仁清結文椿香合 通次阿山
「紹鴎緞子」について
御深井焼(おふけいやき)は、
主に17世紀後半~18世紀に盛行したみたいです。
灰釉に長石を加えて透明度を高めた釉を施すとともに、
摺絵・型打ち・貼付文などを用いた陶器類の呼称だそうです。
本来は、尾張徳川家の御庭焼の一種で、
名古屋城内の御深井丸で窯を築き、
上記のような釉を施した陶器が焼かれ、
それを「御深井焼」と呼んだようです。
開窯については初代藩主徳川義直のころの寛永年間とする説と、
二代藩主光友の時代とする説があるみたいです。
美濃窯・瀬戸窯で、江戸時代初頭から使い始めた、
灰釉(かいゆう)系の透明度の高い、
いわゆる御深井釉を使って茶具、
仏具や飲食器を焼いたそうです。
明の帰化人で義直に仕えた「陳げんぴん」も、
この窯に参与したといわれていて、
ベトナムの染付写しが流行したのも特色の一つなんだとか。
御深井窯は殿様窯ともよばれて格の高さを誇り、
材料や陶工にも吟味を尽くして存続したそうですが、
1870年に廃されたようです。
現在は、御深井焼に似た長石を加えた灰釉を施し型打ちをしたり、
摺絵などを施文した焼き物一般にまで呼称としてひろがり、
定着しているそうです。
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御庭焼(おにわやき)といって、
江戸時代、趣味のある藩主が
城内や邸内に窯を設けて茶器などを
焼かせたそうです。
紀州徳川家の偕楽園焼、
尾張徳川家の御深井(おふけ)焼、
備前池田藩の後楽園焼などが有名だとか。
■偕楽園焼
紀州徳川家の御庭焼で、 紀州焼とも言うみたいです。
文政(1818~1830)ごろ、十代藩主治宝(はるとみ)が、
別邸西浜御殿内の偕楽園で、
京都の楽(らく)焼の陶工や、
永楽保全らに焼かせたのに始まるようです。
交趾焼の写しなどを主に作ったのだとか。
永楽善五郎(千家十職の土風炉・焼物師)が携わった偕楽園焼は、
紫と浅葱色と呼ばれる
トルコブルーを基調にした法花の和製の作風みたいです。
偕楽園の名は、天保十二年(1841年)、
水戸九代藩主徳川斉昭が別邸を創設し、
偕楽園と称したことに始まるようです。
明治六年(1873年)茨城県が、
公園地としてこれを経営することとなったみたいです。
明治四十年、広田松翁が、公園内に楽窯を作り、
偕楽焼と称したそうです。
「軽い軟陶に白釉がけ」の茶碗を主に作り
「偕楽」隷書印を用いたようです。
昭和十一年、風戸元愛が、
水戸市緑町に偕楽焼の継承のために
茨城陶器研究所を設立、板谷波山・城戸夏男らが協力し、
焼成したみたいです。
このときの銘印は「偕楽」丸印・小判印を用いたのがとか。
その後「偕楽」印は、茨城工芸指導所に受け継がれ、
昭和二十四年、笠間市に茨城県窯業指導所が開設されるまで、
偕楽焼を製作したそうです。