「茶道」の歴史

Category: 茶道史

古田織部は、本名、古田重然で、
「織部」の名は、
壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に、
叙任されたことに由来しているとか。

利休 死後、その地位を継承するかのように、
天下の茶人になったとか。

織部は、 千利休 の
「人と違うことをせよ」
という教えを忠実に実行し、
茶碗をゆがませ、
武家好みの多様な模様と異国趣味を用いた茶碗を生み出すなど、
秩序に収まらない自由闊達な発想を持っていたそうです。

茶道の師である千利休同様、反骨精神が旺盛で、
幕府の意向を無視することが少なくなかったとか。

危機感を感じた徳川家康は、
いちゃもんをつけて織部を自害させたようです。
織部は一言も釈明せずに自害したのだとか。

■千少庵
利休 賜死の後、千家を再興する中心人物だとか。
少庵を温かく迎えたのが利休七哲の蒲生氏郷 だそうで、
ともに茶を楽しんだようです。

1594年徳川家康・ 蒲生氏郷 のとりなしで、
赦されて京都に戻ったのだとか。

少庵の性格は控え目で温和、
千道安 の「剛・動の茶」に対して、
少庵は「柔・静の茶」と評されたみたいです。

■千宗旦
千少庵の息子で、金森宗和 の華麗な茶風「姫宗和」に対し、
わび茶に徹する「わび宗旦」として世に知られたとか。

宗旦の門弟の中で、特に活躍した4人を宗旦四天王というそうで、
藤村庸軒・杉木普斎・山田宗徧・久須美疎安だとか。

宗旦の息子には大名家に仕えることを勧め、
紀州徳川家: 千宗左 (表千家)
加賀前田家: 千宗室 (裏千家)
讃岐松平家: 千宗守 (武者小路千家)
と仕えたそうです。
この三人の系譜を「三千家」と呼ぶようです。

宗旦は、不審庵(ふしんあん)を中心とする本法寺前町の屋敷を宗左に、
北裏に今日庵を建て 宗室 とともに移り住んだそうです。

この茶室「不審菴」の号は「不審花開今日春」の語に由来するとか。


茶人3

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「千利休」の歴史

Category: 茶道史

抛筌斎利休宗易こと千利休は、
わび茶(草庵の茶)の完成者。

利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって、
町人の身分では参内できないことから、
正親町天皇から与えられた居士号だそうです。

利休の名の由来は
 ・「名利、既に休す」から取った
 ・「利心、休せよ」から取った
 ・ 『茶経』の作者とされる陸羽(りくう)にちなんだ
などと言われているようです。

利休は常々、
「茶の湯は台子を根本とすることなれども、
心の至る所は草の小座敷にしくことなし」
と愛唱していたとか。

利休七哲は、
蒲生氏郷(筆頭)
細川忠興(三斎)
古田重然(織部)
芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)
高山長房(右近/南坊)
牧村利貞(兵部)
だそうです。

利休七哲は、千利休の高弟7人を指す呼称。
利休の曾孫にあたる
表千家の江岑宗左著『江岑夏書(こうしんげがき)』
で挙げているとか。

いずれも後世になってから呼称されたもので、
当時からそのように呼ばれていたわけではないそうです。

利休が秀吉の怒りを買い死罪になった原因は、
 「大徳寺三門改修に当たって増上慢があったため、
 自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、
 その下を秀吉に通らせた」
というのが、通説だそうですが、
他にもたくさん説があるとか。

利休が死の前日に作ったとされる辞世の句は、
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 
  祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛
だそうです。
また、茶道では、毎年三月に利休忌が行われているみたいです。

■泪の茶杓
「泪の茶杓」というのがあり、
千利休 が 豊臣秀吉 に切腹を命じられ、
その猶予期間に自らの手で削った中節形の茶杓だそうです。

1591年2月、その茶杓を使用した生涯最後の茶会の後に、
古田織部 に分け与えたのだとか。

茶杓は白竹で樋が深く通り、有腰で、
利休の茶杓の中でも、
とくに薄作りにできているようです。

古田織部 は、この茶杓を、
本来用いられるべき、着色のない木地の竹筒ではなく、
黒漆で丹念に塗りあげた茶杓用の筒を自作して入れ、
位牌としての意味づけをしたようです。


茶人2

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「茶道の始まり」の歴史

Category: 茶道史

茶道具の秘伝書『山上宗二記』に
 足利義政が能阿弥に、
 「昔からある遊びごとは、すべて遊びつくしたから、
 他に変わったものはない。」
 と聞いたところ、
 能阿弥が、
 「茶の湯があります。」
 といって、30年来茶の湯に打ち込んでいる 村田珠光 を、
 この義政に紹介した
とあるそうです。

