茶道具 翔雲堂


ひと口知識

※内容に間違いがあるかもしれませが、ご了承ください。
また、ここの文章に関しては、質問等は受け付けていません。ごめんなさい。


なお、一部の作品、販売しています。

茶碗ってこんなの

もともと中国生まれで、奈良時代から平安時代にかけて
日本に伝えられ、鎌倉時代になると碗形の陶磁器の総称となったみたいです。

江戸時代になると、抹茶茶碗の他に煎茶用の煎茶茶碗、
白湯・番茶用の湯呑茶碗、明治時代には磁器の飯茶碗なんかも
普及するようです。

茶人がその順位を示した言葉に「一井戸、二楽、三唐津」「一楽、二萩、三唐津」なんて言われるみたいです。

茶碗の絵柄として季節の花が使われることがあるとのこと。 (茶花のページもあります。)

茶碗の種類を「和物」と和物以外の「唐物」に大別すると以下のような感じになるでしょうか。
ちなみに、相阿弥などが著した『君台観左右帳記』では、
「曜変」「油滴」「建盞」「烏盞」「鼈盞」「能皮盞」「灰潜」「黄天目」「只天目」「天目」
などと分けられているので、必ずしも下の表が正しいというわけではないようです。
和物 楽焼 玉水焼
大樋焼大樋飴茶碗(九代大樋長左ェ門)
大樋飴茶碗(松雲窯喜仙)
国焼 近畿地方の赤膚焼など汲出茶碗(信楽焼)
中部地方の瀬戸焼など
中国地方の萩焼など備前焼茶碗(藤原謙)
萩焼茶碗(厚東建信)
萩焼茶碗(守繁徹)
萩汲出茶碗
備前焼茶碗(金重利陶苑)
萩焼茶碗(廣瀬淡雅)
萩焼茶碗(松唐山)
萩焼茶碗(小野光臣)
萩茶碗(厚東建信)
九州地方の唐津焼など瀬戸唐津茶碗
京焼 青磁
楽焼赤楽茶碗(小川長楽)
嶋台茶碗
赤楽茶碗(佐々木松楽)
長次郎写検校
長次郎写大黒
長次郎写鉢開
長次郎写東陽坊
長次郎写検校
長次郎写臨済
長次郎写早舟
長次郎写風折
黒楽馬絵茶碗
赤楽筒茶碗
赤楽馬上杯
黒楽茶碗(長次郎写カセ釉)
黒楽茶碗(伊藤桂楽)
黒楽茶碗(佐々木松楽)
赤楽茶碗(佐々木昭楽)
黒楽茶碗(桂窯)
音羽焼
御室焼仁清地紙草花茶碗
仁清宝尽絵茶碗
黒仁清海老絵茶碗
粟田口焼
清水焼
御菩薩焼
八坂焼
交趾焼紫交趾茶碗
御庭焼 御深井(おふけ)焼
偕楽園焼
後楽園焼
その他
(鍋島御庭焼、高槻焼など)


唐物 高麗 井戸
熊川高麗熊川茶碗
呉器
半使
御本御本茶碗
御所丸
金海
堅手
粉引
玉子手
雲鶴
三島三島茶碗
伊羅保
蕎麦
その他
(斗々屋、絵高麗など)
刷毛目茶碗
その他 天目高麗天目茶碗
油滴天目茶碗
天目茶碗(油滴)
青磁
白磁



■七種茶碗系

七種茶碗系には、
「長次郎七種(利休七種)」「長次郎外七種」「長次郎新選七種」
「ノンコウ七種」「光悦七種」「光悦十作」などがあるそうです。

「長次郎七種(利休七種)」
は、
別途説明していますので、他の七種茶碗系を説明しようかと思います。

○長次郎外七種

下記以外に「濡烏(赤楽)」もあるとか。
西徳玄庭が銘を付けたもので、「濡烏」が要法寺より日野又右衛門に渡った時、
又右衛門は同じく長次郎作の貧僧も所持していたが、
その銘を嫌い濡烏の箱に入れ替えたといわれるとか。

また「朝鴉(黒楽)」は、「貧僧」と宗旦が命銘し、
仙叟宗室がこれを改名したとの箱書があるそうです。
京都 日野又右衛門の所持の時、「濡烏」と箱を入れ替えたそうです。
大正11年 益田鈍翁の蔵。

ということは、箱と中身は
「貧僧(朝鴉)」⇔「濡烏」
となるでしょうか。
茶碗名備考
雁取千利休が芝山監物に贈ったところ、
その返礼に鷹野(高野)の雁が送られてきたところから
「思ひきや 大鷹よりも上なれや 焼茶碗めが 雁取らんとは」
という狂歌を詠んだことに因んで名付けられたとか。

この茶碗は「七重箱」まで添っているそうです。

サンリツ服部美術館蔵。
小黒大黒に対し名づけたのだとか。
閑居世俗を逃れて心静かに暮らすこと。
一文字茶碗底中央に「一(花押)」と利休が「一」の字と花押を
漆で直書きにしているところから。

寸法は、高さ:8.0cm、口径:11.4cm、高台径:4.9cmだそうです。

内箱蓋表に
利休居士一文字判形有之(印) 茶碗 千宗旦ヨリ来ル」(古筆了佐)
外箱蓋表に「長次郎焼 赤茶碗」(仙叟宗室)
外箱蓋裏に
利休所持 長次郎焼 赤茶碗
 一文字判有 不審庵(花押) 宗守(花押)」(随流斎、真伯宗守)
とそれぞれあるそうです。

伝来は、千利休千宗旦→真伯宗守→左波五兵衛→
 山田彦左衛門→戸田露吟→井上世外→益田鈍翁
太郎坊昔、京都の愛宕山・鞍馬山・富士山などに住んでいたという大天狗の名、
なのですが、これは、愛宕の坊へ好んで遣わすということで名付けられた銘だとか。

内箱書付は、表が宗旦、裏が仙叟、
箱裏の「太郎坊」の三字は藤村庸軒筆だそうです。
内箱表:「長次郎赤茶碗 宗旦(花押)」
内箱裏:「太郎坊 利休持分赤茶碗則箱ノ上書付宗旦名判有
 之宗旦所持常秘蔵申候故重而書付調申候 宗室(花押)」

寸法は、高さ:8.1cm、口径:10.6cm、高台径:4.7cmだそうです。

重要文化財で、今日庵蔵。
横雲茶碗の景色が、明け方に東の空に横に長くたなびく雲に似ている所からの名だとか。

内箱に「桐白木 書付仙叟」
蓋裏に「横雲」
胴に「利休所持 横雲赤茶碗 長二郎焼 千宗室(花押)」
外箱に「桐白木 書付如心斎」
表に「雲」
裏に「利休横雲赤 茶碗 長次郎焼
 仙叟宗室書付あり 如心斎(花押) 家原氏 参」
とそれぞれあるようです。

『茶事諸器集』に
「横雲 是は今、見え不申候。
利休秘蔵の雀香合、高麗筒、三つの内なり。
雀香合、横雲茶碗、高麗筒、利休所持の道具也。
此三種あらば如何なる奥山に住候共面白かるべし云々」
とあるとか。

『大正名器鑑 実見記』に
長次郎作としては品位に乏しき方なれども、
大寂びにて面白き茶碗なり」
とあるみたいです。

個人蔵。
聖は、日本において諸国を回遊した仏教僧をいうとか。

個人蔵。



○長次郎新選七種

金森得水(紀州藩領伊勢田丸城家老)が長次郎七種にならい選定したもの。
今日庵蔵。
茶碗名備考
閑居世俗を逃れて心静かに暮らすこと。
針屋「針屋釜」の場合は、
利休が好み形を切ってこの釜を写し、
針屋宗春に贈ったところからこの名があるそうですが。
ムキ栗深々と井戸を覗き込むように、四方に回された内部空間。
真正面からは小さく、凹凸があり、左右両側面が黒茶色みたいです。

寸法は、高さ:8.5cm、口径:12.5cm、高台径:4.9cmだそうです。
個人蔵(平瀬家)。
村雨「雨雲」に似て、黒釉を筆で掛けはずした釉がけや、ぎりぎりまで削り上げた口造り、
「乙御前」に似て、腰の丸みが愛らしく、わずかにめり込んだ高台などが特徴だとか。
「弁財天」同様、近年までその存在を世に知られなかった茶碗だそうです。

楽美術館蔵。
風折宗旦の箱書がついているとか。
「風折」の詳細はこちら。
太郎坊静岡県の太郎坊は、富士山須走口で祀られていた天狗太郎を、
明治時代初期ごろに御殿場口で祀るようになり、
そのために建てられた建物が太郎坊と呼ばれたのだとか。
次郎坊やや腰高で口部をわずかに内傾させ、
胴の中ほどで心持ち引き締めて成形し、
腰から高台にかけては丸みのある造りだそうです。

似たような名前で、赤楽の「二郎坊」があるようです。
二郎坊の銘は、内箱底の書付(宗旦)の狂歌
「引大し茶のけんぞ くの多けれハ世に鼻高の二郎坊どの」
から出たものなのだとか。



○ノンコウ七種

「ノンコウ」は楽道入のことで、
千宗旦が道入に花入れを贈り、これに「のんこう(乃無己)」と銘し、
道入を訪問するのを「のんこう」へ行くと言ったという説や、
江戸時代初期の男性の髪形に「のんこ」があり、
それに関連していたという説があるのだとか。

このノンコウ七種は、青山将監(江戸後期の加賀藩家老)が所持していたものだそうです。
茶碗名備考
獅子伎楽・舞楽の曲名および役名とその演技に「獅子」というのがあるようです。
若干筒茶碗風に見えるみたいですみたいです。

野村美術館蔵。
高台脇からやや高く腰をもち上げ、きっぱりと四方に形作っているそうで、
形が四角っぽく升に似ている所からの銘のようです。

覚々斎原叟宗左の箱書がついているみたいです。
大阪のクケ屋から東京の赤星家を経て、大阪の磯野家に伝えられたとのこと。

のんこうの特徴のひとつ「黄釉紋」が遠山形に現われていて、
さらに、高台のあたりが土見になっているのも見どころだそうです。

高台の中央にのんこうの楽印が捺され、
高台に目が五つ、これに黒釉が点在しているみたいです。

寸法は、高さ:7.3cm、口径:13.0cm、高台径:5.7cmだそうです。

内箱蓋裏に
「黒のうかう ます茶碗 左(花押)」(覚々斎)
とあるようです。

伝来は、クケ屋→赤星家→磯野家みたいです。

個人蔵(磯野家)。
千鳥「千鳥」は、太郎冠者狂言の曲名にあるとか。

胴に千鳥の足形があるためにこの名があるそうです。
金森得水によれば、この茶碗が三角なので、
光琳の描いた千鳥が三角に見えるところからこの名が付き、
白釉を芦の葉に見立てたものとも言われるとか。

薄づくりで口縁がやや抱え、
総体の黒釉中に黄釉で胴に干鳥の足形のような模様があって、
底内に楽印が片邪みにあり文字は鮮明に現われているとか。

藤田美術館蔵。
稲妻胴部半ばで大きく形を締め、見込に広がる空間が大きくと深まりを増す、
口縁部から厚くかかった光沢のある黒釉が高台の際まで達し、
厚く溜まっているといった感じの茶碗だとか。

内箱蓋表に「ノンカウ 黒茶碗 卒啄斎(花押)」(卒啄斎)、
内箱蓋裏に「稲妻 左(花押)」(江岑宗左)、
外箱蓋表に「ノンカウ 稲妻 不審菴」(了々斎)
外箱蓋裏に「伝来 稲妻茶碗 箱表書付 了々斎筆也 旦(花押)」(碌々斎)
とそれぞれあるみたいです。

『本朝陶器攷証』に
「朱薬多く、秋のいなびかりの風情あり、依て名付く」
とあるそうです。

『本全宗儀氏本茶事記』に
「此茶碗は江岑名物也。
格別秘蔵故、代替りの時のみ用ゆ。
常には決して出さず、能き時に一見致候」
とあるようです。

『大正名器鑑 実見記』に
「七種中に於て、
古来此茶碗最も高名なるは、
決して偶然に非ざるなり」
とあるみたいです。

寸法は、高さ:8.7cm、口径:12.3cm、高台径:5.8cmだそうです。

不審菴蔵。
鳳林台湾の鳳林鎮の場合、「鳳林」の由来は、
鳳林が開発される以前は森林地帯が広がり、
大木に木蘭が咲く風景が鳳凰は羽根を伸ばす姿に見えたことだとか。
若山大振りで胴の横方向のヘラ目が見所なのだとか。
京都の野村美術館にあるようです。
鵺(ぬえ)は、日本で伝承される妖怪あるいは物の怪のことだとか。
鮮やか、かつ複雑な赤色の色調のなか、一筆胴部中央に黒い釉の刷毛目、
この釉調を得て命名されたようです。

箱書付は覚々斎原叟宗左だそうです。

内箱蓋表に「鵺」(覚々斎)
内箱蓋裏に「のうかうあか 茶碗 号名 鵺ト云 左(花押)」(覚々斎)
とそれぞれあるみたいです。

寸法は、高さ:9.0cm、口径:12.2cm、高台径:5.9cmだそうです。

伝来は、久田宗全→舟木宗川→地黄丸屋→不審菴→
 室町三井家→三井文庫みたいです。
三井文庫別館蔵。



○ノンコウ後窯七種

長次郎の茶碗を、ノンコウが写したもののうち七碗だそうです。
茶碗名備考
検校「このようなよい茶碗が長次郎のもとに残っていたとは、皆々検校殿よ」から。
「検校」の詳細はこちら。
貧僧貧僧は一名朝鴉といい、濡烏と紛らわしくなったそうです。
大黒小黒に対し名づけたのだとか。
「大黒」の詳細はこちら。
小黒大黒に対し名づけたのだとか。
鉢の子高麗茶碗の一種、堅手の「鉢の子」は、
「袖の子」ともいい、禅宗僧が托鉢に用いる鉄鉢に似た形から来ているとか。
早船利休が早船で運ばせて取り寄せたことから。
「早舟」の詳細はこちら。
小雲雀-小雲雀(こひばり)は、織田信長から 蒲生氏郷が拝領した名馬の名前。



○ノンコウ加賀七種
茶碗名備考
桔梗桔梗は、万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」のことだとか。

茶碗の見込を中心として、
四方より流れ込んだ釉が自然に桔梗花形を、
つくっているところからの名のようです。

『大正名器鑑』に
「総体作行無造作なる中に、
箆作キリリとして非凡の力量を現す所、
蓋し加賀ノンカウ七種中の巨擘なるべし」
とあるみたいです。
善福寺善福寺は、東京や奈良などにあるそうです。
青山腰を丸くもち上げ、胴を張らせた典型的な道入茶碗で、
胴部中程に「黄ハゲ」という黄抜けの釉景色がみられるとか。

加賀藩家老、青山将監が所持していたのでこの名がついたそうです。
個人蔵(山内俊)。

『大正名器鑑』に
「此花と類似の点多い。
此花は白釉ヌケを梅花に見立てて命名したるものなれば、
もしこの茶碗が、所蔵者の名を負わず、
その景色に依りて命名せられんには、
或いは「鴛鴦(おしどり)」と称せられたやもしれず」
とあるようです。
卒啄斎書付。
此花釉の掛け残しの黄色い部分があり、
これで花を表現していたので「此花」というとか。

此花は、梅花の事で『古今集』の
「難波津に咲くやこの花冬ごもり
 今は春べと咲くやこの花」
から来ているそうです。
香久山「白妙の衣ほすてふ天の香久山」の歌に因んだものだとか。

黒釉中に白い米粒のような小点が内部に十個、
外部に六個程ぽつぽつと散点する景色なのだとか。
今枝今枝内記重直と孫の今枝民部近義が、
謡曲と茶の湯を通じ親交があったそうで、
今枝民部は「今枝」を所持していたのだとか。

「今枝」は、現在所在不明。江岑書付。



○光悦七種

光悦は、本阿弥光悦のことだそうです。
茶碗名備考
不二山白楽茶碗とも。国宝で、諏訪湖畔のサンリツ服部美術館が所蔵。
その釉景が雪を戴く富士山にみての銘とも、
無二の出来だからだとも言われるとか、
作者自身が「出来此の上なし。」と自慢したとも言われるそうです。

光悦が娘の振袖切をもって、この茶碗を包んだので、
別名「振袖茶碗」とも言われるそうです。

『大正名器鑑』に
「茶碗の頃合といい、箆作といい、
またその釉色の変化といい、十善具備したる上に、
神山の天半にそびゆるが如く超然として冒すべからざる気品あり。
天下光悦の茶碗少なからずといえども、
仰いで第一峯と称すべきは蓋し此の茶碗に外ならざるべし。」
とあるみたいです。

内箱蓋表に「不二山 大虚菴(印)」(光悦)とあるようです。

寸法は、高さ:8.9cm、口径:11.6cm、高台径:5.5cmだそうです。

伝来は、光悦娘婚家→酒井家→服部家
 →サンリツ服部美術館のようです。
鉄壁 添書付に、
「光悦 千宗旦亭へ茶に行くとき、
この自作茶碗持参して宗旦に贈る。
旦、之を一翁に送り、以来宗守家代々伝ふ。
海伝道三と云者、故有而是を宗守に乞、
得て珍蔵す。江戸へ持来る、云々」
とあるようです。

大正時代の関東大震災時に焼失し、
『大正名器鑑』に
「惜しみても尚余りありというべし」
とあるみたいです。

『大正名器鑑 実見記』に
「薄作にて気骨凛々たる処、鉄壁の名空しからず、
蓋し黒光悦中に於て、最も優秀の作なるべく、
総体無疵にて完全なる茶碗なり」
とあるそうです。
七里銘は七里彦右衛門が所有したことにちなむそうです。

手捻り成形の後、全体をへらで削り薄く仕上げているのだとか。

寸法は、高さ:8.7cm 口径:11.9cm 底径:5.3cmだそうです。

五島美術館蔵。
雪峰茶碗の呑口より胴体まで白釉のかかったさまを、
白雪が山の峰に降り積もった景色に見立ててつけたようです。

『大正名器鑑 実見記』に
「光悦焼きは火度極めて強きが為め、
窯中に於て自然にさまざまの変化を起す者多けれども、
此茶碗の如きは変の又変、
奇の又奇と称す可き者ならん。」
とあるそうです。

東京・畠山記念館蔵。
障子胴に土が抜けた部分があり、
そこに釉がかかって向こう側が透けて見える様子が、
まるで障子のようであったこと名付けられたとか。

『文政二年 諸家珍器之覚』に
「光悦茶碗障子と申茶碗の事、
赤みにて胴に土ぬけ御座候。
内外より薬かかりて申て、
日にうつし申と、透き申候也それ故か銘生ず」
とあるそうです。

