「結び」という言葉で表現される技術は、石器時代には存在していたそうです。
飛鳥時代頃までには、首飾りや刀剣の飾り、服飾用として、
装飾用の結びが出てくるようです。
奈良時代、仏教文化と共に中国から「染と織」の技術が到来すると、
飛躍的に「結び」がレベルアップするみたいです。
平安時代には、「花結び」が生まれるみたいです。
鎌倉時代は、武具に「総角(あげまき)結び」が見られるようになるそうです。
室町時代~安土・桃山時代、茶道の大成と共に、
茶の作法の一つとして「結び」が定められるようです。
戦国時代後の、花鳥風月を模した結びなどがあるそうです。
茶歌舞伎は南北朝のころに「闘茶」と呼び、京都を舞台に文化人の遊びとして流行したそうです。
当時、栄西禅師から明恵上人に受け継がれた京都栂尾一帯の茶を「本茶」としていたため、
「本茶」か他産地の「非茶」かを飲み分けることが始まりだったとのこと。
やがて、「かぶく(遊ぶ)」という風俗が歌舞伎芝居の名を生み、
「茶歌舞伎」さらに「茶香服」になり娯楽遊戯として素人の間に流行したみたいです。
闘茶の前身は
「水の産地を当てるもの」
「茶碗の蓋をとって茶柱の有無を賭ける単純なもの」
「酒宴の席や蒸し風呂で木にぶる下げた賞品の奪い合い」
などの闘水・茶博奕・林間茶湯だったそうです。
室町時代には、式(会)の簡略と煎茶・道具の普及もあり、闘茶之会は一般武士・商人にも広がり流行したそうです。
賭博の広まりとともに人心の乱れから、ついに足利幕府は建武3年(1336)、禁令を交付するまでに至り、
戦国時代に何度も公布された種々の賭博禁止令と共に公の闘茶之会・茶の遊芸は衰退していったようです。
江戸期に茶道の千家七事式の一つとして形式と文化を大きく変化して残ったみたいです。
煎茶が大流行した幕末から明治初期にかけ、闘茶道具一式が多く作られるようになり、
上代時期の闘茶式を模写し、茶を煎茶として、一時復活をしたそうです。
これが今日にも伝承される闘茶式になるのだとか。
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1267年に南浦紹明が宋の径山寺から持ち帰ったものが、
後に京都の大徳寺に渡ったそうで、
これを天竜寺の夢窓疎石が点茶に使用したのが始めみたいです。
足利義政 のころに 村田珠光 が 能阿弥 らともに台子の寸法や茶式を定めたようで、
「書院の台子飾」などは、能阿弥が「書院の七所飾」を参考にしたものだそうです。
松屋家著『松屋会記』の1537年部分に、台子の記述が始めて出てくるそうで、
以降、津田宗凡著『天王寺屋会記』では、津田宗達が流行らせたとあるみたいだけど、
これは自由な飾りを中心としたものだったためか、すぐに廃れてしまったとか。
千利休 の頃には、 利休 の台子点前を 豊臣秀吉 が秘伝として、
ごく限られた者(台子七人衆)に伝授を許したりしたものだから、以降、
台子点前がごく特別なものと位置付けられるようになったようです。
千宗旦 の頃になると、流派ごとに飾りつけが違うようになっていったみたいです。
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