1月 16, 2014
名前は、阿漕浦に近いことから。
阿漕焼は、三重県の焼物で、
1853年、それまで廃絶していた安東焼を倉田旧八が、
津藩の命により、津市船頭町に再興築窯したそうです。
1887年に船頭町阿漕が廃窯。
以降、土手阿漕、会社阿漕、小島阿漕、上島阿漕、重富阿漕などが
再興を試みるも、成功せずに終わったみたいです。
1931年に、津市の市長、堀川美哉が、
萬古焼の職人であった福森円二を招き、
窯を補修、阿漕焼を再興させたようです。
器は、萬古焼の流れを汲みながら、
九谷焼の様な絵付けを施すのが特徴みたいです。
銘印は、楷書の「阿漕」の楕円印、「月堂」の丸印、
「円二」の三日月印を囲んだもの用いたとか。
「福森比路志」に関するページは、こちらから。
1月 16, 2014
15世紀 グリザイユ技法を用いた色彩豊かな作品を製作。
16世紀 中国からヨーロッパに磁器がもたらされる。
18世紀初頭 マイセン近郊でカオリンの地層発見。
1736年 リモージュに製陶所(アルトワ伯爵製陶所)を設立。
1768年 サンティリエ・ラ・ペルシュでカオリンが発見される。
1771年 マシエとフルネラが、リモージュで硬磁器を作成。
1774年 リモージュの製陶所がアルトワ伯爵製陶所へと改名。
1784年 アルトワ伯爵製陶所をフランス政府が買収(リモージュ王立製陶所)。
1788年 アルトワ伯爵製陶所、民間へ。
フランソワ・アリュオーが経営を引き継ぐ。以降、1792年まで所長を務める。
1789年 セイニー伯爵製陶所をエティエンヌ・ベニョルが引き継ぎ
ベニョル製陶所へと改名。
1798年 アリュオー製陶所をフランソワ・アリュオー親子が設立。
1802年 ベニョル製陶所が、パリの芸術産業展示会に作品を出展。
1842年 ダビド・アビランドが、リモージュからニューヨークへサンプルを送る。
19世紀中頃 リュオー製陶所を設立。
1851年 ロンドンで国際万国博覧会開催。
1862年 アビランドが、2人の息子とともにアビランド製陶所を設立。
1892年 ダビドの次男テオドールがテオドール・アビランド製陶所を設立。
1878年 パリ万国博覧会「グラン・ド・リ」出品。
20世紀前半 はめ込み技術という技法が編み出される。
1941年 ウィリアムが分離したアビランド製陶所を買い戻す。
「リモージュ焼」に関するページは、こちらから。
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1月 15, 2014
初代大樋長左ェ門は、江戸時代の人で、
はじめ土師・長左衛門と称したそうです。
1666年 加賀藩5代藩主前田綱紀から、
茶堂として招かれた裏千家四代目千宗室(仙叟)に同道し、
楽焼の脇窯である大樋焼を金沢で始める。
1686年に仙叟が帰京したあとも金沢に残り、
河北郡大樋村で藩の焼物御用を務めて、
地名から大樋姓を許されるのだとか。
五代目は、初代を凌ぐ技術を持ち、
中興の祖と言われたようです。
九代目は、五代目に匹敵する名工で、
TV「なんでも鑑定団」に出た
「空中(本阿弥光甫)作、銘:寒月」の写しは、
鑑定額350万円だったとか。
「大樋長左ェ門」に関するページは、こちらから。
1月 15, 2014
立花実山著『南方録』に以下の利休の話があるそうです。
一座建立の道を得るためには、何といっても掛物が第一です。
その中でも墨跡が第一でしょう。そこに書かれた言葉の心を敬い、
著者である道人(どうじん)や仏教の祖師方の徳を賞するからです。
俗人の筆になるものは掛けてはなりません。
しかし、歌人の詠んだ教訓的な歌などは掛けることもあります。
ただし、これはわび小座敷の場合であって、
四畳半にもなると本当の草庵とは心持ちが違ったものになります。
よくよく分別する必要があります。
釈迦や達磨などの祖師の語と、
筆者の徳とが兼ね備わった墨跡をまず第一とし、
これが最も大切な一幅といえます。
著者が徳の大きい人物とまで言えなくても、
釈迦や祖師の言葉を書いている墨跡を第二とします。
絵も筆者次第では掛ける場合もあります。
中国の僧の絵には、仏祖の像や人物を描いた絵が多くあります。
人によっては持仏堂のようだと言って掛けない人もいますが、
それは一方的な見方です。
むしろ、いっそう味わって掛けるべきでしょう。
仏や祖師の教えに帰依して心を寄せることが、
わび茶では特別に大切な心得です。
茶道具「掛軸」に関するページは、こちらから。
1月 15, 2014
訶梨勒は、茶席の床飾りのことで、
色緒が綺麗に仕上がっています。
訶梨勒は、席が華やかになります。
長い尾の部分も素敵です。