利休七種茶碗「早船(はやふね)」
利休 が大阪で茶会を催す際、京都から、
わざわざ早船で運ばせてまでして取り寄せたことから、
この名がついたようです。
細川幽斎 や 古田重然 らが所望したのですが、
利休 の死後、結局は 蒲生氏郷 の手に渡ったとのこと。
本歌は継ぎが入っていて、
富士山みたいな釉薬の景色が入っているそうです。
ちなみに本歌とは、
茶道具や茶室などで同形同系統の、
起源または基準となる作品のことだとか。
畠山記念館蔵みたいです。
利休 が大阪で茶会を催す際、京都から、
わざわざ早船で運ばせてまでして取り寄せたことから、
この名がついたようです。
細川幽斎 や 古田重然 らが所望したのですが、
利休 の死後、結局は 蒲生氏郷 の手に渡ったとのこと。
本歌は継ぎが入っていて、
富士山みたいな釉薬の景色が入っているそうです。
ちなみに本歌とは、
茶道具や茶室などで同形同系統の、
起源または基準となる作品のことだとか。
畠山記念館蔵みたいです。
『茶話指月集』によると、
「このようなよい茶碗が
長次郎のもとに残っていたとは、
皆々検校殿よ」
と利休が言ったとか。
検校というのは、
元々は平安時代・鎌倉時代に置かれた
寺院や荘園の事務の監督役職名だったようですが、
室町時代以降、
盲官の最高位の名称として定着したそうです。
盲官というのは、
琵琶(びわ)・管弦・鍼(はり)・按摩(あんま)などを
業とした者に与えられた官名みたいです。
当道座(とうどうざ)というのがあり、
中世から近世にかけて存在した、
男性盲人の自治的互助組織のようで、
この階級は、最高位の「検校」から順に、
「別当」「勾当」「座頭」と呼ばれ、
それぞれ更に細分化して合計73個に分かれるのだとか。
本物の検校の茶碗は、現在、存滅不明だそうです。
江岑宗左著『江岑咄之覚』に、
「大徳寺の高桐院にある
はちひらいという黒茶碗は、
細川三斎 が所持していて、
それから高桐院へおさまった」
とあるそうですが、
この茶碗は消失したといわれ、現存しないとか。
同じく長次郎作の「面影」は、
この鉢開に面影がにているから付けられたのだそうです。
「面影」の内箱蓋裏の書付には、
石川自安(宗旦門下)の
「細三ノ所持之鉢ひらきニよく似候由也」
というのがあるのだとか。
東陽坊ゆかりの茶室が京都建仁寺にあるそうです。
その姿は、丸く小振りな高台に広い畳付を有し、
膚はだはなめらかな黒釉が艶やかな光沢を放っているそうです。
これは、長年にわたって使われてきたからこそ生まれた光沢なんだとか。
口縁部は薄く、腰から高台、また、胴から口縁部にかけて、
ほとんど丸みがなく、目跡は五つ、渦兜巾はないようです。
見込みに広がる空間は深く、その形から、
長次郎茶碗の中でも最古格に属する作品と考えられているみたいです。
箱の蓋裏に 利休 自筆の書付があるそうです。