げるのがよいでしょう。

他の掛物を掛けた時に具合が悪くても、
少しも気にすることはありません。
秘蔵する名物の掛物にさえ恰好がよければ、それでよいのです。

また、絵掛物には右絵と左絵があります。
座敷の向きによって床の位置を考えながら建築しなければなりません。

ここで言う「右絵」「左絵」というのは、
二幅対(にふくつい)=二幅一組、三幅対=三幅一組のような掛物では、
その内容から、床に向かって右側に掛けるべき絵(左絵)と、
左側に掛けるべき絵(右絵)が決まっているということだそうです。
一幅の絵でも、図柄によって、右を上座とするべき絵と、
左を上座とするべき絵があるのだとか。


■掛物の中でも墨跡が第一

立花実山著『南方録』に以下の利休の話があるそうです。

一座建立の道を得るためには、何といっても掛物が第一です。
その中でも墨跡が第一でしょう。そこに書かれた言葉の心を敬い、
著者である道人(どうじん)や仏教の祖師方の徳を賞するからです。

俗人の筆になるものは掛けてはなりません。
しかし、歌人の詠んだ教訓的な歌などは掛けることもあります。
ただし、これはわび小座敷の場合であって、
四畳半にもなると本当の草庵とは心持ちが違ったものになります。
よくよく分別する必要があります。

釈迦や達磨などの祖師の語と、
筆者の徳とが兼ね備わった墨跡をまず第一とし、
これが最も大切な一幅といえます。

著者が徳の大きい人物とまで言えなくても、
釈迦や祖師の言葉を書いている墨跡を第二とします。

絵も筆者次第では掛ける場合もあります。
中国の僧の絵には、仏祖の像や人物を描いた絵が多くあります。

人によっては持仏堂のようだと言って掛けない人もいますが、
それは一方的な見方です。

むしろ、いっそう味わって掛けるべきでしょう。
仏や祖師の教えに帰依して心を寄せることが、
わび茶では特別に大切な心得です。


■利休の墨跡買い
稲垣休叟著『松風雑話』から利休の逸話をもう一つ。
 利休が近江国に行った時のことです。
 その地で密庵咸傑の墨跡を見つけ出した利休は、
 それを百二十貫文で買い取りました。

 そして堺に帰り茶会でそれを使用しました。
 客は北向道陳と松江隆仙でしたが、
 その書について一言も誉めませんでした。

 不思議に思った利休が尋ねましたところ、
 「この墨跡は贋物である」との判定でした。

 それを聞いた利休はその場で墨跡を焼き捨てました。
 後世に「利休は買い損ないをした」と言われないためです。

ちなみに、松江隆仙は堺の豪商で、利休があるとき茶道具の目利きに失敗し、
隆仙に大損をさせてしまい、面目を失ったという説があるそうです。
そのために『天王寺屋会記』などに利休は逼塞したともあるみたいです。
逼塞は、江戸時代の武士や僧侶に科された刑罰の一で、
門を閉ざして昼間の出入りを許さないもののようですが、
利休の場合、私的な茶会などには普通に出ていたとのこと。


■掛物の種類
掛物には、以下のような種類があるそうです。
「墨跡」:禅僧が墨筆で書いた筆跡。
「経切」:仏教経典を切断したもの。
「古筆」:平安時代から鎌倉時代にかけての能筆家の筆跡。
「懐紙」:詩歌などを書き記した料紙。
「消息」:手紙。
「色紙」:和歌・書画などを書いた方形の料紙。
「詠草」:本来は詠歌の草稿のことであったが後に和歌や俳諧の書式。
「短冊」:和歌などを書くための細長い料紙。
「唐絵」:中国から伝来あるいは日本人の手になる中国風の絵画。
「画賛」:絵の余白に書き添えた文章または詩歌。
「その他」:「古画」「家元の字句」など。

また、連作となる複数の書画を同じ表装で仕立てたものを
「対幅(ついふく)」と呼ぶそうです。
対幅には柿栗図や竜虎図といった双幅、
観音・猿・鶴などを描いた三幅対、
四季を描いた四幅対、
十二ヶ月を描いた十二幅対などがあるのだとか。


■掛軸の歴史
中国六朝の北宋時代に掛物として掛軸が用いられていたそうです。
掛軸の名で用いられ、当時は「掛けて拝する」礼拝用の意味合いが強くあったようです。
桐箱に入れると持ち運びに容易である事と、
比較的複数生産が可能であったため、掛軸は仏教の仏画用にまず普及を始めたみたいです。

唐代になると、書画の表装が体裁を整え始めるそうです。
書画を裏打ちし、表装し、軸と打ヨウ竹をつけて横巻にしたものが始まりのようです。

日本では、飛鳥時代に掛軸が仏画として入り、
鎌倉時代後期に禅宗の影響による水墨画の流行から掛軸も流行していったそうです。
この流行により、掛軸は「掛けて拝する」仏教仏画の世界から、
花鳥風月の水墨画など独立した芸術品をさらによく見せる補完品として発達していったようです。

室町時代以降、「茶の湯」の席で座敷の「床の間」にも、
水墨画の掛軸が多く見られるようになるみたいです。
千利休が掛軸の重要性を言葉にするようになると、
茶を愛する人達により掛軸が爆発的に流行するようになったとか。

そして、来客者、季節、昼夜の時間を考慮して掛軸を取り替える習慣が生まれ、
来賓時、その場面の格式などを掛軸で表現することが、重要視される考え方が生まれるそうです。

江戸時代に明朝式表具が日本へ入り、文人画には文人表装などで掛軸が華やいでいったのだとか。
それと同時に、表具の技術技巧が著しく発展を遂げるようです。
また、大和錦・絵錦唐織など複雑な文様の織物が好まれ、
西陣など織物産地で次々生まれていったみたいです。

18世紀には、江戸を中心とする狩野派とは別軸で京都画壇が栄えたそうです。
日本画も楽しむという価値観を持った人達に支持され、掛軸もそれにつれ、
芸術価値を高めていき、肉筆浮世絵などで花開いたのだとか。

明治・大正期は日本画の隆盛により、掛軸もさらに大きく飛躍していったそうです。
昭和に入ると、戦争により、大きく絵画を愛でる時代背景ではなくなり、
掛軸の需要も激減するようです。

戦後、日本画の掛軸離れが著しくなっていったことと、
生活の洋風化により「床の間」離れが目立ち、
掛軸の愛好者数は今も大変に少ない状況が続いているとか。


■墨跡(禅林墨跡)とは
まず「墨跡」という語は中国では真跡全般を意味するそうですが、
日本においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣があるようです。
その二義を区別するため、近年、後者を多くは「禅林墨跡」といい、
その書風を「禅宗様」というみたいです。

中国宋代、禅宗では一切の権威と伝統を認めないため、
書法においてもこれまで絶対的な権威と仰がれてきた王羲之の典型を否定し、
ただ自己の個性を天真爛漫に発揮したそうです。
そのため、今日、中国に墨跡はほとんど遺っていないのだとか。
このような禅の精神による芸術を中国の古い文化の伝統は喜ばなかったようです。

ただし、元代は趙孟フの書が一世を風靡し、趙孟フを学ぶ禅僧が多かったため、
技法の上でも相当すぐれていたのだとか。
よって元代では宋代の墨跡に見られるような精神的なものばかりではなくなり、
書の名家として知られる禅僧も少なくなかったみたいです。

日本における墨跡は、嗣法や門派の証、
また高徳の僧を偲ぶよすがとして重んじられ、寺院に代々伝えられてきたそうです。

墨跡には、以下の種類があるそうです。
・印可状:印可の証として作成される書面のこと。
・額字:禅院に掲げる額の文字のこと。
・字号:禅宗において、師僧が修行僧に号を書き与えたもの。
・法語:師僧が修行僧に悟道の要諦を書き与えたもの。
・餞別語:日本から中国に渡航し、修行を終えて帰る禅僧に、
 師友が餞別として書いて贈る法語、または偈頌のこと
・進道語:師友の間で後進の修行僧に禅の肝要を書き与え、激励したもの。
・偈頌:仏の教えを漢詩で書いたもの。
・遺偈:臨終を前に門弟に遺す偈頌のこと。
・尺牘:純漢文体の書簡のこと。
・疏:官僚化された禅林において、下位から上位に対して出される表白文のこと。
・榜:官僚化された禅林において、上位から下位に対して告知される掲示文のこと。
・像賛:頂相の賛のこと。頂相には賛が書かれるのが一般的である。

中国僧が日本で書いた墨跡と、日本僧が書いた墨跡があるのですが、
それぞれ、中国に渡った僧と渡らなかった僧がいるようです。
その四パターンを具体的に挙げると、以下のようになるそうです。
○中国僧:来朝しなかった型
 ・圜悟克勤
 ・大慧宗杲
 ・楚石梵g
 ・密庵咸傑
 ・月江正印
 ・虚堂智愚
 ・中峰明本
○中国僧:来朝型
 ・蘭渓道隆
 ・無学祖元
 ・清拙正澄
○日本僧:中国渡航型
 ・聖一国師
 ・南浦紹明
 ・雪村友梅
○日本僧:中国渡航しなかった型
 ・一休宗純
 ・大燈国師
 ・高峰顕日
 ・夢窓国師
 ・虎関師錬

ここでは「中国僧:来朝しなかった型」に注目しようと思います。
・圜悟克勤(えんごこくごん)
 北宋時代の禅僧で、現存する墨跡の中で最古の作例だそうです。
 日本では、圜悟が禅林墨跡の始まりとされているようです。

 国宝の松平直亮氏寄贈の法語は、かつて桐の古筒に入れられて、
 九州薩摩の坊津(ぼうのつ)海岸に流れ着いたという伝承から、
 「流れ圜悟」と呼ばれているのだとか。
 門下には、大慧宗杲や虎丘紹隆をはじめ百余人いるそうです。

・大慧宗杲(だいえそうこう)
 大慧派禅門の祖で、五祖法演から圜悟克勤へと継承された、
 公案を用いた指導法を発展させ、公案禅を大成した人みたいです。

 「与無相居士尺牘」は、1155年頃、大慧が友人の無相居士にあてた尺牘で、
 気迫に満ち溢れていて、大慧墨跡中の第一に推されるべきものなのだとか。

・楚石梵g(そせきぼんき)
 中国・元時代の禅僧で、月江正印とともに元代禅林を代表する人だそうです。
 詩書をよくし、その墨跡は元の禅僧中、最も趙孟フの書風に近く、
 伝統書法を示した第一人者なのだとか。
 墨跡としては珍しく端正な書風で日本では甚だ尊重されるようです。

 「心華室銘」は、1366年9月、楚石が入元僧・無我省吾の居室に銘したもので、
 全8行・毎行24字の大幅だそうです。
 現在、永青文庫蔵で、重要文化財だとか。

・密庵咸傑(みったんかんけつ)
 中国・南宋時代の禅僧で、南宋はじめの禅林の巨匠だそうです。
 密庵門下の松源崇岳・破庵祖先・曹源道生の3人を密庵下の三傑と称し、
 この法系から多くの墨跡を生んだようです。

 国宝「密庵咸傑法語」は、1179年8月、密庵に随従した璋禅人という人物の求めに応じて、
 禅の要旨を書き与えた法語だそうです。
 これを秘蔵する龍光院には、この墨跡以外は掛けないという「密庵床」が特設され、
 その茶席を「密庵席」と称しているそうです。

 松源派:古林清茂・了庵清欲・虚堂智愚・蘭渓道隆・宗峰妙超・一休宗純
 破庵派:無準師範・中峰明本・無学祖元・清拙正澄・夢窓疎石
 曹源派:一山一寧・雪村友梅
 などがいるそうです。

