「茶道の始まり」の歴史

Category: 茶道史

茶道具の秘伝書『山上宗二記』に
 足利義政が能阿弥に、
 「昔からある遊びごとは、すべて遊びつくしたから、
 他に変わったものはない。」
 と聞いたところ、
 能阿弥が、
 「茶の湯があります。」
 といって、30年来茶の湯に打ち込んでいる 村田珠光 を、
 この義政に紹介した
とあるそうです。

■村田珠光
僧侶なのに苗字がある珠光は、
足利義政 に召し出され茶を指南したとされているとか。
ただ、『山上宗二記』の能阿弥に関する記述が、
その生没年と合わないことから、
現在の茶道史研究では基本的に否定されているようです。

茶法に関する義政の問いに対して、
 「茶法というものは、
 ただひたすら清くして、
 禅にそったものであって、
 それが茶法の極致であり、
 最も根本的な精神です。」
と答えたそうです。

珠光は、茶道は禅と同一であるべきとする
「茶禅一味」の境地を開いたみたいです。

能阿弥との関係も深く、
花の弟子となり茶・目利きを学んだのだとか。

他にも、茶の湯に一大改革をもたらしたそうです。
・書院台子の茶→草庵小座敷の茶へ
・唐物→国焼へ
・四畳半の草庵の茶を提唱
・竹の茶杓を考案
・茶の湯から賭博と酒盛りを追放
・「一座建立」を図るのが茶事の主眼
など。

■茶禅一味
寂庵宗澤著『禅茶録』に
 「茶意は即ち禅意也。
 故に禅意をおきて外に茶意なく、
 禅味を知らざれば茶味も知られず」
とあるそうです。
珠光は、まさに茶道界の画竜点晴の眼を入れた人、
と言えるのではないでしょうか。

■『禅茶録』
1828年に寂庵宗澤が書いたとされる本ですが、
『茶禅同一味』という書を補足編集して著したものなのだとか。

民藝運動を起こした柳宗悦に
「すべての茶人の座右に置くべき名著」
と言わしめたとか。

■石黒道提
村田珠光 の弟子で、千本道提とも呼ばれるようです。
茶庭の飛石を考案した人だとか。
京都千本付近に、米40石(12000坪の広さ)の田畑を隠居領としていたそうです。

道提の名は 足利義政 の耳におよび、
義政は、後日、道提の草庵を草鞋を履いて訪れるそうです。

庭に雑紙を同朋衆に敷かせるのですが、
道提はこの雑紙の跡に石を置いたようです。
これが茶庭に飛石が打たれるようになった起源だとか。

■武野紹鴎
武野紹鴎は、村田珠光の門下の
藤田宗理・十四屋宗陳や十四屋宗伍などに
茶の湯を学んだ三条西嶺隆の、
『詠歌大概(藤原定家)』の序の講義を聴いて、
茶の湯を悟ったそうです。

村田珠光 の為し得なかった「わび茶」を目指し、
座の芸術である「茶の湯」を完成させた人みたいです。

千利休の師匠である武野紹鴎は、
和歌を三条西実隆に師事し、茶の精神を学んだそうです。

唐物中心だった茶道具に、
瀬戸・信楽など日本の物を取り入れ、
竹の蓋置・木地の曲物・土風炉を考案したとのこと。

ある時、武野紹鴎が、
 見わたせば 華も紅葉も なかりけり
       浦のとまやの 秋の夕暮
と詠うと、千利休が
 花をのみ 待つらん人に 山里の
       ゆきまの草の 春を見せばや
と詠ったようです。

「わび茶」の精神の違いがここで見てとれるでしょうか。

私の場合は、
 武野紹鴎は、わび茶を、
 「華も紅葉もなかりけり」とし、
 枯れてゆく世界を思い茶の湯の世界としたようですが、
 千利休は、
 「ゆきまの草の 春を見せばや」とし、
 新たな芽吹きを予感させる、
茶の湯の世界を築こうとしたと見ます。

■北向道陳
利休は道陳のもとで稽古に励み、
「台子・書院は道陳」「小座敷は 利休 」がそれぞれ考え、
武野紹鴎 に相談したとのこと。

茶室にある突上窓を考案したり、
「道陳の炭さわり」と言われるほどの、
炭の置き様を披露したのだとか。


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