伏見屋忠治良の添書付に
「ヘラはずみて横手に薄く相成、
日がすきます故、障子と申事也」
とあるようです。

『大正名器鑑 実見記』に
「窯中に於て自然に起りたる出来事にして、
作者の予期せし所に非ず、
随って其類作あるべしとも思はれず、
光悦茶碗には変作頗る多けれども、
此茶碗の如き変之又変と謂ふべき者ならん」
とあるみたいです。
毘沙門堂大きな茶碗で、通常高さ8cm位が、これは10cm程あるとか。
高台から丸みをもって立ち上がり、
口を内に抱え込んだ姿は楽茶碗の定型にもっとも近いみたいです。

内箱蓋表に「ビシヤモントヲ 光悦赤茶碗 内之書付
 久嘉手跡 ○○(花押)(玄々斎托叟)
内箱蓋裏に「此茶わん山科ノ 宮様へ光悦被上候也
 すぐに高野是閑拝領是
 閑より此方へ参候ニツノ内一ツハひやし一右衛門へ遺ス」
 (河井久嘉)

寸法は、高さ:9.9cm、口径:11.9cm、高台径:5.9cmだそうです。

伝来は、山科毘沙門堂跡→高野是閑→河井久嘉→鴻池家だそうです。

個人蔵(鴻池家)。
雪片茶碗の内側に白釉がチラチラする景色が
雪片を感じるとしてつけられた銘の筒茶碗だそうです。
箱書付の雪片の二字が光悦の筆であることから、光悦の自銘なのだとか。

ここでは省いていますが、「光悦五種」というのもあり、
「雪峰」「毘沙門堂」「障子」「不二山」、
そして「雪片」が入っているそうです。



○光悦七種(上記とは別?)
茶碗名備考
時雨「時雨」は、如春庵が16歳の頃に祖父より買い与えられたもので、
如春庵の美術品蒐集第1号なのだとか。
「時雨」のほかに如春庵の元にはもう一点光悦の「乙御前(赤楽)」あったそうです。

「時雨」の銘は、黒釉の景色が叢雲の寒空にただようかのように、
釉のカセの具合が雨脚に似ているというので付けられたそうです。

内箱に
「桐白木 金粉字形 書付良尚法親王 時雨」
外箱に
「桐掻合塗 錠前付 名物十二之内 茶碗
 光悦作黒 時雨」
とそれぞれあるようです。

重要文化財で、名古屋市博物館蔵。
鉄壁上述参照。
加賀「加賀百万石」は、加賀藩の石高、あるいは加賀藩自体を表したものだとか。
有明有明といえば、源氏物語の「まだ有明の空もをかしきほど」でしょうか。
陰暦十六夜以後、月がまだ空に残っていながら夜が明けようとする頃だとか。

片桐石州共筒茶杓に「有明」というのがあり、
これは、有明の雲のように美しいというところから付けられ銘なのだとか。
紙屋博多の茶人紙屋(神屋)宗湛の所蔵であったところから。
喰違喰違は、麹町区紀尾井町阪上より赤坂離宮前へ出る土手口をいうそうです。
雨雲素地は鉄分の多いざんぐりとした陶質で、
内外面に黒飴色の楽薬を塗り、
塗り残した部分は黒褐色の素地を現しているのだとか。
雨雲の銘は、胴にぬった黒飴釉の景色から来ているそうです。

箱書きは
表に「黒光悦茶碗原叟宗左書付」
裏に「光悦黒茶碗 銘 雨雲 左(花押)」
とそれぞれあるそうです。

『本朝陶器攷証』の「雨雲・黒・三升」
という光悦茶碗高名の三つに入っているようです。

寸法は、高さ:9.0cm、口径:12.5cm、高台径:4.8cmみたいです。

重要文化財で、三井文庫別館蔵。



○光悦十作
茶碗名備考
黒光悦宗旦から手造りの茶碗を所望された光悦は二碗の黒茶碗を示し、
宗旦はあえて両碗ともに拝受して、
のちにその一つ「鉄壁」を息子の武者小路千家官休庵初代・宗守に与え、
弟子で宗旦四天王の一人、藤村庸軒に与えたもう一つが「黒光悦(くろごうえつ)」なのだとか。
香雪美術館蔵。
喰違上述参照。
鉄壁上述参照。
不二山上述参照。
加賀光悦加賀光悦は、光悦の茶碗中、
最も景色に富んだものとされているそうです。

本歌は、裏千家四世千叟、松平不昧など、数々の名家に引き継がれたとか。
重要文化財で、京都・相国寺承天閣美術館蔵。
有明上述参照。
障子上述参照。
雪片上述参照。
ヘゲメ関東大震災で焼失した筒茶碗。
毘沙門堂上述参照。


■その他の有名な楽焼
茶碗名備考
無一物(むいちもつ)長次郎作。
寸法は、高さ:8.6cm、口径:11.2cm、高台径:4.8cmだそうです。

内箱蓋表「無一物 宗室(花押)」(仙叟宗室)
外箱蓋表「無一物 赤茶院」(松平不昧)

伝来は、千利休→清水藤太郎→松平不昧→
 頴川家→頴川美術館蔵

重要文化財で、頴川美術館蔵。
俊寛(しゅんかん)長次郎作。

寸法は、高さ:8.1cm、口径:10.7ocm、高台径:4.9cmだそうです。

内箱蓋表貼紙墨書「俊寛」(伝千利休)
 「長二郎黒茶碗」(千宗旦)
内箱蓋裏
利休めハ道具ニツ 
 特にケリ一ツシリスリ 一ツ足スリ
 茶碗名利休
 長次郎茶碗宗旦筆 宗室(花押)」
 (仙叟宗室)

伝来は、千利休→室町三井家→三井文庫。

重要文化財で、三井文庫別館蔵。
禿(かむろ)長次郎作。
不審菴第一の重宝だとか。

寸法は、高さ:9.0cm、口径:9.6ocm、高台径:5.3cmだそうです。

内箱蓋表「長次郎焼 黒茶碗 加ぶろ」(山田宗偏)
 (※茶ワンのワンは、
「夕」+「氾」のさんずいをとったつくりの部分+下に「皿」。)
内箱蓋裏「利休所持 禿 件翁(花押)」(卒啄斎)

伝来は、千利休→山田宗偏→坂本周斎→不審菴。
面影(おもかげ)長次郎作。
利休七種茶碗「鉢開」に似ているところから。

寸法は、高さ:8.1cm、口径:9.9ocm、高台径:5.2cmだそうです。

内箱蓋表「面影」(山田宗偏)
内箱蓋裏「入立ト打物ニ依存候 黒茶碗也
 細川ノ所持之 鉢ひらきニよく似候由也」(石川自安)

伝来は、石川自安→楽家→楽美術館。


読み:びぜんやきちゃわん
作品名:備前焼茶碗
作者:藤原謙
価格:28,000円

備前焼茶碗
※画像を押すと拡大できます。
岡山県備前市周辺の土をこねてできた陶器。
特に備前市伊部地区で盛んで「伊部焼(いんべやき)」の別称もあるようです。

備前焼作家の藤原謙は、戦後、一番最初に無形文化財に認定された
藤原楽山の系譜で、西村千寿・藤原康・小山月泉らが
弟子みたいです。


読み:あからくちゃわん
作品名:赤楽茶碗
作者:小川長楽
備考:桐箱よごれ有

赤楽茶碗
※画像を押すと拡大できます。
赤楽は、赤土を手捏ね(てづくね)して800℃程度で焼成したもので、 派手好きの 秀吉 が好んで使っていたとか。
( 利休 は黒楽を好んで、赤楽は逆に嫌っていたとのこと。)
国の重要文化財には、
本阿弥光悦の「乙御前」、楽長次郎の「太郎坊」、「無一物」があるそうです。
楽焼の起源は明時代の三彩釉(さんさいゆう)らしいですが、
三彩釉自体は、西暦700年に坊主の道昭が亡くなった時の骨壷だったとか。
三彩釉は、緑・黄・白三色の釉(うわぐすり)をかけた焼物のことで、
赤楽にかける透明の釉薬とは違うようです。

初代小川長楽は、今のところ楽家から唯一独立を許された人物。

現在の小川長楽は、醍醐寺座主より「松風軒」の号を賜り、三代長楽を襲名したとのこと。
皇太子殿下ご成婚の際には、「赤・白一双茶碗」を献上したみたいです。
三代目長楽曰く「土も自分で見つけます。ただ、すぐにはつかえず、
土を空気や雨にさらして寝かせ、作品になるまでには二、三十年ほどかかります」
とのこと。かなり大変そうな道ですね。


読み:おおひあめちゃわん
作品名:大樋飴茶碗
作者:九代大樋長左ェ門

大樋飴茶碗
※画像を押すと拡大できます。
飴釉(あめゆう)という釉薬をかけた茶碗。
木灰・わら灰・長石・あか粉などを調合したもので、飴色に発色するそうです。

初代大樋長左衛門は江戸時代の人で、楽家四代目一入に学んで楽焼の脇窯である大樋焼を金沢で始めたそうです。
現在は十代目で、長男の大樋年雄は、将来十一代目になるのかな?
九代目は、中興の祖である五代勘兵衛に匹敵する名工といわれたそうで、
TV「なんでも鑑定団」に出た「空中(本阿弥光甫)作、銘:寒月」の写しは、鑑定額350万円だったとか。すごいですね。


読み:にしせいぢがみそうかもん
作品名:仁清地紙草花茶碗
作者:窪田常之(壱休窯)

仁清地紙草花茶碗
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まずは、野々村清右衛門(野々村仁清)の話から入ろうかと思います。
生まれは丹波国桑田郡野々村、若い頃は丹波立杭窯や京都粟田口などで陶芸の修業し、
その後、瀬戸で轍櫨引きの技術に磨きをかけたそうです。
京都に戻ったあと、1647年に再建された仁和寺の御用窯として、
仁和寺の門前に御室窯を開いたようです。
ちなみに仁和寺は1467年〜1477の応仁の乱の時に焼けたのですが、
再建は1646年だったみたいです。

1656年、仁和寺門跡の性承法親王(後水尾院の第七皇子)から
受領号「播磨大掾」と、「仁」及び「藤原姓」を授けられたそうです。
この時、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」を併せて「仁清」と号すようになったとか。
また、自分の作品に「仁清」の印を捺すことでブランドを主張したようです。

窪田常之は、昭和27年生まれ。
平成12年に独立して窯を作った際、
京田辺の地にゆかりの深い、一休禅師の名前にちなんで、壱休窯と名付けたそうです。

話はずれて、京都府京田辺市は、現在、京都市・奈良市・大阪市のベッドタウンになっていて、
人口は2010年の時点で67,904人、年々増加傾向にあるようです。
同志社大学、同志社女子大学があって20代前後の人が多いみたいです。
1889年に綴喜郡田辺村、1906年に田辺町、
1997年に和歌山県田辺市との重複を避けるため、京都府の「京」を冠して京田辺市となったとのこと。


読み:しまだいちゃわん
作品名:嶋台茶碗
作者:佐々木松楽

嶋台茶碗
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お祝い飾りの台として使われる嶋台、
州浜をかたどった台の上に松・竹・梅や鶴・亀などを配したもので、
蓬莱山を模したものなのだそうです。
その台に金・銀の盃を重ねて使っていたことから、
金銀盃二つを重ねたものを嶋台と呼ぶようになったのだとか。
※飾物の州浜は州浜台の略で,嶋台(島台)とも呼ぶそうです。
この茶碗、裏返して高台を見ると、
金が鶴(五角)、銀が亀(六角)となっているみたいです。

表千家七代如心斎により「嶋台」が生まれたそうです。
様々な改革を行ったこの如心斎は、千家茶道中興の祖と言われたそうで、
以下のようなことを行ったようです。
@千家を名乗るのは表千家・裏千家・武者小路千家(の嫡子)とし、 二男三男にはこれを名乗らせない。
A七事式を考案。
B利休時代より家元に伝来する道具を整える。
C極書(きわめがき)の書付をする。
D利休百五十年忌を機に、利休像をまつった祖堂を建立。
E家元の一子相伝化。

松楽窯では赤楽・黒楽のお茶碗をはじめとする「茶陶」に力を注いでいるそうです。
松楽窯は、錦手絵付師佐々木松楽が、京都清水にて楽焼を志したのが始まりだそうです。
現在地の亀岡へは、二代目松楽のときに移転、現在三代を教えるそうです。 大徳寺御用達としても活躍しているとか。


読み:はぎやきちゃわん
作品名:萩焼茶碗
作者:小萩窯(厚東建信)
価格:10,000円
備考:高さ8.3cm/口径13.5cm

萩焼茶碗
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萩焼は、桃山時代の1604年、萩藩主毛利輝元の命で、 朝鮮人陶工の李勺光・李敬の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりだそうです。
萩城下坂下の東郊松本村中之倉に築窯したので、 この系列窯を「松本萩」といい、李敬を陶祖としたようです。
これに対して兄勺光の一族が1653年、深川村三之瀬に分窯した系統を「深川萩」というみたいです。

陶芸家厚東建信(ことうけんしん)は、1947年山口県生まれの日本工芸会正会員。
2003年、息子の厚東孝明と親子展を開くなどしている。

厚東孝明(小萩窯)より一言、
「当小萩窯元としましては、萩焼の古来の良き伝統を損なうことなく、 現代的感覚を加味して気品高いものを製作するよう絶えず技術の研究向上をはかり、 広くご愛用賜りますよう努力致しております。」
とのことです。


読み:あからくちゃわん
作品名:赤楽茶碗
作者:佐々木松楽
銘:千歳(チトセ)
備考:大徳寺大橋香林書付

赤楽茶碗
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赤楽茶碗は「素焼き」同様の温度つまり800度前後で焼成するので非常に割れやすいそうです。
一方、黒茶碗は1100度くらいの温度で焼成するため、丈夫なんだとか。

楽茶椀は、基本的には釉薬が溶けたらすぐに水に入れて冷ますようで、
800度から20度に急冷するのだから割れることが多く、釉薬がはがれることも多いみたいです。

また、赤楽茶碗は、半乾きのときに、鉄分が多い土をかけて化粧をするようで、
これもタイミングがずれるとべたっとへたってしまい、努力がむだになることがあるそうです。


読み:こうらいてんもくちゃわん
作品名:高麗天目茶碗
作者:千漢鳳

高麗天目茶碗
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高麗茶碗の「高麗」とは「朝鮮渡来」の意味で、 「高麗茶碗」と称されるもののほとんどは高麗時代ではなく、朝鮮王朝時代の製品なのだそうです。
日本の茶道は、室町時代の「書院の茶」から「侘び・寂び」を重んじる「草庵の茶」へと 変化していくのですが、その過程で茶器も唐物中心から高麗物・和物へと価値観が変化していったようです。
もともと日用雑器として作られた「高麗茶碗」は、 こうして茶器として取り上げられるようになったみたいです。

聞慶窯の千漢鳳は、1933年東京生まれ。
1972年に聞慶窯を設立し、現聞慶大学の陶磁器工芸科の名誉教授なのだそうです。
朝鮮一のどんぶり鉢を守る作家だとか。
韓国陶芸の巨匠で、1995年大韓民国陶芸部門名匠に認定されているようです。


読み:こうらいこもがいちゃわん
作品名:高麗熊川茶碗
作者:千漢鳳

高麗熊川茶碗
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高麗茶碗の一種「熊川茶碗」、熊川の名は、 大韓民国の南東部にある、慶尚南道の熊川という港の近くの窯で出来たものが、 積み出されたことに由来するそうです。
熊川茶碗には、
深め・口べりが端反り・胴は丸く張り・ 高台は竹の節で比較的大きめ・高台内は丸削り・すそから下に釉薬がかからない土見せが多い・ 見込みの中心には「鏡」「鏡落ち」または「輪」と呼ぶ小さな茶溜りがつく
といった特徴があり、特にこの事を「熊川なり」と言うそうです。

千漢鳳は、1975年に加藤唐九郎のもとで修業したそうです。
加藤唐九郎は、1897年生まれの陶芸家で、 桃山時代の陶芸の研究と再現に努めた人のようです。


読み:みしまちゃわん
作品名:三島茶碗
作者:宮川香雲

三島茶碗
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三島茶碗は、高麗茶碗の一種で、
李朝初期十五〜十六世紀の慶尚南道で焼かれたみたいで、
雲鶴茶碗に次いで古いと考えられているそうです。
鉄分が多い鼠色の素地に、印や箆(へら)や櫛で紋様をつけ、
白土の化粧土を塗った後、削り又は拭き取り仕上げをし、
長石釉や木灰釉を掛けて焼成した白象嵌の陶器のようで
「暦手(こよみで)」とも呼ばれるとか。

三島の名前は、その文様が、
伊豆国三嶋明神で版行された木版印刷の摺暦(すりこよみ)である
「三島暦」の仮名の崩し文字に似ていることから
「みしま」「こよみ」などと呼ばれたそうです。

初代香雲は、三代宮川香斎の子。
二代目香雲は、昭和13年京都生まれで、
四代宮川香斎(初代真葛香斎)の甥みたいです。
後に、宮川香斎家から分家して龍谷窯を開窯したそうです。
六代清水六兵衛に師事し、昭和55年に二代目香雲を襲名したようです。
仁清写・乾山写・金襴手を得意とし、華やかで雅趣に溢れた作風を展開しているとか。


作品名:刷毛目茶碗
作者:多気檗山
備考:淡々斎花押銘入/桐箱入
価格:20,000円
備考:淡々斎花押銘入/桐箱入

刷毛目茶碗
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刷毛目(はけめ)は、陶磁器の加飾法の一つで、
刷毛で白土を塗って刷毛目を残し、さらに透明な釉薬をかけたもののようです。
刷毛目茶碗は、高麗茶碗の一種で、李朝初期15〜16世紀の南鮮一帯、
多くは全羅南道の務安や、忠清南道公州郡の鶏龍山(けいりゅうざん)で焼かれたみたいです。
上記の三島茶碗同様、雲鶴茶碗に次いで古いと考えられているそうです。
なんでも、李朝で一般庶民の白磁の使用が禁じられたため白磁の代用として焼かれたのだとか。

日本では、17世紀初頭に、唐津焼において刷毛目の作品が現われ出すそうです。


■帯春烟(しゅんえんたなびく)とは
烟は煙のことみたいです。

王維の『田園樂七首』という詩、其六に以下の文があるそうです。
 桃紅復含宿雨 (桃は紅にして 復た宿雨を含む)
 柳緑更帯春煙 (柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ)
 花落家僮未掃 (花落ちて家僮未だ掃はず)
 鶯啼山客猶眠 (鶯啼きて山客猶ほ眠る)
この中の「柳緑更帯春煙」の部分から取ったものではないでしょうか。

 桃は夜来の雨を含んでいっそう色鮮やかな紅色の花をつけ、
 柳の緑は春霞を帯びている。
 花は庭先に散っているがまだ掃かれてはいない。
 鶯が啼いているのに、山籠もりの客はまだ惰眠を貪っているのだろう。
といった意味になるのだとか。

この詩『田園樂七首』は、王維31歳頃の作品のようです。
六言四句のめずらしい詩で、
六言の句は、二言を繰り返すので、
啖呵を切るような歯切れのよい詩になるのだとか。

