道具は、釣り釜と釣が釜を釣るためのセットです。
釣釜は、天井に打たれた蛭釘(ひるくぎ)から釜を釣り下げる使用するもので、
「雲龍」「車軸」「鶴首」といった細長い小さめのものを使うようです。
雲龍釜に関しては、井伊直弼著『閑夜茶話』に以下のような話があるそうです。
雲龍釜というの初め、東山御物の青磁水指の形より、利休が思いついて釜を作らせたものみたいです。
「絵は探幽なり」という言い伝えもあるとか。
また、雲龍が姥口のようになっているのは、少庵の考えのようで、
「煮えが良くもつように」と好まれたものみたいです。
利休が好んだのは一重口だそうです。
三月に釣釜にするのには、この春の風情を楽しむことと、
炉中に撒かれた灰が増える炉の終わりゆく時期に思いを馳せるという意味もあるのだとか。
釣釜は、広間と小間では室礼が異なり、
広間では天井に打たれた蛭釘に「鎖」を、
小間では竹や植物の蔓などで出来た「自在鉤」を下げて、
その先に釜をかけるようです。
■鎖の間
座敷の一種である「鎖の間」は、釣釜の鎖に由来しているそうです。
この「鎖の間」、古田織部や 小堀遠州らが、
小座敷と結び、さらには書院までつなぐことにより、
一日の内に座をかえて茶を楽しみ、かつ小座敷では得られない、
書院風の座敷飾りを茶会にとりいれることを可能にしたみたいです。
鎖の間について補足すると、
1.利休が一旦取りやめた:立花実山著『南方録』
2.織部が「式正の茶」として復活させた:『古田家譜』
3.遠州が実際に造った:『松屋会記』
といった流れがあったみたいです。
以下、それぞれの詳細について。
立花実山著『南方録』に
鎖の間のことを、千宗易が伝え聞いて
「これ後世に侘茶湯のすたるべきもとゐなり」
といってやめさせたようです。
『古田家譜』に
秀吉が町人文化の茶を武家風にせよ
と言われたので「式正の茶」に改定した
といったことが記載されているようで、
この頃より「侘茶」から「儀礼の茶」へと変遷していったみたいです。
ちなみに『古田家譜』とは、仙台藩伊達家着座古田家の略譜のことだそうです。
松屋家の茶会記『松屋会記』に
「通口ヨリ鎖ノ間ヘ出候、并書院、亭へ出候」
とあるそうで、遠州が住んでいた伏見奉行屋敷に
「長四畳台目」を造ったことがわかるみたいです。
今は現存しないとのこと。
「長四畳台目」というのは、
・四畳を横に細長く並べ、
・その中央側面に台目構えの点前座を配し、
・躙口を中ほどに造ることにより、
・左方に床と貴人座、
・右方に相伴席とし一室の中に取り込む
といった形のものだったそうです。
お茶の郷博物館には「縦目楼」という「長四畳台目」があるみたいで、
伏見奉行屋敷と、遠州と親交のあった松花堂相乗が住んでいた
石清水八幡宮滝本坊を合わせたものだそうです。
毎週火曜日が休館日で茶室「縦目楼」は9:30~16:00に営業中だそうです。