1月 07, 2014
裏千家十一世家元玄々斎精中。
以下に、玄々斎に関する特記事項を記載しようかと思います。
1810年( 0歳) :三河国奥殿領主大給松平家六代乗友の5男として誕生。
1819年(10歳) :裏千家十代認得斎の許に養子に入る。
1826年(17歳) :十一代を継承。
1827年(18歳) :江戸へ出府する。
1832年(23歳) :『喫茶送迎記』著される。
1833年(24歳) :長男秋英童子没する。
1838年(29歳) :利休御祖堂を再興、咄々斎、抛筌斎等の広間、
勝手周り、梅糸庵の大増築。
1839年(30歳) :利休二百五十年忌茶事初回を、9月8日~翌2月27日まで88回行う。
1840年(31歳) :玄々斎、斉荘に江戸に招かれ、茶道伝授を行う。
1843年(34歳) :『喫茶敲門瓦子』著される。
1849年(40歳) :兜門を建てる
1856年(47歳) :『法護普須磨』著される。
1860年(51歳) :点茶盤を考案する。
『献茶の儀を旨とする口上書』を内裏へ提出。『利休居士茶之湯口伝』を執筆。
1866年(57歳) :禁裏献茶拝領物披露の茶会。和巾点を復興、披露。
1868年(59歳) :『芳名記聞』著される。
1871年(62歳) :角倉家から養子、又妙斎を迎える。
1872年(63歳) :『茶道の源意』を執筆。
1877年(68歳) :玄々斎宗室没。
玄々斎は上記以外にも、いろいろしていて、
利休居士二百五十回忌を迎えるにあたり、利休居士宗旦以来の今日庵、
又隠・寒雲亭の茶室に、咄々斎・大炉の間、抛筌斎・溜精軒などの茶室を増築、
表門、玄関、その他を今日の形に修築整備したようです。
また、各流の代表として明治維新には政府に『茶道建白書』を提出したり、
『今日庵年中行事』『今日庵雑記』なども著しているとか。

茶道具「器据」に関するページは、こちらから。
1月 07, 2014
錫(スズ)が日本に持ち込まれたのは奈良時代後期だそうで、
茶と茶壷・茶托(天目台)が一緒だったようです。
日本独自のものには、神社で用いられる瓶・水玉・高杯などの神具があるそうで、
京都を中心として製法が発展し、全国へ広まったのだとか。
それまでの特権階級のものから、
江戸時代には町民階級にも慣れ親しまれ、
酒器、中でも特に注器としてもてはやされたそうです。

茶道具「燗鍋」に関するページは、こちらから。
1月 07, 2014
燗鍋は、古くは「さしなべ」「さすなべ」ともいったそうで、
注ぎ口のある鍋に弦(つる)をつけ、湯を沸かしたり酒を温めるのに用いたみたいです。
やがて、柄のついた銚子ができると、
弦をつけたものは「提子(ひさげ)」と呼ばればれすようになり、
長柄の銚子が式正の器とされるようになると、
提子は銚子に酒の減った時に注ぎ加えるのに用いるものとなったそうです。
江戸後期には徳利が流行し、のちには徳利をも銚子と通称するようになるのだとか。
江戸時代の文献『貞守漫稿』に
「江戸近年式正にのみ銚子を用ひ、略には燗徳利を用ふ」
とあるそうです。

茶道具「燗鍋」に関するページは、こちらから。
1月 07, 2014
3000年もの昔から、声ガレや胃腸薬としての薬効が知られていたようです。
中国には仏教と共にインドから伝来したようで、
唐代の書物『新修本草』に「訶黎勒」と記載されているそうです。
日本では、始め、訶梨勒の乾果そのものや、
銅・象牙で形を模したものを邪気払いとして柱にかけていたようです。
当時のものが、正倉院御物に鑑真和上が当時もたらしたといわれる
「かりろくの実」として、一つ残されているそうです。
室町時代には、美しい緞子や綾絹の袋に、
五色の糸(青[せい]黄赤[おうせき]白黒[びゃっこく])で結ばれた、
十二個のかりろくの実を納めるようになるみたいです。
後に錦の袋に入れて色緒で飾ったものを茶席の床柱に飾るようになったのだとか。

茶道具「訶梨勒」に関するページは、こちらから。
1月 07, 2014
透かしの技術が始まったのは1282年、イタリアのボローニャだそうです。
日本の紙幣に使われている透かしは、「黒透かし」と呼ばれる特殊な透かしだそうです。
黒透かしは1848年に初めて使われたようで、深い色調と濃淡を表現できるのだとか。
「二値画像電子透かし(2004年)」という技術も確立しているそうで、
電子透かしの印刷物へ埋め込み、電子データ同様に、
印刷物の追跡ができるようになったみたいです。
「映像電子透かしソリューション(2011年)」は、
インターネット上の動画共有サイトにアップロードしようとすると
不正を自動検出し、抑止することできるようです。

茶道具「飾り火箸」に関するページは、こちらから。