茶筅くせ直し(茶筅休め)ってこんなの
茶筌くせ直しの使い方の動画です。
動画のものは陶器でできたものですね。
茶筅の穂先をさせるよう、山型の筒になっていて、
茶筅を乾かしながらくせを直せる、木や陶磁器でできた茶筅くせ直し。
茶筅の形を良くし、長持ちさせるためのものなんだそうです。
数百円~千円前後のものが主流のようです。
大きさは茶筅の穂先がのる程度で、
普通サイズで直径5cm~6.5cm、高さ5cm~7.5cmくらいみたいです。
穂が三重になっている「華茶筅」には、通常対応していないそうです。
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茶筅は、竹製のものがほとんどですが、
アウトドア用に金属製・プラスチック製なんかもあるようです。
また、流派や用途によって様々な種類があって、
少なくとも以下のような違いがあるそうです。
種類 | 内容 | 流派 |
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茶筅の材質 | 煤竹 | 表千家 |
紫竹(黒竹) | 武者小路千家 | |
白竹(淡竹) | 裏千家他 | |
穂先の形状 | 真直ぐ | 武者小路千家 |
外穂の先端を内に曲げる | 裏千家 |
他に、編み糸の色なども流派や趣向によって違いがあるようで、
通常は黒の糸を用いますが、白や赤の糸を用いることもあるようです。
茶筅は穂の数で名称が違って、平穂(16本)/荒穂(32本)/中荒穂(48本)/常穂・並穂(64本)/穂・繁穂(72本)/八十本立(80本)/百本立(96本)/百二十本立(120本)
といった感じになるみたいです。
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茶筅は、もともと中国で使われていた「筅(ささら)状のもの」が、
茶とともに日本にもたらされたのに始まるようです。
抹茶の普及につれて、茶筅を空也念仏宗の僧が売り歩くようになったそうで、
茶筅の製作を賤民の業とする時代もあったのだとか。
江戸時代に入って茶の湯が確立すると、
茶筅の製作を専業とする茶筅師が出現し、
奈良高山(現:生駒市高山町)が茶筅の産地として知られるようになったみたいです。
■茶筌(茶筅)の歴史
足利義政将軍時代、大和国添下郡鷹山村(現:奈良県生駒市高山町)の城主、
鷹山大膳介頼栄の次男に宗砌という人がいたそうです。
村田珠光との親交が厚かった宗砌は、
珠光に茶の粉末を湯に混和する道具の作成を依頼されたみたいです。
この時、仕上げたのが「茶筌」だったようです。
珠光は時の帝、後土御門天皇の行幸を仰ぎ、茶筌を天覧に供したそうです。
天皇はその精巧な実用工芸品に感動し、「高穂」と名付けたのだとか。
茶筌は城主一族の秘伝としたそうなのですが、
高山家八代の頼茂を最後に高山家が没した後、
16名の家来が秘伝を受け継ぎ、
城主の余技であった茶筌作りは、ひとつの職業としてスタートしたみたいです。
明治になるまで高山茶筌の秘伝は公開されず、
一子相伝とされたそうですが、
それ以後は公開され、ロンドンの日英大博覧会・
サンフランシスコ万国博・パリ大博覧会等に出品されたようです。
明治・大正・昭和・今上天皇の天覧にも供されたのだとか。