この詩には即興で作ったという意味で、
「筆を走らせて成る」という題注が付されているみたいです。


■孟浩然の詩『春曉』
王維が『田園樂』を作った場面は、孟浩然の詩『春曉』を読んだあと、、
早起きして掃除をして、興が覚めたときだったようです。

当時、王維は「半官半隠」という生活をしていたようです。
これは、高級官僚にも関わらず、孟浩然のように自然の中での暮らし、
宮使いの合間に都の郊外にある山荘で悠々自適の生活を楽しむという、
古くから多くの詩人が詠っている憧れの生活だそうです。

孟浩然の詩『春曉』は、以下の文章です。
春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚えず
処々(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来(やらい) 風雨(ふうう)の声
花落つること知らず多少(いくばく)ぞ

割りと有名な詩なので、意味などの解説は、ここでは省略します。


作品名:御本茶碗
作者:杉本貞光
価格:18,000円
備考:桐箱入

御本茶碗
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御本茶碗(ごほんちゃわん)の御本とは「お手本」の意味だそうで、
17〜18世紀にかけて、日本で作られた手本(茶碗の下絵や切型)をもとに、
朝鮮で焼かれた茶碗のことを指すようです。
胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、
この斑点を「御本」または「御本手(ごほんで)」と呼ぶこともあるみたいです。

杉本貞光は、1935年東京生まれ。1974年より立花大亀に師事し、
以後、アメリカなどでも活躍しているようです。

高麗茶碗を日本の茶道ではある程度分類しているようなので、 一覧表にしてみました。
井戸 古来高麗茶碗の最高峰とされるもので、「竹の節高台」と称される高い高台をもつ。
大井戸 典型的な井戸茶碗。名物手。
小井戸 「大井戸」よりも形、特徴がともに小振りのものを指すとされるが、「古井戸」の意ともいう。
青井戸 釉に青みがかかるものを指すが、釉調は「大井戸」に近いものもありさまざまである。
井戸脇 「井戸茶碗に類するもの」の意で、見込みがひろく浅めな形(なり)をいう。

粉青沙器系 白磁風の茶碗で、陶質の胎土に白土を掛けた上に透明釉などを施したもの。
三島 胎土にこまかな連続地紋を押した上で白土を薄く掛けたもの。暦手(こよみで)とも。
地紋の斑になったところが三嶋大社発行の三島暦に似ることからと「三島」と称する。
粉引(こひき) 白土を全面に掛け、まだらに粉を吹いたように見えるもの。
刷毛目(はけめ) 白土の刷毛目が模様のように見えるもの。

日本からの注文品
御本茶碗 江戸前期に釜山の倭館で焼かれたもので、切型(お手本)によって注文制作されたもの。
御所丸 日本の黒織部を見本として注文製作されたもの。
金海 釜山近郊の金海で制作されたもの。祭器を転用したものが古い。
形状は祭器は厚手・鼓型が多い。輸出品は薄手・州浜または桃型で、猫掻文・割り高台が多い。
彫三島 古三島とは異なり、江戸時代以降日本からの注文で製作された。地紋が浮き彫り状ないし象嵌様のもの。
伊羅保 釘彫りや片身替りなどをほどこしたもの。

その他
熊川(こもがい) 古くは金海加羅をさした「くまなり」に由来する古地名から熊川倭館をそう訓んでいた。
そこから渡来した形ということで、ややチューリップ状にふちの反った形をいう。
すそ以下は釉がかかっていない。
玉子手 熊川のうち、かなりの上手物で、磁釉がきれいなもの。
堅手 磁器のようにかたいもの。厚塗りのまだらな釉が景色を出している。
斗々屋(ととや) 斗々屋の名前の由来は、利休が堺の魚屋の棚から見出したからとも、
堺の商人・斗々屋所持の茶碗からともいわれる。
本手斗々屋と平斗々屋がある。
柿蔕(かきのへた) 伏せた形が柿のへたに似ているものをいう。
雲鶴 高麗青磁による筒型の茶碗。貫入によって渋色が染み、景色をかもす。
この一種に「狂言袴」と称するものがあり、丸文の象嵌模様を狂言師の水干袴に見立てていう。
割高台 祭器から発展したもので高台に特徴。
呉器(ごき) 呉器の名前は、形が椀形で禅院で用いる飲食用の木椀の御器に似ていることに由来するといわれる。
一般に、大振りで、見込みが深く、丈が高く木椀形で、
高台が高く外に開いた「撥高台(ばちこうだい)」が特色とされる。
黒高麗 鉄釉の「高麗天目」や鉄絵具のうえに青磁釉をかけた「鉄彩手」などの黒物の総称。
白高麗 明の福建省泉州徳化窯。
絵高麗 明の磁州窯。梅鉢手とも。粗製の白磁で黒の鉄絵・掻き落としの素朴な図柄がある。


作品名:萩焼茶碗
作者:守繁徹
価格:20,000円
備考:口径12.4cm/高さ7.5cm/桐箱入

萩焼茶碗
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萩焼の技術は、1957年に文化財保護法に基づく選択無形文化財に選択されたそうです。
2002年1月には、経済産業省指定伝統的工芸品の指定を受けたとのこと。
また、1970年には、三輪休和(十代三輪休雪)、
1983年には、三輪壽雪(十一代三輪休雪)がそれぞれ人間国宝に認定されているようです。

守繁徹は、1954年生まれ。1983年から守繁栄徹(父)に師事し、
第三文明展や全国陶芸展などで受賞しているそうです。


作品名:仁清宝尽絵茶碗
作者:杉田祥平
備考:桐箱入

仁清宝尽絵茶碗
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野々村仁清(ののむらにんせい)は、
丹波国桑田郡「野々村」生まれで「仁和寺」の門前に御室窯いて作陶した「清右衛門」のことで、
江戸初期の京焼の名工だそうです。

仁清は近代的な意味での「作家」「芸術家」としての意識をもった最初期の陶工で、
当時としてはめずらしく、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺し、
これが自分の作品であることを宣言したそうです。
特に轆轤(ろくろ)の技に優れたと言われ、
「色絵雉香炉」や「法螺貝形香炉」のような彫塑的な作品にも優れていたようです。
現存する仁清作の茶壺は、立体的な器面という画面を生かし、
金彩・銀彩を交えた色絵で華麗な絵画的装飾を施しているとか。

宝尽くしは中国の「八宝」思想に由来し、日本では室町時代に始まったそうです。
この八宝は「法螺・法輪・宝傘・宝瓶・白・蓮花・金魚・盤長」のことみたいです。
日本では「如意宝珠・宝やく・打出の小槌・金嚢・隠蓑・隠笠・丁字・花輪違・金函」などが、
代表的な文様で、時代・地方により多少の違いがあるようです。
他にも、七宝(しちほう)といって、
「金・銀・瑠璃・真珠・シャコ・瑪瑙・マイ瑰」(法華経)を指すそうです。
(般若経や無量寿経では一部違うみたいです。)

以下に、宝尽くしに出てくるいろいろな縁起物の一例をあげてみます。

如意宝珠 ものごとが自分の意のようになるもので、
玉ねぎのように、上の方がチョットとがった珠。
打ち出の小槌 それを振ればなんでも思いどおりの物が出てくるという小さな槌。
隠れ笠 この笠を被ると姿が見えなくなると云われ、
隠れ蓑とともに、軍記物語の『保元物語』に記述がある。
丁字(ちょうじ) 南洋の果物のことで、平安初期に輸入して珍重され、
その芳香と希少価値とから文様化し宝尽しの一つに加えられた。
宝やく(鍵) 江戸時代の出入り口は板の引き戸が一般的で、
そこには「さる」と呼ばれるつっかえ棒状の落し錠がかけられいた。
この鍵を開けるための道具。
金嚢 金嚢は巾着を指し、銭貨・お守り・香料などを入れるものとして、
昔から大切にされてきたもの。

杉田祥平は、現在四代目。江戸後期に作られた清閑寺窯で作陶中。


作品名:乾山写秋草茶碗
作者:手塚充
備考:鵬雲斎書付

乾山写秋草茶碗
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尾形乾山(おがたけんざん)は、尾形光琳の弟で、6歳違い。

京都の富裕な 呉服商尾形宗謙三男として生まれ、父の遺産として、
室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰の三つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、
光琳と折半で譲り受けた尾形乾山は、
遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と違い、
内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送ったそうです。

手塚充は、昭和17年の京都生まれで、手塚玉堂の五男。


作品名:乾山写松絵茶碗
作者:白井半七
備考:久田宗匠書付

乾山写松絵茶碗
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尾形乾山は、学問・茶事を藤村庸軒に、画を狩野安信に学び、
本阿弥光悦の影響をうけ、野々村仁清の窯で修業したそうです。
1699年、鳴滝(京都)に乾山焼を開窯、のち江戸入谷や下野佐野で作陶したようです。
辞世の句として、
「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」
が、残されているそうです。

白井半七は江戸・今戸焼を代表する陶家で、
初代白井半は、貞享年間(1684〜88)頃に、土風炉や種々の茶器を制作したようです。

久田宗也は、表千家流久田家十二代目。表千家十三代目千宗左に学んだそうです。
博識で知られ『茶の道具』『茶の湯用語集』などの著作があるとのこと。
不審庵理事をつとめたようです。


作品名:長次郎写検校
作者:佐々木昭楽
備考:桐箱入

長次郎写検校
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利休七種茶碗(長次郎七種)は、 千利休 が楽茶碗の創始者・長次郎に作らせた茶碗の傑作を特別種にした茶碗だそうで、
黒楽茶碗三種、赤楽茶碗四種から構成されているようです。

長次郎の代表的な茶碗として、黒楽には「大黒」「東陽坊」「雁取」「北野」「俊寛」などがあり、
赤楽には「無一物」「一文字」「太郎坊」「次郎坊」などがあげられるみたいです。

現存するのは「大黒」「東陽坊」「早船」の3つと、修復した「木守」だそうです。

以下に、この利休七種茶碗を簡単に説明します。
命銘の理由 備考
大黒(おおぐろ) 大ぶりな茶碗であるため。 黒楽茶碗。
旧鴻池家蔵、現在個人蔵、重要文化財。
別途「大黒」に関して記載しています。
東陽坊(とうようぼう) 利休 の門弟、真如堂の僧(東陽坊)が所持していたため。 黒楽茶碗。
鳥取。重要文化財、個人蔵。
別途「東陽坊」に関して記載しています。
鉢開(はちびらき) 托鉢をするという意味。鉢開き。鉢開き坊主。 黒楽茶碗。
別途「鉢開」に関して記載しています。
木守(きまもり) 来年もよく実る様にという祈りをこめて、
わざと木に1つだけ残しておく果実から見立てて。
赤楽茶碗。一応現存。
六人の門弟達に好きな物をそれぞれ取らせたところ、
一個の茶碗が残ったという銘の由来のある茶碗だそうです。
晩秋の柿の木の話にちなんで 利休 はこの茶碗に「木守」と銘うって、
ことのほか愛玩したみたいです。

官休庵三代目家元のころに、仕えていた高松の松平候に献上され、
代々の家元襲名茶事の折のみ、松平候から拝借し、
茶事が終了すれば外箱を作り、
藩侯に返す慣わしになっていたそうです。

ところが大正8年、官休庵九代目が松平家から
この木守を拝借し茶事を終えたあと、
なぜか松平家に戻された木守は高松へは帰らず
東京のお屋敷に保管されたそうです。

このあと関東大震災で大災に遭い、
幸い形だけは残ったものの、
丹彩な赤楽釉は窯変してしまったとのこと。

残欠を集めて楽家の弘入・惺入が二代にわたり修復したそうで、
これが、現存している「木守」なんだとか。

内箱に「真塗 金粉字形 千一翁宗守筆  利休所持 木守茶碗」
外箱に「桐 春慶塗 金粉字形 筆者千文叔 木守 茶碗」
総箱に「桐 白木 新規」
表に「木守御茶碗」
裏に「一翁書付 文叔外箱書付」
とそれぞれあるそうです。

伝来は、
武者小路千家→真伯宗守→高松侯松平讃岐守家
 →松平頼寿邸にて焼失。
早舟(はやふね) 京から早舟で取り寄せたという逸話から。 赤楽茶碗。畠山美術館蔵。
別途「早舟」に関して記載しています。
臨済(りんざい) 山の形を連想(京都臨済宗の五山)を連想させるため。 赤楽茶碗。
別途「臨済」に関して記載しています。
検校(けんぎょう) 検校(盲目の僧侶の最上位)に因んで。 赤楽茶碗。
別途「検校」に関して記載しています。


作品名:長次郎写大黒
作者:佐々木昭楽
備考:桐箱入

長次郎写大黒
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大黒にはクレーターのように見える凹みがあって銀河のようなんだとか。

本物の「大黒」の作行は、口端の起伏や抱え込みが穏やかで、
どうにも目立った箆跡は残さず、腰は穏やかな丸味をもち、
円形の小振りな高台は素直に削られているそうです。
黒釉は一方に艶を失った窯変を見せ、気品のある端正な姿は、
宗易型黒茶碗の典型作とされているみたいです。

初代楽長次郎作の「なり平」という黒楽茶碗が、
1997年4月9日のシンワアートオークションで7920万円で落札されたことがあるそうです。
(覚々斎、如心斎、了々斎箱で、久田宗利宛譲状添。天埜家売立目録所載。)

もし本物の大黒が出品されれば、数千万円〜数億円の値が付くかもしれませんね。

本物の「大黒」は重要文化財で、現在個人蔵だそうです。
寸法は、高さ:8.5cm、口径:11.5cm、高台径:4.7cmみたいです。
同じ長次郎作の「小黒」に対し、「大黒」と名づけたのだとか。

内箱蓋裏に
「大クロ 利休所持  少庵伝  宗旦 後藤少斎ヨリ 宗左へ来(花押)」(江岑宗左)
外箱蓋表に
利休大くろ茶碗」(随流斎)
とそれぞれあるそうです。

伝来は、
千利休千少庵千宗旦→後藤少斎→ 江岑宗左→三井浄貞→鴻池家
だそうです。

ちなみに、「大黒(だいこく)」と呼ばれる茶杓もあるみたいです。
杉木普斎藤共筒茶杓で、元節、太筒。

同じく「大黒(だいこく)」という茶杓で、こちらは、
「大黒の槌の拍子の 楽あそひ 大福大福 うたひ」
という歌から取られているようです。


作品名:長次郎写鉢開
作者:佐々木昭楽
価格:6,000円
備考:紙箱入

長次郎写鉢開
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江岑宗左 著『江岑咄之覚(こうしんはなしのおぼえ)』に、
「大徳寺の高桐院(こうとういん)にある
はちひらいという黒茶碗は、
細川三斎 が所持していて、
それから高桐院へおさまった」
とあるそうですが、
この茶碗は消失したといわれ、現存しないとか。

同じく長次郎作の「面影」はこの鉢開に面影がにているから付けられたのだそうです。
「面影」の内箱蓋裏の書付には、石川自安(宗旦門下)の
「細三ノ所持之鉢ひらきニよく似候由也」というのがあるんだとか。


作品名:長次郎写東陽坊
作者:佐々木昭楽
備考:紙箱入


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東陽坊ゆかりの茶室が京都建仁寺にあるそうです。

利休書付の銘「東陽坊」は門人の浄土宗真如堂(真正極楽寺)の住職、
東陽坊長盛だとか。
その茶室「東陽坊」は後、建仁寺本坊にうつされたようです。

伝来は、東陽坊長盛→本願寺→中井主水→武田杏仙法印→
 鴻池道憶(元禄10年)→鴻池善右衛門(万延2年)
だそうです。

疎安名物記によると、
昔、利休が招いて茶碗を作らせた朝鮮人の陶工なので、
朝鮮の「朝」の字をとって「朝次郎」という説もあるみたいです。

その姿は、丸く小振りな高台に広い畳付を有し、
膚はだはなめらかな黒釉が艶やかな光沢を放っているそうです。
これは、長年にわたって使われてきたからこそ生まれた光沢なんだとか。

口縁部は薄く、腰から高台、また、胴から口縁部にかけて、
ほとんど丸みがなく、目跡は五つ、渦兜巾はないようです。

見込みに広がる空間は深く、その形から、
長次郎茶碗の中でも最古格に属する作品と考えられているみたいです。

箱の蓋裏に 利休 自筆の書付があるそうです。


作品名:長次郎写検校
作者:佐々木昭楽
備考:紙箱入

長次郎写検校
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「このようなよい茶碗が長次郎のもとに残っていたとは、皆々検校殿よ」と 利休 が言ったとか。

検校というのは、元々は平安時代・鎌倉時代に置かれた寺院や荘園の事務の監督役職名だったようですが、
室町時代以降、盲官の最高位の名称として定着したそうです。

盲官というのは、琵琶(びわ)・管弦・鍼(はり)・按摩(あんま)などを業とした者に与えられた官名みたいです。

当道座(とうどうざ)とは、中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織のようで、
この階級は、最高位の「検校」から順に、「別当」「勾当」「座頭」と呼ばれ、
それぞれ更に細分化して合計73個に分かれるのだとか。

利休はどんな想いでこの茶碗に「検校」と名づけたのでしょうね?