・月江正印(げっこうしょういん)
 中国・元時代の禅僧で、福州の人だとか。虎巌浄伏の法嗣だそうです。

 「与鉄舟徳済餞別語」は、1343年、月江が鉄舟徳済に書き与えた餞別語だそうです。
 現在、五島美術館蔵で、重要文化財だとか。

・虚堂智愚(きどうちぐ)
 国・南宋時代の禅僧で、運庵普巌の法嗣で、
 門下に霊石如芝、日本僧では南浦紹明がいるそうです。
 南浦紹明の弟子が大徳寺の開山・宗峰妙超なためか、
 茶道において宗峰の師としての虚堂の墨跡は、
 鎌倉時代から特に重んじられたようです。

 国宝「虚堂智愚法語」は、虚堂が入宋中の無象静照に書き与えた法語だそうです。
 京都の茶人・大文字屋がこの墨跡を所蔵していたとき、
 その手代が蔵の中に立てこもり、切り破ってしまったことから、
 俗に「破れ虚堂」と呼ばれるようです。東京国立博物館蔵だとか。

・中峰明本(ちゅうほうみょうほん)
 高峰原妙の法嗣で元代一級の高僧だそうです。
 自ら幻住と称し、いたるところに幻住庵を構えたみたいです。
 中峰が呉中に庵を構えるとき、馮子振が泥を煉り、
 趙孟フが運搬し、中峰が壁を塗ったという説話があるそうです。

 中峰の書は破格で、露鋒で扁平な筆画が柳や笹の葉に似ていることから、
 中国では柳葉体・柳葉書などといわれ、日本では古来、笹の葉書きと呼んでいるようです。

 「与済侍者法語」は、中峰が済侍者に書き与えた法語だそうです。
 済侍者は、鉄舟徳済との説があるようです。
 常盤山文庫蔵で、重要文化財だとか。


■瀟湘八景と足利義満
13世紀、中国南宋時代の僧、牧谿法常筆「瀟湘八景図」は、
義満が晩年、出家した際の「道有」の鑑蔵印が押してあるそうです。

元々八図、四図一巻として、合計二巻に描かれていたそうです。
それを、座敷飾り用に義満が一景ずつに分けて、
金襴表装を施し、掛物としたそうです。

瀟湘八景図は、中国湖南省の瀟水と湘水という、
二つの川が合流して洞庭湖に注ぎ込む一帯の景色を、
・平沙落雁(へいさらくがん):衡陽市回雁峰。秋の雁が鍵になって干潟に舞い降りてくる風景。
・遠浦帰帆(えんぽきはん):湘陰県県城・湘江沿岸。帆かけ舟が夕暮れどきに遠方より戻ってくる風景。
・山市静嵐(さんしせいらん):湘潭市昭山。山里が山霞に煙って見える風景。
・江天暮雪(こうてんぼせつ):長沙市橘子洲。日暮れの河の上に舞い降る雪の風景。
・洞庭秋月(どうていしゅうげつ):岳陽市岳陽楼。洞庭湖の上にさえ渡る秋の月。
・瀟湘夜雨(しょうしょうやう):永州市蘋島・瀟湘亭。瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景。
・煙寺晩鐘(えんじばんしょう):衡山県清涼寺。夕霧に煙る遠くの寺より届く鐘の音を聞きながら迎える夜。
・漁村落照(ぎょそんらくしょう):桃源県武陵渓。夕焼けに染まるうら寂しい漁村の風景。
という八つの場面を選んで、景ごとに描き分けた図だそうです。

一度はバラバラに分散する瀟湘八景図ですが、
享保13年(1728年)、八代将軍徳川吉宗により、
一堂に会する機会を得るそうです。

その後、再び分散し、牧谿の瀟湘八景図は、現在、
遠浦帰帆図(京都国立博物館)・漁村夕照図(根津美術館)・
煙寺晩鐘(畠山記念館)・平沙落雁図(出光美術館)
などにあるそうです。


■細川三斎と墨跡
『喫茶指掌編』に、こんなお話があるそうです。
徳川頼宣は若い頃から茶道を好み、細川三斎とも親しくしていましたが、
三斎は晩年になって、領国に帰ろうとして頼宣の家臣渡辺直綱のもとを訪れ、
「ご秘蔵の虚堂の墨跡は、かねてより拝見したいと思っていましたが、
その機会もないまま今日にいたってしまいました。
私も老年の身の上、このたび帰国したならば、
重ねて参府することは難しいことと思います。
それで、この際でひとも拝見をお願いしたいのですが」
と言いました。

直綱は、その話を頼宣に申し上げたところ、
「たやすいこと、早々に案内いたせ」
と、日を期して三斎を屋敷に招きました。

三斎は、今日こそ年来の思いが果たせると期待しながら席入りをし、
床の間を拝見すると、掛けられていたのは、虚堂の墨跡でなく、
清拙正澄の墨跡でした。

三斎は期待がはずれて失望しましたが、
知らぬふりをして関に着くと、茶道口から出てきた頼宣は、
自ら点前をして、茶をすすめました。

そして「虚堂の墨跡をご所望と聞いて、今日お招き致しましたが、
実はその掛物はここに持参しませんでした。残念にございます。」
と挨拶をしたので、三斎は仕方なく、
「いえ、今度また拝見させていただきます」
と答え、茶室でゆっくりと語り合って席を立ちました。

そして、黒書院と白書院との間の廊下まで来ると、
直綱が杉戸のかたわらに控えていました。

見ると、虚堂の墨跡を箱から出して、
その蓋の上に置き、ひざまずいて三斎に向かい、
「御口上でございます」
と申し上げました。

聞いた三斎もその場につくばうと直綱は、
「先日の御口上に、老年の身の上、重ねて参府はかない難いから
虚堂の墨跡を拝見したいとのお言葉でしたが、
それを忌まわしきことに存ぜられ、今度幾度も参府なさるよう、
お祝いのため、わざと掛物はお目にかけなかったのです。
今後、ご息災で参府された時にはご覧に入れるとの仰せでございます。
しかしながら、ぜひにとのご所望であれば、
書院に掛けて、まずお目にかけようにとのことで、
ここに持参いたしております」
と申し上げました。

三斎は感涙にむせびながら、
「さてさてお若い身の上でありながら、このようなお心入れ、
御礼言語に尽くし難いものがあります。
この上は幾度も参府いたします。
その節に重ねて拝見させていただきます」
と答え、虚堂の墨跡を取って押しいただき、
拝見せずに立ち去りました。

その翌年、三斎は重ねて参府したので、
頼宣は約束通り、虚堂の墨跡を掛けて、
三斎を茶に招いたのでした。


■掛軸の掛ける手順
1.巻緒を解いて掛緒の右側に寄せる。
2.掛軸を左手に持ち、右手で矢筈を持つ。
 矢筈の金具を掛緒に掛ける。
3.掛緒を釘などに掛け、ゆっくりと広げ下げる。
4.下げ終わったところで左右のバランスを取る。
 風帯が有れば下に広げる。必要に応じて風鎮を軸先に掛ける。


■掛軸の外す手順
1.両手で軸をゆっくりと巻き取る。きつく巻くと掛軸を痛める。
2.本紙を巻き込んだあたりで、左手で掛軸を順手に持ち、
 右手で矢筈を持ち、掛緒を釘などから外す。
3.掛軸を折らないよう注意しながら上部を下に降ろし、
 矢筈を外して置く。そして最後まで巻き取る。
4.風帯のある掛軸の場合、
 まず向かって左手側の風帯を右手側の風帯の下に曲げ込み、
 右手側の風帯を左手側の風帯の上に載せるように曲げる。
 風帯の先が余る場合には折り目に合わせて曲げる。
5.巻紙がある場合には、それの一端を掛軸に巻き込む形で巻き付ける。
6.掛軸を左手に、巻緒を右手に取り、巻緒を左から右に三回巻く。
 仏画・名号等では巻緒が長めになっているので、それ以上巻く場合がある。
 巻緒の右端で輪を作って掛緒の右下からくぐらせ、左下に通す。
 揉紙(包み紙)で包み、軸箱に納める。


■文献
立花実山著『南方録』に
「掛物ほど第一の道具はなし。
客・亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物なり。
墨跡を第一とす。
その文句の心をうやまい、
著者・道人・祖師の徳を賞翫するなり。」
とあるそうです。

『運歩色葉集』に「消息」について
「消は尽なり。通なり。息は生なり。陰と陽に象どるなり。
又、息を消すと讀む間、筆にて書くなり。
口にて言はずなり。是れ消息なり。」
とあるみたいです。

享保19年刊『本朝世事談綺』に「色紙」について
「色紙短尺の寸法は三光院殿(三条西実枝)よりはじまる御説、
大は堅六寸四分、小は堅六寸、横大小共に五寸六分」
とあるようです。

『和歌深秘抄』に「短冊」について
「短冊の事、為世卿頓阿申合候哉、
長さ一尺にて候、
只今入見参候、
此題岸柳、為世卿自筆にて候、
裏書は頓阿、重而子細は尭孝筆跡にて候」
とあるとのこと。


■関連リンク
「軸掛」について

「自在掛」について

「矢筈」について

「色紙掛け」について

「掛物竿」について
作品名:色紙掛軸(無事是貴人)
作者名:裏千家淡々斎宗匠
寸法:長さ126.5cm、幅40cm
備考:共箱なし/桐箱入

色紙掛軸(無事是貴人)

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無事是貴人(無事これ貴人)は、
臨済宗の開祖、臨済義玄著『臨済録』の語だそうです。

この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、
無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、
年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、
無事に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用するのだとか。

禅語としての「無事是貴人」の意味は、
無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心で、
貴人とは、貴ぶべき人、すなわち仏や悟りのことなのだそうです。
つまり、仏への道を邁進するといった意味になるでしょうか。

臨済義玄著『臨済録』に、
「無事是れ貴人、但だ造作すること莫れ、祗だ是れ平常なり。
なんじ、外に向かって傍家に求過して、
脚手を覓めんと擬す。錯り了れり。」
とあるそうです。


作品名:掛軸一行書(明歴々露堂々)
共箱:立花大亀老師
備考:桐箱入

掛軸一行書(明歴々露堂々)

※画像を押すと拡大できます。
明歴々露堂々(めいれきれき ろどうどう)は、
『禅林句集』からの禅語で、
「明白々赤裸々で一点かくす処なし。露はアラワレル意。」
だそうです。
つまり、すべての存在が明らかに、すべての物事がはっきり現われ出ているさま、
そのままの姿のすべてが真理の現われであり、
仏の表れであるという意味になるのだとか。

岡山県の豊昌寺で、明秀和尚のエピソードに、
自分が書いた「明歴々露堂々」の書を認知症のため、
書いたことすら忘れてしまった旨の話をしたことがあったそうです。
自分を客観化し笑い飛ばすユーモア。
まさに「明歴々露堂々」の境涯だったようです。

圜悟克勤著『圓悟佛果禪師語録』に
「僧問、明歴々露堂々。
什麼(なに)に因てか乾坤(けんこん)収め得ざる。
師云く、金剛手裏に八稜の棒。」
とあるそうです。


作品名:掛軸一行書(歩々是道場)
共箱:大徳寺黄梅院 小林太玄老師
備考:桐箱入

掛軸一行書(歩々是道場)

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「歩々是道場」は『維摩経(ゆいまきょう)』の
維摩居士の言葉からきているそうです。

■『維摩経』の内容
あるとき、光厳童子が、喧騒の城下の街中を出て、
閑静な修行に適した場所を求めようとしていた時、
向こうから城下に入ろうとする維摩居士に出会った。

