1705年 アウグスト王がベドガーに東洋の磁器を作るよう命じる。
1708年 ベドガーが磁器に近いものを作り上げる。
チルンハウス死去。
1709年 白磁製法を解明する。
1710年 ヨーロッパ初の硬質磁器窯「マイセン」が誕生する。
「ザクセンでは今や東インドと同等の磁器の製造が可能になった」との布告が出る。
エルベ川沿いのマイセン地方・アルブレヒト城の内部に移転する。
1717年 染付磁器の焼成に成功する。
1719年 ベドガー死去。
アウグスト王がドレスデンの「日本宮殿」要に古伊万里などを特別注文する。
1720年 ヘロルトがマイセンに招かれる。
1722年 アウグスト王の紋章である「交差した二本の剣(双剣)」を、
マイセンの窯印として使うことが許される。
1723年 「双剣」というマイセンのトレードマークを用い始める。
1724年 ヘロルトが宮廷御用達の絵付師に任命される。
1727年 彫刻家キルヒナーが主任型師となる。
1731年 ケンドラーが成型師として招かれる。
1730年代 絵付師ヨハン・クリーガーにより「ドイツの華」が描かれる。
1733年 アウグスト王、死去。
1736年 ケンドラーにより、バロック調からロココ調へと転換する。
マイセン人形の製作が始まる。
1739年 クレッチマーにより「ブルーオニオン」が完成する。
1745年 プロイセン戦争に敗れ、大量の磁器が略奪される。
1764年 マイセン工場私設の芸術学校が創設される。
フランスの彫刻家アシエが成型師となる。
1860年代 「ブルーオニオン」を意匠登録する。
1865年 アルブレヒト城から、現在のトリービッシュタールへ工場を移転する。
ペーターとライニッケにより「猿の楽団」が完成する。
1875年 窯印「双剣」が国内外で登録商標をとる。
1946年 第二次大戦後、旧ソ連が「マイセン」を有限会社の一部として管理する。
1950年 「マイセン」が旧ソ連からドイツに返還され、
国立マイセン磁器製作所として発足する。
「ラスター焼」の歴史
ラスター焼の誕生は、9世紀頃のメソポタミアだそうで、
10世紀のペルシャで盛んに作られたのだとか。
次いでエジプトに伝えられてファーティマ朝下で発達し、
王朝滅亡後はイランに伝播したようです。
最初期のラスター彩は多色で、
人や動物の形を全く取らないものであったみたいです。
10世紀頃から、ようやく単色で具象的なものへと変化していったそうです。
13世紀のモンゴル帝国(大蒙古国)の侵入を境に、
しだいに衰退していくみたいです。
17世紀、衰退の一途をたどった「ラスター焼」は、
完全に消滅し「幻の陶器」と言われているようです。
19世紀、金属絵具による酸化焼成によるラスター彩が、
作られるようになったみたいです。
ただ、ペルシャラスターとは、全く異なる光沢だったのだとか。
20世紀、六代 加藤卓男により、世界初のラスター彩の復元に成功するようです。
「マジョリカ焼」の歴史
13世紀以前 ムーア人がアンダルスに錫釉陶器の技法をもたらし、
この地で金属釉の技法が完成する。
13世紀後半 イタリア中部(特にフィレンツェ)で錫釉陶器の生産が盛んとなる。
14世紀頃 錫釉陶器が生産され始める。
15世紀 イタリアのマジョリカ焼が完成度の面で頂点に達する。
フィレンツェの陶器に触発され、
アレッツォやシエーナでも独特な陶器を生産するようになる。
オルヴィエートとデルータで、マジョリカ焼の生産が始まる。
15世紀初頭 ロマーニャが、マジョリカ焼の生産拠点となる。
15世紀中頃 ファエンツァが生産の中心地となる。
15世紀後半 フィレンツェ近辺の森林を伐採しつくす。
周辺の小さな町に生産拠点が分散する。
1490年 モンテルーポ・フィオレンティーノの23人の陶工の親方が、
その年の生産物をフィレンツェのアンティノーリ(ワイン業者)に、
売ることに合意した。
16世紀初頭 ファイアンス焼の一種であるデルフト焼(オランダ)の生産が始まる。
16世紀 ウルバーニア・ウルビーノ・グッビオ・ペーザロでも
マジョリカ焼が作られるようになる。
イタリアの各都市は減税や市民権の付与や保護貿易政策などを打ち出し、
陶器製造業の育成に努め始める。
名のある陶工も何人か登場する。
16世紀後半 イギリスにデルフト焼が伝わる。
17世紀 サヴォーナが生産の中心地となる。
1661年 ドイツのハーナウに、オランダ人がファイアンス焼を定着させる。
1662年 ドイツのホイゼンシュタムに、オランダ人がファイアンス焼を伝える。
18世紀 マジョリカ焼は廃れ、より安価な陶磁器が主流となる。
オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器で、
白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされるのだとか。
1512年 アントウェルペンのグイド・ダ・サヴィーノが
スズ釉薬で絵付けされた陶器を最初に制作した。
1560年代 オランダ南部からオランダ北部へと広まっていった。
1570年代 ミデルブルフやハールレムで陶器の製造開始。
1580年代 アムステルダムで陶器の製造開始。
1602年 オランダ東インド会社設立。
1609年 オランダと日本の交易開始。
1610年~1640年 10名の陶芸職人がマスターとして登録される。
1640年頃 個人のモノグラムや工房の意匠に、デルフト陶器が使用される。
1647年 柿右衛門が赤絵に成功。
1651年~1660年 9名の陶芸職人がマスターとして登録される。
1669年 オランダ東インド会社が有田に磁器を大量注文。
1677年 デルフトのA・デ・ミルデが赤色炻器を完成。
1700年頃 3回の低温焼成の工程が必要とされる、
スズ釉薬の上にエナメル顔料を用いた絵付けをする工房が出てくる。
「須恵器(すえき)」は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器で、
青灰色で硬いそうです。
同時代に「土師器(はじき)」という弥生式土器の流れを汲む素焼きの土器があったのですが、
実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下だったそうです。
古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられるみたいです。
古墳時代初頭は古墳からの出土に限られるのですが、
普及が進んだ後期になると、西日本の集落からも出土し、
西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という違いが現れるのだとか。
奈良時代になると、各地方で国分寺の瓦を焼成するために、
瓦窯とともに須恵器焼成窯が造られるようになり、
須恵器生産は、東北地方にまで達するそうです。
平安時代には、これまで須恵器生産が盛んだった西日本で、
一郡一窯の体制から一国一窯へ集約されるのですが、
逆に、東日本では生産地が増加するそうです。
須恵器の生産は、九世紀末には衰退し、
土師器系の土器にとってかわられる形で、十世紀に絶えるみたいです。