四季の歌の色紙ってこんなの

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動画の色紙は、西部文浄老師の書かれた四季の歌の色紙です。

四季の歌は、
春が
「おほかたに 春のきぬればはる霞 四方の山辺に たちみちにけり」
源 実朝(金槐和歌)

夏 が「夏ころも たちしときよりあしびきの 山時鳥 なかぬ日ぞなき」
源 実朝(金槐和歌)

秋 が「みわたせば 花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」
藤原 定家(新古今和歌)

冬 が「冬ごもり おもひかけぬを木の間より 花とみるまで 雪ぞふりける」
紀 貫之(古今和歌)

となるそうです。
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西部文浄(にしべぶんじょう)老師は、
大正14年生で、東福寺塔頭同聚院の前住職です。
平成6年に亡くなられています。

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■色紙とは
色紙は、和歌・俳句・書画などを書く、方形の料紙のことだそうです。

色紙という名前は、元来は染色した紙のことを言ったようです。
詩歌などを書く料紙としては、
屏風や障子などに詩歌などを書き入れるために染色した紙を押し、
これを色紙形と呼んだことに由来するのだとか。

色紙の寸法は「大:縦×横=六寸四分×五寸六分」「小:縦×横=六寸×五寸三分」
の二種があるようで、これに準じた方形の料紙も総称して色紙と言うみたいです。

色紙として最も古いものとしては、藤原定家筆と伝える小倉色紙で、
小倉百人一首として有名なのだとか。

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■小倉色紙(小倉百人一首)
鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、
藤原定家が作成した色紙で、成立当時は、
「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」と呼ばれたそうです。
後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、
「小倉百人一首」という通称が定着したとか。

高砂の 尾上の桜 咲きにけり
 外山の霞 立たずもあらなむ

小倉色紙「たかさこの」は、天文24年(1555年)、武野紹鴎が茶会に用い、
初めて茶席の掛け物とされた和歌として特筆されたようです。
この幅には、千利休の消息が添い、
利休は、この幅を借用して茶会に用い、大いに面目をほどこしたのだとか。

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■書画用の色紙
色紙は、古くから短冊と同様に書道作品に用いられ、
絵画作品にも多く用いられたそうです。

近現代では著名人のサインや寄せ書きにも用いられ「サイン色紙」と言うみたいです。

また色紙という語は「短冊形」に対する「色紙形」の略語としても用いられるようです。

書画用の色紙は正方形に近い形の厚紙でできていて、
金縁が施され、片面には金粉や銀粉などを散りばめられているものも多いとか。

なお、色紙は本来、金粉や銀粉などが散りばめられているほうが表面だそうですが、
書画やサインなどは、謙遜の意味であえて裏面の白いほうが用いられるといわれているようです。

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■文献
1734年刊『本朝世事談綺』に
「色紙短尺の寸法は三光院殿よりはじまる御説、
大は堅六寸四分、小は堅六寸、横大小共に五寸六分」
とあるとか。

1777年刊『紙譜』に
「色紙大小あり、縦大六寸四分、小六寸、横大五寸六分、小五寸三分」
とあるそうです。

『今井宗久茶湯日記書抜』に
「天文二十四年十月二日 紹鴎老御会 宗久 宗二
一 イロリ 細クサリ 小霰釜、水二升余入、ツリテ、
一 床 定家色紙、天ノ原、下絵に月を絵(書)ク、手水ノ間に巻テ、
一 槌ノ花入 紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ、
一 円座カタツキ、水サシ イモカシラ 
一 シノ 茶ワン 備前メンツウ」
とあるみたいです。

重香合ってこんなの

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重香合(じゅうこうごう)は、銀葉などを入れる三重の箱で、
茶道では、塗物の丸形三つ重ねとなったものみたいです。

上段に香を包んだ香包、
中段に銀葉をそれぞれ入れ、
下段は香の焚きがらを入れるようです。

香盆に置く場合、
香盆の右に重香合、左に聞香炉、
香盆の中央に銀葉挟を横一文字にして置き、
香箸を縁にかけてのせるみたいです。

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香(こう)というと、本来は「伽羅」「沈香」「白檀」などの天然香木の香りを指すそうです。
そこから「線香」「焼香」「抹香」「塗香」などの香り、またこれらの総称として用いられるみたいです。

