「茶の湯の正月」について

Category: 茶道史

11月初旬、現在の暦での立冬をもって、
新しい年のはじめとするそうです。

この日を迎えて茶室の「炉」をひらき、
春に摘んだ新茶を葉茶の形で茶壷にたくわえたものを、
壷の口封を切って使いはじめるのだとか。

この「口切」「開炉」の重なる時節の茶事は、
正午に客を案内して始められるようです。

■壷飾
壷飾(壺飾り)は、口切の茶事に行うのだとか。

壷飾には真・行・草の結びがあるそうで、
それぞれ、
「真:両わな結び(正面)」
「行:総角結び(客付)」
「草:淡路結び(勝手付)」
と呼ばれる結びになるみたいです。

■両わな結び
「両わな結び」は、
伊勢貞丈著『包結記』に、
「基本の水引結びの形は、
丸いものを結ぶ「片わな結び」、
平たいものを結ぶ「両わな結び」、
それと結びきり。
それぞれ陰陽説に従い、
丸いものは天の形であるから陽を表していて、
一方平たいものは、
地のかたちで陽を意味する。」
といった内容があるそうです。

また「わな(輪奈)」は、
糸や緒を輪状にする意味のようです。

■総角結び
「総角(あげまき)結び」は、
古墳時代の男子の結髪である「美豆良(みづら)」が変形したもので、
頭髪を左右に分けて頭上に巻き上げ、
双角状に両輪を作ったものなんだとか。

揚げて巻くが語源となっているそうです。

死者の霊魂から子供を守る、
魔よけといった呪詛的な意味合いがあったみたいです。

■淡路結び
「淡路結び」は、
基本的にほどけないようになっているようで、
祝儀用の水引などは、金銀と紅白の二種類あるそうです。

金銀結びは、結婚式に使用され、
二度とない、切れないことを表すみたいです。

紅白結びは、御礼など、
一度だけの大切なことに使用されるとか。


口緒

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「掛物の墨跡」について

Category: 掛軸, 茶道史

立花実山著『南方録』に以下の利休の話があるそうです。

一座建立の道を得るためには、何といっても掛物が第一です。
その中でも墨跡が第一でしょう。そこに書かれた言葉の心を敬い、
著者である道人(どうじん)や仏教の祖師方の徳を賞するからです。

俗人の筆になるものは掛けてはなりません。
しかし、歌人の詠んだ教訓的な歌などは掛けることもあります。
ただし、これはわび小座敷の場合であって、
四畳半にもなると本当の草庵とは心持ちが違ったものになります。
よくよく分別する必要があります。

釈迦や達磨などの祖師の語と、
筆者の徳とが兼ね備わった墨跡をまず第一とし、
これが最も大切な一幅といえます。

著者が徳の大きい人物とまで言えなくても、
釈迦や祖師の言葉を書いている墨跡を第二とします。

絵も筆者次第では掛ける場合もあります。
中国の僧の絵には、仏祖の像や人物を描いた絵が多くあります。

人によっては持仏堂のようだと言って掛けない人もいますが、
それは一方的な見方です。

むしろ、いっそう味わって掛けるべきでしょう。
仏や祖師の教えに帰依して心を寄せることが、
わび茶では特別に大切な心得です。


掛軸

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「茶道」の歴史

Category: 茶道史

古田織部は、本名、古田重然で、
「織部」の名は、
壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に、
叙任されたことに由来しているとか。

利休 死後、その地位を継承するかのように、
天下の茶人になったとか。

織部は、 千利休 の
「人と違うことをせよ」
という教えを忠実に実行し、
茶碗をゆがませ、
武家好みの多様な模様と異国趣味を用いた茶碗を生み出すなど、
秩序に収まらない自由闊達な発想を持っていたそうです。

