助炭ってこんなの

Category: 茶道具全般


助炭(じょたん)とは、席中に客がいない際、
炭火が長く持つように、
釜をかけたまま炉の上に被せておくものだそうです。

桐の枠組みに紙張りされた櫓形のものや、
陶器製で意匠のあるものがあるとか。

風炉用は、厚紙で作られた六角形のもので、
「雪洞(せつどう)」というものがあるようです。

同じ目的で作られいるのですが、
同名で、蝋燭立てに長柄をつけた、
紙や絹で覆いのある灯具の事も言うとか。
「雪洞(ぼんぼり)」とも読むようです。

「雪洞(ぼんぼり)」の名の由来は、
「ぼんぼりと灯かりが見える灯具」
というところ来ているみたいです。

また、気象庁で採用している雨量計に対して、
固形降水の捕捉率改善のため、
受水器の入り口周辺に風よけを付けるそうですが、
これも「助炭」というそうです。

非固形降水の観測にあたり、助炭を設置したまま観測しても、
観測誤差は生じないことが確認されているようです。

ちなみに、気象庁で採用している雨量計は、
・転倒ます型
・温水式転倒ます型雨量計(ヒーター付き)
・溢水式転倒ます型雨量計(ヒーター付き)
という三種類があるみたいです。

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■ぼんぼりと言えば・・・

「ぼんぼり」は「ほんのり」の語の転訛だそうで、
灯火を紙や布の火袋(ほぶくろ)で覆い、
「火影のほのかにすいて定かならぬ」
をいったみたいです。

「ぼんぼり」は、はじめ広く灯火・茶炉(さろ)などに取りつけた、
「覆い」のことだったようです。

次第に、小型の行灯(あんどん)を言うようになり、
その後、紙・布などをはった火袋を取りつけた、
手燭や燭台を呼ぶようになったのだとか。

手燭や燭台は、ろうそくを用いる灯火具で、
普通は、灯台のように裸火を灯したようですが、
その炎が風のためにゆり動かされ、
吹き消されたりするのを防ぎ、かつ失火を避けるために、
行灯のように、火袋を取りつけた「ぼんぼり」が考案されたそうです。

■上巳の節句のはじまり
古来、中国では「3月最初の巳(み)の日」に、
水辺で禊(みそぎ)を行い、
心身を清める「上巳の祓い」という風習があったようです。

それが次第に、水辺で遊び、宴を行うようになったみたいです。

書聖・王義之が蘭亭で催した曲水宴が有名だそうで、
名士が集い、水流に盃を浮かべて詩歌を詠んだのだとか。
この時、記された『蘭亭序』は、書の最高峰として知られるようです。

その後、魏の時代には「3月3日」に行われるようになり、
日本には、奈良・平安時代になってから
「3月3日の曲水宴」として遣唐使が日本に伝えたみたいです。

『日本書紀』には、
「三月上巳幸後苑曲水宴」
とあるようで、
顕宗天皇が、485年3月に、
宮廷の儀式として曲水の宴を行ったみたいです。

そして、平安時代「上巳の節句」の日に、
人々は野山に出て薬草を摘み、
その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願ったそうです。

■上巳の節句と桃の節句
3月3日に行われるひな祭りの風習は、
曲水の宴から生まれたものだそうです。

もともと人形を流して厄を祓っていたのが、
ひひな遊び(ひいな遊び)と自然に結びつき、
今の座り雛の形に変化したようです。

江戸幕府は「五節句」を制定し、
3月3日を「桃の節句」と定めると、
5月5日の「端午の節句」が男の子の節句であるのに対し、
3月3日は女の子の節句として定着して行くそうです。

明治時代になると、旧来の節句行事を廃止して、
新しい祝祭日を設けるみたいです。

節句行事は一時衰えるようですが、
長い間人々の生活に根を下ろした行事は、
簡単になくなるものではなく、やがて復活するそうです。

「上巳の節句」を「桃の節句」というのは、
上巳の節句が、桃の時期だからということ以外に、
桃は不老長寿を与える植物とされていたようで、
百歳(ももとせ)まで長生きできるよう、
桃の節句には、桃花酒を飲む風習もあったからみたいです。

■桃の節句とひな祭り
室町時代末頃から始まった3月3日のひな祭りは、
江戸時代に華麗な女の子のための行事となって行くみたいです。

1629年、京都の御所で盛大なひな祭りが行われたのをきっかけに、
幕府や大奥でもひな祭りを行うようになり、
やがて武士階級から町人へ、江戸から地方へと広まって行くようです。

江戸時代中頃になると、
女の子の誕生を祝って、初節句にひな人形を飾る風習も生まれ、
豪華なものも作られるようになっていったそうです。

日本橋十軒店や浅草茅町など、江戸市中に雛市が立ち並び、
各所で大変にぎわったみたいです。

『御触書宝暦集成』十五では、
「雛は八寸以下、雛諸道具は蒔絵は不可」
として、華美になりすぎるひな人形を戒める、
幕府のおふれまで出されたようです。

しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる、
精巧を極めた小さな雛人形が流行するそうです。

江戸時代後期には「有職雛」と呼ばれる、
宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、
さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れたみたいです。

18世紀終わり頃より囃子人形が現れ、
幕末までには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案されたようです。

雛飾りは嫁入り道具や台所の再現、
内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、
御殿や壇飾りなど、急速にセットが増え、
スケールも大きくなっていったそうです。

■雛人形の飾り方
壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがあるようです。

かつての日本では「左」が上の位であったそうで、
人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が、
一番の上位で天皇から見ての左側(向かって右)にいるのだとか。

飾り物の「左近の桜・右近の橘」での桜は、天皇の左側になり、
これは宮中の紫宸殿の敷地に、実際に植えてある樹木の並びだそうです。

明治天皇の時代までは左が高位という伝統があったため、
天皇である帝は左に立ったようです。

しかし、明治の文明開化によって日本も西洋化し、
その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立ったそうです。

以降、皇室の伝統として、昭和天皇は、何時も右に立ち、
香淳皇后が左に並んだみたいです。

男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く、
それが一般的になり、結婚式の新郎新婦もそれに倣っているとか。

社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、
男雛を向かって左に置くのを「現代式」、
右に置くのを「古式」としているそうです。

飾り方にも全国各地で色々あるようですが、
多くは以下の三種の飾り方みたいです。
・御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
・御殿の内の一室を拝しての飾り方
・屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
ただ、実際には、特に飾り方に決まりごとはないとか。

七段飾りは高度経済成長期以降、
八段飾りはバブル期以降に飾られたようです。

最近では部屋の大きさに合わせたり、
雛人形を出し入れしやすいように、
段数を減らしたものが主流となっているみたいです。

祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると、
結婚が遅れるという話は、昭和初期に作られた俗説だそうです。

「旧暦の場合、梅雨が間近であるため、
早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから」
とか、
「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、
などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」
というのが理由みたいです。