仏教では、香を焚くと不浄を払い心識を清浄にするそうで、
仏前で香を焚き、花や灯明とともに仏前に供するようです。
ここから「香華を手向ける」という言葉があるとか。

茶道では、炭点前などで使用するほか、七事式の且座之式のように、
「香りを聞く」こともあるようです。
風炉の場合は香木、炉の場合は練香を使用するみたいです。

ここでは「香の歴史」「香道」「香道で使う道具」「且座之式」の順に
説明していこうと思います。

■香の歴史
香の歴史はかなり古く、紀元前3000年前のメソポタミア文明のころまで遡るそうです。
種類も多く、白檀、丁香などの「樹木の皮・葉・根などの粉末」や、
乳香、安息香などの「芳香のある樹脂」、
麝香、竜涎香などの「動物性のもの」があるそうで、
ふつう「香木(明香)」と「練香(煉香・合香)」とに分けられるみたいです。

また、使用方法の違いで、焚いて使用する香「焼香」と、
焚かずに体に塗る香「塗香」に分けられるようです。

日本書紀によると、香木は595年に淡路島に漂着したそうです。
その後、宗教、主として仏教の儀礼で香木が焚かれるようです。

平安時代になると、宗教儀礼を離れて、香りを聞いて鑑賞するようになり、
薫物合せ(たきものあわせ)などの宮廷遊戯が行われたのだとか。

室町時代の東山文化の頃、茶道や華道が大成するのとほぼ同時期に、
香道の作法も整い、現在の形に近いものになったそうです。
また、香を茶道にも取り入れ、書院の床の正面に香炉を飾って、
香をたくようになったみたいです。
当時、香合は香炉の脇役だったとのこと。
この頃の香合の素材は、金器・銀器・漆器・木彫・古代蒔絵などが好まれたそうです。

桃山時代になり、陶磁器製の香合が使用され始めるそうです。
利休が楽焼の香合を作らせたのが焼物香合のはじまりなんだとか。
やがて、織部焼・野焼・瀬戸焼・備前焼・唐津焼などの国焼物の香合がでてくるみたいです。

江戸時代初期になると、外国製品尊重の思想から、
中国の古染付・祥瑞・青磁・交趾焼等の形物香合が主流となるようです。

香合については、別ページで説明しています。

香木の分類法である「六国五味(りっこくごみ)」などは、
室町時代頃に体系化されたようです。

六国五味というのは、香木の香質を味覚にたとえて、
辛・甘・酸・鹹(しおからい)・苦の五種類に分類する「五味」と、
その含有樹脂の質と量の違いを六種類に分類する「六国」のことを指すそうです。

六国五味の詳細は以下のようになるみたいです。

木所 読み方 原産国 五味
伽羅 きゃら ベトナム
羅国 らこく タイ
真那伽 まなか マラッカ 無味
真南蛮 まなばん マナンバール
佐曾羅 さそら サッソール
寸聞多羅 すも(ん)たら スマトラ

■香道
香りを楽しみ、日常を離れた集中と静寂の世界に遊ぶことを目的としたもので、
香木の香りを聞き、鑑賞する「聞香(もんこう)」と、
香りを聞き分ける「組香(くみこう)」の二つが主な要素だそうです。

香木の焚き方は、以下の手順だそうです。
1.聞香炉に灰と、おこした炭団(たどん)を入れ、灰を形作る。
2.灰形の上に、銀葉という雲母の板をのせる。
3.数ミリ角に薄く切った香木を熱し、香りを発散させる。
4.銀葉を灰の上で押すことにより、銀葉と炭団の位置を調節する。
 これにより伝わる熱を調節し、香りの発散の度合いを決める。

香道には、古くから香に関する訓や効用を記した「香十徳」というのがあるそうです。

徳の名称 読み 意味
感格鬼神 感は鬼神に格(いた)る 感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされる
清淨心身 心身を清浄にす 心身を清く浄化する
能除汚穢 よく汚穢(おわい)を除く 穢(けが)れをとりのぞく
能覺睡眠 よく睡眠を覚ます 眠気を覚ます
静中成友 静中に友と成る 孤独感を拭う
塵裏偸閑 塵裏に閑(ひま)をぬすむ 忙しいときも和ませる
多而不厭 多くして厭(いと)わず 多くあっても邪魔にならない
寡而為足 少なくて足れりと為す 少なくても十分香りを放つ
久蔵不朽 久しく蔵(たくわ)えて朽ちず 長い間保存しても朽ちない
常用無障 常に用いて障(さわり)無し 常用しても無害