そこで光厳童子は
「あなたはどこから来られたのですか」
と訊ねたところ
「道場より来ました」
と答えました。
道場というのは修行をする場所。
維摩居士は明らかに道場とは反対の方向から来たため、
光厳童子は不思議に思いました。
「えっ、道場ですって?それは何処にあるんですか?」
と光厳が問いかけた時、
「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」
と維摩居士が答えたのだとか。


■「直心是道場」とは
寺や建物がなくても、心が直心であれば、
そこが「道場」になるといった意味になるようです。

「直心」は、自分の心の内側をみたときを指すそうです。
「歩々」は、自分の心の外の風景をみたときを指すそうです。
つまり「直心是道場」とは「歩々是道場」の同義語となるようです。

正直な心、素直な心でことにあたれば、
そこが何処であっても修行の場になる。


■茶道で「歩々是道場」とは
至るところすべて修行の場であるとの意味になるようです。

秀吉の前で、ござを敷き傘を立てた野点という佇まいを見せたノ貫。
アニメ「へうげもの」を見ると、
私は、「歩々是道場」という言葉が思い浮かびます。


■文献など
『維摩經』に
「直心は是れ道場、虚仮なき故に。
発行は是れ道場、能く事故を弁ず故に。
深心は是れ道場、功コを揄vする故に。
菩提心は是れ道場、錯謬なき故に。
布施は是れ道場、報を望まざる故に。」
とあるそうです。

『古尊宿語録』に
「師、座主に問う。所習何業。云く、維摩経を講ず。
師云く、維摩経、歩歩是れ道場なるに、座主、什麼の処に在る。
主、対えるなし。」
とあるようです。

雪竇重顕著『明覺禪師語録』に
「師、問うて云く、維摩老云く、歩歩是れ道場。
這裏は山裏に何れぞ。衆、語を下すも、師、皆な諾さず。
師、代わりて云く、ただ和尚肯せざるを恐れるのみ。」
とあるみたいです。


作品名:掛軸一行書(清風萬里秋)
共箱:大徳寺黄梅院 小林太玄老師
備考:桐箱入

掛軸一行書(清風萬里秋)

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清風萬里秋(せいふうばんりのあき)は、
『禅林句集』の「昨夜一声雁 清風万里秋」から来ているようです。

昨夜一声の雁は、修行者が長い修行の末、
機縁熟して、忽然として悟りを開くことだそうです。
清風万里秋は、秋がいたる所に訪れて、
すがすがしい風が吹き 渡っている情景、
あたかも、悟りを開いた瞬間、
澄み切った秋空のように目の前が開ける状態のことみたいです。

ただ、「清風万里秋」は、万物の凋落(ちょうらく)を誘う、
何となくもの悲しい風という捉え方もあるのだとか。


作品名:掛軸一行書(一念不動心事直)
共箱:大徳寺雲林院 藤田寛道師
備考:木箱入/表装にシワ有り

掛軸一行書(一念不動心事直)

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「一念不動」は、何事にも左右されることがない様だそうです。
「不動心」とは、何事にも動じない精神・心のことだとか。

一念とは人が日常におこす瞬間的な心みたいです。
これは右往左往、やみくもに動いてやまないが、
この一念が至ったとき、一念は全ての事物の理を得るとされるのだとか。
このとき、一念は本然の心となる。
この本然の心は不動であり、この状態に至ったものを一念不動と云うようです。

「心事」は、心に思っている事柄のこと。
「直」はただちにとか、直すという意味。
ということで「一念不動心事直」は、
心に思っている事柄を、何事にも左右されることがない状態に直す
となるでしょうか。


■何の一念なのか
天台教学の伝統を表した『仏祖統紀』巻50に「十界」という考え方があるそうです。
これは、人の心が究極的には、
「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」の
十種類に大別できるとした思想のようです。

『法華経』方便品に説かれる因果律として「十如是(諸法実相)」という言葉があるようです。
これは、この世のすべてのものが具わっている十種類の存在の仕方・方法を
「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」
としてまとめたもので、
「如是」というのは、「かくのごとく(そのようである)」という意味になるのだとか。

三種世間という言葉があるそうです。
生きものとしての衆生世間、
その生きものの住む場所としての国土世間、
この二つを構成する五蘊世間(ごうんせけん)の三つのことだそうです。

天台宗の観法(根本教理)に「一念三千」という言葉があるそうです。
上述の「十界×十界×十如是×三種世間=三千」を
まとめた究極の形のようです。

「一念三千」は、もともと天台宗第二祖、慧文禅師の「一心三観」
という言葉から来ているようで、
人の心にはつねに一瞬一瞬で変化するが、
その中に「空・仮・中」の三諦で観ずることをいうそうです。

「一念三千」自体は、妙楽大師・湛然の『止観輔行伝弘決の五』で
天台宗の開祖、智の教理「終窮・究竟の極説」を指南とするように説いたことが
その始めなのだとか。

「一念」というのは、極小から極大の相即した統一的な宇宙観で、、
実践的には自己の心の中に具足する仏界を観法することを示すようです。
つまり、人の心に宇宙や仏性が備わっていて、
それらを何らかの形で知覚することで、
最終的に成仏するという考え方なのだと思います。


■不動心とは
何事にも動じない精神・心のことだそうです。
日本の武道や芸道(茶道・日本舞踊)では、より進化を求める修行において、
哲学的かつ精神的な側面で効果のある概念となっているそうです。

真言宗では、慈悲心と奉仕の心に属するものとして不動明王が
その象徴となっているみたいです。

元プロ野球選手の松井秀喜著『不動心』などは、
ベストセラーになったのだとか。


■茶道における一念
和敬清寂の「寂」にあたる言葉になるでしょうか。
どんなときにも動じない心のことですが、
大乗仏教の根本思想「空」、
禅の公案者、趙州の「無」、
諸行無常・諸法無我の事実を自覚するという「涅槃寂静」
などを示す言葉でもあるようです。

『大般涅槃経』では、
無常と無我とを自覚して、それによる生活を行うことこそ、
煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地とする教えがあるそうです。

涅槃の四徳として「常楽我浄」という言葉があるようです。
常:常住で永遠に不滅不変である
楽:人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我:人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄:煩悩を離れ浄化された清浄な世界である

人々は四苦「生老病死」から逃れることはできないが、
仏法を行ずることで、それを「常楽我浄」へと転化できるそうです。

和敬清寂という言葉自体は、利休が残した言葉ではないのですが、
利休が伝えたかった「寂」というのは、
茶道の修行を通して、仏教の「常楽我浄」という
涅槃の四徳を会得する手助けをしようとしたのかもしれません。


作品名:掛軸一行書(桃花千歳春)
価格:20,000円
共箱:大徳寺派招春寺 福本積應師
備考:桐箱入

掛軸一行書(桃花千歳春)

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「桃花千歳春(とうかせんざいのはる)」は、禅語で、
桃の花は千年かわらずに春を告げて無心に咲いている
という意味だそうです。

■中国における桃
中国において桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、
昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれているようです。

桃源郷(武陵桃源)は、俗界を離れた他界・仙境のことだそうです。
これは、陶淵明(365年〜427年)が著した詩
『桃花源記 ならびに詩』に由来するようです。


■『桃花源記』の話
晋時代、武陵の漁師が、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡ったとき、
突如、桃の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。
その源を探ろうとしてさらに桃の花の中を遡り、水源に行き当たった。
山腹に人が一人通り抜けられるだけの穴があり、
その穴を抜けると、広い平野になっていた。

行き交う人々は外の世界の人と同じような衣服を着て、みな微笑みを絶やさず働いていた。
村人たちは家に迎え入れてたいそうなご馳走を振舞った。

村人たちは秦の時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末、
この山奥の誰も来ない地を探し当て、以来そこを開拓した一方、決して外に出ず、
当時の風俗のまま一切の外界との関わりを絶って暮らしていると言う。
彼らは「今は誰の時代なのですか」と質問してきた。

数日間滞在したのち、いよいよ自分の家に帰ることにして暇を告げた。
村人たちは「ここのことはあまり外の世界では話さないでほしい」と言って漁師を見送った。

穴から出た男は自分の船を見つけ、目印をつけながら川を下って家に戻り、
村人を裏切ってこの話を役人に伝えた。役人は捜索隊を出し、目印に沿って川を遡らせたが、
ついにあの村の入り口である水源も桃の林も見付けることはできなかった。

その後多くの文人・学者らが行こうとしたが、誰もたどり着くことはできなかったという。


■日本における桃
日本でもいくつか桃に関するお話があるようです。

『桃太郎』は桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話。

3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事。

『古事記』に以下の話があるようです。
伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって
鬼女:黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたみたいです。
伊弉諸尊はその功を称え、
桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたのだとか。


作品名:掛軸一行書(緑陰夏日長)
価格:20,000円
共箱:大徳寺派明星寺 高橋悦道師
備考:桐箱入

掛軸一行書(緑陰夏日長)

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高駢が著した『山亭夏日(さんていのかじつ)』の一文、
「克陰濃夏日長(克 陰濃かにして 夏日 長し)」
から来ていると思われます。

緑に生い茂る木々は地面に濃い影を落としており、夏の日は長い。
「緑陰」だけだと、「青葉の茂った木立のかげ」のことだそうです。

高駢著『山亭夏日』に
「山亭の夏日
克 陰濃(こまや)かにして 夏日 長し
楼台 影倒(さかしま)にして 池塘(ちとう)に入る
水精(すいしょう)の簾(れん) 動いて 微風起こり
一架の薔薇(しゃうび) 満院 香(かんば)し」
とあるそうです。

全文を訳すと、
木々の緑が色濃く茂るほど、夏の日差しは強く、長い。
池のほとりに建つ楼台は、その姿を逆さまにして、
水に入りこむように水面に映っている。
そんな折、水晶の玉飾りがついた簾がかすかに動いて、そよ風が吹いた。
その風にのって、花棚のバラの香りが中庭いっぱいに満ちる。
となるようです。

晩唐の詩人高駢は、学問に優れていたばかりでなく、
武芸にも秀でていた人だったそうです。


作品名:掛軸一行書(無事是貴人)
価格:15,000円
共箱:西垣宗興師
備考:桐箱入

掛軸一行書(無事是貴人)

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無事是貴人(無事これ貴人)は、
臨済宗の開祖、臨済義玄著『臨済録』の
「無事是れ貴人、但だ造作する事なかれ」から来ているそうです。

臨済義玄(慧照禅師)は、経論を学ぶも満ち足りず、
禅宗へ転向して黄檗希運に師事し黄檗三打の機縁で大悟したようです。


■黄檗三打の話
黄檗老師の所に行って「仏教の根本義とは何か?」と三回聞いたところ
三回とも黄檗は臨済を棒で打った。

「ここでは駄目なので何処か別の所で修行したいのですが」と黄檗に相談した。
すると黄檗は「大愚の所が良いからそこへ行け」と勧めたので大愚の所に行った。

大愚は臨済に「黄檗は何と教えたのか?」と聞いた。
臨済は「私が[仏教の根本義は何ですか?]と尋ねますと、
入室の度にただこっぴどく打たれました。」と答えた。

大愚は「黄檗はそんなにも親切にお前のことを心配して指導してくれたのに、
こんなところまで来て、落ち度があるの無いのと何を言うか?」とどなった。

大愚の言葉を聞いた途端、
「ああ、黄檗の仏法はこういうことか。」と臨済は大悟した。


■文献
臨済義玄著『臨済録』に
「師、衆に示して云わく、
道流、切に真正の見解を求取して天下に向かって横行して、
這の一般の精魅に惑乱せらるるを免れんことを要す。
無事是れ貴人。ただ造作することなかれ。
ただこれ平常なれ。
外に向かって傍家に求過して、脚手にもとめんと擬す。
錯りおわれり。」
とあるそうです。

