「デルフト焼の特徴」について

Category: 焼物


オランダ建水


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デルフト焼といえば、デルフトブルーだそうです。
オランダのデルフト陶器にちなんだ、
濃く鮮やかな青を指す言葉なのだとか。

中国の陶磁器を真似た青色で、
通常の磁土で作られていたわけではなく、
焼いたあとにスズのグレーズでコートしたものなのだそうです。
そのためデルフト焼は、陶磁器ではなく「陶器」と呼ばれるようです。

国の陶磁器はヨーロッパにとってあこがれの存在だったようで、
特に陶磁器をチャイナと呼んだそうです。

陶器と磁器の違いは、原料となる粘土の違いみたいです。
つまり、陶器はカオリンを含まない粘土(土質)を、
低温で焼いて作られるのに対し、
磁器は石質即ち長石が主成分を成している磁土を、
高温で焼き使うのが大きな特徴です。

また、肥前国有田で焼かれた伊万里焼が珍重され、
オランダ・デルフト市の陶器デルフト焼の文様には、
伊万里の染付磁器の影響も見られるそうです。


デルフト焼

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「御深井焼」について

Category: 水指, 焼物


御深井水指



御深井焼(おふけいやき)は、
主に17世紀後半~18世紀に盛行したみたいです。

灰釉に長石を加えて透明度を高めた釉を施すとともに、
摺絵・型打ち・貼付文などを用いた陶器類の呼称だそうです。

本来は、尾張徳川家の御庭焼の一種で、
名古屋城内の御深井丸で窯を築き、
上記のような釉を施した陶器が焼かれ、
それを「御深井焼」と呼んだようです。

開窯については初代藩主徳川義直のころの寛永年間とする説と、
二代藩主光友の時代とする説があるみたいです。

美濃窯・瀬戸窯で、江戸時代初頭から使い始めた、
灰釉(かいゆう)系の透明度の高い、
いわゆる御深井釉を使って茶具、
仏具や飲食器を焼いたそうです。

明の帰化人で義直に仕えた「陳げんぴん」も、
この窯に参与したといわれていて、
ベトナムの染付写しが流行したのも特色の一つなんだとか。

御深井窯は殿様窯ともよばれて格の高さを誇り、
材料や陶工にも吟味を尽くして存続したそうですが、
1870年に廃されたようです。

現在は、御深井焼に似た長石を加えた灰釉を施し型打ちをしたり、
摺絵などを施文した焼き物一般にまで呼称としてひろがり、
定着しているそうです。

水指

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「偕楽園焼(紀州焼)」について

Category: 灰器, 焼物

御庭焼(おにわやき)といって、
江戸時代、趣味のある藩主が
城内や邸内に窯を設けて茶器などを
焼かせたそうです。

紀州徳川家の偕楽園焼、
尾張徳川家の御深井(おふけ)焼、
備前池田藩の後楽園焼などが有名だとか。

灰器炉用


■偕楽園焼
紀州徳川家の御庭焼で、 紀州焼とも言うみたいです。
文政(1818~1830)ごろ、十代藩主治宝(はるとみ)が、
別邸西浜御殿内の偕楽園で、
京都の楽(らく)焼の陶工や、
永楽保全らに焼かせたのに始まるようです。
交趾焼の写しなどを主に作ったのだとか。

永楽善五郎(千家十職の土風炉・焼物師)が携わった偕楽園焼は、
紫と浅葱色と呼ばれる
トルコブルーを基調にした法花の和製の作風みたいです。

偕楽園の名は、天保十二年(1841年)、
水戸九代藩主徳川斉昭が別邸を創設し、
偕楽園と称したことに始まるようです。
明治六年(1873年)茨城県が、
公園地としてこれを経営することとなったみたいです。

明治四十年、広田松翁が、公園内に楽窯を作り、
偕楽焼と称したそうです。
「軽い軟陶に白釉がけ」の茶碗を主に作り
「偕楽」隷書印を用いたようです。

昭和十一年、風戸元愛が、
水戸市緑町に偕楽焼の継承のために
茨城陶器研究所を設立、板谷波山・城戸夏男らが協力し、
焼成したみたいです。
このときの銘印は「偕楽」丸印・小判印を用いたのがとか。

その後「偕楽」印は、茨城工芸指導所に受け継がれ、
昭和二十四年、笠間市に茨城県窯業指導所が開設されるまで、
偕楽焼を製作したそうです。


灰器

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「阿漕焼」について

Category: 焼物

名前は、阿漕浦に近いことから。

阿漕焼は、三重県の焼物で、
1853年、それまで廃絶していた安東焼を倉田旧八が、
津藩の命により、津市船頭町に再興築窯したそうです。
1887年に船頭町阿漕が廃窯。
以降、土手阿漕、会社阿漕、小島阿漕、上島阿漕、重富阿漕などが
再興を試みるも、成功せずに終わったみたいです。

1931年に、津市の市長、堀川美哉が、
萬古焼の職人であった福森円二を招き、
窯を補修、阿漕焼を再興させたようです。

器は、萬古焼の流れを汲みながら、
九谷焼の様な絵付けを施すのが特徴みたいです。

銘印は、楷書の「阿漕」の楕円印、「月堂」の丸印、
「円二」の三日月印を囲んだもの用いたとか。

作家:は行

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「リモージュ焼」の歴史

Category: 焼物

15世紀 グリザイユ技法を用いた色彩豊かな作品を製作。
16世紀 中国からヨーロッパに磁器がもたらされる。
18世紀初頭 マイセン近郊でカオリンの地層発見。
1736年 リモージュに製陶所(アルトワ伯爵製陶所)を設立。
1768年 サンティリエ・ラ・ペルシュでカオリンが発見される。
1771年 マシエとフルネラが、リモージュで硬磁器を作成。
1774年 リモージュの製陶所がアルトワ伯爵製陶所へと改名。
1784年 アルトワ伯爵製陶所をフランス政府が買収(リモージュ王立製陶所)。
1788年 アルトワ伯爵製陶所、民間へ。
 フランソワ・アリュオーが経営を引き継ぐ。以降、1792年まで所長を務める。
1789年 セイニー伯爵製陶所をエティエンヌ・ベニョルが引き継ぎ
 ベニョル製陶所へと改名。
1798年 アリュオー製陶所をフランソワ・アリュオー親子が設立。
1802年 ベニョル製陶所が、パリの芸術産業展示会に作品を出展。
1842年 ダビド・アビランドが、リモージュからニューヨークへサンプルを送る。
19世紀中頃 リュオー製陶所を設立。
1851年 ロンドンで国際万国博覧会開催。
1862年 アビランドが、2人の息子とともにアビランド製陶所を設立。
1892年 ダビドの次男テオドールがテオドール・アビランド製陶所を設立。
1878年 パリ万国博覧会「グラン・ド・リ」出品。
20世紀前半 はめ込み技術という技法が編み出される。
1941年 ウィリアムが分離したアビランド製陶所を買い戻す。


リモージュ焼

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