茶道の師である千利休同様、反骨精神が旺盛で、
幕府の意向を無視することが少なくなかったとか。

危機感を感じた徳川家康は、
いちゃもんをつけて織部を自害させたようです。
織部は一言も釈明せずに自害したのだとか。

■千少庵
利休 賜死の後、千家を再興する中心人物だとか。
少庵を温かく迎えたのが利休七哲の蒲生氏郷 だそうで、
ともに茶を楽しんだようです。

1594年徳川家康・ 蒲生氏郷 のとりなしで、
赦されて京都に戻ったのだとか。

少庵の性格は控え目で温和、
千道安 の「剛・動の茶」に対して、
少庵は「柔・静の茶」と評されたみたいです。

■千宗旦
千少庵の息子で、金森宗和 の華麗な茶風「姫宗和」に対し、
わび茶に徹する「わび宗旦」として世に知られたとか。

宗旦の門弟の中で、特に活躍した4人を宗旦四天王というそうで、
藤村庸軒・杉木普斎・山田宗徧・久須美疎安だとか。

宗旦の息子には大名家に仕えることを勧め、
紀州徳川家: 千宗左 (表千家)
加賀前田家: 千宗室 (裏千家)
讃岐松平家: 千宗守 (武者小路千家)
と仕えたそうです。
この三人の系譜を「三千家」と呼ぶようです。

宗旦は、不審庵(ふしんあん)を中心とする本法寺前町の屋敷を宗左に、
北裏に今日庵を建て 宗室 とともに移り住んだそうです。

この茶室「不審菴」の号は「不審花開今日春」の語に由来するとか。


茶人3

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「千利休」の歴史

Category: 茶道史

抛筌斎利休宗易こと千利休は、
わび茶(草庵の茶)の完成者。

利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって、
町人の身分では参内できないことから、
正親町天皇から与えられた居士号だそうです。

利休の名の由来は
 ・「名利、既に休す」から取った
 ・「利心、休せよ」から取った
 ・ 『茶経』の作者とされる陸羽(りくう)にちなんだ
などと言われているようです。

利休は常々、
「茶の湯は台子を根本とすることなれども、
心の至る所は草の小座敷にしくことなし」
と愛唱していたとか。

利休七哲は、
蒲生氏郷(筆頭)
細川忠興(三斎)
古田重然(織部)
芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)
高山長房(右近/南坊)
牧村利貞(兵部)
だそうです。

利休七哲は、千利休の高弟7人を指す呼称。
利休の曾孫にあたる
表千家の江岑宗左著『江岑夏書(こうしんげがき)』
で挙げているとか。

いずれも後世になってから呼称されたもので、
当時からそのように呼ばれていたわけではないそうです。

利休が秀吉の怒りを買い死罪になった原因は、
 「大徳寺三門改修に当たって増上慢があったため、
 自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、
 その下を秀吉に通らせた」
というのが、通説だそうですが、
他にもたくさん説があるとか。

利休が死の前日に作ったとされる辞世の句は、
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 
  祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛
だそうです。
また、茶道では、毎年三月に利休忌が行われているみたいです。

■泪の茶杓
「泪の茶杓」というのがあり、
千利休 が 豊臣秀吉 に切腹を命じられ、
その猶予期間に自らの手で削った中節形の茶杓だそうです。

1591年2月、その茶杓を使用した生涯最後の茶会の後に、
古田織部 に分け与えたのだとか。

茶杓は白竹で樋が深く通り、有腰で、
利休の茶杓の中でも、
とくに薄作りにできているようです。

古田織部 は、この茶杓を、
本来用いられるべき、着色のない木地の竹筒ではなく、
黒漆で丹念に塗りあげた茶杓用の筒を自作して入れ、
位牌としての意味づけをしたようです。


茶人2

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「茶道の始まり」の歴史

Category: 茶道史

茶道具の秘伝書『山上宗二記』に
 足利義政が能阿弥に、
 「昔からある遊びごとは、すべて遊びつくしたから、
 他に変わったものはない。」
 と聞いたところ、
 能阿弥が、
 「茶の湯があります。」
 といって、30年来茶の湯に打ち込んでいる 村田珠光 を、
 この義政に紹介した
とあるそうです。