同じく『臨済録』に
「菩薩を求むるも亦た是造業。
経を看、教を看るも亦た是造業。
仏と祖師とは是無事の人、
所以に有漏有為、無漏無為も清浄業為り」
とあるみたいです。


作品名:掛軸一行書(薫風自南来)
共箱:佐藤朴堂師
備考:桐箱入

掛軸一行書(薫風自南来)

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「薫風自南来(くんぷうみなみよりきたる)」は、
薫風が南から来るという意味なのですが、
「くんぷうじなんらい」と読むのが普通みたいです。

■禅語としての「薫風自南来」
大慧(だいえ)禅師は、圜悟克勤禅師の
「薫風自南来、殿閣生微涼」
という語を聞いて大悟したそうです。

これは、以下の話から来ているそうです。
ある修行僧が、
 「如何なるか是諸仏出身の処
 (悟りの境界とはどういうものでしょうか)」
と言う問いの対して、雲門文堰禅師は
 「東山水上行
 (東山が水の上を行く。動かぬ山が川を流れて行く)」
と答えたそうです。

禅語として知られるようになるのは、
圜悟禅師が上述の禅問答を『碧巌録』に取り上げ
後世に残したためなのだとか。


■「薫風自南来 殿閣生微涼」の意味
単純に意味を取ると、
「薫風(くんぷう)が南から来る」
「殿閣微涼を生ず」
となります。

薫風は、初夏、新緑の間を吹いてくる快い風のことだそうです。
日本では、北風は冷たい冬の風、南風は暖かい夏の風として認識されていますが、
中国でも、南風(夏天的風)は夏の風といった意味で捉えられるようです。
殿閣は、宮殿のことで、微涼は、少し涼しいとなるみたいです。

禅語としての「薫風自南来 殿閣生微涼」は、、
「精神的な清涼さ、無心の境地を指す言葉」
になるそうです。

具体的には、
利⇔害、得⇔失、愛⇔憎、善⇔悪などの対立概念を
薫風(精神的な清涼さ)が、吹き払いうことで、
こだわりなどが無くなり、清々しさを感じることができる
といった意味になるみたいです。


■和敬清寂の「清」
静かな茶室に吹くそよ風。
戦国時代、人々は茶室に何を求めたのでしょうか。

仏法では、煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)にあり、
克服すべきものとされているそうです。

『般若経』『華厳経』『妙法蓮華経譬喩品第三』などに
「釈尊は、衆生の生老病死、憂い、悲しみ、
苦悩、無知、混乱や三毒から開放する為に三界に姿を現したのだ」
と説かれているようです。

人々の三毒を、精神的な修行の到達点として、
一陣の風が吹き抜けるように克服する。

茶道の修練が、禅の心を継承しているのならば、
三毒を克服するという仏道修行を、茶道を通して、
擬似的に体感しようとしたのかもしれません。


■「薫風自南来」の因縁話
禅語の「薫風自南来」とは主旨が違うのですが、
以下のような話があるそうです。

唐の文宗皇帝が、
 人は皆炎熱に苦しむ
 我は夏日の長き事を愛す
と起承の句を作ったのを承けて、
詩人である柳公権が転結の句を作って一篇の詩としたそうです。
 薫風自南来
 殿閣微涼を生ず

意味は、
 「春から初夏ともなれば南の方から
 ほのかな春の香りをふくむ風が吹き来たり、
 宮殿の部屋の隅々まで涼やかな雰囲気に包まれてしまう」
となるみたいです。

約二百年後、宋の詩人、蘇東坡は、上記の詩を
「残念ながら為政者として庶民への思いやりがない。
 一般庶民の苦しさを忘れて、
 宮中で遊んで暮らせばよい皇帝の思い上がりの詩である。」
と批評したそうです。
そして、当時の上流階級の人々への風刺をこめて一篇の詩を作るようです。

 一たび居の為に移されて
 苦楽永く相忘る
 願わくは言わん此の施しを均しくして
 清陰を 四方に分かたんことを

これは、
 天下万民の上に思いを寄せ、
 「薫風自南来、殿閣微涼を生ず」のような
 楽しみ・安らぎを人々に分かち与えてこそ、
 皇帝ではないでしょうか。
という意味だそうです。


作品名:掛軸一行書(夢一字)
共箱:森洞雲師
備考:共箱なし/桐箱入

掛軸一行書(夢一字)

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「夢」というと睡眠中に見る夢と、
将来実現させたい願望の二つがあります。
以下、「夢」について説明しようと思います。


■いろは歌の夢
いろは歌が中学教科書に載っているそうです。
 色はにほへど 散りぬるを
 我が世たれぞ 常ならむ
 有為の奥山  今日越えて
 浅き夢見じ  酔ひもせず

古くから「いろは四十七字」として知られるそうですが、
最後に「京」の字を加えて四十八字としたものもあるのだとか。
いろはかるたの最後も「京の夢大坂の夢」となっているようです。

いろは歌の訳し方は諸説あるそうですが、
 「匂いたつような色の花も散ってしまう。
 この世で誰が不変でいられよう。
 いま現世を超越し、
 はかない夢をみたり、
 酔いにふけったりすまい」
と、仏教的な無常を歌った歌と解釈をするのが多いようです。

ちなみに「無常」というのは、仏法用語で、
「この現象世界のすべてのものは生滅して、
とどまることなく常に変移しているという」
という意味だそうです。


■『平家物語』の夢
冒頭部分に夢に関する記述があるようです。
 祗園精舎の鐘の声、
 諸行無常の響きあり。
 娑羅双樹の花の色、
 盛者必衰の理をあらはす。
 おごれる人も久しからず、
 唯春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、
 偏に風の前の塵に同じ。

世に栄え得意になっている者も、
その栄えはずっとは続かず、
春の夜の夢のようである。

ここでは「はかない夢」
という意味になるでしょうか。


織田信長の「敦盛」
謡曲「敦盛」の直実が出家して世をはかなむ中段後半に
 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
 これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
という一節があるそうです。

ここでの夢は、
「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」
という意味みたいです。


豊臣秀吉の辞世の句
豊臣秀吉は、辞世の句として
 「露と落ち 露と消えにし我が身かな
 浪花のことは 夢の又夢」
を残したと言われているそうです。

自分の代は栄華を極めたものの、
朝鮮出兵などの失敗により家臣たちは対立。
野心を持つ家康などの存在。
自分の死後はおそらく豊臣家はもたないのではという
意味に捉える方もいるようです。

ちなみに、実際には
 「つゆとおち つゆときへにし わかみかな
 なにわのことも ゆめの又ゆめ」
と、ほとんど平仮名の句だったのだとか。


■良寛と貞心尼の歌
 「君にかく あい見ることの うれしさも
 まださめやらぬ 夢かとぞおもふ」(貞心尼)

 「ゆめの世に かつまどろみて夢をまた
 かたるも夢よ それがまにまに」(良寛)

貞心尼の歌では、真実にあるものと夢の世界とを区別したうえで、
自分が今経験していることが夢でないことを願っているそうです。

これに対して、良寛の返歌は、夢も実在も区別せず、
たとえ、はかない夢の中にあって、夢物語を語っているときですら、
私たちは至高の実在に触れているのだと言っているのだとか。


■沢庵禅師の辞世の偈
「夢」の字を大書してその横に
 「百年三万六千日 弥勒観音幾是非
 是亦夢非亦夢 仏云応作如是観矣」
と書いたそうです。

意味は、
是もまた夢、非もまた夢、
弥勒もまた夢、観音もまた夢、
仏云く、正に是ごとき観を作すべし
となるそうです。

徳川家光が島原の乱を苦にし、
「戦わずにすむ方法はないか」と聞くと、
沢庵禅師は、
「この世は夢です。夢の中にいるからゆめとは知らず、
この世をまことにあるものと思っている。
人と争うのも夢の中の争いで、さめれば相手がない。
現と思うのも夢、
それを知らず勝ってよろこび、負けて悲しむ。
自他の対立の夢で争う。
ただ、勝をよろこばず敗けを怒らぬこころになって
夢の中の争いごとを止め、勝敗ともに無い無事の人になられよ」
と答えたそうです。

夢と現(うつつ)の世界を同一に扱うことは、
突きつめると生と死を同一に扱うことになるみたいです。


■荘子の胡蝶の夢
荘子の思想を表す代表的な説話として
胡蝶の夢があるそうです。
 「荘周が夢を見て蝶になり、
 蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。
 果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、
 あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」

荘子の思想は、無為自然を基本とし、
人為を忌み嫌うもので、徹頭徹尾、
俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢だそうです。


■『金剛経』での夢
一切有為の法は
夢幻泡影の如し
露の如く亦電の如し
応に是の如きの観を作すべし

意味は、
この世のことはすべて、
夢・幻・泡・影のようで、実体がなく空である。
また、露や電光のようにはかないもの
このように物事を見ていきなさい
となるそうです。

ちなみに、六喩(りくゆ)という言葉があるそうで、
『金剛経』では夢・幻・泡・影・露・電、
『維摩経』では幻・電・夢・炎・水中月・鏡中像、
をそれぞれ指すそうです。


■総括
「夢」は総じてはかないものに捕えられがちですが、
夢と現(うつつ)の世界を同一に扱うことで、
生と死を同一に扱うことができるようです。

生老病死という四苦からは、
誰も逃れることはできません。

それを「夢」という世界観で見ることで、
「死」という概念から「成仏(仏になる)」や
「転生(新たな生命に生まれ変わる)」
へと繋ぐことができるのだと思います。

当初、茶室には刀掛があったそうです。
(今も遠州流では、刀掛があるとかないとか。)
つまり、茶道にも「死」という概念があったのでは
ないでしょうか。
「死」から「生」へ繋がる概念の「夢」。
床の間に飾られた「夢」一字を見て、
当時の人々は、何を感じていたのでしょうか。


作品名:掛軸一行書(萬里一條鉄)
作者名:大徳寺派渓雲寺 平兮伯道師
価格:15,000円
備考:共箱なし/桐箱入

掛軸一行書(萬里一條鉄)

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「萬里一條鉄(ばんり いちじょうの てつ)」
禅語から来ているようです。

萬里を法華経の観点から、宇宙法界の法則という意味に捕えると、
釈尊は、宇宙に対する「心の法則」といったものを、
「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」
という形で表現したように思います。

成仏(仏になる道)は、一日ですぐになれるものではなく
鉄のような信心を貫き通した時に、初めて見えてくるものだそうです。
これは、全ての人(生物全般)が、本来、仏性(仏になれる心)を備えているという
一休禅師の考えにも通じるのではないでしょうか。

仏教では、魂は輪廻転生しますが、
必ずしも人が人へ転生できるとは限らないようです。
四悪道(地獄・餓鬼・畜生・修羅)の心で死去した場合、
当然、それなりの報いを受けることになるのだとか。
逆に、四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の心、特に成仏できた時は、
現当二世に渡り、幸福境涯を生じるそうです。

村田珠光は、 足利義政から「茶の心とは何か」と問われ、
「茶とは遊に非ず、芸に非ず、ただ禅悦の境地にあり」
と答えたそうです。

茶禅一味と言いますが、日々の研さんを怠らず、
一心に「茶道の心」を極めようと欲すれば、
いつか必ず「禅悦の境地」に到達できるのではないでしょうか。

利休時代、侘び茶へ発展する茶道。
日本の心「おもてなし」が、禅の心「禅悦の境地」と結びつき、
「一期一会」「和敬清寂」という言葉へと繋がっていったようです。

茶道の日々の積み重ねは無駄にならず、
宇宙の法則に沿った、幸福へと誘う道をまっすぐに進んでいて、
究極的には成仏できる条件を満たして行けると、
当時の茶人たちは思っていたのかもしれません。