作品名:長次郎写臨済
作者:佐々木昭楽
価格:8,000円
備考:紙箱入

長次郎写臨済
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口作りの曲線が京都の臨済五山を表しているようだということからこの名がついたようです。

底の部分に目跡あったそうです。

臨済は、伝来不詳とされていて、本物は紛失しているとのこと。謎の茶碗です。

五山というのは、
鎌倉末期頃:最初の五山選定
建武の新政時:京都中心の五山選定
南北朝時代:新たに京都に五山選定
室町時代:京都五山と鎌倉五山に分割
という流れがあったようで、
この「京都五山」が、
臨済の五山だと思われます。


作品名:長次郎写早舟
作者:佐々木昭楽
備考:紙箱入

長次郎写早舟
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利休 が茶会を催す際、わざわざ早船で運ばせてまで取り寄せたことから、この名がついたようです。
細川幽斎 や 古田重然 らが所望したが、 利休 の死後、結局は 蒲生氏郷 の手に渡ったとのこと。

本歌は継ぎがはいっていて、富士山みたいな釉薬の景色が入っているそうです。
ちなみに本歌とは、茶道具や茶室などで同形同系統の起源または基準となる作品のこと。

伝来は、
利休蒲生氏郷 →京、大文字屋宗夕→京、桔梗屋文右衛門→矢倉家→
 金沢、亀田家→大阪、藤田家→大原家→畠山記念館蔵。

寸法は、高さ:8.0cm、口径:11.5cmだそうです。

文献にもよるとは思いますが、
だいたい以下のような内容が記載されているとか。
利休大阪に在て早舟にて京より此茶碗を取り寄せたるに依り、
其後之えお早船と呼べり」

早舟は、当時の軍艦では、
大型の安宅船・中型の関船・小型の小早に分けた時の
関船にあたるでしょうか。

性能的には安宅船より攻撃力や防御力に劣るが、
小回りが利き、また速力が出るため機動力に優ったようです。
安宅船を戦艦に喩えるなら、関船は巡洋艦に相当する艦種になるとか。

一方、毛利水軍や村上水軍などが主力としていた軍艦は、小早だったようです。

江戸時代、大船建造の禁が発令されると、
早舟や小早が、速力の速い貨客船として、
大坂はじめ瀬戸内海諸港を往来したとのこと。


作品名:長次郎写風折
作者:佐々木昭楽
備考:桐箱入

長次郎写風折
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「風折」とは、茶碗の姿が風折烏帽子(かざおりえぼし)と似ていることによる銘なんだとか。
内箱蓋表に元伯宗旦による書付「長二郎、かさ折」とあるそうです。

「風折」は、比較的厚手の穏やかな起伏をもたせた丸い口造りで、
胴に一か所大きな窪みを付けた作行に特色が見られるようです。

底部は平たく腰を張った姿で、
高台は大振りで、低く平らな畳付きを持ち、
高台内には兜巾を付けず浅く削り込まれているそうです。

見込みは、懐広く、黒釉はカセているが一様に溶け、
腰から底部にかけて、茶褐色の窯変がまだらな釉調を見せているのだとか。

風折烏帽子は、平安風の高い立烏帽子が動きにじゃまになるので、
上部三分の一くらいを折り曲げることがあり、ここから生まれたもののようです。

カジュアルな烏帽子として利用され、室町時代には上級武士たちも用いたそうです。
やがてそれも公式化されて上皇と地下(じげ)が用いるものとされたとか。
上皇用は右折り、地下は左折りが原則のようですが、例外もあるみたいです。

烏帽子には「小結(こゆい)」と呼ばれる内側に付けた紐があり、当初は小結で髪に固定したのですが、
室町時代以降は小結の紐は単に飾りに近いものになり、掛緒で留めるようになるそうです。

掛緒は、和紙でこよりを作って呉粉を塗った「紙捻(こびねり)」が一般的のようですが、
蹴鞠の上達によって、それを理由に組紐を用いることもあったそうです。
四十歳以前は紫、以後は薄紫、五十歳以降は紺色などとされ、
現在の神職はいかなる場合でも紙捻を用いるようです。
風折烏帽子の掛緒は、上皇は組紐も用いましたそうですが、地下は常に紙捻なんだとか。

烏帽子には「錆(さび)」と呼ばれる表面の凸凹のしわがあるみたいで、
年齢が高くなるにつれ、また官位が高くなるにつれて錆は大きくしたそうです。
「錆」は、上から順に「大錆」「小錆」「柳錆」「横錆」となったようで、
風折烏帽子は、六位以下の地下がかぶったので、みな小錆なんだとか。

茶碗「風折」は、 利休 から 宗旦 に伝わり、高弟の山田宗偏に贈られたそうです。
現在、静嘉堂文庫蔵のようです。


作品名:汲出茶碗
作者:保庭楽入
備考:十牛図10入/桐箱入

汲出茶碗
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湯呑み茶碗の中でも、口径よりも高さが低いものを、
「汲出し湯呑」または「汲出し茶碗(汲出し)」というそうで、
円筒形で縦長のものを「長湯呑」ということもあるようです。

十牛図(じゅうぎゅうず)は、
禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したものようです。
内容は、以下のようになっているのだとか。
 尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
 見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
 見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
 得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
 牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
 騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
 返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
 入てん垂手(にってんすいしゅ) - 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、
 別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
ここで牛は人の心の象徴とされる、
または、牛を悟り、童子を修行者と見立てるのだとか。

二代目保庭楽入は信楽焼の陶芸家。
1957年から岩城兵衛に師事し、
1971年大徳寺管長から「壺中庵」を命名されたそうです。

三代目保庭楽入は、1965年信楽生まれ、
二代目保庭楽入に師事し、
2002年大徳寺管長の福富雪底から、陶印を賜り、三代目を襲名したそうです。


作品名:油滴天目茶碗
作者:桶谷定一
備考:紙箱入

油滴天目茶碗
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七種天目のひとつ「油滴」は、高台周辺を除いて全体に掛けられた漆黒の釉が、
内・外面の黒い地に銀色に輝く斑紋を浮かび上がらせ、
その美しさが油の滴のようであるところからの名前だそうです。

覆輪が金の油滴天目は、国宝・大名物(大阪市立東洋陶磁美術館蔵)、重文(九州国立博物館)などがあるみたいですが、
覆輪が無い油滴天目にも、名物(梅沢美術館・小堀宗慶書付)などがあるようです。

ちなみに七種天目は、
「曜変」「油滴」「建盞」「烏盞」「鼈盞」「能盞(玳玻盞)」「天目(只天目)」のことだそうで、
特に「曜変天目茶碗」は、天目茶碗の中でも最上級とされているようです。


作品名:瀬戸唐津茶碗
作者:松本鉄山
価格:8,000円
備考:紙箱入

瀬戸唐津茶碗
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唐津名物の一つ「瀬戸唐津」。
名前の由来は、尾張瀬戸の釉を用いるためとか、
瀬戸に酷似している唐津だからとかあるようです。

唐津名物の「瀬戸唐津」は、白土で白色釉を施し、
亀甲形の釉ひびがあって、そのひびが極めて大きいそうです。
平茶碗風で口縁に黒釉を施したいわゆる皮鯨が特色なんだとか。


作品名:大樋飴茶碗
作者:松雲窯喜仙
備考:桐箱入

大樋飴茶碗
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大樋焼は、石川県金沢市にある、340年余の伝統をもつ楽焼の脇窯だそうです。
加賀の河北郡大樋村で、窯を建てて藩の焼物御用を務めた「長左衛門」が、
稀有な茶の湯の道具として発展させたもので、
加賀藩からの手厚い保護を受け、現在に至っているようです。

大樋焼の色は、飴色が一番独特なのですが、これは、
初代長左衛門が加賀にくるとき、京の楽家より
「飴色以外の楽茶碗の色を使用することを禁じられた。」ためだそうです。

また、大樋の土が鉄分を含んで、大樋の飴色の発色に適していることや
抹茶の緑との配色の調和がとれていたこと、
北国の冬は長く寒いので、飴色の暖かい感じが多くの人に好まれたこと
などが挙げられるみたいです。

飴色にも、薄飴、飴、濃飴、飴黒、緑、黄、白、青など種類があるようです。

大樋焼で作られている茶碗の形としては、
「椀形」「平形」「筒形」「馬盥(ばだらい)形」「半筒形」
「馬上杯形」「四方形」「鉄鉢形」「聖形」などがあるそうです。


作品名:萩汲出茶碗
作者:松光山栄光
価格:10,000円
備考:15客揃/紙箱入

萩汲出茶碗
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汲み出しに入れるのは、白湯(さゆ)のほかに、桜湯・九重・香煎などがあるみたいですが、
ここでは、桜湯・九重・香煎の説明をしようかと思います。

桜湯(さくらゆ)は、塩漬けにしたサクラの花を湯に入れたもので、
がくを除いた花全体を梅酢と塩で漬け込むのだそうです。
神奈川県秦野市千村では江戸時代末期から生産を始め、
五分咲き程度の八重桜の晩生種関山を用いて、毎年4月中旬頃から加工しているようです。

九重(ここのえ)は、仙台の菓子屋、九重本舗玉澤が製造販売する和菓子の飲料だそうです。
九重本舗玉澤は、江戸時代に国分町に店を構え、仙台藩の御用菓子司だったようです。
九重は、細かなあられ球の粒々に、柚子・ぶどう・緑茶の風味をつけた糖衣を絡めたもので、
袋から粒々を取り出し器に入れた後にお湯または水を注ぐと、
糖衣が溶けて水に美しい色をつけ、あられが浮かびあがってくるみたいです。

香煎は、米または麦類を炒ってから粉末にしたもので、「こがし」ともいうそうです。
オオムギを原料とした麦こがし、俗に「はったい粉」と呼ばれるみたいです。
もち米でつくる小さいあられのことも香煎というようです。
大唐米(だいとうまい:イネの一品種で赤ばんだ米)を主材料に、
陳皮・サンショウ・ハトムギ・ウイキョウなどをあわせた香煎は、
江戸時代以前からあり、湯を注いで飲用していたとか。


作品名:数茶碗(利休梅)
作者:昌山
備考:10客揃/高さ7.5cm/口径12.5cm/紙箱入/少し大振り

数茶碗(利休梅)
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中国原産の利休梅は、明治時代に日本に渡来したそうです。
名前の由来は、茶花としてよく用いられるようになったことからその名があるようで、
千利休と直接の関係はないみたいです。


作品名:黒楽馬絵茶碗
作者:桂窯 大野桂山
備考:紙箱入

黒楽馬絵茶碗
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楽焼を考案した千利休は、黒色に特別な思いを持っていたのだそうで、
黒茶碗が抹茶の緑を一層引き立たせるのだとか。

黒楽は、専用の窯で1200℃〜1300℃で7・8分という短時間、
窯の中で還元作用により焼かれるみたいです。

一気に焼かれすぐ冷やされる「急温急冷」なため、
芯までは完全に火が通らず、表面の釉薬のみが溶けるそうです。

土の内部に空洞ができ、熱が逃げにくくなり、
他の陶器に比べ保温性に優れ、手に持ったときに
なんともいえない温もりと味わいを感じるようです。

神谷宗湛著『神谷宗湛日記』に、
豊臣秀吉は楽茶碗、とくに黒楽茶碗を好んでいなかったことが、
書かれているそうです。

秀吉自身が「樂」の金印を与えておきながら、
その茶碗にむしろ嫌悪感に近いものを抱いていたみたいです。

これは、利休のつくらせた楽茶碗には、
全国制覇に向かって支配権を強めていった秀吉と、
真っ向からぶつかり合う自由で開放的な精神性が宿されていた
とする説があるようです。


作品名:黒仁清海老絵茶碗
作者:宮地英香
備考:紙箱入

黒仁清海老絵茶碗
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「京焼」の代表的な陶工、野々村仁清の作品の特徴は、
唐呉須・呉器手・伊羅保手・刷毛目などの、
中国陶磁・朝鮮陶磁の釉法や国内各窯の手法をマスターし、
茶道具に鮮やかな色彩を取り入れたことなんだそうです。


作品名:乾山椿筒茶碗
作者:田中香泉
備考:紙箱入

乾山椿筒茶碗
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野々村仁清の弟子、尾形乾山の作品の特徴は、
透鉢(すかしばち)・蓋物(ふたもの)・猪口(ちょこ)・皿など、
食器類を量産し、兄の尾形光琳との合作をはじめとした、
自由な造形と大胆な図案なんだそうです。
乾山の器は乾山焼として元禄町民に愛されたのだとか。


作品名:赤楽筒茶碗
作者:九行
備考:紙箱入

赤楽筒茶碗
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千利休が茶道の為に考案し、楽長次郎に造らせた、
手捏ねによる楽焼の特徴は、
 ・「五鋒」や「五岳」と呼ばれている口造り、
 ・「茶筅摺り」や「茶溜まり」と呼ばれる茶碗の内部、
 ・抹茶を引き立てる、黒、赤、飴色の茶碗
などがあるそうです。

「五鋒」は、五つの山のように微妙な高低差が
ある口造りのことで、
お点前の時に茶碗の縁に、
茶杓・茶筅をのせかけた時に落ちるのを防ぐためと、
縁が単調にならないように、
というデザイン的な意味も兼ねているのだとか。

「茶筅摺り(ちゃせんずり)」は、
茶碗の内部に、少し段差を付けた造りのことで、
お茶を点てるときに、茶筅を動かしやすい様に、
作られているのだとか。

「茶溜まり(ちゃだまり)」は、
茶碗の底の方にある段差のことで、
茶を飲み干したあとの残りが、
自然とここに集まってくるように窪まされていて、
飲み終わったあとも見栄えが悪くなるのを、
防いでいるのだとか。


作品名:乾山竹絵筒茶碗
作者:平安松斎
価格:10,000円
備考:高さ8.2cm/木箱入

乾山竹絵筒茶碗
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筒茶碗を使った点前の特徴は、
茶筅通しと茶巾の使い方と、
左横に立てかけて茶杓・茶筅を仕込むことでしょうか。

茶筅通しの場合は、
お茶を点てるお仕舞いの茶筅通しの時、
茶碗をかたむけるそうです。

茶碗を拭くときも、
茶巾を人差し指と中指とではさむようにして、まず底を拭き、
茶碗のふちにかけて、いつものように三度半拭いたあと、
茶巾を茶碗からはなさず、下において、
茶巾をはなして、上部をすこし折って、釜の蓋の上に置くみたいです。

これは、いつもの茶碗の拭き方のように、縁から先に拭くと、
底を拭くとき、指や手先が、茶碗の内部にふれるからなんだそうです。

しぼり茶巾という扱いも特徴で、
茶巾を水屋でしぼったままの姿で茶碗に入れ、
釜の蓋をあけると、それを横一文字に蓋の上に仮置きして、
茶碗に湯を入れ、茶筅を茶碗に入れて、そのままにしておき、
茶巾をとって、いつものようにたたみ、蓋の上に置き、
茶筅通しをするそうです。

これは、筒茶碗は寒い時に使用するので、
茶巾をたたむあいだ、湯が入っているから、
茶碗が少しでも温まるのだとか。

利休百首22に
「筒茶碗深き底よりふき上がり 重ねて内へ手をやらぬもの」
とあるようです。


作品名:備前焼茶碗
作者:金重利陶苑
価格:10,000円
備考:桐箱入

備前焼茶碗
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平安時代に作られた須恵器(すえき)から発展した備前焼。
ここでは、須恵器について説明しようかと思います。

「須恵器」は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器で、
青灰色で硬いそうです。
同時代に「土師器(はじき)」という弥生式土器の流れを汲む素焼きの土器があったのですが、
実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下だったそうです。

古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられるみたいです。
古墳時代初頭は古墳からの出土に限られるのですが、
普及が進んだ後期になると、西日本の集落からも出土し、
西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という違いが現れるのだとか。

奈良時代になると、各地方で国分寺の瓦を焼成するために、
瓦窯とともに須恵器焼成窯が造られるようになり、
須恵器生産は、東北地方にまで達するそうです。

平安時代には、これまで須恵器生産が盛んだった西日本で、
一郡一窯の体制から一国一窯へ集約されるのですが、
逆に、東日本では生産地が増加するそうです。

須恵器の生産は、九世紀末には衰退し、
土師器系の土器にとってかわられる形で、十世紀に絶えるみたいです。


作品名:赤楽馬上杯
作者:川崎和楽
備考:紙箱入

赤楽馬上杯
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馬上杯(ばじょうはい)は、昔、遠路を旅する時、
馬上で酒を飲みやすい形にした杯のこと。
または、騎馬民族が、馬の上でお酒を飲みやすいように
考案した杯といった説があるようです。

馬上杯の長い高台(こうだい)が、その名残だそうで、
そこを握って酒を飲むものなのだとか。

ただ、茶道では、茶碗として使用するみたいです。

山形県米沢市の上杉神社稽照殿には、
上杉謙信が酒杯として騎乗時に愛用した
七宝焼の馬上杯などがあるそうです。


作品名:片口茶碗(鉄絵)
作者:藤井謙次(東峰窯)
備考:木箱入

片口茶碗(鉄絵)
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鉄絵というのは、焼物の素地に、鉄を含有する顔料で、釉下に絵文様を描く技法だそうです。
鉄絵は黒〜茶褐色に呈色するとか。
一般的には、釉は透明釉だが、青磁釉・色釉が施される場合もあるようです。

鉄を釉下彩として用いた例は、宋時代、磁州窯の製品があるそうで、
中国では釉下黒彩や白地黒花と言うみたいです。

鉄絵の陶磁器は、14世紀ごろの安南や宋胡録にも多く見られるようです。
朝鮮では、15世紀〜16世紀にかけて、化粧土の上から鉄絵具で描いた粉青沙器鉄絵があり、
16世紀から17世紀にかけての白磁鉄絵があるみたいです。
この朝鮮時代の鉄絵粉青は「鶏龍山」の名で親しまれているとか。

日本の茶人は、粉青沙器鉄絵を「絵粉引」または「絵刷毛目」、
白磁鉄絵を「鉄砂(銹絵)」と呼んだそうです。

日本の鉄絵は、志野と唐津が最も早いようで、ともに天正年間まではさかのぼるみたいです。

志野の鉄絵は、釉が長石分の多い失透性のものであるため、
唐津ほど文様がはっきりと現れず、見え隠れする文様が味わい深い趣きを呈するとか。

唐津は朝鮮の粉青沙器鉄絵や白磁鉄絵の系統に連なると考えられるようです。

染付のような細密な描写はみられないものの、
量産品ゆえの勢いのある筆づかいや、
民窯ならではのユーモラスな表現には独特の魅力があるそうです。


作品名:黒楽茶碗
(長次郎写カセ釉)
作者:佐々木昭楽
備考:桐箱入

黒楽茶碗
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長次郎による本歌「カセ釉」を写した黒楽茶碗です。

カセは、長い間、土中・水中などにあったことで、
釉の表面が風化し、艶を失ってガサガサした状態のことだそうです。

カセ釉は、五代目樂吉左衛門(宗入)が創案したものみたいです。
宗入が活躍した時代は町人文化が隆盛を極めた元禄年間(1688年〜1704年)だそうで、
ちょうど利休没後100年にあたるのだとか。

当時の茶風は利休への憧れと共に、
侘茶への回帰が見られたようで、宗入は、長次郎の作風(利休茶碗)に、
深く傾倒したそうです。

それまでのノンコウにおいて得られていた滑らかな黒釉は、
再び光沢を失い、モダンな装飾は消し去られ、茶碗の寸法も小さくなり、
長次郎を一直線に目指した重厚な存在感が感じられるのだとか。


作品名:黒楽茶碗
作者:伊藤桂楽
備考:桐箱入

黒楽茶碗
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ここでは、「ノンコウ」について説明しようと思います。

ノンコウというのは、三代目樂吉左衛門(道入)の別名だそうです。
彼は、歴代随一の名工とされているようで、
幕釉・飴釉・白鼈甲釉・蛇蝎釉・砂釉・朱釉等の、
変化に富んだ釉技を創出したみたいです。

艶やかな光沢を放つ黒釉を区切って黄釉で抽象的な文様を描く等、
長次郎が否定した装飾への道を切り開いたと言えるのだとか。

本阿弥光悦とも親交が深く、光悦の黒樂茶碗の、
殆どはノンコウの釉薬や窯によって焼成されたと伝えられているそうです。

ノンコウの名前の由来は、
千宗旦が道入に花入れを贈り、これに「のんこう(乃無己)」と銘し、
道入を訪問するのを「のんこう」へ行くと言ったという説や、
江戸時代初期の男性の髪形に「のんこ」があり、
それに関連していたという説があるようです。

