10月 14, 2017
動画は、中次(なかつぎ)と、その内側を見せたものです。
中次の名は、蓋と身の合わせ目(合口)が、
胴のほぼ中央にあることに由来しているそうです。
本来は内外とも全部真塗で単純な形のものだったようですが、
後には塗も溜・朱・摺漆などができたみたいで、
合ロの位置の移動や蓋の形状の変化も生まれたのだとか。
藪内竹心著『源流茶話』
「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」
とあることから、肩衝系の茶入の「挽家」の形が中次とするのが、一般的みたいです。
挽家は、中に入れる茶入の形に轆轤で挽いた木地に漆塗りした容器のことだそうです。
ただ、中次に関しては、『日葡辞書』に
「ヤロウまたはnacatcugui 碾いた茶を入れるある種の小箱」
また、
『雪間草』に
「薬籠 当世の中次なり黒塗又やろうとも云」
とそれぞれあるそうで、本来薬を入れる器である
「薬器」「薬籠」から転化したという説もあるとのこと。
中次系の薄茶器には、
「真中次(しんなかつぎ)」:円筒形の胴の中央部に合わせ目(合口)があるもの。
「面中次(めんなかつぎ)」:真中次の蓋の肩を面取りしたもの。
「茶桶(ちゃおけ)」:面中次の蓋を浅くしたもの。
「吹雪(ふぶき)」:茶桶の身の裾も面取りしたもの。
「頭切(ずんぎり)」:茶桶の蓋を立上がりがほとんどない程浅くしたもの。
「立鼓(りゅうご)」:真中次の合口の部分が細く鼓を立てたようなもの。
「丸中次(まるなかつぎ)」:上下(蓋・身)を丸くしたもの。
「甲赤(こうあか)」:丸中次の身に中次の蓋を冠せ、丈を低くしたようなもの。
などがあるそうです。
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本桑でできた中次茶器で、薄茶器の一種だそうです。
中次の分類としては「真中次(しんなかつぎ)」になるでしょうか。
仕覆・帛紗付が付いているので、
和巾点などに用いると良いかと思われます。
■和巾点
和巾点は、玄々斎による裏千家の点前の整理
(法護普須磨の小習を含む三十二条の板書き)の一環として、
禁裏への茶の献上を強く望み、
1865年6月、中院家の仲介により献上が許され、
それを記念して「和巾点」が再興したのだそうです。
元々、和巾点は、
利休 時代から唐物や棗などの由緒あるものを扱う作法として扱われていた点前が、
いつのまにかなくなったみたいです。
1866年正月19日、玄々斎は、
禁裏へ濃茶竜影と新作白竹真削り茶杓を献上し、
その献残の茶をもって
「利休大居士 の古書により」
和巾点を復興し、披露したようです。
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10月 08, 2017
阿古陀(あこだ)は瓜の名前だそうです。
瓜の如く、丸胴の肩から裾にかけて、数条の堅筋が入っているもの。
多くは溜塗で、小さな摘みの木地蓋がついている。
始め如心斎の好みだそうです。
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■如心斎宗左
如心斎は、表千家の第七代家元だそうです。
第六代家元の覚々斎の長男として生まれ、家元制度の基礎を築き、
七事式を制定するなど、茶道人口増大の時代に対応する茶の湯を、
模索した人みたいです。
千家茶道中興の祖ともいわれ、千利休以来の千家の道具や記録類を整理したことそうです。
実弟である裏千家八代一燈宗室や、
高弟である川上不白らと共に時代に即した茶風を創り出した家元として名高いとか。
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■新たな茶風
如心斎らの「新たな茶風」というのは、
茶の湯に自由闊達な気風が吹き込まれたことだそうです。
茶室は利休・宗旦のような極小茶室から改築・拡張されていき、
茶道具もそれまでの侘びた目に立たないものから、
華やかな蒔絵の棗など、派手で目立つものになって行くそうです。
この第七代如心斎らが行った組織改革は、
後世に千家流茶道を伝える基盤整備である一方で、
単なる指導方法の変更のみならず、