作品名:掛軸一行書(竹有上下節)
作者:芳賀幸四郎
備考:共箱なし/桐箱入

掛軸一行書(竹有上下節)

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『禅林句集』五言対句の
「松無古今色 竹有上下節
(松に古今の色なく、竹に上下の節あり。)」
というのがあるそうです。

これは、夢窓疎石著『夢窗國師語録』の
「便向他道、竹有上下節、松無古今色。
(すなわち他に向っていう、
竹に上下の節あり、
松に古今の色なし。)」
から来ているそうです。

意味は、
 松は季節の変化に関わらず、常に緑の葉におおわれていて、
 まわりに惑わされることなく、変わらざる心で生きたいもの。
 竹には上下の節がある。それぞれの立場をわきまえてこそ、
 秩序も保たれる。私心を捨てて、互いに助け合っていきたいもの。
となるのだとか。

慧明編(又は普済編)の『五燈會元』に
「僧問。如何是〓(水為)山家風。
師曰。竹有上下節。松無今古青。」
とあるそうです。

惟白編の『續燈録』に
「問。如何是〓(水為)山家風。
師云。竹有上下節。松無古今青。」
とあるようです。


作品名:掛軸(利休立像)
作者:淡交社製
備考:桐箱入

掛軸(利休立像)

※画像を押すと拡大できます。
茶聖、千利休は、わび茶(草庵の茶)の完成者で、
今井宗久津田宗及 と共に茶湯の天下三宗匠と称せられたそうです。


■文献による利休
立花実山著『南方録』では、
 「花をのみ 待つらん人に 山里の
 雪間の草の 春をみせばや 」(新古今集:藤原家隆)
利休の茶の心髄としているそうですが、
精神論が強調されすぎていて、
かえって利休の茶の湯を不明確なものにしているようです。

現在では、山上宗二著『山上宗二記』が第一級の資料とされ、
本能寺の変以降から、つまり死までの十年間が
独自の茶の湯を始め、わび茶を完成させたというのが通説みたいです。

余談ですが、現存している利休の甲冑から、
利休の身長は180cmもあったそうで、
当時としては並外れた巨躯だったのだとか。


利休の功績
利休の茶の湯の重要な点は、
名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところだそうです。
その代わりとして創作されたのが、
楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具で、
造形的には装飾性の否定を特徴としているのだとか。

草庵茶室の創出は画期的で、
それまでは四畳半を最小としていた茶室を、
庶民の間でしか行われていなかった三畳・二畳の茶室に採りいれ、
特に「窓(囲い)」を採用したことは特筆すべき点だそうです。

「露地」は、それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、
積極的な茶の空間、もてなしの空間としたものだそうです。
これにより、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを
「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成させたのだとか。


■一輪ざし

利休に関する逸話は多いですが、
ここでは一つだけ取り上げようと思います。

利休の屋敷の庭に、
朝顔の花が一面に咲く様子が大変美しいという噂を聞いた秀吉は、
利休
「明日の朝、そなたの屋敷へ朝顔を見に行くから」
と言いました。

秀吉利休に茶会に招かれると庭の朝顔が全て切り取られていました。
不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、 床の間に一輪だけ朝顔が生けてあり、
一輪ゆえに際立てられた朝顔の美しさに秀吉は深く感動しました。


秀吉のかたき討ち?
一輪ざしの話には続きがあって、 利休に一杯喰わされた秀吉は、
水のいっぱい入った大きな金色の鉢を用意させ、
その傍らに紅梅一枝を置かせると、利休を召し出して
「床に置いてある大鉢に、この紅梅を生けてみせてくれ」
と命じました。
普通に生けたのでは、紅梅の枝は鉢の中に全部沈んでしまいます。

利休は澄ました顔で「かしこまりました」と言うと、
紅梅を手にし、逆手に持ち替え、片手でそれをしごき始めました。

紅梅の花びらや蕾が水面に浮かんで、
金色の鉢に映えている様を見た秀吉は、
あまりの美しさに声をあげて驚きました。
同時に一瞬のうちに「美」を見抜くことができる、
利休の臨機応変さに、今さらながら深く感じ入ったそうです。


作品名:掛軸横物
(山光古今無)
作者:久田宗也
備考:桐箱入/共箱
 /青芳堂表具

掛軸横物(山光古今無)

※画像を押すと拡大できます。
「人事有憂楽 山光無古今」(司馬光)
人の世に憂楽はあるが、自然はいつも変わらず美しい
という意味だそうです。

司馬光(1019年〜1086年)は、
中国北宋代の儒学者・歴史家・政治家だそうです。

彼の属する旧法派の流れを汲む朱子学が学界に君臨し、
司馬光を激賛したそうで、君子の中の君子として、
殆んど非の打ち所のない人物として描かれているのだとか。

経済史学的見地から見ると、旧来の大地主・大商人を擁護し、
それらの政権壟断の打破を狙った新法を排除した、
反動的政治家の一人と目されるみたいです。

司馬光は、幼少の頃から、神童として知られていたそうです。
7歳の時には左氏春秋の講義を聞き、
家に帰ると、家の人たちに、聞いてきた内容の講義をしたようです。

また、庭で友達と遊んでいたところ、
仲間の一人が誤って水がめに落ちた際、
落ち着いて石を投げて水がめを割り、
水を抜いて仲間を救い出したという逸話もあるそうです。


作品名:掛軸横物
(うちわ・涼風)
作者:足立泰道
備考:桐箱入
 /大徳寺派雲澤禅寺

掛軸横物(うちわ・涼風)

※画像を押すと拡大できます。
埼玉県熊谷市の愛宕八坂神社の例大祭では、
毎年7月19日〜23日に、熊谷うちわ祭が開催されるそうです。

1750年4月、熊谷宿の町民109名が、
それまで寺社ごとに行っていた夏祭りを、
全町合同で行うことを町役人に願い出て許可されたことから、
町を挙げての夏祭りが始まったようです。

初代の「御用番(祭事係)」となった6名は、
現在でも「草分け六人衆」として敬われ、
その功績を称えて行宮に家名入りの提灯が掲げられるみたいです。

当初の形態は神輿祭りだったようですが、その神輿が焼失したため、
祭りは一旦衰退するそうです。
1830年に神輿が新調されると、再び活気を取り戻し、
祭りの期間中に各商家が疫病除けの赤飯を客に振る舞うようになり、
「熊谷の赤飯振る舞い」が名物となったのだとか。

その後、料亭「泉州」が、手間のかかる赤飯に替えて、
店名入りの渋団扇を配ったところ、当時の生活必需品とあって好評を博し、
他商店が追随、3銭の買い物に対しても5銭の団扇をサービスし、
「買い物は熊谷のうちわ祭の日に」と言われるようになったようです。
赤飯から団扇に変わった時期は、
江戸時代の内とも明治時代中期いわれるみたいです。

期間中に団扇を配布する習慣は、現在も続いているそうで、
配布する団扇は、表面は青地に「うちわ祭」の大書や祭りの由来、
公式サイトへのバーコード等が書かれた統一デザイン、
裏面には店名等が書かれたものなのだとか。


作品名:掛軸横物
(堪対暮雲帰末合
 遠山無限碧層層)
作者:芳賀幸四郎(如々庵)
価格:15,000円
寸法:横幅47.5cm
備考:共箱

掛軸横物(堪対暮雲帰末合)

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堪対暮雲帰末合 遠山無限碧層層は、禅語で、
「夕暮れになって雲が山に帰り、
 夕陽を浴びる紅い空のちぎれ雲が美しい。
 その合間に、連なる山々が、
 碧を幾重にも重ねて落ち着いてそびえる。」
といった意味になるようです。

出典は、『碧巌録(へきがんろく)』でしょうか。

『碧巌録』は、中国の仏教で、
別名『仏果圜悟禅師碧巌録』とも『碧巌集』とも呼ばれるそうです。
特に臨済宗において尊重され、代表的な公案集なのだとか。

1125年(中国・宋時代)に圜悟克勤によって編された本みたいで、
雪竇重顕選の公案百則に、垂示(序論的批評)、
著語(部分的短評)、評唱(全体的評釈)を加えたものだそうです。


作品名:掛軸一行書
(清流無間断)
作者:小室大心
価格:25,000円
備考:共箱
 /大徳寺派長楽寺

掛軸一行書(清流無間断)

※画像を押すと拡大できます。
「清流無間断。碧樹不曾凋。」は、
『嘉泰普灯録』の禅語みたいです。

清流(せいりゅう)間断(かんだん)無く、
碧樹(へきじゅ)曾(かつ)て凋(しぼ)まず。

清らかな渓流はこんこんと流れて絶える事がなく、
松のような常磐木も、いつも青々として決して凋む事なく、
永遠に碧(みどり)を保つ、
という意味みたいです。


■生と死の状態
仏教では釈尊(仏様)は
「常住此説法(常に住して此の法を説く)」
としているようです。

これは、生と死の二つの現象を、
生命そのものの新たな発生・消滅と思わず、
本有常住(ほんぬじょうじゅう)・無始無終なのだという
考えから来ているみたいです。

本有常住というのは、永遠の生命が常住していく上での
存在形態の変化、生命そのものは、
新たに生じたり消滅したりするものではなく、
大宇宙と共に本(もと)から有(あ)るとするものだそうです。

無始無終というのは、本有常住を前提として、
生命の本質は、生ずべき始めも無ければ、
死すべき終わりもないことだとか。

生と死は、過去世・現世・未来世の三世に渡って連続し、
これに伴い、幸・不幸の因果も繋がっているみたいです。

死の状態を「無相(むそう)」と言うようで、
姿・形はないがそのものは存在している状態を指すのだとか。

「清流間断無く、碧樹曾て凋まず」

三世常住の生命に、幸福が訪れる用願う釈尊の説法。
讃嘆唱とも言うべき経典の読誦により、
現当二世(現世と未来世)に渡り、
私たちに、生命力と幸福境界をもたらしてくれるそうです。

この軸には、清流のように間断無く、
決して凋まぬ生命力に充ち溢れた人生が訪れますように、
という心が込められているように感じます。


作品名:掛軸一行書
(春水満四澤)
作者:小室大心
価格:25,000円
備考:共箱
 /大徳寺派長楽寺

掛軸一行書(春水満四澤)

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陶淵明著『四時』の詩、
 春水満四澤(しゅんすいしたくにみち)
 夏雲奇峰多(かうんきほうおおし)
 秋月揚明輝(しゅうげつめいきをあげ)
 冬嶺秀孤松(とうれいこしょうひいず)
から取られた語のようです。

意味は、
春は雪解けの水が沢に満ち、
夏の雲は立派な峰のような雲が多い。
秋の月は明るく輝き、
冬は一本の松がしっかりとたっている。
となるそうです。


■春水満四澤
春水満四澤についてのみ掘り下げてみると、
春水は、春の雪解け水のこと、
四沢は、四方の沢、あらゆる沢のことになるみたいです。

水そのものは、四季によって別に変わりはないはずですが、
春の水というものは、どこか悠々閑々として、
穏やかなものに思えるようです。

そのような、大らかで穏やかな水が、どこの川にも満々ている姿に、
天地和順・天下泰平・万民和楽の瑞兆を認めて、
禅者はこれを揮毫し、茶人は珍重してこれを床に掛けるみたいです。


作品名:掛軸一行書
(秋空一声雁)
作者:小室大心
価格:25,000円
備考:共箱
 /大徳寺派長楽寺

掛軸一行書(秋空一声雁)

