「千利休」の歴史
抛筌斎利休宗易こと千利休は、
わび茶(草庵の茶)の完成者。
利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって、
町人の身分では参内できないことから、
正親町天皇から与えられた居士号だそうです。
利休の名の由来は
・「名利、既に休す」から取った
・「利心、休せよ」から取った
・ 『茶経』の作者とされる陸羽(りくう)にちなんだ
などと言われているようです。
利休は常々、
「茶の湯は台子を根本とすることなれども、
心の至る所は草の小座敷にしくことなし」
と愛唱していたとか。
利休七哲は、
蒲生氏郷(筆頭)
細川忠興(三斎)
古田重然(織部)
芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)
高山長房(右近/南坊)
牧村利貞(兵部)
だそうです。
利休七哲は、千利休の高弟7人を指す呼称。
利休の曾孫にあたる
表千家の江岑宗左著『江岑夏書(こうしんげがき)』
で挙げているとか。
いずれも後世になってから呼称されたもので、
当時からそのように呼ばれていたわけではないそうです。
利休が秀吉の怒りを買い死罪になった原因は、
「大徳寺三門改修に当たって増上慢があったため、
自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、
その下を秀吉に通らせた」
というのが、通説だそうですが、
他にもたくさん説があるとか。
利休が死の前日に作ったとされる辞世の句は、
人生七十 力囲希咄 吾這寶剣
祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛
だそうです。
また、茶道では、毎年三月に利休忌が行われているみたいです。
■泪の茶杓
「泪の茶杓」というのがあり、
千利休 が 豊臣秀吉 に切腹を命じられ、
その猶予期間に自らの手で削った中節形の茶杓だそうです。
1591年2月、その茶杓を使用した生涯最後の茶会の後に、
古田織部 に分け与えたのだとか。
茶杓は白竹で樋が深く通り、有腰で、
利休の茶杓の中でも、
とくに薄作りにできているようです。
古田織部 は、この茶杓を、
本来用いられるべき、着色のない木地の竹筒ではなく、
黒漆で丹念に塗りあげた茶杓用の筒を自作して入れ、
位牌としての意味づけをしたようです。