■村田珠光
僧侶なのに苗字がある珠光は、
足利義政 に召し出され茶を指南したとされているとか。
ただ、『山上宗二記』の能阿弥に関する記述が、
その生没年と合わないことから、
現在の茶道史研究では基本的に否定されているようです。

茶法に関する義政の問いに対して、
 「茶法というものは、
 ただひたすら清くして、
 禅にそったものであって、
 それが茶法の極致であり、
 最も根本的な精神です。」
と答えたそうです。

珠光は、茶道は禅と同一であるべきとする
「茶禅一味」の境地を開いたみたいです。

能阿弥との関係も深く、
花の弟子となり茶・目利きを学んだのだとか。

他にも、茶の湯に一大改革をもたらしたそうです。
・書院台子の茶→草庵小座敷の茶へ
・唐物→国焼へ
・四畳半の草庵の茶を提唱
・竹の茶杓を考案
・茶の湯から賭博と酒盛りを追放
・「一座建立」を図るのが茶事の主眼
など。

■茶禅一味
寂庵宗澤著『禅茶録』に
 「茶意は即ち禅意也。
 故に禅意をおきて外に茶意なく、
 禅味を知らざれば茶味も知られず」
とあるそうです。
珠光は、まさに茶道界の画竜点晴の眼を入れた人、
と言えるのではないでしょうか。

■『禅茶録』
1828年に寂庵宗澤が書いたとされる本ですが、
『茶禅同一味』という書を補足編集して著したものなのだとか。

民藝運動を起こした柳宗悦に
「すべての茶人の座右に置くべき名著」
と言わしめたとか。

■石黒道提
村田珠光 の弟子で、千本道提とも呼ばれるようです。
茶庭の飛石を考案した人だとか。
京都千本付近に、米40石(12000坪の広さ)の田畑を隠居領としていたそうです。

道提の名は 足利義政 の耳におよび、
義政は、後日、道提の草庵を草鞋を履いて訪れるそうです。

庭に雑紙を同朋衆に敷かせるのですが、
道提はこの雑紙の跡に石を置いたようです。
これが茶庭に飛石が打たれるようになった起源だとか。

■武野紹鴎
武野紹鴎は、村田珠光の門下の
藤田宗理・十四屋宗陳や十四屋宗伍などに
茶の湯を学んだ三条西嶺隆の、
『詠歌大概(藤原定家)』の序の講義を聴いて、
茶の湯を悟ったそうです。

村田珠光 の為し得なかった「わび茶」を目指し、
座の芸術である「茶の湯」を完成させた人みたいです。

千利休の師匠である武野紹鴎は、
和歌を三条西実隆に師事し、茶の精神を学んだそうです。

唐物中心だった茶道具に、
瀬戸・信楽など日本の物を取り入れ、
竹の蓋置・木地の曲物・土風炉を考案したとのこと。

ある時、武野紹鴎が、
 見わたせば 華も紅葉も なかりけり
       浦のとまやの 秋の夕暮
と詠うと、千利休が
 花をのみ 待つらん人に 山里の
       ゆきまの草の 春を見せばや
と詠ったようです。

「わび茶」の精神の違いがここで見てとれるでしょうか。

私の場合は、
 武野紹鴎は、わび茶を、
 「華も紅葉もなかりけり」とし、
 枯れてゆく世界を思い茶の湯の世界としたようですが、
 千利休は、
 「ゆきまの草の 春を見せばや」とし、
 新たな芽吹きを予感させる、
茶の湯の世界を築こうとしたと見ます。

■北向道陳
利休は道陳のもとで稽古に励み、
「台子・書院は道陳」「小座敷は 利休 」がそれぞれ考え、
武野紹鴎 に相談したとのこと。

茶室にある突上窓を考案したり、
「道陳の炭さわり」と言われるほどの、
炭の置き様を披露したのだとか。


茶人1

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茶人2

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「日本の茶の湯」の歴史

Category: 茶道史

茶の木が初めて日本に移植されたのは、
平安時代だそうです。

伝教大師最澄が唐から戻る際に、
一緒にいた永忠が、
茶の実を携え、比叡山の麓にある
「坂本」というところに植えたようです。

今もこの「坂本」には茶の木が残り、
天然記念物となっているとか。

『日本後記』には、
 815年、嵯峨天皇が近江の唐崎に向かう途中、、
 梵釈寺に立ち寄った際に、
 永忠が、自ら煎じた茶を奉った。
といった記述があるみたいです。

嵯峨天皇は、関西一円に茶を栽培させ、
毎年献上するよう命じていた人だそうです。

当時の喫茶は、固形の緊圧茶「餅茶(びんちゃ)」から、
必要量だけ切りほぐして湯にいれて煮出して飲む方法だったとか。

■『茶経』
嵯峨天皇と同時代(唐代)、お茶の神様と呼ばれた陸羽の著書だそうです。
世界で最も古いお茶の本で、内容は三巻十章に分けられているとか。
ここで取扱っている茶は、「団茶」だそうです。