ノンコウの茶碗に関しては、下記で説明しています。
ノンコウ七種一覧
ノンコウ後窯七種一覧
ノンコウ加賀七種一覧


作品名:黒楽茶碗
作者:佐々木松楽
備考:紙箱入

黒楽茶碗
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ここでは、遠州七窯を説明しようと思います。

遠州七窯は、江戸時代中期の茶人、小堀遠州が、
全国津々浦々の窯場から、自分好みの茶器を焼いていたことで賞賛した、
七つの産地の総称なのだとか。

この遠州のお目にかなうということは、
当時としては非常に誉れ高いことであり、
これらの産地は一躍、天下に名を轟かせたようです。
そのうちの幾つかは、遠州が直接赴いて、茶器を生産しているそうです。

遠州七窯の産地は以下の七つみたいです。
遠州七窯場所備考
志戸呂焼(遠江:遠州)静岡県島田市金谷天正16年には徳川家康から朱印状が授けられ、特産品として奨励される。
膳所焼(近江)滋賀県大津市膳所黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。
朝日焼(山城)京都府宇治市名前の由来については、朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が旭光を思わせるという説がある。
赤膚焼(大和)奈良県奈良市、
大和郡山市
桃山時代に大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯した。
古曽部焼(摂津)摂津国古曾部絵唐津、三島手の写し、赤絵などに特色がある。
「古曾部」の印を用いる。
上野焼(豊前)福岡県田川郡香春町、
福智町、大任町
特徴は他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であること。また使用する釉薬も非常に種類が多い。
高取焼(筑前)福岡県直方市、
福岡市早良区など
朝鮮出兵の際に黒田長政が陶工、八山(日本名・八蔵重貞)を連れ帰って焼かせたのが始まり。開窯は1600年。
ただし、古曽部ではなく、伊賀を入れて七窯とする説もあるとか。

このうち、古曽部焼は明治末に廃絶、他の産地も決して規模は大きくなく、
このうち経済産業省指定伝統的工芸品に指定されているのは、
上野焼だけみたいです。

しかし、これらの産地は遠州七窯というだけで知名度があり、
その喧伝は今日にも十分通用するものであるようです。


作品名:萩焼茶碗
作者:天鵬山 廣瀬淡雅
価格:5,000円
備考:紙箱入

萩焼茶碗
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ここでは、萩焼の有名作家について少々説明しようと思います。

萩焼の技術は、1957年に文化財保護法に基づく選択無形文化財に選択されたそうです。
2002年1月には経済産業省指定伝統的工芸品の指定を受けたとか。

以下に、萩焼の有名作家をまとめてみました。
作家名何代目備考
坂高麗左衛門現在十三代目山口県萩市の萩焼窯元、坂窯の当主が代々襲名している。
坂倉新兵衛現在十五代目山口県長門市深川の萩焼窯元・坂倉家の当主が代々襲名している。
三輪休雪現在十二代目山口県萩市の萩焼窯元・三輪窯の当主が代々襲名している
三輪休和十代三輪休雪人間国宝。
1942年に川喜田半泥子、金重陶陽、荒川豊蔵らと「からひね会」を結成する。九代休雪・三輪雪堂の次男
三輪壽雪十一代三輪休雪人間国宝。
旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男。
田原陶兵衛現在十三代目田原家は赤川助左衛門の系統を引く深川御用窯(深川萩)の陶芸一族としての名跡。
吉賀大眉初代萩焼作家協会会長を務めた。
1982年日本芸術院会員。1986年勲三等瑞宝章、1990年文化功労者。
坂田泥華現在十五代山口県長門市深川にて代々継承されている萩焼の伝統名跡名家陶芸家。


作品名:赤楽茶碗
作者:佐々木昭楽
備考:紙箱入

赤楽茶碗
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茶碗の名所(などころ)について説明しようと思います。

名所というの、局所ないし部分の名称のことみたいです。
茶碗の名所で、特に重要な部分は、
「口造り」「胴」「高台」の三重点だそうです。

ここでは、この三重点のうち、
「口造り」についてのみ見てみようと思います。


■茶碗の口造り
茶碗の形を決定する上で重要な部分で、
端反茶碗・三角口・四方口・
筆洗(ひっせん)形・おしゃべり口などの種類があるようです。

茶碗の場合、天覆地載という形で、胴以下よりも、口造りの大きい方が、
形の上からいって見た目に美しく、
安定感に富み、悠久さといった感があるとか。

茶碗の鑑賞価値を左右する部分で、優美・端正・尊厳といった感覚は、
口造りの良さから来るものみたいです。

口造りは、口唇当たりが良いことが重要になるそうで、
厚薄中庸を得た厚みを持っていることが求められるみたいです
口造りが極端に内とか外に反っていると、
茶の流れ込み具合に悪影響を及ぼすため、
少しの端反とか一重口がもっとも無難となるようです。

以下に、口造りの種類をまとめてみようと思います。
大区分種類備考
自然なもの井戸形朝顔形に胴から自然に立ちあがって外開きに収まったもの。
井戸茶碗。
端反口井戸形の口造りを、意識的・半意識的に、より外部に反らせたもの。
一重口胴から垂直に立ちあがって、そのまま口造りとしたもの。
筒茶碗・半筒茶碗など。
寄せ口
抱え口
端反口とは反対に、内側へ向けて反らせたもの。
塩笥
技巧的なもの多角形(三角など)作者が意識して、口造りの形を作るもの。
すっぽん口口辺でわずかに立ちあがるかに見せて、口縁に納めたもの。
天目茶碗。
織部口右の口辺下の立ちあがりが高く、口辺下を帯状に凹ませて、それから玉縁なりに口造りを納めたもの。
摘み出し
桃形・州浜
口造りの一部または三・四か所を摘み出したもの。
朝鮮の金海。
切箆(へら)蛤端に納めたその尖りに横箆を加えて、横一文字に切り取ったもの。
光悦の作品や志野焼
筆洗元来、書画用の筆洗だったものを茶碗に転用したもの。
楕円形の口造りの長い部分に、向かい合って切箆がはいったもの。
切箆の入れ方は、二通りある。
五岳口造りを一周して、大体五か所ほど高くなったもの。
楽茶碗に限っての名称。
歪つ口造りが正円でも、また洲浜形や多角形でもなく、不自然な歪みをなしているもの。
織部の茶碗に多い。
樋口口縁の天端に細い筋を入れたもの。
ただし、茶が飲みにくく、いい感じではない。
出雲焼や桜井焼など。
片口口造りの一部が、それよりやや下がったところに大きからぬ注ぎ口のついたもの。
はじめは台所用品の片口であったものの中から、手ごろな大きさと、茶味のあるものを見出して茶碗に転用したもの。
偶然なものべべら口轆轤で挽きあげる途中、口縁に含まれていた小石や砂が、指頭で弾き飛ばされて、この部分の土がさけたのを、そのままにして焼きあげたので、景色の一つとして賞美する。
朝鮮の伊羅保や、伊羅保を模した出雲焼。
食い違い轆轤で形成中、何かの拍子で口造りが堅に切れたのを、指頭で重ね合わせて焼きあげた、その痕跡の残ったものを景色として賞美する。
光悦のへげめ。


作品名:仁清写萩秋草の絵茶碗
作者:手塚充
備考:桐箱入

仁清写萩秋草の絵茶碗
※画像を押すと拡大できます。
元々の「七草」は秋の七草を指し、
小正月1月15日のものは「七種(ななくさ)」と書くそうです。

その後、一般には7日正月は「七草」と書くようになり、
現在では元々の意味がわからなくなり、風習だけが形式として残ったみたいです。

秋の七草は、
女郎花(おみなえし)・尾花(おばな=すすき)・桔梗(ききょう)・撫子(なでしこ)・
藤袴(ふじばかま)・葛(くず)・萩(はぎ)
だそうです。

その由来は、山上憶良が詠んだ以下の2首みたいです。
・秋の野に 咲きたる花を 指折り 
 かき数ふれば 七種の花(万葉集・巻八 1537)
・萩の花 尾花 葛花 
 瞿麦の花 姫部志また藤袴 朝貌の花(万葉集・巻八 1538)

この中で、朝貌の花というのが桔梗にあたるそうですが、
朝顔、木槿、昼顔などだという説もあるとか。

春の七種(ななくさ)と違い、秋の七草に直接何かをする行事は特にないようで、
秋の野の花が咲き乱れる野原を「花野(はなの)」といって、
花野を散策して短歌や俳句を詠むことが古来より行われていたのだとか。


■夏の七草
1945年6月20日、日本学術振興会学術部・野生植物活用研究小委員会が、
戦時中の食糧難の時節にも食べられる植物として、
7種類を「夏の七草」に選定したそうです。

藜(あかざ)・猪子槌(いのこづち)・ヒユ・滑ヒユ(すべりひゆ)
白詰草(しろつめくさ)・姫女オン(ひめじょおん)・露草(つゆくさ)

戦後の1946年9月10日、雑誌と同じ内容のパンフレットが出版されたのだとか。


■秋草と虫の音
若山牧水の著書に『秋草と虫の音』があるそうです。

冒頭、「秋草の花のうち、最も早く咲くは何であらう。萩、桔梗、などであらうか。」
と始まり、あちらこちらに短歌が散りばめられているようです。

中程に「薄の花(ススキ)を虫にたとへたならば先づこほろぎではあるまいか。」
とあり、「サテいつ聞いてもしみじみさせられる」と述べているとか。

最後に「家人の ねむりは深し 蚊帳にゐて 鳴くうまおひよ こゑかぎり鳴け」
で締めているみたいです。

1885年、宮崎県生まれの若山牧水は、
18歳のとき、号を牧水としたそうです。
由来は
「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。
牧はまき、即ち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから来たものであった」
だそうです。

旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に歌碑があるようです。
秋に関する歌もいくつも詠んでいて、
詩集『秋風の歌』の他に
 ・白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり
 ・静けさや悲しきかぎり思ひ倦じ対へる山の秋の日のいろ (『海の声』より)
 ・秋の風木立にすさぶ木のなかの家の灯かげにわが脈はうつ (『海の声』より)
 ・山恋しその山すその秋の樹の樹の間を縫へる青き水はた (『海の声』より)
 ・机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ (『海の声』より)
 ・秋かぜや碓氷のふもと荒れ寂びし坂本の宿の糸繰の唄 (『独り歌へる』より)
 ・雲去ればもののかげなくうす赤き夕日の山に秋風ぞ吹く (『独り歌へる』より)
 ・なにものに欺かれ来しやこの日ごろくやし腹立たし秋風を聴く (『独り歌へる』より)
 ・地のそこに消えゆくとおもひ中ぞらにまよふともきこゆ長夜こほろぎ (『独り歌へる』より)
 ・秋晴のふもとをしろき雲ゆけり風の浅間の寂しくあるかな (『路上』より)
 ・秋風のそら晴れぬれば千曲川白き河原に出てあそぶかな (『路上』より)
 ・松山の秋の峡間に降り来れば水の音あをしせきれいの飛ぶ (『路上』より)
 ・尺あまり延びし稚松に松かさの実れり秋の山の明るさ (『路上』より)
 ・汽車のうちも光り明るむここちして四方の雨しるき秋草の原 (『さびしき樹木』より)
 ・中高にうねり流るる出水河最上の空は秋ぐもりせり (『さびしき樹木』より)
 ・秋立ちてはや幾日ならむなにしかもかの西の風は吹き立たざらむ (『渓谷集』より)
 ・うごきなきすがたに見えて遠峯に雲こそかかれ秋のしののめ (『渓谷集』より)
など、たくさんあるようです。


■懐古園
長野県小諸市にある城跡に、市営公園小諸城址懐古園があるそうです。
この懐古園内、千曲川を望む展望台近くには、文学碑があるようで、
島崎藤村の『千曲川旅情のうた』の歌碑と、
若山牧水の短歌
・かたわらに 秋草の花 語るらく 
 ほろびしものは なつかしきかな
が刻まれた二の丸の城石があるみたいです。

「傍らにある秋草の花が言うには、
滅びてしまったものは懐かしいものだなあ」
という意味のようです。

懐古園という名や、秋草が風にそよぐ情景、
さらに国破れて山河のみが残った景色を見て、
若山牧水が感じたのは、どういった感情だったのでしょうね。


作品名:青楓掛分け茶碗
作者:橋本紫雲
価格:12,000円
備考:桐箱入

青楓掛分け茶碗
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掛分けは、二種以上複数の色釉を左右、あるいは上下に流掛けしたり、
施釉したりしてデザイン・発色の変化を求めたものだそうで、
本作品は、黒と白の二色に分けられているようです。

青楓(あおかえで)は、楓(かえで)の若葉のことで、夏の季語だそうです。

楓と椛(もみじ)は、どちらもカエデ科カエデ属の植物で、
植物学的には区別はしないみたいです。
通常は、カエデの仲間の特にきれいな種類を「椛」と呼ぶようです。


■楓と椛の語源
「楓」の語源は「蛙の手」⇒「かえるで」⇒「かえで」
から来ているそうです。

木偏に風と書く「楓」、元々、中国にカエデと良く似た、
マンサク科の「楓(フウ)」というのがあるそうで、
日本人が勘違いして「楓(カエデ)」としたのが始まりだそうです。
中国でカエデは「槭」と書くそうです。
木偏に親戚の「戚」みたいです。

「椛」の語源は諸説はあるそうで、
 ・揉んで染め出す紅色「もみ」が語源で、
 動詞「もみづ」は紅葉することとする説。
または、
 ・紅花から染料を「揉み」出すと、紅や黄色に変化するため、
 「もみ」が「紅」を指すようになり、楓の紅葉(こうよう)も、
 この紅花から染料を抽出するときの色の変化と類似しているので、
 「もみずる」が「紅葉(もみ)ずる」となり、
 名詞化して「もみじ」になったとする説。
などがあるようです。


■紅葉(こうよう)の仕組み
楓の葉に含まれる色素には、緑色のクロロフィル(葉緑素)と、
黄色のカロチノイド、赤色のアントシアニン(糖から出来る)があるそうです。

夏場は、クロロフィルが多いため、葉は緑色ですが、
秋になると、クロロフィルが分解され始め、
黄色が目立ってくるようです。

イチョウの葉はその典型例で、
緑色⇒黄色と綺麗に変色するみたいです。

また、楓が赤くなるのは、
光合成で生産された糖が、秋が近付くにつれ、茎に移動できなくなり
糖が葉に留まることで、アントシアニンが作られ、赤くなるそうです。

なぜ、糖が茎に移動できなくなるかというと、
植物は葉を落とすための準備を始める時、
葉柄の付け根にコルク質の離層という組織がつくられるためだからだとか。
この離層で、物質の行き来ができなくなり、
葉はやがて、離層のところで切り離されて落葉するそうです。

橙色の葉は、黄色と赤色を混ぜると橙色になるところからできるみたいです。

ちなみに、イチョウは、アントシアニンを生成しないため、
赤くはならないそうです。
理由は、遺伝子に関係あるとかないとか。


作品名:萩焼茶碗(白釉)
作者:松唐山
寸法:高さ9cm/口径14cm
備考:桐箱入

萩焼茶碗(白釉)
※画像を押すと拡大できます。
萩焼は、山口県萩市一帯で焼かれる陶器ですが、
この萩市の「はぎ」という名の由来は、
「市花であるツバキの読みが転訛して、ハギになった」
という説があるようです。

司馬遼太郎著の幕末小説『世に棲む日日』『花神』は、
この萩市が舞台になっているそうです。

萩市中心部は、日本有数の規模を誇るデルタ地帯に発展し、
旧・川上村から流れる阿武川(あぶがわ)は、川島地区で2つに分かれ、
橋本川と松本川となって日本海に注ぐようです。
また、両河川からは新堀川、藍場川といった小河川が分岐し、
市街を流れているのだとか。


■萩城(指月城)
毛利輝元が1604年、山口県萩市に築いた城で、
指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と、
山頂にある山城(詰丸)で構成されていたみたいです。

指月山は、標高143mの山で、岩相は花崗岩だそうです。
城内の山として長く人手が入らなかったため、
シイノキ・タブノキ・クロガネモチ・カゴノキ・
イスノキ・クスノキが混生する暖地性原生林となっていて、
1971年に、国の天然記念物に指定されたとか。
サザンカ・オガタマノキ・カカツガユが自生している他、
ミカドアゲハの中国地方唯一の生息地だそうです。


作品名:琉球焼茶碗
作者:島袋常一(いとまん窯)
価格:10,000円
備考:木箱入

琉球焼茶碗
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沖縄県の焼物には、「琉球焼」と「壺屋焼」の二種類があるようです。

琉球焼は、琉球(沖縄)の焼物だそうで、
1893年に金城宮清が、琉球焼の技法を確立したようです。
ただ、壺屋焼の組合からは、この発祥に異論も出ているのだとか。

一方、壺屋焼は、沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる陶器みたいで、
1682年、尚貞王の時代に、湧田窯・知花窯・宝口窯の三ヶ所の窯を、
牧志村の南(現・壺屋)に統合して、作った窯場が発祥のようです。


■壺屋焼と琉球焼の論争
沖縄県(琉球)の焼物というと、琉球焼と思いがちですが、
歴史は壺屋焼の方が古いようで、このことから、
壺屋焼と琉球焼の論争が起きているみたいです。

1974年に沖縄県は、「伝統工芸製品」としてまず「琉球焼」を指定するそうです。
理由は「県内の焼き物の総称」だったようです。

その翌年、壺屋陶器事業共同組合が設立され、
1976年に「壺屋焼」が、通産大臣より「伝統的工芸品産業」に指定されると、
少し話がおかしくなっていくようです。

1998年、県は「伝統工芸製品」として「琉球焼」と「壺屋焼」の両方を再度指定するみたいです。
「壺屋組合では文化の側面に力点を置いているが、工芸産業振興の側面も不可欠」
という理由からだったようです。

すると「壺屋焼」側は、
「琉球焼は30年足らずの歴史(1998年時点)。
伝統としての重みをどうとらえているのか理解できない。」
と猛反発したそうです。
理由は、
「琉球焼の技法の確立を金城宮清氏の名前を出して1893年としているが、
宮清氏は直接陶芸にかかわっておらず、
100年を超す伝統を有するかのように論ずるのはおかしい」
ということだったみたいです。

観光文化局工芸産業課では、
「壺屋焼が本流であることは間違いなく、
そのためにも今回、壺屋焼と琉球焼を区分した。
琉球焼といっても何も組合の陶工だけとは限らない。」
「私たちに言わせれば残念なこと。沖縄県の窯業全体の振興を考えてほしい。
むしろ、壺屋の方で門戸を開き、県全体の振興へ先頭に立つべきだろう。」
と言ったそうです。

2008年、壺屋陶器事業共同組合は、他の陶器との差別化を図るため特許庁に出願、
「壺屋焼」の地域団体商標の認定を受けるようです。

現在、沖縄で焼かれる陶器のうち、
壺屋陶器事業共同組合に所属している窯元のものだけが、
「壺屋焼」と認められ、その他の焼き物は「琉球焼」と言うことになっているのだとか。