※画像を押すと拡大できます。
秋空一声雁(しゅうくういっせいのかり)は、
秋の澄んだ空に雁の一鳴きが響く情景を表わしているようです。

雁(かり)というのは、カモ目カモ科の水鳥の総称だそうです。
日本では急速な減少から保護鳥の対象となり、現在は禁猟みたいです。

日本ではマガン・カリガネ・ヒシクイなどが生息し、
北海道宮島沼や宮城県伊豆沼などに冬鳥として飛来するようです。
宮城県の県鳥でもあるとか。


■昨夜一声雁 清風万里秋
似たような情景を表わす語に
「昨夜一声雁 清風万里秋」
があるみたいです。

これは、臨済下七世・瑯ヤ慧覚著『瑯ヤ山覚和尚語録』が出典ようです。

淡交社著『茶席の禅語大辞典』によると
「昨夜、雁が一声啼いた。
 澄みきった静寂の中で忽然と起こった[これだっ]という悟りの閃き。
 他人が窺い知ることのできない自内省の呈示。

 一転して清々しい境涯がどこまでも広がることをあらわす。
 一事を聞いて万事を知るの意。」
だそうです。

清々しい秋の大空を雁が飛び、
静かな凛とした空気を、雁の一声が打ち破る。
壮大な景色が垣間見え、音まで聞こえてくるようです。


作品名:掛軸一行書
(清秋竹露深)
作者:小室大心
価格:25,000円
備考:共箱
 /大徳寺派長楽寺

掛軸一行書(清秋竹露深)

※画像を押すと拡大できます。
「清秋(せいしゅう)竹露(ちくろ)深し」
と読むようです。

竹露というのは、明け方に霧が発生すると竹の葉に付着し、
それが露となるそうです。

竹露が深いというのは、竹の葉についた露が、
互い互いを映し出した状態みたいで、
映し出す像が無限に続いて、
深みを増して行くといった感じになるでしょうか。


■「深」
後漢の許愼著『説文解字』によると、
「深」という漢字は、もとは川の名前だったようです。
「水なり。桂陽南平を出でて、營道に西入す」
営道は、後漢零陵郡の地名だそうです。

水を湛(たた)えた深いところ、
水底から表面までの距離の長いことを表したのが、
「深」という字みたいです。


■竹露茶
朝鮮八道のうち、南西部に位置する全羅南道の順天に茶畑があり、
ここで摘まれた茶だけで作る雀舌茶は「竹露茶」と呼ばれるそうです。

竹林に300年以上自生し続ける茶畑は、竹林が茶を自然に遮光するため、
茶の生育に理想的な半陰半陽の環境が作り出されるみたいです。

近くには岩湖(ジュアンホ)という湖があるようで、
たくさんの霧が発生し茶畑を覆い、
霧だけでなく、竹露も含んで茶は育つそうです。

竹の根は横に伸び、茶の根は下に伸びるみたいです。
寒害や冷害の被害から、竹の葉は雪や風から茶を守り、
竹の根は雪や霜から茶を保護するのだとか。

この情景が「清秋竹露深」といったところでしょうか。


作品名:掛軸一行書
(紅葉舞秋風)
作者:小室大心
価格:25,000円
備考:共箱
 /大徳寺派長楽寺

掛軸一行書(紅葉舞秋風)

※画像を押すと拡大できます。
「紅葉(こうよう)秋風(しゅうふう)に舞う」
と読むようです。

意味は、散りそめた紅葉が秋風に舞っている様子で、
晩秋の寒々とした光景なのだとか。


■秋の風が涼しいのは
暑い夏がすぎ、一陣の風が吹くと、涼しい感じがします。

それまで、日本を覆っていた温暖で湿潤な小笠原気団が、
移動性高気圧に乗って、温暖で乾燥した揚子江気団へと変わり、
湿度が一気に低下していくようです。

一般に、湿度が高いほど暖かく感じられ、
その体感温度に対する湿度の大小の影響度は、
気温が高いほど大きくなるみたいです。

ヒトは発汗機能が非常によく発達していて、
暑熱に対する耐性が強いそうです。
汗による体温調整は、主に汗が皮膚表面で蒸発する際に、
気化熱を奪うことによってなされるとか。

逆に、湿度が高い状態では、
汗の蒸発が阻害されるため「蒸し暑い」と感じるそうです。

秋の風が涼しく感じるのは、温度の低下と共に、
湿度の低下によるものもあるみたいです。

清らかな秋風に舞い散る紅葉(もみじ)。
カサカサという心地よい音と、色鮮やかな葉に包まれ、
実り豊かな秋を堪能してみたいものです。


作品名:掛軸一行書
(緑陰夏日長)
作者:高橋悦道
備考:共箱
 / 大徳寺派明星寺

掛軸一行書(緑陰夏日長)

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「緑陰(りょくいん)夏日(かじつ)長し」と
読むみたいです。

高駢(こうべん)著『山亭夏日(七言絶句の詩)』に
「山亭の夏日
克 陰濃(こまや)かにして 夏日 長し
楼台 影倒(さかしま)にして 池塘(ちとう)に入る
水精(すいしょう)の簾(れん) 動いて 微風起こり
一架の薔薇(しゃうび) 満院 香(かんば)し」
とあるそうです。

全文を訳すと、
「木々の緑が色濃く茂るほど、夏の日差しは強く、長い。
 池のほとりに建つ楼台は、その姿を逆さまにして、
 水に入りこむように水面に映っている。
 そんな折、水晶の玉飾りがついた簾がかすかに動いて、そよ風が吹いた。
 その風にのって、花棚のバラの香りが中庭いっぱいに満ちる。」
となるようです。

高駢は中国・唐代の人だそうです。

夏至のある日、自然の営みは、当時から変わらず、
青々とした木の木漏れ日が、
照りつける太陽から、優しく守ってくれています。


作品名:掛軸一行書
(滝)
作者:森洞雲
備考:共箱

掛軸一行書(滝)

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季節的な意味だけではなく、
滝に打たれ、身心を鍛える求道精神も指しているようです。

万葉集の頃の「たき」は今日で言う「早瀬(川において流れが速い場所)」を指し、
垂水(たるみ)が今日で言う「滝」を指していたそうです。

多くの滝は、長年に亘って流れる水によって形成されるみたいです。

典型的には、岩石の地層を横切って流れる水流があると、
侵食に強い岩脈部分が棚として残るのに対し、
その先の侵食に弱い地層部分が削られて落ちるようです。

結果、残った棚は落ちた部分に対して隆起した状態になるのだとか。

さらに月日が経過すると、棚の端が徐々に削られ滝は絶えず上流に移動していくみたいです。

同時に多くの場合、侵食に強い棚に対し、その下の地層は弱い地層からなるため、
棚の下の層が侵食され、滝の下では水のカーテンの後ろに洞窟状の窪みが形成されるのだとか。

滝の上の水流は、堅い棚の上を流れるために流れは広く浅くなり、
滝の直下は、落下によって勢いがついた水が地面を叩くために水溜まりができるようです。


■千住博(せんじゅ ひろし)
日本画家・千住博の代表作「滝」は、
それ自体が絵の具を流しての「滝」で、「滝の描写」ではないそうです。

ここに絵画のイリュージョンから抜け出せなかった歴史からの展開を試みているとし、
テーマと技法と手段が完全に一致した実証と述べているとか。

1995年のヴェネツィア・ビエンナーレに出品した「滝」は、
縦3.4メートル、横14メートルの大作で、題名は「THE FALL」だったみたいです。
滝の意味ならば「THE FALLS」となるのですが、「THE FALL」としたのは、
アダムとイヴが楽園を追放されたという「墜落」の意味だと語っているそうです。


作品名:掛軸一行書
(明珠在掌)
作者:西部文浄
備考:共箱
 /東福寺同聚院

掛軸一行書(明珠在掌)

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「明珠(みょうじゅ)掌(たなごころ)に在(あ)り」
と読むようです。

「あるがままに正しく写し取る心を、本来、
皆持ち合わせている。更にそれを高める。」
という意味になるみたいです。


■明珠とは
明珠というのは、非常に価値のあるもの・宝のことだそうです。

『碧巌集』の第九十七則「金剛経軽賎」の則に加えた
明覚大師・雪竇重顕(せっちょう じゅうけん)の頌(しょう)の冒頭に
「明珠掌に在り、功有る者は賞す。
胡漢来らず、全く伎倆無し。」
とあるようです。

ここでいう明珠は、
「明鏡、台に当り当下に妍醜を分つ」
の明鏡と同じ意味になるそうです。

つまり、明珠、掌に在りは、
あたかも照魔鏡にも似た明珠を、ちゃんと備えていて、
わが前にくるものを、あるがままに正しく写し取り、
その正邪・曲直・方円・美醜を判定して、
いささかの歪みもない、
という意味になるようです。

如意宝珠(にょいほうじゅ)というものが、仏教にはあるそうです。
様々な霊験を表すとされる宝の珠で、
「意のままに様々な願いをかなえる宝」とされるのだとか。

地蔵菩薩や虚空蔵菩薩、如意輪観音をはじめとする仏の持物で、
無限の価値を持つものと信じられ、増益の現世利益を祈る対象みたいです。

通常、仏塔の相輪の最上部に取り付けられ、
そのほかの仏堂の頂上に置かれることもあるそうです。

明珠も、磨けば(修行すれば)、いつかは如意宝珠へと変わるのかもしれません。

中国天台宗の開祖である天台大師の創案に「一念三千」という観法があるそうです。
一念とは、凡夫・衆生が日常におこす瞬間的な心(念)、三千とは法数の展開、
極小から極大の相即した統一的な宇宙観を示し、
実践的には自己の心の中に具足する仏界を観法すること言うようです。

また法華経の教えでは、
 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、
 五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。」
とあり、一念三千にも「珠」という字を見ることができるみたいです。


■擬宝珠(ぎぼし)
橋の欄干など寺院以外の建造物の装飾として、
取り付けられる擬宝珠は、如意宝珠を模したものとする説もあるとか。

久須見疎安著『茶話指月集』に、千利休が、
 「瀬田の橋にある擬宝珠の中に、
 形の見事なものが二つある。
 これを見分ける人はいないものか。」
と言ったとき、古田織部が、
 「例の擬宝珠を試しに見分けてみようと思い、
 早馬にて瀬田に参り、只今帰りました。
 さて、二つの擬宝珠とは、
 東西のそれとこれではありませんか。」
と、わざわざ取ってきたという逸話があるようです。


作品名:掛軸一行書
(竹有上下節)
作者:西部文浄
備考:共箱
 /東福寺同聚院

掛軸一行書(竹有上下節)

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中国南宋代に成立した禅宗史書『五灯会元』の
「松に古今の色無く、竹に上下の節有り」
から取られた語のようです。

「松」は、いわゆる常緑樹で、
春夏秋冬、幾歳月を通じて、常に青々として、
その色を変えることはないという意味みたいです。

「竹」もまた、いつも青々とし、
かつ、上下の節があるとしているようです。

表面上は、松と竹、無と有、古今と上下を、
それぞれ対比した句なのですが、
そこには、大乗仏教の法理を含蓄させているそうです。

「松に古今の色無」で平等一色の面を、
「竹に上下の節有り」で差別歴然の面をうたい、
全体として、平等即差別・差別即平等の真理を表現しているようです。

そのため、どちらか一句しか掛けていない場合には、
その背後に他の一句が隠されているものとして、
拝見し味わうものなのだとか。


作品名:掛軸一行書
(明歴々露堂々)
作者:須賀玄道
備考:共箱
 /大徳寺派瑞泉寺

掛軸一行書(明歴々露堂々)

※画像を押すと拡大できます。
明歴々露堂々(めいれきれき ろどうどう)は、
『禅林句集』からの禅語で、
「明らかにはっきりとあらわれていて、
少しも隠すところがない」という意味だそうです。