中身は以下のようになっているみたいです。
上巻
一之源・・・茶樹についての説明
二之具・・・製茶器具の列挙・説明
三之造・・・製茶する際の注意事項

中巻
四之器・・・飲茶器具の列挙・説明

下巻
五之煮・・・茶をたてる際の注意事項
六之飲・・・茶の飲み方など
七之事・・・茶の史料の列挙
八之出・・・茶の産地
九之略・・・省略してよい器具
十之図・・・『茶経』の図解。

十之図は、茶席に掛け、『茶経』の内容が
一目でわかるようにするためのものみたいです。

また、白磁や青磁の茶碗についても書かれているとか。
嵯峨天皇も同様の茶碗で茶をすすり、
琴なんかを聞きながら、
中国の唐に思いをはせていたのかもしれませんね。

■明菴栄西
「抹茶」を日本に伝えた人がこの栄西だそうです。
もともと、天台宗を習いに中国へ行くのですが、
そこで流行っていた禅宗を習って帰ってきたそうです。

禅宗での座禅の合間に飲まれたのが「抹茶」で、
『吾妻鏡』には、
 源実朝が頭痛に悩んでいたときに、
 栄西が「抹茶」を飲ませて治した
という逸話があるとのこと。

この時代の「抹茶」、
現在にも通じるレベルのものだそうで、
使用する器具、茶を点てる作法なども、
ある程度は、既にできていたようです。

■能阿弥
茶道では「書院飾りの完成」「台子飾りの方式の制定」など、
小笠原流の礼法を参酌して、
今日に伝えられているような茶の点て方を考案したとか。

唐物奉行として仕事をした 能阿弥 ら同朋衆は、
かなりの鑑定眼と故実を知ることが必要とされ、
『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』や
『御飾書(おかざりしょ)』などが、
書き残されることとなるそうです。

■『君台観左右帳記』
足利将軍家が座敷飾に用いた、
宋元画の筆者名と茶器、
および文房具の類を列記した秘伝書だそうです。
内容は三つの部分から成っていて、
中編には、掛幅を中心とした室内飾の諸方式を記してあるとか。

■『御飾書』
『東山殿御飾記』の略で、
1523年に相阿弥が、
足利義種のために作制した座敷飾りの書で、
東山殿の具体的な座敷飾りと、
一般的な座敷飾りの規式が載っているのだとか。

■一休宗純
村田珠光 が参禅した大徳寺の一休は、
優れた禅風と、ある意味物好きとも取れる、
強い求道心(ぐどうしん)を持っていたようです。

大徳寺の一休は、堺の商人たちと禅を通じ深く結びつき、
以後、一休死後もその絆は絶えないそうです。
堺の 千利休 や大名などの保護を受け、
桃山時代の茶道に大きな影響を与えて行ったとのこと。

■足利義政
義政の茶は、唐物荘厳ではあるものの、
東山山荘にある四畳半の狭い書院など、
「わび茶」を想起させるものみたいです。


茶人1

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「初期の茶の湯」の歴史

Category: 茶道史

唐代の茶書『茶経』には、
紀元前3400年頃「神農(しんのう)」が始めた薬草が
「茶」とあるそうです。

また、『茶経』によれば、
当初、「茶」の呼び名は五つあったそうで、
特に「茶」と「茗」に関して、
 「早く取るを茶となし、
 晩く取るを茗と為。」
とあるのだとか。

■神農
世界最古の本草書『神農本草経』に登場するのですが、
七十世代に渡って国を治めたり、
体が透明だったり、
毒を食べても生きていたりと変わった人だったようです。

日本では、湯島聖堂内の神農廟に祀られ、
毎年11月23日に「神農祭」が行われているみたいです。

■初期のお茶
唐代から宋代に「固形茶を粉末にして煎じて飲む団茶」
として確立されたとのこと。

■『神農本草経』
365種の薬物を上品・中品・下品の三品に分類して記述しているそうです。

■団茶から抹茶へ
蔡襄『茶録』とか徽宗『大観茶論』とか、
宋時代の文献に「団茶→抹茶」の経緯があるそうです。

■『茶録』
宋、蔡襄(1012~1067)の『茶録』は、
1051年に頃にできた書物のようです。
上下の2巻で、上は「茶論」で下は「器論」なのだとか。

■蔡襄
『茶録』の著者、蔡襄は、
龍団茶を改良して小龍団茶に仕上げた人で、
書家でもあるのだとか。

■『大観茶論』
宋の皇帝徽宗趙佶著の1107年にできた書物で、
製茶技術とお茶の品質が書かれているのだとか。
采摘、蒸壓、製造、鑑別、白茶、筅、水、点、色、味、香など
20項目にわたっているようです。


茶人1

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