このことから、壺屋陶器事業共同組合に所属していない、
壺屋地区で焼かれた焼物は「壺屋焼」ではなく「琉球焼」という
おかしな話になっているみたいです。


作品名:萩焼茶碗
作者:小野光臣(椿秀窯)
備考:桐箱入

萩焼茶碗
※画像を押すと拡大できます。
萩焼のはじまりは、1604年に藩主毛利輝元の命によって、
朝鮮人陶工、 李勺光(山村家)・李敬(坂家)の兄弟が、
城下で御用窯を築いたことによるようです。

萩焼の特徴は、「陶土」「作風」「高台」にあるそうです。

■萩焼の陶土
萩焼は、目の粗い土を使うため、浸透性・保水性・保温性が高く、
土と釉薬の収縮率の違いによりできる表面の細かなヒビ(貫入)から水分が浸透し、
器の中から表面にまで至るのだとか。

この浸透により、使い込むほどに器の色合いがだんだんと変化するそうです。

萩焼の土は、山口県防府市の大道(だいどう)で採掘された「大道土」、
山口県萩の沖にある見島(みしま)で採れる、鉄分の多い「見島土」、
福栄村福井下金峯で採れる細かな砂質の白色土「金峯土(みたけつち)」
などを使うそうです。

例えば、大道土の場合、
砂礫(されき)混じりの、可塑性に富んだ土で、 耐火度もあり、青白色みたいです。
粘り気が少ないので、やや扱いに注意が必要だとか。

加工は、長い年月をかけて出来上がった自然のままの粘土の状態に手を加え、
精製し、使い易い状態に加工するみたいです。

焼きあがりは、薄黄土色になるようですが、
酸化・還元・別の土(見島土とか)との混合などで、色が橙色に発色したりもするそうです。


■萩焼の作風
土の風合いを生かした素朴な作風で、絵付けなどの装飾はほとんどしないようです。

土の配合・釉薬の掛け具合・ヘラ目・刷毛目などに、
焼成の際の炎による偶然の効果などが加わり、独特の味が生み出されるとか。

色彩も大道土の色を生かした肌色から枇杷色、
見島土の色を生かした褐色や灰青色・藁灰釉による白色など、
比較的限られた色なのだとか。


■萩焼の高台(こうだい)
「切り高台」や「割り高台」と言う、高台の一部を切り取るのが特徴だそうですが、
萩焼だからと言って、全てが割り高台というわけでもなく、
割り高台だからと言って、必ずしも萩焼というわけではないみたいです。

ただ、茶陶として発展した萩焼は、
茶碗の見所のひとつである高台に造形的表現を追求し、
それが印象的であったことから特徴とされるようになったのだとか。


作品名:紙屋写茶碗(光悦写)
作者:佐々木昭楽
備考:大徳寺松長剛山書付  桐箱入

紙屋写茶碗(光悦写)
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本阿弥光悦の楽茶碗、光悦七種のひとつで、
飴楽茶碗「紙屋」の写しのようです。

銘の由来は、博多の茶人紙屋(神屋)宗湛の所蔵であったところからみたいです。

本歌は黒塗りの内箱蓋表に金粉字で「光悦焼」とあるそうです。
光悦の手捏ね茶碗独特の作振りなのだとか。

伝来は、紙屋→酒屋→山田→市田みたいです。


■本阿弥光悦と作陶
茶の湯は、古田織部に師事したようです。

1615年、織部が自害されられた年、光悦(59歳)は、
徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の芸術に集中できる空間を与えられ、
芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとしたとか。
その後、約20年間、この地で創作三昧の日々を贈るそうです。

光悦の呼びかけに応え、多くの金工・陶工・蒔絵師・画家、
創作活動を支える筆屋・紙屋・織物屋らが結集したようです。
光悦は、この「光悦村」の経営と指導に当たったみたいです。
家屋敷も56軒あったとか。

陶芸は、本職ではなく、外野から参加している分、
自由な発想で個性あふれる茶碗を生み出したようです。

作陶は楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受け、
手捏ねの茶碗を作り、茶碗の箱に自分の署名を入れたそうです。
この、製作者が署名を入れる行為は、光悦が初めてだったようです。

国宝の白楽茶碗「不二山」(サンリツ服部美術館蔵)は、
本阿弥光悦が、嫁に行く娘に与えたみたいです。

ちなみに、国宝に指定されている茶碗は2作品だけで、
もうひとつは、志野茶碗「卯花墻」(三井記念美術館蔵)だそうです。

光悦の赤楽筒茶碗『雪片』の写しは、なんでも鑑定団で50万円の値を付けたようです。
中島誠之助曰く、寸法といい、形態といい、ほぼ同じで、
口作りがぎざぎざになっており、
胴をぐるりとへらで面取りしているそうです。
そして腰のところに火割れがあり、
これも光悦が自然の火割れをかえって面白いとしたのを写したものだとか。
高台が少しひしゃげていて、これもそっくりなんだそうです。

光悦は絶対、茶碗には、名も印も入れない人物なので、
写しである証拠に、茶碗に銘を入れたようです。
誰の作かはわからないそうですが、光悦の死後、
その遺徳を偲ぶ人が忠実に写したものなのだとか。


作品名:黒楽茶碗
作者:桂窯
備考:木箱入

黒楽茶碗
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桂窯は、古くより神社仏閣の瓦を作っていた窯の流れをくむ、
土風炉師の寄神崇白が始めたものだそうです。

崇白は、国宝などの再建の折の美術瓦を製作し、
趣味の茶花道を通じて土風炉・茶碗なども手がけ、
昭和15年ごろに、京都市西京区樫原鴫谷2に、窯を築いたのがはじまりだとか。

崇白に師事していた檜垣崇楽が、茶碗を主とした窯として継ぎ、
初代亡き後は、妻(崇白の長女)が二代目崇楽を名乗り現在に至っているようです。

崇楽以下、青子、良多などが作陶しているとか。


作品名:嶋台茶碗
作者:佐々木松楽
価格:5,000円
備考:金銀ハゲ有り/
桐箱入/中古品

嶋台茶碗
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嶋台茶碗は、井戸形に開き金銀の箔を置いた楽茶碗で、
縁起を祝う茶事に重ね茶碗として用いられるようです。
好み物としては、
・表千家七代如心斎好(楽長入作)
・表千家十代吸江斎好(楽旦入作)
・裏千家十一代玄々斎好(楽慶入作)
などがあるようです。

裏千家宗家の初釜で家元が練る濃茶には、
「三都茶碗」というのがあるそうです。

「三都茶碗」は、楽慶入作の黒・赤・白の三椀で、
裏千家十一代玄々斎宗室が、それぞれ、
みやこ・あづま・なにわ
と直銘したみたいです。
三つ重ねで使用される嶋台茶碗だとか。


■重茶碗(かさねぢゃわん)
ここでは、重茶碗について、簡単に説明しようかと思います。

重茶碗は、連客の単位が多くなってきたことで、
一碗では濃茶を練ることがむずかしい場合に、
茶碗を2碗以上重ねて用いるようになったお点前だそうです。

幾人から重茶碗にするかは、客組や茶碗の大きさによって異なるようですが、
5〜6人までは一碗で練る方が風情があるとされているみたいなので、
それ以上の人数になるでしょうか。
また多人数の場合、三枚重ねにする場合もあるとか。


作品名:黒楽茶碗
作者:トム・スミス(カナダ在住)
価格:20,000円
備考:木箱入(共箱ではありません。)

黒楽茶碗
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トム・スミスは、アメリカ生まれの人のようです。
大学・大学院共にアメリカで学んだ後、
カナダのニューブランズウィック州の州都
フレデリクトンへ移住するのだとか。

1971年 フレデリクトン高校で教鞭を取り、
その後、ニューブランズウィックの大学で、美術(陶芸)の先生になるみたいです。
以降、カナダの陶芸家として有名人になっていくのだとか。

1992年 Strathbutler賞受賞するそうです。
この賞は、ニューブランズウィック州に貢献した芸術家に贈られる賞みたいです。
2年ごとにあるようで、賞金は25,000ドルなのだとか。

1999年 カナダ王立協会の芸術部門に選ばれたようです。
これは、1882年当時、カナダ総督だった
ローン侯爵ジョン・キャンベルにより設立されたもので、
メンバーには、世界標準時の提唱者や、著名な医者などがいたそうです。
1883年 イギリス国王の認可を得て、王立(カナダ王立協会)になるみたいです。
現在は、芸術・科学に業績をあげた約1800人が、
選ばれているようで、芸術・人文科学部門、社会科学部門、
科学部門からなっているとか。

トム・スミスの主な仕事は、フォーマルエレメンツや陶芸関係で、
「空間+発想+自然を封じ込めたもの。
三次元の器は、終わりのない探求を可能にする。」
「そして、土との格闘・・・。
土を木で削ったり、釉薬を塗ったり。」
と言っているみたいです。

1982年以来、トム・スミスは、
東洋美学+北アメリカのインスピレーションを融合させた楽焼に集中するそうです。
楽焼の発想に役立ようなこともしているとか。

多数のグループおよびソロ展示に出展し、
世界中の公的・プライベートなコレクションを、
製作していっているみたいです。


作品名:陶器三点セット
(海松波画)
作者:手塚桐鳳
備考:紙箱入

陶器三点セット
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手塚桐鳳窯は、花蝶窯の手塚石雲が監修した窯のことだそうです。

手塚石雲は、
1942年に、手塚玉堂の五男として、京都で生まれたようです。
その後、父の玉堂に師事し、
1971年、京都山科で、勧修寺窯を開窯するそうです。
2002年、還暦を機に大徳寺管長高田明浦老師より
 窯名:花蝶窯、陶名:石雲
を貰うそうです。
翌2003年、京都嵯峨で花蝶窯を開窯するみたいです。


作品名:陶器三点セット
作者:昌山(茶碗)
備考:紙箱入

陶器三点セット
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ここでは、陶磁器について少し説明しようかと思います。

陶磁器は釉薬の有無および焼成温度で以下のように大別されるそうです。
種類釉薬の有無焼成温度備考
土器なし。700〜900℃彩色具を釉薬としない色つきの土器もある。
b器ある場合と、
ない場合がある。
1200〜1300℃透光性・吸水性ともにない。
備前焼や常滑焼がb器に分類される場合がある。
陶器 粗陶器あり。1100〜1300℃粗い未処理の粘土で作られた陶器。
透光性はないが、吸水性がある。
陶器には、瀬戸焼・伊賀焼・大谷焼・マジョリカ・ファイアンス陶器・
クリームウェア、クイーンズウェア等硬質陶器・ハフナー陶器などがある。
精陶器あり。粗陶器より、磁器に近い。
磁器 軟質磁器あり。1200℃程度半透光性で、吸水性が殆どない。
軟質磁器は、1200℃前後の低温で焼成でき透光性に優れるが、
焼成中に変形しやすいという欠点がある。
磁器には、伊万里焼や九谷焼などがある。
硬質磁器 高火度磁器あり。1300℃以上硬質磁器は、軟質磁器以外の総称で、
高火度磁器と低火度磁器に分けられる。
ベルリン王立磁器製陶所で作られたベルリン磁器などがある。
低火度磁器あり。1300℃以下普通食器などが入る。


作品名:陶器三点セット
作者:桐鳳
価格:8,000円
備考:紙箱入
/振出は、桐鳳の作ではありません。

陶器三点セット
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茶箱に入る茶碗は、通常サイズより小振りですが、
その茶碗の大きさを、いくつか一覧にしてみようと思います。
茶箱名茶碗名大きさ
利休好 菊置上茶箱赤楽茶碗(玄々斎作)高6.6cm×口径11.6cm×高台径4.7cm
不休斎好 木地茶箱唐津写茶碗(慶入作)高6.1cm×口径9.4cm×高台径4.9cm
不見斎好 桐木地茶箱赤楽茶碗(不見斎作)高6.2cm×口径12.2cm×高台径5.5cm
玄々斎好 裂蒔絵茶箱黒楽茶碗(玄々斎作)高7.8cm×口径12.2cm×高台径4.3cm
玄々斎好 春秋七草茶箱赤楽茶碗(玄々斎作)高5.3cm×口径11.3cm×高台径4.0cm
玄々斎好 春秋七草茶箱黒楽茶碗(玄々斎作)高6.0cm×口径9.8cm×高台径3.7cm
玄々斎好 木地四季七宝茶箱赤楽茶碗(玄々斎作)高6.1cm×口径9.5cm×高台径3.5cm
玄々斎好 木地四季七宝茶箱黒楽茶碗(旦入作)高6.1cm×口径6.9cm
玄々斎好 匙鉋目茶箱黒楽茶碗(慶入作)高7.2cm×口径10.8cm×高台径4.5cm
玄々斎好 匙鉋目茶箱祥瑞写茶碗(保全作)高9.4cm×口径8.6cm×高台径6.5cm
淡々斎好 雪月花茶箱黒楽茶碗(覚入作)高6.8cm×口径9.5cm×高台径4.5cm
一閑七宝茶箱「美都の友」黒楽茶碗(慶入作)高7.0cm×口径8.2cm×高台径4.1cm
一閑七宝茶箱「美都の友」祥瑞写茶碗(保全作)高6.6cm×口径9.6cm×高台径5.6cm
一閑小判形茶箱(十二代飛来一閑作)黒楽茶碗(慶入作)高6.9cm×口径7.5cm×高台径4.5cm


作品名:紫交趾茶碗
扇面松竹梅絵
作者:中村翠嵐
備考:桐箱入

紫交趾茶碗
※画像を押すと拡大できます。
交趾(こうち)とは、紀元前111年の前漢の武帝が、南越国征服して置いた9郡の一つだそうです。
同郡は現在のベトナム北部のトンキン・デルタ地帯に位置していたみたいです。
交阯と書かれることもあるとか。

唐代の初期、交趾郡は交州と名を改められたようですが、
以後も中国では、ベトナム人の国をさす名称として交趾を用いたのだとか。


■交趾焼の作家
ここでは、日本の交趾焼作家を何人か挙げてみようかと思います。

○楽長次郎
 交趾焼の写しを作ったそうです。
 『本阿弥行状記』に
 「楽焼の事、飴屋長次郎が親は中華の人なり」
 とあるようで、楽焼の釉法が中国南部の交趾焼に共通するところから
 実は、中国人の可能性もあるとのこと。

○永楽善五郎
 交趾焼の写しを作ったようです。
 千家十職の一つ「土風炉・焼物師」で、茶碗を作っているものの
 主に伝世品の写しなどを作っているため、
 楽焼のみの樂家とは住み分けがなされているのだとか。

○中村翠嵐
 1942年京都生まれで、2010年に「現代の名工」厚生労働大臣表彰を受けたようです。
 名実ともに、現在の交趾焼の第一人者みたいです。

○青木木米
 1767年京都生まれの絵師・京焼の陶工で、
 永楽保全・仁阿弥道八とともに京焼の幕末三名人とされたようです。
 交趾の名品を多く残しているとか。

○二代赤沢露石(赤沢修三)
 1943年に交趾焼の技術保存作家認定を受け、
 京都伝統作家協会の設立に携わり、同協会会員となるようです。
 交趾焼は、三代目(赤沢静尾)、四代目(赤沢正中)と続いているとか。

他にも、伊藤南山、中井好美、宮本直樹や、
本ホームページで扱っているの交趾焼の作家
高野昭阿弥、手塚大示、清楓など、
たくさんの作家がいるようです。


作品名:萩茶碗
作者:厚東建信(小萩窯)
備考:桐箱入

萩茶碗
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、萩焼の作家を紹介しようかと思います。

○坂高麗左衛門(さかこうらいざえもん)
 山口県萩市の萩焼窯元、坂窯の当主が代々襲名しているそうです。
 坂窯は、朝鮮人陶工の李敬を初代としているようで、
 三輪休雪の三輪窯と共に萩藩の御用窯を務め、
 萩焼の本流を代々受け継いでいた家柄だとか。
 2011年4月に十一代の四女(十二代の義妹)が、
 十三代高麗左衛門を襲名、現在に至っているみたいです。

○坂倉新兵衛(さかくらしんべい)
 山口県萩市の萩焼窯元で、李勺光を初代としているそうです。
 十二代坂倉新兵衛は、萩焼を全国に広め不振衰退から救ったことにより、
 中興の祖と呼ばれるとか。

○三輪休雪(みわきゅうせつ)
 山口県萩市の萩焼窯元・三輪窯の当主が代々襲名しているそうです。
 三輪窯は江戸時代寛文年間に起こったと言われ、
 代々坂高麗左衛門の坂窯と共に萩藩の御用窯を務めていたようです。
 十代三輪休雪(三輪休和)と、十一代三輪休雪(三輪壽雪)は、
 人間国宝に認定されたみたいです。

○田原陶兵衛(たはらとうべえ)
 田原家は赤川助左衛門の系統を引く、
 深川御用窯(深川萩)の陶芸一族としての名跡だそうです。

○吉賀大眉(よしかたいび)
 山口県萩市出身の陶芸家だそうです。
 山口県萩市大字椿東永久山426-1に、
 「吉賀大眉記念館」があるみたいです。

○厚東孝明
 山口県萩市出身の陶芸家だそうです。
 1970年に開窯した小萩窯の現代表者で、
 父の厚東建信と親子展を開くなどしているみたいです。

○厚東建信
 山口県生まれの陶芸家だそうです。
 厚東孝明の父親みたいです。

○守繁徹
 守繁徹は、1954年生まれだそうです。
 1983年から守繁栄徹(父)に師事し、
 第三文明展や全国陶芸展などで受賞しているようです。

○守繁栄徹
 1967年、萩焼窯元の蓮光山を萩市江向に開窯したそうです。
 守繁徹の父親みたいです。

○渋谷泥詩
 萩市美術展覧会・山口県美術展覧会・山口県美術展覧会などで、
 多数受賞しているようです。
 萩美術家協会の会員で、
 1990年には萩伝統工芸協会の会長に就任したみたいです。

他にも、
松光山栄光、廣瀬淡雅、小野光臣、坂田泥華、吉野桃李、川口裕子、兼田知明、
岡田泰、岡田裕、玉村信一、松野創平、坂倉善右衛門、田原崇雄、伴善雄、
上田敦之、田口潤、田村悟朗、宇田川聖谷など、
たくさんの作家がいるようです。


作品名:天目茶碗(油滴)
作者:桶谷定一
備考:桐箱入

天目茶碗(油滴)
※画像を押すと拡大できます。
ここでは、七種天目について説明しようかと思います。

『君台観左右帳記』で七種天目というと、上から順番に
曜変・油滴・建盞・烏盞・鼈盞・能盞(玳玻盞)・天目(只天目)
となるようです。
種類備考
曜変(ようへん)内部の漆黒の釉面に結晶による大小さまざまの斑紋が群れをなして、
一面にむらむらとあらわれ、そのまわりが瑠璃色の美しい光彩を放っているのもの。
その成因は釉上の極微の薄い膜によるものといわれている。

