1月 07, 2014
楊枝を初めて使ったのはネアンデルタール人で、およそ10万年前だそうです。
紀元前500年頃、釈尊(仏様)が、弟子達に歯本で歯を清潔にすることを教えたそうです。
楊枝は奈良時代に仏教と共にインドから中国・朝群半島を経て日本に伝わったみたいです。
日本では、初め僧侶に取り入れられ、
平安時代に一部上流社会に伝わり、平安末期には庶民に伝わったようです。
江戸時代には「房楊枝」と呼ばれ庶民にも拡がったようです。
「房楊枝」というのは、一方を房上にし、もう一方の先を鋭くして用いたもので、
この先の鋭くした方を爪先でつまむようじという意味で「つまようじ」になったみたいです。
明治時代初めにアメリカから歯ブラシ入るとその姿を消すようです。
他方、ヨーロッパでは食生活の関係で、多くは金属製の「つまようじ」が使われたそうです。
特に、中世ヨーロッパでは、貴族は金や銀の釣り針状の「つまようじ」に宝石等の細工をさせ、
それをネックレスとしていつも首にかけていたとのこと。
茶道具「楊枝」に関するページは、こちらから。
1月 07, 2014
前土器は、御神酒を頂く土器を少し欠き用いたのが始まりだとか。
珠光時代以前には用いられていないようで、
頬当風炉のように眉のない風炉が出来てから用いられるようになり、
眉風炉には用いませんでしたが、
堺の草部屋が初めて用いてから眉風炉にも用いるようになったとか。
茶道具「前瓦」に関するページは、こちらから。
1月 07, 2014
737年、朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去、
政治を担ったのが橘諸兄に、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されます。
738年、九州の大宰府に送られた藤原広嗣は、
「橘諸兄に左遷されたんだ、きっと吉備真備らが扇動したに違いない。」
と、強い不満を抱いたようです。
740年8月末、がまんの限界にきていた藤原広嗣は、政治を批判し、
吉備真備と玄昉の処分を求める上表(天皇宛ての手紙)を送るそうです。
同年9月、藤原広嗣の乱が勃発します。
藤原広嗣の軍は一万人以上、 聖武天皇の軍(朝廷軍)は一万七千人を
それぞれ動員したようです。
広嗣軍は、兵を三つに分け、板櫃付近で朝廷軍を包囲する
三包囲作戦を立てます。
同年9月末、朝廷軍は関門海峡を渡り、九州の板櫃鎭を攻略。
「広嗣は悪いやつだから、見切りをつけて都へ帰ってきなさい。
あと、広嗣をやっつけたら、昇進させてあげるよ。」
といった勅が九州諸国の官人、百姓宛てに発せられます。
同年10月9日、広嗣軍と朝廷軍は、板櫃川で戦になります。
河の西側に広嗣軍(一万人)、東側に朝廷軍(六千人)。
広嗣軍の三つに分けた兵もまだ、そろっていない状態でした。
朝廷軍が、
「天皇が、広嗣は悪い奴だと言ってるよ。投降したら。」
と言うと、
広嗣は「吉備真備と玄昉が悪い奴なんだ、天皇がだまされているんだ。」
すると、朝廷軍は、
「じゃぁ、なんで軍隊連れてきたの?」
広嗣は答えに窮したそうです。
問答を聞いていた広嗣軍の人達は、次々に朝廷軍に投降します。
広嗣は、博多から五島列島へ船に乗って渡り、
耽羅嶋(済州島)に潜伏します。
同年10月23日、広嗣は朝廷軍の安倍黒麻呂に捕えられます。
同年11月1日、広嗣は処刑されます。
茶道具「お盆」に関するページは、こちらから。
1月 07, 2014
風炉は、鎌倉初期に南浦紹明が、
仏具である台子などと共に中国から持ち帰ったとのこと。
以来、 村田珠光 が四畳半に初めて炉を切り、
武野紹鴎 ・ 千利休 が炉の点前を定めるまでは、
茶の湯は四季を問わず風炉を用いていたそうです。
茶道具「風炉」に関するページは、こちらから。
1月 07, 2014
茶道で主に用いられたのは、中国宋から明頃につくられたもののようです。
室町初期には座敷飾りに用いられるようになり、
室町時代には花生の主役となったみたいです。
桃山時代になると国焼や竹花入が生まれ、やがて花入の主流になっていき、
古銅花入はあまり用いられなくなっていくそうです。
茶道具「花入」に関するページは、こちらから。