■香道で使う道具
香道で使う道具は、以下のものだそうです。
ちなみに茶道では「香合」を使用するなど、道具組みが少し違うようです。

香炉:聞香炉、火取り香炉
七つ道具:銀葉挟、きょうじ、香匙、鶯、羽箒、こじ、灰押
盆・箱など:四方盆、乱箱、志野袋、長盆、重香合、総包
そのほか:地敷、香盤、銀葉、名乗紙、香包

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■且座之式
七事式の且座之式(しゃざのしき)について簡単に説明してみます。

これは、本来五人で行う儀式で、
「東(とう)」「半東(はんとう)」「炭」「花」「香」の役割があり、
その役は、その時引いたくじで決めるのだそうです。

亭主を「東(とう)」、亭主の補助役を「半東(はんとう)」、客は三人。
それぞれ、
次客→花をいける
三客→炭をつぐ(初炭点前)
正客→香をたく
東→濃茶を点てる
半東→東のために薄茶を点てる
となるみたいです。

花をいける→炭をつぐ→香をたく→濃茶→薄茶
という感じでなるでしょうか。
結局、一人だけお茶を飲めない人が出るのですが、誰でしょう?

オランダ皆具ってこんなの

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■オランダとは
オランダ皆具(かいぐ)などの「オランダ」は、
純粋に「オランダ」と調べても「デルフト焼かな」
といったことしかわかりませんでした。

そこで、勝手に考察した結果、
「マイセン陶で開発された中国風の陶器に、
 伊万里風の絵柄をつけた、
 オランダで作られた陶器(デルフト陶器)のこと」
ではないかと考えました。

少なくとも江戸時代以降に、
「マイセン+最初の和蘭陀=オランダ製の陶磁器」
そして、
「お茶+オランダ製の陶磁器=オランダ皆具」
となっていったのではないかと。

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■デルフト焼きとは
オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器で、
白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされるのだとか。

陶都デルフトでは、高価な舶来品である東洋磁器の形や装飾を陶器で
 模倣することに着目するそうです。
中国明時代の染付(そめつけ)や柿右衛門などを模倣した陶器は、
ヨーロッパ各地で絶大な人気を博し、
近隣の他の窯でもこれを実践するようになると、
以後オランダで焼かれる陶器はすべてデルフト焼と呼ばれるようになるみたいです。

■デルフト焼の歴史
デルフト焼は、1640年~1740年に生産がもっとも盛んだったそうです。

17世紀初頭の中国磁器が、オランダ東インド会社によって、
オランダに大量に輸入されていたみたいですが、
1620年に明の万暦帝が死去すると、
中国磁器のヨーロッパへの輸入が途絶えるそうです。

その後、オランダでは、中国磁器の優れた品質と精密な絵付けを、
模倣するようになるみたいです。

1654年のデルフトで、弾薬庫に保管されていた火薬が大爆発を起こし、
多数の醸造所が甚大な被害を被ったようです。
これによりデルフトの醸造産業は衰退し、
広い醸造所跡地を広い工房が必要だった陶芸職人が買い取ったのだとか。

1750年以降のデルフト陶器は衰退するようです。
「巧妙だが繊弱な絵付けがなされている。
風合いにも独創性にも欠けており、
18世紀終わりからのデルフト陶器産業は、
残念なことに衰退の一途をたどった。」
とのこと。

現在、スズ釉薬を用いたデルフト陶器を生産しているのは、
王立ティヒラー・マッカム工房だけみたいです。

1512年 アントウェルペンのグイド・ダ・サヴィーノが
 スズ釉薬で絵付けされた陶器を最初に制作した。
1560年代 オランダ南部からオランダ北部へと広まっていった。
1570年代 ミデルブルフやハールレムで陶器の製造開始。
1580年代 アムステルダムで陶器の製造開始。
1602年 オランダ東インド会社設立。
1609年 オランダと日本の交易開始。
1610年~1640年 10名の陶芸職人がマスターとして登録される。
1640年頃 個人のモノグラムや工房の意匠に、デルフト陶器が使用される。
1647年 柿右衛門が赤絵に成功。
1651年~1660年 9名の陶芸職人がマスターとして登録される。
1669年 オランダ東インド会社が有田に磁器を大量注文。
1677年 デルフトのA・デ・ミルデが赤色炻器を完成。
1700年頃 3回の低温焼成の工程が必要とされる、
 スズ釉薬の上にエナメル顔料を用いた絵付けをする工房が出てくる。

