「藤原広嗣の乱」の歴史
737年、朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去、
政治を担ったのが橘諸兄に、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されます。
738年、九州の大宰府に送られた藤原広嗣は、
「橘諸兄に左遷されたんだ、きっと吉備真備らが扇動したに違いない。」
と、強い不満を抱いたようです。
740年8月末、がまんの限界にきていた藤原広嗣は、政治を批判し、
吉備真備と玄昉の処分を求める上表(天皇宛ての手紙)を送るそうです。
同年9月、藤原広嗣の乱が勃発します。
藤原広嗣の軍は一万人以上、 聖武天皇の軍(朝廷軍)は一万七千人を
それぞれ動員したようです。
広嗣軍は、兵を三つに分け、板櫃付近で朝廷軍を包囲する
三包囲作戦を立てます。
同年9月末、朝廷軍は関門海峡を渡り、九州の板櫃鎭を攻略。
「広嗣は悪いやつだから、見切りをつけて都へ帰ってきなさい。
あと、広嗣をやっつけたら、昇進させてあげるよ。」
といった勅が九州諸国の官人、百姓宛てに発せられます。
同年10月9日、広嗣軍と朝廷軍は、板櫃川で戦になります。
河の西側に広嗣軍(一万人)、東側に朝廷軍(六千人)。
広嗣軍の三つに分けた兵もまだ、そろっていない状態でした。
朝廷軍が、
「天皇が、広嗣は悪い奴だと言ってるよ。投降したら。」
と言うと、
広嗣は「吉備真備と玄昉が悪い奴なんだ、天皇がだまされているんだ。」
すると、朝廷軍は、
「じゃぁ、なんで軍隊連れてきたの?」
広嗣は答えに窮したそうです。
問答を聞いていた広嗣軍の人達は、次々に朝廷軍に投降します。
広嗣は、博多から五島列島へ船に乗って渡り、
耽羅嶋(済州島)に潜伏します。
同年10月23日、広嗣は朝廷軍の安倍黒麻呂に捕えられます。