「日本の茶の湯」の歴史
茶の木が初めて日本に移植されたのは、
平安時代だそうです。
伝教大師最澄が唐から戻る際に、
一緒にいた永忠が、
茶の実を携え、比叡山の麓にある
「坂本」というところに植えたようです。
今もこの「坂本」には茶の木が残り、
天然記念物となっているとか。
『日本後記』には、
815年、嵯峨天皇が近江の唐崎に向かう途中、、
梵釈寺に立ち寄った際に、
永忠が、自ら煎じた茶を奉った。
といった記述があるみたいです。
嵯峨天皇は、関西一円に茶を栽培させ、
毎年献上するよう命じていた人だそうです。
当時の喫茶は、固形の緊圧茶「餅茶(びんちゃ)」から、
必要量だけ切りほぐして湯にいれて煮出して飲む方法だったとか。
■『茶経』
嵯峨天皇と同時代(唐代)、お茶の神様と呼ばれた陸羽の著書だそうです。
世界で最も古いお茶の本で、内容は三巻十章に分けられているとか。
ここで取扱っている茶は、「団茶」だそうです。
中身は以下のようになっているみたいです。
上巻
一之源・・・茶樹についての説明
二之具・・・製茶器具の列挙・説明
三之造・・・製茶する際の注意事項
中巻
四之器・・・飲茶器具の列挙・説明
下巻
五之煮・・・茶をたてる際の注意事項
六之飲・・・茶の飲み方など
七之事・・・茶の史料の列挙
八之出・・・茶の産地
九之略・・・省略してよい器具
十之図・・・『茶経』の図解。
十之図は、茶席に掛け、『茶経』の内容が
一目でわかるようにするためのものみたいです。
また、白磁や青磁の茶碗についても書かれているとか。
嵯峨天皇も同様の茶碗で茶をすすり、
琴なんかを聞きながら、
中国の唐に思いをはせていたのかもしれませんね。
■明菴栄西
「抹茶」を日本に伝えた人がこの栄西だそうです。
もともと、天台宗を習いに中国へ行くのですが、
そこで流行っていた禅宗を習って帰ってきたそうです。
禅宗での座禅の合間に飲まれたのが「抹茶」で、
『吾妻鏡』には、
源実朝が頭痛に悩んでいたときに、
栄西が「抹茶」を飲ませて治した
という逸話があるとのこと。
この時代の「抹茶」、
現在にも通じるレベルのものだそうで、
使用する器具、茶を点てる作法なども、
ある程度は、既にできていたようです。
■能阿弥
茶道では「書院飾りの完成」「台子飾りの方式の制定」など、
小笠原流の礼法を参酌して、
今日に伝えられているような茶の点て方を考案したとか。
唐物奉行として仕事をした 能阿弥 ら同朋衆は、
かなりの鑑定眼と故実を知ることが必要とされ、
『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』や
『御飾書(おかざりしょ)』などが、
書き残されることとなるそうです。
■『君台観左右帳記』
足利将軍家が座敷飾に用いた、
宋元画の筆者名と茶器、
および文房具の類を列記した秘伝書だそうです。
内容は三つの部分から成っていて、
中編には、掛幅を中心とした室内飾の諸方式を記してあるとか。
■『御飾書』
『東山殿御飾記』の略で、
1523年に相阿弥が、
足利義種のために作制した座敷飾りの書で、
東山殿の具体的な座敷飾りと、
一般的な座敷飾りの規式が載っているのだとか。
■一休宗純
村田珠光 が参禅した大徳寺の一休は、
優れた禅風と、ある意味物好きとも取れる、
強い求道心(ぐどうしん)を持っていたようです。
大徳寺の一休は、堺の商人たちと禅を通じ深く結びつき、
以後、一休死後もその絆は絶えないそうです。
堺の 千利休 や大名などの保護を受け、
桃山時代の茶道に大きな影響を与えて行ったとのこと。
■足利義政
義政の茶は、唐物荘厳ではあるものの、
東山山荘にある四畳半の狭い書院など、
「わび茶」を想起させるものみたいです。