■デルフト焼の特徴
デルフト焼といえば、デルフトブルーだそうです。
オランダのデルフト陶器にちなんだ、
濃く鮮やかな青を指す言葉なのだとか。

中国の陶磁器を真似た青色で、
通常の磁土で作られていたわけではなく、
焼いたあとにスズのグレーズでコートしたものなのだそうです。
そのためデルフト焼は、陶磁器ではなく「陶器」と呼ばれるようです。

国の陶磁器はヨーロッパにとってあこがれの存在だったようで、
特に陶磁器をチャイナと呼んだそうです。

陶器と磁器の違いは、原料となる粘土の違いみたいです。
つまり、陶器はカオリンを含まない粘土(土質)を、
低温で焼いて作られるのに対し、
磁器は石質即ち長石が主成分を成している磁土を、
高温で焼き使うのが大きな特徴です。

また、肥前国有田で焼かれた伊万里焼が珍重され、
オランダ・デルフト市の陶器デルフト焼の文様には、
伊万里の染付磁器の影響も見られるそうです。

■その他
オランダのマウリッツハウス美術館に
「デルフトの眺望」という、
フェルメールの代表的風景画があります。

杓立ってこんなの

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杓立は、杓立は長板や台子に飾りますが、
柄杓を手前へ、火箸は柄杓の柄を挟んで向こうへもたせてさすそうです。
杓立のある時は柄杓は蓋置へ引かず、いつもまっすぐに杓立へさすようです。

長板の場合は、水指・杓立・建水・蓋置を飾りますが、初飾も二飾も、
炉の場合は向かって左側に、風炉の場合は真ん中に飾るみたいです。

台子の場合の地板に飾る杓立の位置は、初飾・二飾・総飾共に、長板の場合と同様
炉の場合は向かって左側に、風炉の場合は真ん中に飾るそうです。

ただし、点前によっては、杓立の位置が変わる場合もあるようです。

室町中期のいろは引き分類辞書『雑字類書(文明本節用集)』に
「茶瓢 チャヘウ 柄杓立(ヒシャクタテ)也」
とあるみたいです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「杓立之部 古名ヒシャク立」
とあるそうです。

立花実山著『南方録』に、
「台子にては、カネの物ならでは、水指、杓立、こぼし、蓋置ともに用いず候。」
とあるそうです。

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長板は、台子の地板または上板をかたどったもので、
真塗が利休形で大小二種あって、
大きいものは風炉用、小さいものは炉用としているそうです。

それぞれの大きさは、
風炉用は長さ二尺八寸、幅一尺二寸、厚さ六分。
炉用は長さ二尺四寸、幅一尺、厚さ四分。
みたいです。

藪内竹心著『源流茶話』に以下の話があるようです。
台子は真の道具です。
長板は台子の上板より見立てられたもので、
金(かね)風炉をのせ、行の茶湯とし、
四畳半の炉にかざられます。

小板は草の道具で、風炉に用いられます。
大板・中板・小板は大中小の風炉に応じて用いられます。
茶を点てる時に、小板の右の隅に茶巾を置くのは、
台子の場合の茶巾を置く位置になるからです。

立花実山著『南方録』に
「台子の上の板を、上段の板、下を長板といふなり。」
とあるようです、

藪内竹心著『源流茶話』に
「長板ハ台子の上板より見立てられ」
とあるそうです。

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皆具は、台子や長板に飾る道具一式のことで、
本来は、装束・武具・馬具などのその具一式がそろっているものをいったそうです。
水指・ 杓立・ 建水・ 蓋置の四器が同一のもののほか、
現在では風炉・ 釜も統一した意匠で揃えられているものもあるようです。