『論語』の「吾れは爾(なんじ)に隠すこと無し」と、
ほぼ同じ意味みたいです。

宋代の禅門の逸話集『羅湖野録』に
宋の大詩人・黄山谷が、臨済宗黄龍派の禅僧・晦堂祖心に参じ、
晦堂から「吾れは爾に隠すこと無し」を指示され、
欣然として悟りを開いたという話があるそうです。

仏教の世界観から見ると、
本来、人は宇宙法界を一身・一念に具えているとのこと。
そして、それを体得することを開悟と言うみたいです。

総じて万物・万象の上に「明歴々」と現れ、
「露堂々」と顕露していて、少しも隠すところがないもののようです。

茶道に置き換えると「明歴々露堂々」と顕露していることを見得して始めて、
真に露地の趣きを解し得たもの、
茶禅一味の妙堺を得た茶人というものみたいです。


作品名:掛軸一行書
(歩々是道場)
作者::小林太玄
備考:共箱
 /大徳寺黄梅院

掛軸一行書(歩々是道場)

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禅語「歩々是道場(ほほこれどうじょう)」は、
維摩居士の語として名高い「直心(じきしん)是道場」と
その肚は同じみたいです。

一般に道場とは、道を修めこれを実行するために営まれた、
特別の建物や施設の意味に解されているようですが、
本来は、道を修行する場所という意味だそうです。

そのため、禅者とっては、食事や農作業など、
禅堂で座禅している時以外も修行となるみたいです。

茶道の場合、茶室にいる時がけが茶の修行ではなく、
食事の支度や、来客の応対をしている時、
果ては、電車に乗っているときや洗濯しているときなども、
皆、修行となるそうです。

道を志す者にとっては、一切の時が皆、修行の場であり道場となる、
つまり「歩々是道場」となるみたいです。

茶道の修行とは、茶室や水屋にいる時だけではなく、
その他の場所や時も含まれる。
「歩々是道場」は、その様な考えを持たない人に対する頂門の一針として、
また自戒自省のよすがとして、
この一軸は日頃の稽古の席にうってつけの一軸になるようです。


作品名:掛軸一行書
(雪寒北嶺梅香南枝)
作者:芳賀幸四郎
価格:10,000円
備考:共箱

掛軸一行書(雪寒北嶺梅香南枝)

※画像を押すと拡大できます。
『禅林句集』の
「雪は北嶺に寒く 梅は南枝に香(かんば)し」
みたいです。

意味は、
「遠い北国の嶺々はまだ雪が覆って寒々としているが、
 季節は着実に移りつつあり、
 里寺の承福寺ではすでに梅の花もほころびて、
 芳しい香りをただよわせている。」
となるようです。

表面上、早春の風景を詠じた句みたいですが、
禅宗の宗旨としては、北と南、寒と暖、雪と梅との対置において、
差別歴然の大自然の相を見るのだとか。

陰と陽、殺と活、厳と寛とが互いに交錯し、
相即相入しながら展開していく宇宙の大生命の働きを、
そこに観じる句だそうです。

ほぼ同じ解釈の歌として、
藤原公任撰の歌集『和漢朗詠集』の
「東岸西岸の柳、遅速同じからず、
 南枝北枝の梅、開落すでに異なり」
があるようです。

この歌は、慶滋保胤(よししげのやすたね)の作みたいです。
平安中期の著名な文人で、その作『池亭記』は、
鋭く社会の変貌を捉えて鴨長明の『方丈記』に影響を与えたみたいです。

保胤は白居易に傾倒し、この詩も白居易の詩句
「北の軒 梅晩(ゆふべ)に白く 東の岸 柳先づ青みたり」

「大ユウ嶺上の梅 南枝落ち北枝開く」
を踏まえているそうです。


作品名:掛軸一行書
(雪裡梅花只一枝)
作者:小室大心
備考:共箱なし
 /紙箱入

掛軸一行書(雪裡梅花只一枝)

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「雪裡(せつり)の梅花(ばいか)只(ただ)一枝(いっし)」は、
『如淨禪師語録』にある
「臘八上堂、瞿曇眼睛を打失する時、雪裡の梅花只だ一枝。
 而今到處に荊棘を成す、却つて笑ふ春風の繚亂として吹くことを。」
の一句だそうです。

道元が執筆した仏教思想書『正法眼蔵』では、
道元の師・天童如浄の言葉としてこれを引用しているみたいです。

臘八(ろうはつ)は、十二月八日、釈尊成道の日のことで、
瞿曇(ぐどん)は、釈尊が出家する前の姓だそうです。
眼睛(がんせい)は、目のことですが、ここでは、釈尊の慈悲と知恵の象徴になるようです。
而今(じこん)は、今現在のことみたいです。

直訳すると、
「仏が凡夫としての眼を失ったとき(悟りを得たとき)、
 雪の中に一枝の梅の花が香る。
 いまはどこも茨だらけだが、
 春風が吹けば梅の花が一斉に咲き乱れるだろう。」
となるようです。

如浄がこれを引用した真意は、
「いまは蕾もなく茨だらけだが、
 やがていっせいに花を咲かせる(悟りを開く)だろう。
 その花にこそ真実があるのだと、
 仏弟子をはげました。」
となるみたいです。


■雪裡梅花只一枝と仏教
眼前に雪が降り積もっていて、
その中に梅の小枝が一つ・二つと花をつけ始めた情景は、
釈尊が様々のこだわった眼睛(ものの見方)を振り捨て、
悟りを得た捉え方と同じという意味みたいです。

仏法とは、生命の真実の相(すがた)を知ることにより、
「成仏(じょうぶつ)」という永遠に崩れぬ幸福境界を得る
実践法だそうです。

生命の真実の相(すがた)を知るためには、
開悟しなくてはならないのですが、
そのために行う修行が、仏教の種類によって違うみたいです。

末法以前の仏教では、多くは乗り物に喩えられるようで、
上座部仏教(小乗仏教)は、1人乗り、
大乗仏教は、複数人乗りなのだそうです。

初期仏教、特に、釈尊、入滅後400年間は、
像を造って祀るという偶像崇拝の概念が存在しなかったようです。

さて、日本では、
平安時代初期、真言宗の弘法大師・空海は、大日如来を本尊とし、他の仏教の宗派に対して、
真言密教の優位性を説いた上で、即身成仏と密厳国土をその教義としているようです。

同じく平安時代初期、天台宗の伝教大師・最澄は、
末法に入り、法華経を伝導する菩薩が現れることを述べたうえで、
法華経を根本としたようです。

天台宗に関して補足すると、
中国の天台宗は、慧文(隋の天台智者大師・智は孫弟子)が開祖で、
律宗と天台宗兼学の僧・鑑真和上が、天台宗関連の典籍を日本に持ち帰り、
最澄が天台教学を806年に日本に持ち帰ったそうです。


■末法思想
末法以降の仏教は、1052年(永承7年)を末法元年とし、
現在は末法であって無戒の時代であることを強調する書物『末法灯明記』のあってか、
鎌倉新仏教の祖師たちに大きな影響を与えたようです。

臨済宗の栄西や、曹洞宗の道元は、釈迦在世でも愚鈍で悪事を働いた弟子もいたことや、
末法を言い訳にして修行が疎かになることを批判し、修行に努めることを説いたみたいです。

浄土宗の法然は、末法濁世の衆生は、
阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし、称名念仏による救済を広めたようです。

浄土真宗の親鸞は、正法・像法・末法といった時代を超えて受け継がれてきた、
念仏の普遍性を強調したみたいです。

法華経を信奉する日蓮正宗では、法華経にある已今当(いこんとう)の文証を引き、
末法年間には南無妙法蓮華経と唱えることでのみ成仏できるとしたそうです。

『法華経 従地涌出品第十五』には、
上行菩薩を筆頭とした菩薩(仏)が登場し、
釈迦亡き後の末法の世において仏法を護持すると記されているのだとか。


■禅宗では
南インド出身の達磨が開祖の禅宗、日本に伝わる禅の宗派は二十五流あるそうで、
臨済宗から独立した黄檗宗を含めると四十七流になるみたいです。

中国で成立した禅宗は、本質的に教義を否定する傾向があったそうですが、
比叡山の影響の大きい日本の多くの禅の宗派は教義を展開するようです。

仏性(自身の内面に本来そなえているもの)を再発見するために、
禅定の修行(座禅)を継続するなかで、
仏教的真理に直に接する体験を経ることを手段とし、
その経験に基づいて新たな価値観を開拓することを目指すみたいです。

そうして得た悟りから連想される智慧を以て生滅の因縁を明らかにし、
次いで因縁を滅ぼして苦しみの六道を解脱して涅槃に至り、
その後に一切の衆生を導くことを目的とするのだとか。

六道というのは、仏教において迷いあるものが輪廻するという世界で、
天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界のことだそうです。


作品名:利休立像掛軸
(複製)
価格:3,000円
紙箱入/折れ有り

利休立像掛軸

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ここでは、利休と茶の湯との出逢いに関して説明しようかと思います。

千利休は、本名は田中与四郎、号は宗易だそうで、
大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれたのだとか。家業は納屋衆(倉庫業)だったみたいです。
父は田中与兵衛、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円のようです。

利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって、町人の身分では参内できないことから、
正親町天皇から与えられた居士号だそうで
由来は「名利、既に休す」や「利心、休せよ」の他、
『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだとも言われているようです。

さて、当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地だったとか。

堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、
周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国だったみたいです。
多くの商人は同時に優れた文化人でもあったそうです。


■茶の湯との出逢い
父は堺で高名な商人であり、利休は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、
16歳で茶の道に入るみたいです。

17歳の頃、書院、台子の茶を継承する堺の北向道陳について書を学び、
18歳(19歳)の時、道陳の紹介で、当時、茶の湯の第一人者だった武野紹鴎の門を叩き、
本格的な茶の湯の修行を始め、台子の伝授を受けるようです。
そして、23歳で最初の茶会を開いたみたいです。

さて、武野紹鴎に入門する際、紹鴎は、下男に路地を掃除させた上で、
あらためて与四郎(利休)に掃除するよう命じるそうです。
そのため、路地には塵一つおちていなかったようです。

しばらく考えていた与四郎は、かたわらの樹木の幹を揺さぶり、
掃き清められた路地にはらはらと落としたそうです。
その様は、まことに風情があったのだとか。

密かにこれを見ていた紹鴎は、与四郎の奇才に感じ、
ことごとに秘訣を授けたのだそうです。

ちなみに、このエピソードを題材に、横山大観は、
大正4年の第五回院展に六曲一隻の屏風絵「千ノ与四郎」を出品したのだとか。

利休は、堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わったそうです。
1556年に開山した南宗寺では、初代の大林宗套をはじめ、
笑嶺・春屋・古渓と歴代の和尚と厚く親交していったようです。

1569年2月11日、織田信長が堺を直轄地とした後、千利休は、今井宗久津田宗及とともに、
信長に茶頭として雇われるのだとか。
※この件の詳細は、今井宗久の「堺の町と矢銭徴課の意義 」の項に記載しているので割愛します。


■そして、侘びの大成へ
紹鴎は、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を、茶会に用いて茶の湯の簡素化に努め、
精神的充足を追究し「侘び」を求めたそうです。

利休は師の教えをさらに進め、「侘び」の対象を茶道具だけでなく、
茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大したようです。

また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品だったものを、
利休は新たに楽茶碗などの茶道具を創作し、
掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだみたいです。

その後、利休は「これ以上何も削れない」という、
極限まで無駄を削った緊張感を生み出して行くそうです。


作品名:利休立像掛軸
(複製)
価格:5,000円
木箱入

利休立像掛軸

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天正10(1582年)年6月2日の本能寺の変に関して、様々な憶測があるようです。
ここでは、その中の1つを取り上げてみようかと思います。

