千利休についての動画

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千利休 1522年~1591年4月21日 戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人

茶湯の天下三宗匠(今井宗久、津田宗及、千利休) 抛筌斎利休宗易(ほうせんさい)こと千利休は、

わび茶(草庵の茶)の完成者。

今井宗久 ・ 津田宗及 と共に茶湯の「天下三宗匠」や「茶聖」と称せられたそうです。

幼名は与四郎。利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって、

町人の身分では参内できないことから、

正親町天皇から与えられた居士号だそうです。

利休の名の由来は「名利、既に休す」や「利心、休せよ」の他、

『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだとも言われているようです。

利休は常々 「茶の湯は台子を根本とすることなれども、

心の至る所は草の小座敷にしくことなし」

と愛唱していたとか。 信長 の時代、 今井宗久 の紹介で

信長に拝謁し茶頭となったそうです。

豊臣秀吉 の時代には、重要な側近のひとりとして、

政治面でも影響力を持つようになるとか。

「佐々木道誉」について

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佐々木道誉(佐々木導誉)は、佐々木佐渡判官入道や、
京極高氏(きょうごくたかうじ)とも呼ばれ、
茶をゲームとして楽しむ「闘茶」を広めた人とのこと。

また、茶道の他、連歌などの文芸や、
立花・香道・笛・近江猿楽の保護者となったようです。

当時の庶民の間でも、茶を点てて、
どちらの泡が先に消えるかといった「闘茶」があるなど、
様々なルールで以降100年以上に渡り流行ったとか。

この「闘茶」は「茶香服(ちゃかぶき)」として、
現在、誰でも参加できる風流な品質飲み当てゲームが、
伝わっているようです。

■現代の茶香服
宇治市で行われている茶歌舞伎(茶香服)は、
ふつう玉露二種、煎茶三種を用い、
それぞれの茶に花・鳥・風・月・客の名前をつけて熱湯をさし、
90秒たったもので飲み分けるのだそうです。

一回飲むごとに、自分の思った茶銘の種別札を札箱に入れ、
そして一通り(5回)すめば札箱をあけて採点するのだとか。
これを5回繰り返してその合計点で順位を決めるようです。

これは、服装ややかましい礼儀作法にはまったく関係なく、
誰でもが参加できる風流な品質飲み当てゲームみたいです。
採点方法は、煎じ札を出して競技者に出した茶の順番を教えて採点するそうです。
全部正解の場合は「皆点」5点とし、あと3点、2点、1点、0点となるようですが、
全部誤りの場合は0点と言わずに「チョット」と表現するのだとか。

■花見の会での「闘茶」
『太平記』にこんな話があるそうです。

桜の名所として知られる勝持寺で、ある時、花見の会を開くそうです。

本堂の前に咲く桜の大木と、左右二本ずつに真鋳の花瓶を鋳かけて、
一双の花が生けられているように見せるようです。

その前に大机を置き、大きな香炉に名香を一度に焚きたてたとか。

椅子に座った数百人の客に珍味を持った食事を出した後、
「茶」が出されるそうです。

そして、百人分の茶百服が何度も点てられ、その茶が
「本茶」か「非茶」かを飲み当てる「闘茶」が行われたみたいです。

景品には、沈香・中国産の反物・砂金・太刀など、
豪華な景品が出されたのだとか。


茶人1

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「初代土田友湖」について

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紅帛紗(朱)


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初代土田友湖は、中村宗哲家の三代目彭祖(ほうそ)と共に、
俳諧を通じ、如心斎天然宗左と交わり、
如心斎から「友湖」の号を賜るそうです。

また、この初代土田友湖(不染斎)は、
二代目二得から伝わっていた「飯後軒」の額を掲げ、
よく茶事をしていたようです。

又玄斎一燈宗室は、その口切りの茶事に招かれて、
「口切りや松葉もなしに飯後軒」
という句を残したのだとか。

1765年、77歳で死去し、辞世の句は
「仏物不滅 我亦常住 法身妙体 是妙法蓮花経
 七十七歳 不染斎」
だそうです。


帛紗

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「明菴栄西」について

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「抹茶」を日本に伝えた人がこの栄西だそうです。

岡山県出身の栄西は、天台宗を習いに中国へ行くのですが、
そこで流行っていた禅宗を習って帰ってきたそうです。

禅宗での座禅の合間に飲まれたのが「抹茶」で、
源実朝が頭痛に悩んでいたときに、
栄西が「抹茶」を飲ませて治したという逸話があるとのこと。

後に、宇治茶となる「本茶」は、栄西が京都高山寺の
明恵(みょうえ)上人に贈ったものを、
明恵が京都栂尾一帯に栽培したものだそうです。

「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」の冒頭で始まる
『喫茶養生記』も栄西の著作だそうです。

再入宋後、茶種を持ち帰り、
筑前の背振山に植えたようです。
これが「岩上茶」のおこりなのだとか。

また、栂尾の明恵上人に茶種を贈ったものが
「栂尾茶」の始まりみたいです。
宇治の茶は、この栂尾から移されたものだそうです。


茶人1

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「嵯峨天皇」について

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日本の書道史上の能書のうちで最もすぐれた三人の一人で、
三筆と尊称された人みたいです。

当時の喫茶は、固形の緊圧茶「餅茶(びんちゃ)」から、
必要量だけ切りほぐして湯にいれて煮出して飲む方法だったとか。

嵯峨天皇は、関西一円に茶を栽培させ、
毎年献上するよう命じていたそうで、
「季御読経(きのみどきょう)」という平安時代に行われた宮中行事の中で
「引茶」として僧侶たちに振る舞ったそうです。

中国文化人の陸羽著『茶経』はこの頃(760年)に著されていて、
白磁や青磁の茶碗についても書かれているとか。


茶人1

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