灰器(はいき)は、亭主が客の前で、
炉や風炉に炭を組み入れる炭手前で用いる、
灰匙で炉や風炉の中に蒔くための灰を入れる器だそうです。
古くは「灰焙烙(はいほうらく/はいほうろく)」と言ったそうで、
最初の焼き芋は、江戸本郷で、
1793年に焙烙を使って蒸したものを売ったとのこと。
小型の焙烙は伝法(でんぼ/でんぼう)と呼んで、
これを用いて焼く場合は「でんぼ焼き」と言ったりもしたようです。
ちなみに茶道では、炭手前のみ、
「点前」ではなく、「手前」を使うみたいです。
灰器(はいき)は、亭主が客の前で、
炉や風炉に炭を組み入れる炭手前で用いる、
灰匙で炉や風炉の中に蒔くための灰を入れる器だそうです。
古くは「灰焙烙(はいほうらく/はいほうろく)」と言ったそうで、
最初の焼き芋は、江戸本郷で、
1793年に焙烙を使って蒸したものを売ったとのこと。
小型の焙烙は伝法(でんぼ/でんぼう)と呼んで、
これを用いて焼く場合は「でんぼ焼き」と言ったりもしたようです。
ちなみに茶道では、炭手前のみ、
「点前」ではなく、「手前」を使うみたいです。
御庭焼(おにわやき)といって、
江戸時代、趣味のある藩主が
城内や邸内に窯を設けて茶器などを
焼かせたそうです。
紀州徳川家の偕楽園焼、
尾張徳川家の御深井(おふけ)焼、
備前池田藩の後楽園焼などが有名だとか。
■偕楽園焼
紀州徳川家の御庭焼で、 紀州焼とも言うみたいです。
文政(1818~1830)ごろ、十代藩主治宝(はるとみ)が、
別邸西浜御殿内の偕楽園で、
京都の楽(らく)焼の陶工や、
永楽保全らに焼かせたのに始まるようです。
交趾焼の写しなどを主に作ったのだとか。
永楽善五郎(千家十職の土風炉・焼物師)が携わった偕楽園焼は、
紫と浅葱色と呼ばれる
トルコブルーを基調にした法花の和製の作風みたいです。
偕楽園の名は、天保十二年(1841年)、
水戸九代藩主徳川斉昭が別邸を創設し、
偕楽園と称したことに始まるようです。
明治六年(1873年)茨城県が、
公園地としてこれを経営することとなったみたいです。
明治四十年、広田松翁が、公園内に楽窯を作り、
偕楽焼と称したそうです。
「軽い軟陶に白釉がけ」の茶碗を主に作り
「偕楽」隷書印を用いたようです。
昭和十一年、風戸元愛が、
水戸市緑町に偕楽焼の継承のために
茨城陶器研究所を設立、板谷波山・城戸夏男らが協力し、
焼成したみたいです。
このときの銘印は「偕楽」丸印・小判印を用いたのがとか。
その後「偕楽」印は、茨城工芸指導所に受け継がれ、
昭和二十四年、笠間市に茨城県窯業指導所が開設されるまで、
偕楽焼を製作したそうです。