織田信長は、人生でたった一度だけ大人数を集めて茶会を持ったようです。
それが、天正10(1582年)年6月1日、堺の商人たちの招きで行われた、
本能寺の大茶会みたいです。

出席者は、近衛前久父子、九条兼孝、一条内基、二条昭実、鷹司信房、
今出川晴季、徳大寺公維ら41名の公家、京の五山などの寺社の代表、
今井宗久津田宗及などの商人・茶人・文化人などで、
それらをセッティングしたのが千利休だったようです。

この数日前に、利休が養子である少庵に送った手紙が残されているそうです。
「上様御上洛との由、承った。播州(秀吉)はどうなっているのか?
 情報が分かり次第、早々に連絡を請う」
という内容だったとか。

6月2日、本能寺の変が起こるのですが、
直後に秀吉の軍は、毛利軍と和議を取り結び、
2万の軍勢をわずか10日で220km移動させるそうです。

ちなみに、秀吉が安土城にいた信長に援軍を求めたとき、
毛利の軍勢は5万と記したのに対し、
実際には、1万数千人だったようです。
この秀吉の要請を受け、信長はみずからの中国出陣を決めたみたいです。


利休秀吉の関係
本能寺の変前後の利休は、秀吉を目下扱いしていたようです。
桑田忠親著『利休の書簡』によれば、第三者への書状の中では、
「秀吉」や「筑州」と呼び捨てることが多かったそうです。

逆に、秀吉利休を「宗易公」と呼んでいたのだとか。

秀吉が天下を取った後も、当初から秀吉の側近ともいうべき立場にあり、
政治的・軍事的機密に関与していたみたいです。

例えば、天正10年6月15日、『瀬兵衛尉清秀宛ての利休書状』は、
その前日、明智光秀が最後の砦とした勝龍寺城における、
摂津茨木城主・清秀の戦功を称賛したもので、
茶頭の立場を超えたものだったそうです。

以後、利休の書状は多数伝えられているものの、
その多くが軍事・政治に関わるものみたいです。

『宗及他会記』に天正11年5月24日朝、秀吉が坂本で持った茶会に、
「茶堂宗易」と記されているそうですが、
この「茶堂」は、点前をしたという程度の意味だそうで、
実質的な茶頭には、すでに天正10年になっていたと思われるとか。


■明智光秀とは
秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、
桂川を渡って京へ入る段階になって、
光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、
主君信長討伐の意を告げたそうです。

『本城惣右衛門覚書』によれば、
本城惣右衛門は丹波国の地侍で、天正年間に丹波本目(もとめ)城主の、
野々口西蔵坊(清親)の家来として、本能寺の変に従ったそうです。
当時、本能寺がどこにあるかも知らず、
敵が織田信長だとも知らなかったと証言しているとか。

本能寺の変の後、利休は、名実ともに天下一の茶人となります。
明智光秀と千利休の関連性を物語る当時の資料はないみたいですが、
なぜ見当たらないのでしょう?


作品名:名画織物掛軸
価格:10,000円
寸法:長さ100cm/横幅30cm
備考:紙箱入

名画織物掛軸

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絵は、狩野元信筆といわれる水墨画の、
瀟湘(しょうしょう)八景図四幅対の一つ「冬」と思われます。

瀟湘八景図は、霊雲院旧蔵・京都国立博物館寄託の重要文化財で、
瀟湘八景の四季が描かれているそうです。
春は、烟寺晩鐘と漁村夕照、
夏は、山市晴嵐と遠浦帰帆、
秋は、平沙落雁と洞庭秋月、
冬は、瀟湘夜雨と江天暮雪みたいです。


■瀟湘八景とは
10世紀に選ばれた、中国の山水画の伝統的な画題、
またその八つの名所のことだそうです。

瀟湘八景がモデルとなり、影響を受けた台湾・朝鮮・日本など、
東アジア各地で「八景」が選定され、日本では
近江八景・金沢八景・博多八景・江戸八景・日本新八景などが
選定されたようです。

さて、瀟湘は湖南省長沙一帯の地域を指すようで、
古来より風光明媚な水郷地帯として知られるのだとか。

瀟湘八景は以下からなるようで、すべて湖南省に属しているそうです。
種類備考
烟寺晩鐘(えんじ ばんしょう)煙寺晩鐘とも。衡山県清涼寺。
夕霧に煙る遠くの寺より届く鐘の音を聞きながら迎える夜。
漁村夕照(ぎょそん せきしょう)桃源県武陵渓。
夕焼けに染まるうら寂しい漁村の風景。
山市晴嵐(さんし せいらん)湘潭市昭山。
山里が山霞に煙って見える風景。
遠浦帰帆(おんぽ きはん)湘陰県県城・湘江沿岸。
帆かけ舟が夕暮れどきに遠方より戻ってくる風景。
平沙落雁(へいさ らくがん)衡陽市回雁峰。
秋の雁が鍵になって干潟に舞い降りてくる風景。
洞庭秋月(どうてい しゅうげつ)岳陽市岳陽楼。
洞庭湖の上にさえ渡る秋の月。
瀟湘夜雨(しょうしょう やう)永州市蘋島・瀟湘亭。
瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景。
江天暮雪(こうてん ぼせつ)長沙市橘子洲。
日暮れの河の上に舞い降る雪の風景。


作品名:白馬武者掛軸
作者:長江桂舟
価格:5,000円
寸法:長さ89.0cm/巾31.0cm
備考:紙箱入

白馬武者掛軸

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白毛(しろげ)は、全身の毛の大半が白く、
肌がピンク色の馬のことみたいです。

本作品は、白馬に跨り、
一軍を率いる勇壮果敢な武者の絵だそうです。

白馬を駆り先陣を切る勇敢な武者の姿に、
わが子の逞しく聡明な成長を祈るのだとか。


■実際に白馬に乗った武将はいたのか?
戦国時代、生まれた時から真っ白な「白毛」は、
通常、神社などに奉納する「神馬(しんめ)」にされたそうです。

実際、有名どころの武将の馬は、
皆、白馬では、なかったようです。

なお、馬の毛色は、主に
鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛、栗毛、栃栗毛、
芦毛、佐目毛、河原毛、月毛(パロミノ)、
白毛、粕毛、薄墨毛、駁毛
の14種類だそうですが、それ以外の毛色もあるみたいです。


表1.戦国武将の愛馬
武将名愛馬名
織田信長鬼葦毛(おにあしげ)芦毛
織田信長小鹿毛(こかげ)鹿毛
織田信長連銭葦毛(れんせんあしげ)白+黒毛
織田信長遠江鹿毛(とおとうみかげ)-
長宗我部元親汗芦毛(あせあしげ)芦毛
長宗我部元親内記黒(ないきぐろ)葦毛
仁科盛信蘆毛馬(あしげうま)大鹿毛
武田勝頼蘆毛馬(あしげうま)大鹿毛
明智秀満井上鹿毛/大鹿毛(おおかげ)大鹿毛
武田信虎鬼鹿毛(おにかげ)鬼鹿毛
山内一豊鏡栗毛(かがみくりげ)鏡栗毛
蒲生氏郷小雲雀(こひばり)雲雀毛
加藤清正帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)栗毛
島津義弘膝突栗毛(ひざつきくりげ)栗毛
森長可百段(ひゃくだん)甲斐黒
長尾景虎放生月毛(ほうしょうつきげ)月毛(クリーム色)
織田信孝粕毛(かすげ)まだら
松平秀忠桜野(さくらの)栗毛
伊達政宗汗血馬(かんけつば)-
伊達政宗太刀風(たちかぜ)-
羽柴秀吉太平楽(たいへいらく)-
前田利益松風(まつかぜ)/谷風-




■白馬の王子様
「乙女の永遠の憧れ」ですが、
起源は定かではないみたいです。

古代ローマの「第一人者」アウグストゥス、
あるいはその養父のカエサル、
古代イングランドの伝説の国王・アーサー、
などが、挙げられるみたいです。

他に、三国志の劉備の乗った的盧(てきろ)や、
釈迦(仏陀)が出家する際に乗った健陟(かんたか)も
白馬だそうです。

2007年にオリコンが開催した
「白馬の王子様ランキング」では、
アーティスト部門が
 1位:堂本光一
 2位:及川光博
 3位:GACKT
俳優部門が
 1位:玉木宏
 2位:小栗旬
 3位:ウェンツ瑛二
だったとか。


作品名:鯉のぼり掛軸
作者:吉田芳月
寸法:長さ89.0cm/巾31.0cm
備考:紙箱入

鯉のぼり掛軸

※画像を押すと拡大できます。
「鯉のぼり」の風習は、江戸時代に始まったようです。

端午の節句には、厄払いに菖蒲を用いることから、
別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、
武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて、
男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となったそうです。

この日、武士の家庭では、虫干しをかねて、
先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、
玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れたとか。

一方、大きな経済力を身につけながらも、
社会的には低く見られていた商人の家庭では、
武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、
のぼりの代わりに、五色の吹流しを美々しく飾るようになったみたいです。

さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、
一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、
吹流しに鯉の絵を描くようになったそうです。

現在の魚型のこいのぼりは、さらにそこから派生したものみたいです。

ただ、これは主に江戸を含む関東地方の風習で、
当時の関西(上方)には無い風習であったとか。

1838年の『東都歳時記』には
 「出世の魚といへる諺により」
 鯉を幟(のぼり)に飾り付けるのは
 「東都の風俗なりといへり」
とあるそうです。


■鯉の滝登り
『後漢書』李膺伝に以下の話があるそうです。

李膺(りよう)は、宦官の横暴に憤り、
これを粛正しようと試みるなど公明正大な人物だったようです。

司隷校尉に任じられるなど宮廷の実力者でもあったとか。

もし若い官吏の中で、彼に才能を認められた者があったならば、
それはすなわち、将来の出世が約束されたということだったようです。

このため彼に選ばれた人のことを、
流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、
「竜門に登った」と形容したのだとか。

なお「竜門」とは、夏朝の皇帝・禹がその治水事業において、
山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いてできた、
急流のことみたいです。


■鯉のぼりについて
「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し」と言われるように、
鯉のぼりは「幟(のぼり)」とは名づけられているものの、
形状は魚を模した吹流し形なのだそうです。

鯉のぼりは、本来は真鯉(黒い鯉)のみで、
明治時代から真鯉と緋鯉(ひごい)の対で揚げるようになり、
昭和時代からは家族を表すものとして、
子鯉(青い鯉)を添えたものが主流になったみたいです。

真鯉に赤い裸の男の子が、
しがみついている柄のものがあるそうですが、
これは金太郎が、
自分より大きい鯉を捕まえた伝説をもとにしているとか。

最近では、緑やオレンジといった、
より華やかな色の子鯉も普及しているそうです。

所によっては、女の子も含め、
家族全員の分の鯉を上げる家もあるとか。

暖色の子鯉の増加は、
そういった需要に応えてのことみたいです。

竿の先に、回転球やかご玉、その下に矢車を付け、
五色もしくは鯉などを描いた吹流しを一番上に、
以下、真鯉、緋鯉、等を、
大きさの順に並べて揚げるのが一般的のようです。


■唱歌・童謡
今も歌われ続ける鯉のぼりの歌は、
以下のようなものがあるそうです。

@作詞・近藤宮子、作曲者不詳 『こいのぼり』1931年(昭和6年)
 「やねよりたかい〜」

A作詞者不詳、作曲・弘田龍太郎 『鯉のぼり』1914年(大正3年)
 「甍(いらか)の波と雲の波〜」

B作詞・東くめ、作曲・滝廉太郎 『鯉のぼり』1901年 (明治34年)
 「大きな黒い 親鯉に〜」



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