曜変の名は茶人がつけたもので、窯変から出ているが、星のような斑紋にも因んでいる。

曜変は室町時代から
「建盞の内無上也、世上に無き物なり」(『君台観左右帳記』)
と、その言語に絶する美しさを絶賛されている。
油滴黒釉(こくゆう)地に油滴に似た銀色または金白色の斑文(はんもん)が表れたもの。

(※なお、油滴天目に関しては、別途、油滴天目茶碗の説明文で解説しています。)
建盞(けんさん)
(禾目天目・兎毫盞)
中国宋代、福建省建陽県にあった建窯で焼かれた茶碗。
南宋時代に最も盛んだった。

禾目(のぎめ)天目というのも建盞の一種。
茶褐色の細い兎の毛並みのような線状紋が黒釉地に発色した天目。
中国では、紺黒の地に柿色の細い線条が、
口辺から内外にかけて禾目の釉文を兎の毛に見立てて、
兎毫盞(とごうさん)と呼んでいる。

建盞はまずその形に特色があり、俗に天目形といわれている。
口辺の段がついて、いわゆる鼈甲になっています。
これは中の抹茶の保温の為。

「建盞。ゆてきの次也。
これも上々はゆてきにもをとるへからす。三千匹。」(『君台観左右帳記』)
烏盞(うさん)建盞の多くは、無地の黒茶碗で、これを烏盞と呼ぶとか。
鼈盞(べっさん)「木葉天目」が派生したもの。
玳皮盞(たいひさん)
(吉安天目・吉州天目・
鼈甲盞・鼈甲天目・能盞)
天目の中で建盞と並んで室町時代から賞美されているもの。
玳皮盞は、釉調が鼈甲に似ているところからの名前。
一名鼈盞(べっさん)とも呼ばれる。

中国江西省吉安県の永和鎮の吉州窯で、
南宋〜元の時代にかけて盛んに量産されたもので、
吉安天目または吉州天目ともいわれる。
天目(てんもく)
(只天目)
唯天目とも書き、真天目ともいう。
建盞ではこの手がいちばん多く、黒褐色の釉の上に藍色・海鼠色が混じって、
見込みにいたるほど釉薬が厚く溜まっている。
曜変・油滴などは、この只天目の中から偶然に出来たものである。



他にも、以下のような天目があるみたいです。
種類備考
灰被(はいかつぎ)灰がかかったようなくすんだ渋い味わいのあるもの。
侘びの茶が流行するようになってから愛好された。
素地は灰白色で、黄土を塗った上に鉄釉がかかっていて、
口造りは鈍くなって、高台は大きく、
形は建盞と比べるとくずれている。

「天目。御物などは一向御座無物也。
大名にも外様番所などにもをかるヽ。
薬建盞に似たるをば灰かづきと申。
上の代五百匹。」(『群書類従本』)
黄天目(きてんもく)
(珠光天目)
村田珠光所持の伝承をもつところから、「珠光天目」とも言われる。
『山上宗二記』では、灰被天目の下に黄天目を位づけしている。

「黄天目といふも灰蒙の中なり、
土は黒めに少し赤み交候也」(『茶湯正伝集』)

「只天目と黄天目の事を宗易が言、
黄天目にても只天目より善きあるようで、
只天目にても黄天目に劣れるあるようで、
偏に目を付くべからずと言ふ云々」(『茶湯正伝集』)

「土白黒なり、黄薬の交りてか々りたるものなり、
総体黄色にはあらず云々」(『万宝全書』)
蓼冷汁(たでひやじる)大変めずらしい天目。
1583年9月、医師の曲直瀬道三が、
千利休津田宗及・山上宗二を京都に招いた折りに、
はじめて登場している。

黄天目よりは釉(うわぐすり)が緑色を呈しており、
やや沈着して透明度も少ない。

『宗及日記』では、
「(蓼冷汁)天目、黄天目也。
此小カタ也。薬モヨキ、土黒メナリ」
とあり、黄天目の一種と見なしている。


『山上宗二記』に、
「天目。紹鴎所持一つ。天下三つの内、二つ関白様に在り。
引拙の天目、堺油屋に在り。
いずれも灰かつぎ也。」
「建盞の内、曜変、油滴、別盞、玳皮盞、
此の六種、皆建盞也。代物かろきもの也。」
とあるそうです。

また、七種天目ではないのですが、天目茶碗には、
内側に文様型紙を貼って文様をつけたものがあるみたいで、
文様の種類によって「梅花天目」「龍天目」「文字天目」、
型紙の代わりに木の葉を置いて焼いた「木葉天目」
などがあるようです。


作品名:色絵吉野山茶碗
作者:南口閑粋
価格:20,000円
備考:桐箱入

色絵吉野山茶碗
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色絵は、各種の彩釉を使って上絵付けする手法で、赤絵とも言うようです。

「有田に[色絵]はない。[赤絵]だ。」という主張があるみたいです。
絵付業者は「赤絵屋」、窯は「赤絵窯」、掘ってる場所は「赤絵町」
から来ているようです。

「赤絵」という単語の初出は『酒井田柿右衛門家文書』に
「赤絵初リ」
「1647年、喜三右衛門が[赤絵]を完成させ、はじめて長崎で売った。」
などとあるのがそうみたいです。

初代酒井田柿右衛門(喜三右衛門)の開発した「赤絵」が、
後の有田の後継技術となり、本来「色絵」の一種である「赤絵」が、
次第に「色絵」の同義語として用いられるようになったとする説もあるようです。

最近の発掘調査によると、
喜三右衛門が「赤絵」をはじめた窯は、楠木谷窯跡(泉山)の可能性が高いことや、
上絵付けの技術が1種類ではなく、
3カ所の窯場(岩谷川内山・黒牟田山・年木山)で別々に誕生したことなどが、
わかってきたようです。

喜三右衛門の「赤絵」以前に、
楠木谷窯跡では、すでに別の種類の上絵付け磁器が焼かれていたようで、
多くは緑や紫、黄色など寒色系の絵具を多用し、
文様がびっしりと描かれたものだったみたいです。

ちなみに喜三右衛門の「赤絵」は、
乳白色に近い素地に暖色系の絵具を多用し、
余白を活かした構図が特徴的なのだとか。

『酒井田柿右衛門家文書』に
「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、
世上くわっと仕候得共、
某手前ニ而出来立申色絵ニ無御座云々。」
とあるようです。

この文章から、喜三右衛門の「赤絵」が、
当時の複数の上絵付けの技術の中で、
後の有田へと伝承される主たる後継技術となった、
ということがわかるのだとか。


作品名:乾山雪笹茶碗
作者:南口閑粋
備考:桐箱入

乾山雪笹茶碗
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尾形乾山は、京都の呉服問屋雁金屋の三男として生まれたそうです。
次兄に光琳、縁者に本阿弥光悦、陶技は晩年の仁清に師事したようです。

乾山は書画を好み、みずから「焼物商売」と称して陶器、
ことに食器類を作り、広く親しまれたようです。

乾山の茶碗は、色絵のものと墨画のものとに大別できるそうですが、
ともに「茶碗をつくろう」という意識は希薄で、
茶碗をキャンバスに見立てて、
絵や詩賛を描くことを主眼としているのだとか。

つまり
「書画を愉しんでいるもの」
「絵や賛の表現が成功しているもの」
が名品となるみたいです。


■アナと雪の女王
作品のメッセージとして、監督のクリス・バックは、
「家族の強さ」「姉妹の絆」をテーマにしているそうです。
また、共同監督で脚本を担当したジェニファー・リーは、
「恐れ」対「愛」がテーマであると述べているみたいです。

茶会に於いて、テーマを決めることは重要ですが、
流行に乗ったテーマを選ぶというのも、一興かもしれません。


作品名:金襴手茶碗
作者:高野昭阿弥
備考:桐箱入

金襴手茶碗
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金襴手(きんらんで)は、中国江西省景徳鎮民窯で、
16世紀中ごろに作られた金彩色絵磁器のことだそうです。

上絵付した後、金箔を焼き付けて文様を表したもので。
織物の金襴に似ているところから、日本でこう呼ばれたようです。

金襴手の磁器には地釉(じぐすり)の別によって、
五彩(赤絵)に金彩を加えた「赤絵金襴手」、
赤を地釉に用いた「赤地金襴手」、
瑠璃釉の上に金彩を加えた「瑠璃地金襴手」、
その他、
「萌葱地金襴手」「黄地金襴手」「白地金襴手」
などがあるそうです。


■有田焼の三様式
有田焼は、「古伊万里」「柿右衛門」「鍋島藩窯」の三様式に分けられるみたいです。
「柿右衛門様式」と「鍋島藩窯様式」に属さない作品は、
「古伊万里様式」に分類するそうです。
この中の「古伊万里様式」に、金襴手は含まれるようです。

「古伊万里様式」は、肥前有田で江戸時代に生産された、
濃い染付と金襴手の磁器で、
当時、有田に隣接する伊万里の港から船積みされたことより、
この名が付けられたそうです。

「柿右衛門様式」は、濁手とよばれる透明感と、
暖かみのある乳白色のバックに余白を十分に残し、
極めて繊細な黒い線と色鮮やかな赤・緑・黄・青で、
大和絵的な花鳥風月を左右非対称的で描写的に描いた様式だそうです。

後期には、この4色に紫や金も加わるようになり、
器の口縁に「口銹」と呼ばれる銹釉が施されている作品も多く見られるとか。

「鍋島藩窯様式」は、青みがかった地肌やくし高台、裏文様に特徴があるそうで、
その技法は、
染付と赤・青・緑の三色を基調とした「色鍋島」、
藍色で精緻に描かれた「藍鍋島」、
自然の青翠色の「鍋島青磁」
があるようです。

なかでも上絵を伴った「色鍋島」は佐賀藩主が使う食器や、
諸大名・幕府への献上品として完成度の高い格調ある製品なのだとか。


作品名:三点セット(花丸)
作者:山川巌(茶碗)
備考:木箱入

三点セット(花丸)
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山川巌(巌窯)
三代目・山川巌は、京都市立伏見工業高等学校(窯業科)卒業後、
清水六兵衛に師事し、現在に至っているそうです。

東京三越、高島屋等、作陶展多数、
全国各地で展示出品しているようです。

昭和38年10月 日展に課題「華」に出品。
昭和39年10月 日展に課題「萠」に出品。
昭和45年05月 京都青窯会 知事賞受賞。
昭和52年05月 東京三越百貨店本店で五人展出品。
昭和56年06月 東京高島屋にて個展。
昭和58年05月 京都国際会館にて染色デザイナー千匠と共同陶額出品。
昭和59年10月 京都セラミック迎貴館にて染色デザイナーと協力して壁画展に出品。
昭和60年04月 中国画家舒家鼎氏の要請にて東大阪第一生命ビルに展示出品。
昭和61年10月 京都建仁寺にて茶道展に出品展示。
昭和62年03月 大阪高島屋にて厳作陶展を展示。


作品名:乾山桔梗図茶碗
作者:三浦竹軒
寸法:口径14.0cm
備考:桐箱入

乾山桔梗図茶碗
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三浦竹軒は、1900年京都生まれの陶芸家で、初代竹泉の三男だそうです。
はじめ、1921年に三代竹泉を継いだようですが、
1931年に別家して竹軒と改号したみたいです。

元々、二代である兄が早くに亡くなったため、三代を継いだようで、
二代長男の技術が成熟すると家督を譲り、
二代竹泉の長男に、四代竹泉を継がせたそうです。

金襴手を得意とし、仁清・乾山風の華麗な茶道具や花器を中心に、
作陶したようです。

1942年、政府認定技術保存者に認定されたみたいです。
1961年には、仏交歓陶芸展で入選もしているようです。

京都伝統陶芸家協会員も務め、
1990年に死亡したそうです。90歳だったとか。


作品名:ゆず肌黒茶碗
作者:中川一辺陶(信楽)
備考:桐箱入

ゆず肌黒茶碗
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信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる陶器で、
日本六古窯のひとつに数えらるそうです。

さて、信楽焼といえば狸ですが、
明治時代に、陶芸家の藤原銕造が作ったものが最初みたいです。


■狸が有名になるきっかけ
1951年、昭和天皇が信楽町行幸の際、
たくさんの信楽狸に日の丸の小旗を持たせ沿道に設置したところ、
狸たちが延々と続く情景に感興を覚え、
歌を詠んだ逸話が新聞で報道され、
全国に知られるようになったようです。

信楽町長野・新宮神社に昭和天皇御製の歌碑
「幼なとき集めしからに懐かしもしがらき焼の狸をみれば」
が、建っているようです。

現在は、信楽へのアクセス路線である信楽高原鐵道の車体に、
タヌキのキャラクターが描かれているようです。


■商売繁盛と八相縁喜
狸が「他を抜く」に通じることから、
商売繁盛と洒落て店の軒先に置かれるそうです。

また、狸には信楽焼八相縁喜というものがあるみたいです。
種類備考
思わざるは悪事災難避けるため用心常に身をまもる笠。
通い帳世渡りは先ず信用が第一ぞ活動常に四通八達。
大きな目何事も前後左右に気を配り正しく見つむることを忘れめ。
大きなお腹もの事は常に落つきさりながら決断力の大胆をもて。
世は広く互いに愛想よく暮し道を以って務めはげまん。
金袋金銭の宝は自由自在なる運用をなせ。
徳利恵まれし飲食のみにこと足利て徳はひそかに我につけん。
太い尾なに事も終わりは大きくしっかりと身を立てるこそ真の幸。


同様に、信楽焼のカエルにも八相があるみたいです。

信楽カエルは奈良時代に大戸の川(おおとのがわ)をさかのぼり、
紫香楽(しがらき)の里に聖武天皇の御代より生息すると伝えられているそうです。

「福帰る」と呼ばれ、八相を備えている縁起の良い生き物とされるとか。
種類備考
ボヤ・吸殻などの火気をパクリ呑み込み、火災予防のお守り。
大きな腹にヘソがなく、落雷の予防。
食物毒蚊・毒虫を食べ外注(害虫)撲滅・無病息災。
皮膚天敵から身を守る保護色は、災難を避ける。
子蛙常に親は責任を負い、子はしっかりと親に従う。
冬眠断食・耐寒の期に、心身修養し次なる成功へとつながる。
前足磐石に備えた脚は威風堂々、礼節を知る。
後足屈伸活発、待機していざという時は飛躍前進。



■伝説の都・紫香楽宮
天平14年(742年)、聖武天皇の時代、
紫香楽宮という都があったようです。
結局、4年余りで平城宮へと遷都するみたいです。

2000年、宮町遺跡から発掘された巨大な建物跡が、
紫香楽宮の宮殿部分と判明したようです。
2005年3月には、宮町遺跡を含む19.3haが、
国の史跡「紫香楽宮跡」に追加指定され、保存が図られているそうです。

それまで紫香楽宮とされてきた史跡は、
甲賀寺跡とする説が主流みたいです。


作品名:黒釉茶碗
作者:龍門司窯
価格:10,000円
備考:桐箱入

黒釉茶碗
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薩摩焼は、「苗代川系」「龍門司系」「竪野系」
「西餅田系」「平佐系」「種子島系」
の六つに大きく分かれるそうです。
現在では「竪野系」「龍門司系」「苗代川系」のみ現存しているようです。

別の分け方として、「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の磁器と、
「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分ける場合もあるみたいです。

「龍門司系(黒薩摩)」は、朝鮮陶工達の芳珍の子孫山元碗右衛門が、
加治木の山元に窯を築いたものだそうで、
その後、薩摩藩の保護により小山田高崎に窯を開き、
これが、龍門司窯のはじまりとなったようです。

鹿児島県姶良郡加治木町は龍門司焼で有名な町みたいです。


■姶良郡加治木町と柁の木伝説
姶良市(あいらし)は、鹿児島県中央部に位置し、2010年3月23日に、
姶良郡蒲生町・姶良町・加治木町が合併して発足した市だそうです。
鹿児島市に隣接したベットタウンだとか。

加治木町の名は、船の舵を置いておいたら、
そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来するようです。

ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、
やがて「加治木」になったとされているみたいです。

加治木町仮屋町にはこの伝説の木に由来するとされるクスノキがあり、
その向かいには柁城(だじょう)小学校があるようです。

「柁の木伝説」というのは、神代の昔、
「ひるこ」という神様を乗せた「天のいわくす船」のふね柁が、
加治木の浜に流れつき、柁から芽が出て、
天を突くような大樟になったという伝説だそうです。


作品名:黒仁清雛絵茶碗
作者:手塚桐鳳
価格:10,000円
備考:桐箱入

黒仁清雛絵茶碗
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「上巳の節句(桃の節句)」の起源は平安時代以前だそうです。

『日本書紀』に
「顕宗天皇が485年の上巳の日に曲水の宴に臨席した」
という旨の記載があるようです。


■雛人形の由来
平安時代、紙製の小さな人の形(形代)を作ってそれに穢れを移し、
川や海に流して災厄を祓う祭礼があったようです。

この風習は、現在でも「流し雛」として残っているとか。

『源氏物語』の須磨の巻に、
光源氏がお祓いをした人形(形代)を船に乗せ、
須磨の海に流したという記述があるみたいです。

同じく平安時代、京の貴族階級の子女が、
天皇の御所を模した御殿や飾り付けで遊んだ、
「ひひな遊び」というものがあったようです。

この「流し雛」と「ひひな遊び」が、
いつ、どのようにくっついたのかは、諸説あるようですが、
やがて、武家社会でも行われるようになり、
江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、
行事となり発展して行ったそうです。


■女の子の節句
当初、上巳の節句は、5月5日の端午の節句とともに、
男女の別なく行われていたようです。

桃が咲く時期と重なることから「桃の節句」とも言われ、
桃などの自然の生命力をもらうなどして厄災を祓うそうです。

江戸時代ごろから、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、
端午の節句(菖蒲の節句)は「尚武」にかけて、
男の子の節句とされるようになったとか。


仁清雛絵茶碗
作者:宮地英香
価格:4,000円
備考:紙箱入

仁清雛絵茶碗
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ここでは、野々村仁清と尾形乾山の関係や違いを、
見ていこうと思います。

尾形乾山は、野々村仁清の子・清右衛門から、
陶法秘伝書を伝授されたようです。
つまり、尾形乾山は、野々村仁清の孫弟子にあたるでしょうか。


■作風から見た違い
野々村仁清は、轆轤(ろくろ)技術に定評のある陶工で、
造形物も優れた作品をたくさん残しているそうです。

絵付けについては、狩野探幽などの、
狩野派の下絵を用いたとする箱書もあるみたいです。
大和絵風な絵付けについても名前はわかっていないものの、
下絵に基づいて描かれた可能性が高いようです。