皆具は、1259年「宋」に渡った臨済宗の僧、南浦紹明によって、
台子とそこに飾る 風炉・ 釜・ 杓立・ 建水・ 蓋置・ 水指の唐銅皆具を日本に伝来したのが最初のようです。
これは、南浦紹明が帰朝の折に、虚堂から餞別として台子と皆具一式を贈られたといわれているみたいです。

唐銅の皆具は「真の皆具」みたいです。

茶通箱(茶桶箱)ってこんなの

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これは、茶通箱です。

もとは抹茶を持ち運ぶ通い箱だったものを利休が点前に用いたのが始まりだとか。

現在では二種の濃茶を客にもてなす時の点前に用いる箱だったり、
珍しい茶や、客から茶を貰った時に、
亭主が用意の茶と、客から到来の茶、
との二種類の濃茶を点てる点前に用いる箱だったりするみたいです。
後者の場合は棚を用いるようです。

利休形茶通箱は、用材が桐で寸法は大小伝えられているそうですが、
いずれも薬籠蓋になっているとのこと。

ちなみに薬籠蓋というのは、
器物の身の内側に立ち上がりを作り、
蓋をすると身と蓋の境目が同じ高さになって、
表面が平らに重なる蓋のことを言うとか。

名前の由来は、身の内側の立ち上がりに蓋がぴったりとハマるため密閉性が高く、
薬籠や印籠に見られることからだとか。
印籠蓋とも言うようです。

茶通箱には、
「利休形茶通箱」「利休形三つ入茶通箱」
「利休形桟蓋茶通箱」「元伯好三つ入茶通箱」、
表千家の「原叟好茶通箱」「原叟好挽溜茶桶箱」「如心斎好桟蓋茶通箱」、
裏千家の「仙叟好二方桟蓋茶桶箱」「玄々斎好出合桟蓋茶通箱」
などがあるそうです。

また、桐木地のほかにも一閑、菊置上、溜塗なんかがあるようです。

茶通箱の蓋には、利休形は野郎(薬籠)蓋、
仙叟好は桟蓋、玄々斎好は出会桟があるみたいです。

立花実山著『南方録』には、
「人の方へ茶を贈る時、持参することもあり、
先だつて持せつかはすこともあり。
濃茶 うす茶両種も、また濃茶一種も、
また濃茶ばかり二種も、それぞれの心持しだいなり。
薄茶は棗、中次の類なり。
箱は桐にて、蓋はさん打なり。
緒は付けず、白き紙よりにて真中をくヽりて封をする。
封の三刀と云こと、秘事なり。大小は茶入に依て違べし。」
とあるみたいです。

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茶通箱に関する文献を少々見てみようかと思います。

藪内竹心著『源流茶話』に
「茶通箱に大小の茶桶を取組、
大津袋をかけ、両種だて致され候ハ利休作意にて候」
とあるみたいです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「茶通箱 唐物點 臺天目 盆點
 亂飾 眞臺子 右何れも相傳物ゆへ此書に不記」
とあるようです。

江戸時代茶書『茶式花月集』に
「一 傳授之分 茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾」
とあるそうです。

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ちょっと話題を逸れて「さつう(茶通・茶桶)」に関して説明しようと思います。

さつうは、薄茶を入れる器のひとつ。
合口がずっと上にあり、蓋も浅く、種類がいくつかあるようです。
棗の登場以前から茶会記などに登場しているそうです。
本ホームページでは「棗の形(中次系)」として紹介しています。
ちなみに中次という名前は、蓋と身の合わせ目(合口)が胴のほぼ中央にあることに由来しているそうです。

津田宗達・宗及・宗凡著『天王寺屋会記』の天文19年2月21日に
「田嶋堪解由左衛門殿會 人数 達 好 弥三
一 ふじなり釜・たきおけ、二置、一枚板、
一 床 墨跡、きたう(虚堂)、
一 茶碗 亀ノふた、後持出、茶さつうに入、茶 無上」
とあるようです。

また『君台観左右帳記』には、さつうの図があるようです。

室町時代初期の『喫茶往来』では、
「茶桶の蓋に茶園の銘を書き入れた」
とあるそうで、席での茶器として使われていたみたいです。

『庭訓往来』『遊学往来』『尺素往来』など当時の書物の中でも「さつう」の記述が
見られるようです。

十四世紀頃の記述として、『金沢文庫古文書』や『仏日庵公物目録』には、
「さつう」の他、「茶筒」の記述もあるそうです。