「[露地道具]垣根」について
垣根(かきね)は、家(家庭および家族)を、
外界と隔てるための境界に設けられる、
一種の壁みたいです。
垣根の役割は五つあるそうで、
「全体を囲う」
「一部を区切る」
「目隠し」
「歩行者を誘導する」
「庭の景として楽しませる」
なのだとか。
露地内の垣根の在り方としては、
「外は荒く堅固なもの、
中は軽快なものが喜ばれ、
茶席付近はその中間的なものがよい。」
のだそうです。
垣根(かきね)は、家(家庭および家族)を、
外界と隔てるための境界に設けられる、
一種の壁みたいです。
垣根の役割は五つあるそうで、
「全体を囲う」
「一部を区切る」
「目隠し」
「歩行者を誘導する」
「庭の景として楽しませる」
なのだとか。
露地内の垣根の在り方としては、
「外は荒く堅固なもの、
中は軽快なものが喜ばれ、
茶席付近はその中間的なものがよい。」
のだそうです。
石燈籠(いしどうろう)は、元々奈良時代以降、
社寺(神社であれば本殿の前、寺院であれば本堂の前)に、
献燈として奉納されてきたもので、庭園の照明などに使われた例は、
露地に使われる以前は一例もないそうです。
立花実山著『南方録』に、
石燈籠が用いられる以前の照明の記述があるそうで、
「暁会、夜会のときは、腰掛に行燈を置く、
亭主も手燈籠を以って戸口まで出て一礼してから、
座敷の準備に立ちかえるがよい。
手燭を持って迎えにでる亭主もあるが、
それでは、風が吹いている夜などは火が消えやすいので、
格別に難儀をするものである。」
とあるようです。
以降、石燈籠が所々で使われるようになると、
久須見疎安著『茶話指月集』によれば、
「石燈籠の見事なものを求めて、
社寺の旧跡や、遠山森林の中にあるのを尋ね、
謝礼の金子を厚くして石燈籠を望む人はまことに多い。」
といったことがあったようです。
つくばいは、江戸時代初期~中期頃に形が完成したそうです。
最初のつくばいの姿は、
手水鉢を低くすえ、その前を水を流すための小さな溜めとし、
手水鉢に向かって右側に湯桶石、左側に手燭石を置いたようです。
前に前石を据え、前石の後ろの石から「飛石」となったみたいです。
つくばいの寸法は、
松本見休著『貞要集』に
「台石をすえ、その上に手水鉢を載せる。
その高さは地面より二尺四・五寸まで、
前石は景趣のよいもので大振りの石を据える。
前石の上面より手水鉢の上端までを一尺~一尺五・六寸高に据え、
手水鉢と前石の離れ具合は、
前石の前から手水鉢の水溜の口まで
一尺六~一尺八寸くらいまでとする。」
とあるそうです。
現在の標準的な寸法は、
手水鉢の高さは、地上から二尺前後。
湯桶石は手水鉢より低く据え、地上高一尺四・五寸。
なんだそうです。
手水鉢(ちょうずばち)は、茶道では、
最初、土間・屋根の下・縁のそばなどに設けられていたそうで、
立ったまま(又は、やや腰をかがめる程度で)使ったみたいです。
手水鉢は、本来、神前、仏前で口をすすぎ、
身を清めるための水を確保 するための器を指したようです。
その後茶の湯にも取り入れられ、
露地の中に置かれるようになったとか。
役石とこの手水鉢をつけた構成が「つくばい」で、
江戸時代初期~中期頃に形が完成したそうです。
立花実山著『南方録』に利休の話があるようです。
「雪の日の茶会は、
できるだけ足跡が多くならないように心得るべきです。
飛石の上の雪は、水でそっと消すのがよろしい。
しかし手水鉢には水を入れないわけにいかないから、
手水鉢の上の雪は、
見た目にも美しいように水をかけて消すのがよろしい。
ただし、手水鉢の石やまたそのあたりの木々などに、
風情よく降り積もっている雪はそのままにしておいて、
手水鉢は腰掛に片口でだしてもよろしい。」
役石は、つくばいの周りの石で、
前石・手燭石・湯桶石の三つをさすそうです。
前石:手水鉢の手前正面の石。手水を使う際に乗る。
手燭石:手水鉢の左側の石。夜の茶会時に灯りを置く。
湯桶石:手水鉢の右側の石。冬など寒中の茶会時に湯桶を置く。
流派によっては「手燭石」と「湯桶石」が、
左右逆の場合もあるとのこと。