作品としては、茶道具全般にわたる作品を作り、
鉢や皿などの食器類は少ないみたいです。

一方、尾形乾山著『陶工必用』には、
仁清の陶法秘伝書と共に、乾山がみずから釉薬や土について、
いろいろと研究した内容が詳細に綴られているそうです。

『陶工必用』から推察すると、
成形には自信が持てなかったらしく、
鳴滝窯でも仁清の子・清右衛門と押小路焼の孫兵衛の力を、
借りざる得なかったみたいです。

また、二条丁字屋町に移ってからは窯を築かず、
粟田口や清水などの窯に焼成を依頼していたそうです。

乾山の作品は、あまり複雑な形状のものは少なく、
むしろ色紙皿や四方皿のような平板なものが多く見られるようです。

ただ、兄・尾形光琳に絵付けを依頼するにあたり、
光琳が描きやすいように工夫したとも考えられるみたいです。

作品としては、食器に重点を置き、
もっぱら茶道具を作っていたとは言えないそうです。


■環境から見た違い
野々村仁清は、若い頃は粟田口や瀬戸で陶芸の修業をしたようですが、
経済的には恵まれていなかったみたいです。

尾形乾山は、京都の高級呉服商・雁金屋の三男として生まれ、
20歳代で、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰の三つの屋敷と、
書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けたようです。

勉学や茶道の修練のほか、黄檗宗の独照性円について参禅し、
月譚道澄の知遇も得ているそうです。
月譚道澄著『習静堂記』にも、乾山の様子が記されているのだとか。


■公家社会との関わり
野々村仁清の作品は、公家社会でも使われていたそうで、
当時の多くの茶会記に見受けられるみたいです。

これは、仁清が直接、公家社会と関わりを持っていたわけではなく、
金森宗和や金閣寺の鳳林承章などの手を経て、
宮廷にも持ち込まれたりしたようです。

尾形乾山の作品は、公家社会ではあまり使用されていなかったようで、
乾山晩年、近衛いえひろ著『槐記』に「乾山焼ノ皿」と見える程度で、
茶会記でも、仁清の使用例の方が多かったようです。

ただ、乾山は、公家社会と直接関わりがあり、
特に二条家は、二条宗謙が、
乾山の実家に呉服商として出入りしていたみたいです。

また、二条宗謙の子・綱平は、
独照性円の兄弟弟子として交誼を深めたそうです。

乾山は、兄・光琳と共に、二条家に挨拶に訪れたり、
二条家サロンの面々とも知遇を得ることとなったようです。

二条綱平の室・栄子は、
霊元天王の皇女・仁和寺宮寛隆の妹にあたるそうです。

こうした縁で、乾山は仁和寺門前に習静堂を営むことができ、
鳴滝泉谷の土地屋敷を、二条家より拝領したりもしたようです。


乾山写雛絵茶碗
作者:清襴
備考:紙箱入

乾山写雛絵茶碗
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尾形乾山は、幼少期より能楽をはじめとする、
上層町人としての嗜み事を身につけていったようで、
茶の湯もその一つだったみたいです。

茶系図では、兄・光琳とともに、表千家に連なり、
五代・随流斎良休宗左の弟子となったようです。
また、乾山は藤村庸軒にも師事したみたいです。

茶の湯に関しては、兄・光琳よりも秀でていたようです。

煎茶道の開祖は、黄檗宗の開祖・隠元隆gで、
黄檗禅に傾倒した乾山(号:霊海)も、
この煎茶道を含む黄檗文化に深く触れたみたいです。


■乾山の作風
乾山の茶道具の根底にある創作意識には、
茶道と煎茶道の両面があるようです。

乾山は、画賛形式が多いみたいです。
漢詩を記したものと、和歌を散らしたものに大別されるようですが、
詩歌の意にあった世界が描写されているそうです。

これは、書にこだわる文人・乾山としての姿みたいで、
明らかに茶の湯向きではないようです。

ただ、道具によっては、茶の湯でしか用いないものも、
存在しているのだとか。

乾山の茶道具の中では、茶碗が最も多いようです。

茶道具の茶碗を見た場合、半筒形がほとんどみたいですが、
深い浅いがあり、また腰の張ったもの、
丸まったものなど様々あるそうです。

茶碗にも、画賛形式が多々見られるようで、
銹絵山水図茶碗・色絵松図茶碗・松図黒茶碗など、
茶碗に、絵と漢詩・和歌が描かれたものが、
各美術館に所蔵されているみたいです。


作品名:色絵沢瀉(おもだか)平茶碗
作者:弘竹
価格:10,000円
備考:木箱入

色絵沢瀉(おもだか)平茶碗
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オモダカ(沢瀉・澤瀉・面高)は、
オモダカ科オモダカ属の水生植物で、
ハナグワイ・サンカクグサ・イモグサ・オトゲナシなど、
多くの別名があるそうです。

■オモダカの家紋
武家などの家紋として、
オモダカの葉を意匠に用いたものがあるようです。

この家紋は、日本十大紋の一つで、
古くは王朝時代に貴族の車や武具の文様として用いられ、
やがて家紋に転じたそうです。

沢瀉は面高「面目が立つ」に通じるとか、
葉の形が矢じりに似ている、別名「勝ち草」とも呼ばれるなどのことから、
武人の家紋として普及したみたいです。

毛利元就が戦に臨む時に、
沢瀉に蜻蛉が止まったことを吉事として用いた、
という故事があるとか。

慶事用の切手(90円)にも、
ツルと共にオモダカの文様が使用されているそうです。


■クワイについて
オモダカの栽培変種に「クワイ」があるそうです。

クワイは、塊茎が肥大化して食用となり、
おせち料理などに利用されるみたいです。

クワイはその外形から「芽が出る」ことを連想させるため、
縁起物として扱われるとか。


作品名:御本手平茶碗
作者:瑞香
価格:5,000円
備考:木箱入

御本手平茶碗
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御本手という名称は、徳川家光が描いた、
鶴の絵を元に作った「立鶴」と呼ばれる、
御手本用の高麗茶碗に表れた赤い斑点を言ったようです。

立鶴以前の茶碗にも、こうした斑点が表出したものは多く有り、
最近では一括りに御本手と呼ぶそうです。

この斑点は「紅斑」と「半使」という2つの種類に大別されるみたいです。
紅斑は、綺麗な薄紅色の比較的輪郭の曖昧な大きめの斑点だとか。
半使は、紅斑よりも色が濃く小さな斑点が集まっているのが特徴だそうです。

基本的にはどちらも粘土中に含まれる鉄イオン(Fe3+)が、
還元焼成によって鉄イオン(Fe2+)として遊離し、
窯内が酸化雰囲気に変わることで、
再び鉄イオン(Fe3+)として集まる時に、
赤く変色して斑として表出するのだとか。


作品名:黄瀬戸平茶碗
作者:山口茂
価格:10,000円
備考:桐箱入

黄瀬戸平茶碗
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黄瀬戸は、室町時代末期〜桃山時代に、
美濃を中心として焼かれた古陶で、
美濃焼の一種だそうです。

鉄釉による、あたたかい黄色でおおわれているのが特徴みたいです。

黄釉(おうゆう)を用い、線刻・印花・櫛目などの文様を施したものや、
銅緑色・鉄褐色の斑文のあるものが多いようです。

黄瀬戸の特徴のひとつに「抜けタンパン」があるとか。

タンパンと呼ばれる銅絵の具が、
器体の裏に抜け出で発色する事を言うようです。

黄瀬戸を焼くには、窯をゆっくり冷ます、
徐冷も大切な要素だそうみたいです。


■穴窯から地上窯へ
桃山時代以前は、穴窯といって、
半地下式の窯でだったそうです。

桃山時代に入り、地下に半分あったものが、
地上に築かれるようになるみたいです。
この地上式単室窯を大窯と呼ぶようです。

大窯へと変化する契機となったのが、
元が中国を支配して朝鮮半島を征服したことみたいです。

玉を金よりも尊んだ中国の文化は、
青磁を焼物の中心にしていたのですが、
元の進行によって、カラフルな陶器がもてはやされるそうです。
その中心となったのが、中国北方にある磁州窯だとか。

磁州窯は石炭を燃料に使う、酸化焼成法の焼物で、
この焼成方法が、日本に入ってきたのが桃山時代だったみたいです。


■黄瀬戸の種類
黄瀬戸には「ぐい呑み手」「菖蒲手」「菊皿手」の三種類があるようです。

「ぐい呑み手」は、釉のガラス化が顕著で、
ビードロ状になったものみたいです。

「菊皿手」は量産品で古瀬戸釉の質感にて、
分類されるだけで、あまり取り上げられることはないとか。

「菖蒲手(油揚肌)」は、
油揚のようなじんわりとした光沢を持つものだとか。


作品名:刷毛目平茶碗
作者:光山
価格:3,000円
備考:紙箱入

刷毛目平茶碗
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平茶碗でお茶を点てると、
通常の茶碗に比べて空気に触れる面が広い為、
抹茶が冷めやすいみたいです。
そのため、夏の季節によく使われるようです。


■洗い茶巾
点前の中に「洗い茶巾」という、
酷暑の頃に行う薄茶点前の趣向があり、
そこでも、平茶碗を使い、
涼感を演出するようです。

平茶碗に、水を七分目ほど入れ、
茶巾の端と端との対角線を取って二つに折り、
その端を茶碗の右方に少し出して、
その上に茶筅を仕組むのだとか。


■例えばこんな平茶碗@
以下、写真がないので、説明だけになりますが、
「古唐津平茶碗」と、楽焼の「黒平茶碗 銘:落栗」について、
ちょっと説明しようかと思います。。

「古唐津平茶碗」は、高さ5.2cm、口径14.3cmで、
17世紀初期の作品だそうです。

口縁部が、わずかに端反った平茶碗で、
高台は小さく竹の節で、
高台内は丸鉋で「の」の字状に深く削られているのだとか。

胴半ばまで長石釉が厚くかかり、
釉が一本高台際まで流れて景色となっているみたいです。

釉は酸化焔焼成により、赤褐色に発色しているそうです。


■例えばこんな平茶碗A
一入作「黒平茶碗 銘:落栗」は、
高さ7.0cm、口径13.4cmで、17世紀の作品みたいです。

一入は、京都の楽家四代で、朱釉(しゅゆう)を得意とし、
小ぶりの妙品に味わいをだしたそうです。

胴の半ばを締めた平茶碗で、
高台も全体ん委比べてかなり小振りで、
丸い畳付けや高台内の兜巾などに、
典型的な一入の作りが見られるようです。

釉は総体にかけられ、内側・外側には、
一入が得意とした朱釉が現われ、
おとなしい作風に、華やかさを添えているみたいです。

なお、骨董品の中でも、
特にファンの多い平茶碗の場合は、
多少傷がついてたり、箱がなくても、
価値がある場合もあるとか。


作品名:紫交趾亀甲紋茶碗
作者:中村翠嵐
備考:桐箱入/
現代の名工受賞記念
特別頒布作品

紫交趾亀甲紋茶碗
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亀甲文様とは、正六角形の幾何学の文様だそうです。

亀の甲羅のカタチに似ていることから、
この名前が付けられたようです。

元々、西アジアに起こり、
中国や朝鮮から日本に伝わったのだとか。

亀甲文様は、有職文様(ゆうそくもんよう)の一種で、
固い亀の甲羅が持つ機能性や長寿の意味から、
おめでたい文様の代表格だとか。

有職文様というのは、
平安時代以降公家の装束や調度、
輿車(よしゃ)などに使われてきた、
伝統的文様のことみたいです。


■毘沙門亀甲文様
この亀甲文様、組みあわせがしやすいことから、
様々な変形があるそうです。

たとえば「毘沙門亀甲文様」は、
六角形を下にふたつ、
上にひとつ結合して人の字形にしたものみたいです。

毘沙門天は財宝富貴を守る武神像で、
日本ではいつのまにか福財をもたらす神として信仰され、
七福神にも加えられているとか。

この毘沙門亀甲文様は、
三つの足が複雑に組み合わされているように見えながら、
実は六角形の亀甲文様になっているという、
騙し絵のような面白みのあるデザインだそうです。


■キッコーマンのデザイン
かつて日本では、海亀が卵を産んで海に帰るときに、
酒を飲ませて帰すという風習があったのだとか。

これは亀がめでたい動物で、
海の化身と考えられていたからみたいです。

家紋のなかで、
亀甲紋が格別な扱いをされているのはそのためだとか。

亀甲紋は出雲大社・厳島神社・香取神宮などの、
神紋ともなっているようです。

昔、香取神宮の氏子に、醤油造りの名人がいたそうで、
業を始めるとき、神紋と名前の一字「萬」を合わせて屋号にしたとか。

これが、キッコーマンのデザインだそうです
または、元々の考案者は第四代鈴木万平であり、
譲渡されたという説もあるみたいです。


作品名:仁清写三日月茶碗
作者:真葛香斎
備考:桐箱入

仁清写三日月茶碗
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三日月は、陰暦3日の夜の月で、
月齢2日くらいの月のことだそうです。

だた、普通は、新月と上弦(半月)の間、
下弦(半月)と晦(かい)の間の円弧状に輝く月は、
まとめて三日月と呼ばれる場合が多いみたいです。

三日月の時は、地球から見て、
月の横方向から太陽が照らしているため、
円弧状の細い範囲が輝いて見えるそうです。

他の状態の月は以下のようになっているみたいです。

[新月]
月と太陽が同じ方向にあれば輝いている面は太陽側を向き、
地球には暗い面を向けて月が見えないようです。

[満月]
月と太陽が反対方向にあれば輝いている面は地球側を向き、
丸い月となるそうです。

[半月=上弦・下弦]
月と太陽が直行する方向にあれば輝く面は半分しか見えないので、
半月となるみたいです。


■月の裏側は見えない
月の表面の59%が地球から見えているのですが、
常に同じ面が向いているそうです。
これには、いくつか理由があるとか。

月は地球のまわりを約27日で1周するそうです。(月の公転運動)
また、月自身も約27日で1周しているようです。(月の自転運動)
結局、月は公転運動と自転運動の周期が、一緒になるみたいです。

ただ、これだけだと、裏側が見えない理由にはならないようです。
公転と自転は、どんな星でも同じ周期なんだとか。

月の形をよく調べてみると、
西洋梨のように、ややいびつな形をしているそうです。
しかも少し張り出した部分が地球を向いているみたいです。

そのちょっとだけ重い面を、
引力が強い方向(地球)に向けて、
そのまま安定したため、
おき上がりこぼしのように、
常に同じ面を向いて回転しているようです。


作品名:仁清山水ノ絵茶碗
作者:十六代 永楽善五郎
備考:桐箱入/
即中斎宗匠書付

仁清山水ノ絵茶碗
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山水画は、中国で発達した絵画のジャンルだそうです。

紀元前8世紀以降、中国の秦漢時代から、
神仙や霊獣の住処としての山水表現が、
盛んだったみたいです。

山水画を鑑賞したりする習慣は、
4世紀には成立していたようです。
この時代の山水画は、
「人は山より大きく、樹木は櫛の歯のようだ」
と言われるものだったそうです。

その後、描写技術が進み、
独立した主題として愛好されるようになったのは、
8世紀の画聖・呉道玄が、
「盛唐の山水の変」と呼ばれる改革を行ってからみたいです。

朱景玄の『唐朝名画録』に、
「明皇、天宝中、忽ち蜀道の嘉陵江水を思い、
 遂に呉道子に驛駟を仮し、往きて写貌せしむ。
 回日に及び、帝其の状を問う。
 奏して曰
 [臣に粉本なし。並びに記して心にあり]と。
 のち宣して大同殿にこれを画かしむ。
 嘉陵江三百余里の山水、一日にして畢る。
 時に李思訓將軍有りて山水に名を擅にす。
 帝また宣して大同殿に図せしむ。
 月を累ねて方に畢る。
 明皇云えらく
 [李思訓数月の功、呉道子一日の迹、
 みなその妙を極めり]
 と」
とあるそうです。

中国唐時代、第九代皇帝・玄宗は、
蜀道の嘉陵江水の絵(山水画)を大同殿に描くよう、
呉道子(道玄)と李思訓に命じたようです。

その山水画を描くのに、
李思訓は数か月かかったそうですが、
呉道子はたった一日で描いたのだとか。


■日本の水墨画へと昇華
山水画は、日本に鎌倉時代後期〜南北朝時代にかけて
禅宗とともに中国から入ってきたようです。

そして、禅の精神を表すものとして、
盛んに描かれたみたいです。

山水画は、筆と墨で表現する、
水墨の技術「水墨画」という形で日本に伝来し、
やがて日本文化に溶け込み、
日本独自の様々な文化や流派が生まれることとなるとか。

江戸時代、日本絵画史上最大の画派・狩野派は、
山水画に関して言うと、水墨を基調とした、
中国画の模写が中心だったそうです。

これでは絵を写し継ぐことはできても、
新しい絵を生み出す事ができないと感じた絵師達は、
やがて狩野派を離れ、
自分の才能を生かして様々な水墨画を描き始めるようです。


作品名:高麗刷毛目茶碗
作者:千漢鳳
銘:瑞雲
備考:桐箱入/二重箱
而妙斎箱書

高麗刷毛目茶碗
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高麗茶碗は、16世紀半ば頃から、
茶道で用いられた茶碗の分類の一つだそうです。

ここでいう「高麗」は、
「朝鮮渡来」のという意味のようで、
ほとんどは高麗時代(10世紀〜14世紀)ではなく、
朝鮮王朝時代(14世紀〜20世紀)の製品なのだとか。

村田珠光の時代(室町時代中期)、
茶道でわび・さびを重んじるようになる頃から、
茶器は、荘厳な唐物(中国製)中心から、
日用雑器の、高麗物や和物(日本製)が良しとされるように、
価値観が変わっていったみたいです。

以下に、高麗茶碗に属する茶碗を、
いくつか紹介しようかと思います。


■熊川茶碗(こもがいちゃわん)
高麗熊川茶碗
作品名:高麗熊川茶碗
作者:千漢鳳

 ややチューリップ状にふちの反った形をしているそうです。
 すそ以下は、釉がかかっていないとか。


■御本茶碗
御本茶碗
作品名:御本茶碗
作者:杉本貞光

 御本茶碗(ごほんちゃわん)の御本とは「お手本」の意味だそうで、
 17〜18世紀にかけて、日本で作られた手本(茶碗の下絵や切型)をもとに、
 朝鮮で焼かれた茶碗のことを指すようです。
 胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、
 この斑点を「御本」または「御本手(ごほんで)」と呼ぶこともあるみたいです。


■三島茶碗
三島茶碗
作品名:三島茶碗
作者:宮川香雲

 鉄分が多い鼠色の素地に、印や箆(へら)や櫛で紋様をつけ、
 白土の化粧土を塗った後、削り又は拭き取り仕上げをし、
 長石釉や木灰釉を掛けて焼成した白象嵌の陶器のようで
 「暦手(こよみで)」とも呼ばれるとか


■刷毛目茶碗
刷毛目茶碗
作品名:刷毛目茶碗
作者:多気檗山(タキバクザン)

 刷毛目(はけめ)は、陶磁器の加飾法の一つで、
 刷毛で白土を塗って刷毛目を残し、さらに透明な釉薬をかけたもののようです。


■その他「井戸茶碗」
 高麗茶碗の最高峰だそうです。
 「竹の節高台」と称される高い高台をもつとか。



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