3000年もの昔から、声ガレや胃腸薬としての薬効が知られていたようです。
中国には仏教と共にインドから伝来したようで、
唐代の書物『新修本草』に「訶黎勒」と記載されているそうです。
日本では、始め、訶梨勒の乾果そのものや、
銅・象牙で形を模したものを邪気払いとして柱にかけていたようです。
当時のものが、正倉院御物に鑑真和上が当時もたらしたといわれる
「かりろくの実」として、一つ残されているそうです。
室町時代には、美しい緞子や綾絹の袋に、
五色の糸(青[せい]黄赤[おうせき]白黒[びゃっこく])で結ばれた、
十二個のかりろくの実を納めるようになるみたいです。
後に錦の袋に入れて色緒で飾ったものを茶席の床柱に飾るようになったのだとか。
茶道具「訶梨勒」に関するページは、こちらから。
世界最古の紙は、紀元前150年頃のもので、前漢時代の地図が書かれたものだそうです。
紀元前140年~87年頃の「紙」は銅鏡などを包む包装紙だったようで
「ハ橋麻紙(はきょうまし)」と呼ばれるとのこと。これは、主要な原料が大麻だったみたいです。
唐時代には、樹皮を主原料とした紙や、竹や藁を原料として混ぜた紙が作られ、
宋や明の時代には、出版が盛んとなったため大量の紙が必要となり、竹紙が盛んに作られたそうです。
明時代末の1637年に刊行された『天工開物』には、竹紙と樹皮を原料とした紙の製法を取り上げているみたいです。
■日本では
日本への「紙」の伝来は、4世紀~5世紀だそうです。
現存する最古の和紙は、正倉院に残る702年の美濃・筑前・豊前の戸籍用紙のようです。
『正倉院文書』には、
「天平9年(737年)には、美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙漉きが始まった」
とあるそうで、製紙技術の伝来から100年程経過してから、本格的な紙の国産化が始まったみたいです。
『大宝律令』によって国史や各地の『風土記』の編纂のために図書寮が設置され、 紙の製造と紙の調達も管掌したようです。
天平11年(739年)には、写経司が設置され、写経事業のために紙の需要が拡大、
『図書寮解』には信濃・上野・越前・佐渡など20もの産地が記載されているそうです。
■懐紙
平安時代の貴族の必需品で、男性は檀紙を、女性は薄様の雁皮紙、
正式の詠草料紙には色の違う薄様を二枚重ねて使用したみたいです。
今日では、茶道の他に、和装の際や和食の中でも特に会席料理などの改まった席で使用するようです。
茶道具「懐紙」に関するページは、こちらから。
奈良時代には、神仏の像や飾り付けなどの清掃を目的とした布として、
使われていたとする説があるそうです。
平安時代からは、養老律令の衣服令により、
庶民は麻を、高貴な者が絹織物を使用したそうです。
鎌倉時代からは、庶民にも少しずつ普及し、
室町時代には、湯浴みの体を拭うためにも使われるようになり、
戦国時代には、広く用いられるようになったそうです。
江戸時代に入ると、奢侈禁止令により、絹織りの着物が禁止され、
木綿の着物が多く作られるようになるそうです。
この頃から「手拭」と呼ばれるようになるそうで、
入浴に使われたものは「湯手(ゆて/ゆで)」とも呼ばれたのだとか。
現在は、タオルあるいはハンカチに押され気味の手拭。
廃れたわけではないようで、
農作業・伝統芸能・祭・剣道などでのかぶり物・ヘルメットの裏地・
鉢巻・目隠し・汗ぬぐい・布巾として今なお利用されているそうです。
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水や酒などを注ぐための注器は、中国では新石器時代に陶製のものの初現があって、
やがて青銅でも作られるとか。
六朝時代以降、仏教をはじめとする西方文化の影響のなかで様々に姿を変え、
唐代にいたって、壺もしくは瓶形の容器に把手と細い筒状の注ぎ口のついた水次があらわれるようです。
宋代には、金属器を模した多様な水次が数多く作られるようになり、
茶器としても本格的に使用され始めるのみたいです。
日本では縄文時代に注器が現れ、古墳時代の須恵器を経て、
平安時代に中国・越窯の影響を受けたと思われる緑釉や灰釉の水次が出現するそうです。
朝鮮半島では、新石器時代に注ぎ口の付いた壺が確認でき、
三国時代には象形注器が製作され、
おもに酒などを盛る祭器として使われたと考えられているようです。
高麗時代におおきな発展を遂げた青磁、高麗青磁水次の中には、
酒に関する詩銘を持つものがあって、酒器としても使われていたみたいです。
なお、本ホームページでは、
曲物を「水注」、陶磁器を「水次」という感じで区別して説明します。
茶道具「水次」に関するページは、こちらから。