大津袋は、棗を濃茶器として入れる袋で、
紫や茶の縮緬のものが多いそうです。
利休の妻宗恩が、大津から京都に米を運ぶ米袋の、
美しさに感じて考案したようです。
利休は棗を濃茶器として使っていたそうですが、
仕覆の代わりに何か入れるものをと考えた時、
この大津袋がとても具合がよかったという訳のだとか。
大津袋には、風炉と炉の点前があるそうです。
大津袋は、棗を濃茶器として入れる袋で、
紫や茶の縮緬のものが多いそうです。
利休の妻宗恩が、大津から京都に米を運ぶ米袋の、
美しさに感じて考案したようです。
利休は棗を濃茶器として使っていたそうですが、
仕覆の代わりに何か入れるものをと考えた時、
この大津袋がとても具合がよかったという訳のだとか。
大津袋には、風炉と炉の点前があるそうです。
大板は、風炉を据える敷板の一種で、
寸法は一辺が一尺四寸のものと、
長板を二分したものとがあるみたいです。
風炉用の長板の寸法は、
一辺が二尺八寸、幅一尺二寸、厚さ六分
なのだそうです。
大板には、黒かき合わせ・桐木地・アラ目・鎌倉彫り・真塗
などがあるとのこと。
薄茶器の原型は、唐物茶入の「挽家」で、
茶入で濃茶を点てたあと、
茶入を収める器である挽家で、
薄茶を点てたのが始まりなんだとか。
挽家というのは、
中に入れる茶入の形に、
轆轤で挽いた木地に漆塗りした容器のことだそうです。
宝暦年間に、荒木盛宜が中村宗哲と相談して挙げた
基本的な薄茶三十種を
「薄茶三十器(うすちゃさんじっき)」というみたいです。
これは、
紹鴎好みの「大棗」「小棗」
利休好みの「大棗」「中棗」「小棗」
宗旦好みの「大菊棗」「小菊棗」
表千家から
四代江岑好み「大桐棗」「小桐棗」
六代原叟好み「大棗」「小棗」
七代如心斎好み「つぼつぼ大棗」
裏千家から
四代仙叟好み「河太郎棗」「又隠(ゆういん)棗」
「雪吹(ふぶき)大」「雪吹小」
「平棗」「茶合棗」「碁笥(ごけ)棗」
「尻張棗」「鷲棗」「一服棗」
「白粉解(おしろいとき)」「菊桐大棗」
「薬器(やっき)」「真中次」「溜中次」
「詩(し)中次」「面中次」「茶桶」
の三十種類だそうです。
薄茶は、古木でない比較的樹齢の若い、
お茶の木から採れた茶の葉から製するもので、
刺激性は強いが味わいが軽いものなんだそうです。
元々は、濃茶用の葉茶を紙の袋に入れて、
茶壷の中に納める際に、
その周囲の隙間を埋めるために用いた
「詰茶(つめちゃ)」と呼ばれる
一段品質の低い茶葉だったようです。
とはいえ、
粉末緑茶ほど粗野なものではないと思われます。
薄茶の粒子は10μm前後で、
粉末緑茶の粒子は40μm~80μmだそうです。
また、粉末緑茶では、お茶点てできないようです。
薄板には「矢筈板(やはずいた)」「蛤端(はまぐりば)」
「丸香台(まるこうだい)」の三種があるそうです。
花入により使い分け、それぞれ真・行・草の格にあたるようです。
「矢筈板」は、板の木口が矢筈形で真塗、上側の寸法が下側より一分大きく、
広い方を上にし、古銅・青磁など「真」の花入に用いるとのこと。
矢筈とは、弦につがえるために凹字型になった矢の頭部のことを言うそうです。
「蛤端」は、木口が蛤貝を合わせたような形で溜塗、
砂張・施釉の国焼など「行」の花入に用いるとのこと。
「丸香台」は、木口は丸く、かきあわせ塗り、
伊賀・竹の花入などの「草」の花入に用いるとのこと。
籠の花入に薄板は用いないとのこと。