小規模空間で小人数をもてなすわび茶の世界を大きく変えていくことになるようです。
第八代卒啄斎のとき天明8年(1788年)の大火により、
表裏両千家は伝来の道具のみを残して数々の茶室はすべて焼失してしまったそうですが、
翌年までに速やかに再建され、利休居士二百回忌の茶事を盛大に催したそうです。
こうした復興が可能だったのは、如心斎らによる「家元制度の整備」によるところが大きい
と考えられるのだとか。
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■表千家の名の由来
表千家は、千利休を祖とする千家の家督を継いだ千家流茶道の本家で、
宗家は京都市上京区小川通寺之内通上ルにあるそうです。
表千家を象徴する茶室不審菴(ふしんあん)の号の由来は
「不審花開今日春」の語に由来しており、財団法人不審菴が管理しているとか。
「表千家の名」は、茶室『不審庵』が通りの表にあることに由来しているそうです。
本家の表千家に対して分家の裏千家の名は、
「今日庵」が表通りの不審菴の裏にあることに由来するとか。
裏千家の宗家の住所は、表千家と隣接した京都市上京区小川寺之内上ルにあるそうです。
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8月 25, 2014
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薄茶器の一角「棗(なつめ)」は、
文献上『天王寺屋茶会記』の永禄7年(1564年)に
津田宗達の茶会で用いられたのが、
最初となっているみたいです。
村田珠光に塗師の羽田五郎が、
棗形茶器を作ったのが最初とも言われますが、
史料による裏付を持たないことから、
研究者の間では疑問視されてるとか。
寸法は、珠光棗→紹鴎棗→利休形棗と
小さくなっていったみたいです。
棗の形としては「珠光棗」「紹鴎棗」「利休棗」
「長棗」「平棗」「白粉解棗」「尻張棗(下張棗)」
「鷲棗」「胴張棗」「丸棗」「河太郎棗」「碁笥棗」
「老松割蓋茶器」「町棗」「盛阿弥棗」「宗長棗」
「一服入棗」「壺棗」「寿老棗」「帽子棗」「まがき棗」
などなど、ずいぶんたくさんあるみたいです。
利休棗は大中小をさらに大中小に分けた
9段階に分類されるらしいですが、
実質的には「大棗」「中棗」「小棗」の
3種に分類するのが普通みたいです。
棗の名は、黒梅擬(くろうめもどき)科の植物「棗」の実に
形が似ていることから来ているとのこと。
この植物、初夏に芽を出すことから「夏芽」と書くこともあるとか。
秋に赤い楕円形の実がなって、
熟すと赤黒く乾燥して
「動悸・息切れ・不眠・血圧」なんかに効く薬になるみたいです。
「棗」に関するページは、こちらから。
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8月 23, 2014
※画像を押すと拡大できます。
中次(なかつぎ)は、薄茶器の一種で、
円筒の寸切形のものだそうです。
中次の名は、蓋と身の合わせ目(合口)が、
胴のほぼ中央にあることに由来しているみたいですです。
本来は内外とも全部真塗で単純な形のものだったようですが、
後には塗も溜・朱・摺漆などができたみたいで、
合ロの位置の移動や蓋の形状の変化も生まれたのだとか。
「中次」に関するページは、こちらから。
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5月 05, 2014
金輪寺(きんりんじ)は、
和物の塗物茶器の初めとされ、
胴は寸切りの如く、置蓋で、
蓋の甲が丸みをもち、
掛かりが少し外に広くなっているそうです。
由来は、小型の経筒を茶器に転用したとも、
後醍醐天皇が金輪寺で使用した茶器ともいわれるとか。
今井宗久著『今井宗久茶湯日記抜書』の
1555年4月1日の利休会に
「キンリンシ茶入」
とあるそうで、
江戸時代初期までは濃茶器として用いられたが、
のち薄茶器として使用されたと捉えることができるのだとか。
「金輪寺」に関するページは、こちらから。
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