鵬雲斎汎叟宗室が好んだ棚だそうです。
昭和五十七年に好まれ、
松竹梅の材と扇形の腰板からこの名があるようです。
紅溜塗の三本柱で、天板の右手前が丸く落とされ、
柱は勝手付手前が白竹、向うが梅の角、客付向うが松材で、
棚の向こうと勝手付に横桟を渡し、
扇形の腰板が三方に嵌め込まれ、
地板は四方で四隅に足の付いた小棚で、
炉・風炉ともに用いるようです。
鵬雲斎汎叟宗室が好んだ棚だそうです。
昭和五十七年に好まれ、
松竹梅の材と扇形の腰板からこの名があるようです。
紅溜塗の三本柱で、天板の右手前が丸く落とされ、
柱は勝手付手前が白竹、向うが梅の角、客付向うが松材で、
棚の向こうと勝手付に横桟を渡し、
扇形の腰板が三方に嵌め込まれ、
地板は四方で四隅に足の付いた小棚で、
炉・風炉ともに用いるようです。
太宰治著『富嶽百景』に
「富士には月見草がよく似合う」
とありますが、
富士山が「世界文化遺産」として登録されて
とてもうれしく思っています。
口が小さく、肩から胴にかけて、
裾が広がり富士山の姿に似た形の釜で、
筑前芦屋や博多芦屋で、
天正から慶長期にかけて盛んに作られたそうです。
天命では、室町末期の作に鬼面鐶付のものが、
京作では、道仁の「桜地紋」、五郎左衛門の「牡丹紋」などが、
好みものでは、裏千家四世仙叟好みの「四方富士釜」、
表千家七世如心斎好みの「擂座富士釜」、
裏千家十三世円能斎好みの「南鐐富士釜」、
裏千家十四世淡々斎好みの「三友地紋」、
などがあるそうです。
薮内竹心著『源流茶話』にこんな話があるようです。
昔は、銅鑼は、露地の木々が深くて銅鑼の音が静かに響く時に、
中立の客への案内の代わりに銅鑼を打ちました。
たとえ露地の木々が深くても、
客が貴人であれば、銅鑼を打たずに、
亭主は中露地を越えて、
よけ石より相伴の客に向かって
謹んで案内をするべきです。
愚祖剣仲が賞愛した銅鑼を孫の紹春が所持していましたが、
ついに茶会でその銅鑼を打つことはありませんでした。
息子の某(なにがし)が、
なぜ銅鑼を打たないのかと尋ねたところ、
「浅い露地ではあれほど銅鑼は打たないものです。
だいたい銅鑼に限らず、たとえ持っていても、
取り合わない道具は出さないものです。」
と語ったといいます。
古くは、「唐物の塗物の香合」が大半で、
「室礼」(座敷飾り)に、香炉に付属して置かれたとか。
その後、草庵の茶室でも香炉と一対で、
席中に持ち出し飾られたみたいです。
この頃の香合は、稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「香合は道具中にも至て軽き物ゆへ、
利休百会にも香合の書付なし、
夫故に名物も少なし、名物は堆朱青貝に限る」
といった感じの記述があるくらい、
かなり軽く扱われていたようです。