■村田珠光
僧侶なのに苗字がある珠光は、
足利義政 に召し出され茶を指南したとされているとか。
ただ、『山上宗二記』の能阿弥に関する記述が、
その生没年と合わないことから、
現在の茶道史研究では基本的に否定されているようです。

茶法に関する義政の問いに対して、
 「茶法というものは、
 ただひたすら清くして、
 禅にそったものであって、
 それが茶法の極致であり、
 最も根本的な精神です。」
と答えたそうです。

珠光は、茶道は禅と同一であるべきとする
「茶禅一味」の境地を開いたみたいです。

能阿弥との関係も深く、
花の弟子となり茶・目利きを学んだのだとか。

他にも、茶の湯に一大改革をもたらしたそうです。
・書院台子の茶→草庵小座敷の茶へ
・唐物→国焼へ
・四畳半の草庵の茶を提唱
・竹の茶杓を考案
・茶の湯から賭博と酒盛りを追放
・「一座建立」を図るのが茶事の主眼
など。

■茶禅一味
寂庵宗澤著『禅茶録』に
 「茶意は即ち禅意也。
 故に禅意をおきて外に茶意なく、
 禅味を知らざれば茶味も知られず」
とあるそうです。
珠光は、まさに茶道界の画竜点晴の眼を入れた人、
と言えるのではないでしょうか。

■『禅茶録』
1828年に寂庵宗澤が書いたとされる本ですが、
『茶禅同一味』という書を補足編集して著したものなのだとか。

民藝運動を起こした柳宗悦に
「すべての茶人の座右に置くべき名著」
と言わしめたとか。

■石黒道提
村田珠光 の弟子で、千本道提とも呼ばれるようです。
茶庭の飛石を考案した人だとか。
京都千本付近に、米40石(12000坪の広さ)の田畑を隠居領としていたそうです。

道提の名は 足利義政 の耳におよび、
義政は、後日、道提の草庵を草鞋を履いて訪れるそうです。

庭に雑紙を同朋衆に敷かせるのですが、
道提はこの雑紙の跡に石を置いたようです。
これが茶庭に飛石が打たれるようになった起源だとか。

■武野紹鴎
武野紹鴎は、村田珠光の門下の
藤田宗理・十四屋宗陳や十四屋宗伍などに
茶の湯を学んだ三条西嶺隆の、
『詠歌大概(藤原定家)』の序の講義を聴いて、
茶の湯を悟ったそうです。

村田珠光 の為し得なかった「わび茶」を目指し、
座の芸術である「茶の湯」を完成させた人みたいです。

千利休の師匠である武野紹鴎は、
和歌を三条西実隆に師事し、茶の精神を学んだそうです。

唐物中心だった茶道具に、
瀬戸・信楽など日本の物を取り入れ、
竹の蓋置・木地の曲物・土風炉を考案したとのこと。

ある時、武野紹鴎が、
 見わたせば 華も紅葉も なかりけり
       浦のとまやの 秋の夕暮
と詠うと、千利休が
 花をのみ 待つらん人に 山里の
       ゆきまの草の 春を見せばや
と詠ったようです。

「わび茶」の精神の違いがここで見てとれるでしょうか。

私の場合は、
 武野紹鴎は、わび茶を、
 「華も紅葉もなかりけり」とし、
 枯れてゆく世界を思い茶の湯の世界としたようですが、
 千利休は、
 「ゆきまの草の 春を見せばや」とし、
 新たな芽吹きを予感させる、
茶の湯の世界を築こうとしたと見ます。

■北向道陳
利休は道陳のもとで稽古に励み、
「台子・書院は道陳」「小座敷は 利休 」がそれぞれ考え、
武野紹鴎 に相談したとのこと。

茶室にある突上窓を考案したり、
「道陳の炭さわり」と言われるほどの、
炭の置き様を披露したのだとか。


茶人1

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茶人2

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